学校では教えられない!エロすぎる古典

2017-06-23_115216.jpg 朝日放送に「ビーバップ!ハイヒール」という深夜番組がある。
狙って視ることはないので、何曜日か気にもとめていないが、放送日は木曜日である。

先日、もう寝ようと思ってテレビを消そうとしたら、この番組の案内がでた。
「学校では教えられない!エロすぎる古典」

この案内を見てすぐに、ゲスト解説者に思い至った。
ズバリ、大塚ひかり先生でしょう。

Screenshot_20170623-112423-crop.jpg 内容も当然、推察できる。最近、「快楽でよみとく古典文学」という本も読んだところである。
前にもこの先生の本を読んでいるけれども、動いて喋る先生は見たことがないので、どんな人か見てみようと思って、番組にお付き合いした。

まずは、竹取物語でジャブ。「得てしがな 見てしがな」という詞は、「ものにしたい やりたい」の意味であると解説される。

大塚先生によると、「見る」というのは、当時の貴族の女性は、父親や夫にしか顔を見せない、その顔を見るというのは、「やる」の意であるとのこと。


続いて、エロ小説の本命「源氏物語」。
もはや解説の必要はない。とにかく、ヒカル君はとんでもないゲス野郎ということである。

エロいのは女も同じ。番組中ではクイズ形式で説明されていた。

Screenshot_20170623-112814-crop.jpg Q 「おようの尼」が思う坊主をわがものとした方法は?

A 女を紹介するといって、闇に紛れて自分自身がその女となった


Q 男を来させたいときに、女がするおまじないとは?

A 服を裏返しに着る。(事が起こった状態を先取りする)


番組後半では、和泉式部がとりあげられ、現代劇に翻案した寸劇に仕立てられていた。

和泉式部を清少納言と紫式部が取り巻くという設定はやりすぎと思うけれど。


快楽でよみとく古典文学
はじめに 性愛の古典
第1章“恋”に費やす膨大な労“力”
第2章“見る”は結婚のはじまり
第3章“夜”が“離”れ、“枯”れていく恋
第4章“すき者”どもの禁断エロス
第5章“蜘蛛”の動きも“眉”の痒さも見逃さない
スピリチュアル主義
番組では「エロいはエラい」というテロップが何度も流された。

しかし「エロい」といっても、大塚先生が紹介する古典は、大してエロいものではない。いわゆる名作古典ばかりをとりあげているからで、古典ポルノにはあたらない。
エロ要素というより、セックスを隠すことなく、それをベースにおきつつ、男女の愛憎などを描写していると考えるべきものだと思う。

ポルノというのは、性的な行為の描写により、読者に性的興奮を起こすことを目的とした作品である。
これも古典に名作がある。有名なのは「小柴垣草紙」、鎌倉期に成立したという。
その詞書の一節をとりあげると

koshibagaki_sousho_shunga.jpg お足にたぐりつくままに、おしはだけたてまつりて、舌を差し入れてねぶり回すに、ツビはものの心なかりければ、かしらも嫌わず、水はじきのようなる物をば、せかせさせ給いけり。

というようなもの。そのものズバリである。

「春画展」にも出てました。


現代語訳で続きをもう少しサービス。

もだえる斎宮様の御姿に、男たるものなんで絶えられましょうや。紐解く手ももどかしく狩衣・袴を脱ぎ捨てれば、もはや玉茎はそそり立ち怒り波うちたる有様。 男はその玉茎を、ねぶりそそのかされて朱に膨らみ、御肌よりむらむらとわき出でた斎宮様の雛先に差し当てて、上から下へ、下から上へ、あらかにさすり上げ、さすりおろしたそうにございます。玉門はいよいよ潤い開き、玉茎のはりはますます強くなったことでございましょう。

申し訳ないが、上は出典不明。以前、ネットを渉猟して見つけてメモしてたもの。


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中央銀行は持ちこたえられるか

河村小百合“中央銀行は持ちこたえられるか ──忍び寄る「経済敗戦」の足音”

Chuo_ginko_wa_mochikotaerareruka.jpg 金融政策に詳しくないので、この本に書かれていることは、ちゃんとは理解できない。

新聞記者も同様だと本書の著者は言っている。
日銀の記者会見や資料提供に対し、わけのわからん質問をしたり、的をはずした記事を書いているという。

ただ、素人でも、引用されている図表を見ていると、どうして日本だけ、こんなに異常なんだろうという気持ちになる。
先年破綻したギリシアよりも、数値としてはもっと悪い。

日本国の財政危機については、多くの人が不安に思っていると思う。
「日本の借金時計」なんていうページもある。
国の借金とは、国債である。
そして、前から指摘されていることだが、この国債のかなりの部分が、日本銀行に保有されている。
その額約400兆円。しかも、毎年80兆円ぐらいずつ増えるという。

日本銀行「第132回事業年度(平成28年度)決算等について」


良く知られているように、日本銀行が国債を引き受けるのは法律で禁止されている。
戦時中、国の戦費捻出に戦時国債が発行され、それを日銀が引き受けた。それに相当する日本銀行券が政府に入り、それが市中で戦争資材の購入や兵隊の給与として使われる。日銀券の発行額が膨れ上がり、当然、これはインフレ要因にもなる。そうした財政規律もなにもない国政を行わないために設けられた制約である。

その制約があるから、現在は、一旦、市中銀行が国債を引き受ける。国債の利ざやが目的ではない。はじめから日銀に買ってもらう前提で買う。迂回引き受けと言うべきもの。(脱法行為だよね)

ただ、今は市中銀行の日銀当座預金が膨大な額になっていて、あんまり日銀券が増えるということでもないらしい。素人だからよくわからないが、インフレ誘導がうまくいかなかったのはそういうことだろうか。マネタリーベースを増やしても、マネーサプライが思ったように増えないということも本書で指摘されている。(外国の中央銀行は、日本の異常な金融政策とその結果を評価して、同じことはやらないとも)
結局、アベノミクスをやっても実体経済がついてきていない、それだけ市中での投資需要がないということかもしれない。
バブルの少し前に、金余りといわれた時期があった。それを記憶している人は、バブルを起したいと思っているのでは。


デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日本銀行の政策連携」というやつがこれかな。
で、どっちも実現されず、残ったのは国債の山というわけである。

もちろんそういう政策をやってなかったらもっと酷いことになってたという意見もあるだろうけど。
しかし、こうした政策をやって、実体経済、すなわち民間投資が喚起されるのなら、出口(この異常事態の終結)が見えるのだろうが、一向にそうした気配がないようだ。


今の状態が良いと考えている人は、一人もいない。ただ、問題を先送りできると考えている人、一刻も早く解決に乗り出さないといけないと考えている人がいるということらしい。

第一章 わが国の政策運営の油断と慢心
第二章 「財政危機」のあり得るシナリオ
第三章 欧米諸国と日本「財政・金融政策」比較
第四章 金融危機後の「金利ゼロ」の世界と「量的緩和」
第五章 中央銀行は持ちこたえられるか
第六章 財政破綻のリアルⅠ-欧州債務危機の経験から
第七章 財政破綻のリアルⅡ-戦後日本の経験から
第八章 蓄積され続けるリスクと遠のく正常化
第九章 なぜ掟破りの政策運営は“放置”されてきたか
第十章 子どもたちの将来への責任
ギリシアなどの財政破綻が起こると、GDP比でも国債残高がそれよりも多い日本は大丈夫かという声が出てくる。
それについて、今まで聴いていた意見は、国債は日本国内で保有されているから、海外投資家が投げ売りをして暴落する心配はないということだった。
ところが、本書によると、日本国債の金利が低すぎるから、海外投資家が買いたがらないだけだという。
そして、ギリシアのようにはならない、ということは、外国からの借金を踏み倒したギリシアのような形にはならなくて、踏み倒されるのは日本人ばっかりになるということらしい。

もし日本銀行が破綻したらどうなるか、これについて、同じ著者が、“「戦後80年」はあるのか―「本と新聞の大学」講義録”の「第七回 この国の財政・経済のこれから」に書いていた。
本書は、それが出版された後、出版社からの依頼で、詳しい解説として書かれたものという。

はじめに書いたように、私には金融政策は良くわからないのだけれど、破綻したらどうなるのかは、本書である程度、感じ取れる。

昔、両親が健在だったときに、戦後の「新円切換+預金封鎖」の話を聞いたことがある。お金なんか使えんようになったんやで、という話である。
私の両親は、その頃はまさに社会人生活のスタートラインにあったわけで、資産というものなど全くなかったから、財産税も預金封鎖も、本人たちにはあまり致命的な影響はなかったらしい。

しかし、今の時代、多くの高齢者が財産を貯め込み、年金で暮らしている。
戦争で、何もかも失った、国中が、一からスタートしようという時代とは違う。

今のところ私の収入はまだ勤労収入が主で、年金収入はその半分にもならないのだけれど、近いうちに主たる収入は年金になる。そして、もし年金制度が破綻したら、暮らしの見込みが立たなくなるわけだ。


先行きが短くなるということは、可能な生き方も少なくなっているということである。
せめて現状維持ができてほしい、それが多くの高齢者の気持ちに違いない。

若い人たち、将来には不安を持っているだろうけれど、若いということは、柔軟性があること。人生をこれから選択し、組み立てていけるということ。
(われわれ年寄りの)未来は君たちにかかっている、ガンバレ、もう少しだ。

ところで、政府が破綻するときは、インフレで債務を減らすんだろうけれど、そのときは日銀が保有する国債は大暴落、日銀も一緒に破綻するんじゃないだろうか。
「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日本銀行の政策連携」ですな。

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「たばこはそんなに悪いのか」

Tobacco_how_harmful_is_it.jpg 喫煙文化研究会「たばこはそんなに悪いのか」について。

著者の名前もない、あやしげな出自、文化の名の下に、感情的にたばこバッシングを批判する、そういう本かと思ったけれど、そういうものではない。
「喫煙文化研究会」というのは、会長すぎやまこういち、以下、養老孟司、筒井康隆、さいとうたかを、中西輝政、西部邁など、政治的イデオロギーは全く異なるだろうという人たちが集まっている組織らしい。

しかも、名前のあがる人たちは、名前だけ使われることは嫌がるような人たちではないだろうか。


プロローグには、『世にあふれる“理系人間”による「喫煙と健康」にかかる研究や仮説に対する“文系人間”からの批判・反論(逆襲!?)』と書いてあるけれど、どうしてどうして、かなりツボを押さえたところがあって、ちゃんと疫学の知識を持っていて、さまざまな反たばこ論文を読んだ上でのことのように見える。

反たばこ研究(たばこが有害であるとする研究)への批判は、おしなべて根拠が薄弱で信頼性に欠けるというわけだが、それは疫学調査そのものの難しさがあるから、研究者を責めるわけではない。

もっとも、取り上げられる反たばこ研究結果を見ていると、検定は通らないけれど、傾向として読むなら、たばこの害を示してはいる。やっぱりたばこは体に悪そうだという気持ちも湧くんではないか。


   
プロローグ 百害あるものは百利あり
第一部 たばこバッシングの歴史的構造
I  ジャパニーズ・パラドックス
II  バッシングはいかにして起きたか
III  疫学調査の欺瞞
IV  「生物医学」というパラダイム
V  たばこ企業vs反喫煙主義者
第二部 たばこはそんなに体に悪いのか
I  喫煙と疾病
II  バッシングを加速させた〈受動喫煙〉
III  〈ニコチン依存症〉の〝発明〟
IV  もう一つのバッシング「社会的コスト」論
V  「医療化」ということ
VI  何が人の寿命を決めるのか
第三部 たばこのチカラ
I  急速に広まった喫煙の風習
II  人は、なぜたばこを吸うか
III  シガレットの「光と影」
IV  「適正な喫煙」とは
V  永遠の課題──あとがきにかえて

一方、たばこにも良いところがあるという説も紹介されるけれど、これも根拠といえるほどのデータをもっているわけではない。また、たばこは健康に害はないと証明できるのかと言われたら、それはできない。反たばこ研究の信頼性にいくら疑問を持ったとしても、それで因果関係が否定できるわけではない。

そういう意味では五十歩百歩のようにも見えるわけだが、本書では、確証バイアス―ある事実を証明しようとして、確たる証拠が得られなかたり、反する結果になった場合は、その研究はなかったことにされる―は、一方的に反たばこ側に作用しているということが付言され、複数の研究結果がたばこの有害性を示しているというようなメタアナリシスは無効だとする。

おそらく、たばこの有益性の証明を目的とする研究には、科研費は出ないだろう。もっとも、以前は、煙草産業からは大量に研究費が出ていて、反たばこ側は不利であると主張されていたけれど。


不思議なことに、疫学の専門家は、相関関係は因果関係ではないこと、因果関係を認めても良いとする場合の評価基準は熟知しているはずなのだが、ことたばこの害については、これらの基準はなぜか無視される。これでは研究結果の信憑性が疑われ、本書のような反論を招く結果となる。
ヘイトスピーチのようなマネはやめて、冷静な反たばこ論を起すべきだと思う。

とりわけ、前にも書いたように、一本のたばこも許さない、というような、疫学上の基本クライテリアの一つとされる量-反応(dose-response)関係に一顧だにしないような主張は、あまりにエキセントリックで、ついていけない。
たばこが健康に悪いとしても、一日何本までなら許容範囲といっても良いのではないか。そう言ってくれたら、「罪業妄想」を持たずに済むし、たばこを文化として評価するという精神衛生上のメリットがあると思うんだけれど。
お酒は1日○合までと言う一方、どうしてたばこだとそれが言えないんだろう。

近年、勇気ある医師のなかに、「1日10本くらいが目安」と許容意見を表明する人もいる。ただし、反たばこ論者なら、その根拠を示せと迫るに違いない。それを目的とした調査研究にはお金が出ないことを見越して。

放射線や大気汚染物質について閾値を設けるのは、それらが人間の生活上不可欠なもので、ゼロとすることができないという理由がある。ゼロにできない以上、許容できる範囲を決めておこうという発想である。

2017-06-15_161742.jpg しかし、嫌煙家には、たばこの文化的価値を一切認めないという信念があるようだ。
したがって、嫌煙家には、「たばこの害」と「吸わない害」(全く吸わない場合のデメリット)の合計の最適化、なんて発想はないだろう。

そんな都合のよい計算はできないというなら、せめて、他の体に悪そうな行動と比較してもらえないだろうか。

たとえば、たばこ1本は、○分間大日交差点に立っているのと同程度の健康被害を与えますとか、豊洲市場で○分間働くのと同程度ですとか。


それにしても、嫌煙家からすれば、このような本が出版されること自体が許せないに違いない。
Amazonのレビューは3件、1件は★★★★★(最高評価)、2件は★(最低評価)。
これが現実。
嫌煙家と愛煙家が理解しあえるような世は永遠に来ないようだ。

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「その日暮らし」の人類学

人類学は、その初期は、異文化社会の征服に資することを目的としていたという。
人類学の古典とされる著作は、その土地の習慣やライフスタイルを記述して、効果的に支配をすすめるための知識を提供する。
有名なルース・ベネディクト「菊と刀」は、日本に勝利し、統治することを展望した研究が基礎となっているといわれる。

さて、小川さやか“「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済”について。
著者の専門は文化人類学、なかでも都市人類学という。その都市における文化を研究する。
Sonohigurashi_no_jinruigaku.jpg

文化人類学というと、未開の部族の研究をイメージするが、そもそも文化は人類が共通してもつもので、、さまざまな文化の研究がある。
学生のときに、文化人類学の講義では、最初に「文化」の定義が行われる。
ある集団の文化とは、その集団内で、

  • 創造され(created)
  • 共有され(shared)
  • 継承され(heritated)

るものと定義される。
従って、集団のとりかたによって、ある部族の文化、日本の文化、地域の文化、学生の文化、というような使い方もでき、集団をヒトに限らずに、幸島のサルの文化、ということもできる。そして、実際、文化人類学の講義は、そのように進められていた。


とっつきにくい本だなぁ、というのが読み始めの感想。
言葉が空回りしているような印象。
言葉がシンボリックに使われても、読者側に、その言葉に付随する意味に対する知識が不足しているからだ。

ところが、本文に入ると、急に親しみがわいた。
掛谷先生(教養の自然人類学でこの先生の講義を聴いていた。講義中に煙草を喫い、学生にも喫いたかったらどうぞという。アフリカの一部族では呪術師として生活していたとか)の話がでたこと。

もう一つは、「ピダハン」の話が紹介されたこと。(ピダハンについては、⇒エヴェレット「ピダハン」

ピダハンは、すべての部族に何らかの形で共通に存在すると考えられていた「神」を持たない。すべての知識・情報は、その場において意味を持つ形でのみ発せられ、ほとんどの抽象語が、数詞すら無い。驚くべきことに、ピダハンの言語には再帰的な構造がない。つまり括弧でくくる操作がない、「魚がいる」はあっても、「私は『魚がいる』と思う」という表現はないことを意味する。

ピダハンこそ、究極の「その日暮らし」(Living for today)として(短く)紹介される。
つまり、「その日暮らし」というもののベースがここにあるようだ。

プロローグLiving for Todayの人類学に向けて
第一章 究極のLiving for Todayを探して
第二章 「仕事は仕事」の都市世界
――インフォーマル経済のダイナミズム
第三章 「試しにやってみる」が切り拓く経済のダイナミズム
第四章 下からのグローバル化ともう一つの資本主義経済
第五章 コピー商品/偽物商品の生産と消費にみるLiving for Today
第六章 <借り>を回すしくみと海賊的システム
エピローグLiving for Todayと人類社会の新たな可能性
経済学では、経済人(ホモ・エコノミクス)という人間像が基本になっているといわれる。
そして近代的な経済人というのは、計画的で、時間厳守で、勤勉である。(⇒大塚久雄「社会科学における人間」

どこまで徹底しているかはさておき、そういう人間に違和感を持たないというのが、おおかたの日本人だと思う。
ところが、著者の調査フィールドであるタンザニアでは、どうもそうではないらしい。というか、上記のような性質があるとしても、我々が考えるようなものとは違っている。

誤読・誤解をおそれず簡略化すると、「その日暮らし」というのは、蓄積をしないということになる。
本書のサブタイトルは「もう一つの資本主義経済」なのだが、普通イメージする資本主義というのは、蓄積がなければ興らない。勤勉なホモ・エコノミクスが貯えた富の存在が、資本主義の勃興期を支えたという。
本書が言う資本主義では、資本は蓄積するのではなくて、儲けを手にしても、すぐガラガラと崩れてしまうようなもの。人のネットワークはあるが(そしてそれが生きる保障、セーフティネット)、組織を構築したりはしない。

典型的なのが借金のありかた。ここでは、借金と贈与には、ほとんど違いがない。

ただし、人類学的には、そもそも贈与とは借りという感情を伴うものとされるらしい。

困ったら借りる、しかし、貸した側も返せとは催促しない。貸した側が困っても、貸した金を返させるのではなく、別に貸してくれる人を探すという。
これを「<借り>を回すシステム」という。

アフリカではスマホが急速に普及しているそうである。有線ネットワークの整備が困難な状況で、モバイルの方が整備しやすいというインフラ側の事情もあるためらしい。

子供たちがゲームばっかりしたり、SNSにはまるなど、日本と同じ状況になっている。
そう言えば、以前、アフリカの視察団の方から、そうしたスマホの問題点について、日本ではどのように対処しているのかという質問があった。


そして、このスマホで電子送金システムが普及した。
今までの「<借り>を回すシステム」の文化を壊すのではなく、それをベースとして、効率よく、迅速にシステムが回るようになったのだそうだ。

それと、この「その日暮らし」経済と、中国の商売が、実に相性が良いらしい。
実際、アフリカと中国の間の人の往き来、商品の行き来はかなり分厚いと書かれている。

(中国という国家がアフリカに投資するという、国家政策の話ではない。)

「その日暮らし」の経済においては、アフリカと中国の商人の商売には親和性があるらしい。ただし、「<借り>を回すシステム」のような、人間のネットワークや信頼関係があるわけではなく、「その日暮らし」、「その場限り」の取引関係である。
コピー商品、フェイク商品、不良品や不誠実な取引、それらもすべてこの取引、こうした取引だからこそ、含まれる。

アフリカで商売を考えるなら、このしたたかさは知っておかなければならないだろう。
ただ、それらは決して閉鎖的なものでも、富の蓄積をベースにした固定的な体制でもないようだから、排除の論理はなさそうだ。近代資本主義に慣れた感覚で相手をなじってはいけないけれど。

それにしても、結局のところ儲けも一時のこと、貧しさが基調にある、蓄積がないのもその結果、みんなが貧しいから<借り>を回すしかないというだけかもしれない。
それでも、そこに文化というかライフスタイルがある、それは間違いないことだけど。豊かになったら、この文化はどう変容するのだろう。

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枕草子のたくらみ

山本淳子「枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い」

たくらみ」とは穏やかでない。まるで何か政治的な意図でもあるかのようだ。
makura_no_soushi_no_takurami.jpg しかし、この「たくらみ」とは、そうした権力的なものではない。定子のサロンが、おそらく当時としては破格の優れたサロンであったことを記録にとどめ、それとともに定子をいつまでもこの国の人々の記憶にとどめようという「たくらみ」である、と著者は主張している。

そして、その「たくらみ」は成功した。
私たちが今でも枕草子を大事に思い、読み継いでいるのだから。

枕草子は、伊周が献上した冊子(紙)に、古今集の筆写でもしようというところを押しのけて、清少納言に下命されて書かれている。そして、下命を受けて書かれたものは、下命者に献呈されるものである。定子に読んでいただくことを前提として、書かれたものである。
著者は、繰り返していう、定子になったつもりで読めと。

定子は完璧な女性である、少なくとも清少納言はそう思っている。
子供のころから、後宮に入ることを予定され、母貴子がそうであったように、和漢の典籍、礼楽に通じた深い教養、機知と人情に富む人柄、そして「かかる人こそは世におはしましけれ」といわれるほどの美しさ。
何不自由なく、自信に満ちた後宮生活、そして父関白のの死、兄内大臣の転落、一族が凋落するなかで24歳で閉じる命。

才気走って、ミーハーな清少納言、深みの無い作品枕草子。
それは表面的な読みだという。清少納言にそうした面があったことはそうなんだろう、しかし、かつてのサロンを懐かしみ、少しでも気散じにと、決して暗いことなど書かずに、サロンで起こった一コマを切り取って描写する、それを受け取る定子の気持ちをすべて踏まえるなら、これ以外の書き方はなかったのかもしれない。

そして、その通りだったら、清少納言というのは、なんと魅力的な女性だろう。
才気をひけらかして、他の女房から憎まれながら、言い訳をしたり、卑屈になることもなく、女主人への深い思いを秘め、そして女主人のために、そして女主人を偲ぶ、きりっとした姿が浮かぶ。ウェットな感情はけっして表に出さず。

これで絶世の美女で、艶聞も多かったら、完璧だ。昔あこがれた「カラマゾフ」のグルーシェンカのようだ。


ところで、紫式部が清少納言を酷評していることは有名で、本書でも最初(序章―酷評)にそのことが書かれている。これについて、著者は、それは、紫式部は、定子に起こった厳しい事情を知っているから、なぜ枕草子がそんな書き方をするのか、そのことに対する評だと言う。

そういえば、著者は別書「平安人の心で『源氏物語』を読む」で、清少納言ならぬ紫式部と定子の共通点、式部が定子(彰子ではなく!)に感情移入できる点がいくつかあるとも指摘されている。そして、桐壷の更衣のモデルは定子であろうとされる。(そうだとすると、私には紫式部もかなり屈折した性格に思える。)


紫式部を苛立たせこと、そして私たちが枕草子を読むときに定子に思いを致すことで、枕草子の「たくらみ」は完全に成就する。
本当のことはわからないけれど、著者のいうとおりのほうが、清少納言も枕草子も、ずっと魅力的なものになることは間違いない。

