学校では教えられない!エロすぎる古典

2017-06-23_115216.jpg 朝日放送に「ビーバップ!ハイヒール」という深夜番組がある。
狙って視ることはないので、何曜日か気にもとめていないが、放送日は木曜日である。

先日、もう寝ようと思ってテレビを消そうとしたら、この番組の案内がでた。
「学校では教えられない!エロすぎる古典」

この案内を見てすぐに、ゲスト解説者に思い至った。
ズバリ、大塚ひかり先生でしょう。

Screenshot_20170623-112423-crop.jpg 内容も当然、推察できる。最近、「快楽でよみとく古典文学」という本も読んだところである。
前にもこの先生の本を読んでいるけれども、動いて喋る先生は見たことがないので、どんな人か見てみようと思って、番組にお付き合いした。

まずは、竹取物語でジャブ。「得てしがな 見てしがな」という詞は、「ものにしたい やりたい」の意味であると解説される。

大塚先生によると、「見る」というのは、当時の貴族の女性は、父親や夫にしか顔を見せない、その顔を見るというのは、「やる」の意であるとのこと。


続いて、エロ小説の本命「源氏物語」。
もはや解説の必要はない。とにかく、ヒカル君はとんでもないゲス野郎ということである。

エロいのは女も同じ。番組中ではクイズ形式で説明されていた。

Screenshot_20170623-112814-crop.jpg Q 「おようの尼」が思う坊主をわがものとした方法は?

A 女を紹介するといって、闇に紛れて自分自身がその女となった


Q 男を来させたいときに、女がするおまじないとは?

A 服を裏返しに着る。(事が起こった状態を先取りする)


番組後半では、和泉式部がとりあげられ、現代劇に翻案した寸劇に仕立てられていた。

和泉式部を清少納言と紫式部が取り巻くという設定はやりすぎと思うけれど。


快楽でよみとく古典文学
はじめに 性愛の古典
第1章“恋”に費やす膨大な労“力”
第2章“見る”は結婚のはじまり
第3章“夜”が“離”れ、“枯”れていく恋
第4章“すき者”どもの禁断エロス
第5章“蜘蛛”の動きも“眉”の痒さも見逃さない
スピリチュアル主義
番組では「エロいはエラい」というテロップが何度も流された。

しかし「エロい」といっても、大塚先生が紹介する古典は、大してエロいものではない。いわゆる名作古典ばかりをとりあげているからで、古典ポルノにはあたらない。
エロ要素というより、セックスを隠すことなく、それをベースにおきつつ、男女の愛憎などを描写していると考えるべきものだと思う。

ポルノというのは、性的な行為の描写により、読者に性的興奮を起こすことを目的とした作品である。
これも古典に名作がある。有名なのは「小柴垣草紙」、鎌倉期に成立したという。
その詞書の一節をとりあげると

koshibagaki_sousho_shunga.jpg お足にたぐりつくままに、おしはだけたてまつりて、舌を差し入れてねぶり回すに、ツビはものの心なかりければ、かしらも嫌わず、水はじきのようなる物をば、せかせさせ給いけり。

というようなもの。そのものズバリである。

「春画展」にも出てました。


現代語訳で続きをもう少しサービス。

もだえる斎宮様の御姿に、男たるものなんで絶えられましょうや。紐解く手ももどかしく狩衣・袴を脱ぎ捨てれば、もはや玉茎はそそり立ち怒り波うちたる有様。 男はその玉茎を、ねぶりそそのかされて朱に膨らみ、御肌よりむらむらとわき出でた斎宮様の雛先に差し当てて、上から下へ、下から上へ、あらかにさすり上げ、さすりおろしたそうにございます。玉門はいよいよ潤い開き、玉茎のはりはますます強くなったことでございましょう。

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中央銀行は持ちこたえられるか

河村小百合“中央銀行は持ちこたえられるか ──忍び寄る「経済敗戦」の足音”

Chuo_ginko_wa_mochikotaerareruka.jpg 金融政策に詳しくないので、この本に書かれていることは、ちゃんとは理解できない。

新聞記者も同様だと本書の著者は言っている。
日銀の記者会見や資料提供に対し、わけのわからん質問をしたり、的をはずした記事を書いているという。

ただ、素人でも、引用されている図表を見ていると、どうして日本だけ、こんなに異常なんだろうという気持ちになる。
先年破綻したギリシアよりも、数値としてはもっと悪い。

日本国の財政危機については、多くの人が不安に思っていると思う。
「日本の借金時計」なんていうページもある。
国の借金とは、国債である。
そして、前から指摘されていることだが、この国債のかなりの部分が、日本銀行に保有されている。
その額約400兆円。しかも、毎年80兆円ぐらいずつ増えるという。

日本銀行「第132回事業年度(平成28年度)決算等について」


良く知られているように、日本銀行が国債を引き受けるのは法律で禁止されている。
戦時中、国の戦費捻出に戦時国債が発行され、それを日銀が引き受けた。それに相当する日本銀行券が政府に入り、それが市中で戦争資材の購入や兵隊の給与として使われる。日銀券の発行額が膨れ上がり、当然、これはインフレ要因にもなる。そうした財政規律もなにもない国政を行わないために設けられた制約である。

その制約があるから、現在は、一旦、市中銀行が国債を引き受ける。国債の利ざやが目的ではない。はじめから日銀に買ってもらう前提で買う。迂回引き受けと言うべきもの。(脱法行為だよね)

ただ、今は市中銀行の日銀当座預金が膨大な額になっていて、あんまり日銀券が増えるということでもないらしい。素人だからよくわからないが、インフレ誘導がうまくいかなかったのはそういうことだろうか。マネタリーベースを増やしても、マネーサプライが思ったように増えないということも本書で指摘されている。(外国の中央銀行は、日本の異常な金融政策とその結果を評価して、同じことはやらないとも)
結局、アベノミクスをやっても実体経済がついてきていない、それだけ市中での投資需要がないということかもしれない。
バブルの少し前に、金余りといわれた時期があった。それを記憶している人は、バブルを起したいと思っているのでは。


デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日本銀行の政策連携」というやつがこれかな。
で、どっちも実現されず、残ったのは国債の山というわけである。

もちろんそういう政策をやってなかったらもっと酷いことになってたという意見もあるだろうけど。
しかし、こうした政策をやって、実体経済、すなわち民間投資が喚起されるのなら、出口(この異常事態の終結)が見えるのだろうが、一向にそうした気配がないようだ。


今の状態が良いと考えている人は、一人もいない。ただ、問題を先送りできると考えている人、一刻も早く解決に乗り出さないといけないと考えている人がいるということらしい。

第一章 わが国の政策運営の油断と慢心
第二章 「財政危機」のあり得るシナリオ
第三章 欧米諸国と日本「財政・金融政策」比較
第四章 金融危機後の「金利ゼロ」の世界と「量的緩和」
第五章 中央銀行は持ちこたえられるか
第六章 財政破綻のリアルⅠ-欧州債務危機の経験から
第七章 財政破綻のリアルⅡ-戦後日本の経験から
第八章 蓄積され続けるリスクと遠のく正常化
第九章 なぜ掟破りの政策運営は“放置”されてきたか
第十章 子どもたちの将来への責任
ギリシアなどの財政破綻が起こると、GDP比でも国債残高がそれよりも多い日本は大丈夫かという声が出てくる。
それについて、今まで聴いていた意見は、国債は日本国内で保有されているから、海外投資家が投げ売りをして暴落する心配はないということだった。
ところが、本書によると、日本国債の金利が低すぎるから、海外投資家が買いたがらないだけだという。
そして、ギリシアのようにはならない、ということは、外国からの借金を踏み倒したギリシアのような形にはならなくて、踏み倒されるのは日本人ばっかりになるということらしい。

