「西国巡礼」

416CZVGRTEL.jpg 白洲正子「西国巡礼」について。

「日本人と仏像」で紹介されていた本。

白洲正子氏については、名前は知っているけれど著作を読んだことはなかった。

「贅沢の条件」という本で、氏の独特の贅沢というものが紹介されていて、本当のセレブというのはこういう人なんだろうなぁと思っていた。
所謂「本物」を知る「本物」のセレブなんだろうと。


「日本人と仏像」によると、白洲正子氏は「美か信仰か」などという二分法などは、軽く超えていると評されている。
美を信仰が、信仰が美を支えている、つまり美と信仰は分かちがたいもので、美に感動することが信仰心の欠如でもなければ、信仰がなければ鑑賞してはならないということもない。
それを素直に実践されているのが白洲正子という人のようだ。

西国巡礼について
 
熊野路
第一番 那智 那智山青岸渡寺
第二番 紀三井寺 紀三井山金剛宝寺
 
紀州から河内へ
第三番 粉河寺 風猛山粉河寺
第四番 槙尾 槙尾山施福寺
第五番 葛井寺 紫雲山葛井寺
 
大和の寺々
第六番 壺坂寺 壺坂山南法華寺
第七番 岡寺 東光山龍蓋寺
第八番 初瀬 豊山長谷寺
第九番 南円堂 興福寺南円堂
 
宇治より滋賀へ
第十番 三室戸寺 明星山三室戸寺
第十一番 上醍醐 深雪山上醍醐寺
第十二番 岩間寺 岩間山正法寺
第十三番 石山寺 石光山石山寺
第十四番 三井寺 長等山三井寺
 
洛中洛外
第十五番 今熊野 新那智山観音寺
第十六番 清水寺 音羽山清水寺
第十七番 六波羅 補陀洛山六波羅蜜寺
第十八番 六角堂 紫雲山頂法寺
第十九番 革堂 霊鹿山行願寺
第二十番 善峰 西山善峰寺
第二十一番 穴太寺 菩提山穴太寺
 
西国街道にそって
第二十二番 総持寺 補陀洛山総持寺
第二十三番 勝尾寺 応頂山勝尾寺
第二十四番 中山寺 紫雲山中山寺
 
播磨路
第二十五番 清水寺 御嶽山清水寺
第二十六番 一乗寺 法華山一乗寺
第二十七番 書写山 書写山円教寺
 
丹後から近江へ
第二十八番 成相寺 成相山成相寺
第二十九番 松尾寺 青葉山松尾寺
第三十番 竹生島 竹生島宝厳寺
 
湖東から美濃
第三十一番 長寿寺 姨綺耶山長寿寺
第三十二番 観音正寺 繖山観音正寺
第三十三番 谷汲 谷汲山華厳寺
 
番外 花山院について
 元慶寺 華頂山元慶寺
 花山院 東光菩提寺
 花山陵
 
地図
みちしるべ
「日本人と仏像」では、現代の「古寺巡礼」として、いとうせいこう/みうらじゅんによる「見仏記」も紹介されている。

私はその第二集「仏友篇」というのだけ読んだ。

「見仏記」では、取材の看板を掲げることで変なうしろめたさもなく、秘仏を観て廻っているのだが、「西国巡礼」では秘仏を見て廻るようなことはしない。誰でも拝観できる仏様は拝んでいるけれど、秘仏(西国三十三ヶ所のお寺の多くの本尊は秘仏となっている)を見て廻るわけではない。

だからお寺の建物や境内、あるいはそこへ至る道などが感興の対象となる。
つまり、このエッセイは巡礼体験の「触り」というものになっていると思う。
「触り」というのは、これは巡礼そのものではなく、やはり取材であり、巡礼の人たちがどのような景色を見ているのか、それを同じ目線で書くという態度のように見えるから。
言い換えれば、自身は観音信仰に支えられて廻っているわけではないのだけれど、信仰者の気持ちに寄り添いながら廻っているということだろうか。

「見仏記」のド派手な「鑑賞」態度は、仏像と鑑賞者の対峙であるけれど(そしてその眼力や感興には敬服するけれど)、「西国巡礼」はもっとしなやかで素直な「観音に抱かれて」という感じがする。

「見仏記」では訪れる寺の宝蔵の乾いたカビの臭いが伝わってくるが、「西国巡礼」は樹々や草・苔の湿り気のある香りがする。


ところで、西国三十三ヵ所というのは、四国の八十八ヵ所の成功を見ての二番煎じだと思っていたのだが、どうやら西国三十三ヵ所の方が歴史は古いようだ。

西国三十三ヵ所は11世紀には成立していたらしい。四国八十八ヵ所は室町時代だという。


巡礼というのは洋の東西・宗旨を問わず多くの人を惹きつける。
余計なことを考えず、ひたすら救いを求めて、次の聖地へと歩む。なるほど、それだけで心の平安が得られそうだ。





第十番 三室戸寺
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工事は順調

P_20190522_110212.jpg 先週の月曜日からはじまった我が家の外壁工事、今週は雨で1日ロスがあったけれど、特に問題もなく順調に進んでいる。

屋根はやはり一部傷んでいたところがあったようで、今回、それも修復。
思っていたより赤っぽい色調の屋根になった。

私は特に色にこだわりはなかった。ただ明るい色の方が、熱線を反射して夏涼しいのではと思って、あまり暗くない色にした。それなら白とかのほうが良いのかもしれないけれど、さすがに周囲から浮いてしまうのでパス。


そして昨日は、壁の塗装も終了。
これも思っていたよりは明るい色だった。部屋の中で蛍光灯で見るのと、屋外の太陽光では違う。サンプルを屋外でも見ていたのだけれど、それでもやはり印象は違う。
もっとも、それで特に文句はない。

このあと、雨樋などの塗装、最後に擁壁の塗装となる。
おそらく当初の予定どおりか、それより前に完了するのではないだろうか。

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「興亡の世界史 地中海世界とローマ帝国」

51bW7r1ej0L.jpg 久しぶりに「興亡の世界史」シリーズから、
本村凌二「地中海世界とローマ帝国」について。

このシリーズは、どの巻から読んでも良さそうなものだが、律儀に巻次順に読んでいる。これは4巻目である(出版順ではない)。

本書はローマ史という、今まで書評を書いてきた「スキタイと匈奴 遊牧の文明」「通商国家カルタゴ」のように私にはなじみの薄いところではない。ローマ史だったら何冊か本も読んでいるし、何より、学術書ではないけれど塩野七生「ローマ人の物語」も2度通読している。