序章清少納言の企て
酷評/定子の栄華/凋落/再びの入内と死/成立の事情
第一章春は、あけぼの
非凡への脱却/和漢の后/定子のために
第二章新風・定子との出会い
初出仕の頃/機知のレッスン/型破りな中宮/後宮に新風を 清少納言の素顔/父祖のサバイバル感覚/宮仕えまで
第三章笛は
横笛への偏愛/楽の意味/堅苦しさの打破
第四章貴公子伊周
雪の日の応酬/鶏の声に朗詠/『枕草子』の伊周/伊周の現実
第五章季節に寄せる思い
『枕草子』が愛した月/節句の愉しみ/分かち合う雪景色
第六章変転
中関白道隆の病/疫禍/気を吐く女房たち
第七章女房という生き方
幸運のありか/女房の生き方/夢は新型「北の方」/「女房たちの隠れ家」構想
第八章政変の中で
乱闘事件/魔手と疑惑/定子、出家/枕草子の描く長徳の政変/引きこもりの日々/晩春の文/原『枕草子』の誕生/再び贈られた紙/原『枕草子』の内容/伝書鳩・源経房
第九章人生の真実
「もの」章段のテクニック/緩急と「ひねり」系・「はずし」系/「なるほど」系と「しみじみ」系
第一〇章復活
職の御曹司へ/いきまく清少納言
第一一章男たち
モテ女子だった清少納言/橘則光/若布事件/則光との別れ/藤原行成/鶏の空音
第一二章秘事
一条天皇、定子を召す/雪山の賭け/年明けと参内/壊された白山…/君臣の思い
第一三章漢学のときめき
香炉峰の雪/助け舟のおかげで
第一四章試練
生昌邸へ/道化と笑い/枕草子の戦術/清少納言の戦い
第一五章下衆とえせ者
下衆たちの影/臆病な自尊心/「えせ者」が輝くとき
第一六章幸福の時
「横川皮仙」/高砂/二后冊立/夫婦の最終場面
第一七章心の傷口
「あはれなるもの」のあはれでない事/紫式部は恨んだか/親の死のあはれ
第一八章最後の姿
「三条の宮」の皇后/お褒めの和歌/二人の到達
第一九章鎮魂の枕草子
「哀れなり」の思い/鎮魂の「日」と「月」
終章よみがえる定子
共有された死/藤原道長の恐怖/藤原行成の同情/公達らの無常感/一条天皇の悲歎/清少納言、再び

本書の読み方にしたがって、定子と清少納言を中心にした二次作品(映画、演劇、まんがなど)が作られたら魅力ある作品になると思う。著者が脚本を書いたら良いのではないだろうか。
さて、映画やドラマにするとしたら、定子、清少納言は、誰が演じるのが良いだろう。

清少納言には北川景子を推す。ツンツンした感じが良い。美人すぎるのが清少納言のイメージとは違うけど。
問題は定子、完璧な美女にして(とりわけ手・指が美しくなければならない)、知性あふれ、しかも優しい心、そして、明るさの中にふと暗い陰を感じさせるような女優。


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プロット・アゲンスト・アメリカ

51GKIUw3K7L.jpg フィリップ・ロス「プロット・アゲンスト・アメリカ」

長編小説。このぐらいの長編といえば、学生時代のドストエフスキーの長編以来ではないだろうか。
普段、小説は避けている私が読んだのは、たしか "「戦後80年」はあるのか" の中で紹介されていて、一度読んでみてもよいかなと思ったから。

いわゆる過去SF、歴史改変小説で、歴史の分岐点において、実際に歩んだ歴史と異なる道を進んでいたらどうなっただろうか、という小説である。

本作では、ローズヴェルトが大統領三選をリンドバーグ(かの飛行機の英雄)に阻まれ、アメリカが第二次世界大戦に参戦せず、あろうことかナチスと友好関係を保つという、もう一つの歴史を、その状況に置かれたユダヤ人の子供の眼を通して描く。

(この子供は作者自身だろうか、同じ名前である)

リンドバーグ大統領に反発する両親、賛成・支持する兄、親戚や周囲のユダヤ人の生き方、そうしたものが、丁寧に描写される。
子供の眼だから、思想的なこと、政治的なことは直接的には論評しないのだけれど、その子供にも伝わる圧迫感、周囲の変調というものが、生々しい。大長編であることが、その変調が、じわじわと起こる過程を描く。その少しずつの変化。普通の日常生活を書きながら(子供らしい冒険はあるけれど)、世界が変わっていく。

あまりにも精緻に描かれていて、リンドバーグのアメリカを背景に、苦悩するユダヤ人、分断されるユダヤ人社会を描いた歴史小説かと錯覚するが、背景が虚構なのである。
登場人物は実在の人物が多い。そして、私は知らないが、その人たちの行動は、当時の行動、考え方から、さもありそうに描かれているらしい。リンドバーグは実際にナチから勲章を受けているし、ヘンリー・フォードは反ユダヤ主義者である。(巻末に登場人物の実際の年譜が掲載されている)

政策の方向性は違うけれど、トランプのアメリカと重ね合わせて読む人も多いと思う。
リンドバーグとヒトラーの関係が、トランプとプーチンの関係に、ユダヤ人がイスラム教徒に(ただし、ユダヤ人がテロをしたりはしていないところが違うけれど)。


分厚いハードカバーに製本されているから、さすがに通勤の車内では読みづらい(学生のときは平気だったけれど)。それで、寝る前にベッドの中で読んでいたのだけど、読みながら、いつのまにか寝てしまう。
ところが、寝てしまうと、たびたび夢を見る。本の続きを読んでいるという夢なのだ。
つまり、未だ読んでいないところを、夢に見る。
あるときは、本を読んでいるという夢ではなくて、自分自身が、このアメリカ社会に生きているという夢であったりする。

虚構の記憶が、夢という虚構の中で自律運動する。
優れた描写というのは、人の精神を狂わせるものらしい。

ところで、この本を読んでいて、「宇宙大作戦(Star Trek)」のあるエピソード(リンク先はYouTube)を思い出した。

2017-05-24_150700.jpg 錯乱して時空の歪みに入ったドクター・マッコイは1930年代のアメリカにタイム・スリップする。放置すると、マッコイにより歴史が改変されてしまう。このためカーク船長とスポック副長はマッコイを追う。そこでカークは平和運動家の素敵な女性(Edith Keeler)と出会い、恋心を抱く。
歴史の改変とは、事故死するはずの彼女がマッコイによって助けられ、彼女の反戦運動により、アメリカの第二次大戦への参戦が遅れ、ナチスが核を開発し、世界を征服してしまうことである。
ようやくマッコイを見つけたカークとスポック、そこへ歩み寄るキーラー、接近する車。キーラーに危険を知らせようとするカークをスポックが制止、助けようとするマッコイをカークが抱き止める。歴史は改変されずにすむ。

("The City on the Edge of Forever" 1967)


「プロット・アゲンスト・アメリカ」でも、結局、本来の歴史の流れに戻るわけだが、ネタバレになるので、このあたりで記事は終りにしよう。
あらためて、小説の持つ力というか、作者の筆力というものが、侮れないと感じさせられた。

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ポピュリズムとは何か

先日のフランス大統領選では、ポピュリズム政党といわれる国民戦線のルペン氏は敗れた。
その前、こちらも心配されていたオーストリア大統領選でもポピュリズム政党は敗北している。
昨年のBrexit、イギリスのEU離脱国民投票が、世界を驚かせ、この流れが各国に波及するのではと心配されていたところである。

そういうと、ポピュリズムは悪と断じているように聞こえるが、それはメジャーなメディアの意見にすぎないかもしれない。というのは、ポピュリズムはそもそもエリートを敵視しており、敵であるジャーナリズムによる評価なのだから。

ポピュリズム【Populism】
①1890年代アメリカの第3政党、人民党(ポピュリスト党)の主義。人民主義。
②(populism)1930年代以降に中南米で発展した、労働者を基盤とする改良的な民族主義的政治運動。アルゼンチンのペロンなどが推進。ポプリスモ。
(広辞苑第五版)
そもそも辞書をひけば、ポピュリズムという言葉は必ずしも悪とされていない。
ただし、マスコミ用語としては、ポピュリズムの日本語訳は「大衆迎合主義」とされたりしていて、あんまり良い訳はあてられていない。「迎合」というと、自分には確たるポリシーがなく、単なる人気取りのような印象になる。(もっとも、私は「迎合」ではなくて、大衆を扇動する政治手法だと思うから、良し悪しはともかく、この訳語は気に入らない。)

Populism_towa_nanika.jpg 水島治郎「ポピュリズムとは何か ―民主主義の敵か、改革の希望か」によると、ポピュリズムの定義は、着眼点によって2つのものがあるという。

第一の定義は、固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイルを言うもので、リーダーの政治戦略・政治手法としてのポピュリズムに注目する。

第二の定義は、「人民」の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動をポピュリズムととらえる定義である。政治運動としてのポピュリズムに重点をおく立場である。

そして、本書では、この第二の立場を基本としている。そのほうが、ポピュリズムが広がる必然性というか、時代の流れをとらえる視覚を与えるからだという。
そしてポピュリズムの主張の中心、というか依拠するところは「人民」なのだけれど、この「人民」がポピュリズムではどう理解され、扱われているのかが、説明される。
  • 普通の人々(ordinary people)
    特権層に無視されてきた「普通の人々」、サイレント・マジョリティ、その意見や不満を代弁する。
  • 一体となった人びと(united people)
    特定の団体や階級ではなく、主権者たる国民、人民を代表する。個別利益ではなく全体利益を代表すると自らを表象する。民意が多様であるとみなす「多元主義」の対極にある。
  • われわれ人民(our people)
    何らかの同質的な特徴を共有する人々を意味し、それ以外の人々と「われわれ」を区別する。

私自身は、この「人民」でも、それに対峙するエリート側の人間でも、どちらもしっくりこないように思っている。だからだろうか、二分法で単純化することに、ポピュリズムの論理的欠陥を感じてしまう。
ポピュリズムに眉をひそめる人の多くはそうなんじゃないだろうか。(そう言うと「おまえはエリート側だ」とかそうでなくても「エリート側に洗脳されている」と攻撃されるような気がするけれど)


第1章 ポピュリズムとは何か
第2章 解放の論理
―南北メリカにおける誕生と発展
第3章 抑圧の論理
―ヨーロッパ極右政党の変貌
第4章 リベラルゆえの「反イスラム」
―環境・福祉先進国の葛藤
第5章 国民投票のパラドクス
―スイスは「理想の国」か
第6章 イギリスのEU離脱
―「置き去りにされた」人々の逆転劇
第7章 グローバル化するポピュリズム
本書では続けて、ポピュリズムが、単なる迎合や扇動ではない、やはりデモクラシーなんだということが理解できると同時に、このように偏狭でもデモクラシーだと主張する立場が説明される。実際、反移民や福祉排外主義というのを正当化するのに、デモクラシーやリベラルの論理が使われているという。

本書の冒頭に、

「日本人には民主主義が根付いていない。民主主義が国民に根付いていなかったら政治なんて良くならないし、政治が良くならなければ日本も良くならない」

という橋下元大阪府知事の言葉が紹介されている。この陳述自体には変なところはないけれど、橋下氏のスタイルが従来の感覚の民主主義とは随分違っていて、違和感を覚える人も多いのではないだろうか。

しかし、上のように、ポピュリズムもデモクラシーだということもできる。
「民主的」というのは、人それぞれ違っている。
「民主的体制」が必ずしも「民主的」な国を保証するわけではないし、その逆もまた成り立たない。
そうなると、民主主義に至高の価値を置くというのはわけがわからなくなってしまう。

本書の扉に、「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のようについてくる」(マーガレット・カノヴァン)という言葉が書かれている。
最初にこれを読んだ時には、一体どういう状況を指しているんだろうと思ったけれど、デモクラシーとポピュリズムの関係は、人間の良心と偏狭の関係ぐらいに切り離せない、人間の業なのかもしれない。

でも、やっぱり思う。政治というのは異なる利害集団を調整するものだと思うから、ポピュリズムが異物を排除するものなら、それはもはや政治ではない。従ってデモクラシーでもない。それは内なる戦争ではないだろうか。ポピュリズムがその戦争に勝ったとして、それを支持した人民は幸福になるだろうか。

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生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像(その2)

中沢弘基「生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像」についての続き。

著者は、はじめに進化論(これは疑えないもの)を持ち出しながら、進化論は生命にだけ使える法則ではないと主張する。(これは私もそう思う。遺伝、変異、選択が存在するものには適応進化が起こる。)

IMG-cropsr2.jpg そして分子の自然選択が、どこで、どのような条件で行われたのかを考察する。
その鍵は、分子の親水性、疎水性という性質で、これが分子を並べるメカニズムとして作用しただろうとする。
こうしたメカニズムの一部は、実験でも確かめることができるという。

このような非生命体での進化を考えるのに、著者はエントロピーを持ち出してくる。

周知のとおりエントロピーは増大する(熱力学第二法則)。
物理法則は時間を逆転しても成り立つが、例外はエントロピーの増大則。時間の流れる方向を決定するのはエントロピーであるという哲学的洞察がある。

また、マクスウェルの悪魔が存在するなら、エントロピーを減少させることができる。悪魔が行う粒子選択活動のエネルギーが系の外から来るのなら矛盾はないと思う。


著者は、地球の歴史にもそれがあてはまっているはずと説き、エントロピーの収支を考えるなら、生命の発生は必然であるという。
このあたりは良くわからない。
本書でも引用されているように、シュレディンガーが「生物は負のエントロピーを食べて生きている」と言ったことぐらいは知っていたけれど、エントロピーというのは量としては実感できるようなものではないし、帳尻としてはエントロピーは増大しなければならないにしても、メカニズムの説明にはならないように思う。

「宇宙の熱的死」だってそりゃそうかもしれないが、それがどうしたという話。
熱的死を迎えないように宇宙論を作るというような発想もないように思うけど。

また、生命活動は地球の内部エネルギーよりも、太陽エネルギーを多く使っている(本書でもその説明はある)わけで、これとエントロピーとどういう関係にあるのか。太陽系全体としてのエントロピーは増大していても、地球はどうなのか。

というわけで、このエントロピーが歴史を動かすという発想は、著者の信念を支えるものだとは思うけど、具体的な科学的陳述としては、今一つピンとこない。
もっとも、エントロピーを持ち出さなくても、分子の自然選択というメカニズムは至極納得できるものである。

最後に、生命を構成する分子はなぜ親水性なのかという疑問についても、問を逆転させ、そもそも親水性分子から生命が構成されたからと説明される。昔から生命現象の一つの謎であるキラリティについても同様のスタイルで説明される。

例によって、私にこの説の真贋を判断する力はないけれど、なんだか、とても説得力を感じる。

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生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像

51EnxBfAoFL.jpg 中沢弘基「生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像」について。

生物学では、私の年代の者が高校で習ったことが大きく変わってきている。
その一つは、生物分類で、私の頃は植物界と動物界に大きく二分されていて、だからこそ、ミドリムシなど、ある種の生物については、植物か動物かというような論争があったわけだ。
ところが、今では、原核生物と真核生物に大きく分けた上で、原核生物に真正細菌と古細菌を、真核生物に原生生物界、植物界、菌界、動物界と6つの分類が最上位区分として設定されている。

しかも、キノコなどの菌類は、遺伝子的には植物より動物に近いということで、植物だと思い込んでいた私などはびっくり仰天、マツタケは胞子じゃなくて精子を出すのかと言いたくなる(下ネタ御免。なお、もちろん植物でも配偶子は精子と卵子と呼ばれる)。


また、私が高校のころは存在が知られていなかったというか、そんなところに生命体がいるとは考えられなかったところで、次々に生命体が見つかっている。

海底の熱水噴出孔に棲む生命とか、地中深く、地底微生物というものがいる。宇宙空間から隕石となって落ちてくる微惑星にも有機物がある。

そしてこうした特殊な環境の生命こそ、最初の生命の候補として脚光を浴びたりする。(最初の生命体は無機栄養でなければ理屈に合わない)

その生命の発生についてだけれど、本書でも紹介されているように、昔は、ミラーの実験のように無機物から有機物が合成されて、それが浅瀬などで水分の蒸発などで濃縮されたことなどが可能性として考えられていて、私も高校でそう教えられたと記憶する。

第1章 ダイナミックに流動する地球
第2章 なぜ生命が発生したのか、なぜ生物は進化するのか?
第3章 “究極の祖先”とは?―化石の証拠と遺伝子分析
第4章 有機分子の起源―従来説と原始地球史概説
第5章 有機分子の起源とその自然選択
第6章 アミノ酸からタンパク質へ―分子から高分子への進化
第7章 分子進化の最終段階―個体、代謝、遺伝の発生
第8章 生命は地下で発生して、海洋に出て適応放散した!
私が高校のときは既にDNAが発見されていて、DNAの複製や、RNAを介した蛋白質合成のメカニズムも授業で教えられていたが、その後、DNAは安定だが直接蛋白質合成にかかわらないから、最初の生命はRNAが本態ではないかとRNAワールドというのが提唱された。
あるいは、蛋白質こそ生命の本態と逆転して、スチュアート・カウフマンの自己組織系の話とかが興味を惹いた。

どれもこれも、そのときどきで、もっともらしい説と受け止められている(もっともらしくなかったら説にならない)。
というわけで、生物学の門外漢である私としては、結局、生命はどうやって誕生したのか、と半ばあきらめるような気持ちでいた。

本書では、上述の生命の起源論が一通り紹介され、その難点が指摘される。
そして、新しい生命の起源のストーリーが語られる。
(つづく)

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「外来種は本当に悪者か?」(その3)

またまた、フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?」をとりあげるのだけれど、今日は、この本でとりあげられている意外な、少なくとも私は知らなかった驚きの話。

アマゾンの観光ガイドも環境保護論者も「アマゾン川の両岸に広がる熱帯雨林は、何百万年も前からまったく変わっていません」と言う。
ところがこれがそうじゃないんだそうだ。
25315014955amazon.jpg
1542年、スペインの征服者フランシスコ・デ・オレリャーナは、アマゾン川を下って全距離航行に成功した。河口から1100キロ、支流ネグロ川との分岐点の近くを通ったときのことを、彼は日誌に記している。「川岸に、24キロにわたる大きな町があった。家々がすきまなく並ぶ様子は壮観で、よく整備された幹線道路が内陸部に向かって何本も延びていた。川岸から10キロほど入ると、ほかにも白く輝く大きな町がいくつもあり、周囲に広がる農地は肥沃で、スペインと何ら変わらなかった」

都市の外側に広がるジャングルも原生林ではなく、少なくとも一度、おそらく数度にわたって開墾され農業が行われていた。世界最大の熱帯雨林は、つい500年前までは都市とその郊外だったというのである。

その都市や農地が放棄されたのは、もちろんヨーロッパ人が入り込み、疫病を持ち込んで原住民の多くを死に至らしめ、国・経済活動を再建することができなかったからだろう。
上述のような記録だけでなく、現代に実際に行われた調査では、ボリビア領内のアマゾン川流域で、3万キロにわたる盛り土を発見しているという。

今は熱帯雨林に取り残されたようなアンコールワットも同様である。建設当時は立派な都市文明、そしてそれを支える農業が広く行われていたはずである。

熱帯雨林で文明が発展しなかったと考えられてきたのは、熱帯雨林の土壌は痩せているという常識があったからである。私もそう聞いて来た。ところが、アマゾン川流域には土壌が肥沃なスポットが点在していることがわかった。そしてそのスポットというのは、熱帯雨林本来の酸性のやせた土に、炭になりかかった植物の燃えかす、それに腐葉土が混じったものだそうだ。どうやら人間の活動がからんでいるらしい。2500年前の陶器の破片などが見つかっているという。何千年もの間、ここでは農業が行われていたというのだ。

sabanna.gif 次はアフリカである。
ゾウやライオン、シマウマなどが悠然とたたずむアフリカの「原風景」。それがヨーロッパ人が乱獲し、アフリカの人口増によって失われていく、惜しいことだ、というのが大間違いなのだそうだ。

上述のような「原風景」というのは、せいぜい130年前にできたものに過ぎないのだと。
列強による「アフリカ分割」のまっただなか、1887年、イタリア軍がアフリカに上陸したときに連れてきた牛に、牛疫ウィルスが便乗していた。
そして、1890年にはイギリス軍の将校が「人間の記憶のなかで、あるいは伝統の声の中で、これほど多くのウシが死に、野生動物が倒れたことはかつてなかった」と書き残しているという。

牛疫の流行は当初は、ウシの血を吸うツェツェバエに不利だったが、草を食む動物がいなくなったことで、牧草地だったところはあっという間に林や茂みに姿を変えた。ツェツェバエの幼虫が育つ環境だ。さらに野生動物は家畜のウシより個体数の回復が速かったため、ツェツェバエはその血を吸うことができた。これによりツェツェバエは急速に広がる。トリパノソーマとアフリカ睡眠病も一緒に。
これにより、生態学的革命が起きた。負けたのは人とウシ、勝ったのは野生生物だ。牧草地がなくなり、ウシの姿が消えた土地に灌木がしげり、野生動物がよみがえった。
アフリカの「原風景」というのは、人間が導入したウィルスの産物である。

アフリカには生態系が2種類ある。1つは農民と牧畜民が主体で、灌木もツェツェバエもしっかり抑え込まれている生態系。もう1つは、西洋人がイメージする「原始のアフリカ」で、灌木が茂り、ツェツェバエが飛びかう生態系だ。後者のほうが新しい。

牛疫で疲弊しきったアフリカ大陸には、もはや植民地化に抵抗する力は残っていなかった。
人間の生態系も大いに攪乱されてしまった、そういうことになる。

なんだか「外来種」ってヨーロッパ人のことと言いたいようだ。ただしこの外来種は悪者みたい。


DSC017281.jpg もう少しおとなしい事例も紹介されている。
フロリダのエヴァグレーズ国立公園には、点々と豊かな生態系があるスポットがあるが、それはかつてここに暮らした人間のゴミ捨て場なのだそうだ。

次は、日本でも普段から良く感じることで、驚くようなことではないのかもしれないが、イヌ、ネコはもちろん、人家が居心地の良いネズミとかゴキブリとかは当然のことだけれど、もっと野生野生している動物にとっても、都市は案外住みやすいところらしい。
野生動物=野生が好きというのは単なる人間の思い込みにすぎないという。

ゴミあさりなど、人間の生活と密着している場合もあるし、廃墟になった街でもその遺構は恰好の棲家になる。
チェルノブイリの例が紹介されているが、人が居なくなったチェルノブイリでは、どんどん野生動物が増え、人間の作った建物や設備を利用して大いに繁栄しているらしい。例外は人が捨てる食品ゴミに依存していたブタとかで、そうした動物はあまり増えないらしい。

昨年あたり、クマが里に下りてきて悲惨な事件を起こしている。天候不順で山に食べ物がなくなって下りてこざるを得ないということらしいが、案外、クマにとっても街が棲みやすいかもしれない。
先日、京都のホテルに闖入したイノシシとか、あちこちの水路に棲むタヌキなどは、街の方が棲みやすいのではないだろうか。人間だって「都市型狩猟採集民」なんてのがいる。


こうした意外性のある事例がいろいろ紹介されているが、理論という点でも驚きがある。
それが「共進化」という考え方。

本書も共進化を否定しているわけではないのだけれど、そもそも進化自体がゆきあたりばったりのものならば、徐々に共進化が進むばかりではなく、突然の出会いを否定する理由もない。てっとり早く、気に入った相手を見つけてパートナーになることがズルいとか、手抜きと言われる筋合いはないわけだ。
たとえて言えば、夫婦がお互いを高め合うというのが共進化なら、本書では、恋人選び・結婚、つまりたまたま相手が気に入って共生関係ができている例を指摘する。
在来種と外来種の関係はもちろん後者だ。中にはストーカーもいっぱいいるだろう。

そしてとうとう生態系というものの意義について疑問が出される。
生態系というのは、一定の空間を占め、そこに入る光や地熱、水や土地などの化学的資源の出入り(物理化学的エネルギー)があり、そこに多様な生物が棲み、エネルギーの連鎖が見られる、その総体を指す言葉と理解している。

従来、生態系は、本来、安定的な平衡状態に向かうものと想定されていて、その平衡状態にある状態は極相と特別な言葉で呼ばれる。これが環境保護論者の立ち位置だと思う。
ところが、本書が指摘するような外来種がアタリマエという状態となると、予定調和的な生態系、平衡状態の生態系というものを設定する意義自体が失われる。

つまるところ、生態系というもののとらえかたに、両者の対立が凝縮しているように思う。
予定調和の美しい世界、それは素敵だ。しかし、それは幻想かもしれない。
さて、どちらが正解なんだろう。

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「外来種は本当に悪者か?」(その2)

フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?」について、著者が言う「侵入生物学は科学じゃない」という論点を中心に、Amazonレビューでの否定的意見を対照しながら、整理してみる。

第1部 異邦人の帝国
第1章 グリーンマウンテンにて
世界中から持ち込まれた動植物
外来種が高めたアセンション島の生物多様性
在来種vs外来種、仁義なき戦い
アリたちのスーパーコロニーと消滅
外来種は本当に悪者か?
 
第2章 新しい世界
外来種も病原菌も人類の旅のお供
動植物の順化と「脱走」
ホテイアオイとナイルパーチが増えた真の理由
驚異の木「メスキート」の悲劇
 
第3章 クラゲの海
船のバラスト水、海洋博物館からキラー生物
ほんとうの原因は人間による環境破壊
長い時間軸でとらえると在来種などいない
 
第4章 ようこそアメリカへ
タマリクス、熱狂的な期待のあとの転落
よそ者の貝が水質を浄化してくれたエリー湖
外来種にさらされても多様性あふれるサンフランシスコ湾
ペット出身の外来種たち
外来種排斥という陰謀の不都合な真実
 
第5章 イギリス―イタドリにしばられた国
ヴィクトリア朝ワイルド・ガーデンの末裔
かわいらしい外来種は許される?
 
第2部 神話とドラゴン
第6章 生態学的浄化
イタチごっこのネズミ捕り
袋小路に入る外来種駆除の取り組み
ワニも食べつくすオオヒキガエルが市民権を得るまで
民族浄化ならぬ生態系浄化の狂信ぶり
 
第7章 よそ者神話
偏見と詭弁がはびこる侵入生物学
外来種被害のずさんな算出方法
経済効果の高い外来種には触れていない
 
第8章 “手つかずの自然”という神話
森林の奥地に栄えた文明は無数にあった
牛疫ウィルスとツェツェバエが起こした生態学的革命
 
第9章 エデンの園の排外主義
ダーウィニズムと完璧なる自然
エコロジカル・フィッティングという手がかり
外来種悪玉論からの改宗と周回遅れの環境保護運動
 
第3部 ニュー・ワールド
第10章 新しい生態系
自然回復のきっかけをつくるコロナイザー
新しい生態系の復元力を認める
ほとんどの荒れた生態系は回復している
 
第11章 都市の荒廃地で自然保護を再起動する
都市の荒廃地にあらわれた楽園
驚くほど都会暮らしを楽しむ野生生物たち
野生生物の天国、チェルノブイリ
旧来型の環境保護は自分の首を絞めている
 
第12章 ニュー・ワイルドの呼び声
スーパー・スピーシーズ
それでも古い時代に自然を戻そうとする人びと
管理なき自然を求めて
■外来種が生態系を破壊する
こうした事例があることは本書も否定しない。
たとえば、イースター島に高木が繁茂しないことについて、定説では人間が採り尽くしてしまったからということになっているが、本書では人が持ち込んだナンヨウネズミがヤシを枯らした説が紹介されている。
そのほか、主要な外来種被害が数多く紹介されている。

つまり著者は外来種が悪さをすることを否定はしていない。
それどころか、人間が持ち込んだ外来種によって、生態系が攪乱され、まったく異なるものになった事例を紹介し、「手つかずの自然」などは存在しないことの論拠としている。

■外来種が入って生物多様性が増えることはなく、絶滅する種の分、多様性は下がる
生物多様性は種数だけではないということだけれど、その議論は実はもっと難しい、種とは何かに関連する。ここはナイーブに種とは異なる生き方や遺伝子プールの生物群というぐらいに考えておく。

たしかに絶滅する種があれば、多様性が下がるということになるだろう。そして完全に調和的な生態系が営まれて居たら、その一つの種の絶滅が他の種の絶滅を呼び、結局、生態系全体が死滅する、そうしたシナリオが描かれてきた。
だが、事実はそれとは違うことが多い。

本書が指摘するのは、外来種は、既存生態系が弱っているところ、そこをニッチとして入り込むことが普通である。つまり外来種の侵入を許すのは、すでにその生態系自体に何か問題があるからだという。
さらに、外来種が入り込むことによって、停滞していたその場所が活性化されることで、在来種が復活する事例を多くとりあげている。
多くの場所で、外来種を駆除すれば、在来種も生きていけないという状態が現実であると指摘している。

また、こういうシナリオもある。
きれいな水にしか済まない生物Aと、少し汚れたところが好きな生物Bがいるとする。きれいな水の場所があってAばかりが棲んでいた。しかしどういう原因か、人間が汚したのかもしれないが、水が汚れてきた。するとBがここへ入ってくるようになった。
これって外来種が悪いのか?

そして本書のタイトル、ニュー・ワイルドとは、外来種によってしたたかに多様化する世界を指す。
それは1種の外来種が入ることで1種増えるというだけではない。近縁の在来種との交雑により、新種が相当のスピードで生まれるという観察結果があることも指摘される。
安定していた生態系が攪乱されると、一気に進化(適応放散)が進むという主張である。

これが保護論者には絶対に許せない現象だろうと思う。


■外来種は多大な損害をあたえる
本書は、まずその根拠がきわめて薄弱だということを指摘する。
ごく局所的な損害を、その区域の面積を全地球の面積に拡大して得られるのが外来種が地球に与える損害額としてまかり通っていることを指摘する。しかも、ネズミによる食害なども損害額に含まれるが、根拠となった地域における外来種ネズミの食害が、どうして全地球に拡大できるのか理解できる人はいないだろう。

そして、さらに外来種が与える利益を計算していないのは不公平だとも言う。
なお、外来種の損害額とされるものには、外来種を駆除する費用が含まれているようだから、一体、何を計算したのだろうというわけだ。
そして外来種駆除に莫大な税金が投入されるのだが、これは外来種が悪いのか、外来種=悪という教義が悪いのか。

■外来種が駆除できるか
著者は、小さな島などでの特殊な事例を除いて不可能であると言う。
環境保護論者は、まだまだ努力が足りない。いくら難しくても、もっと駆除に努力をしなければならないと言う。
外来種駆除のために撒かれた毒薬が在来種を減らしたとしても、外来種駆除の暁にはそれらはまた復元するから、いくらでも毒薬を撒けばよい。

P_20170521_120007_vHDR_Auto.jpg 最後のいくらでも毒薬を撒けというのは、あまりに行き過ぎの純血主義で空恐ろしいと思う。
そもそも、前述のとおり、駆除コストはどう考えているのだろう。それと見返りに得られるものは。

人為的に純血主義を守っている「自然」というのは、そのことですでに自然ではない、本書はそういう言い方もしている。

もちろん守る値打ちのある生態系は人為的にでも守る必要はある。しかしそれは「自然」ではないという意味。



自然の湖沼を再現するアクアリウムというものがある。
コンラート・ローレンツの「ソロモンの指環」で紹介されていたものだが、この水槽には、水生植物、プランクトン、小さな魚、掃除屋の貝などが入っていて、適切な温度と照明を保つことで、完結的、平衡的な生態系を実現する。水槽の管理者はときどき水を補充(蒸発するから)すること、観察のためにガラス面を掃除するだけで、餌も与えない。そうやって、スイスの湖と、アマゾンの泥水を隣り合う水槽に作ることもできるという。
P_20170521_114552_vHDR_Auto-green.jpg そして、さらにローレンツは言う。この水槽に、ちょっとさびしいと、小魚を一匹追加したとたん、その水槽は腐った水に変わってしまう。

このようなイメージが環境保護論者には強いのだろうと思う。
しかし、自然というのは、小さなアクアリウムのように柔なもの、腫物にさわるように扱わなければならないものだろうか。

かつて特定の魚の生息状況が調べられていた。
これはその魚を保護しようというものではなくて、その川の水質の指標とするものだった。BOD(生物学的酸素需要量)が保たれているかを見るのに、その魚の食性を支えるより小さな魚やプランクトンがちゃんといるのか、そういう理屈である。
納得できる指標である。

これに対し、生態系を守るというのは、本当のところ良くわからない。
良くいわれるのは、食物連鎖の頂点にいる生物が、従来通り生きていけることは必要条件らしい。オオタカなど絶滅危惧種の大型猛禽類などが注目される。
食物連鎖、より広くは生態系のネットワークのどこかが変調をきたしていれば、そうした生物も生きていけないという理屈である。

ところが、在来種が単純に外来種で置き換わると、つまり生態系のネットワークの1要素を完璧に入れ替えていたら、そうしたことは起きない。生態系としては安定なままなのではないだろうか。
そんな都合のよい、コンパティブルな種なんていないと言うかもしれないが、必ずしも単一の種である必要はない。ネットワークが維持できるように入れ替われれば良いのである。そして、外来種が入っても、あんまり違っていないというのは、生態系としてはそれを受け入れたということであろう。

揖保川のアリゲーターガーの話や、琵琶湖で在来魚がブラックバスなどに追い立てられて数を減らしているというような話には、やはり不快感を持つ。現実に、琵琶湖では鮒ずしの原料になる鮒がとれなくなってきたというような話もあるらしい。それはまずいだろう。(誰だ、ブラックバスを琵琶湖に放流したのは。)

その一方、子供のころから、道端で目にするタンポポはセイヨウタンポポ。
どぶ川で捕っていたのはアメリカザリガニ。
それで何も疑問に思っていなかった。

結局のところ、本書でも指摘されているように、素朴に、

カワイイから許す、役に立ってるから許す、悪いことはしてなさそうだから許す、
俺たちが利用している生物資源を荒らす(つまり競合する)から、許せない、

というヒトのワガママ、

自然はアリノママ守らなければならない、

というヒトのワガママ、どこまでいっても平行線かもしれない。

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外来種は本当に悪者か?

kob_origin_1_1.jpg 先日、兵庫県の揖保川で、北アメリカ原産の巨大肉食魚アリゲーターガーが捕獲されたというニュースがあった。

アユやウナギを食い尽くすのではないかなどと心配されていて、従来から駆除に努力していたのを、釣り上げてくれた人がいたということらしい。
アリゲーターガーは日本各地で目撃されているが、観賞用に飼育されていたものが放流されたものらしい。

私もこのニュースは喜ばしいことだと思っている。
小さな水系の場合、アリゲーターガーのような魚の場合、在来魚を食い尽くし、次は自分自身が飢え死にするかもしれず、そうなら、ガーは繁殖に失敗し、長期的に見たら元の生態系が回復するかもしれない。
とはいうものの、もちろん短期的な人間に対する損害を放置することはできないから、この場合、駆除は正しいと思う。

51PbfPBOBOL.jpg であるけれど、常に外来種の駆除が正しいのかということに、疑問をつきつける本もある。
フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD」である。

評価が分かれている本のようだ。
しかし、Amazonにアップされている否定的なレビューには、ちゃんと読んだのか怪しいものも多い。

著者は、外来種をどんどん導入せよと言っているわけではないし、在来種の価値を否定しているわけでもない。
在来種の価値を無視していると批判するのなら、保護論者は外来種の価値を計算に入れないという著者の指摘に答えなければならないだろう。
自説に都合の良い論文、データばかり引用していると批判するなら、著者の、従来の外来種の「悪事」の論拠とする論文・データは怪しいものばかりという指摘に反論し、論拠を示すべきだろう。

たしかに本書での「環境保護論者」への批判の筆致はかなり攻撃的である。
それは、外来種=悪という教義の下、それへの疑いを差し挟めば直ちに攻撃され、学会からは無視され、言いたいことも言えなかった、そうした人々の憤懣、反動がベースにあるからだと思う。売り言葉に買い言葉的な。

環境保護論者にしてみれば、著者が攻撃する理屈を(今も)主張しているわけではない、お門違いの批判だと言いたげな意見もあるようだ。しかしそうした理屈が優勢という状況が少なくとも過去にはあったのではないだろうか。
実際に無駄ではないかという駆除費用が世界中で支出されているのだから。
本書の巻末解説を書いている岸由二氏によれば、本書が批判する環境保護論者の論説は、既に学会内でも旗色が悪くなっており、新しい保護理論が求められているという。想像するに外来種駆除の投資効果に疑問が出始めているからではないだろうか。


また、実際に駆除に関わっている人からすれば、仮にこの本の主張が正しいとしても、それが曲解されて、一般に外来種駆除を否定するような言説がまかりとおることには我慢がならない、反射的に否定したくなるとも想像できる。

筆者は生態学者とかではなくて、この問題に関わってきたジャーナリストである。
以前は保護論者の側にいて、外来種の危険を宣伝する側にいたらしい。
しかし、問題に関わるうちに、どうも真実は違うようだと感じ、今まで圧殺されてきた異端の研究、研究者に接するうちに、外来種=悪の呪縛から逃れたらしい。みんな早く、その教団から逃げなさいと言っている。

ただ、書評を書くにあたって、ことわっておくが、私も生態学の知識を持っているわけではない。だから、本書と、それを批判する意見のどちらが正しいのかという点については、判断できない。それぞれの論理破綻を見てとるしかない。
だから、著者を批判するなら、自らの教義と異なるということを理由にせず、きちんと科学的にやってもらいたい。
著者は「侵入生物学」などは科学ではないと言い切っている、それへの反論を期待したい。

本書の要点やレビューにみられる批判についてのコメントは、長くなりそうなのであらためて。

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クモの糸でバイオリン

kumo_no_ito_de_violin.jpg 大崎茂芳「クモの糸でバイオリン」について。

この本は、岩波科学ライブラリーのなかの一冊。このシリーズは、モノグラフというのか、テーマを定めて書かれているものが多く、とても読みやすい。著者はモノ書きが商売の人じゃないようだから、編集者の力量もあるのだと思う。


さて、「クモの糸でバイオリン」だけれど、著者は生体高分子が専門のようで、その意味ではクモの糸は守備範囲にもなるわけだが、生きているクモとなると全くの素人で、音楽の方は、バイオリンを触ったこともないという。

というわけで、「クモの糸でバイオリン」は思いつきとしてはありえるものの、それを実行するには、クモの糸を手にいれなければならない。それには生きたクモを手に入れなければならず、クモが居る場所を探すところから始まる。それも、不思議なことだが、クモの生息場所の情報をネットその他で調べてピンポイントで訪れるのならともかく、どうやらクモなんてどこにでもいるという思いこみで始めたために、いきなり、生きたクモを集めることでつまずいたということである。

思えば、クモってあちこちに居るといっても、それは種を問わなければという話であって、実験に向いた特定の種となると、生息場所は限られるだろう。もっとも、実験に向いた種を選びだすには、いろんな種類のクモで試す必要があるわけで、そうなるまでは、手当たり次第に集める時期もあるだろう。


迂遠なエピソードからはじめたが、その後、クモに長い糸を出させる苦労とか、結構、寄り道する。
これがまた楽しそうなのだ。

そうやってクモの糸が手に入れば、さすが高分子の専門家、化学情報には詳しいし、解析機器も思う存分使える立場である。さらに、クモを集めたり、糸を取り出すのに「無償労働力(学生)」の協力も得られる。

そして、表紙に見えるとおり、ぶら下がり、トラックを牽き……、次はバイオリンだ!
そして生まれて初めてバイオリンを手にし、音楽教室に通う……
ここでも、どういう伝手があるのか、飛び込みなのか、音楽大学へいって教えを受ける。なんと最後は、ストラディヴァリウスにクモの糸の弦というところまで行く。

violin_string_microscope.jpg ところで、普通に使われているバイオリンの弦は巻線といって、ガットやプラスティックの繊維束を芯として、そのまわりをアルミや銀などの線でぐるぐる巻きにする精緻な構造である。

ところが、肝心のクモの糸の弦について、最終的に弦にしたときの構造は本書には書かれていない。

クモの糸の繊維を束にすると亀の子状に隙間のない構造になることが解説されていて、これが弦の強度に貢献しているとのことだけれど、このまま弦として使うんだろうか、このままでは弾いたときに繊維がほどけてしまうような気がするのだけれど。
ひょっとして企業秘密?…んなわけないか。

面白くて一気に読めるだろうから、これ以上は本の内容については書かないけれど、著者も言っているように、こんな何の役に立つかもわからない研究は、趣味だからできるもの。

バイオリンの弦に限らず、クモの糸を何かに使おうということ自体、普通の神経じゃないから、海外でもこんなことをする人がいない(したがって参考文献も少ない)という。
spider-man_promo_12t.jpg

もっともクモの糸の強さはスパイダーマンで実証済みだから、バイオリンの弦はともかく、研究対象にしてもおかしくない。軍事企業「オズコープ」が研究しても良さそうに思うけれど。


しかし、こうやってできあがったクモの糸のバイオリンは、世界中で大評判になる。そのドタバタ、マスコミ取材の裏話なども本書で触れられている。(BBC Newsの記事へリンク

■関連リンク

この研究が掲載された「フィジカル・レビュー・レターズ」で要約を読むことができる(会員登録してないと要約のみ)。
・Spider Silk Violin Strings with a Unique Packing Structure Generate a Soft and Profound Timbre/Shigeyoshi Osaki - Phys. Rev. Lett. 108, 154301 – Published 11 April 2012

著者による解説がネットでも流れている。
・クモの糸でヴァイオリンは弾けるのか? -大﨑 茂芳

クモの糸のバイオリンの音もネットで見つけた。
・クモの糸の弦のバイオリンの演奏


できれば、クモの糸のバイオリンを、人間の髪の毛の弓で、松尾依里佳さんに弾いてもらえないかな。

人間の髪の毛の弓は「探偵ナイトスクープ」でやってた。


関心を持ったテーマがあり、探究心、間違いをおそれない勇気-ただし間違いから学べる謙虚さ、基礎的な理科知識、情報源を渉猟するセンス、つまり、科学マインドがあれば、世界中の人を驚かせる研究成果をあげることができるという実例。
未知のものに臆せず挑む、応用力のある学力を目指すというなら、そのお手本になる研究。

ただし、文科省はどう考えてるんだろう。
公費を使わずに趣味でどんどんやってください、趣味を楽しめる程度の給料は払ってるでしょ、
あ、研究設備の目的外利用はダメですよ、なんてことはないだろうな。


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フリーランス女医が教える「名医」と「迷医」の見分け方

611Q1LEcafL.jpg 筒井冨美"フリーランス女医が教える「名医」と「迷医」の見分け方"について。

ネットでこの著者の話(日給12万円!私が「ドクターX」になったワケ/YOMIURI ONLINE)を読んで、著作も読んでみようと思った。

医療関係の話については、それなりに興味深い。なんといっても現役医師であるから、話にはそれぞれ事実の裏付けがあるのだろう。
ただ、いくらフリーランスであちこちの病院を見ているとはいえ、個人で経験できる範囲は限られているだろうし、麻酔科専門だから、外科系が中心になっているだろうから、これがすべての病院・医師の実態とは言えない、その程度の心づもりは必要だと思う。

ただ、第4章あたりになると、医師の結婚の話とかばかりで、これはこれで医療の世界では切実な問題なんだろうけれど、タイトルの「名医」と「迷医」の見分け方とはあんまり関係ない。

ただし、女たらしの医師(♂)には名医が多いそうだ。
女性とのコミュニケーション力とか気遣いができる、危機管理能力に長けているという点で、患者に接する能力や実際的な対応力に秀でているということらしい。
「英雄、色を好む」と同じだろうか。
一方、脇が甘くてバレバレの不倫医師が多いとも。こういうのはダメらしい。


第1章 知られざる「麻酔科医」のお仕事
第2章 私がフリーランスになった理由
第3章 よい病院、ヤバい医者の見分け方
第4章 医療ドラマに見る病院のウソ・ホント
第5章 研究者の立場から見た「STAP騒動」
第6章 タテマエばかりの「女性活用」に物申す
第7章 日本人の「働き方」への新提言
その第4章以下では、医師ということに限らず、女性の労働について、歯に衣着せない主張が続く。
誤読と糾弾されることを怖れずその主張をまとめると、
  • 女性の役員とか管理職の割合の数値目標は、お飾りの女性を置いて、周りの優秀な男性スタッフが支えることになるだけである
  • 女性のためになるとする育児休業法その他、女性のための施策の多くは、本当に有用な女性労働者にとっては有効でない、というか弊害が多い
  • 労働の流動性を高めることが、女性に限らず、社会の生産性を高めることになる
というようなことだろう。

有能は優遇、低能は冷遇、無能は淘汰というのが著者が考える社会である。
ただ有能、低能、無能とは個人属性ではないとも考えているフシがある。
閑職のようなところでぐうたらしていた(軽蔑していた)爺医が、退職して別の病院に行ったら、キビキビ働いている、個人の能力だけではない、置かれた場所による、という納得できる話を併せて紹介し、それが、
「女性が働きやすい会社ではなく、「女性が働きやすい社会という言葉になる。

それでもやっぱり思う。
まともな話が単なるリストラ理論にすり替えられて、冷遇が貧困に、淘汰が野垂れ死になったらどうしてくれる。
(あ、医療の世界はそうなったほうが良さそうですが)

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「大西郷という虚像」(その2)

昨日の「大西郷という虚像」の続き、といっても、本の内容からは外れて。

「大西郷という虚像」の第1章では、薩長は関ヶ原の恨みを忘れていなかったことが、反幕の背景にあることが説明されている。
これ自体は目新しいことではなくて、みなもと太郎「風雲児たち」では幕末の風雲児を書くために、関ヶ原から始めている。

途中、保科正之とか田沼意次、平賀源内など、いっぱい寄り道して(=伏線を張って)、龍馬が出てくるまで何と30巻!

保科正之にスポットを当てたのは、もちろん幕末の会津の悲劇の淵源ということ。
田沼や源内にスポットを当てたのは、近代への胎動ということ。


しかし250年もの間、恨みを子子孫孫に伝え、恨みを再生産するなんてことをしていたのだろうか。

長州では、正月に徳川を攻めようか、未だ時機ではないというやりとりがあったという話は良く聴くけれど、それって偉い人の間での型どおりの儀式だろう、高杉や桂がそれで恨みの炎を燃やしただろうか。まして、久坂のような身分の低いものまで?
ストーリーとしては面白いけれど、はて、実際のところどうなんだろう。

そう思っていたら、本書で、薩摩では、妙円寺詣りという行事があると紹介されていた。
この行事については知らなかったのだけれど、関ヶ原での「前への退却」=敵陣突破以来、藩主を守り死んだ武功を称え、関ヶ原の恨みを新たにするという行事が、国を挙げての祭りとして、延々と続けれらてきたのだという。
西郷も大久保もこの祭に参加したらしい。
なるほど、これなら反幕精神が植えつけられても不思議じゃない。

恨みの再生産である。純化する分、そして見も知らぬ幕府の連中相手で、一層尖鋭化する?



ところで、来年の大河ドラマ「西郷(せご)どん」の配役が順次発表されている。
西郷どんは鈴木亮平氏。茫洋とした雰囲気があるかもしれないけれど、武闘派のイメージがないけど、大丈夫か?
「短刀一本あれば片が付く」って言えるかな。

大久保利通は瑛太。「篤姫」のときに小松帯刀を演じたけれど、大久保はどうだろう、策士で腹黒いイメージ、しかも身長が高かったと伝えられている。私のイメージでキャスティングするなら、北村一輝。
「北条時宗」のときの平頼綱役の不気味なイメージ。敵か味方かわからない、あくどいやりかたで実権を握って行く姿。

ネットでこのドラマについての前評判みたいなものが出ていたけれど、なんでも西郷さんと篤姫(=北川景子、美人過ぎ)が恋仲だとかいうプロットがあるらしい。

アリエン!


役者のイメージだけで言うのもどうかと思うけれど、これでは善人ばっかりが出てくる、なよなよした青春おともだちドラマになるんじゃないだろうか。
島津斉彬・久光は誰が演じるのだろう。西郷の崇拝の対象と、その反動か軽侮の対象となるこの二人。

私としては、久光は固いところ(尊王佐幕)があるが、紳士的で、その心がわからぬ西郷という構図が定型からはずれて面白いと思うけれど。


やっぱり、良心のかけらもないごろつき群像、原田伊織氏が言うようなドラマのほうが、数倍おもしろいに違いない。

ご子孫もいらっしゃるだろうし、子供には見せられないだろうけど。

昭和の掉尾を飾るドラマでっせ、NHKさん。

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◇ ◇ ◇

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大西郷という虚像

来年のNHK大河ドラマは「西郷(せご)どん」。
何度も書いたことだけれど、大河ドラマの功罪の功の一つは、関連する本の出版・再版や、テレビの歴史番組などの企画が増えること。

daisaigou_toiu_kyozou.jpg というわけで、原田伊織「大西郷という虚像」をとりあげる。
もっとも、この本は別に大河ドラマに便乗して急ぎ出版されたというわけではない。

それにこのタイトル、どう見てもNHK大河に阿るものではない。これから書店がどのように扱うのか楽しみである。


著者は原田伊織氏、この人の本については既にとりあげた。(「明治維新という過ち」)
下劣・悪辣・残虐・無慈悲の薩長の田舎のワルどもによる、理想もビジョンも尊王精神もなきクーデター、それが明治維新というわけである。

私もこうした見方にはかなり合点がいくところがあって、そうだろうそうだろうという感想も持つのだけれど、さすがにタダのワルばかりでは、そうそうクーデター政府が永続きするとも思えない。著者には、こんな出来の悪い、国民の支持も得られていない連中の「新政府」が、なぜその後の日本を牛耳ることができたのか、そのメカニズムとか、国民精神とかを明らかにしてもらいたい。
それこそが原田史観のもっとも説得力のある証明につながるにちがいない。

さて、前著(前掲書は本書の前に出されている)では、若干、維新の「偉人」を貶す筆致が踊り過ぎのきらいがあったけれど、本書では、もちろんそれもあるけれど、他書でもよく論拠とされる史実を援用して、歴史の流れを描いているので、前著よりも明解な論理構成になっていると思う。

はじめに ~「官」と「賊」を往復した維新の巨魁~
第1章 火の国薩摩
薩摩おごじょ
熊襲と隼人
肥後と薩摩
妙円寺詣り
第2章 西郷と島津斉彬
蘭癖大名
お由羅騒動と斉彬
「郷中」が育んだ「テゲ」の文化
島妻 愛加那
第3章 西郷の幕末動乱
西郷と島津久光~二度目の流刑~
密貿易の国・薩摩と薩英戦争
西郷登場
策謀
「赤報隊」という道具
無血開城という美談
第4章 明治復古政権の成立と腐敗
戊辰戦争終結と会津戦争
賞典禄と西郷
明治復古政権の成立
新政府の腐敗
終章 田原坂への道
岩倉使設団と西郷
明治六年政変と西郷
あとがきに代えて ~「二才頭」としての生涯と薩摩の滅び~
ただ「大西郷」、つまり西郷が大人物であったということを否定する部分については、やはり西郷の真意が何かはわれわれにはわからない。というか、大西郷だから真意はこうだったろうという推論が普通に行われていたところ、原田氏は、大西郷という前提を取っ払って、真意(があるとして)を見透かそうとし、その結果、大西郷というのは虚像だとしたわけである。
どちらが西郷の真意を捕えているのかは、そう簡単にはわからない。

著者は西郷に限らず、そもそも明治維新には指導原理などはなく、従って志士に「真意」や「大志」などというものを想像するのは、所詮、明治維新を称揚する官軍教育の賜物でしかないと言い切り、そうした先入観を排して歴史を正しく見ようと主張している。

また、前著でもそうだが、「幕末三俊」(岩瀬忠震、水野忠徳、小栗忠順)を賞揚する一方、徳川慶喜や、「幕末四賢侯」(島津斉彬、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城)を小賢しいだけの、腹の座らぬ小物と評価していて、これら小物のせいで、倒れる必要もなかった江戸幕府が倒れたとでも言いたげである。

その特筆すべき事件が「小御所会議」。
徳川慶喜の処遇について異を唱えた山内容堂をはじめとする尊王佐幕派重鎮が、西郷の「短刀一本あれば片が付く」の言にうろたえることが指摘されている。


そして、冒頭に書いた著者への問い、なぜ「新政府」がその後の日本を牛耳ることができたのか、に戻るのだが、新政府は、江戸入城したころは、外交ノウハウはもちろん、統治機構を持たなかったと推測するのだけれど、その状態で、諸藩はともかく、旧幕府の役人たちは、サボタージュなどしなかったのだろうか。

幕末三俊は、すでに放逐、あるいは処刑されているとしても、この三俊が個人の力量だけで仕事ができていたとは思えない。おそらく、組織がしっかりしていて、彼らに次ぐ優秀な役人も付いていたのではと想像する。
もし、彼らが新政府に協力しなかったら、外交関係はぐちゃぐちゃ、財政は破綻、そういうことになったのではないだろうか。

本書にも興味深いエピソードが紹介されている。

紀州徳川家に津田出という人物がいた。小栗忠順や水野忠徳などと並び称してもいい幕末の俊傑である。幕府崩壊後、西郷はこの津田を訪ね、話を聞いたことがある。忽ち、感服してしまった。そして、素直にこの人を担ごうと思ったようだ。戦が終わって、自分たちは次に何をどうしていいのか、さっぱり分からない。しかし、津田には明確な国家像がある。この人を担ぐしかない。無私な西郷は、正直に感服し、津田の担ぎ出しを平気で、本気で考える。当然、そのことを大久保以下の、戊辰戦争の勝者仲間に相談する。大久保や木戸にしてみれば、とんでもない話である。津田とは、直参ではないが幕府側=敵の人間ではないか。益して、将軍職を出してきた御三家の家臣である。勝者の自分たちが敗者の部下を担ぐとは、西郷は狂ったかといったことになる。


これなどは、西郷は大か小かはともかく、それなりの人物であったことを示すエピソードではないかと思うのだけれど、それはともかく、津田出が用いられなかったとしても、おそらくは旧幕府の役人はいろいろな形で、行政に携わったのだろう。もう少し時代が下がると、旧幕役人、あるいはその家柄の人たちが、いろんな場面で活躍して、新政府の政策を支える事例が表へ出てくる。

もちろん諸藩にも有能な人はいただろう。たとえば坂本龍馬が新政府の財政担当に推した福井藩の光岡八郎(由利公正)など。しかし、やはり江戸の組織と有能な旧幕府の役人を活用しなければ、政府運営は難しかったのではないだろうか。

ロシア革命のときに、帝政時代の官僚を放逐せよという意見に対し、レーニンが革命をつぶす気かと反対したという話を聞いたことがある。
明治政府でレーニンの役割を担ったのは誰だろう?


前の「明治維新という過ち」でもそうだが、著者は維新の志士をごろつき、新政府役人を権力欲、金銭欲の塊呼ばわりするのだけれど、旧幕府の有能な役人(慶喜や春嶽などは含まない)に肩入れする反動が、筆の勢いになっているのだろう。
「官軍教育」で旧幕府が貶められてきた、そのため正当に評価されてこなかったということに憤りをもっているのだろう。

私も悔しいというか、勿体ないという思いがある。
龍馬の死も悔しいが、小栗忠順の死は、新生日本にとってより大きな損失ではないだろうか。
しかし、現在は、旧幕府、とりわけ正統的な高級官僚たちがいかに優れた人材であり、明治政府はその遺産でかろうじて破綻を免れたことは、著者が思っているような裏歴史の扱いではなくて、もはや常識になっているように思う。

テロリストが役人になって、権力欲・金銭欲をむき出しにし、政府権力を私し、邪な動機で行使したと貶めるけれど、そういう部分もあったけれど、それだけではなかったはずだとも思う。
龍馬はグラバー商会の使いっぱしりという扱いをされているけれど、やはり、それだけではなく、龍馬はグラバー商会を利用していたという考え方もあるだろう。

西郷には、やはり人間的魅力がなければならない(勝が言うことは信用できないとしても、そのことでそれを否定する理由にはならない)。
薩摩伝統の二才頭の生き方を最後まで貫いたと著者も言っているわけだし。

歴史は勝者が書く。
このことだけはしっかり頭に入れておこうという本だと思う。

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集団的自衛権問題とは何だったのか?

今日は憲法記念日
このところ多い記念日ネタ。

前に“「戦後80年」はあるのか”という本を紹介したところだが、そのときは内田樹「比較敗戦論」だけをとりあげた。今日は、憲法記念日に事寄せて、同書にある
木村草太「集団的自衛権問題とは何だったのか? ―憲法学からの分析」について。

C8hX2Z5VoAAzefL.jpg 木村氏は、テレビのニュース番組にもたびたび登場していて、いかにも法律学者らしい、法体系を基準とした解説ぶりが印象的である。
本書でも、その基本スタンスは崩していない。つまり法体系を基準として論理的に解説される。
すべて報道されていたような内容のはずなのだけれど、こうして憲法学者に整理してもらうと、論点も明確になる。

私も前に、国際法上集団的自衛権が認められているから、合憲だという倒錯した論理を述べる一部与党の議員には呆れたことを書いた(憲法と安全保障)。
木村氏もまったく同じことを指摘されていた。
ただ、笑って済ませられないのは、そうした初歩的な論理の誤謬を平気で口にする政治家がこの国を動かしているという事実。これで政策をあやまたないなどということは、結果オーライ以外にはアリエナイ。


現在、この安保法制により、北朝鮮へ向かう米海軍に対して、自衛隊が防護出動することになった。

このことをケシカランなどと言うつもりはない、念のため。

昨年の安保法制議論のときに、北朝鮮の緊張をどこまで予測していたのか、もし予測していて法律を準備したのなら慧眼だと思うが、木村氏の解説を読んでいると、コトはそう簡単ではない。

下に見出しと一言解説を載せたけれど、その中に「個別的自衛権を制限する安保法制」というくだりがある。
これはわかりにくいのだけれど、木村氏によると、

2015年9月11日の国会集中審議で、民主党(当時)の福山哲郎参議院議員が「我が国に対し国際法上違法な武力攻撃をしているA国に後方支援しているB国の補給艦に対して、わが国は自衛権を行使できるか」と質問しています。これに対し中谷元防衛大臣は、「B国はわが国に対して直接攻撃をしていないので自衛権の行使はできない」と答えています。今回の安保法制によって、日本の個別的自衛権が制限されることを認めてしまっているわけですが、日本の安全保障上、極めて深刻な問題だと言えるでしょう。


今のところ、北朝鮮を支援する国はないだろうから、こうした事態には至らないと思うけれど、もしこのやりとりどおりだとすると、本当に武力行使について詰めて考えたのか訝られる。

また、後方支援は、「現に戦闘が行われている場所は除く」という話になってたようだけれど、それなら、日本の支援船を無視して、A国艦船のみに攻撃が集中されたらどうなるんだろう。個別的自衛権ではないし、かけつけ警護というわけでもなさそう。A国を見殺しにして逃げるんだろうか。戦闘に至らない間だけ防護って、言葉として変では。

いずれにせよ、集団的自衛権としてA国と同盟する以上、武力行使はA国と一体化したものとみなされることは覚悟しなければならないのだろう。

それにしても、もし朝鮮戦争で北が勝利し、朝鮮半島全体が共産化していたら、日本国憲法は直ちに改正されたにちがいない。


国際法上、武力行使は原則禁止されている
国連憲章二条四項
 
三つの例外
集団安全保障措置としての武力行使
それまでの緊急的対応としての個別的自衛権の行使、集団的自衛権の行使
 
安倍政権も認める九条の解釈
国連憲章が認める武力行使は権利、義務ではない
一項全面禁止説と二項全面禁止説(一項は侵略戦争の禁止、武力保持禁止の二項で一般禁止)
 
九条の例外と自衛権
例外規定があるか、あるとする場合の根拠は十三条(国内の安全)
ただし、これでは集団的自衛権の根拠としては薄弱、が従来の考え方
 
日本政府に軍事権は負託されていない
軍事権の規定は憲法のどこにもない、内閣に負託された権限は七十三条
国内安全保障の範囲であれば防衛行政と考え軍事権を持ち出す必要はない
 
安保法制は「全部のせラーメン」
 
安保法制のポイント
1 在外邦人の保護
2 武器等防護に関する規定の改正
3 国際平和協力法の改正
   現地住民の安全確保、かけつけ警護
4 後方支援
   非戦闘地域に限る⇒現に戦闘が行われている現場では実施しない
   電車を待つのにホームの黄色い線の内側だったのが、電車が来ていなければ線路へ降りて良い
5 「存立危機事態」要件の追加
 
自衛隊員の安全は確保されるのか
 
イラク戦争の総括という問題
過去の失敗の検証すらできない
 
個別的自衛権を制限する安保法制
 
集団的自衛権の行使と「三国志」
 
存立危機事態という概念の曖昧さ
曖昧ということ自体が憲法違反(法治主義に反する)
 
国会の議論は無駄ではなかった
議論の過程で、さまざまな言質がとれた
 
集団的自衛権違憲訴訟は可能か
裁判所は事案が発生しないと判断しないが、弁護士である国会議員に懲戒請求をすれば裁判になるかも
 
附帯決議に盛り込まれた仕掛け
存立危機事態と武力攻撃事態が重ならないことはほとんどない、
武力攻撃事態等に該当しない存立危機事態での防衛出動は、例外なく国会の事前承認を求める
自衛隊の海外活動についての一定期間ごとに国会承認
国会が活動終了を決議したらすみやかにその措置をとる

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雇用身分社会

Koyomibunshakai_Morioka.jpg 今日はメイデー
中学の英語の教科書では、"May day"は「五月祭」で、古代ローマ(キリスト以前)に発する、豊穣を予祝する祭という解説があり、それとともに、"Maypole"の周りでダンスをするという解説があった。
そうした祭が、労働者の祭になり、現在のメーデーとなったものといわれる。

若い頃は、私も、大阪城公園―御堂筋―なんばのメーデーデモに参加したこともある。
組合から休業補償の参加費が出るので、それを握りしめてミナミのビアハウスへ行って打ち上げる、というのが定番だった。

ということで、メーデーにちなんで、森岡孝二「雇用身分社会」について。(このところ、記念日ネタの記事が続くなぁ。)
労働者の祭典であるメーデーが、もはや一部の恵まれた労働者しか参加できないようなものになってしまった歴史を振り返る。

しかも、いつ頃からか、中央や各地のメーデー集会が、5月1日ではなくて、ゴールデンウィークの初日あたり(今年は4月29日)に行われるようになった。GWで旅行に出る人とかに配慮したのだろうけど、団結して盛り上がろうというものからは変容していることの現れではないだろうか。


さてこの本だけれど、きっちりまとまったもので、章だけでなく節見出しまでの目次を右に掲載したけれど、これを見れば著者の問題意識と論旨の展開も推察できることと思う。(だからとって内容を読む必要はないというつもりはないけれど)

序章 気がつけば日本は雇用身分社会
派遣は社員食堂を利用できない?
パートでも過労とストレスが広がる
使い潰されるブラック企業の若者たち
現代日本を雇用身分社会から観察する
全体の構成と各章の概要
第1章 戦前の雇用身分制
遠い昔のことではない
『職工事情』に見る明治中ごろの雇用関係
『女工哀史』に描かれた大正末期の雇用身分制
戦前の日本資本主義と長時間労働
暗黒工場の労働者虐使事件
戦前の工場における過労死・過労自殺
第2章 派遣で戦前の働き方が復活
戦前の女工と今日の派遣労働者
派遣労働の多くは単純業務
1980年代半ば以降の雇用の規制緩和と派遣労働
財界の雇用戦略―『新時代の「日本的経営」』
リーマンショック下の派遣切り
雇用関係から見た派遣という働き方
中高年派遣の実態と派遣法「改正」法案
第3章 パートは差別された雇用の代名詞
パートタイム労働者の思いを聞く
パートはどのように増えてきたか
日本のパートと世界のパート
日本的性別分業とM字型雇用カーブ
パートはハッピーな働き方か
シングルマザーの貧困
重なり合う性別格差と雇用形態別格差
第4章 正社員の誕生と消滅
正社員という雇用身分の成立
「男は残業・女はパート」
絞り込まれて追い出される
過労とストレスが強まって
拡大する「限定正社員」
時間の鎖に縛られて
正社員の消滅が語られる時代に
第5章 雇用身分社会と格差・貧困
雇用形態が雇用身分になった
戦後の低所得階層
非正規労働者比率の上昇と低所得階層の増加
現代日本のワーキングプア
潤う大企業と株主・役員
労働所得の低下に関するいくつかの資料
第6章 政府は貧困の改善を怠った
政府は雇用の身分化を進めた
雇用が身分化して所得分布が階層化
男性の雇用身分別所得格差と結婚
高い貧困率は政府の責任
公務員の定員削減と給与削減
官製ワーキングプア
生活保護基準の切り下げ
終章 まともな働き方の実現に向けて
急がれる最低賃金の大幅引き上げ
雇用身分社会から抜け出す鍵
ディーセントワーク
あとがき
目次で分かるとおり、この本では派遣や非正規労働の現状を概観したあと、戦前にもこうした働き方があった、この問題を考える上では、歴史を知る必要があるとして、戦前の、労働基本権もなかった頃の労働について解説される。

「女工哀史」とか「ああ野麦峠」など、存在は知っていても、今まできちんと読んだことはなかったが、本書ではそうした本に加え、国(農商務省)が調査した「職工事情」などを史料として、丁寧に追跡する。


なので、戦前の厳しい労働者の暮らしについては良くわかるのだけれど、以前に読んだ濱口桂一郎「日本の雇用と労働法」では、それまでの「渡り職工」・親方による間接管理に代わり、資本主義的経営が顕著になった時代の雇用者確保の企業ニーズであり、戦時にかけての国策(皇国に奉仕する産業戦士)も一定の寄与をしていると指摘されていた。

第4章「正社員の誕生と消滅」では、そのことが書かれるのかしらと思っていたが、そこは触れず、「正社員」という言葉の使用例を分析して、パート社員に対する語という形で解説されている。しかし、正社員という身分が資本主義社会において果たしてきた役割を考えるなら、言葉の使用法の問題ではないと思う。門外漢の私は濱口説に説得力を感じる。

濱口説は、前近代的・封建的な間接管理が、近代的・集権的な直接雇用へ組み替えられていく歴史過程を見事にとらえているように思う。それは、現代の派遣労働を生む理屈(短期的な経済合理性)とは、ベクトルが異なるものだろう。見かけが似ているだけでは、厳しい労働環境の描写にはなるけれど、なぜ戦前と逆の動きになるのか、そこを突っ込んでもらいたかった。


以下の各章では、さまざまな統計資料を使って、派遣やパート、非正規雇用の実態を解説している。その一つ一つをここでとりあげてもしかたがないので、本書を読んでいて、私なりに考えたことについて書いてみよう。

まず、著者がこのままではいけないと主張する、非正規の働きかたの問題だけれど、私には、現在の趨勢が続けば、正社員と非正規雇用の分断は一層深くなると思える。
そして、そのときは、正社員は被雇用者ではなく、経営側に立つ身分になっているのではないか。
もちろん、正社員が肩たたきにあって、途中でドロップアウトしてしまう(経営側にふさわしくない人材)こともあるだろうから、より丁寧に言えば、経営側予備軍というのが正社員の実態ではないだろうか。
ごく少数の経営側と、大半の非正規労働者。かつての資本家と労働者の構図が再現されるのではないだろうか。

冒頭、メーデーが全労働者の祭ではなくなったと書いた。かつての労働運動では「労働者の分断」と指弾されたはずの状況だけれど、正社員ばかりの労働組合が、自ら選択したものなのかもしれない。


ならば、労働法制は正社員のためにではなく、非正規のために考えるべきだと思う。

もちろん正社員が過労死する状況を放置するわけにはゆかないけれど。

このとき、非正規が不安定な身分では、結局、企業にとっても決して良いことばかりではない。経営側と労働者に分断された場合、労働者には、企業に対する責任というものは失われる。売上を上げることも、経費を節減することも、労働者側にはまったくインセンティブが働かなくなる。

そして、会社一家というのを否定した企業は、労働者に愛社精神を求めてはならず、労働者もまた会社のためではなく、自身の豊かな生活のため、つまりしかるべき給与にのみ関心を持つ。

このとき日本製品への信頼は大きく低下し、もともとビジネスビジョンの弱く競争力のない日本企業は、最後の誇りである品質すら守れないという状態になるかもしれない。

そんな企業はイヤだ、という経営者、つまり、昔型の経営者なら、国の労働法制の枠組みではなく、それこそ全従業員を経営側と考えるような経営をすれば良い。

また、さまざまな働き方を認めていくというなら、政府は、さまざまな働き方でも安定した暮らしができる制度を用意しなければならない。単に派遣の規制緩和をすれば良いわけではなかろう。(終章に著者の提言)

最後に一言。
本書でも再三、過重労働のことが書かれるのだけれど、私には企業の過重労働の多くは、合理性を欠いた、単なるシゴキではないのかと思える。
彼らは長い時間をかけて、一体、何を生産しているのかと訝しく思う。(無責任・責任転嫁の名人だけど)
日本の労働生産性はOECD中、最低ランクにある。何時間もかけて解決しない問題が、ちょっとしたヒントで氷解するような楽しい経験をした人が少ないのか。職人肌・学究肌でプロダクティブな人は日本では出世しないから無理もないけれど。

企業は労働法制が、経営合理性を阻害していると主張する前に、自らの生産性がなぜ低いのかしっかり反省するべきではないだろうか。生産性が高ければ、過重労働・低賃金の問題は解決するはずだから(経営者が金の亡者でなければ)。
それに私は信じている、本当に高い生産性は、高いモラールによって支えられると。


【追記】

職場の地元では、今日、地区メーデー開催。

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昭和史のかたち

今日は「昭和の日」。
私のような年齢の人は、反射的に天皇誕生日と思うのではないだろうか。
今上陛下が退位されても、「平成の日」が定められることはないと思う。やはり昭和は特別な時代だった。

Showashi_no_katachi_cover.jpg というわけで今日は、保阪正康「昭和史のかたち」について。

この著者については、以前から、一定の信頼を寄せている。
著者の意見や論評は、そう突飛でもアジテーショナルでもないということもあるが、史料へのあたりかたが丁寧で、幅広いようだ。それにテレビのドキュメンタリー番組などで目にする、著者が、その時代の経験者などから証言を聴く姿勢などに、この人の言うことは信用しても良いんじゃないか、という気になる。

さて、この本は、目次でわかるように、いろんな図形などが社会事象と結び付けられている。しかし、この図形は解説のための図解ではなくて、「たとえ」である。
その事象が持つ特徴が、どういう図形をイメージさせるのかといった性質のもので、事象を図解するというものではない。従って、そのたとえについて、なるほどそういうたとえも可能かなとか、これはちょっと無理があるなというのが率直な感想である。

そういう意味では、子供の頃、親に数学を教え込まれた(そして数学がイヤになった)という著者の一種の無理ワザでもある。なるほど、これはうまい譬だというのもある。そしてそのやりかた、アイデアがどれだけの事象説明に通用するのか、やってみたという感じである。

Showashi_and_square.jpg なかでも、うまい譬だと思ったのは、
「第2章 昭和史と正方形 ―日本型ファシズムの原型」。
国民を檻に閉じ込め、それを狭め、圧迫する(右図)。
その4つの壁が、「情報の一元化」、「教育の国家主義化」、「弾圧立法の制定と拡大解釈」、「官民挙げての暴力」であるとする。
これはなんだか、とても感じが出ているように思う。

三角や四角、円というのはともかく、座標軸を考えて分析するアプローチするのは、それなりに問題の所在を明らかにするのに有効なようだ。
たとえば「第8章 昭和史と座標軸」ではこのような考察が書かれている。
戦記・戦史の著者を、所属司令部を横軸に、階級を縦軸にとって、プロットすると、太平洋戦争の戦闘は意外なほど検証されていない、兵士の証言が語られてこなかったことが、戦後社会の歴史的欠陥だと指摘する。
将校たちは兵士に「戦死」を強要しながら、自分たちはひたすら生き残ることのみを考えている。
「戦争という軍事的行為を自らの栄達の手段と考えて、兵士たちの生命を平気で利用するその人間的退廃」。

この手法は「第10章 昭和史と平面座標」でも使われていて、天皇の戦争責任を、{法律的|政治的|歴史的|道義的|社会的}という区分を横軸に、{開戦|継戦|敗戦|終戦|臣民に犠牲を強いた|臣民の生命を危機に陥れた}を縦軸にとって分析している。
漠然と天皇の戦争責任と括るより、問題の所在を見つめる議論になりえる良い視点だと思う。
ただし、実際に検討するにあたって、気をつけなければならないのは、天皇は相手に応じた受け答えをする、つまり相手によって反対のことや矛盾することを答えることがあるという。天皇自身が、統治と統帥に分裂していたのかもしれない。

そうとしても、天皇を祀りあげることで、結果的に無責任な位置に安住しようとした軍の卑怯な態度は、否定できないだろう。もっとも戦後、その構図が見透かされたからこそ、卑怯者は追及されたが、天皇の戦争責任は追及されなかったのだろう。


こうした分析的視点に混じって、というかそれを支えるように、種々のエピソードがとりあげられている。
たとえば、軍事主導体制一色となったらどんなことになるのか、その結果が列挙されている。

1 軍事主導体制は、あらゆることが軍事のみに収斂されることになる。
2 兵士たちには命に値段がつけられているというのはあまり知られていない。
3 学問研究の内容は軍事的に価値があるか否かが判断の基準になる。


はじめに
第1章 昭和史と三角錐
―底面を成すアメリカと昭和天皇
第2章 昭和史と正方形
―日本型ファシズムの原型
第3章 昭和史と直線
―軍事主導体制と高度経済成長
第4章 昭和史と三角形の重心
―天皇と統治権・統帥権
第5章 昭和史と三段跳び
―テロリズムと暴力
第6章 昭和史と「球」、その内部
―制御なき軍事独裁国家
第7章 昭和史と二つのS字曲線
―オモテの言論、ウラの言論
第8章 昭和史と座標軸
―軍人・兵士たちの戦史
第9章 昭和史と自然数
―他国との友好関係
第10章 昭和史と平面座標
―昭和天皇の戦争責任
おわりに
2について、軍にそういう経済合理性があったのかと思ってしまいそうだが、それは経済合理性なんかでは全然ない。
特攻に出撃したのは、第一陣こそ職業軍人だが、以降、学徒兵、少年兵で多くが占められることになる。
「軍人一人を育てるのにはずいぶん経費がかかっている」からで、そうではない学生なら良いのだと、これは当時の航空関係の参謀の証言だという。
また、広島に原爆が投下されたとき、広島近郊の旧制中学や高等女学校の生徒が、遺体処理などのために広島市内に動員されている。江田島の海軍兵学校からは行っていない。
海軍首脳部によると「彼らは次代のエリートである。どうして彼らをそういう仕事に従事させることができようか」というのである。

3については、戦時中、多くの大学は文学部を廃止しているという指摘がある。
これなど、最近、文学部不要論なんていうのが出てきたことを連想してしまう。もちろん、戦時下の文学部不要論と、最近のそれとは違うものだけれど、案外、通底する感覚があるのではないだろうか。

1、2に関連しては、こんな証言もとりあげられている。
(元)陸軍の将官に会った折に男の子がいるか聴かれ、いると答えると「戦争で死なない方法を教えてあげよう。陸軍大学校に入れろ」と。陸大に行っていると前線には出ない、後方で作戦計画を練っているだけだから。大東亜戦争で陸大出身者の死者は驚くほど少ない。

そういえば、米国では、階級別戦死者数は階級別人員に比例する、つまりどの階級の軍人も同じ割合で戦死している(上位者の方がやや死亡率が高いとも)が、日本では、圧倒的に下位階級の死亡率が高いという統計があるそうだ。

つまり、今でいうなら、子供の命が惜しければ、防衛大学校へ入れれば良いということらしい。

もっとも民主的軍隊になったらそういうわけにはゆかないだろう。
エリートで無責任、憂国の身勝手なプライドだけは化け物じみて大きい。そういう軍隊にとっては民主教育は都合が悪いに違いない。


もちろん、そんな軍人ばかりのはずはない。率先して危険に身を投じた人も多かっただろうと思う。そうした立派な人を軍人の鑑として顕彰することもやぶさかではない。
しかし、問題は個人の資質にあるのではなくて、構造的な問題だろう。
立派な軍人という人たちは、インパール作戦を止めるのではなくて、そこで死んでいく方を選びがちなのではないだろうか。

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比較敗戦論

今日は、サンフランシスコ講和条約記念日
65年前の1952年4月28日、「日本国との平和条約」が発効した日である。
言うまでもなく、この条約によりいわゆる戦後処理が終了し、日本国の主権が回復したわけである。

今どきの若い人にはピンとこないと思うけれど、1960~70年代は、この日は盛大なデモが行われる「旗日」だったと記憶する。平和条約発効を祝うものではなく、同時に締結された日米安保条約に反対するデモである。

「戦後80年」はあるのか―「本と新聞の大学」講義録
 
まえがき
 
姜尚中
第一回 基調講演
一色 清
姜尚中
第二回 比較敗戦論
      敗戦国の物語について
内田 樹
第三回 本と新聞と大学は生き残れるか
 
東 浩紀
第四回 集団的自衛権問題とは何だったのか?
      憲法学からの分析
木村草太
第五回 戦後が戦前に転じるとき
      顧みて明日を考える
山室信一
第六回 戦後日本の下半身
      そして子どもが生まれなくなった
上野千鶴子
第七回 この国の財政・経済のこれから
 
河村小百合
第八回 総括講演
姜尚中
一色 清
あとがき
 
一色 清
というわけで、本格的な戦後がはじまる日にちなんで、今日は「比較敗戦論」。
「比較敗戦論? なんだそりゃ?」と訝られると思うけれど、この言葉は、“「戦後80年」はあるのか―「本と新聞の大学」講義録”という本の中で使われていたもの。

この本は、一色清、姜尚中をモデレータとして、著名な学者・研究者がそれぞれの専門領域について講義し、Q&Aを含めて編集されたもの。その中の内田樹氏の演題が「比較敗戦論」である。以下、その概略。

前の大戦での敗戦国、日本、ドイツ、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらが連合国が敵国として認定した国だそうだ。他に国と認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア独立国、満州国、中華民国南京政府などがあるという。

まず意外なことに、敗戦国に、日独伊三国同盟のイタリアは含まれない。
というのは、イタリアは1943年にイタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニを倒し、ドイツ軍を敗走させたので、イタリアは戦勝国という理屈になるのだそうだ。(おまけに1945年7月には日本に宣戦布告している。)
sengo80nen_0844b.jpg 最初は日独とともに連合国と戦い、内田氏も書いているように、戦後のイタリアは「自転車泥棒」などの映画で、荒廃した都市の映像が思い浮かぶので、まるで敗戦国のような印象がある。しかし、国土を戦場にしたけれど、最終的に勝利をおさめたという見方もできるわけだ。内田氏によれば、

イタリアは「内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。『まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ』と受け止めた。だから戦争経験について否認も抑圧もない。」という。


イタリアと逆に、フランスについては、戦勝国づらしているが、それは違うだろう、という。(内田氏は専門はフランス哲学ということで、このあたりは詳しいようだ。)
フランスはドイツにマジノラインを破られて、半分はドイツ領に、半分はヴィシー傀儡政権統治となり、大量の労働者をドイツに送って支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人を迫害した(捕えたユダヤ人は国外の収容所へ送られた)。
で、ドイツ軍が劣勢になってから、レジスタンスが膨れ上がり、対独協力政権の中枢人物もレジスタンスに加わるという。
このとき、ド・ゴールが国としての実体はない自由フランスを「戦勝国」にした。米英は認めたくなかったけれど、膠着した戦局の打開にレジスタンスを使うことで、ド・ゴールがうまく立ち回ったということらしい。

ずっとドイツに協力していたフランスが、最後になって、戦勝国に滑り込んだ、内田氏は、疚しさを感じるべきだった、という。そうした総括がないまま戦後となり、そのことが、トラウマになってしまう。つまり、ドイツに協力していたことをみんなが忘れよう、蓋をしておこうという行動に出るようになる。

ドイツは敗戦国とされるが、東ドイツは共産主義革命で建国した、戦勝国という話になっていたそうだ。だから、ナチスの戦争犯罪に対して責任を感じていないという。自分たちはナチスの被害者であり、ナチスと戦ってドイツ国民を解放した、ナチスの戦争犯罪について謝罪する必要はない、という。

他の敗戦国、ハンガリーやタイ、クロアチアなど、どの国も敗戦は忘れたい過去であった。
なお、韓国は戦勝国に座りたかったのだけれど、戦争中、日本と戦う「政府」はなかった。最終的にイギリスなどの反対で戦勝国にはなれなかった。(朝鮮戦争は日本との戦争だと思っている韓国民がいるらしい。)

日本は、前の戦争で犯した罪をきちんと反省し、敗戦の総括をしていない、だからいつまでも中国や韓国、東南アジア諸国との関係に影を落としていると良く言われる。
しかし、どの国も、自らの敗戦についてきちんと総括なんかしていないことは、同様のようである。
だからといって、日本の態度がこれで良いというわけではない。どの国もトラウマを抱えている。

内田氏によれば、結局、国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。
比較敗戦論というのは、国によって違いはあるものの、どうやらこうした敗戦処理の難しさを浮き彫りにした。そして、この比較論はこうした視野を持っていなかった私には新鮮だった。

話題は少しそれるけれど、内田氏はさらに、アメリカの強さに言及する。これについても少し紹介しておこう。

内田氏は、アメリカの強さは、カウンター・カルチャーを持つことにあるという。
アメリカには、体制を否定・反抗する勢力が常にいて、それがいるおかげで、アメリカに敵愾心をもつ海外のグループからも、アメリカをひとしなみに否定されたりはしないのだという。

そういわれれば、たしかに日本国内でベトナム反戦運動が激しかったころ、米国のステューデント・パワーもベトナム反戦運動をしていた。日本でも米国でも、ボブ・ディランが聴かれ、歌われて、海を隔てて共感していたという風がある。
日本では、米国の学生も反戦運動を戦っているぞ!と受け止められたし、もちろん米国の方では、海外の多くの国で、反戦運動が巻き起こっていると力を得ていたに違いない。
アメリカをこきおろしていた人たちが、アメリカに触れて、かぶれてしまうことも多かったと思う。


米国の一番のトラウマは南北戦争だろうという。
この国民の記憶が、国内でいかなる意見対立があっても、最後の一線、内戦が選択されないことになるのかもしれない。

“「戦後80年」はあるのか”という本は、小さな本で、短時間の講義録という性格から、細かい検証などは行われていないようだけれど、提示されたテーマはどれも興味深い。

上野千鶴子氏の講義については、前に少しとりあげている。


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町村合併から生まれた日本近代 明治の経験

9784062585668_w.jpg 松沢裕作「町村合併から生まれた日本近代 明治の経験」について。

昨日取り上げた「明治維新という過ち」よりも随分前に読んでいた本で、書評を書けるほどの感想は持てていなかった。けれど、昨日の記事を書いていると、明治維新がなぜ失敗しなかったのか、その一つの説明に繋がるものだと思い直して、記事を起してみた。

昨日の記事では「明治維新という過ち」という本をきちんと評価するには、他書も読むべきと書いたけれど、この本はそういう本の一つだと思う。

歴史上の事件・動きが丁寧に追いかけられている。
この時代の流れは、あまりに複雑かつ急進的なところがあって、読者としては、これについていくのは相当の集中力が必要である。それについては、本稿で取り上げてもせんないことである。

江戸時代の領地がモザイク状になっているというのは、この本を読む前から知識としてあったのだけれど、それでは、領主は統治するの難しいのではないだろうかということ。
領地が分散していては領主が大変だし、隣接地の領主が違っていては領民も大変じゃないだろうか。
そもそも、平安時代の荘園から、領地というものは、どんどん細分されて、権利関係が複雑になっていく。ひどいのになると村の年貢の何割がA領主、何割がB領主という状態になるわけだ。

はじめに 境界を持たない社会・境界を持つ権力
第一章 江戸時代の村と町
1 モザイク状の世界
2 組合村
3 村と土地所有・村請制
第二章 維新変革のなかで
1 「大区小区」制
2 明治初年の町村合併
第三章 制度改革の模索
1 区戸長たちのフラストレーション
2 内務省と井上毅
第四章 地方と中央
1 地方三新法
2 町村運営の行き詰まりと明治一七年の改革
第五章 市場という領域
1 境界なきものとしての市場
2 備荒儲蓄法
3 道路が結ぶもの
4 市場と地方
第六章 町村合併
1 「自治」の思想
2 合併の遂行
3 行政村と大字
むすび 境界的暴力と無境界的暴力
そういう事情があるから、水利組合や清掃組合など、ご領主さまとは関係のない、地勢的条件による組織が活動していた。つまり、封建時代という言葉とは裏腹に、特定の領主が領民の全生活を律するとか、領地を統治するというような社会ではなく、典型的には殿様とは所詮年貢の納め先でしかなく、殿様と領民に親密な関係などあろうはずがない(領域国家の体裁を持つ大藩なら別かもしれないが)。

昨日の「明治維新という過ち」は武士社会・武士道を礼賛する(百姓あがりの「志士」だから武士ならやらないような卑劣な行為ができる)のだけれど、こうした領主と領民の関係という視点は希薄。もっとも、薩長や土佐は一国領国だから、あまり入り組んではいないかもしれないが。


ということで、大きく感想を言うなら、明治維新後、日本国が経済的に破綻することもなく、なんとかいろんな形をさぐりながら現在に続いてきた、その根本のところは、地域における生産活動の存在が必要、なにより税金(年貢)を徴収するという地域の行政(の下請け)が機能していた、そのことが詳細に追跡されている。

江戸期には、一時的に御用金として集めるものはあったようだが、直接国税とか、藩から集める連邦税的なものは制度化されていない。
基本的に徴税機構は、代官が置かれた天領を別として、諸藩が運営しているもので、ご一新後も、これが機能しなければ、国家予算は組めなかっただろう。

だから赤報隊による「年貢半減」デマを流せたし、それが効果を上げたわけだ。


その後、国税の徴収システムが整備されたので、徴税機構としての地方の役割りは小さくなった。

と、このように、本書を読んでいるうちに、封建時代の税制から、中央集権の税制への移行がどう進められたかという点に私の興味は収斂したのだけれど、著者にとっては、そちらはむしろアタリマエみたいで、それよりも「境界」とは何かという、やや哲学的な問題意識があるようだ。

本書の「はじめに」は、"境界を持たない社会・境界を持つ権力"という副題が付いている。
一体、何を言いたいんだろうと訝りながら読んだわけだけれど、読み進めば、なんとなく著者の問題意識の所在というか、洞察を端的に表現する言葉であることが諒解されてくる。

そして、越境して拡大する経済の特質というところまで考察は広がる。

ただし、そちらについてはあくまで端緒として考察されるにとどまる)


細かい具体的事件・事象については、読後の記憶としては残りにくいけれど、なるほど、国のシステムが変わるというのは随分と大変なことなんだな、得する人も損する人も出るんだな、歴史の理解には税制の理解が必要だ、まだまだ勉強不足だなぁ、そういうことを考えさせられる本である。

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明治維新という過ち

原田伊織「明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」(改訂増補版)について。

71l_9-DlX0L.jpg 私は、以前から明治維新というのはあんまり好きじゃない。
血塗られた、下劣な薩長のやり口、とりわけ、真摯に許しを請う相手を侮辱するようなのは不快だし、自己保身だけの京都の公家というのも気に入らない。かといって、徳川慶喜は優秀だけど小手先で誤魔化そうとする無責任なトップ、そんなイメージがある。

ということで、タイトルに惹かれてこの本を読んだ。
読み始めると、「はじめに」には、~竜馬と龍馬~として、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が坂本龍馬を英雄にした、司馬遼太郎は"龍馬"でなく"竜馬"と表記することで小説中の人物という言い訳を込めている、そして、坂本龍馬はグラバー商会の使いっぱしりに過ぎないと、龍馬ファンなら怒髪冠を衝きそうなことが書かれている。

これは「はじめに」だから、結論じみたことを最初にアジテーショナルに書いたものと受け止めて、何故そう主張するのか章を進めていけば、その理由が明らかにされるものと思って読み続けたのだけれど、その攻撃的な口調が続く。ところどころに根拠が引かれるところはあるけれど、諸説があるようなので、史料批判に耐えるものなのか、浅学な私には判断できない。

著者の主張と異なることを勝海舟が証言していると、勝の言うことは信用できないと切り捨てているが、読者はどうしたら良いのか。


はじめに 〜竜馬と龍馬〜
第一章 「明治維新」というウソ
廃仏毀釈と日本人
「官軍教育」が教える明治維新
幼い天皇を人質とした軍事クーデター
実は失敗に終わった「王政復古の大号令」
戦争を引き起こすためのテロ集団・赤報隊の悲劇
第二章 天皇拉致まで企てた長州テロリスト
「家訓」を守った誇り高き賊軍
血塗られた京の文久二年
尊皇会津藩と朝敵長州の死闘
天皇拉致を防いだ池田屋事変
第三章 吉田松陰と司馬史観の罪
吉田松陰というウソ
「維新」至上主義の司馬史観の罪
第四章 テロを正当化した「水戸学」の狂気
「昭和維新」が生んだ「明治維新」
狂気のルーツ・水戸黄門
徳川斉昭の子供じみた攘夷
阿部正弘政権による実質的な開国
「瓢箪なまず」の改革
阿部の残した官僚たち
水戸の公家かぶれと『大日本史』の無理
第五章 二本松・会津の慟哭
戊辰戦争勃発、反乱軍東へ
戊辰東北戦争にみる奥羽の潔癖
三春の「反盟」、秋田の「裏崩れ」
誇り高き二本松 ~少年たちの戦~
会津藩と奥羽列藩の止戦工作
会津の惨劇 ~ならぬことはならぬ~
北斗の南
第六章 士道の終焉がもたらしたもの
薩摩の事情と西郷の苦悶
武士福沢諭吉の怒り
あとがき
一方、江戸時代が高度な社会システムを持っていたこと、幕末官僚には大変優秀な人が綺羅星の如くであったことなどは、あまり知られていないと著者は言うのだけれど、これは多くの歴史学者が一致するところであり、今では、常識に類することではないかと思う。

例えば、幕末の金の流出事件は、日本と諸外国の金銀交換比率の違いが原因ではあるが、それを幕閣が知らなかったからではなく、日本では金銀が素材として交換されるのではなく、銀貨は「銀で作った信用貨幣」という性格のものであったためで、あまりに先進的な日本の通貨システムが、外国人には理解不能(そしてそれを良いことに通貨の交換を正当化)という事情があったと言われている。


結局、怨念が表へ出過ぎているというか、怨念の固まりのような本になっているわけだけれど、これはこれで明治維新へのアンチテーゼという意義は十分に果たしている、ちょっと扇情的なぐらいに。

著者は、薩長の卑劣性、下劣性、残虐性を執拗に追及し、その証跡の言挙げに多くの紙幅を費やしている。
なかでも、二本松少年隊の悲劇は、「八重の桜」でもとりあげられたけれど、ほとんど一瞬画面を過った程度で、多くの印象を残さなかったが、本書ではかなり丁寧に解説されている。

会津(福島県)と長州(山口県)の間では、今でも婚姻が成り立ちにくいとは良く言われることだけれど、彦根と水戸や、二本松と三春(奥羽越列藩同盟を裏切る)もそうらしい。平成の大合併で、二本松と三春は合併してもおかしくない地理的条件であったにもかかわらず、ついに合併はならなかった、それもこれが原因という。


幕末の英雄を徹底的に貶めようという意図だけは明確である。
ただ、これでもか、これでもかと、あまりに容赦ないので、辟易するとともに、本当に、それほど、悪辣で、馬鹿で、卑怯で、下劣というだけでは、革命が成功するはずはないとも思う。

高校の日本史の授業のときに、教師が、みなさんが新政府の指導者だったら何をどうするか、と問いかけたことがあった。そして、誰も答えられないのを見計らって、そんなことでは革命はできませんね、と。
もっとも、新政府の施策を細かく説明している本などを見ると、まさに試行錯誤、見通して施策をうったとは思えないところも多い。結局、旧幕府が反革命を企図せず、江戸時代の惰性のおかげで、新政府はなんとかやっていけたという気がする。


著者は、幕末の志士(この言葉使いにもクレームをつけている)は、テロリストに過ぎない、そしてテロリズムは絶対に許さないという。

私も前に、吉田松陰はテロリストと書いたことがあるけれど(寅さんは尊王攘夷かい)。

しかし「テロとは失敗した革命である」という言い方もある。(学生運動が過激化したその末期の言)
ならば、著者が歯噛みしようと、革命に成功したならば、彼らはテロリスト呼ばわりはされないわけだ。

一つの歴史観として興味深いし、明治維新をそれほどの偉業とは思っていない私には共感するところも多い。
しかし、史料の選び方、読み方がフェアであるかについては、他書とも比較したほうが安全かもしれない。

誰が言ったのか忘れたが、「江戸は、後の近代日本を準備して、見事に、潔く役割りを終えた」ということは、間違いないと思う。

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イルカ漁は残酷か

o3456230413891799425.jpg 沖縄旅行では定番の「美ら海水族館」に行ったが、この水族館でもイルカのショーが行われている。
時間の都合もあって、イルカ・ショーは見なかったのだけれど、というか、ショーを見ることを目的にすることに、ややうしろめたさもないわけではない。

伴野準一「イルカ漁は残酷か」というルポルタージュがある。
追い込み漁でイルカを生け捕りにして、水族館に売る、それが残酷だとは、どういうことなんだろう、殺して食べるというわけではないのに、そう素朴に思っていたけれど、実態はそんな綺麗事で済む世界ではなかったらしい、少なくとも少し以前までは。

iruka-ryo_wa_zankokuka.jpg イルカはときには数百頭もが追い込まれ、そのうち十数頭は生け捕られて水族館に売られるが、他のイルカは殺されていたのだそうだ。
いわば、水族館のショーで見る数頭のイルカの陰に、数百頭のイルカの犠牲があるというわけだ。

それどころか、もっと昔は、ただ魚を食べる害獣として駆除の対象となり、捕えられたイルカは、効率的に破砕され、とりだされた油脂は廃棄物として無料で製油会社に渡されていた時代もあるという。
もっとも、昔といっても、追い込み漁が「日本の伝統」と言えるほどの時間は経過していない。
昔は、そんな技術はなかったし、追い込み漁は稀にそういう状態になったときに行えるというもので、計画的なものではなかったという。

たまたま迷い込んだクジラやイルカを、天(海?)の恵みとして喜び、捕えて奪った命に対し「いただきます」と感謝しながら食べるのが伝統だろう。


先日、いくつかの水族館がJAZA(日本動物園水族館協会)を脱退していたことが伝えられていた。
WAZA(世界動物園水族館協会)が、追い込み漁で獲ったイルカを水族館に納めることを禁止すべきで、それに従えないのならJAZAをWAZAから除名すると言ってきて、厳しい選択を迫られたJAZAはその要求に応えることとしたが、それでは、イルカの入手が困難となる水族館にとっては館の存続に係る問題である。引き続き追い込み漁で捕獲したイルカの購入を続けるらしい。

動物園はWAZAから除名されると、希少動物を手に入れることが困難となり、園の運営が立ち行かなくなるが、水族館は必ずしもそうではないらしい。


まえがき
第一章 最後のイルカ漁
イルカ追い込み漁のメッカ伊豆半島/共同操業と資源枯渇の始まり/イルカの屠殺現場が明るみに
第二章 太地町立「くじらの博物館」物語
古式捕鯨発祥の地/江戸時代から盛んだったゴンドウ漁/短かった終戦直後のゴンドウ景気/南極海捕鯨から観光立町へ/新生太地町の象徴「くじらの博物館」/クジラ・イルカ捕獲作戦始動/追い込み失敗で広がる無力感
第三章 太地追い込み漁成立秘話
生け捕り成功、活気づく太地町/イルカ捕獲の試行錯誤/バンドウイルカの大量捕獲に成功/漁船のFRP化と追い込み漁の完成/生け捕り目的で始まったバンドウの追い込み
第四章 価値観の衝突
豊漁と表裏一体のイルカ食害/イルカ駆除成功で巻き起こる国際的な批判/ハワイからやってきた活動家/イルカ漁論争の原点/活動家、その短い生涯
第五章 スター誕生
イルカ・スタントショー発祥の地/マイアミ海洋水族館とリック・オバリー/アルビノ・イルカを捕まえろ/フリッパー登場/イルカ・トレーナーからイルカ活動家へ
第六章 乱獲と生体ビジネスの始まり、包囲網の形成
英作家C・W・ニコルの戦慄/リック・オバリー、イルカ漁を目撃/水銀問題と謎の撮影クルー/太地町を変えたドキュメンタリー映画
第七章 イルカと水族館
生体販売ビジネスに手を染めた太地町/エルザの会、JAZAに要望書を提出/名物園長イルカ問題を語る/鴨川シーワールド館長JAZA会長に就任/二〇一四年八月、世界協会と合意へ
第八章 幕間劇「くじらの博物館訴訟事件」
リック・オバリーは語る/身勝手な言い分
第九章 夏は終わりぬ
二〇一四年ジャパン・ドルフィンデー/記録的不漁だった二〇一四・二〇一五年漁期
終章 イルカと人間の現在
イルカと牛豚、屠殺方法の違い/動物福祉的価値観とイルカ漁/イルカ飼育は虐待か/命の値段
あとがきに代えて
こう書いてくると、私はイルカ漁に反対なのかというと、情けないことに、そう言い切れるわけではない。
そもそも、イルカを獲ってはいけない理由というのが全くわからない。
確かに、見た目の残酷さというのはあるにしても、動物というのは所詮、他の生き物の命を頂いているわけで、「いただきます」という気持ちとともに食べることが悪いとは思えない。
本書の「あとがきに代えて」では、太地町漁協の人の発言として、

「まあ情けない。ぼくらもあの映像見たらね、わあこんなことやっとんたんかって反省しています。本当に反省しています。」

という言葉も紹介されている。

一方で、シーシェパードなどの行動は常軌を逸しているように思い、彼らに屈服することはテロに屈するのと同じだという気持ちもある。
しかし、イルカ漁を正当化する理由として、日本の伝統を持ち出すのは誤りであることは、疑えないようだ。

また、先年、Behind "THE COVE"という"THE COVE"を捏造と断じる反宣伝映画が制作され、それなりの話題になったが、この反宣伝への反論という、バッシング合戦も、あまり建設的ではないと思う。

さて、この本の「まえがき」に著者はこう書いている。

日本で、そして和歌山県太地町で行われているイルカ漁を考えるうえで、議論のための新しい土台が築けたのでないかと、私はいま感じている。


著者もイルカ漁について、否定も肯定もせずに、出来る限り事実を追いかけようとしている。そして、

ヘイトスピーチは撲滅しなければならないのと同じように、イルカ漁反対運動に内在するテロリズム的要素についても、私たちは断固として反対し、戦わなければならない。
 だが、傲慢不遜な彼らに対する反発から、私たちのなかからイルカ漁について虚心坦懐に考えようとする気運がうしなわれてしまったこともまた事実である。私たち日本人は、太地町で行われているイルカ漁について真剣に考えてみることなく、反イルカ漁運動に対する反発心から「イルカ漁は日本の文化なのだ」などと安直な主張を繰り返しているに過ぎないのではないか。

とする。

hatari21.jpg 陸上動物でも、野生動物を捕まえて動物園に売るということが、何の疑問もなく行われていた時代もそう昔のことではない。
中学校のときに観たジョン・ウェイン主演の「ハタリ」(1962年)という映画は、そういう時代のそういうハンターを描いていた。と同時に、動物への愛情も(人間の男女間の恋愛も)、描いていた。

ヘンリー・マンシーニ「子象の行進(Baby Elephant Walk)」はこの映画の挿入曲である。

そういう時代は遥か遠くなったようだ。

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ぼんやりの時間

4004312388c.jpg 辰濃和男「ぼんやりの時間」について。

読みたい本が手元にないとき、通勤時間はムダな時間になる。
そう考える人に、ムダな時間があることが豊かさの根源にある、そこを思い直せという本である。
通勤電車でぼんやり過ごすのが勿体ないと考えて、こんな本を読んでいる。笑い話である。

とはいうものの、著者が言うようなぼんやりの時間は、けっして通勤電車のような猥雑で、ぎすぎすした時空で過ごされていない。本当のぼんやりの達人なら、そういうところでこそ心の静穏を、本も読まずに過ごせるのではないだろうか。

電車の中の乗客の様子を観察するのは、実は面白い。だけど、それではぼんやりしたことにはならないだろう。


ぼんやりする時間が必要だということは、私も納得している。
また、工程図(PERT)には、フロートという考え方がある。何もしないという工程を導入することで、不測の事態への対処を可能とすることになる。

贅沢な時間の過ごし方は、なにもしないで過ごすことだと思うし、素晴らしいコンサートで気持ちよく寝てしまうことは、それ以上の贅沢だと思う(めちゃくちゃ悔しいけど)。

だから、著者の意見には賛同するところも多いのだけれど、ただ、著者がぼんやり過ごす時間というのが、あまりにも上質なので、そんな立派なぼんやりはできそうにないと思ってしまう。

また、著者は著名人の言動・文章を引いて、ぼんやりの達人であるとし、その人達の活動を支えたのがぼんやりだろうと言う。それは多分間違っていない。
しかし、こういう偉い人にことよせて、ぼんやりが大事だと言われても、私はただぼんやりするだけで、そのぼんやりが支える私の活動なんて、これぽっちも世の中の益にならない。小人閑居して不善をなす、というか小人閑居して不善すらなさない。

本書は、動-静、緊-緩、実-虚、陽-陰、といった対照に、ぼんやりを考えている風もある。しかし、そんなことをする必要もないだろう。それに光に対してダークエネルギーがあって宇宙を支えているというような言い方は好きじゃない。宇宙は宇宙、人間のぼんやりとは何ら関係がない。変な擬えを持ち出して、わかったとか説明したという気になるより、あるがままを受け入れる、というか、あるがままとは何かを追求するのが正しい姿だと思う。
(擬えに意義があるのは、擬えるもの、擬えられるもののの、それぞれの世界が同一構造を持つ場合)


心足即為富
身閑仍当貴
富貴在此中
何必居高位
心が満ち足りれば、富んでいるのと同じだ
身が閑であれば、高貴な身分にあるのと同じだ
富貴はこうした心身のあり方にある
どうして高い身分にいる必要があろう
白氏文集巻六 閑居(抄)
本書が説くぼんやりの一例として、白楽天が引かれている。

著者の教養がしのばれる。
その余光を鑑賞し、先人のぼんやりの意義深いお言葉を賜る。

勉強になった、とてもぼんやりなどしてられない。

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日本の税金:新版

昨日の記事では、e-Taxできちんと確定申告を行い、不足額を追加納付することを書いた。

税金をきちんと払うのは、揶揄で言うのではない、国民の義務である。

今日は、税金についての本の書評、確定申告をするちょっと前に読んだ三木義一「日本の税金:新版」について。

この本の序章は「私たちは誰のために税を負担するのだろう?」というタイトルが付いているのだけれど、まずはじめに、「税法は法律の中でももっとも難しいものの一つで、弁護士もほとんど知らない。その難しい法律の内容を正確に理解して、様々な項目の計算をした上で初めて税額が出てくる」と前置きして、こんな一節がある。
間違えて税額を少なく申告すると加算税という制裁が課される。有利な制度があることを知らないために税額を高く計算して申告したら、税法を知らなかったお前のミスだから救済はしないと言われる。計算に誤りがあった場合には、申告期限から一年以内に限って減額してくれる。しかし、一年以上過ぎてからわかった場合はダメだ。ところが、税務署には五年間も減額する権限はある。そこで、税務署に「嘆願書」を出して、嘆願すれば、助けてやらないわけでもない、と言われる。まるで江戸時代の農民がお代官様に嘆願しているようだ。
nihon_no_zeikin_sin.jpg まぁ、国民は踏んだり蹴ったりの眼に合わされるというように書いてあるのだけれど、これに続けて、国民主権の時代であり、税制の枠組みもまた国民が(代表を通じてだが)決めるようになっていると続ける。
もちろんそんな実感はない。やっぱり税金は盗られるものというのが普通の感覚。

知り合いの役人がこんなことを言っていた:

税法には目的は書かれていない。


普通、法律には制定趣旨や目的が最初に書かれている。ある本に書かれていたことだけれど、具体的な法適用について解釈に困ったときは、趣旨・目的に沿って考えるべきだという。税法にはそれがない。

もちろん法案が出るときには目的があるのだろうけど、条文には書かれないという意味。
また、目的を書くと目的税と誤解され、使途が限定されるおそれがあるのかもしれない。しかし、何に使うかではなく、課税の論理として考えれば良いのではないだろうか。福祉目的税を作ったとしても、一般財源からその分が減額されるだけの玉突きになるのが関の山なわけだし。


本書でも例として取り上げられているが、印紙税というのがある。契約書などに貼るあの証紙である。
これを貼らなければ脱税となって処罰の対象になるけれど、貼らなかったからといって契約が無効になるというようなことはない。貼ってもなんのご利益もない。
一体、印紙って何のためにあるの?
答えは、税金をとるためである。

序 章私たちは誰のために税を負担するのだろう?
第1章所得税-給与所得が中心だが給与所得者は無関心
第2章法人税-選挙権がないので課税しやすい?
第3章消費税-市民の錯覚が支えてきた?
第4章相続税-自分の財産までなくなる?
第5章間接税等-税が高いから物価も高い?
第6章地方税-財政自主権は確立できたのか?
第7章国際課税-国境から税が逃げていく
終 章税金問題こそ政治
それはさておき、本書は大変良い本である。
国民が自分の権利と義務を考える上で、税金というフィールドで考えることが、もっともわかりやすいと思う。そのことが各税の枠組みが具体例を交えて説明されている。

たとえば、一部の金持ちや貧乏人でも税法を誤解している人の批判の的になる累進課税でも、所得の再分配効果が期待されているわけで、批判するならその効果を吟味しなければならない。

思うに、富というのは「マタイ効果」があって、同じだけの努力をしたとしても、生まれや運で少しの差がついたときに、富の蓄積は増幅されてしまうものである。そしてそのことが固定化すれば、国民の間に不公平感が蓄積し、結局は安定を欠いた格差社会になってしまう。つまり、課税の理屈も、その効果も、誰もが納得できるものだろう。

一方で、印紙税がそうじゃないかと思うのだけれど、税をとることを目的としたんじゃないかという税もあるようだけど。

税を盗られるものと考えていては、正しい税のありかたを考える主権者にはなりえない。

だから源泉徴収で税について考えないようにしているという見方もあるようだけれど。


以前、ある市の市長さんが、障碍者の方から、(今までいろんな優遇を受けてきたけれど)、ようやく税金を納めることができるようになったと嬉しそうに報告していただいた、という趣旨のことをしゃべっていたことを思い出す。

ところで、今まで意識してなかったけれど、地方税の税率は自治体によって違う。地方税法が定めるのは標準税率で、各自治体はその1.5倍までは独自の税率を定めることができる。
軽自動車税については、実際、標準税率の1.5倍(上限いっぱい)の自治体があるらしい。

で、思ったのだけれど、税率を安くして、他自治体住民の軽自動車の登録を引き寄せれば、トータルで増収になるんではないだろうか。
タックス・ヘイブンというか、リベリア船籍の船というか。ふるさと納税が、変な歪みを起していると批判されているから、それに代えてどうだろう(宣伝したら絶対批判されると思うけど)。

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科学の発見~練習問題

ワインバーグ「科学の発見」は各章末に練習問題がついている。

1 タレスの定理
2 プラトンの立体
3 和音
4 ピタゴラスの定理
5 無理数
6 終端速度
7 落下する水滴
8 反射
9 水に浮かんだ物体と水中に沈んだ物体
10 円の面積
11 太陽と月の大きさと距離
12 地球の大きさ
13 内惑星と外惑星の周転円
14 月の視差
15 正弦と弦
16 地平線
17 平均速度定理の幾何学的証明
18 楕円
19 内惑星の離角と軌道
20 日周視差
21 面積速度一定法則とエカント
22 焦点距離
23 望遠鏡
24 月の山
25 重力加速度
26 放物線軌道
27 屈折の法則をテニスボールによって導き出す
28 屈折の法則を最短時間から導き出す
29 虹の理論
30 屈折の法則を波動説から導き出す
31 光の速度を計測する
32 向心加速度
33 月と落体との比較
34 運動量の保存
35 惑星の質量
各章で言及された数学の定理や物理法則などについて、結論は本文中にも書かれているのだけれど、それを読者が自分で導くようになっている。

なお、それぞれの解答は、巻末に「テクニカルノート」として収録されている。
これって、なかなか良い問題集になる。


この本は、大学での講義が下敷きになっているとのことだけれど、こうした練習問題は、講義を聴いた学生への宿題としたのだろうか。
もしそうなら、学生に自分の頭で考えて確かめさせ、科学的態度というものを身に着けさせようとしたわけだ。

このあたりが文科系(一括りにしたら怒られるかもしれないが)と理科系の違い。
教科書を読むにしても、教科書が描く世界をきちんと理解するのが理科系の勉強の基本。
対して文科系では理解する対象は教科書ではないらしい。

以前、就職してからのことだが、社内研修で経済学の連続講義があったのだけれど、私は教科書を読みこんで、書かれているマクロの方程式の理解に努めて授業に臨んだのだけれど、経済学部出身の人は、既知のことだからかもしれないが、教科書はそっちのけで関連する経済誌の記事などを拾い集めて授業に臨んでいた。

教科書を理解した上でのことならば立派なことなのだけれど、確固とした体系を持たずに知識の切り貼りだったらどうだろう。
それに体系的でなかったら、背理法のような強力な推論が使えなくなってしまうんじゃないだろうか。


さて、本書に収録されている問題は右のとおり。
問題も解答も簡単に想像がつくものもあれば、どういう着眼点だろうと思うものもある。
「屈折の法則」なんてやけにいろいろ証明を付けている。
著者も書いているが、高校卒業程度の学力があれば十分理解できる範囲である。

ただ、情けないことに、歳をとったせいか、しっかりと証明を追いかける気力がなくなっている。


最初の「タレスの定理」の証明に付いている図をあげておこう。
Thalēs_theorem_red 「タレスの定理」は勿論、物理学ではない。数学である。
本書ではこの定理について特にとりあげているわけではなくて、「万物の根源は水」と言ったとされることから、根拠も何もない哲学的思索の端緒というような形でタレスを紹介し、その一方で数学的業績について触れている。

次の図は「虹の理論」に付いているもの。
rainbow_ray_blue.jpg 虹というのは物理学者にはとても魅力的らしい。
ウォルター・ルーウィン「これが物理学だ」でも虹の説明にはやけに力が入っていた。

ルーウィン先生、セクハラでクビになっちゃったけど、どうしてるんだろう。


どうだろう、この練習問題、どれもワクワクするようなことじゃないだろうか。

数学は科学じゃないと言うけれど、科学を推し進めるには数学が不可欠ということバレている。
もっとも、紙の上でできることといえば、やっぱり数学が中心になってしまうのはしかたがない。


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科学の発見

img_de20f707265ab56d5a6d96cb62d465ec3313156.jpg 前にもちょっと触れた、ワインバーグ「科学の発見」について。

そんなにいろいろ読んだわけではないけれど、今まで読んだ科学史の本というのは、さまざまな危機(理論の矛盾点や説明不能の事象)がありつつも、その危機を克服しながら、進歩してきた歴史が描かれていた。 そして、それゆえに科学は、現在の到達点に向かって、順調に成長してきたという印象を持つ。

そのような科学史では、コペルニクス、ガリレイ、ケプラー、ニュートンと、逐次、真理に近づくのに貢献した人達の名前が出てきて、着実な科学の進歩が跡づけられる。

しかし、この本では、そうした時代を進めた人だけでなく、同じ対象について思索を深めながら、近代科学の発展には貢献しなかった人、あるいは時代を停滞させた人もとりあげられ、何故間違ったのか、どこで間違ったのかが考察されている。今まで名前も聞いたことがなかった人たちも多い。

業績をひろっているのが普通の科学史で、教科書的にまとまるけれど、これは、不業績もひろっている。
つまり、そうした科学史の知識は、人間の営み全般ではなくて、そのなかの成功した部分の歴史にすぎなかったというわけだ。

第一部 古代ギリシャの物理学
第一章まず美しいことが優先された
第二章なぜ数学だったのか?
第三章アリストテレスは愚か者か?
第四章万物理論からの撤退
第五章キリスト教のせいだったのか?
  
第二部 古代ギリシャの天文学
第六章実用が天文学を生んだ
第七章太陽、月、地球の計測
第八章惑星という大問題
  
第三部 中世
第九章アラブ世界がギリシャを継承する
第十章暗黒の西洋に差し込み始めた光
  
第四部 科学革命
第十一章ついに太陽系が解明される
第十二章科学には実験が必要だ
第十三章最も過大評価された偉人たち
第十四章革命者ニュートン
第十五章エピローグ:大いなる統一をめざして
そして名をなした、科学を進歩させた偉大な人に対しても、誤りについては厳しい。
なかでもデカルトなんて、物理学には何の貢献もしていない、数学だって座標の導入は画期的だが数学的真理として大した発見はしていないという。哲学者であると。

その時代の偉人だからといって、偉いとはいわない。
科学の評価は科学の尺度で行う。そしてその科学の尺度というのは、近代になってようやく確立したものである、したがって、現代科学の眼で過去の「科学」を評価する。

もちろん(科学的には間違った)認識が人間の歴史に与えた影響は無視できるものではないと思うから、文化史とか経済史というようなものなら別だろうけれど、真理を求めるのが科学であるなら、これが科学史的評価だろう。

本書では、数学は科学とは違うとも指摘している。
私もそうだと思う。
数学は数学のためにあると考えている私だけれど、やっぱり宇宙の真理は数学にはない。

数学と物理の違いについて、数学の授業ではこんなことも言っていた。

物理の人って微分方程式には解があることがアプリオリなんですよね。
数学では解の存在証明が大事なんだけど、物理屋にしてみれば、自然現象を記述しているのが方程式、それに解が存在しないなんて、自然現象が存在しないことになるのか、というわけです。

その一方、こんな話もある。

数学では、1/2乗のオーダーでも収束する近似式を発見したら立派な業績だけれど、物理ではそんな緩い近似式なんて、計算しても丸め誤差が累積するだけで何の意味もないでしょう。


それはともかく、数学においては科学とは異なり、神が介入する余地はない。
ある定理が成り立つということは、まさに神の御業だと喜ぶことはできるかもしれないが、神が作った公理系は存在しない。

本書では、古代ギリシア人は科学的真理ではなく、美を優先したと指摘する。
だから、彼らは、数学(哲学)では偉大な成果をあげたにもかかわらず、物理学では成果をあげなかった。
数学的思索の産物としては、音楽(ピタゴラス音律)では成果をあげたと思うけれど、悲しいかな、「美しくない」無理数を認めない(というか使おうとしない)から、ギリシア人は平均律にはたどり着きようがなかっただろう。

それにしても、世界は美しく見えて、実は結構歪んでいるわけだ。

真っ直ぐ、つまり真理と美が一致してたらこんなに紆余曲折はなかったかも。

誰の作品だったか忘れてしまったけれど、こんなSFショートショートを読んだ憶えがある:

宇宙は神様たちが作った。
神様たちは、分担して自分の持ち場の宇宙を創る。
ところが中に出来の悪い神様がいた。
その神様が作った宇宙は、空間は歪んでるわ、スペクトルは赤方に偏移しているわ、できそこないなのであった。

オチは忘れてしまったけど、こんな宇宙を「矯正」したら、中で暮らしている人間はどうなっちゃうんだろう。

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日本語の科学が世界を変える

matsuo_nihongo_no_kagakuga.jpg 松尾義之「日本語の科学が世界を変える」について。

何か時間潰しに読むものはないかと、図書館でタイトルだけ見て借りた。
タイトルから想像したものとは全く違っていた。

私が想像したのは、日本語を科学する、つまり、日本語の統語構造や、表現、文字づかい(漢字と仮名)などを説明し、外国語の吸収の歴史を踏まえて、世界を記述する言語として優位性があるというようなことを主張するといったこと。

この本は、そうではなくて、日本語でする科学的活動が世界に貢献するという主張の本だった。

私が思ったのは日本語を研究対象とする科学、この本は日本人が科学研究をするときには日本語を使っているという、言われればアタリマエのような話である。

Amazonのレビューには評価の低いものがあるが、そうしたレビュアーは、この本を、何か系統だった、科学的な論説と勘違いしているのだろう。
これは、仕事をしていて感じたことを書き連ねたエッセイとして読むものだ。


つまるところ、日本語が優秀だというわけではなく、西欧が未だにキリスト教の呪縛が強いことと対比して、日本が有利、あるいは多様な文化が交流することが新しい発見につながるというような、これもまた至極普通の話である。いろんな経験談を紹介して、そうでしょう、と同意を求めてくる。

第1章西欧文明を母国語で取り込んだ日本
第2章日本人の科学は言葉から
第3章日本語への翻訳は永遠に続く
第4章英国文化とネイチャー誌
第5章日本語は非論理的か?
第6章日本語の感覚は、世界的発見を導く
第7章非キリスト教文化や東洋というメリット
第8章西澤潤一博士と東北大学
第9章ノーベル・アシスト賞
第10章だから日本語の科学はおもしろい
というわけで、なんや全然思ったのと違うがな、というわけだけれど、私が勝手に勘違いしただけで、この本に罪があるわけではない。
それに、それなりに面白い話が盛り込まれている。
著者が直接・間接に付きあって来た多くの科学者の話である。この中のどなたともお付き合いできないのが普通なのに、著者は実に多くの人と直に話をされているのだから。

湯川秀樹、山中伸弥、木村資生、西澤潤一、蔡安邦、……


ここでそれらを紹介するつもりはないけれど、著者はかなり強引に、各先生に「あなたの研究は何語でされているのか」という問いをぶつけたが、多くの先生はその質問の趣旨が理解できなかったということも書かれている。
やはり、かなり強引なエッセイと言うべきか。

科学的真理というか、真理に限らず「命題」というものは、特定の言語で表現されなければならないというものではないと思う。命題の内容・真偽は言語形式に依存しない。

ところで、論理的思考というのは、書き言葉と密接に関係するという説がある。
ジェイムズ・グリック「インフォメーション 情報技術の人類史」に紹介されている話だが:

雪が降る極北では、すべての熊は白い色をしています。
ノヴァヤ・ゼムリャは極北にあって、常に雪が降ります。
では、そこの熊はどんな色をしていますか?




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科学vs.キリスト教

41H3YjIWA2L.jpg 昨日は「大洪水」をとりあげて、創造主義者と括るには、科学的態度をとろうとした人達がいたようだという趣旨のことを書いた。

それは、ちょうど、岡崎勝世「科学vs.キリスト教」を読んでいたから。
この本では、そうした「虚しい努力」の歴史が丁寧に書かれている。

ただ、読んでいて全然面白くはない。
真理に近づくワクワク感がないからである。
面白くないから、論に集中できない。
集中できないから、いらぬことが思い浮かんでくる、あれはどうなんだ、とか。
そして、そういういらぬことが浮かぶのは、実は、文章中の言葉に触発されるから。

本書から得られる教訓は、科学を盲信してはいけないことだと思う。
その反面教師として多くの知性の努力が描かれている。
私にはなじみのない名前が連なるのだけれど、もしそういう人達と同時代に生きていたら、案外、コロッと「騙されて」しまったかもしれない。

本書で紹介されているウィリアム・ウィストン「地球の新理論」(1696年)の記述を抜き出してみよう。
まず、太陽系の運動について。
 原初の地球も月も完全な円軌道上を動いていた。従って一年は現在の太陽年より10日と1時間30秒短かった。地軸の傾斜がなかったから昼と夜の時間が等しく、季節の変動もなかった。自転していなかったから、太陽や惑星は西から東に移動した。地表にはまだ大洋はなかったが、小規模な海や湖のほか、川や平野、山脈なども、すでに今日と同様の状態で同じ場所に存在していた。エデンの園は、合流しているチグリスとユーフラテスが4本の流れ、すなわちピソン、ギホン、チグリス、ユーフラテスに分かれる場所にあった。・・・・・・
「神の呪い」により、地球の自転が開始され、これに伴って最初球体であった地球が楕円体となったし、自転開始時に地軸が傾斜して今日に至っている。このときから太陽が東から昇るようになり、四季の変化も始まったのである。

どうだろう、一年は今より「10日と1時間30秒短かった」なんて、細かい数字を挙げていて、いかにもきちんと計算した風ではないだろうか。

昨日とりあげた大洪水については、見事にそのときの状況が描写されている。
 大洪水は神の怒りによるものとはいえ、現実には自然学的原因、すなわち接近した彗星によって引き起こされた。楽園のあった地域では紀元前2349年11月27日木曜日、朝の8時から9時の間に発生した。それは、黄道面を近日点に向かって下降してきた彗星が、大洪水の最初の日にわが地球の直前を通過し、地球が彗星の大気と尾を通過することになったからである。大量の水蒸気が供給されて、40日間にわたる豪雨が始まったのである。聖書にある二度目の雨は、通過後の再接近の際に尾から再度供給された水蒸気によるもので、95ないし96日間の長期間続いた。彗星は、結局、大洪水に必要と計算される水量の半分を供給したのである。
 彗星はまた、深淵から水をあふれさせた。接近した彗星の引力によって深淵内の水に潮汐運動が起こって地球が卵形に変形し、変形で弱体化した部分で、地殻に割れ目や裂け目ができた。一方、豪雨開始から1時間もすると彗星から供給された水の重量も膨大なものとなり、その重さが地殻を押し下げる圧力として働いた。この圧力により、裂け目を通じて水が深淵からあふれ出たのである。そして雨による水と合わさって巨大な洪水となり、水は全地球を、山々の頂を越えて覆い尽くしていった。

まるで見てきたかのような迫真の描写である。
なるほど、洪水というのはこんな風に起こったのかと、なかなか説得力がある。
子供達、いや大人だって同じ、このように教えられたら、騙されて、このまま信じてしまうだろうと思う。
実際、当時の人の多く、いや現代アメリカ人だって、これを信じているのだから。

しかし、この描写、ファンタジー小説とかファンタジー映画としてなら、立派な作品になってるかも。
そうか、聖書ってファンタジーだったんだ。だから人気があるんじゃなかろうか。


ウィリアム・ウィストン「地球の新理論」(1696年)
第一章 科学革命と普遍史の危機 ―宇宙から機械論的宇宙へ
デカルト、バーネット、ニュートン、ウィストン
1 デカルトと普遍史の危機 ―デカルト『哲学の原理』(1644)
2 ニュートンと普遍史の変革
第二章 啓蒙主義における自然史の形成と人間観の変革
ビュフォン、リンネ、ブルーメンバッハ
1 ビュフォンの自然史記述と啓蒙主義的世界史
2 人間観の変革
第三章 ドイツ啓蒙主義歴史学における普遍史から世界史への転換
ガッテラー、シュレーツァー
1 ガッテラーにおける普遍史から世界史への転換
2 シュレーツァーにおける普遍史から世界史への転換
第四章 進化論と世界史 ―世界史記述におけるアダムの死
ハックスレー、ラボック、ダーウィン、ケルヴィン卿
1 ハックスレーとラボック ―「アダム」から「先史時代」へ
2 進化論と地球の年齢の問題 ―ダーウィンとケルヴィン卿
騙される」なんて不穏当な言葉を使ったけれど、もちろんウィストン氏が世間を謀ろうなどとしたわけではない。大真面目で考え、数々の反論に対して立ち向かう。

なかでも、こういう論ですら、キリスト教会側からは許せないものであって、断罪されるかもしれない危険を冒しながら、だから注意深く、論を展開しているという。

地動説を主張したジョルダノ・ブルーノが火あぶりにされたのは100年足らず前である。
そして、この100年の間に、ニュートンの万有引力の法則(1665年頃)が、宇宙の新しい姿を描いていて、多くの聖書学者が、ニュートンを否定せずに創世記を理解しようとしているという。
本書中でグールドの言葉が紹介されている、虚しい努力と。

しかし、ちょっと思う。
この黴臭い、現代から見れば無価値な研究でも、当時は偉大な知性だったのだ。
この人達の研究は、同時代人の眼で評価すべきで、虚説として退けるつもりはないというのが著者の立ち位置らしい。
対して、ワインバーグ「科学の発見」は、科学的「価値」を問題にする。同時代での評価は考慮せず、現代科学の眼で過去の「科学」を探求する。

ワインバーグの本も、本書と同じような「科学の進歩」を記述するのだけれど、ワインバーグの独自の視点は、科学はそこにあるものではなく、「発見」されなければならなかったと指摘することだと思う。言い換えるなら、「科学的態度」というものは、それまで存在しなかったということだと思う。


偉大な業績を上げた人が、新説を攻撃するという例は、科学史には山ほどある。
コペルニクスの地動説は、惑星は完全な円軌道としていたために、観測事実と合わなかった。
天動説は、長い歴史のなかで修飾され、ソフィスティケイトされていて、地動説より観測事実に良く適合した。
結局、どっちも間違っていたといえるけれど、後の科学の進歩には、もちろん天動説が有効であったことは言うまでもない。

やはり、科学的態度であったかどうかが重要なんじゃないだろうか。

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平安人の心で『源氏物語』を読む

Screenshot_20170130-092450-crop.jpg 山本淳子「平安人の心で『源氏物語』を読む」について。

あとがきにも書かれているように、暮らしや考え方など、視点のおきかたには際限がない。現代との違いがあるもの、同様のもの。体系的にというわけではないけれど、物語を読む上で知っておいた方が良いことがちりばめられている。

いわゆる平安貴族の風俗とか、暮らしぶりは勿論だけれど、源氏の登場人物に似た境遇の実在の人物のことなどが多く取り上げられている。

光源氏のモデルとして、源高明、源融、藤原道長などの名があげられるけれど、誰か一人がモデルということではなく、おそらく、いいとこどりや使える艶聞・醜聞など、いろんな人物から造形したものと思う。その中には、在原業平なども入っているに違いないというわけである。

女性の方もそうしたモデルやエピソードを採り集めて造形されたものと思う(源氏物語では、宇治十帖を別として、男性より女性の方がキャラが立っていると思う)。

Screenshot_20170130-092611-crop.jpg Screenshot_20170130-092547-crop.jpg そのネタになる歴史的事実や伝説が本書で紹介されるので、紫式部の創作の秘密というか裏話を垣間見た思いである。

そうした物語創作の真骨頂がやはり桐壷の巻、「いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに」という書き出しは、単純にこれから書く物語はいつのことだかわかりませんよ、というわけでもなければ、「あんなこと書いているけれど、これは今の時代のことよね」と思わせない工夫であるという。
そのキーワードとして「女御・更衣」が選ばれている。

Screenshot_20170130-092633-crop.jpg Screenshot_20170130-092621-crop.jpg 紫式部の時代、つまり一条天皇には更衣はおかれておらず、更衣という言葉から、読者は一昔前を想起するというしかけだ。
また、それとあわせ、帝位の継承順(帝との続柄)から、桐壷帝-朱雀帝-冷泉帝のモデルになったのは、醍醐-朱雀-村上であり、これも同時代の読者にそう思わせるしかけだろう。

ところが、その一方で、桐壷の更衣が帝の寵愛を一身に受けて、宮廷秩序を見出し、不幸な最後を遂げるということが、中宮定子と重ね合わせられている、まさに今のことを書いているのだと、そうも思わせたものだとも言う。

Screenshot_20170130-092644-crop.jpg たくみに現政権批判ととられるのをかわしつつ、多くの宮廷人の同時代的共感を得るという、きわどい作品なのである。

そういう読みにつながるのは、そもそも紫式部と定子の共通点、式部が定子に感情移入できる点がいくつかあるからだという。

定子の母は受領階級で、紫式部と同じ。
定子は漢才があり、そしてそれによって疎まれた、これも紫式部と同じ。

そうした定子への共感と不幸な最期への思いは、桐壷の更衣を創り出した。

紫式部は定子のライバル(と言ってよいのだろうか)の彰子に仕えているから、こうした思いに至らなければ、桐壷の更衣のモデルが定子だとは考えられないだろう。
後ろ楯のいる女が栄耀栄華を極めるのがアタリマエの世界で、帝の寵愛で偉そうにされてはたまらない、それこそ後宮の秩序を乱すものということだそうだ。そして、愛されて不幸になる女の話は、多くの女性の共感を呼ぶのだろう。

この本は、2011年から2013年にかけて刊行された「週刊 絵巻で楽しむ源氏物語五十四帖」(朝日新聞出版)に連載された「御簾の内がたり」というエッセイが下敷きになっているそうだ。
「絵巻で楽しむ……」という週刊本については知らないが、全部で60冊だったらしい。本書も60章からなる。1帖が複数章になるところもあるけれど、「桐壷」から順に紹介され、はじめによくまとまったプロットが置かれ、続けて関連(連想?)する話題が導かれる。
源氏物語の豊かな世界は、歴史というか執筆当時の世界の拡がりだということがわかる。そして、源氏物語自体が、単純な続きものではないことも。

今までこういう読みをしたことはなかった、とりわけ作者の心理にまで思い至るような読み方は。
源氏に詳しくない私としては、とても興味深く読めた。

著者は、是非、原文(古文)で読んでほしいという。
いや、それはちょっと難しいかな。
谷崎源氏では読んだことにならないでしょうか。

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人間・始皇帝

tsuruma_ningen-shikoutei.jpg 鶴間和幸「人間・始皇帝」について。

始皇帝にかかる伝説の多くは司馬遷の「史記」による。
いうまでもなく「史記」が書かれたのは、始皇帝の時代から150年も後のことで、同時代資料とは言えない。
近年、古代の遺物(出土資料)の発見により、「史記」の記述に反するものが揃ってきた。
本書は、それら出土資料から、秦始皇にかかる数々の伝説を書き換える。

私(というか多くの人)は、始皇帝の諱は「」と習ったと思う。
本書では、まずこれが正される。諱は「」であったと。
当時の竹簡などの直接証拠がある。
傍証もある。「正月」を記述するとき、「正」の字を避けて「端月」としたという。
司馬遷の記述では、正月に生まれたから「政」と名付けたとされるが、そうではなくて、正月に生まれたから「正」と名付けられ、後に皇帝になったために「正月」の方が皇帝に遠慮したという話である。
また秦代には「政」の字はまだ使われておらず、「政事」は「正事」と表記されていたともいう。

他にもある。
始皇帝は、趙に質子として送られていた子楚の子ではなく、趙姫と呂不韋の子であるという話は広く言われる。呂不韋の妾の趙姫を気に入った子楚がもらいうけたが、そのときには既に始皇帝を身ごもっていたという話である。
しかし、子楚のもとに行ってから、始皇帝が生まれるまで12ヶ月あり、潤色する理由もないことから、やはり始皇帝は子楚の子と考えるのが適当だという。

第1章趙正出生―生誕の秘密(一歳)
第2章秦王即位―帝王誕生の背景(一三歳)
第3章嫪毐の乱―彗星は語る(二二歳)
第4章暗殺未遂―刺客の人物像(三三歳)
第5章皇帝巡行―「統一」の実像(三九歳)
第6章中華の夢―長城と焚書坑儒(四七歳)
第7章帝王の死―遺言の真相(五〇歳)
第8章帝国の終焉―永遠の始皇帝
嫪毐事件も別の分析がされる。
この事件は、宦官を装って後宮に入った嫪毐が、淫乱な母親趙姫を巨根で喜ばせてたところ、それが発覚して、誅罰されるまえに叛乱を起したというものとされる。
ところが著者は、秦の時代、夫を失った女が別の男と関係を持つことを不倫とはとらえていなかったという時代であり、むしろ母を一旦は罰するが、母に対する不孝であるとして、咸陽宮に戻すということをとりあげる。
また、呂不韋が年老いて趙姫を満足させることができずにに嫪毐を後宮に送りこんだとされるが、呂不韋と趙姫の関係も嫪毐事件で暴露されているはずなのに、呂不韋は事件後、丞相の地位は失うが、爵位・領地は二年後までそのままであったという。

おやおやと思ったのは「五十歩百歩」のこと。
「戦場で五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を臆病者だと嘲笑したら、どう思うか」と問う孟子にたいし、梁の恵王が「逃げ出したことには変わりないのだから同じだ」という良く知られた話。
ところが、秦の軍律では、逃げた歩数によって、処罰に軽重がつけられていたのだそうだ。
結局、梁(後の魏)は秦に滅ぼされる。

教訓: 五十歩百歩を曖昧にするものは、軍規を緩ませ滅びに至る。


本書ではさらに、刺客荊軻の事件や、遺詔のことなど、今まで信じられてきたことの多くに疑問がなげかけられる。

去年、NHKで放送されたザ・ヤング始皇帝 少年が乗り越えた3つの試練」(歴史秘話ヒストリア)は、「史記」の記述にもとづいて制作されていた。

この番組は、結構、新発見を採りいれる番組だと思っていたが、これは違った。
番組ホームページには、参考文献に、本書もあげられているのだけれど。
兵馬俑展とリンクした番組だったようで、歴史批判の方には眼が向かなかったのかもしれない。


2000年も信じられてきたことが、新事実の発見でつぎつぎに書き換えられる。
なんともおもしろい時代に生まれたものだ。

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コンビニ人間

9784163906188_2.jpg 「コンビニエンスストアは、音で満ちている。」
で、いきなり始まって面食らい、おもわずページを戻したが、「コンビニ人間」という扉だけである。

序文や「はじめに」があり、章節が設けられるなど論理構成が明確で目次がある、そうした本ばかり読んでいる身としては、小説というのは、なんとも奇態なものである。

ブログで書評を書くとき、目次を掲載して記事を増量するのだが、この手は使えない。


芥川賞を受賞した小説を、まだ新作と言える時に読んだと言えば、高校生のときに、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」以来だ。
社会人になってからは、小説というものは、何か別の本(それは小説ではない)や、誰かが推薦・紹介しているようなものしか読まないことにしていて、そうすると歴史小説かSFということになる。

私とコンビニといえば、タバコを買うか、事情があって一人暮らしをしたときに弁当やドーナツなどを買うかで、あんまり縁がない。QUOカードなんかをもらったときも使いようがない。
であるけれど、コンビニの経営や裏事情など、情報サイト(川乃もりや「コンビニ探偵!」など)の記事は興味深く読んでいる。社会勉強である。

読み始めてまず驚くのは、「私(古倉恵子)」が、「コンビニ人間として生まれる前」にしていた突拍子もない行動である。

小鳥の死骸を拾って、食べようと考えること。

周囲は可哀そうだからお墓をつくってあげようというのだけれど、私なら、病気で死んだかもしれないから、食べると病気になるかもしれないと言うと思うけど。

同級生の喧嘩を止めるのに、スコップで頭を叩くこと。

暴力を嫌悪する心情ができていない、あるいは、スコップの凶器性を学習していない。

女教師のスカートとパンツを引き下ろすこと。

羞恥心が未成熟。


この恵子の行動の異常性には、はっとするが、それを発想する作者も突拍子もない。

こうした行動を心理的に規制するメカニズムは、子供のうちに育つのが普通だと思う。
他人に暴力をふるう行為は、かなり心理的なバリアがあり、子供の喧嘩といえども、かなり身構えなければできるものではないと思う。
また、人間の道徳性は、ある程度、先天的に備わっていることを示す実験がある。

5ヶ月から1歳未満の幼児にある道徳劇を見せる。3人の登場人物(人形)がいてボール遊びをしているが、うち1人がボールを相手に返さず持って逃げる(非道徳的な行動)。その後、それぞれの人物の前におやつを置いて、被験者(幼児)に、そのどれかからおやつをとらせると、ボールを持って逃げた人物からおやつをとる。非道徳的なことをした人を咎める行動と解される。


恵子は、この行動・心理を客観的に観察している。
一昔前のイメージかもしれないが、人工知能が語っているようである。 いわゆる情動というようなものは描かれず、自分自身を客観的に観察し、そして同様の眼で他人を観察し、その行動を意志的に模倣することもできる。
本当にいたら、化け物である。

話が急展開するのは、ダメ人間の白羽を家に住まわせることから。
そのことにより引き起こされる、コンビニの店員という均質性・部品性が、ヒトのオス・メスがむき出しになる状況への変化。

そして、白羽が居所としている風呂から出てくる気配の描写があり、空白がおかれる。

多くの読者は、この空白は性行為の暗示と受け取ったのではないだろうか。
もし、セックスをしても、そして感じたとしても(恵子は決してセックスを忌避・嫌悪しないと思う)、「今、感じている私がいる、性の快楽を体験している」と客観的に説明するにちがいない。
そう期待して読み進むのではないだろうか。

だけど、そうはならなかった。

そして、白羽に促されるまま、就活をするなか、最後にコンビニ人間としての自覚が、前向きな形をとって、再確認される。

読者としては、それまでの恵子の、醒めていること自体を理解しようとしてきた読者としては、このエンディングは、吹っ切れすぎていて、拍子抜けの感があるる。
アルバイトのオールドミス、しかも処女という、世間的には負け組という評価が変わるわけではないかもしれないが、それを自らの生き方としてしまうことで、恵子の内部と外部が折り合いをつけてしまう
それまでは、恵子は、外部と折り合いをつけることを演じていたわけだが、心理的にも折り合いをつけてしまったようだ。

それに実社会では、これほどできる店員なら、優秀なトレーナーとして本部がほっておかないだろう。


私は、この作品の値打ちは、やはり前半にあると思う。
人間の部品性が前面に描かれ、そしてヒトの肉性を描く仕掛けとして白羽の存在があった、それは理解できるけれど、折角、部品性と肉性を見事に裏返して描いたのだから、恵子が積極的に生きるような形、それは部品と肉の幸福な両立で決着させず、そうではなくて、ずっと対立したまま、あるいはさらに対立を尖鋭化させてもらいたかった。

恵子は、ドロドロの底辺へ落ち込んでいくが、人類社会を相対化する眼がさらに鋭くなる。
白羽は、恵子を強姦し(荒々しくではないにしても)、ダメ人間からクズ人間に進化、「強姦されている」という口癖との折り合いをつけようともがく。


そうすると、何とも落としどころのない読後感になったにちがいないが。

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昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか

mukashibanashiwa_naze_hikari.jpg 「高齢者」シリーズの3回目。
今日は、大塚ひかり「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」という本について。

実は、昨日・一昨日の記事に書いた、律令による官人の定年は70歳というのは、この本に書かれていたこと。

前の記事では、致仕についてWikipediaへリンクをはっていることでわかるように、そうした問題意識でネットを調べたら情報を見つけることはできる。しかし、そもそもその問題意識をどう持つのか。このことが現在の教育では重視されつつあると思うが、わかりやすく言えば、自らの経験、読書、そうしたものがあって、問題意識も生まれ、方向性も示されるのだと思う。
辞書・事典は、本の代わりにはならないのである。

そして、人間の記憶力はたいしたもので、本に書かれていることを完全には覚えていなくても、「こんなことが書かれていたような気がする」を糸口に、ネットで調べれば、たいていのことについて何らかの情報は得られる(もちろんその真偽など吟味が必要であるけれど)。


閑話休題。
大塚ひかりという人の本は、読んでいてとてもおもしろい。下ネタ満載である。
本書以外では、「竹取物語」、「本当はひどかった昔の日本」、「源氏の男はみんなサイテー」を読んだことがあるが、他にも、「本当はエロかった昔の日本」、「日本の古典はエロが9割」、「愛とまぐはひの古事記」、「カラダで感じる源氏物語」、「快楽でよみとく古典文学」など、エロいタイトルの著書が並ぶ。
どれも読んでみたいけれど、おそらく、内容にはかなり重複したところがありそうなので、購入は思いとどまっているけれど。

図書館に置かれているものもあるが、女性司書を赤面させてはいけないという気配りで、エロいタイトルの本は今まで借りたことがない。どうして図書館には「成人図書コーナー」がないのだろう。(Y図書館はセルフ・レジ。そっちで借りようか)


さて、他の本についてはまたあらためて記事にすることもあるかもしれないが、今日は「昔話はなぜ……」について。
大塚ひかり本は、かなり著者の思い入れ(独善)が入っていそうで、おもしろおかしく読める、あるいはそういう読みもあると、軽いエッセイとして読むのが普通かもしれないが、冒頭の「官人は70歳以上で致仕を聴す」が本書で知ったように、この本は、しかるべき根拠資料にもとづいて書かれているようだ。

古典からは、官人の定年意外に、律令における高齢者にかかる規定などがひかれている。役人の定年のことも含めて抜き書きすると、

  • "凡そ官人年七十以上にして、致仕(ちじ)聴す"(「選叙令」)
  • 八十歳になる者と"篤疾"(難病、狂気、両足が使えない、両目が見えないのたぐい)には、"侍"(介護役)を一人与えよ。九十歳の者には二人。百歳の者には五人。まず子や孫を当てよ。もし子や孫がなければ、近親者を取ることを許せ。近親者もなければ、"白丁"を取れ」(戸令)
  • 「天下の老人の八十歳以上のものに位一階を授ける」
    「百歳以上のものには、絁三疋、綿三屯、布四端、粟二石」とあって、九十以上、八十以上の人にも、それより少なめの絁や綿などが天皇の詔によって授けられることになりました(『続日本紀』巻第七 養老元年(717)年十一月)
  • "凡そ年七十以上・十六以下、及び廃疾(中程度の身障者)"は、流罪に相当する罪を犯した場合、配流の代わりに"贖"(ぞく)を取ることが許されていました。"贖"とは、銅や布・稲・土地・人身などで罪を贖うこと。さらに、
    "八十以上・十歳以下、及び篤疾(重度の身障者)"は、反逆・殺人といった死罪になるべき罪を犯した場合、"上請"(じょうしょう)が許されていました。"上請"とは、天皇に上奏して判断を仰ぐこと。酌量の余地が生じるわけです。これらの人が窃盗や傷害を犯した場合は、"贖"を取ることが許されました。そして、
    "九十以上・七歳以下"は死罪があっても、刑罰を加えない、とあります。
    また罪を犯した時点では、こうした高齢者や身障者に当てはまらなくても、罪が発覚した時、高齢者や身障者になっていれば、右のような規定によって裁けといいます。(以上「名例律」)

そして、高齢化白書や「人口から読む日本の歴史」(鬼頭宏)、警察庁の犯罪統計などなど、本書のトピックスに応じて、多彩な文献が参照・引用されている。

古典からの引用はこの人の専門だろうけど、専門外の犯罪白書などにもあたっているのは、本書のテーマにあわせて調べた結果なんだろうけれど、きちんと裏をとる姿勢は(ネタ探し、文字数増量という面もあるだろうけど)、評価できる。

もっとも、ネット社会では、こうした情報に簡単にアクセスできるようになっていて、昔のように大きな図書館へ行って調べなくてもネタが簡単に手に入るわけだけれど。
書きたいことがあって、それを根拠づける、あるいは補強する情報を探す。そして文章力。
純文学でもなく、学術作品でもない、こうした作品群はネット社会の発達に支えられて、これからも成長するだろう。


目次を下に掲げておくけれど、年寄りは元気でエロいとか、奈良時代から福祉政策があったというような、明るい話もあれば、姥捨て伝説のような暗い話もある。

先日、旅行代理店で宿・列車の予約をしていたら、パンフレットに「シニア限定」というのがあった。
おもわず、「姥捨て行き、片道、シニア限定」と口をついて出てしまった。


で、本書の評価?
おもしろかった。

大塚ひかり「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」
 昔の老人の人生昔話と古典文学が伝える貧しさや孤独という「現実」
1 昔話の老人は、なぜ働き者なのか「爺は山で柴刈り、婆は川で洗濯」の背景
2 昔話の老人は、なぜ「子がいない」のか「わらしべ長者」のルーツを探る
3 家族の中の老人の孤独「姥捨て山」説話と「舌切り雀」の真実
4 古典文学の中の「婚活じじい」と「零落ばばあ」平安・鎌倉期の結婚事情
5 昔話に隠された性「浦島太郎」が竜宮城に行った本当の理由
6 古典文学の老いらくの恋と性『万葉集』から『東海道中膝栗毛』まで
7 古典文学の中の「同性愛」の老人たち爺と稚児、婆と美女の物語
8 昔話は犯罪だらけ老人たちの被害と加害
9 自殺や自傷行為で「極楽往生」?昔話の往生話と平安老人たちの「終活」
10 老いは醜い昔話の「姥皮」と大古典の老人観
11 閉塞状況を打開する老人パワー古典文学の名脇役たちと、棄老伝説
12 「社会のお荷物」が力を発揮する時昔話はなぜ老人が主役なのか
13 昔話ではなぜ「良い爺」の隣に「悪い爺」がいるのか老人の二面性と物語性
14 昔話はなぜ語り継がれるのか『源氏物語』の明石の入道・尼君夫妻が子孫に伝えたこと
15 昔話と古典文学にみる「アンチエイジング」若返りの目的はさまざま
16 実在したイカす老人成尋阿闍梨母、乙前、世阿弥、上田秋成、四世鶴屋南北、葛飾北斎、阿栄

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「高齢者」は数の問題かな

昨日とりあげた提言は「65~74歳には元気な人が多いから高齢者というのは時代にあわない」とのことだけれど、それだけなら提言の必要はないだろう。
本当の問題の所在は、65歳以上が多くなったから、従来の高齢者施策が成り立たなくなることだろう。

元気な高齢者は、ずっと頑張ってもらえば良い。
昨日も書いたが、天海僧正107歳、北斎90歳とか、元気な年寄りは昔からいる。
奈良時代だと、天平11(739)年、出雲国には、90歳が2人、80歳が5人という記録が残っているそうだし、律令では「70歳から致仕を聴す」とあるものの、元気な人はいつまでも働いたらしい。藤原頼通は76歳まで関白を務めている(83歳で没)。


survival_curve_comp.jpg 昔は平均寿命が短かったといわれるけれど、それは、みんなが若死にしたという意味ではない。
平均寿命が短かく計算されるのは、
  • 乳幼児の死亡率が高かった
  • 出産時(産前産後を含む)の女性の死亡率が高かった
という状況を反映している。

乳幼児の死亡率が高かったことが平均寿命を下げているということは良く知られている。

モーツァルトは6人の子供をもうけたが、成年に達したのは2人にすぎない(もったいない!)。

もう一つの出産時の女性の死亡率が高かったことは、中宮定子や葵の上など、歴史や物語的に印象づけられているわけだが、実際、第1回完全生命表(1891~1898年)を見ると、30歳超あたりで、女性の生存率が男性より低い年齢が見られる。出産にかかる死亡が影響しているものと推測される。

hitowakoushitefuetekita.jpg 大塚柳太郎「ひとはこうして増えてきた」という本に、旧石器時代の生存曲線が掲載されていたので、近現代のものと比べてみようと思った。

利用する元データは統計局のページにある完全生命表

生命表は男女別になっているので、旧石器時代の生存曲線と比較するために、出生性比を105.1として全人口に対する生存曲線を計算している。


こうして、各時代の生存曲線を並べて見ると、2010年になると本当に生存率が上がっていることがわかる。図には示していないけれど、ここ十数年は同じような曲線になっている。明治時代は、まだまだ乳幼児の死亡率が高かったことが良くわかる。

ところで、大塚氏の本は、人類史を俯瞰できて、なかなか良い本だと思った。
同書では、人類史を4つのフェーズに分け、さらに各地域に分けて分析されている。

人類誕生のフェーズ(20万年前=5000人?)、出アフリカして世界に「移住」するフェーズ(7万年前=50万人?)、定住生活をはじめ、農耕・牧畜を発明するフェーズ(1万2000年前=500万人、5500年前=1000万人)、産業革命と人口転換(多産多死から少産少死へ転換する)フェーズ(265年前=7億2000万人)。そして現代(2015年=72億人)である。

ふと思う、本当に地球はどれだけの人口を養えるんだろうか。
このことにも触れられている。根拠は曖昧なようだが、120億人。これが国連人口部の最大予測値だそうである。


曲江   杜甫
 朝囘日日典春衣
 毎日江頭盡醉歸
 酒債尋常行處有
 人生七十古來稀
 穿花蛺蝶深深見
 點水蜻蜓款款飛
 傳語風光共流轉
 暫時相賞莫相違
 勤め終えれば質屋に通い
 飲み屋に毎日入り浸る
 酒屋のつけも一杯あるが
 どうせはかない人生だもの
 花に群がる蝶々を眺め
 水面を滑るとんぼと遊ぶ
 光あふれる都の野辺に
 しばしの春を楽しまん
http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcwx505/Kanshipage/KanshiNo7/kanshi89.html

奈良時代に70歳以上は、それこそ古来稀なりだから、致仕年齢を、高齢者の数で決めたはずはない。

「古希」というのは、杜甫の「曲江」という漢詩から出たそうだが、その趣意は、70まで生きられるはずもないから、今日を楽しもう(酒屋のつけも払わない?)、ということらしい。


年齢だけで高齢者施策を考えるのではなく、年齢プラス所得や資産、健康状態などを考えあわせた施策が必要だということなら、それはそれでわかる。

それにしても、年金は75歳からというのは、つまり長生きできたら年金がもらえるというのは、次の世代以降にしてもらいたいものだ。

そして75歳以上だったら、遊ぶ金もたいしていらないだろうと減額したり、医療費の補填に使うという話が出てくるんだろうな。


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Mozart: 225 The New Complete Edition (その3)

昨日は、Mozart225の楽曲(CD)の配列について感想を述べた。
今日は収録演奏について。

前に書いたように、この全集のウリの一つが、"70% of recordings different from 1991 Philips Mozart Edition"で、実際、私が持っている演奏とまるごと、つまりそのジャンル全体がぶつかるものは一部の例外を除いてない。同じ演奏でも家にあるのはLPだったりするわけで、全く同じものが揃うということでもない。
Trevor_Pinnoch_English_concert.jpg

例外というのは、舞曲と行進曲で、これは、もともと「舞曲と行進曲全集」としてLPのボックスを買っていたものと同じ上、同じ演奏が、後のLPでの全集、前のCDでの全集、そしてMozart225にも収録されているから、私は4つめになる。演奏者ボスコフスキー/ウィーン・モーツァルト合奏団(実態はウィーン・フィル団員)だけが、録音を出していて、全集に納めようとすれば、この演奏になるわけだ。
同じようなものは、メサイアの編曲(KV572)もそうで、これも同じ理由でまともに衝突する。
単体としては、内田光子のピアノ協奏曲とか、ピリスのピアノソナタとか、重なるものもチラホラあるけれど、この全集は1枚300円もしないわけで、10枚ぐらいダブっても3000円程度、割安だから許容できる。

こうなったのは、Mozart225は、近年の風潮であるピリオド楽器による演奏を積極的にとりあげていて、新しい録音が多いからだと思う。
academy-of-ancient-music-in-derbyshire-1379601052-view-0.jpg 実際、交響曲は、
  • 初期交響曲は、ピノック/イングリッシュ・コンサート、ところどころ(主に番号のついてない交響曲)ホグウッド/エンシェントの演奏、
  • 中期のものは、ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、
  • 後期交響曲は、ピノック/イングリッシュ・コンサートとブリュッヘン/18世紀オーケストラ
の演奏が収録されている。いずれもピリオド楽器が使用されるものである。前の全集だと演奏者は、録音がないという事情がなければ、同じ演奏者で揃えていたけれど。

Gardiner_Baloque_soloists2.jpg 全く同じ演奏が、既に持っているものとダブるのは比較的限られていたわけだけれど、なんと、Mozart225は、同一曲について複数の演奏が収録されている。
前からもっている2種類の全集もそうだけれど、全集というのは、同じ曲を重複して収録しないと思う。あったとしても、編曲などバージョンが複数ある場合である。(前のCD全集は、全巻購入者には、フィガロがもう1つの演奏が付いてきたが、これはオマケとして。)
しかし、Mozart225では、いわゆる有名曲は、いくつかの演奏が収録されている。

Bruggen_18th_century.jpg 40番KV550は、なんと4種類もの演奏が収録されている。それも全曲だから、KV550だけで2時間あるわけだ。
  • Orchestra of the 18th Century/Frans Brüggen
  • Les Musiciens du Louvre/Marc Minkowski
  • Camerata Academica des Mozarteums Salzburg/Sándor Végh
  • London Symphony Orchestra/Benjamin Britten
このうち2番目のMinkowskiの演奏は、モーツァルト自身による編曲版(クラリネット版)による。

メインに位置づけられているのはブリュッヘン/18世紀の演奏で、これ以前の39番まではピノック/イングリッシュ・コンサートをおしのけて収録されたような観がある。(実は、ブリュッヘン/18世紀は別に持ってるから、ピノック/イングリッシュ・コンサートがあるなら、そっちを収録してもらいたかった)
他の演奏は、"Supplementary performances"、"Classical performances"という小カテゴリーに入れられている。メインはピノックやブリュッヘンだけれど、昔から名盤とされている演奏も収録した、というわけである。

ちなみに41番KV551は2種類、39番KV543は3種類の演奏が収録されている。KV543は、ベーム/ベルリンという懐かしい(LPで交響曲全集を持っている)ものも収録されている。

特別な協奏曲KV595も4種類の演奏が収録されている。
  • Malcolm Bilson fortepiano, English Baroque Soloists/John Eliot Gardiner
  • Emil Gilels piano, Wiener Philharmoniker/Karl Böhm
  • Maria João Pires piano, Orchestra Mozart/Claudio Abbado
  • Clifford Curzon piano, English Chamber Orchestra/Benjamin Britten
Bilsonのは、fortepianoと記載されているように、古楽器が使われている。そしてこれがメインに位置づけられている。(このなかでは、ギレリス、ベーム/ウィーンはLPで持っている。ピリスは別のオケのものを持っている。)

自己保有のものとのダブりはともかく、有名曲はいろんな演奏が聴けるということは全然悪いことではない。
最も有名なピアニストだけどモーツァルトも弾いてたのかといホロヴィッツとか、家にあるのはLPばかりで最近聴かなくなったハスキルやヘブラー、骨董的演奏のブリテン、これはこれで楽しみである。

一方、すごいことになってるのが、歌曲(リート)。
歌曲もおおぜいの歌手が録音をしているわけだけれど、Mozart225は誰を選んだのだろう?

・An die Freude K53 Prey/Klee ・Das Lied der Trennung K519 Schreier/Schiff
・Oiseaux, si tous les ans K307 Bartoli/Thibaudet ・Als Luise die Briefe ihres ungetreuen Liebhabers verbrannte K520 Ameling/Baldwin
・Dans un bois solitaire K308 Ameling/Baldwin ・Abendempfindung an Laura K523 Brueggergosman/Zeyen
・Verdankt sei es dem Glanz der Großen K392 Ameling/Baldwin ・An Chloe K524 Holzmair/Cooper
・ [An die Einsamkeit] K391 Mathis/Klee ・Des kleinen Friedrichs Geburtstag K529 Mathis/Klee
・ [An die Hoffnung] K390 Schreier/Schiff ・Das Traumbild K530 Holzmair/Cooper
・Die Zufriedenheit K349 Ameling/Ludemann (mandolin) ・Die kleine Spinnerin K531 Ameling/Baldwin
・Komm, liebe Zither, komm K351 Ameling/Ludemann (mandolin) ・Beim Auszug in das Feld K552 Blochwitz/Jansen
・Ah! spiegarti, oh Dio, vorrei K178 Mathis/Klee ・Un moto di gioia K579 Stader/Demus
・Der Zauberer K472 Mathis/Klee ・Sehnsucht nach dem Frühling K596 Mathis/Klee
・Die Zufriedenheit K473 Prey/Klee ・Im Frühlingsanfang K597 Schreier/Schiff
・Die betrogene Welt K474 Holzmair/Cooper ・Das Kinderspiel K598 Mathis/Klee
・Das Veilchen K476 Battle/Levine ・Das Kinderspiel K598 Alternative performances with fortepiano Prey/Demus
・Lied der Freiheit K506 Schreier/Schiff ・An Chloe K524 Von Otter/Tan
・Die Alte K517 Mathis/Klee ・Das Veilchen K476 Baker/Leppard
・Die Verschweigung K518 Schreier/Schiff ・Abendempfindung an Laura K523 Baker/Leppard

なんと、12人の男女の歌手(伴奏違いを数えたら14組)が顔をそろえている。まるでカタログである。
もとの録音は、おそらく曲の順序も考えて行われたものだろうけれど。

Mozart225には、多数の演奏家が収録されている。
これも、Mozart225のサイトに掲載されている。

多くのモーツァルティアンは、たいていの曲は誰かの演奏で聴いているだろうから、こういう複数演奏家の録音を聴くことも一興と考えていると思う。そう思えば、この企画も納得できるものだ。

将来、「モーツァルト全録音」などというセットが出たりして。


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自分へのクリスマス・プレゼント~Mozart: 225 The New Complete Edition (その1)

2016-12-19_104142.jpg Merry Christmas!
今日は全国的にクリスマス。

朝、目を覚ましたら素晴らしいクリスマス・プレゼントが枕元に、なんてことはない。
子供が小さかったときはクリスマス・プレゼントというのはあったけれど、それ以外、クリスマス・プレゼントを交換するなんて習慣はない。
けれども、今年は自分へのクリスマス・プレゼントと言い訳をして買ったものがある。

先だって、自分の誕生日祝いと言い訳して、フェルメールの複製画を買ったりして、常套手段化してるけど。


Mozart: 225 The New Complete Edition
(CD200枚=240時間)

Tower recordsの通販で、6万円弱(ポイント10%なので実質5.4万円)。注文後数日、12月17日に届いた。

音楽業界激震 2016年最も売れたCDはモーツァルト

 今年最もCDが売れたアーティストにかなり意外な名前があがった。ビルボードの発表によると、2016年米国で最もCDを売ったのはモーツァルトだ。
 モーツァルトの没後225年にちなみ、10月28日にリリースされたのが200枚組のボックスセットの「モーツァルト225」。このセットがこれまで合計で125万枚のCDセールスとなった。
 モーツァルトは今やドレイクやカニエ・ウェスト、ビヨンセよりも売れているアーティストということになる。ビルボードによると今年の米国のCD販売枚数は昨年から11.6%減少し過去最低の5,000万枚となった。対照的にストリーミングは急成長を遂げている。
 今回、モーツァルトが売上1位になった背景には次のような背景が考えられる。まず言えるのは、クラシックファンの間では依然としてCDを買い求める傾向が強いことだ。オーケストラの演奏を聴くメディアとしては、恐らくストリーミングよりもCDが適しているだろう。
 次に言えるのが、このボックスセットがギフトとして人気を獲得した点だ。ギフトとして贈る場合、形に残る物のほうが好まれる。ストリーミングは今後も普及を続けるだろうが、CDプレイヤーを捨てるのはまだ早いということだ。

http://forbesjapan.com/articles/detail/14568

モーツァルトの録音の全集といえば、中央公論社+フィリップス共同編集のLP版(182枚)、小学館のCD版(190枚)と、2揃い持っているのだけれど、またまた買ってしまった。
既に全集を持っている人にもささるメッセージがメーカー・サイト(www.mozart225.com)にある。

70% of recordings different from 1991 Philips Mozart Edition
(もっとも、私は注文してから、このサイトに気づいたのだけれど)。

それに、前の全集は、2~3十万円だったと思うので、それに比べたらずっと安い。

そもそも、この全集の存在を知ったのは、ネットに流れているニュースに、
今年一番CDが売れたアーティスト」とあったから(右に記事引用)。

計算上は、1日1枚で1年以内に全部聴けるわけだけれど、多分、そんなわけにはいかない。
というか、生きている間に全部聴けるかというと、それも疑問である。

モーツァルトを自分のそばに置きたいという気持ちに偽りはないけれど、これも偏執的な蒐集癖のなせることかもしれない。

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山田雄司「忍者の歴史」

yamada_ninjanorekishi.jpg 「真田丸」完結。
伝えられているように、「手柄とせよ」と首をさしだして討たれることもなく、しかし、晴れやかに、そして画面もホワイトアウトして、最期のシーンをうまく処理したと思う(ちょっと肩透かしをくった感じだけど)。

歳をきかれた佐助が「五十五歳です」と答えて、わ、歳とらんな(本人は腰が痛いとか言ってたが)というか、信繁より年上やないかと、不思議な連帯感を醸し出していた感じがする。

「真田丸」はそれぐらいにして、今日はネタに困ったときの「書評」。無理やり佐助を持ち出したが、とりあげるのは、山田雄司「忍者の歴史」

「忍者の実像」というわけだけれど、それは「第一章 戦国時代の忍び」の部分で概ね尽くされている。
「第二章 兵法から忍術へ」「第三章 忍術書の世界」あたりになると、忍者の実像というより、忍術というものがどのように書かれてきたのかが中心になり、「忍者の実像」というより、「忍術書の実像」という感じ。

もちろん、私は忍者について良く知っているわけではないのだけれど、そう思うのは、二章以下は、江戸時代に編纂された「忍術書」の内容紹介が中心になっていて、荒唐無稽と思えるようなことでも、それ自体に批判を加えずに紹介しているようだから。
忍者が活躍する場面がどれだけあったのか怪しい江戸時代にまとめられた「忍術書」というのは、奇書の類かもしれないし、本書でも偽書としているものもある。

著者は、決して「忍術書」を鵜呑みにして、これが忍術だというわけではない。超人的な忍者像は間違いで、基本的に諜報活動を行う専門家としてとらえ、当時の記録からも読み取れる、体力より知力が求められるという、誰が聴いても納得できる説明をしてくれる。
たとえば、忍者は手裏剣などの武器は持ち歩かない、何故なら、諜報が主活動だから、そうしたものを携行していれば、当然、怪しい奴となるからだと、本書は指摘する。その一方、火術(爆薬)などの扱いに習熟していなければならないという記述もある。

だとしたら、忍者というのは、やはりいろんなタイプがいて、一括りに考えてはいけないのかもしれない。

sanadamaru3355.jpg 「真田丸」に出てくる最高の「忍者」は、佐助でも、出浦昌相でもなく、なんといっても厨の爺さんであろう。おそらく、視聴者の96%以上(私も)が、許しがたい奴と憎んだに違いない。
徳川に通じたのは、個人的怨恨からだったにせよ、諜報活動はするわ、偽情報で攪乱するわ、最後は城に火までかける。そしてそれがすべて効果的で、戦の勝敗に直結したと描かれている。
まさに忍者として、最高の働きである。
しかも、この人は実在だったらしい。
 [⇒Wikipedia 大角与左衛門]
息の根を止めなかった信繁の手ぬるさが悔やまれる。
こいつ(与左衛門)がおらんかったら勝ってたかもしれんやん!

616HYN2RboL.jpg さて、問題は忍術の方。忍者の活動がどうあれ、子供の頃、少年マガジンなどで紹介されていたような忍術、それらは忍術書に根拠があったのだということはわかるんだけれど、平和ボケして、忍者が忍者らしい活躍をすることがほとんどなくなった時代、机上で考えた「忍術」なのではないだろうかと思う。

それでも、子供の心をおどらせるのは、超人的な術。
蟇に化けるとか、何メートルもジャンプするというような自然法則を無視した荒唐無稽は別として、鍛えられた体というのは本当らしい。テレビで、忍術家が関節をはずす様子を見たことがあるけれど、こういう荒技は、忍術書にも書かれているそうだ。

忍者の本当の姿、というような言説が、何を根拠にかたられるのか、そういう眼で読むと、この本は基礎知識としておさえておくのには、文献学的には良いのかもしれない。

しかし、普通の読者としては、文献学などはどうでもよくて、忍術書に書かれていることの、どれが本当で、どれは脚色あるいは虚構なのか、怪しげな忍術のほうをこそ、はっきりしてもらいたいと期待したいわけだ。

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システムレビュー

iryotantei_sougoushinryoi.jpg 山中克郎「医療探偵『総合診療医』」(光文社新書 2016)を読んだ。
この本にも書かれているが、NHKの「ドクターG」という番組で、総合診療医という医師の姿を垣間見ることができ、注目が集まっている。

昔から、近くに大病院などがない田舎の医者は、経験のある優秀な内科医が良いけれど、専門分化が進んでいてなかなかそういう医者はいないという話を聞いたことがある。
この本や「ドクターG」で扱われる症例は、ありきたりのものではなくて、むしろ原因不明、診断がつかないという難しいものが多いわけだけれど、能力、資質、診療スタイルなどには通ずるものがあると思う。

本書でも、著者も出演している「ドクターG」でも、問診の重要性が強調されている。そして、本書では具体的に「攻めの問診」と「パッケージ問診」という手法が紹介される。
「攻めの問診」とは、怪しいとにらんだ病気の診断の確度を高めたり、あるいは除外したりするための積極的な問いかけであり、「パッケージ問診」とは病気に対してセットで起こる症状をまとめて確認する手法をいうようだ。(これらも、予断をもって誘導するような問診になってはいけないのだろうけれど。)

そして、問診で絞り込んだあとで、何を見るのかという明確な目的をもって検査をするという手順になる。
小さな医院などでは、検査機器も、検体検査も十分ではないだろうから、問診はとくに大事だということだ。

至極納得できる話である。情報システムのトラブルでも似たような手順を踏むことがある。さまざまな分野で応用できる手法だろう。

システムレビュー  (一部)
当てはまるものに〇をつけてください
[一般]
体重変化(  ヵ月で   kg増/減)
食欲不振
全身倦怠感
下着を替えるほどの寝汗
発熱
発熱の前に身体がガタガタ震えた
便通(整/不整)
排尿(日中  回、夜間  回)
睡眠障害(有/無 なかなか寝付けない・睡眠中に目が覚める・朝早く目が覚める)
[皮膚]
湿疹
かゆみ
色の変化
こぶ・腫れ物
爪の変形
脱毛
太陽に当たると赤くなる
[頭部]
外傷
めまい
失神
頭痛
[眼]
視力低下
眼鏡/コンタクトレンズ
物が二重に見える
視界が暗い
涙が出る
痛み
目が乾く
[耳、鼻、喉]
聴力低下
耳鳴り
鼻水
鼻づまり
鼻血
歯茎からの出血
口の乾き
[乳房]
しこり
痛み
腫れ
乳首からの分泌物
[胸部、血管]
胸の痛み
胸の圧迫感
動悸
呼吸困難
就寝後1~2時間で息苦しくなって目覚める
横になると息苦しく起き上がると楽になる
[消化管]
飲み込みが悪い
みぞおちの痛み
げっぷ
胸焼け
吐き気
嘔吐
今日の標題の「システムレビュー」というのは、要するに問診票のことで、本書では、診察の時、医師が患者のその症状があるかないかをチェックするためのリストと説明されている。
医師用のリストはかなり詳細、かつ難解なものが多いとし、その一部が掲載されていた
(右の表がその抜粋。全体のCSVファイルはこちら

このリストには、喫煙や飲酒習慣、出産歴、職歴などが入っていないが、実際に使用しているものは入っていると思う。


医師が患者に聴きたいことというのがある。それが主訴である。
そして、症状がいつから、どんな頻度でといった時間軸にそって、また、どういう環境や患者の来歴があるのかという空間軸を見て、診断をつけていくという。

患者は苦しい思いをして病院にやってくる。その訴えは必ずしも整理されて出るとは限らない。一方、自分は風邪だといって来る患者もいる。
システムレビューはそういうなかから、正確な情報をとり、コミュニケーションを円滑にするツールだというわけだ。

で、ふと思った。
本書でも書かれていることだが、患者がシステムレビュー(問診票)に〇をつけて持参する使い方もあるだろう。

実は、家人が診察を受けるときに、その医院のホームページに問診票が掲載されていて、それをあらかじめ記入して持って行ったことがある。それだけでも受診の心構えができて良かったように思う。


病院の待ち時間は長いから、問診票を書くのも良い時間つぶしになるのかもしれないけれど、だからといって、あらかじめ、落ち着いた状態で、きちんと問診票を書いて持っていったら邪魔になるということもないだろう。

医師が使うシステムレビューは、項目が多くて、難解だというのなら、患者が書きやすい、患者用のものを作れば良いのでは。なんでもマニュアル化するのが得意な医療の世界だから、学会とかで標準的なものを作らないだろうか。
そして、それを各医院に備え付けたり、ホームページから配布する。あるいは、医師会や市役所などから配布・周知したらどうだろう。

素人の戯言と言われるかもしれないけれど、積極的に否定されるとも思えないのだが。

余談だけれど、そのうちシステムレビューをAIに投入したら、診断を絞り込んだり、追加の検査を指示してくれるようになるだろう。

30年ぐらい前、娘が虫垂炎から腹膜炎にまでなって大変だったが、入院していた病院では、緊急手術で腹を開けるまで、診断がつかなかった。その後、症状や検査結果を米国製の診断エキスパートシステムに入れたら、腹膜炎がトップに疑われたんだけれど。


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決定版 江戸散歩

2016-11-03_085202-crop.png 東京の人が大阪へ来て、展望台から街を見ると「何だこの街は、緑が全然ないじゃないか」と言うらしい。
ほっといてくれ、という気持ちもないわけではないけれど、実際そうなのだから困ったものだ。

たしかに東京タワー(未だスカイツリーに行ったことがない、建設中の姿は良く見たのだけれど)などの展望台から、都内を眺望すると、あちこちに緑地が散在している。
某テレビ局は敷地にある「毛利庭園」からたびたび中継画像を流している。

けれども、こういう姿は、別に東京人が偉いとか、政府や東京都がしっかりしているからだとは言えまい。すべては江戸幕府の遺産といって良い。
もし大阪が首都になっていたなら、こういう景色にはならなかったに違いない。
理由は簡単である。武士の街だったから。

山本博文「決定版 江戸散歩」は、その事情を具体的に教えてくれる。
KADOKAWAの電子書籍が割引販売されていたときに、何かないか見ていて、この著者なら間違いないだろうと思って買ったもの。

フォーマットがイメージだったので、テキストを自由に拡大(つまり文字サイズにあわせて改行改頁)できないので、スマホの画面で見るのは困難。PCか大画面のタブレットで読む。
もっともイメージ収録というのもしかたがない、とりあげられた各所の写真が数多く収録され、レイアウトされているのだから。


2016-11-03_085328-crop.png 歴史上のエピソードを紹介しながら、尾張屋版江戸切絵図と現在の地図を重ね、往時の様子と今の姿を、解説してくれる本で、江戸の観光ガイドになっている。
東京の公園というのは、その多くが、将軍家や大名の屋敷跡なのだそうだ。

地方にある名園の多くが大名庭園だったのと同じ。
日本三名園とされる金沢兼六園、岡山後楽園、水戸偕楽園、いずれもそう。家人の郷里の香川県には栗林公園、中津万象園がある。
地方に分散しているのと同じくらい、江戸に集結していたのかもしれない。

これらの大名屋敷は、庭園が公園になったり、公共施設になったり、中には民間宅地になったものもあるようだが、それだけのゆとりある空間を都心に保持していたから、ど真ん中に政府機関や公共施設が立地できた。
(やはり大阪や京都では近代日本の首都にはなれなかっただろう)
もっとも江戸の総面積の1/6に、半分の人口=50万人が住んでいた町人地の方にはