生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像(その2)

中沢弘基「生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像」についての続き。

著者は、はじめに進化論(これは疑えないもの)を持ち出しながら、進化論は生命にだけ使える法則ではないと主張する。(これは私もそう思う。遺伝、変異、選択が存在するものには適応進化が起こる。)

IMG-cropsr2.jpg そして分子の自然選択が、どこで、どのような条件で行われたのかを考察する。
その鍵は、分子の親水性、疎水性という性質で、これが分子を並べるメカニズムとして作用しただろうとする。
こうしたメカニズムの一部は、実験でも確かめることができるという。

このような非生命体での進化を考えるのに、著者はエントロピーを持ち出してくる。

周知のとおりエントロピーは増大する(熱力学第二法則)。
物理法則は時間を逆転しても成り立つが、例外はエントロピーの増大則。時間の流れる方向を決定するのはエントロピーであるという哲学的洞察がある。

また、マクスウェルの悪魔が存在するなら、エントロピーを減少させることができる。悪魔が行う粒子選択活動のエネルギーが系の外から来るのなら矛盾はないと思う。


著者は、地球の歴史にもそれがあてはまっているはずと説き、エントロピーの収支を考えるなら、生命の発生は必然であるという。
このあたりは良くわからない。
本書でも引用されているように、シュレディンガーが「生物は負のエントロピーを食べて生きている」と言ったことぐらいは知っていたけれど、エントロピーというのは量としては実感できるようなものではないし、帳尻としてはエントロピーは増大しなければならないにしても、メカニズムの説明にはならないように思う。

「宇宙の熱的死」だってそりゃそうかもしれないが、それがどうしたという話。
熱的死を迎えないように宇宙論を作るというような発想もないように思うけど。

また、生命活動は地球の内部エネルギーよりも、太陽エネルギーを多く使っている(本書でもその説明はある)わけで、これとエントロピーとどういう関係にあるのか。太陽系全体としてのエントロピーは増大していても、地球はどうなのか。

というわけで、このエントロピーが歴史を動かすという発想は、著者の信念を支えるものだとは思うけど、具体的な科学的陳述としては、今一つピンとこない。
もっとも、エントロピーを持ち出さなくても、分子の自然選択というメカニズムは至極納得できるものである。

最後に、生命を構成する分子はなぜ親水性なのかという疑問についても、問を逆転させ、そもそも親水性分子から生命が構成されたからと説明される。昔から生命現象の一つの謎であるキラリティについても同様のスタイルで説明される。

例によって、私にこの説の真贋を判断する力はないけれど、なんだか、とても説得力を感じる。

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生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像

51EnxBfAoFL.jpg 中沢弘基「生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像」について。

生物学では、私の年代の者が高校で習ったことが大きく変わってきている。
その一つは、生物分類で、私の頃は植物界と動物界に大きく二分されていて、だからこそ、ミドリムシなど、ある種の生物については、植物か動物かというような論争があったわけだ。
ところが、今では、原核生物と真核生物に大きく分けた上で、原核生物に真正細菌と古細菌を、真核生物に原生生物界、植物界、菌界、動物界と6つの分類が最上位区分として設定されている。

しかも、キノコなどの菌類は、遺伝子的には植物より動物に近いということで、植物だと思い込んでいた私などはびっくり仰天、マツタケは胞子じゃなくて精子を出すのかと言いたくなる(下ネタ御免。なお、もちろん植物でも配偶子は精子と卵子と呼ばれる)。


また、私が高校のころは存在が知られていなかったというか、そんなところに生命体がいるとは考えられなかったところで、次々に生命体が見つかっている。

海底の熱水噴出孔に棲む生命とか、地中深く、地底微生物というものがいる。宇宙空間から隕石となって落ちてくる微惑星にも有機物がある。

そしてこうした特殊な環境の生命こそ、最初の生命の候補として脚光を浴びたりする。(最初の生命体は無機栄養でなければ理屈に合わない)

その生命の発生についてだけれど、本書でも紹介されているように、昔は、ミラーの実験のように無機物から有機物が合成されて、それが浅瀬などで水分の蒸発などで濃縮されたことなどが可能性として考えられていて、私も高校でそう教えられたと記憶する。

第1章 ダイナミックに流動する地球
第2章 なぜ生命が発生したのか、なぜ生物は進化するのか?
第3章 “究極の祖先”とは?―化石の証拠と遺伝子分析
第4章 有機分子の起源―従来説と原始地球史概説
第5章 有機分子の起源とその自然選択
第6章 アミノ酸からタンパク質へ―分子から高分子への進化
第7章 分子進化の最終段階―個体、代謝、遺伝の発生
第8章 生命は地下で発生して、海洋に出て適応放散した!
私が高校のときは既にDNAが発見されていて、DNAの複製や、RNAを介した蛋白質合成のメカニズムも授業で教えられていたが、その後、DNAは安定だが直接蛋白質合成にかかわらないから、最初の生命はRNAが本態ではないかとRNAワールドというのが提唱された。
あるいは、蛋白質こそ生命の本態と逆転して、スチュアート・カウフマンの自己組織系の話とかが興味を惹いた。

どれもこれも、そのときどきで、もっともらしい説と受け止められている(もっともらしくなかったら説にならない)。
というわけで、生物学の門外漢である私としては、結局、生命はどうやって誕生したのか、と半ばあきらめるような気持ちでいた。

本書では、上述の生命の起源論が一通り紹介され、その難点が指摘される。
そして、新しい生命の起源のストーリーが語られる。
(つづく)

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美女と野獣

P_20170527_145228_vHDR_Auto.jpg 昨日、思い立って、ディズニーの「美女と野獣」を見に行った。

例によって、会社の福利厚生で、700円。
土曜日だし、人気の高い作品なので、満員を覚悟して行ったのだけれど、拍子抜けするぐらい入場者は少なかった。

周知のとおり、この映画は1991年制作のアニメーション版のリメイク、実写化。
音楽は、そのときのものを基本に使っているらしい。
少し前、「題名のない音楽会」で、吹替版で野獣を演じる山崎育三郎氏が、作品の中心的なアリアを歌っていた(上手い)。

実写といっても、CG、特撮が多用されている。家具や食器が見事に踊る。
ディズニーのアニメでは、自然な動きにするために、人間の俳優が演じたものを基礎にアニメを作るという話を聞いたことがあるが、まさか燭台や時計、ポット、衣装ダンスやチェンバロを躍らせるわけにはゆかない。この見事な見せ方はディズニー伝統のように思う。

La bell et le bete 「美女と野獣」といえば、大昔のモノクロのフランス映画、ジャン・コクトー制作のものをテレビで見た覚えがある。
ディズニーのアニメ版も見たことがある。これは生命保険会社の鑑賞会の招待だった。
先日は、新しいフランス映画もテレビ放映されていて、それも見た。

テーマは本当にシンプル、愛は外見ではない。
「人は見た目が10割」という最近のはやりとはずいぶんちがう。
でも、ベル(エマ・ワトソン)は綺麗だし、野獣だって、なかなか美しい。やっぱり見た目?