同書については、誤謬や過度の推測が批判されているが、面白さでは群を抜く。ちゃんとしたローマ史の専門家が校閲して、注をつけてくれたらありがたい。出版企画としては成り立たないかもしれないから、「ここ間違い」というようなサイトを用意してくれたらそれでも良い。

ちなみに、百田尚樹「日本国紀」に対しては、その問題点を指摘しているブログがある。

こはにわ歴史堂のブログ
(現在の歴史学の到達点から検証するもので、227本もの記事が書かれている)


まえがき
 
第一章 前146年の地中海世界
カルタゴ炎上
地中海帝国の幕開け
 
第二章 世界帝国の原像を求めて
強圧の帝国、アッシリア
寛容の帝国アケメネス朝ペルシア
アレクサンドロス大王の野望の帝国
 
第三章 イタリアの覇者ローマ―S.P.Q.R
建国神話を読み解く
共和政ファシズム国家
 
第四章 ハンニバルに鍛えられた人々
海の覇者·カルタゴの攻勢
勝利を導いたローマ人の伝統
 
第五章 地中海の覇者
内乱の100年の幕開け
党派闘争を駆け抜けた群像
三頭政治とカエサルの野心
 
第六章 帝政ローマの平和
元首アウグストゥスの権威と権力
為政者の理想像・ゲルマニクスの幻影
 
第七章 多神教世界帝国の出現
よみがえる厳格な風紀
敬虔なローマ人の本領
 
第八章 混迷と不安の世紀
軍隊が擁立する皇帝たち
危機と混乱の三世紀
 
第九章 一神教世界への大転換
動乱の時代に秩序をもたらす
背教者の逆説から異教の全面禁止へ
 
第十章 文明の変貌と帝国の終焉
巨大な変動と民衆の心
ローマ帝国は滅亡したのか
 
学術文庫版のあとがき
であるけれど、やはり歴史に興味を持つというのは、塩野七生さんの本などのほうが力がある。素人が歴史の本に手を出すのは、本当はどうだったんだろう、ということであろう。

大河ドラマを歴史だと勘違いして、学校の社会科より大河ドラマなどと発言する人がいるが、ドラマや小説で関心をもったら、本当はどうだったんだろうと考えるのが教育のある人だろう。


「面白さ」の違いについて一例をあげるなら、「どのように」という細部であろう。
本書はタイトルにあるように、地中海世界に注目しているけれど、ローマ人が地中海を「マーレ・ノストルム」(この言葉も塩野本では情感たっぷりに使われる)と呼ぶようになるのは、紀元前1世紀、あのポンペイウスの海賊退治後だろうけど、本書では海賊退治の一行が、塩野本ではポンペイウスがどのように海賊を退治したのか、体制・兵站・調略・戦闘の各面を詳しく書いて、読者をワクワクさせる。

学術書であっても、戦史分野だったら「どのように」はテーマの中心だろうけれど、通史で、しかもページ数が制約されていては、そこまではとても書きようがない。「読み物」より(知識の源泉としては)学術書を尊ぶ私だけれど、やはり面白さは比較しようがない。

思えば、カエサルはシェイクスピアで特別有名になったのだろう。「背教者ユリアヌス」なんて日本人からしてみれば辻邦夫の小説が出るまでほとんど知られていなったに違いない。
ティトゥス帝やシッラはモーツァルトのオペラで、ネロ妃ポッペイアはモンテヴェルディのオペラがあるから私でも名前を知っていた。オペラが先でそこから史実ではどんな人だったんだろう、である。

ポンペイウスを主人公にした小説や演劇はないのだろうか。素晴らしい作品ができると思うのだけれど。(英雄から優柔不断な男へ、そして悲劇的な死。ストーリーはすぐできそうだが)


さて、分量が少ないということは、著者の問題意識が尖鋭になるということでもある。
そうした目で見ると、本書は多神教ローマからキリスト教国教化へというのを大きな流れとしてとらえているようだ。

そして最後、ローマの終焉をどうとらえるのか、いまだにいろんな解釈があるなか、本書は、学術書らしく、いろんな説と、多くの証拠を示すのだが、一つのストーリーとしては提示してくれない。
しかし、こここそが、本書で一番読み応えのあるところのように思う。

粗暴で残酷なキリスト教徒(ヒュパティアを虐殺する連中)のことも書き忘れない。
こいつらにローマが滅ばされたわけではないが、こいつらがのさばるようになってはローマはもはやローマではないと思う。


ローマ史のおさらいとして読むにはちょうど良いとは思う。

ぜんぜん書評になってないなぁ。これは個人の読書記録として残しておこう。


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ベルイマンの「魔笛」

海外通販サイト(DVD fantasium)で購入したベルイマンの「魔笛」

日本国内での上映会に二度足を運び、そしてレーザーディスクも買って見たものだけれど、あらためてこのブルーレイディスクを見て、当時の感興がよみがえってきた。

この映画が作られたのは1975年、日本で上映されたのは1976年(私は京都での上映会、1977年4月30日が最初)と、もう40年以上も前、昭和のことである。
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京都での上映会のチラシ


当然、技術というか規格には、時代の制約というものがある。一番は画像のアスペクト比が4:3であること。
このブログでは「カルメン」や「ドン・ジョバンニ」のBDのことをとりあげたことがあるが、これらはもちろん16:9のワイド画面である。
4:3ではせせこましいのではないか、そういう予想もしたのだが、そういうことはない。

まず、この作品はもともとテレビ用に作られていて、上映会でも4:3だったと思う。
そして、ベルイマンはテレビ用ということを踏まえて作っているに違いない。

Wikipediaの解説では「小劇場での上演を撮影している、という設定で演出」とあり、その小劇場としては「ストックホルム郊外にあるドロットニングホルム宮廷劇場という、1760年に建てられた200席ほどの劇場」が想定されているという。

そして、その小さな舞台が4:3の画面にフィットするようにしつらえられていて、画面の狭さというようなことは感じない。繰り返しになるが、メルヘンチックな「魔笛」の性格にふさわしい。(ブラナーの「魔笛」の広大な画面と比較すれば一目瞭然)

ただし、画像の品位(解像度)は悪い。映画フィルムから作成しているはずだから、もう少し高い解像度で作れるのではないかと思った。大画面のテレビでは粗さが目立つ。


つまり、上にあげた2つのBDのように、舞台を記録したオペラとは作りが違うということだろう。
幅のない舞台にコミカルな獣たちが出てくるシーンなど、もともと「魔笛」がもっているメルヘン的要素をむしろ強調しているように思う。

これは舞台の制約による結果というものではないと思う。たとえば第二幕、パミーナが自殺を図ろうとする場面は舞台を感じさせない、雪が降るシリアスな絵、それに続くパパゲーノが首を縊ろうとするシーンは作り物を押し出したコミカルなものになっている。


ブラナーの「魔笛」も舞台を記録したものではない。ブラナーは広い画面でドラマティックな善悪の戦いを強調しているように思えるが、ベルイマンはメルヘン性を利用しながら愛と世代の継続を描いている。

ところで、オペラというものを知らない青臭い頃は、オペラ映画を作るなら、配役は見た目で選んで、歌は吹替れば良いなどと考えていたりしたものだが、今はそういう考えはあらためている。素晴らしい歌を聴くと、若い美女などどうでも良くなっている。

単に熟女好みというだけかもしれないが。

これは日本の歌手でもそうで、毎年楽しみにしているニューイヤーオペラコンサートでも、みなさんお美しい。

本作品については、いろんな解説が一様にベルイマンをほめ、素晴らしい芸術作品に仕上がっているという書き方をしているのだが、素晴らしい芸術性というのは、モーツァルトが仕込んでおいたもので、それを引き出す才がベルイマンにあったということだろう。

「魔笛」の台本はちょっと出来が悪い、ストーリーに無理がある、納得しがたいという感じがするのだけれど、ベルイマンは、そういう手際の悪いところはきれいに直したように思う。


そして何より、どの歌手も、オーケストラもすばらしい出来。

それだけに音質が悪いのが残念。


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たびたびアップになる聴衆の一人。
ベルイマン監督の娘らしい。

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やっぱり三人の侍女は魅力的

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三人の侍女の中で一番可愛いかな

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こういう教訓があちこちに挟まれる

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第一幕のアリアの途中、ちらっとタミーノの様子を窺う夜の女王

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幕間休憩中。夜の女王は一服。後方に"喫煙厳禁"の表示があるが

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これも幕間。タミーノとパミーナはチェスで時間つぶし?

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試練を受けるタミーノとパパゲーノを誘惑しに来る三人の侍女

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普通の男なら誘惑に負けるだろう

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パミーナが死のうとするシーンは雪の中

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パパゲーノの首吊りはあくまでコミカルに

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パパゲーノとパパゲーナ
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海外通販サイト(DVD fantasium)

イングマール・ベルイマン監督の「魔笛」をもう一度見てみたくなった。
家には、そのレーザーディスクがあるのだけれど、哀しいことにLDプレイヤーがない。ずいぶん前に壊れてしまい、もはや絶滅メディアだからプレイヤーを買い替えなかったわけだ。

レーザーディスクのコンテンツとしては、他に、ディズニーのアニメや、冨田勲の「交響詩ジャングル大帝」などがあるのだけれど、視られないことがもっとも惜しいのはベルイマンの「魔笛」である。

この映画については今までもこのブログで言及したことがあるけれど、私は学生時代に2度上映会に行っている。

ただ上映会はモーツァルトよりベルイマンが目当ての人が多いのか、あまり良い音ではなかったと記憶している。


Screenshot_20190517-141441123m-crop.jpg そしてLDも買ったわけだけれど、視られないのは悔しい。だからプレイヤーが壊れてからしばらくしてのことだと思うが、DVDも出ているのではないかと思って調べるとAmazonで取り扱っていることはいた。
すぐに買おうかと思ったのだけれど、レビューを見ていると、私と同じようにLDを持っているらしい人のレビューに、ピッチがLD版と違うというようなことが書いてあった。ありえない、再生環境の問題だろうと思うのだが、やはり購入はためらって、そのままとなっていた。

そして先日、思い出したようにAmazonを検索すると、相変わらず販売はされている。
6,800円。中古で4,768円。DVDとしてはかなり高価である。

Amazon以外はどうだろうとネット検索していたら、

「米・クライテリオン盤『魔笛』2019年3月12日リリース」

という情報が見つかった。
記事を読むと、ブルーレイディスクで、新しいデジタル復元版(2K DIGITAL RESTORATION)、オーディオも24bit/48kHzと若干CDより品位も高い。
しかも、値段が$39.95、日本円で5,000円しない。Amazonで見つかるDVDよりも安い。

しかし、このブルーレイディスク、Amazonでも、HMVでも、Towerでも、楽天、Yahooでも、日本国内の通販サイトを探しても、どこも「お探しの商品はありません」というすげない返事。
なので、そもそもこのBDを見つけたように、"Bergman The Magic Flute"で広く検索すると、"DVD fantasium" というサイトがひっかかってきた。どうやらここで販売しているようだ。

このサイトについては知らなかったのだが、このサイトに入りなおしたら、重要なところは日本語でも案内されている、海外のDVD、Blu-rayの通販サイトである。
あらためてThe Magic Fluteを検索すると、ちゃんと在庫があった。
しかも、上に引用した記事では$39.95だったが、このサイトでは$27.97と安売りされている。

購入にはユーザー登録が必要なので、早速登録をすませて注文。
クレジットカードはユーザー登録ではなく、注文時に指定するようになっている。

はじめて利用する海外サイトでちょっと不安もあったので、プリペイドのマネパカードにしようかとも思ったのだが、マネパカードにはユーロしか入ってなかったので断念。


オーダーを入れてから2日後に、受注確認メールが届いた。

受注日付:2019/05/08 20:19:07
DVDタイトル:The Magic Flute: Criterion Collection (Blu-ray)
邦題:魔笛
数量:1
単価:$27.97
金額:$27.97
[ 発売中 ]

発送方法:USPS(国際航空郵便)
送料:$7.30
合計金額:$35.27

ちゃんと日本語でのメール。

本当に届くのかなぁと思っていたら、一週間ぐらいして、発送状況のメール。

5月15日に川崎の国際交換局に到着したことが確認できましたのでお知らせいたします。

その後は日本国内での通関・配送となり、通常は2日〜7日ほどでお届けになります。(通関に要する時間や郵便事情によってはそれ以上かかる場合もあります。)


そして、続いてカード会社から「カード利用のお知らせ」

2019/05/10  WWW.FANTASIUM.COM  本人  1回  3,944 円

という決済連絡。
決済時点のレートで円ドル換算されている。\111.8=$1

P_20190518_114256-cropm.jpg そして無事に商品が到着。日本国内は郵便である。宛名、送付状ともに日本語でも表記されている。

AmazonやHMVなどで買うより時間はかかったが、国内では売ってないものを安く購入できた。
直輸入盤だから、当然、日本語の解説とかは付いていない。

ちなみにベルイマンの魔笛はスウェーデン語である。レーザーディスクや日本国内で上映されたときは日本語字幕が付いていたが、今回手にいれたBDは英語字幕。
それにレーザーディスクにはそれなりの日本語解説冊子がついているから、必要ならそれを参照すれば良いことだ。


そして思った。
DVDやブルーレイコンテンツを買うとき、ちょっと高いなぁと思ったら、このサイトもチェックしよう。そうそう、ブルーレイディスクでは、リージョンコードが日米共通というのもありがたい。

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左から、今回購入のBD、LD(2枚セット)、昔の上映会で購入したプログラム


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梅田での交遊

昨日の記事に書いたとおり、昨夜は遠来の客を交えての飲み会。

場所は、「旬魚 旬菜 咲くら 梅田阪急グランドビル店」

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P_20190518_182015-crop.jpg 予約したコースは、 『淡路鱧しゃぶしゃぶ』×『本鮪に握り入り刺身盛り』、飲み放題をつけて 5,000円というもの。
飲み放題は、+500円でプレミアムコースといって、飲めるものが少し増えるのだが、店の入口にかざってあるようなお酒(獺祭ほか)は飲み放題にならない。そういうものが飲み放題なら+500円の値打ちはあるけれどということで、パス。

料理はそれなりのもの。量的には少ない方だと思うけれど、年寄りにはこれで十分かと。
ただ、鱧しゃぶは、小さい片が一人2つ当たる程度で、これはさすがに少なかった。

P_20190518_215408.jpg 終わるのも早かった(20:00)ので、二軒目へ。
なんでも良いということで、ぶらぶら歩いていたら、イタリアン(バールと言えば良いのかな)の店で、空いてますというのでそちらへ。
店に入ったときには、95%ぐらいが女子。われわれが入って90%が女子という状態。

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また来年もやりましょうということで、この飲み会も定例化しそう。
それとは別に、大分からのメンバーもいるわけで、行ける人は大分でという話も。

九州の人には鱧はめずらしいと思って、鱧しゃぶが入っているコースを選んだのだけれど、大分は鱧も名産地だそうだ。また、ワインも大分のものが最近は高評価らしい。


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宴会と幹事とIT

sakura_hankyu_grand_bldg.jpg 今夕は、遠来のお客様を交えて、梅田で宴会の予定。
この集まりは今回が3回目。
今までの2回は、
あまり意識していなかったが、こうして振り返ると、毎回5月下旬にやっていたようだ。

今回も、大阪でやるから私が幹事を仰せつかった。
昨年も幹事をしたが、昨年は、軽い呑み会のほうがメンバーの負担も少ないだろうと考えて「ビール博物館」で開催したのだけれど、このように定例化しそうになってくると、せっかく大阪に集まってもらうのだから、少し落ち着いたところと考えた。

場所は参加者の便宜を考えて梅田界隈。
この頃は梅田界隈で飲むことはないので(友゛の会は新福島だったりするが)、ネットが頼りなのだが、「梅田、個室」だけで検索しても絞り切れないわけで、大阪らしいものをメインにしようと考えて、そろそろ季節なので、これに「鱧」を加えて探した。

Screenshot_20190517-114736474.jpg 高級な鱧料理となると、一人1万円は超えてしまうわけだが、ちょっと挨拶程度に鱧しゃぶが付くコースが用意されていたので、それにした。場所も阪急グランドビルで梅田も梅田、誰でもわかりそう。

それに以前、鱧づくしの宴会があったのだが、鱧の落とし、焼きもの、てんぷら、しんじょう蒸し、しゃぶしゃぶと鱧が続くと、さすがにもう十分となった記憶がある。


この集まりは、呼びかけ人から突然、Facebookにメッセージが入って、私は、Facebookは前社長に頼まれてRead onlyで使っていただけだから、どうリアクションするか、あまり要領をえないでメッセージを返した覚えがある。
呼びかけ人に私がFacebookを使っていることなどは伝えていない(そして新しいメールアドレスや私用メールも伝えていない)から、おそらくFacebookの本来の使い方―つまり友達探しをしてメッセージを送ってきたものと思う。

こういうことがあるから、Facebookもやめたくてもやめられない。


その後、よくわからないままチャットグループができて、参加者の多くがこのグループに属するようになっている。退職して所属組織のメールアドレスが使えなくなっている人も多いので、Facebookを使うというのは一つのアイデアだ。

連絡にあたる幹事としてはありがたい。

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Ploom TECH+のたばこカプセル(追加)

前のPloom TECH+のたばこカプセルの記事で、未体験したがって未報告だった2種類のカプセルについての感想を追加。
未体験だったのは、いずれもメンソール系で、「コールド・ミント」と「クリア・ミント」。

P_20190216_112842_vHDR_Auto-crop.jpg 私は普通の煙草ではメンソールは買わないが、ノーマルのPloom TECHではメンソールのパープルも喫っている。ノーマルのPloom TECHでは、2本のバッテリー(1本は正規品、もう1本はパチモン)をそれぞれスタンダードの「レギュラー」とメンソール系の「パープル」用にしていた。
というのは、ノーマルのPloom TECHは、低温加熱のためか頼りなく、レギュラーの場合、強く喫うといがらっぽい。メンソールのほうがいがらっぽさは少しましな感じで、レギュラーを喫った後、続けてメンソールのパープルを喫って落ち着かせるという使い方をしていた。

ノーマル用のメンソールはいろいろあるが、試した中ではパープルが一番しっとりして喫いやすい。


ということで、プラスのメンソール系も少しは期待したのだけれど、結論から言えば、これはもう買うことはないだろう。

まず、コールド・ミントだが、これは刺激が強すぎる。JTの宣伝文句には「ジャパンミント由来の氷冷感に、キレのある刺激のアクセント」とあるが、たしかに説明通りである。これは煙草を喫っているという感覚からは程遠い。