もし日本銀行が破綻したらどうなるか、これについて、同じ著者が、“「戦後80年」はあるのか―「本と新聞の大学」講義録”の「第七回 この国の財政・経済のこれから」に書いていた。
本書は、それが出版された後、出版社からの依頼で、詳しい解説として書かれたものという。

はじめに書いたように、私には金融政策は良くわからないのだけれど、破綻したらどうなるのかは、本書である程度、感じ取れる。

昔、両親が健在だったときに、戦後の「新円切換+預金封鎖」の話を聞いたことがある。お金なんか使えんようになったんやで、という話である。
私の両親は、その頃はまさに社会人生活のスタートラインにあったわけで、資産というものなど全くなかったから、財産税も預金封鎖も、本人たちにはあまり致命的な影響はなかったらしい。

しかし、今の時代、多くの高齢者が財産を貯め込み、年金で暮らしている。
戦争で、何もかも失った、国中が、一からスタートしようという時代とは違う。

今のところ私の収入はまだ勤労収入が主で、年金収入はその半分にもならないのだけれど、近いうちに主たる収入は年金になる。そして、もし年金制度が破綻したら、暮らしの見込みが立たなくなるわけだ。


先行きが短くなるということは、可能な生き方も少なくなっているということである。
せめて現状維持ができてほしい、それが多くの高齢者の気持ちに違いない。

若い人たち、将来には不安を持っているだろうけれど、若いということは、柔軟性があること。人生をこれから選択し、組み立てていけるということ。
(われわれ年寄りの)未来は君たちにかかっている、ガンバレ、もう少しだ。

ところで、政府が破綻するときは、インフレで債務を減らすんだろうけれど、そのときは日銀が保有する国債は大暴落、日銀も一緒に破綻するんじゃないだろうか。
「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日本銀行の政策連携」ですな。

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KY

P_20170425_101713_vHDR_Auto.jpg 近所の工事現場を通ったときに、看板が目に入った。
KY」と書いてある。

一時、「KY」は「空気が読めない(空気を読め)」という意味で使うことが流行った。
この看板の「KY」は「危険予知」である。

Wikipediaによると「KY」を危険予知の意味で使うほうが歴史が古いようだが、私は「空気が読めない」の方が先だと思っていたので、高校の技術教員の研修資料で「KYT(危険予知訓練)」という言葉を目にしたときに、「KY」にひっかけてるのかなと思ったが、そうではない。

その時も思ったのだが、どうして3文字目を、TrainingのTにして、「訓練」のKにしなかったのか。(想像通りなら、そらそうやろな)


危険予知訓練は、厚労省の関係団体が教材を作っている。(⇒中央労働災害防止協会
私が技術教員研修で見たのも、これか、これをベースにアレンジしたものだったと思う。高校技術ではそれだけでは足りないので、それだけではなく、独自に作成された教材もあったと思う。

危険予知と言えば、何度かお世話になったこともあって、JAFの会員を続けているけれど、"JAF Mate"(JAFの会員情報誌)には、毎号、危険予知の記事がある。「このとき、あなたは何に注意しますか?」というやつである。

JAF Mateのコラムは写真が見にくくて、車の陰の歩行者の頭のてっぺんとかに気づけと言われても、見えんやんかと思ったりしたが、実際の運転ではそんなことは言ってられないはず。
本稿を書くにあたって、JAFのページを見たら、危険予知の実写ビデオも配信されている。これも結構、難しいのだけれど、注意点を指摘されてから見ると、なるほどこれを見落としたらあかんやろうと思う。
アニメ版もある。これも難しい。一回で判る人は稀じゃないだろうか。


「空気が読めない」と危険予知では全然違うように思うけれど、空気が読めん奴と、危険予知(特に車での)ができん奴とは、周囲の状況に無頓着という点、通じているところがあるかもしれない。

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「たばこはそんなに悪いのか」

Tobacco_how_harmful_is_it.jpg 喫煙文化研究会「たばこはそんなに悪いのか」について。

著者の名前もない、あやしげな出自、文化の名の下に、感情的にたばこバッシングを批判する、そういう本かと思ったけれど、そういうものではない。
「喫煙文化研究会」というのは、会長すぎやまこういち、以下、養老孟司、筒井康隆、さいとうたかを、中西輝政、西部邁など、政治的イデオロギーは全く異なるだろうという人たちが集まっている組織らしい。

しかも、名前のあがる人たちは、名前だけ使われることは嫌がるような人たちではないだろうか。


プロローグには、『世にあふれる“理系人間”による「喫煙と健康」にかかる研究や仮説に対する“文系人間”からの批判・反論(逆襲!?)』と書いてあるけれど、どうしてどうして、かなりツボを押さえたところがあって、ちゃんと疫学の知識を持っていて、さまざまな反たばこ論文を読んだ上でのことのように見える。

反たばこ研究(たばこが有害であるとする研究)への批判は、おしなべて根拠が薄弱で信頼性に欠けるというわけだが、それは疫学調査そのものの難しさがあるから、研究者を責めるわけではない。

もっとも、取り上げられる反たばこ研究結果を見ていると、検定は通らないけれど、傾向として読むなら、たばこの害を示してはいる。やっぱりたばこは体に悪そうだという気持ちも湧くんではないか。


   
プロローグ 百害あるものは百利あり
第一部 たばこバッシングの歴史的構造
I  ジャパニーズ・パラドックス
II  バッシングはいかにして起きたか
III  疫学調査の欺瞞
IV  「生物医学」というパラダイム
V  たばこ企業vs反喫煙主義者
第二部 たばこはそんなに体に悪いのか
I  喫煙と疾病
II  バッシングを加速させた〈受動喫煙〉
III  〈ニコチン依存症〉の〝発明〟
IV  もう一つのバッシング「社会的コスト」論
V  「医療化」ということ
VI  何が人の寿命を決めるのか
第三部 たばこのチカラ
I  急速に広まった喫煙の風習
II  人は、なぜたばこを吸うか
III  シガレットの「光と影」
IV  「適正な喫煙」とは
V  永遠の課題──あとがきにかえて

一方、たばこにも良いところがあるという説も紹介されるけれど、これも根拠といえるほどのデータをもっているわけではない。また、たばこは健康に害はないと証明できるのかと言われたら、それはできない。反たばこ研究の信頼性にいくら疑問を持ったとしても、それで因果関係が否定できるわけではない。

そういう意味では五十歩百歩のようにも見えるわけだが、本書では、確証バイアス―ある事実を証明しようとして、確たる証拠が得られなかたり、反する結果になった場合は、その研究はなかったことにされる―は、一方的に反たばこ側に作用しているということが付言され、複数の研究結果がたばこの有害性を示しているというようなメタアナリシスは無効だとする。

おそらく、たばこの有益性の証明を目的とする研究には、科研費は出ないだろう。もっとも、以前は、煙草産業からは大量に研究費が出ていて、反たばこ側は不利であると主張されていたけれど。


不思議なことに、疫学の専門家は、相関関係は因果関係ではないこと、因果関係を認めても良いとする場合の評価基準は熟知しているはずなのだが、ことたばこの害については、これらの基準はなぜか無視される。これでは研究結果の信憑性が疑われ、本書のような反論を招く結果となる。
ヘイトスピーチのようなマネはやめて、冷静な反たばこ論を起すべきだと思う。

とりわけ、前にも書いたように、一本のたばこも許さない、というような、疫学上の基本クライテリアの一つとされる量-反応(dose-response)関係に一顧だにしないような主張は、あまりにエキセントリックで、ついていけない。
たばこが健康に悪いとしても、一日何本までなら許容範囲といっても良いのではないか。そう言ってくれたら、「罪業妄想」を持たずに済むし、たばこを文化として評価するという精神衛生上のメリットがあると思うんだけれど。
お酒は1日○合までと言う一方、どうしてたばこだとそれが言えないんだろう。

近年、勇気ある医師のなかに、「1日10本くらいが目安」と許容意見を表明する人もいる。ただし、反たばこ論者なら、その根拠を示せと迫るに違いない。それを目的とした調査研究にはお金が出ないことを見越して。

放射線や大気汚染物質について閾値を設けるのは、それらが人間の生活上不可欠なもので、ゼロとすることができないという理由がある。ゼロにできない以上、許容できる範囲を決めておこうという発想である。

2017-06-15_161742.jpg しかし、嫌煙家には、たばこの文化的価値を一切認めないという信念があるようだ。
したがって、嫌煙家には、「たばこの害」と「吸わない害」(全く吸わない場合のデメリット)の合計の最適化、なんて発想はないだろう。

そんな都合のよい計算はできないというなら、せめて、他の体に悪そうな行動と比較してもらえないだろうか。

たとえば、たばこ1本は、○分間大日交差点に立っているのと同程度の健康被害を与えますとか、豊洲市場で○分間働くのと同程度ですとか。


それにしても、嫌煙家からすれば、このような本が出版されること自体が許せないに違いない。
Amazonのレビューは3件、1件は★★★★★(最高評価)、2件は★(最低評価)。
これが現実。
嫌煙家と愛煙家が理解しあえるような世は永遠に来ないようだ。

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結局、豊洲におちついた

map_tsukiji.png 昨日、勇み足覚悟で、築地市場の豊洲移転が決定と書いたけれど、昨日午後には、正式表明がなされた。
やっぱりこれしかないわな、である。

そして、やはり、築地は再開発して利用するのだという。
「築地ブランド」は貴重な財産だからだという。

迫る都議選を慮って、移転反対派にも媚を売ったというのでは、姑息に過ぎるから、何らかの目算はあるのかもしれないが、二重投資にならないのか、やはり、他所のこととはいえ、気になる。

一連の騒動を見ながら不思議に思ったことがある。
築地といえば魚、水産卸が思い浮かぶけれど、ここには青果部もある。一方、東京都の市場は全部で11あり、食肉市場は芝浦にある。
築地の豊洲移転というフレームで考えていたけれど、それだけの市場があるなら、市場全体としての配置というようなことは論じられたのだろうか。移転先の選定にあたっては、その面積も大きな判断材料だと思うのだけれど、築地の水産部、青果部はセットでなければならなかったのだろうか。
水産物と青果物では、扱う業者も違うだろうし、物流ルートも違うだろう。使われる水にも、淡水と海水の差があるなら、設備も違うだろう。

もちろんそんなことはとっくに検討されていたのだろうけれど、一連の報道では、そうした説明を見たおぼえがない。
むしろ、築地を移転させる先としては、面積的に豊洲しかないという説明ばかり。
そして、ここへきて、築地も売り払わずに活用の途をさぐるんだという。
やっぱりしっくりこないなぁ。

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ようやく豊洲におちついた、けれど

先週末、週明けに豊洲移転を表明か、という報道があったので、そのつもりでニュースをチェックしていたけれど、今のところ、まだそういうニュースはない。昨日のニュース番組では、豊洲移転して5年で築地に戻る話もあるとかだったが、まさかそれはないだろう。50年後だったらまだしも。

ということで、ここは勇み足を覚悟で記事にすることにした。予想が当たれば、それしかないわなということになろうし、予想が外れてもご愛敬ということでご容赦願いたい。
では、以下、架空のニュースに基づく記事。

tokyoto_toyosu_b-10_02.png 東京都の小池知事が、懸案の豊洲市場移転問題について、ようやく決断した。
当初予定通りの豊洲への移転、それと築地の有効活用という。

前者は、問題の本質(汚染問題)が明らかになるにつれ、真っ当な選択だろう。後者については、ここまでゴタゴタした以上、何らかのお土産(実効性があるかどうかは別として)を業者に渡さないと、引っ込みがつかないということだろう。築地での説明会では「築地ブランド」を強調していたから、予想されたこと。

私も、遠い関東のことであるけれど、世間並みの関心をもって、記事にも書いた。
はじめは、「落としどころが見えてきたかな」として、豊洲市場に実体的な問題はなく、部分的な改善で終えるだろうという予想だった。
それが、「落としどころが見えなくなったかな」として、新たな汚染が大きく報道されて、簡単に豊洲と言いにくくなったと書いた。悪ノリで、基準の79倍という汚染は、仮に呼吸する空気の汚染にみたてたら、麻雀部屋程度という計算もしてみた

もっとも、落としどころがみえなくなったのは、問題がこじれたことで、問題の所在を見つめれば、結局、豊洲移転が結論だろうという感じはずっとしていた。
本当の問題の所在は、豊洲が汚染で危険な状態かどうかという一点のはずである。
そして、報道各社が騒ぎ立てる「基準」というのは、その汚染水を飲用した場合のもので、冷静に考えれば、問題はないということになるはずのもの。

だから、最初は「落としどころが見えてきたかな」だったのだけれど、そうした冷静な議論は、当局にはあったのだろうけれど、報道はそれでは面白くないのだろう、議論を落ち着かせるとか、熟慮するという方向ではなく、騒ぎを盛り立てた。


toyosu_o-KOIKE-570.jpg もちろん、最初に関係者や都民を欺こうとしたことが問題を拗らせたわけで、その責任は重いと思う。
一言で言えば、「東京都の役人って、ヘタくそ!」である。そんななめた行政をしたのは、役人の傲慢さのあらわれだろう。

そして、本質的な問題について関係者・都民の誤解を解こうとせず、その誤解にもとづいて、再検討に時間をかけた新知事は、そのヘタな役人から本当のところをちゃんと問いただしたのか。それとも、都政批判のネタとして使いたかったから、意図的にそうしたのか。

もし豊洲移転ができなかったら、既にできている施設をどうするか大問題。
とりあえず東京オリンピック2020のメディア・センターにでもするか。
その後は、それで整備されたITインフラを活用して、技術者がすぐに来れるという立地を活かして、開発や業務システムにも対応したデータセンターにするとか。


ただ、問題は汚染だけではない。
計画時点から、豊洲市場は赤字運営が前提になっているらしい。
関係業者にとっては、汚染が問題で、市場の赤字は気にとめないかもしれない。
しかし、都民はどう考えるだろう。