Crane_beauty5.jpg 映画館でふと気が付いた。スクリーンが湾曲している。
周辺部も迫力ある画面で見られるようにだと思う。
そういえば、LGのテレビには、湾曲ディスプレイを使っているものがある。映画館ならともかく、家の居室でこれはどうだろう。
また、周辺部が歪んで、サッカーやラグビーだとラインが曲がるんじゃないだろうか。

もう一つ、美女と野獣というと、前から疑問に思っていることがある。
それは英語原題。"Beauty and the Beast"で、Beasttheが付いているのは、呪いで姿を変えられた、その野獣ということだろうけど、Beautyは、冠詞が付かないし、複数形でもない。ベルのことを直接的には指さないのじゃないか。

漠然と「美というもの」と「(その)野獣」というような意味なんだろうか。
このあたりの微妙な意味、英語に詳しい人、教えてください。

原作(フランス語)は、"La Belle et la Bête"で、Belleに定冠詞が付いている。
ということは、このBelleは主人公の固有名詞ではないということだろう。
英語とフランス語では冠詞の作用は違うのだろうけど。


【追記】

記事をアップしてから気づいたのだけど、冠詞でわかるように野獣(bête)はフランス語では女性名詞。
代名詞で呼ぶときは、elle(彼女)になるんだろうな。


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京唄子逝く

wst1704070033-p1.jpg 少し前のことになるけど、今年4月6日、京唄子さんがお亡くなりになっている。
先日、テレビで略伝のようなものが放送されていたので、あらためて唄子さんについて、とりあげることにした。

テレビでしか見たことはないのだけれど、唄子・啓助では、ちょっときつい唄子さんである。
俳優としては、めちゃくちゃウェットな伝統的役柄。

UtakoKeisuke.jpg









ChouchouYuji.jpg
高校のとき、美人芸能人といえば誰だと思うというような他愛無い雑談をしていて、私が京唄子なんか美人だと思うと言うと、周囲がのけぞった。
そうかな、大口やというけど(漫才では啓助が「吸い込まれる」というのがネタだった)、ソフィア・ローレンの口も大きいがな、整った顔だちやと思うけどな……、賛同が得られないので、冨士眞奈美(当時は「おくさまは18歳」の渋沢先生で有名だった)は美人だろうと言うと、人格を疑われた。
同級生連中は、岡崎友紀や吉沢京子、高めでは酒井和歌子とかの名前を出していた。

YounosukeKitayo.jpg KouroSachiko.jpg 冒頭のテレビ番組で、ミヤコ蝶々さんが、京唄子さんのところに来て、私の後はあんたに頼むわ、というような話をしたことが紹介されていた。
ミヤコ蝶々さんも、南都雄二さんとコンビを組んで漫才をしていた。漫才と女優業、京唄子さんとたしかに通じる。

夫婦漫才(離縁してからもそれをネタに続けるコンビが多い)といえば、人生幸朗・生恵幸子、島田洋之介・今喜多代なんかも好きだった。いわゆる漫才ブームとは関係なく名人芸。
AzumaHinako59760.gif 今ならなんといっても、宮川大助・花子が最高のコンビだと思う。

女芸人といえば、漫才じゃないけれど、忘れられないのは、吾妻ひな子。女漫談って他にはいなかったんじゃないだろうか。とにかく、独特の口調と間が名人芸だった。

関東には、この人達に匹敵するような芸人はいたんだろうか、全く思い浮かばないが。
こうした芸が、東京の風土に合わないものだとしたら、なんでも東京に靡く時代、もう、こんな芸人は出てこないかもしれない。

唄子さん、あんたの後は?

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三周年記念式典(その2)

P_20170524_192342_vHDR_AutoS.jpg 三周年記念祝賀会の記録のつづき。
昨日だけで十分と考えていたけれど、いろいろ写真もとったので、もったいないので追加。

ブロガーとしては、こういう機会があれば写真を撮るのが当然なのだけれど、メンバーに同好の士がいないときには、堂々と写真を撮るのは、まだまだ修行が足りないので、抵抗感が強い。
その点、三周年記念宴は、そもそもブログの祝いであるし、珍之助さまはもちろん、他のメンバーもFacebookに書き込むということで、写真を撮って当然ということになる。(その割には、遠慮気味で撮ってるので、ブレ写真、ピンボケ写真が多いけど)


まず、右の写真は、宴の口開きのお酒。
「夏酒」ということで、アルコール分が若干低めのものを、冷やして供された。
付きだしに合せて選ばれていると思われ、相性がよい。
私は近代日本酒の標準は雑味のまったくない「大七純米生酛」と思っているのだが、それと比較すると、麹臭が少しあり、感覚的にはやや古式の日本酒のようにも感じる。

P_20170524_200953_vHDR_AutoS.jpg 次の写真の酒は「磯自慢」とある。
この名称は全く別の食品を想起する。

それだけで場がひとしきり盛り上がる。まさか、そういう効果をねらってはいないと思うけれど。

別に磯の香がするというわけでは、ない。

なにより、この写真、珍之助さまなら、エロいと評するだろう。
(だから掲載したわけだけれど)
言葉で表現するなら、

二の腕まで露わにした、白いなまめかしい腕

とか、珍之助さまなら、もっと下卑た表現で、

瓶の口をやさしく握っているところがエロ

とか。
【追記】

既に、それを証明するような記事がアップされてました。


エロとは無縁の私としては、一升瓶をむんずと掴む、その迫力のほうをとらえたい。



P_20170525_225729_vHDR_Auto-crop.jpg さて、次の写真は、これを忘れちゃ罰が当たるでしょうという、この日、私にくだされたお土産。

まだ開封していないのでわからないのだけれど、薄茶色の包は、クッキーらしい。
N市名物の「鉢かづきちゃん」は、お土産じゃなくて、この日、最後にみんなで分けていただくところ、私は持ち帰りしたもの。

上で、近代日本酒の標準と称した「大七純米生酛」も、お土産にいれていただいていた。
四合瓶。一升瓶では持ち帰りが大変だろうとご配慮いただいたのに違いない。

前に、めずらしくディスカウント・ストアに出ていたので買った大七純米生酛は、保管の仕方が悪かったのではないだろうか、変な苦味があった。
ディスカウント・ストアといえど、酒を専門にしているのなら、そこはきちんとしなければならんのじゃないか。しかも、値段は別に安くなかったし。

P_20170525_225911_vHDR_Auto-crops.jpg
最後の1枚は、御前さまから、私だけに、いただいたハワイ土産。

"ISLAND PRINCESS"と書いてある。
御前さまにぴったりのネーミング。



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三周年記念式典

P_20170524_183808_vHDR_Auto.jpg 昨夜は、珍之助さまのご厚情により実現した、
「語り得の世界」三周年記念祝賀会

珍之助さまの表現では、「女子肉林」。


まずはわかりにくい(こともない)お店の看板。

P_20170524_183910_vHDR_Auto.jpg
座が乱れる前は、上品なテーブルセッティング。
内庭も風情があって、飲む前にはしっかり鑑賞します。

そして、ここからは「女子肉林」画像。
マスクは、以前、珍之助さまブログの10執念記念宴で、残ったもの。
P_20170524_210556_vHDR_Auto.jpg P_20170524_215633_vHDR_Auto.jpg P_20170524_215724_vHDR_Auto.jpg
ひめ。
さすがの貫禄。
御前
「語り得の世界」読者総代。
マスクをつけてると、実に若々しいギャルですな。
いや、はずしてもですが。
アンジー
カメラにポーズをとるような人ではないのです。
瞬間を切り取った貴重な画像。
マスクで個人同定は難しいと判断してアップしましたが、知ってる人にはバレるでしょうな。

料理、酒、どちらも満足できるものでしたが、それについては、多分、珍之助さまのブログで速報されていることと思います。

祝宴にご参加いただいたみなさまに、ブログから感謝の意を表します。
とりわけ、すべての差配をいただいた「ひめ」、そしてお店に。

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「外来種は本当に悪者か?」(その3)

またまた、フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?」をとりあげるのだけれど、今日は、この本でとりあげられている意外な、少なくとも私は知らなかった驚きの話。

アマゾンの観光ガイドも環境保護論者も「アマゾン川の両岸に広がる熱帯雨林は、何百万年も前からまったく変わっていません」と言う。
ところがこれがそうじゃないんだそうだ。
25315014955amazon.jpg
1542年、スペインの征服者フランシスコ・デ・オレリャーナは、アマゾン川を下って全距離航行に成功した。河口から1100キロ、支流ネグロ川との分岐点の近くを通ったときのことを、彼は日誌に記している。「川岸に、24キロにわたる大きな町があった。家々がすきまなく並ぶ様子は壮観で、よく整備された幹線道路が内陸部に向かって何本も延びていた。川岸から10キロほど入ると、ほかにも白く輝く大きな町がいくつもあり、周囲に広がる農地は肥沃で、スペインと何ら変わらなかった」

都市の外側に広がるジャングルも原生林ではなく、少なくとも一度、おそらく数度にわたって開墾され農業が行われていた。世界最大の熱帯雨林は、つい500年前までは都市とその郊外だったというのである。

その都市や農地が放棄されたのは、もちろんヨーロッパ人が入り込み、疫病を持ち込んで原住民の多くを死に至らしめ、国・経済活動を再建することができなかったからだろう。
上述のような記録だけでなく、現代に実際に行われた調査では、ボリビア領内のアマゾン川流域で、3万キロにわたる盛り土を発見しているという。

今は熱帯雨林に取り残されたようなアンコールワットも同様である。建設当時は立派な都市文明、そしてそれを支える農業が広く行われていたはずである。

熱帯雨林で文明が発展しなかったと考えられてきたのは、熱帯雨林の土壌は痩せているという常識があったからである。私もそう聞いて来た。ところが、アマゾン川流域には土壌が肥沃なスポットが点在していることがわかった。そしてそのスポットというのは、熱帯雨林本来の酸性のやせた土に、炭になりかかった植物の燃えかす、それに腐葉土が混じったものだそうだ。どうやら人間の活動がからんでいるらしい。2500年前の陶器の破片などが見つかっているという。何千年もの間、ここでは農業が行われていたというのだ。

sabanna.gif 次はアフリカである。
ゾウやライオン、シマウマなどが悠然とたたずむアフリカの「原風景」。それがヨーロッパ人が乱獲し、アフリカの人口増によって失われていく、惜しいことだ、というのが大間違いなのだそうだ。

上述のような「原風景」というのは、せいぜい130年前にできたものに過ぎないのだと。
列強による「アフリカ分割」のまっただなか、1887年、イタリア軍がアフリカに上陸したときに連れてきた牛に、牛疫ウィルスが便乗していた。
そして、1890年にはイギリス軍の将校が「人間の記憶のなかで、あるいは伝統の声の中で、これほど多くのウシが死に、野生動物が倒れたことはかつてなかった」と書き残しているという。

牛疫の流行は当初は、ウシの血を吸うツェツェバエに不利だったが、草を食む動物がいなくなったことで、牧草地だったところはあっという間に林や茂みに姿を変えた。ツェツェバエの幼虫が育つ環境だ。さらに野生動物は家畜のウシより個体数の回復が速かったため、ツェツェバエはその血を吸うことができた。これによりツェツェバエは急速に広がる。トリパノソーマとアフリカ睡眠病も一緒に。
これにより、生態学的革命が起きた。負けたのは人とウシ、勝ったのは野生生物だ。牧草地がなくなり、ウシの姿が消えた土地に灌木がしげり、野生動物がよみがえった。
アフリカの「原風景」というのは、人間が導入したウィルスの産物である。

アフリカには生態系が2種類ある。1つは農民と牧畜民が主体で、灌木もツェツェバエもしっかり抑え込まれている生態系。もう1つは、西洋人がイメージする「原始のアフリカ」で、灌木が茂り、ツェツェバエが飛びかう生態系だ。後者のほうが新しい。

牛疫で疲弊しきったアフリカ大陸には、もはや植民地化に抵抗する力は残っていなかった。
人間の生態系も大いに攪乱されてしまった、そういうことになる。

なんだか「外来種」ってヨーロッパ人のことと言いたいようだ。ただしこの外来種は悪者みたい。


DSC017281.jpg もう少しおとなしい事例も紹介されている。
フロリダのエヴァグレーズ国立公園には、点々と豊かな生態系があるスポットがあるが、それはかつてここに暮らした人間のゴミ捨て場なのだそうだ。

次は、日本でも普段から良く感じることで、驚くようなことではないのかもしれないが、イヌ、ネコはもちろん、人家が居心地の良いネズミとかゴキブリとかは当然のことだけれど、もっと野生野生している動物にとっても、都市は案外住みやすいところらしい。
野生動物=野生が好きというのは単なる人間の思い込みにすぎないという。

ゴミあさりなど、人間の生活と密着している場合もあるし、廃墟になった街でもその遺構は恰好の棲家になる。
チェルノブイリの例が紹介されているが、人が居なくなったチェルノブイリでは、どんどん野生動物が増え、人間の作った建物や設備を利用して大いに繁栄しているらしい。例外は人が捨てる食品ゴミに依存していたブタとかで、そうした動物はあまり増えないらしい。

昨年あたり、クマが里に下りてきて悲惨な事件を起こしている。天候不順で山に食べ物がなくなって下りてこざるを得ないということらしいが、案外、クマにとっても街が棲みやすいかもしれない。
先日、京都のホテルに闖入したイノシシとか、あちこちの水路に棲むタヌキなどは、街の方が棲みやすいのではないだろうか。人間だって「都市型狩猟採集民」なんてのがいる。


こうした意外性のある事例がいろいろ紹介されているが、理論という点でも驚きがある。
それが「共進化」という考え方。

本書も共進化を否定しているわけではないのだけれど、そもそも進化自体がゆきあたりばったりのものならば、徐々に共進化が進むばかりではなく、突然の出会いを否定する理由もない。てっとり早く、気に入った相手を見つけてパートナーになることがズルいとか、手抜きと言われる筋合いはないわけだ。
たとえて言えば、夫婦がお互いを高め合うというのが共進化なら、本書では、恋人選び・結婚、つまりたまたま相手が気に入って共生関係ができている例を指摘する。
在来種と外来種の関係はもちろん後者だ。中にはストーカーもいっぱいいるだろう。

そしてとうとう生態系というものの意義について疑問が出される。
生態系というのは、一定の空間を占め、そこに入る光や地熱、水や土地などの化学的資源の出入り(物理化学的エネルギー)があり、そこに多様な生物が棲み、エネルギーの連鎖が見られる、その総体を指す言葉と理解している。

従来、生態系は、本来、安定的な平衡状態に向かうものと想定されていて、その平衡状態にある状態は極相と特別な言葉で呼ばれる。これが環境保護論者の立ち位置だと思う。
ところが、本書が指摘するような外来種がアタリマエという状態となると、予定調和的な生態系、平衡状態の生態系というものを設定する意義自体が失われる。

つまるところ、生態系というもののとらえかたに、両者の対立が凝縮しているように思う。
予定調和の美しい世界、それは素敵だ。しかし、それは幻想かもしれない。
さて、どちらが正解なんだろう。

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「外来種は本当に悪者か?」(その2)

フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?」について、著者が言う「侵入生物学は科学じゃない」という論点を中心に、Amazonレビューでの否定的意見を対照しながら、整理してみる。

第1部 異邦人の帝国
第1章 グリーンマウンテンにて
世界中から持ち込まれた動植物
外来種が高めたアセンション島の生物多様性
在来種vs外来種、仁義なき戦い
アリたちのスーパーコロニーと消滅
外来種は本当に悪者か?
 
第2章 新しい世界
外来種も病原菌も人類の旅のお供
動植物の順化と「脱走」
ホテイアオイとナイルパーチが増えた真の理由
驚異の木「メスキート」の悲劇
 
第3章 クラゲの海
船のバラスト水、海洋博物館からキラー生物
ほんとうの原因は人間による環境破壊
長い時間軸でとらえると在来種などいない
 
第4章 ようこそアメリカへ
タマリクス、熱狂的な期待のあとの転落
よそ者の貝が水質を浄化してくれたエリー湖
外来種にさらされても多様性あふれるサンフランシスコ湾
ペット出身の外来種たち
外来種排斥という陰謀の不都合な真実
 
第5章 イギリス―イタドリにしばられた国
ヴィクトリア朝ワイルド・ガーデンの末裔
かわいらしい外来種は許される?
 
第2部 神話とドラゴン
第6章 生態学的浄化
イタチごっこのネズミ捕り
袋小路に入る外来種駆除の取り組み
ワニも食べつくすオオヒキガエルが市民権を得るまで
民族浄化ならぬ生態系浄化の狂信ぶり
 
第7章 よそ者神話
偏見と詭弁がはびこる侵入生物学
外来種被害のずさんな算出方法
経済効果の高い外来種には触れていない
 
第8章 “手つかずの自然”という神話
森林の奥地に栄えた文明は無数にあった
牛疫ウィルスとツェツェバエが起こした生態学的革命
 
第9章 エデンの園の排外主義
ダーウィニズムと完璧なる自然
エコロジカル・フィッティングという手がかり
外来種悪玉論からの改宗と周回遅れの環境保護運動
 
第3部 ニュー・ワールド
第10章 新しい生態系
自然回復のきっかけをつくるコロナイザー
新しい生態系の復元力を認める
ほとんどの荒れた生態系は回復している
 
第11章 都市の荒廃地で自然保護を再起動する
都市の荒廃地にあらわれた楽園
驚くほど都会暮らしを楽しむ野生生物たち
野生生物の天国、チェルノブイリ
旧来型の環境保護は自分の首を絞めている
 
第12章 ニュー・ワイルドの呼び声
スーパー・スピーシーズ
それでも古い時代に自然を戻そうとする人びと
管理なき自然を求めて
■外来種が生態系を破壊する
こうした事例があることは本書も否定しない。
たとえば、イースター島に高木が繁茂しないことについて、定説では人間が採り尽くしてしまったからということになっているが、本書では人が持ち込んだナンヨウネズミがヤシを枯らした説が紹介されている。
そのほか、主要な外来種被害が数多く紹介されている。

つまり著者は外来種が悪さをすることを否定はしていない。
それどころか、人間が持ち込んだ外来種によって、生態系が攪乱され、まったく異なるものになった事例を紹介し、「手つかずの自然」などは存在しないことの論拠としている。

■外来種が入って生物多様性が増えることはなく、絶滅する種の分、多様性は下がる
生物多様性は種数だけではないということだけれど、その議論は実はもっと難しい、種とは何かに関連する。ここはナイーブに種とは異なる生き方や遺伝子プールの生物群というぐらいに考えておく。

たしかに絶滅する種があれば、多様性が下がるということになるだろう。そして完全に調和的な生態系が営まれて居たら、その一つの種の絶滅が他の種の絶滅を呼び、結局、生態系全体が死滅する、そうしたシナリオが描かれてきた。
だが、事実はそれとは違うことが多い。

本書が指摘するのは、外来種は、既存生態系が弱っているところ、そこをニッチとして入り込むことが普通である。つまり外来種の侵入を許すのは、すでにその生態系自体に何か問題があるからだという。
さらに、外来種が入り込むことによって、停滞していたその場所が活性化されることで、在来種が復活する事例を多くとりあげている。
多くの場所で、外来種を駆除すれば、在来種も生きていけないという状態が現実であると指摘している。

また、こういうシナリオもある。
きれいな水にしか済まない生物Aと、少し汚れたところが好きな生物Bがいるとする。きれいな水の場所があってAばかりが棲んでいた。しかしどういう原因か、人間が汚したのかもしれないが、水が汚れてきた。するとBがここへ入ってくるようになった。
これって外来種が悪いのか?

そして本書のタイトル、ニュー・ワイルドとは、外来種によってしたたかに多様化する世界を指す。
それは1種の外来種が入ることで1種増えるというだけではない。近縁の在来種との交雑により、新種が相当のスピードで生まれるという観察結果があることも指摘される。
安定していた生態系が攪乱されると、一気に進化(適応放散)が進むという主張である。

これが保護論者には絶対に許せない現象だろうと思う。


■外来種は多大な損害をあたえる
本書は、まずその根拠がきわめて薄弱だということを指摘する。
ごく局所的な損害を、その区域の面積を全地球の面積に拡大して得られるのが外来種が地球に与える損害額としてまかり通っていることを指摘する。しかも、ネズミによる食害なども損害額に含まれるが、根拠となった地域における外来種ネズミの食害が、どうして全地球に拡大できるのか理解できる人はいないだろう。

そして、さらに外来種が与える利益を計算していないのは不公平だとも言う。
なお、外来種の損害額とされるものには、外来種を駆除する費用が含まれているようだから、一体、何を計算したのだろうというわけだ。
そして外来種駆除に莫大な税金が投入されるのだが、これは外来種が悪いのか、外来種=悪という教義が悪いのか。

■外来種が駆除できるか
著者は、小さな島などでの特殊な事例を除いて不可能であると言う。
環境保護論者は、まだまだ努力が足りない。いくら難しくても、もっと駆除に努力をしなければならないと言う。
外来種駆除のために撒かれた毒薬が在来種を減らしたとしても、外来種駆除の暁にはそれらはまた復元するから、いくらでも毒薬を撒けばよい。

P_20170521_120007_vHDR_Auto.jpg 最後のいくらでも毒薬を撒けというのは、あまりに行き過ぎの純血主義で空恐ろしいと思う。
そもそも、前述のとおり、駆除コストはどう考えているのだろう。それと見返りに得られるものは。

人為的に純血主義を守っている「自然」というのは、そのことですでに自然ではない、本書はそういう言い方もしている。

もちろん守る値打ちのある生態系は人為的にでも守る必要はある。しかしそれは「自然」ではないという意味。



自然の湖沼を再現するアクアリウムというものがある。
コンラート・ローレンツの「ソロモンの指環」で紹介されていたものだが、この水槽には、水生植物、プランクトン、小さな魚、掃除屋の貝などが入っていて、適切な温度と照明を保つことで、完結的、平衡的な生態系を実現する。水槽の管理者はときどき水を補充(蒸発するから)すること、観察のためにガラス面を掃除するだけで、餌も与えない。そうやって、スイスの湖と、アマゾンの泥水を隣り合う水槽に作ることもできるという。
P_20170521_114552_vHDR_Auto-green.jpg そして、さらにローレンツは言う。この水槽に、ちょっとさびしいと、小魚を一匹追加したとたん、その水槽は腐った水に変わってしまう。

このようなイメージが環境保護論者には強いのだろうと思う。
しかし、自然というのは、小さなアクアリウムのように柔なもの、腫物にさわるように扱わなければならないものだろうか。

かつて特定の魚の生息状況が調べられていた。
これはその魚を保護しようというものではなくて、その川の水質の指標とするものだった。BOD(生物学的酸素需要量)が保たれているかを見るのに、その魚の食性を支えるより小さな魚やプランクトンがちゃんといるのか、そういう理屈である。
納得できる指標である。

これに対し、生態系を守るというのは、本当のところ良くわからない。
良くいわれるのは、食物連鎖の頂点にいる生物が、従来通り生きていけることは必要条件らしい。オオタカなど絶滅危惧種の大型猛禽類などが注目される。
食物連鎖、より広くは生態系のネットワークのどこかが変調をきたしていれば、そうした生物も生きていけないという理屈である。

ところが、在来種が単純に外来種で置き換わると、つまり生態系のネットワークの1要素を完璧に入れ替えていたら、そうしたことは起きない。生態系としては安定なままなのではないだろうか。
そんな都合のよい、コンパティブルな種なんていないと言うかもしれないが、必ずしも単一の種である必要はない。ネットワークが維持できるように入れ替われれば良いのである。そして、外来種が入っても、あんまり違っていないというのは、生態系としてはそれを受け入れたということであろう。