次にクリア・ミント。JTによれば「パーミント由来の爽快感に、ほのかな甘みのアクセント」とあるが、これもたしかに文言通りで、私の言葉で補うなら、「クールミントガム」を噛んだときの香りと甘みを感じさせるもの。

どちらもニコチンは入っているのだろうが、煙草とは別の味わいだと思う。
メンソール系の煙草が好きな人なら違う評価をするかもしれないが、煙草独特の香りや味わいということからすれば、私のようなピース党には煙草だとは思えない。

それにプラスは、ノーマルタイプとは異なり、レギュラー系のカプセルの喫いごたえがそれなりにあって、上述のようなメンソールでごまかしながら喫う必要はないと思う。つまり私にとってメンソール系は全く選択肢にならない。

かといってレギュラーのカプセルに満足かといえば、そうとも言い切れない。どちらも甘すぎるのである。
そもそも「メビウス」と銘打っているところが気に入らない。JTで一番売れているブランドはメビウス(マイルドセブン改め)かもしれないが、高い香りとしっとりとした味わいのあるJTならではのブランドはピースだと思う。
ピースの味わいを加熱式煙草で再現することを目標に開発していただきたい。

それまでは、フレーバード・ミルクティーという風味のマイルド・ブレンドを中心に、たまにロースト・ブレンドという形かなぁ。

種類系列JTの説明私の感想
ロースト・ブレンド
ROAST BLEND
レギュラー香ばしさ+奥深いコク
香ばしいたばこの味わいに調和する、奥深いコクのアクセント。
 
カカオっぽい味付け、甘い
マイルド・ブレンド
MILD BLEND
レギュラーマイルド+爽やかなうまみ
マイルドなたばこの味わいに溶け込む、爽やかなうまみのアクセント。
 
ミルク入りフレーバーティーの味と香り、甘い
コールド・ミント
COLD MINT
メンソール天然メンソール100%*。氷冷メンソール+キレのある刺激
ジャパンミント由来の氷冷感に、キレのある刺激のアクセント。
*メンソールは天然メンソール100%
 
宣伝文句どおり刺激は十分。刺激はアクセントというよりそれそのもの。
薬みたいで、煙草として楽しめるかというと疑問。
クリア・ミント
CLEAR MINT
メンソール天然メンソール100%*。爽快メンソール+ほのかな甘み
ペパーミント由来の爽快感に、ほのかな甘みのアクセント。
*メンソールは天然メンソール100%
 
クールミントガムを噛んだときのような香り。コールド・ミントよりは刺激は低い。


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かな分かち書き

今日は、碧海寿広「仏像と日本人―宗教と美の近現代」に書かれていたほんの端っこをとりあげる。

本書には仏像めぐりに関して、會津八一のそれがとりあげられていて、次の歌が紹介されている。
たかむら に さし いる かげ も うらさびし
 ほとけ いまさぬ あきしの の さと
漢字で書くなら、竹叢に 射し入る光陰も 心寂し 仏居座さぬ 秋篠の里となるのだろう。

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秋篠寺といえば伎芸天が有名だけれど、私の記憶に鮮明なのは苔の庭
私は結婚当初の一時期、奈良の秋篠寺からそう遠くないところに住んでいた。家から秋篠寺までは、歩いて12~3分だった。近く皇嗣殿下となられる秋篠宮文仁親王が秋篠宮家を創設されたとき、「秋篠」が町名に入っていたから、にわかに素敵な住所だとうらやましがられたことを憶えている。なお本籍は今でもそのまま、奈良市秋篠〇〇町である。

それはさておき、上の會津八一の歌は、なぜかネットで調べても、かな分かち書きで書かれている。
日本語の音にこだわりがあったということだろうか。

かな分かち書きというのは、一時期試みられたようだが、今では、小学校などの文字習い始めの本以外では、まず見かけることはないと思う。

しかも小学校などで見られるのは文節単位だと思うが、會津八一のは単語単位である。そして複合語も一つの単語として扱うから、私には異様に見える。


「知的生産の技術」で梅棹忠夫氏が日本語の表記法として、次のような主張をされていたと思う。

日本語としては同じもの、たとえば「見る」「視る」「観る」「診る」「看る」について、漢字をかき分けるのではなく、かなで「みる」とするべきという主張。漢語から日本語になったものは漢字表記する。


たしかに元の日本語では、これらを区別せず「みる」としたのかもしれない。しかし、日本語というのは、音だけでできているわけではない。日本語話者は「みる」という言葉のネットワークに「見る」「視る」「観る」「診る」「看る」が付随している。だから自分の意思をきちんと伝えるためには、梅棹氏の意見とは異なり、漢字の書き分けは必須であると思うし、多くの概念を中国語に借りている日本語を豊かにするメカニズムの一つだと思う。

その教育を受けているかどうかは、語彙・表現力に大きな違いをもたらすのではないだろうか。

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「仏像と日本人」

41nsSXEN-aL.jpg 碧海寿広「仏像と日本人―宗教と美の近現代」について。

内容はもとより、タイトルもきちんと確かめないで、なんとなく「仏像」という言葉が気になって、図書館の棚にあったのを手にとった。
仏像の意味が書かれている本だと思ったからだ。

仏像の種類、たとえば如来と菩薩の違いとかは知っているし、薬師如来は薬壺を手にしているとか、「普賢菩薩の乗り物」(源氏物語-末摘花)があって、仏像にもアトリビュートというものがあることなど、散発的な知識はある。
仏像鑑賞が好きな知り合いが、印相について解説するのを聞いて、すごいなぁと感心した覚えがある。

しかし、この本はそういう仏像についての知識を与えてくれるものではなかった。
タイトルは「仏像と日本人―宗教と美の近現代」である。

本書のアジェンダは、日本人は仏像とどうかかわってきたのかということだけれど、再三にわたってとりあげられ、そしてまた歴史の中で揺れ動いてきたのが、仏像は鑑賞するものか、拝むものかということである。

明治維新までは仏像は拝むものという性格が強かった。というより、美的鑑賞の対象とするという発想がなかった。それを美の世界へ連れ出したのは、やはりフェノロサと岡倉天心である。
そして、このことが、そのままだったら廃仏毀釈の嵐の中でうち棄てられてしまったに違いない多くの仏像を今に残す動機になり、力になった。