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クーポンの利用

Screenshot_20170618-192130.jpg 今までも、大手ネット通販のクーポンは利用してきた。
たとえば、電子書籍の50%とか、30%とかの割引クーポン。これは良く利用させていただいている。
割引率は3%などと低いけれど、普通の書籍のクーポンも利用したことがある。

この土日には、多分、はじめて、飲食店のリアル店舗で、しかも連日、クーポンを利用した。

土曜日は、ミスタードーナツのクーポン。
フレンチクルーラーというものがタダになる。108円の商品。
これだけもらって帰っても良いのだろうけれど、別の買い物で近所に来て、せっかくクーポンがあるからということで、立ち寄った次第。

楽天のキャンペーンにエントリーしておくと、このタダ券が送られてくる。
スマホの画面にそれを表示して会計をすれば、その商品はタダになるというわけ。
このキャンペーンは6月中やっていて、この土曜日のクーポンもあるらしいが、そのために、用事もないのにミスタードーナツに行こうという気はない。(歩いて行ける範囲にはないので)
ちなみに、他の商品も買ったけれど、決済は楽天のポイント。なんだか、妙に得した気分。

P_20170618_134713_vHDR_Autos.jpg 続いて、日曜日には丸亀製麺のクーポン。
これは、知り合いと食事に行くときに、スマホのアプリをインストールしておけば、いろいろ特典があるというので、試しに使ってみたもの。

この日は、かしわ天140円が無料になるクーポンを使用。
知り合いはスマホにしてまだ1年たたないらしいが、こういうアプリがあって、それなりの特典が得られるということで、今までずっと損をしてきたという。

丸亀製麺でもっとも安い290円のかけうどん(並)に、クーポンでタダになるかしわ天が、この日の昼食。ものたりない。
もう少し追加したらよさそうなものだが、最低価格で利用する(つまり33%引き)というのが、一つのこだわり。


クーポンのためにその店に行くということはそうないと思うけれど、行けば使う、そういうスタンスで。
そのためには、普段からクーポンに注意しておかなければならない。これは面倒だ。
できたら、専用アプリでなくて、各種クーポン総取りのアプリがあったら少しは助かると思うけど。
それでも店としては、来店の契機がつくれて良いのではないだろうか。

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「その日暮らし」の人類学

人類学は、その初期は、異文化社会の征服に資することを目的としていたという。
人類学の古典とされる著作は、その土地の習慣やライフスタイルを記述して、効果的に支配をすすめるための知識を提供する。
有名なルース・ベネディクト「菊と刀」は、日本に勝利し、統治することを展望した研究が基礎となっているといわれる。

さて、小川さやか“「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済”について。
著者の専門は文化人類学、なかでも都市人類学という。その都市における文化を研究する。
Sonohigurashi_no_jinruigaku.jpg

文化人類学というと、未開の部族の研究をイメージするが、そもそも文化は人類が共通してもつもので、、さまざまな文化の研究がある。
学生のときに、文化人類学の講義では、最初に「文化」の定義が行われる。
ある集団の文化とは、その集団内で、

  • 創造され(created)
  • 共有され(shared)
  • 継承され(heritated)

るものと定義される。
従って、集団のとりかたによって、ある部族の文化、日本の文化、地域の文化、学生の文化、というような使い方もでき、集団をヒトに限らずに、幸島のサルの文化、ということもできる。そして、実際、文化人類学の講義は、そのように進められていた。


とっつきにくい本だなぁ、というのが読み始めの感想。
言葉が空回りしているような印象。
言葉がシンボリックに使われても、読者側に、その言葉に付随する意味に対する知識が不足しているからだ。

ところが、本文に入ると、急に親しみがわいた。
掛谷先生(教養の自然人類学でこの先生の講義を聴いていた。講義中に煙草を喫い、学生にも喫いたかったらどうぞという。アフリカの一部族では呪術師として生活していたとか)の話がでたこと。

もう一つは、「ピダハン」の話が紹介されたこと。(ピダハンについては、⇒エヴェレット「ピダハン」

ピダハンは、すべての部族に何らかの形で共通に存在すると考えられていた「神」を持たない。すべての知識・情報は、その場において意味を持つ形でのみ発せられ、ほとんどの抽象語が、数詞すら無い。驚くべきことに、ピダハンの言語には再帰的な構造がない。つまり括弧でくくる操作がない、「魚がいる」はあっても、「私は『魚がいる』と思う」という表現はないことを意味する。

ピダハンこそ、究極の「その日暮らし」(Living for today)として(短く)紹介される。
つまり、「その日暮らし」というもののベースがここにあるようだ。

プロローグLiving for Todayの人類学に向けて
第一章 究極のLiving for Todayを探して
第二章 「仕事は仕事」の都市世界
――インフォーマル経済のダイナミズム
第三章 「試しにやってみる」が切り拓く経済のダイナミズム
第四章 下からのグローバル化ともう一つの資本主義経済
第五章 コピー商品/偽物商品の生産と消費にみるLiving for Today
第六章 <借り>を回すしくみと海賊的システム
エピローグLiving for Todayと人類社会の新たな可能性
経済学では、経済人(ホモ・エコノミクス)という人間像が基本になっているといわれる。
そして近代的な経済人というのは、計画的で、時間厳守で、勤勉である。(⇒大塚久雄「社会科学における人間」

どこまで徹底しているかはさておき、そういう人間に違和感を持たないというのが、おおかたの日本人だと思う。
ところが、著者の調査フィールドであるタンザニアでは、どうもそうではないらしい。というか、上記のような性質があるとしても、我々が考えるようなものとは違っている。

誤読・誤解をおそれず簡略化すると、「その日暮らし」というのは、蓄積をしないということになる。
本書のサブタイトルは「もう一つの資本主義経済」なのだが、普通イメージする資本主義というのは、蓄積がなければ興らない。勤勉なホモ・エコノミクスが貯えた富の存在が、資本主義の勃興期を支えたという。
本書が言う資本主義では、資本は蓄積するのではなくて、儲けを手にしても、すぐガラガラと崩れてしまうようなもの。人のネットワークはあるが(そしてそれが生きる保障、セーフティネット)、組織を構築したりはしない。

典型的なのが借金のありかた。ここでは、借金と贈与には、ほとんど違いがない。

ただし、人類学的には、そもそも贈与とは借りという感情を伴うものとされるらしい。

困ったら借りる、しかし、貸した側も返せとは催促しない。貸した側が困っても、貸した金を返させるのではなく、別に貸してくれる人を探すという。
これを「<借り>を回すシステム」という。

アフリカではスマホが急速に普及しているそうである。有線ネットワークの整備が困難な状況で、モバイルの方が整備しやすいというインフラ側の事情もあるためらしい。

子供たちがゲームばっかりしたり、SNSにはまるなど、日本と同じ状況になっている。
そう言えば、以前、アフリカの視察団の方から、そうしたスマホの問題点について、日本ではどのように対処しているのかという質問があった。


そして、このスマホで電子送金システムが普及した。
今までの「<借り>を回すシステム」の文化を壊すのではなく、それをベースとして、効率よく、迅速にシステムが回るようになったのだそうだ。

それと、この「その日暮らし」経済と、中国の商売が、実に相性が良いらしい。
実際、アフリカと中国の間の人の往き来、商品の行き来はかなり分厚いと書かれている。

(中国という国家がアフリカに投資するという、国家政策の話ではない。)