揖保川のアリゲーターガーの話や、琵琶湖で在来魚がブラックバスなどに追い立てられて数を減らしているというような話には、やはり不快感を持つ。現実に、琵琶湖では鮒ずしの原料になる鮒がとれなくなってきたというような話もあるらしい。それはまずいだろう。(誰だ、ブラックバスを琵琶湖に放流したのは。)

その一方、子供のころから、道端で目にするタンポポはセイヨウタンポポ。
どぶ川で捕っていたのはアメリカザリガニ。
それで何も疑問に思っていなかった。

結局のところ、本書でも指摘されているように、素朴に、

カワイイから許す、役に立ってるから許す、悪いことはしてなさそうだから許す、
俺たちが利用している生物資源を荒らす(つまり競合する)から、許せない、

というヒトのワガママ、

自然はアリノママ守らなければならない、

というヒトのワガママ、どこまでいっても平行線かもしれない。

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外来種は本当に悪者か?

kob_origin_1_1.jpg 先日、兵庫県の揖保川で、北アメリカ原産の巨大肉食魚アリゲーターガーが捕獲されたというニュースがあった。

アユやウナギを食い尽くすのではないかなどと心配されていて、従来から駆除に努力していたのを、釣り上げてくれた人がいたということらしい。
アリゲーターガーは日本各地で目撃されているが、観賞用に飼育されていたものが放流されたものらしい。

私もこのニュースは喜ばしいことだと思っている。
小さな水系の場合、アリゲーターガーのような魚の場合、在来魚を食い尽くし、次は自分自身が飢え死にするかもしれず、そうなら、ガーは繁殖に失敗し、長期的に見たら元の生態系が回復するかもしれない。
とはいうものの、もちろん短期的な人間に対する損害を放置することはできないから、この場合、駆除は正しいと思う。

51PbfPBOBOL.jpg であるけれど、常に外来種の駆除が正しいのかということに、疑問をつきつける本もある。
フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD」である。

評価が分かれている本のようだ。
しかし、Amazonにアップされている否定的なレビューには、ちゃんと読んだのか怪しいものも多い。

著者は、外来種をどんどん導入せよと言っているわけではないし、在来種の価値を否定しているわけでもない。
在来種の価値を無視していると批判するのなら、保護論者は外来種の価値を計算に入れないという著者の指摘に答えなければならないだろう。
自説に都合の良い論文、データばかり引用していると批判するなら、著者の、従来の外来種の「悪事」の論拠とする論文・データは怪しいものばかりという指摘に反論し、論拠を示すべきだろう。

たしかに本書での「環境保護論者」への批判の筆致はかなり攻撃的である。
それは、外来種=悪という教義の下、それへの疑いを差し挟めば直ちに攻撃され、学会からは無視され、言いたいことも言えなかった、そうした人々の憤懣、反動がベースにあるからだと思う。売り言葉に買い言葉的な。

環境保護論者にしてみれば、著者が攻撃する理屈を(今も)主張しているわけではない、お門違いの批判だと言いたげな意見もあるようだ。しかしそうした理屈が優勢という状況が少なくとも過去にはあったのではないだろうか。
実際に無駄ではないかという駆除費用が世界中で支出されているのだから。
本書の巻末解説を書いている岸由二氏によれば、本書が批判する環境保護論者の論説は、既に学会内でも旗色が悪くなっており、新しい保護理論が求められているという。想像するに外来種駆除の投資効果に疑問が出始めているからではないだろうか。


また、実際に駆除に関わっている人からすれば、仮にこの本の主張が正しいとしても、それが曲解されて、一般に外来種駆除を否定するような言説がまかりとおることには我慢がならない、反射的に否定したくなるとも想像できる。

筆者は生態学者とかではなくて、この問題に関わってきたジャーナリストである。
以前は保護論者の側にいて、外来種の危険を宣伝する側にいたらしい。
しかし、問題に関わるうちに、どうも真実は違うようだと感じ、今まで圧殺されてきた異端の研究、研究者に接するうちに、外来種=悪の呪縛から逃れたらしい。みんな早く、その教団から逃げなさいと言っている。

ただ、書評を書くにあたって、ことわっておくが、私も生態学の知識を持っているわけではない。だから、本書と、それを批判する意見のどちらが正しいのかという点については、判断できない。それぞれの論理破綻を見てとるしかない。
だから、著者を批判するなら、自らの教義と異なるということを理由にせず、きちんと科学的にやってもらいたい。
著者は「侵入生物学」などは科学ではないと言い切っている、それへの反論を期待したい。

本書の要点やレビューにみられる批判についてのコメントは、長くなりそうなのであらためて。

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法事

20170520IMG_0132-crop.jpg 昨日は、身内(実母と実兄)の法事。

実兄が実母より1年半ほど早く逝ったのだけれど、それぞれ法事をするのもなんなので、一緒にしようということになったもの。
前回の法事では、親戚などももっと広く来てもらったけれど、今回は家族だけで、小ぢんまりと。

法事の会場でそのまま中華料理(会場が中華料理店の宴会場)。
コース料理じゃなくて、一品料理を適当に。

車で行ってたので、アルコールが飲めなかったのが残念。

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ストラディバリウス負けた!

ストラディバリウス負けた!聴衆は現代製に軍配
【ワシントン=三井誠】数億円の値段がつくバイオリンの名器「ストラディバリウス」と、現代のバイオリンの演奏を聴衆に聞かせると、聴衆は現代のバイオリンの方を好むとする実験結果を、仏パリ大などの研究チームがまとめた。
 論文が近く、米科学アカデミー紀要に掲載される。
 このチームは5年前、ストラディバリウスと現代の楽器を弾いた演奏家でも、音の評価に大きな差がなかったとする研究を同紀要で発表している。チームは今回の研究で「バイオリンの作製技術が上がったのか、あるいは一般に信じられているほどの音色の違いがなかったのかもしれない」とコメントしている。
 実験は、パリ郊外と米ニューヨークのコンサートホールで、音楽の批評家や作曲家などを含む聴衆計137人の前で行った。ストラディバリウス3丁と現代のバイオリン3丁を、演奏者にはどちらのバイオリンかわからないようにしてソロで弾いてもらい、どちらの音色がよく響くかなどを、聴衆が評価した。
読売新聞 5/9(火) 7:42配信
昨日に続いてバイオリンの話題。
ネットでニュースを見ていると、ストラディバリウスと現代製のバイオリンのブラインド・テストを行った結果、現代製の方が好ましいという評価が出たという記事が目に入った。

聴衆がどのぐらいクラシック音楽、とりわけバイオリンを聴き慣れているのかなども評価に影響するだろうと思うのだけれど、記事によると、音楽の批評家や作曲家なども含まれるという。
アメリカでの実験結果だというから、"Stradivarius modern violin test"でググってみると、今までも同様の結果が出ているらしい。しかも、演奏家にも区別できないという結果も報告されている。

Stradivarius Fails Sound Test versus Newbie Violins (Scientific American)


ストラディバリウスが名器というのは定着した評価で、それ自体は今後も変わらないと思うけれど、現代製のバイオリンが、それに追いついたということなのかもしれない。
ストラディバリウスを研究して、その再現を図ったという話もある。木の材質、構造など寸分違わぬように作っても、ニスがどうしても再現できないというような話を聞いたことがある。

同じものを作る努力はともかくとして、聴衆が良い音と感じるものから、その音を追求するというアプローチもあるだろう。
良く言われるのは、倍音の豊かさである。
基音しか出ていなければ、どんな楽器の音も同じになるわけで、倍音の出方が楽器の音色を決めるわけだから、これは納得できる。ただ、単に豊かであれば良いわけではなくて、何次倍音が多く、何次倍音が少ないのかということが音色を決めるはずである。クラリネットの独特の音色は、偶数次倍音がないことによると言われている。