本当に維新政府は罪深い。お雇い外国人が日本をほめていなかったら、日本は捨てられていったかもしれない。(⇒「逝きし世の面影」


私も仏教徒ではないから、本当の意味で仏像を拝んでいるかときかれたら、違うと答えざるをえない。
仏像に手を合わせ拝むのは、それがマナーであり、それを信仰する人たちへの当然の配慮だからだ。もちろんご利益についても知らぬわけではない。阿弥陀如来は極楽へ導いてくれるし、薬師如来は病を治してくれる。しかし、幸いなことに、仏にすがらないと精神の平穏がたもてないほどの目にあったことはない。

まえがき
 
序 章 仏像巡りの基層
  1 寺院とは何か
  2 前近代の古寺巡礼
  3 江戸の開帳
 
第1章 日本美術史の構築と仏教―明治期
  1 廃仏毀釈と文化財
  2 フェノロサ・岡倉天心・小川一真
  3 博物館と寺院
 
第2章 教養と古寺巡礼―大正期
  1 古美術を巡る風習
  2 和辻哲郎の『古寺巡礼』
  3 教養としての仏像
 
第3章 戦時下の宗教復興―昭和戦前期
  1 危機の時代の仏像
  2 美術の拒絶―亀井勝一郎
  3 秘仏をめぐる心性―高村光太郎
 
第4章 仏像写真の時代―昭和戦後期①
  1 資料・美術・教化
  2 古寺「写真」巡礼―土門拳と入江泰吉
  3 礼拝と展示のあいだ
 
第5章 観光と宗教の交錯―昭和戦後期②
  1 古寺と仏像の観光化
  2 信じることと歩くこと―白洲正子
  3 古都税をめぐる闘争
 
終 章 仏像巡りの現在
  1 仏像ブームと『見仏記』
  2 美と宗教のゆくえ
 
あとがき
参考文献
本書では、仏像に美をみとめることが時代に果たした役割を丁寧に追跡する。仏像写真についても、資料として撮るものと、写真家の感覚による美術写真として撮るものという性格の違いも指摘する。

というように、なかなか拝むものとしての実感を持てないまま、拝むことと美を鑑賞することについて、次の文章に出会った。
第4章-3 礼拝と展示のあいだ

礼拝的価値と展示的価値
 ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミン ( 一八九二-一九四〇)が「複製技術時代の芸術作品」(一九三六)で提示した、「礼拝的価値」と「展示的価値」の対概念は、何らかの芸術や文化について分析する際、今もなお便利な思考の道具である。
 ベンヤミンは以下のように論じる。芸術作品は、歴史の最初期の段階では、魔術的な儀礼に用いるために制作された。たとえば、石器時代の人間が洞窟の壁に描いた、鹿などの動物の絵がそうである。それらの絵画は、人間に見られることよりも、神や精霊に見られることのほうが重要であった。中世の教会に祀られたある種の神像も、選ばれた聖職者にしか、それに近寄ることが許されなかった。芸術作品の礼拝的価値とは、このような状況で重んじられるものである。そこでは、芸術作品を人びとの目から隠れた状態に保つことが、しばしば重視された。
私はこの一節を読んで、非常に唯物的なものを感じ、そして腑におちる気がした。
対象となる芸術作品は、視覚に入るときは所詮光の粒の配列に過ぎない。つまるところ、その光の粒の配列が鑑賞者の頭(脳)内の情報ネットワークの中の何を励起するのかということに帰着する。
であるから、その作品の正しい鑑賞というものが、その作品に刻まれているということはありえない。その意味で、芸術鑑賞とは自己の感性を反射する行為なのである。
これは美術に限らない。音楽においても状況は全く同じである。光の粒の配列が、空気の粒子の振動の配列に置き換わるだけである。

そしてここに書いた「芸術」を「信仰」に換えたとしても、このマインド・ネットワークのメカニズムは同様なのであろう。
そうであるなら、美術鑑賞か拝むかというような二分法的な正解など、仏像側にはあるはずがない。それは「私」の反射なのだから。

このことに関連して、上のベンヤミンの話よりも前、第2章に書かれていたことを抜き書きしよう。
その後、東大に入学した和辻は、学部二年生のときに、岡倉天心の美術史の講義を聴く。講義の途中、岡倉は生徒に「諸君のうちにまだ薬師寺に行ってみたことのない人がありますか」と問うた。素直に手を挙げた和辻は、いくぶん恥ずかしい気持ちになったが、手を挙げている学生のほうが多いのに気づいて、安心した。すると岡倉は、「わたしは諸君を心の底からうらやましいと思う」と妙なことをいい出し、和辻を再び不安にさせた。その後の岡倉の説明によれば、自分は薬師寺の本尊をはじめて見たとき、その美しさに感激したが、この体験は一度きりであった。あの初見の感動を、これから経験できる諸君を、自分はうらやまずにはいられない、とのことであった。
このくだりを読んで驚いた。私と全く同じことを岡倉天心も言っている!
前に「一生に一度のこと」の記事にはこう書いた。

今までこの曲を聴いたことがない人、この曲を初めて聴ける人がうらやましいと思う。
そして、できるなら私も記憶を消し去って、もう一度「初めて」聴きたいと思う。


脳内にあらかじめ「この美」に反応するネットワークがあり、実際に「この美」に接することによって、そのネットワークにぽっかりと空いていたに違いない場所、おそらくそのネットワークの中核にあってまだ名前が与えられていない場所、そこに「この美」がぴったりと収まり名前がつけられる、そういうことではないだろうか。
だとすれば、正しい芸術鑑賞(宗教的体験もかもしれない)というものは、作品側(そして作者でさえも)が決めるものではないのかもしれない。そう思えばなんだか気楽に鑑賞できるような気がしてはこないか。

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外壁塗装

2019_05_10 18_42 Office Lensm 昨日から、我が家の外壁塗装工事がはじまった。

この種のメインテナンスは、建築後10~15年ですることが多いようだが、我が家は19年。他家よりちょっと遅め。
ご近所には数軒、同時期に建築された家があるけれど、そのいずれも3~5年ぐらい前に、この工事をしている。

今回は家本体の屋根、外壁、外構(擁壁)の塗装である。
外壁はサイディング仕上げで、サイディング材自体はほとんど傷んでいないように見えるのだが、隙間に少しクラックがあるように見える。おそらく屋根も同様ではないかと思う。
今のところ、雨漏りとかはまったくないけれど、漏れ出したら一気に傷むだろうから、予防的にメインテナンスすることに。

昨日は足場設置工事だけ。
だが、足場設置の邪魔になるものは除けておかなければならないから、前日にいろいろ動かした。

一番大変だったのは、外構に接して生えているツツジ。
このままでは清掃も塗装もできないので、壁から20cmぐらい空くように、枝を刈り払った。
ツツジは満開を過ぎて、だんだん色褪せてきたところなので、まあいいか。

P_20190513_181114-crop.jpg P_20190513_154609.jpg

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休刊日

本日は定例の休刊日

写真はいずれも、先だっての連休で知り合いが旅先から送ってきたもの。(どこでしょう?)


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うつろなハート
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うつろな海岸

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「中国思想史(下)」

5178rjb9DDL.jpg 森三樹三郎「中国思想史(下)」について。

(上)の続き。章番号が(上)に続いて付されているだけでなく、ページ数も(上)からの通算されている。
下巻は、儒教をめぐる動きと仏教がとりあげられる。
中国思想では「経学」というものに多くのパワーが投じられたという。儒教経典の解釈学である。しかし、これに関して、著者は「扱わない」という。

上巻の「はしがき」に書かれていたので、上巻で紹介すべきだったかもしれないが、本書(上下2巻)においては、「経学」すなわち儒教経典についての学問は扱わないと、きっぱりとした断り書きがある。
その理由だが、思想史の研究者にとっては重要性は変わらないにしても、一般読者にとっては「死せる犬」でしかない、経書の一字一句の考証などは、死せる犬の毛についた蚤の数を計算するようなものとまで言っている。
また政治思想・経済思想の取り扱いも薄いとする。これは中国の特殊な時代背景のもとに生まれたもので、その時代の一過性のものだからだとする。これについては他書がたくさんあるだろうとする。

第五章 秦漢の大帝国の成立と思想界の動向 215
1  漢初の思想界
2  儒教の勝利と経学の成立
3  漢代の思想界の流れ
 
第六章 六朝時代の思想 255
1  六朝文化の大勢
2  三国魏の時代と老荘思想の全盛
3  西晋の天下統一と享楽主義の風潮
4  東晋王朝と仏教の受容
5  仏教の中国風の理解
6  道教の成立
 
第七章 隋唐時代の思想 297
1  唐の前半期――安禄山の乱まで
2  唐の後半期
 
第八章 宋代の思想 327
1  宋代の社会と新儒学の誕生
2  北宋に生まれた儒学
3  南宋の朱子学
4  朱子学の対立者・陸象山
5  宋代の仏教と道教
 
第九章 元・明の思想 379
1  王陽明300
2  陽明学の左派
3  李卓吾――陽明学の自滅
 
第十章 清朝の思想 409
1  清初の思想界
2  清朝中期の思想界
3  清朝末期の思想界
これに対し従来の中国思想史では扱われない仏教史をとりあげたという。
仏教は中国にとっては外来思想であること、この分野は思想史とは別に一分野をなしていると認識されているからだとするが、本書の著者は中国仏教は、中国独自の展開をとげ、著しく中国的、伝統思想と交流し、六朝いらい千数百年にわたる中国思想の流れは仏教を無視しては理解できないとのことである。

であるけれど本書は仏教史ではないので、仏教が顔を出しては、儒教との関わりなどがとりあげられている。
それと私が思うには、仏教は、中国では日本のように恵まれていたわけではない。弾圧されたり、廃れたり、そしてまた復活したり、系譜は続いてはいるものの、歴史の表舞台というようなところにはそうそう出てこない。
弘法大師が恵果から奥義の伝授を受けたのは、中国における仏教のおかれたせせこましさみたいなものがあったのではないかと想像する。

その中で、禅を生んだのは中国と言ってよいようだ。

平安期には日本国内で独自に発展していた仏教に、禅宗をもちこんだのは中国の影響だ。


私には、儒教というのは宗教でもなければ学問でもないように見える。著者が言うように死んだ犬の毛についた虱の数を数えるほど精緻に頭を使っているにもかかわらず、世界を理解しようということに対しては驚くほど無関心に思える。それは私が西洋の近代合理主義に毒されているからだろうか。

正直に言って、下巻は上巻のような面白さはない。
事実・実験で検証のしようのない「学問」がはばをきかせているようでは、やっぱり面白くないようだ。

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「中国思想史(上)」

71MM2LdxiUL.jpg 森三樹三郎「中国思想史(上)」について。

40年以上前に出たずいぶん古い本だけれど、図書館の「新着棚」に並んでいた。
著者の名前になんとなく見覚えがあって、中国思想とやらをおさらいしてみようという気になった。

上巻の中心は戦国時代までといって良い。
高校の歴史の授業で習う諸子百家が活躍した時代、その主要な思想を簡略に説明してある。

諸家を分類すると、儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縦横家、雑家、農家となるわけだが、これは伝統的分類というやつだそうで、それぞれのに属する思想家が、当時、そういう分類名を使っていたわけではないらしい。
だからだろうか、儒家に分類される思想家は、孔子、孟子、荀子と、三人もとりあげられている。(しかし、この三人はそれぞれ違っていて、とりわけ荀子はかなり離れている印象)
儒家を三人もとりあげたのは、儒家が中国史において重要ということもあるだろうけど、それは後世に儒学をベースとした政治がもてはやされるからで、著者はこの教えに特別な思い入れがあるようには見えない。

はしがき
 
第一章 中国思想の一般的性格11
1 宗教的な色彩に乏しい12
2 西洋的な意味での哲学がない16
3 中国思想を政治的にしたもの21
 
第二章 天の思想・汎神論的世界観29
1 天の崇拝の起源30
2 天の非人格化と汎神論的・連続的世界観33
3 天性と天命41
 
第三章 戦国時代の諸子百家47
1 諸子百家を生んだ社会的背景49
2 孔子54
3 孟子65
4 荀子73
5 韓非子86
6 墨子97
7 老子118
8 荘子145
9 列子172
10 名家――論理と詭弁180
11 陰陽五行説188
12 雑家――戦国末の諸子百家の交流197
 
第四章 秦の天下統一と法家思想の勝利205
213
儒教というのは、教えとして閉じた世界としてはつまらないもので、その時代々々の要請に応じてできているらしい。だから、孔子の時代、孟子の時代というふうにならざるをえないわけだ。
法家などは治世の技術という性格で、廃れたわけではなくて、それ以上展開する必要がなかったということかもしれない。

この時代、このように多くの思想がひしめいたのか。著者はシンプルに、乱世戦国だからと説明するわけだが、漢以降は、中国の人たちに「統一王朝」というものが意識されるようになったから、国が乱れても戦国時代になるわけではなくて、統一王朝が正しい国のありかたということになったのではないだろうか。

そしてこの統一王朝においては、儒教(とくに孟子)の考え方は、やはり、「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」である。

この助動詞「べし」は意志や命令ではなくて、可能の意味だそうである。つまり「従わせることはできるが、理解させることはできない」ということだそうだ。

だが儒教だけではなくて、帝王学というのはそういうものらしい。本書にはフリードリッヒ大王の言葉として、"All for the people, nothing by the people." というのが紹介されていた。

孔子(紀元前552年9月28日~紀元前479年3月9日)を始まりとするなら、秦(紀元前221年~紀元前206年)の滅亡までは300年、上巻はこの300年だけを守備範囲としている。そしてこの300年に、この後の2000年を超える多様な思想が犇めいていたということだ。

コンパクトにまとまっていて、中国をちょっと知った気になれる本。

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おっこらしょ

平成・令和の代替わりのせいか、テレビは特別番組がやたら多かった。
レギュラー番組は、尺を長くして「拡大版」などと銘打って、にぎやかだった。

「チコちゃんに叱られる!」も、『大型連休どまん中!72分拡大版“なつぞら”コラボSP!』というのをやっていた。

D5roMziUEAA8zqq.jpg 記事にとりあげたのは、番組の内容はどうでも良くて、ゲストの広瀬すずさんの一言。
チコちゃんに指名されて、ゲストステージからフロアへ降りるときの一言。

おっこらしょ


この一言に注目した視聴者は多いらしく、ご丁寧にも、ネットにそのシーンがアップされていた。(私もそれを拝借)

もちろん番組中でも他の出演者が一様に驚いていたわけだが、この「おっこらしょ」、普通には「どっこいしょ」だと思うのだが、思い出すのが、昔、バスツアーでのこと。

ツアー参加者に母娘の二人連れがいたのだが、娘のほうはおそらく20そこそこ。その彼女がゲラゲラ笑っている。他の参加者がバスの乗り降りのときにたいてい「どっこいしょ」というのが面白いと言い、年寄りはみんなどっこいしょと言わないとバスの乗り降りができないみたいだ~と。

かく言う私も彼女から見れば立派な爺さんで、気づけばやはり「どっこいしょ」と言っているのだった。


しかし、爺いが「どっこいしょ」と言っても失笑をかうだけだけれど、広瀬すずさんが「おっこらしょ」と言えば、可笑しいけれど、可愛い。私が「おっこらしょ」と言えば可愛いか?
この違いは何だろう。(といって誰が見ても「違うだろう」だけど)

ただ「おっこらしょ」というのは、言葉の響からストレートに意味がわかるけれど、あまり耳にしない。どこの地域の言葉だろうとネットで検索してみたがわからない。
広瀬すずさんが静岡の出身ということで、ピンポイントで静岡方言を見てみたが「おっこらしょ」は見つけられなかった。
いったい、どこの人たちが使っている言葉だろう。業界用語でもなさそうだが。

ところで、この番組で、スリッパのことがとりあげられていた。
靴のまま家へ上がろうとする外国人に業を煮やした旅館が、靴を履いたまま上がるために用意したものだという。つまり室内履きということなのだが、そんなことをした外国人て、本当にいたのだろうか。

イギリス人は靴を脱ぐことはマナー違反で、裸足を見られるのは裸を見られるのと同じぐらい恥ずかしいことだというような話を何かで読んだ憶えがあるが。


イギリス人もスリッパは履くようだ。「マイ・フェア・レディ」の最後の台詞(ヒギンス先生)

"Eliza? Where the devil are my slippers?"

ヒギンス先生、靴の上からスリッパを履いたりはしていないと思う。

Where_are_my_slippers.jpg


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放出~新大阪

2019-04-29_093140.jpg 今回の香川行きは鉄道利用。
長距離の車の運転が億劫になってきたこともあるけれど、何より片道は一人だけになるので、車の方が交通費が高くなる。

連休中なので混雑が心配だったけれど、29日出発、令和になって5月2日に帰るということで、大した混雑にはならないだろうと思った。
混み具合を推し量るのに、JRの予約サイトを見るのだけれど、一番心配な岡山―観音寺間の特急は、前日でも指定席が予約できるぐらいの状態。

私はこの区間はいつも特急利用だが指定席はとったことがない。混雑していれば指定はとれないし、空いていれば自由席で十分ということ。(なんか変)


P_20190502_152410-crop.jpg そして今回の旅行では、3月に開通したおおさか東線放出―新大阪をはじめて利用する。
前に、直通快速がないのがちょっと残念と書いたけれど、放出では学研都市線の快速が入ると、向かい側のホームにおおさか東線の列車が待っている。待ち時間1分である。

これはラクである。
今までは、京橋で環状線に、大阪で東海道線に乗り換えて新大阪へ行っていたわけだが、おおさか東線開通で、放出で乗り換えれば新大阪まで行ける。乗り換え回数としては1回減るだけなのだけれど、乗り換えで長い距離を(それも上がったり下がったりしながら)歩くことがなく、しかも大阪駅の混雑に辟易するようなこともない。おまけにおおさか東線はゆっくり座れる。

P_20190502_151032-crop.jpg おおさか東線は新大阪のどのホームに入るのか、事前の情報では一番北にホームができるようだったが、新幹線の乗り換えが不便なことはないのかちょっと気になったが、着いてみると新幹線乗り換え口に一番近いホームだから、これはありがたい。

とはいうものの、帰りに思ったことだが、のぞみの自由席に座っていたら、新大阪の雑踏をかきわけて歩く場合、いくらおおさか東線のホームが近いといっても、5分程度の乗り換え時間ではちょっときついと思う。

特に、盆・正月や連休のようにいろんな人(急ぐ人、のんびりする人、迷っている人)で混雑している時季は歩きにくい。


おおさか東線は、野江で京阪、淡路で阪急と交差し、駅が近いから、京阪や阪急沿線の人も新大阪へ出るときには、このルートがラクかもしれない。

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六二郎。六二郎。


定年退職
苦しい家計の足しに再就職
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