「その日暮らし」の経済においては、アフリカと中国の商人の商売には親和性があるらしい。ただし、「<借り>を回すシステム」のような、人間のネットワークや信頼関係があるわけではなく、「その日暮らし」、「その場限り」の取引関係である。
コピー商品、フェイク商品、不良品や不誠実な取引、それらもすべてこの取引、こうした取引だからこそ、含まれる。

アフリカで商売を考えるなら、このしたたかさは知っておかなければならないだろう。
ただ、それらは決して閉鎖的なものでも、富の蓄積をベースにした固定的な体制でもないようだから、排除の論理はなさそうだ。近代資本主義に慣れた感覚で相手をなじってはいけないけれど。

それにしても、結局のところ儲けも一時のこと、貧しさが基調にある、蓄積がないのもその結果、みんなが貧しいから<借り>を回すしかないというだけかもしれない。
それでも、そこに文化というかライフスタイルがある、それは間違いないことだけど。豊かになったら、この文化はどう変容するのだろう。

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貧乏人のハイレゾ

hires-logo.jpg 先日、ローコストSACD再生の記事で、安物のブルーレイプレイヤーのSACD再生でも、HDMI/SPDIF分離により、176.4kHzという、高品位のPCM信号が取り出せたと書いた。

これで一応満足できる水準には達したのだけれど、この一種裏技を試みる前に、やはりプレイヤーを買わなければならないかと思ってネットで情報収集していた。
SACDの音声信号はDSDという形式である(e-ONKYOなどは電子データで配信している。私もそれを購入してPCから読みだしてPMA-50のUSB入力に送り込んでネイティブ再生している)。
ならば、SACDプレイヤーで、USBにDSDを出力するものがあれば買っても良いかなと考えた。
しかし、そういう製品はどうやら存在しない。

もし存在して、数万円以下とかだったら買ったかもしれない。なくてかえって良かったかも、2600円で高品位再生ができたわけだから。
また、S/PDIF出力はどの製品も付いているわけだが、この出力規格はカタログなどで確認できない。これでは安いからといって飛びつくわけにはゆかない。


他にもいろんな製品をチェックしてみた。
マランツのSA8005というプレイヤーは、USB-DACも持っていて、なかなか良さそうだった。値段もAmazonでは90,000円を切っていて、高いことは高いけれど、許容できる範囲である。

しかし、この製品を買うと、DACは、アンプ内蔵のものと重複して揃えることになる。聴き比べるならともかく、普通、両方同時に使うことなどないわけで、なんとなく勿体ない。そう考えると、90,000円近く出すのは馬鹿馬鹿しくなった。

アナログ時代であれば、オーディオ・コンポーネントというのは、各コンポーネントの機能分担は明確で、コンンポーネント間のインターフェイスも簡単だった。
ところがデジタル時代になると、不思議なことに製品コンセプトに、機能独立性などは配慮されていないように見える。つまり、上述のように、DACが単体であったり、アンプにあったり、SACDプレイヤーにあったりする。
私が、アンプにUSB-DACが付いているという変則的な製品を使っているからいけないのかもしれないが、このあたりのデジタル・オーディオは結構、ややこしい。

ただ、メーカーが不誠実じゃないかと思うのは、私がやったように、2万円もしないプレーヤーに、2600円の追加投資(HDMI/SPDIF分離器)をすれば、10万円以上もするプレーヤーとそう違わないだろうということ(S/PDIFの出力品位が低ければ、高級プレイヤーのほうが低品位になるかもしれない)。

アナログなら機器の通過を重ねるごとに信号が劣化するけれど、デジタルならアンプまでデジタル信号が正確に届けば良いはずである。それに、DAC側がアシンクロナス転送を行うなら、信号のエラーの問題も回避できるようになるだろう(エラーが酷ければ停止)。


オーディオの満足度は投資額に対し逓減するもので、それゆえ高い道楽といわれてきた。
しかし、デジタル時代の今では、アンプとスピーカーが本質的なオーディオ機器だと思うから、ここさえしっかりしていれば、貧乏人でもそこそこ、昔の高級オーディオ並みの音が楽しめると思う。

ライブ・コンサートは高くてなかなか行けない。
というわけで、貧乏人のハイレゾである。

ところで、SACDの出力で苦労したわけだが、もしアンプがAVアンプだったら、HDMI接続で、何ら悩むことなく高品位再生ができただろう。やはり、これからはAVが主流になるのだろうか。

私はピュア・オーディオに拘っているわけではない。以前から持っているオーディオ機器がAV対応ではないというだけである。ただ、今まで聴いたAVアンプの音って、貧相なんだけれど、ピュア・オーディオ並の音にするにはどのぐらいのアンプにしなければならないんだろう。


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共謀罪

2017-06-15_102237.jpg
NHKホームページから
昨日、「共謀罪」を新設する「改正組織犯罪処罰法」が成立した。

この法律について、部分的な報道しか見ていないし、基礎知識も欠如しているから、賛否についてはこの際措く。

というか、この話題にふれること自体、あんまり気乗りしない。反対を表明したら、将来、反政府の要注意人物にされるかもしれないし。
ただ、歴史的な日になるかもしれないので、一応、記事にとどめておこうということである。(決して政府に反抗しているわけではありません、最後まで読んでいただければご理解いただけると思います。)


報道では、といっても報道機関によって随分違うようだけれど、多くの論点があったのだけれど、国会での議論は尽くされていないという感じは、やはり否めない。

とりわけ、政府・与党側の説明と、野党側の主張には、見解の相違とか、イデオロギー的対立というようなものではなくて、客観的事実として、どちらの説明が正しいのかと考えさせられる差があるように思った。

たとえば、パレルモ条約の締結には、この法律が必要という政府説明に対し、一部の弁護士は、不要だという。
また、パレルモ条約は、条約案作成に携わった人は、マフィアなどの組織犯罪が対象でテロを想定しないというのに、政府はテロ防止が目的だと説明する。
この法律に疑念を表した国連特別報告者に対しても、政府の説明(一私人にすぎない)と、国連側の説明(人権理事会から任命され、人権状況について調査・監視・報告・勧告を行う専門家)が食い違う。
繰り返すが、どちらが正しいと言っているわけではない。どちらかがウソをついているとしか思えないほどの食い違いがそのままというのが解せない。

最大の争点の一つ、一般の人が共謀罪の対象になることはないと政府は言うけれど、戦前の治安維持法の時も、この法は善良な国民を取り締まるものではないという趣旨の説明が行われていたそうだ。
「治安維持法は当時、適法に制定されたものでありますので、同法違反の罪にかかります、拘留・拘禁は適法でありまして、また、同法違反の罪にかかる刑の執行も、適法に構成された裁判所によって言い渡された有罪判決に基づいて、適法に行われたものであって、違法があったとは認められません」
金田法相発言(衆院法務委 6月2日)
これに関して、政府は、治安維持法で厳しい取り調べ(拷問)を受けた人も、適正な手続きで法に則って行われたもので問題はないと答弁しているらしいが、法理としてはそうなんだろう。治安維持法による取り調べの対象になったとしたら、それは善良な国民ではない疑いがあるということだから。
もし、一部に理不尽な取り調べがあったとしても、下級役人による運用上の過ちとされるだろう。(これも忖度の構造。「上の好む所、下これよりも甚だし」、あるいは「虎の威を借る狐」だろうか。)