安物のオーディオだと、クラリネットかフルートかオーボエかわからないような変な音になることがある。一つ考えられる原因は、スピーカーが高調波に追随できない、あるいは変な分割振動をするため、本来の楽器音が再現できていないことだと思う。


mozart_violin_concerto_no_3.jpg そのほか不規則振動も影響しているかもしれない。響板が分割振動したら(極端な場合、割れていたらそうなる。もちろん不快な音だけれど)、違う音になるはずである。

何が良い音かわからなければ難しいけれど、ストラディバリウスという目標があれば、それに近い音を目指すというのはアプローチの方法としてアリではないだろうか。

midiなどで楽器音のスペクトルデータが出ているけれど、これでその楽器の音色になるかといえば、案外そうでもない。アタックやディケイ、サステインなどのエンヴェロープは別だし、やはり演奏となると、その一瞬一瞬のゆらぎ、息づかいというものが入って楽器の音になる。スペクトルの再現だけではできないだろう。


楽器の音の違いというと、フルートでは、管の材質の違いが良く話題になる。
曰く、洋銀(銅、亜鉛、ニッケルの合金)は軽くて安っぽい、銀は重厚、金ははなやか、など。
ただ、これもブラインドテストをやると、管体の材質の違いはわからないという結果になる。音色の違いは管の材質より、演奏家の違いの方が遥かに大きい。

原理的にフルートの音は空気柱の振動であるから材質は無関係と思われる。材質が問題となる管体も少しは振動する(それは唇や指に感じる)けれど、その寄与はそう大きくないと思う。


現在、プロ・フルーティストの多くは、金製のフルートを使っているようだけれど(金製のフルートというとランパルがその嚆矢じゃないだろうか)、20世紀最高のフルーティストといわれるマルセル・モイーズは洋銀のフルートを使っていたことは有名である。

金のハンドメイドだと1000万円以上するものも多いけれど、「芸能人格付けチェック」で、5万円ぐらいの大量生産品と比べてみたら面白いと思う。

思うに、材質が音に与える直接的な影響はほとんどなくても、楽器職人がその材質にどれだけ慣れているかなど、加工にかかる問題が大きいのではないだろうか(洋銀は加工しにくいらしい)。視覚的印象もあるだろうけど。

私? もちろん洋銀製である。ローエンド製品。
洋銀製が一番重量が軽くて、疲れにくいからである。


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クモの糸でバイオリン

kumo_no_ito_de_violin.jpg 大崎茂芳「クモの糸でバイオリン」について。

この本は、岩波科学ライブラリーのなかの一冊。このシリーズは、モノグラフというのか、テーマを定めて書かれているものが多く、とても読みやすい。著者はモノ書きが商売の人じゃないようだから、編集者の力量もあるのだと思う。


さて、「クモの糸でバイオリン」だけれど、著者は生体高分子が専門のようで、その意味ではクモの糸は守備範囲にもなるわけだが、生きているクモとなると全くの素人で、音楽の方は、バイオリンを触ったこともないという。

というわけで、「クモの糸でバイオリン」は思いつきとしてはありえるものの、それを実行するには、クモの糸を手にいれなければならない。それには生きたクモを手に入れなければならず、クモが居る場所を探すところから始まる。それも、不思議なことだが、クモの生息場所の情報をネットその他で調べてピンポイントで訪れるのならともかく、どうやらクモなんてどこにでもいるという思いこみで始めたために、いきなり、生きたクモを集めることでつまずいたということである。

思えば、クモってあちこちに居るといっても、それは種を問わなければという話であって、実験に向いた特定の種となると、生息場所は限られるだろう。もっとも、実験に向いた種を選びだすには、いろんな種類のクモで試す必要があるわけで、そうなるまでは、手当たり次第に集める時期もあるだろう。


迂遠なエピソードからはじめたが、その後、クモに長い糸を出させる苦労とか、結構、寄り道する。
これがまた楽しそうなのだ。

そうやってクモの糸が手に入れば、さすが高分子の専門家、化学情報には詳しいし、解析機器も思う存分使える立場である。さらに、クモを集めたり、糸を取り出すのに「無償労働力(学生)」の協力も得られる。

そして、表紙に見えるとおり、ぶら下がり、トラックを牽き……、次はバイオリンだ!
そして生まれて初めてバイオリンを手にし、音楽教室に通う……
ここでも、どういう伝手があるのか、飛び込みなのか、音楽大学へいって教えを受ける。なんと最後は、ストラディヴァリウスにクモの糸の弦というところまで行く。

violin_string_microscope.jpg ところで、普通に使われているバイオリンの弦は巻線といって、ガットやプラスティックの繊維束を芯として、そのまわりをアルミや銀などの線でぐるぐる巻きにする精緻な構造である。

ところが、肝心のクモの糸の弦について、最終的に弦にしたときの構造は本書には書かれていない。

クモの糸の繊維を束にすると亀の子状に隙間のない構造になることが解説されていて、これが弦の強度に貢献しているとのことだけれど、このまま弦として使うんだろうか、このままでは弾いたときに繊維がほどけてしまうような気がするのだけれど。
ひょっとして企業秘密?…んなわけないか。

面白くて一気に読めるだろうから、これ以上は本の内容については書かないけれど、著者も言っているように、こんな何の役に立つかもわからない研究は、趣味だからできるもの。

バイオリンの弦に限らず、クモの糸を何かに使おうということ自体、普通の神経じゃないから、海外でもこんなことをする人がいない(したがって参考文献も少ない)という。
spider-man_promo_12t.jpg

もっともクモの糸の強さはスパイダーマンで実証済みだから、バイオリンの弦はともかく、研究対象にしてもおかしくない。軍事企業「オズコープ」が研究しても良さそうに思うけれど。


しかし、こうやってできあがったクモの糸のバイオリンは、世界中で大評判になる。そのドタバタ、マスコミ取材の裏話なども本書で触れられている。(BBC Newsの記事へリンク

■関連リンク

この研究が掲載された「フィジカル・レビュー・レターズ」で要約を読むことができる(会員登録してないと要約のみ)。
・Spider Silk Violin Strings with a Unique Packing Structure Generate a Soft and Profound Timbre/Shigeyoshi Osaki - Phys. Rev. Lett. 108, 154301 – Published 11 April 2012

著者による解説がネットでも流れている。
・クモの糸でヴァイオリンは弾けるのか? -大﨑 茂芳

クモの糸のバイオリンの音もネットで見つけた。
・クモの糸の弦のバイオリンの演奏


できれば、クモの糸のバイオリンを、人間の髪の毛の弓で、松尾依里佳さんに弾いてもらえないかな。

人間の髪の毛の弓は「探偵ナイトスクープ」でやってた。


関心を持ったテーマがあり、探究心、間違いをおそれない勇気-ただし間違いから学べる謙虚さ、基礎的な理科知識、情報源を渉猟するセンス、つまり、科学マインドがあれば、世界中の人を驚かせる研究成果をあげることができるという実例。
未知のものに臆せず挑む、応用力のある学力を目指すというなら、そのお手本になる研究。

ただし、文科省はどう考えてるんだろう。
公費を使わずに趣味でどんどんやってください、趣味を楽しめる程度の給料は払ってるでしょ、
あ、研究設備の目的外利用はダメですよ、なんてことはないだろうな。


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ニコチンなし、タールなしの煙草の代用品

2017-05-17_113841.jpg 煙草のような形状をしている、フレーバー吸引装置を購入した。
商品名は"FLEVO"、カートリッジに封入されているフレーバーを加熱蒸発させて、その蒸気を吸引するというもの。

ネットを見ていると、どんな情報に興味があるかサイト側に推測され、いわゆるターゲティング広告が表示される。
その広告で目に入ったもので、安かったので衝動買い。

スターターキットというものが980円(税別)。
加熱器本体、本体を充電するUSBアダプタ、それにお試し用という位置づけで、カートリッジが2種類×1(計2本)。

ネットはもちろん、通常の報道でも用語がかなり混乱していて、これを電子たばこと呼んでいる人がいるが、これは電子たばこと呼ぶべきではない
欧米で多く出回っている、いわゆる電子たばこは、香料を加えたニコチン液を加熱して、発生するニコチン蒸気を吸引するものである。日本では薬事法の規制を受けるはずで、現時点で国内販売はないと思う(並行輸入などはあるらしい)。
また、このブログでも何度もとりあげたiQOSやプルームは、電気加熱式タバコと呼ぶべきもので、煙草を燃焼させず加熱して発生するニコチンを含む蒸気を吸引する。これはタバコであり、たばこ税がかかる。

加熱式というのは新しいように思われるけれど、阿片やマリファナでは昔から使われている吸引方法である。
阿片は直接火を点けるものではなく、シャーロック・ホームズも、阿片吸引器であぶって吸っていたと思う。
マリファナも、昔NHK教育テレビで見たのは、金属製の小皿に載せたマリファナをランプで温めて、出てきた蒸気をストローで吸いこんでいたと記憶する。なお、私はどちらもやったことはありません。


対して、FLEVOのフレーバーにはニコチンもタールも含まれない。禁煙パイポと大差ない。
従ってタバコ税はかからない。薬事法ではなくて、せいぜい食品衛生関係の安全性確認ぐらいのものだろう。

つまり、ビールとノンアルコール・ビールのような関係である。
ノンアルコール・ビールには酒税はかからない。


煙草はやめられない人が多いといわれ、依存性、あるいは習慣性があるとされる。
ニコチン依存という薬理作用であるが、生活習慣の問題もあると言われている。
つまり、考えがまとまらないときに鉛筆をいじったりするのと同じように、タバコを咥えるというもので、癖と言って良いようなものである。

この2つの習慣性の両方を同時に排除するのは難しいだろうから、まずどちらかを我慢し、その後にもう一方を排除するという禁煙指導が行われたりする。
ニコチンガムやニコチンパッチなどは、ニコチンを補給しつつ、生活習慣を変容させようという方法である。
(禁煙プログラムでは、最初に自分の喫煙習慣を確認しようという指導があるのが多いのでは。)

本商品、FLEVOなどは、生活習慣はそのままにして、ニコチンの依存性を絶つというアプローチである。

ネオシーダーという煙草と同じ形状・使用法の薬がある。私も試したことがある。火を点けて吸うわけだが、これもニコチンを絶つものだと思っていたら、どうやら微量のニコチンが含まれ、タールは煙草以上らしい。
(紙を燃やしてもタールは出ると思う。以前、魚の焦げががんの原因と騒がれたことがあって、焦げたところを取り去って食べるという話があったけど、サンマを真っ黒に焦がしたやつを毎日10本ぐらい10年以上食べ続けたらガンになるかもしれないとかいう話だったように思う。)
なので、そういう使い方はできない。禁煙補助具にもならないということらしい。


ただ、私が思うには、喫煙が悪いという立場ではなく、喫煙で摂取される化学物質が悪いという立場であれば、ニコチンやタールを絶てば良いという理屈だから、FLEVOのような商品は、煙草代用品として、継続使用することに問題はないと考えるのが合理的ではないだろうか。(もちろんFLEVOには健康影響がないという前提で)

しかし、化学物質がどうこうとかではなく、煙草はとにかく悪であるという絶対禁煙家にとっては、許しがたいことだろう。

今でもあるのかどうか知らないが、紙巻タバコに似せたチョコレートがあった。
これは大人になりたい子供向けに工夫された商品で、煙草の代用品にはならない。そして子供が煙草に憧れるおそれがあるという理由で、子供のころから煙草を否定するよう教育しなければならないとする絶対禁煙家には許しがたい商品だろう。

さて、FLEVOのようなフレーバー器具が困るのは、それがまさにフレーバーを放出することだろう。
フリスクやミンティアだと、味・香りは、食べている人だけの問題だけれど(傍によって口臭を嗅ぐなどしなければ)、フレーバー器具は周囲にフレーバーを発散するので、臭い被害というものが起きる可能性がある。

風呂に入っていない人間の臭いは耐えられない。
きつい香水の匂いもイヤだ(悩殺されるような香水も困りもの)。
ここまでは許せるが、煙草の臭いは、それらをはるかに超えて不快な臭いで許せない。


また、タバコには、煙が立ち上るという視覚的な楽しみ方もあると思う。それをフリスクで代用というわけにはゆかない。
しかし絶対嫌煙家にしてみれば、坊主憎けりゃ袈裟までの譬どおり、煙⇒悪である。
(煙草を嫌う人たちは、将来、煙草がなくなったら、文字通り煙を嫌う人になるかもしれない)

実際、FLEVOも航空機や列車内での使用は禁止されているようだ。
タバコと紛らわしいということと、やはり臭いや煙(蒸気)に不快感を持つ人がいるということが理由らしい。
ちなみに、全く煙を出さない嗅ぎ煙草の一種"ZERO Style"ですら、JALとANAでは対応が異なりANAは不可、JRはOKだが一部私鉄は不可という。(吸う人がニコチンを摂取できるということは、その人が吐く息にもニコチンが含まれているはずという理屈)

私は煙草が健康に悪いことは認めるし、いつでもどこでも煙草を吸わせろという気もさらさらない。
昔から喫煙マナーというのがある。
  • 食事中は吸ってはいけない(食べ物の味がわからなくなる、周囲の人も)、食後のコーヒーが出てからなら喫っても良いが、紅茶なら喫うべきでない(紅茶は香りを愉しむものだから)
  • 仕事中にパイプ煙草はだめ(リラックスしすぎ)とか、個室以外では葉巻は吸うな(臭いが強すぎる)
  • シガレットは、静かに、ゆっくり喫い、灰は不用意に落ちない範囲で先端に留め、消火は確実にすばやく(くすぶらせない)
などである。禁煙の場所で喫うなとか、灰皿がないところで喫うななどはマナー以前の問題だ。

その一方、あまりに煙草に対する不寛容な姿勢はどうかと思う。
煙草が悪いという論説には、あんまり科学的だと思えないものもあるし、量反応(dose-response)関係について何も情報を与えないで、ほんのわずかでも煙草を吸えば(副流煙でも)直ちに健康に甚大な害があるかのようにいうのも、不寛容のあらわれではないかと感じる。(逆に、煙草にも良いところがあると少しでも言おうものなら、医学界や禁煙運動家から袋叩きにあう)

ほんのわずかも認めないのでは、およそこの世にあるどんなものも食べられないし(毒性のある成分は必ず入っている)、太陽にあたってもだめ(紫外線はがんの原因)、そもそも地球に住んでいてもだめ(地球内部からの放射線)、と言っているようなものではないだろうか。

「安心して喫える」と言ったら絶対禁煙家には怒られるにちがいないが、有毒物質といえども閾値というものがあるはずで、私のように煙草も文化と考えていて、それを全否定する(=文化を消去する)のはあまりに虚しいと思う者にとっては、閾値が示されることは心の平安なのである。

疫学データには、量反応関係を示すものも存在する。しかし、それを禁煙運動などで示すと、少なければ良いというリアクションを引き起こすおそれがあり、まして、絶対禁煙家にしてみれば許しがたい暴挙に映るのだろう。これも非科学的態度だと私は思うのだけれど。


FLEVOの感想は、ちゃんと試してからあらためて。

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カレンダーアプリ

スマホで良くお世話になるアプリといえば、やはりカレンダー(予定表)。
ずっとAndroid標準の予定表を使っていたのだけれど、ちょっと凝ったものが欲しくなった。

少し前まで、定番とも言われるジョルテというのを使っていたのだけれど、CMが鬱陶しい。かといって、有料版(プレミアム)というやつは、月額料金が発生するらしいから、そんなものはいらない。