逆に、第二次大戦中、音楽の好きなドイツ将校が、アレクシス・ワイセンベルクを母とともに収容所から連れ出して放置(逃亡幇助)したという。これは美談か、それとも国家への反逆だろうか。


「疑わしきは調べる」は必要だと思うけれど、逮捕拘引さえすれば罪状は後からなんとでもなるとか、無実の人を捕まえたら批判されるから、捕まえた以上有罪にしなければならないというような運用は困る、そう考えるのが普通だろう。
国会で論が尽くされなかった点、たとえば一般人は対象にならないというのを口先の説明で終わらせず、どうやって担保するのかなど、政府説明どおりの運用がなされるよう、きちんとしたルールを定めること、それが政府、国会、裁判所、そして、国民みんなの仕事だと思う。
それがうまくいって、昨日が歴史的な日とならないことを願う。(既に6.15は別の歴史的な日だけれど)

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いよいよ巣立ち

P_20170614_071040_vHDR_Auto-crop.jpg 自宅最寄り駅は、毎年、ツバメが巣をつくる。

前にも、巣作りがはじまったことに触れた記事を書いたけれど、いよいよ雛が立派に育った様子。

前の記事では、駅側が用意していた板のところに巣をつくっているように書いたけれど、そこはどうやらツバメの気に入らなかったようで、その上方、配線器具のボックスの上に巣を作っている。


この駅では、改札を入ってすぐのところにも巣があって、そこも同じような雛の姿が見られた(写真は撮ってない)。

写真は昨日撮ったもの(スマホのカメラでズームして撮ったもので、かなり粗いけれど)。
近々アップしようと思っていたら、今朝、この巣には3羽だけが見え、反対側の壁際に1羽いた。

どうやら、巣立ちとなったようだ。

「まもなく巣立ち」で記事を書くつもりだったけれど、慌てて今日アップした。


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ローコストSACD再生

TANNOY Arundelにスーパーツィーター追加アンプをDAC内蔵に取り換え、とオーディオの調整をしてハイレゾ対応を進めてきた。先日は、PMA-50のUSB-DACを利用して、PCからPCM 24bit/192kHzや、DSD 2.8MHzといった音源を聴いたことを書いた。

そして、ここへきて、SACDがCD音質でしか再生されないことに苛立ちを抑えきれなくなった。
SACDのディスクは20枚ぐらいしか持っていないが、ちゃんとした音を、まともなオーディオ・セットで聴いてみたい。

我が家で、SACDを再生できるのは、安物(2万円しなかったと思う)のユニバーサル・プレイヤーしかなく、これにデジタル出力(S/PDIF)はあるけれど、ここからはCD音質しか出せない。
YAMAHAのサウンドプロジェクターYSP-2500にHDMI接続すれば、本来のSACDの品位のデータが送られ、サラウンド効果も含め、それなりに聴けるものであるが、入力信号の品位が維持されていても、この機械は、ピュア・オーディオに比べれば、音自体は貧相である。


スピーカーもアンプもハイレゾ対応ならば、やはりSACDをその品位で再生したい。かといって、高価なSACDプレイヤーを買うのも財布が許さないし、今使っているDAC内蔵アンプ(PMA-50)と重複して、HDMI入力のあるアンプなんかを買うのも勿体ない。

それに、高級SACDプレイヤーといえども、製品企画が古いせいか、デジタル出力はDSDを出せるものはないようだし、S/PDIFもどんな品位で出力されるのかアヤシイ(はっきりしない)。SACD自体は古い規格かもしれないが、デジタル時代に合わせた製品ラインアップを考えないのだろうか。


というわけで、手ごろなSACDプレイヤーも、お金も、無いので、何か手はないのものかとネットを渉猟していると、解決策があった。
HDMI出力から、音声をS/PDIF(光デジタル)に分離するデバイスである。

P_20170607_200005_vHDR-notes.jpg Flylinktech hdmi音声分離器(hdmi spdif 信号変換器)
Amazonで、2,599円で購入。

同種製品は他にもあるが、HDMIの分岐機能(出力が2系統以上)が付いてるような製品は、高い上に、余計な機能が加わるので、私の目的からすれば不要である。


デジタル信号というのは、アナログが電気的特性だけ定めているのとは違って、すごく面倒で、単純にINからOUTへ信号を流すわけではない。HDMIでは、送出側と受信側がネゴをして、伝送フォーマットが決められるらしい。この分離器は、その信号から音声だけを取り出すものだけれど、HDMIがネゴをする相手というものが必要になる。

この理屈でいけば、送出側が出力可能なフォーマット、受信側が入力可能なフォーマットに一致するものが選ばれるということになる。私が欲しいのはS/PDIFの音声信号だけだから、受信側HDMIは信号フォーマットだけを定める役割、いわばダミーである。

SACDを再生するのは、上述のBDP-S370という安物のブルーレイ・プレイヤーで、これがどんな規格の信号を送出可能なのかはやってみなければわからない(取説などにはそんなことは書かれていない)。HDMI経由でDSD出力もできる機器なのだが、分離器がDSDに対応しているはずがない、もちろんS/PDIFはPCMを伝送するものである。なので、BDP-S370の音声出力はPCM 2chに固定する。
分離器の音声出力(光デジタル)はPMA-50につなぐ。なお、この分離器には、2ch/5.1chの切替スイッチが付いているのだが、2chで使う(元が2chだからどうでも良いのかもしれないが)。

ダミーのHDMI受信機器だが、ダメもとということで、まずリビングの古いテレビを選択した。
光デジタルから音声信号が取り出せていることは確認できた。44.1kHz。CD音質である。
これは予想した通りの結果なので、落胆せず、本命の機器、YAMAHAのサウンド・プロジェクター YSP-2500をダミーとして使うことにする。

P_20170607_195538_vHDR_Auto-crops.jpg やったー! 176.4kHz!

DSDではないものの、十分のクォリティの信号である。
さんざん購入を検討したン十万円とかの高級SACDプレイヤーなどではなく、わずか2600円の投資で、満足できる結果。


YSP-2500は一応、本格的なサウンド機器であるから、高品位のPCMに対応しているだろうという期待を裏切らなかった。まさか、オレ様がダミーで使われるなんて、思ってもみなかっただろうけど(しかも音は出さないのに電源はオン)。

ネットで調べると、送出側とのネゴに使うダミーのHDMIプラグというのがある。我が家ではYSP-2500があるので不要ではあるけれど、そもそも、このダミープラグの音声規格が解らないので、買ってもムダになるおそれがあった。使えることが判れば、これの方が、電源がいらない、ケーブルの始末が自由ということで、こちらを使うのだけれど。
分離器自体にHDMIダミーの機能があれば良いのだろうけど、そうすると、上述のような特殊な用途に限られるから、商品としては売りにくいのだろう。
なお、もう一台あるユニバーサル・プレイヤー PIONEER DV-610AVを使って同じことをしたら、88.2kHzまでの出力だった。これはプレイヤーの能力ということだろう。


さて、SACDの本来の品位に近い音の評価である(我が家のオーディオ・セットでの)。
アンプ、スピーカーが良くなったので、CDでも随分と良い音になっている。それは先日、スーパーツィーターの追加の記事でも書いた。
そのときに試聴した「幻想交響曲」を、今回実現した176.4kHzで聴き直してみる。

力強いとか、繊細とか、あるいは抜けが良いというような情緒的な評価をぶっとばして、驚いた。
CDの音が、ppp―fff だとすると、この176.4kHzの音は、pppppp―fffff と言って良い。
とにかく、ダイナミック・レンジがめちゃくちゃ広い。フォルテ側はCDでも結構な迫力の音であるけれど、もちろんハイレゾはさらに迫力が加わるわけだけれど、なんといってもピアノ側、驚くほどの弱音、微音が出てくる。

繰り返すけれど、情緒的にというか、なんとなくというか、そんな気持ちの違いではない。
はっきりと、ダイナミック・レンジが何桁も違う。これがハイレゾの音だったんだ。
以前、ハイレゾというのは聴こえない音(周波数帯域)の聴感の改善だろうと書いたけれど、これは訂正しなければならない。
周波数帯域だけではなくて、ダイナミック・レンジがまるっきり違っている、まさに音として聴こえる部分だ。

この音源の違いがわかるには、パワーが入り、きっちりと低域から超高域までを再生できるオーディオ・セットがのぞましい(我が家のセットなんてまだまだ、片鱗を感じる程度のものだろう)。

ハイレゾ対応ヘッドフォンとか売ってるけれど、このダイナミック・レンジの音をヘッドフォン、とくにカナル型とかで聴くのは、自傷行為のような気がする。


外部からの音の遮断(自分の鑑賞を妨げない)、外部への漏洩の遮断(近隣に迷惑をかけない)、も考えないと。(楽曲によるけど)

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休刊日

P_20170506_172653_vHDR_Auto.jpg
予讃線一本木踏切(香川県観音寺市)にて
本日、月例の休刊日。

休みっぽいイメージ写真で。


























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枕草子のたくらみ

山本淳子「枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い」

たくらみ」とは穏やかでない。まるで何か政治的な意図でもあるかのようだ。
makura_no_soushi_no_takurami.jpg しかし、この「たくらみ」とは、そうした権力的なものではない。定子のサロンが、おそらく当時としては破格の優れたサロンであったことを記録にとどめ、それとともに定子をいつまでもこの国の人々の記憶にとどめようという「たくらみ」である、と著者は主張している。

そして、その「たくらみ」は成功した。
私たちが今でも枕草子を大事に思い、読み継いでいるのだから。

枕草子は、伊周が献上した冊子(紙)に、古今集の筆写でもしようというところを押しのけて、清少納言に下命されて書かれている。そして、下命を受けて書かれたものは、下命者に献呈されるものである。定子に読んでいただくことを前提として、書かれたものである。
著者は、繰り返していう、定子になったつもりで読めと。

定子は完璧な女性である、少なくとも清少納言はそう思っている。
子供のころから、後宮に入ることを予定され、母貴子がそうであったように、和漢の典籍、礼楽に通じた深い教養、機知と人情に富む人柄、そして「かかる人こそは世におはしましけれ」といわれるほどの美しさ。
何不自由なく、自信に満ちた後宮生活、そして父関白のの死、兄内大臣の転落、一族が凋落するなかで24歳で閉じる命。

才気走って、ミーハーな清少納言、深みの無い作品枕草子。
それは表面的な読みだという。清少納言にそうした面があったことはそうなんだろう、しかし、かつてのサロンを懐かしみ、少しでも気散じにと、決して暗いことなど書かずに、サロンで起こった一コマを切り取って描写する、それを受け取る定子の気持ちをすべて踏まえるなら、これ以外の書き方はなかったのかもしれない。

そして、その通りだったら、清少納言というのは、なんと魅力的な女性だろう。
才気をひけらかして、他の女房から憎まれながら、言い訳をしたり、卑屈になることもなく、女主人への深い思いを秘め、そして女主人のために、そして女主人を偲ぶ、きりっとした姿が浮かぶ。ウェットな感情はけっして表に出さず。

これで絶世の美女で、艶聞も多かったら、完璧だ。昔あこがれた「カラマゾフ」のグルーシェンカのようだ。


ところで、紫式部が清少納言を酷評していることは有名で、本書でも最初(序章―酷評)にそのことが書かれている。これについて、著者は、それは、紫式部は、定子に起こった厳しい事情を知っているから、なぜ枕草子がそんな書き方をするのか、そのことに対する評だと言う。

そういえば、著者は別書「平安人の心で『源氏物語』を読む」で、清少納言ならぬ紫式部と定子の共通点、式部が定子(彰子ではなく!)に感情移入できる点がいくつかあるとも指摘されている。そして、桐壷の更衣のモデルは定子であろうとされる。(そうだとすると、私には紫式部もかなり屈折した性格に思える。)


紫式部を苛立たせこと、そして私たちが枕草子を読むときに定子に思いを致すことで、枕草子の「たくらみ」は完全に成就する。
本当のことはわからないけれど、著者のいうとおりのほうが、清少納言も枕草子も、ずっと魅力的なものになることは間違いない。

序章清少納言の企て
酷評/定子の栄華/凋落/再びの入内と死/成立の事情
第一章春は、あけぼの
非凡への脱却/和漢の后/定子のために
第二章新風・定子との出会い
初出仕の頃/機知のレッスン/型破りな中宮/後宮に新風を 清少納言の素顔/父祖のサバイバル感覚/宮仕えまで
第三章笛は
横笛への偏愛/楽の意味/堅苦しさの打破
第四章貴公子伊周
雪の日の応酬/鶏の声に朗詠/『枕草子』の伊周/伊周の現実
第五章季節に寄せる思い
『枕草子』が愛した月/節句の愉しみ/分かち合う雪景色
第六章変転
中関白道隆の病/疫禍/気を吐く女房たち
第七章女房という生き方
幸運のありか/女房の生き方/夢は新型「北の方」/「女房たちの隠れ家」構想
第八章政変の中で
乱闘事件/魔手と疑惑/定子、出家/枕草子の描く長徳の政変/引きこもりの日々/晩春の文/原『枕草子』の誕生/再び贈られた紙/原『枕草子』の内容/伝書鳩・源経房
第九章人生の真実
「もの」章段のテクニック/緩急と「ひねり」系・「はずし」系/「なるほど」系と「しみじみ」系
第一〇章復活
職の御曹司へ/いきまく清少納言
第一一章男たち
モテ女子だった清少納言/橘則光/若布事件/則光との別れ/藤原行成/鶏の空音
第一二章秘事
一条天皇、定子を召す/雪山の賭け/年明けと参内/壊された白山…/君臣の思い
第一三章漢学のときめき
香炉峰の雪/助け舟のおかげで
第一四章試練
生昌邸へ/道化と笑い/枕草子の戦術/清少納言の戦い
第一五章下衆とえせ者
下衆たちの影/臆病な自尊心/「えせ者」が輝くとき
第一六章幸福の時
「横川皮仙」/高砂/二后冊立/夫婦の最終場面
第一七章心の傷口
「あはれなるもの」のあはれでない事/紫式部は恨んだか/親の死のあはれ
第一八章最後の姿
「三条の宮」の皇后/お褒めの和歌/二人の到達
第一九章鎮魂の枕草子
「哀れなり」の思い/鎮魂の「日」と「月」
終章よみがえる定子
共有された死/藤原道長の恐怖/藤原行成の同情/公達らの無常感/一条天皇の悲歎/清少納言、再び

本書の読み方にしたがって、定子と清少納言を中心にした二次作品(映画、演劇、まんがなど)が作られたら魅力ある作品になると思う。著者が脚本を書いたら良いのではないだろうか。
さて、映画やドラマにするとしたら、定子、清少納言は、誰が演じるのが良いだろう。

清少納言には北川景子を推す。ツンツンした感じが良い。美人すぎるのが清少納言のイメージとは違うけど。
問題は定子、完璧な美女にして(とりわけ手・指が美しくなければならない)、知性あふれ、しかも優しい心、そして、明るさの中にふと暗い陰を感じさせるような女優。


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この国の政府は見苦しい

森友学園に続いて、加計学園と、怪しげな話が連続した。
そして、「総理の意向」という文書があるという前文科省事務次官の証言が飛び出して、一旦は、官房長官が存在を否定し、文科大臣は文書の存在は確認できないと言い、それについて調査する気もないと言う。
これで押し切るのかと思ったら、複数の文科省職員が、文書は存在するという証言が出てきて、一転して調査するという。

2017-06-10_115158.png

なんともできの悪いストーリーである。
オペラなら、真実を知らない間抜けな登場人物が、なんか変だと思いながら、うやむやのまま事が進んでいく。

この間抜けな登場人物は殿様なのだが、最後まで、だまされたままで、それでも結局大団円となる(フィガロの結婚)。


ところが、今回は、この間抜けな登場人物というのは、日本国民のことなのだ。大団円にもなりそうにない。

この問題、総理が何か直接、指示・命令をしたというようなことは多分ないと思うけれど、役人の側に忖度があったかといえば、それはそれなりのものがあったんだろうというのが、多くの人の感想だろう。
中には、プロセスはともかく、というか、そもそも獣医学部の新設を抑制してきた文科省が間違いだから、今回の加計学園問題は、結果的には良いことだと言って、問題をすりかえようという人もいる。
獣医師の需要からみて、獣医学部の新設抑制が適切かどうかと、それが特定の事業者にだけ認可を出すということは別の問題だろう。しかも、選定にあたって、途中でルール変更(「広域的に」の文言追加)をしているのだから。

そうした結果論は、この際措くとして、見苦しいとしたのは、「総理の意向」文書の存在に対する、官邸・文科省の対応。
存在するかどうかについては、官邸も文科省も、もし存在するなら、間違いなく知っていたはず。それを、確認できないと説明したわけだが、隠しおおせると思ったんだろうか、それとも「無い」といったら嘘をつくことになると、少々の引っ掛かりがあったのだろうか。あまりに見苦しい態度だと思う。

そもそも情報公開というのは、政府の意思決定を事後的にチェックできるようにすることが制度の趣旨である。
なんでも、意思決定過程の文書は出さなくて良いなどと言った人がいるらしいが、正確には、現在、意思決定の過程にあって、公開すると意思決定が歪むものは出さなくて良いということである。

そんな簡単な法理を無視(無知?)して、苦しい説明を平気でするという態度からは、最後は数の力で押し切り、うやむやにしてしまえるという慢心を疑ってしまう。

情報公開といっても、運用は難しいと思う。
ある自治体では、複数人が共有すれば、メモであっても公開対象となる。それを完全にやりとげることは到底無理だとは思う。なぜなら、そうしたメモが公開対象になるからといって、すべて保存管理することなど不可能だから。しかし、その姿勢というものが重要で、公文書として管理されていないとしても、そうしたメモがあるなら公開すべきであるという判断がなされるべきだろう。
もちろん、管理していない文書であれば、不存在として公開拒否はできる。おそらく、今回の件も、最後はそうした決着になる可能性は高い。
そのときにこそ、公務員の矜持が問われることになるだろう。

今の国会の様子だとしたら、多数決で押し切り、うやむやになるという決着が見える。
なんといっても「国権の最高機関」だから。

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アンプの入替

何度も書いたように、我が家はオーディオ・セットが2つある。
一人で集中して聴くためのオーディオ部屋に1セット、リビングに1セットである。

オーディオ部屋は、今までは前に書いたような機器構成(その後サブウーファーNS-SW200を追加)で、アナログ・レコードのデジタル化もこの部屋で行う。

リビングは大きいけれど古いスピーカー(TANNOY Arundel)を置いて、エッジが傷んでいたので、前はたまにしか音を出していなかったのだけれど、スピーカーの修繕スーパーツィーターの追加ということで、ハイレゾ対応の満足度の高いセットに変わった。
ということで、今まではオーディオ部屋がメイン、リビングはサブという位置づけだったのが、逆転してしまった。

そうなると、リビングの方の音をもっと良くしようということになる。
さしあたって、アンプのデジタル入力が24bit/96kHzという低い(?)規格なので、もっと品位の高いソース(DSF 2.8MHz/1bitとか、PCM 24bit/192kHz)をその品位で再生したい。
そう、オーディオ部屋で使っているDENON PMA-50をこっちのセットで使おうということである。

PMA-50入力仕様
 入力端子 フォーマット サンプリング周波数 ビット長
 USB-B DSD(ASIO、DoP) 2.8/5.6 MHz 1 bit
 LPCM 32/44.1/48/88.2/96/176.4/192 kHz 16/24 bit
 光/同軸デジタル LPCM 32/44.1/48/64/88.2/96/176.4/192 kHz 16/24 bit

PMA-50にすれば、外付けサウンド・プロセッサーを介さず、PCに直結できる。
この外付けサウンド・プロセッサー24bit/96kHzまでの対応であるが、ダイレクトにPMA-50に接続すれば、手持ちのハイレゾ音源、

菊池洋子のモーツァルト(DSF 2.8MHz/1bit)
ラトル/ベルリンのベートーヴェン(PCM 24bit/192kHz)

などを、その品位で再生できる。(他のハイレゾ音源は、24bit/96kHzが多い)
どちらも、前は、PMA-50+Autograph mini+NS-SW200で聴いていたもの。変わったのはスピーカーと部屋である。

さて、菊池洋子、モーツァルトの協奏曲だからオーケストラは小編成なので、広大な音とはならないけれど、ピアノの音が妙に生々しくなった。Autograph miniではとにかく綺麗に鳴ったという印象だったが、迫力とタッチの微妙なところが際立ったような感じ。
ラトルのベートーヴェンは、とにかくオーケストラが柔らかくなった。これがハイレゾの効果ではないだろうか。

P_20170605_205629_vHDR_Auto.jpg

PMA-50のディスプレイに "DSD 2.822MHz"の表示


とはいうものの、PMA-50の音は、繊細で均整がとれたような音なのだけれど、前に接続していたONKYO A5-VLのほうが、なんとなく色気を感じる。ただし、A5-VLには、高域にノイズが出てる感じがするけれど。
原信号の再生にこだわるのか、さて、悩ましいところである。

ところで、DSDの再生には、PCのfoobar2000をDSD対応にする必要があるが、これがちょっと苦労した。
前に、foobar2000―PMA-50でのDSD再生という記事を書いているので、この通りにやれば良いはずだが、foobar2000のコンポーネントをダウンロードしようとしたら、前の記事のときから随分、バージョンが上がっている。最新がいいだろうと思ってやってみたのだけれど、どうやらソフトの構成が変わったようで、いろいろやってみたものの音が出ない。新バージョンの使い方を調べるのも面倒なので、結局、記事通りの古いバージョンで無事、再生にこぎつけた。新バージョンについてはいずれゆっくり調べるつもりだが、メリットはなんなんだろう。

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