どんな機能が欲しいかというと、
Screenshot_20170515-161114.jpg
スクリーンショット。NOVA launcherのドックの集合アイコン(カレンダー)を開けたところ。

ネットのおすすめアプリを見て、DigiCalというのが良さそう。

まず無料版で試してみたが、ウィジェットの月表示は有料版ならできるらしい。ちょっと考えたが、キャンペーン中とかで、500円→350円だったので、思い切って購入。

スクリーンショットは、スマホのホーム画面。月カレンダーのウィジェットで、予定の有無がドットが表示されている。
注目している日に予定があれば、カレンダー下部にその予定のタイトルが表示されている。そこをタッチすれば予定の内容を確認・編集できる。
月表示の横にある「+」をタッチすれば新しい予定を作成できる。どのカレンダー(私の場合、GoogleとExchange)に予定を作成するのか選択できる。
注目日の変更は、カレンダー上で日付をタッチする。

これだけできればもう十分なのだが、不満はそれなりにある。
  • ウィジェットだからなのか、この画面でカレンダー部分をスワイプしても、月表示は替わらない。月表示横の[∧∨]で月を変更する。
    アプリの画面だとスワイプで月変更できるので、同じインターフェイスにしてもらいたい。
    (今はランチャーのページ切替になる)
  • 注目日を指定する操作は簡単で良いのだけれど、ほっておくとそのままになる。
    一定の時間が経ったら現在の日付に注目が移るようにした方が良いと思う。
    Screenshot_20170515-162805.jpg
    年カレンダーも出る
  • 即時同期機能が欲しい。
    バッテリーセーブのため、自動同期を切っていたり、同期間隔を長くしている人が多いと思う。そうするとPC側で予定を入れてもスマホ側への反映が遅くなる。標準の予定表を起動して[更新]をすれば即時同期されるのだが、本アプリでできれば簡便だろう。

不満な点もあるけれど、ゴテゴテしていないデザインは好感が持てる。

というか、昔から思っているのだけれど、日本製のパソコンソフトは妙にどぎつい原色を使ったデザインが多く、アプリもそういう傾向があるように思う。下品である。


というわけで、当分、このアプリをホーム画面に貼り付けておくことにする。(というか、有料版を購入すると他のものには見向きをしなくなるのだけれど。)

余談だけれど、Outlook予定表のGoogleカレンダーへの取り込みだけれど、今は無くてもよいようなものだけれど、今の職場をクビになったら、Exchangeが使えなくなる。予定表≒ライフログという意味もあるので、Googleカレンダーへの取り込みは今も続けている。


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歓送迎会第二弾

昨夜は、職場の新年度人事異動にともなう歓送迎会の第二弾。

出入り1名、減1名、他に産休に入った職員1名とその代替の派遣職員。
総勢12名。

会場には私が一番乗りだったので、まずは、がらんとした風景。

飲み放題コースだったのだけれど、地酒が豊富な店だったので、乾杯こそビールだったけれど、宴に入ると、みんなそれぞれ地酒を注文。もちろん飲み放題には含まれていない。

飲み放題にする必要なし。

私も5,6種類の地酒、ワインを堪能した。

料理の質も良い。
量的には少な目だけれど、品数があるので、それなりにお腹は膨れる。
なにより、食材の質が良い。

刺身も新鮮、私はサーモンはあまり好まない方だけれど、ここのサーモンは泥臭くなく、脂がのって悪くない。
冷製の茶わん蒸しに添えてあるウニもおいしかった。

で、私が一番気に入ったのは、アワビとタコの陶板(?)焼き。
アワビもタコも薄くスライスしてあるのを、軽く焼いて食べるものだけれど、これは良い。
調味醤油が付いてくるのだけれど、これは甘い。つけないでバターだけでいただくほうが良い、これはメンバー全員の意見。

他に、牛、鶏。

コース外で、鶏のてんぷら、藁焼きを頼んでいる人がいた。私も藁焼きを分けてもらったけれど、これも良いできであった。

しめは、うなぎご飯。
うなぎはかけらという程度だけれど、これもおいしくいただいた。

というわけで、この種の宴会としては、大変満足できるものであった。


場所はここ


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この日の紅一点もご満足の様子







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リコーダー・コンサート

akiyama_shigeru_recorderss.png 昨日は、リコーダーの演奏会。

実は、リコーダーの演奏会は、無料のものは行ったことがあるけれど、有料のものは記憶がない。
今回は、弦楽アンサンブル(チェンバロ付き)と合せている。

曲目はテレマン。演奏者は秋山滋氏。
CDか何かで聴いたことがあるものだけれど、生だとどうだろうと、興味津々。
最大の気がかりは、リコーダーの音量である。
コントラバスまで入った弦5本+チェンバロだと、リコーダーの音はどうなんだろう。もちろん、人間の耳は、カクテル・パーティー効果があるから、リコーダーの音を聴き取ることはできるかもしれないが、それでは音楽として聴いたことにはならない。

とはいうものの、テレマンの時代、実際こうした構成で盛んに演奏されていたはずである。


会場はキリスト教の教会。
といっても大聖堂というようなところではなく、こぢんまりしたところ。

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IMG_20170514_165450.jpg 会場は礼拝堂、演奏者と聴衆の距離が近い。
聴衆は100人ぐらい。礼拝堂の備え付けの椅子だけでは足りず、パイプ椅子を追加していた。

教会での演奏会の経験がないわけではないけれど、それらはもっと大きな空間で、オルガンなんかもあるような場所である。
この日の会場に相当するところでクラシックを聴いた経験は、結婚式ぐらい。

私は一番前の席に座ったので、目の前が第1バイオリン。
正直、近すぎて大丈夫だろうかと思った。
バイオリンがやかましいのじゃないか、リコーダーとのバランスが悪くなるんじゃないか、などなど不安。
  • Concerto in F major for alto recorder, strings and basso continuo, TWV51:F1
  • Concerto in C major for alto recorder, strings and basso continuo, TWV51:C1
  • Suite in a minor for alto recorder, strings and basso continuo, TWV55:a2

すべては杞憂。
残響多めの礼拝堂で、目の前のバイオリンの音も甲高くならず、全体のバランスも悪くない。
心地よく音に包まれる。

そして、肝心のリコーダー。
これは超絶。

極めて高速のスケールやアルペジオが連続するテレマンで、フィンガリング、タンギングがぴったり。

演奏後のお話で、すごく疲れる、テレマンは若いうちにやらないと、とおっしゃっていた。

今まで、リコーダーといえばフランス・ブリュッヘンやミカラ・ペトリばかり聴いていたが、秋山氏の演奏は、それと遜色ない。
アルト・リコーダーで、全く苦しげにならないというのがすごい。
IMG_20170514_165501.jpg

写真は後半の曲で、この曲では使われなかったが、前半の曲では、足を置く台が用意され、管端のホールを膝で塞ぐ奏法も披露。ブリュッヘンなんかは座ってやるんだけれど、この人は立ったままでやっていた。


リコーダーは、吹けば音が出る楽器であるけれど、逆に、息で音を調節することが困難である。
その分、フィンガリングに負う部分が大きく、誤魔化しがきかない。
たしかに、フルートよりも使う息は少なく、タンギングもらくではあると思う。
とはいうものの、家へ帰って、ちょっとリコーダーをいじってみたが、とてもああはいかない。

そういう難しい楽器なのだけれど、やっぱり音色はフルートに比べるとなんだか間のぬけたようなところがあると思う。それでも聞かせるためには、相当のテクニックと音楽性が要求されると思う。

アンサンブルも良かった。
気持ちの良い、満足できるコンサートだった。

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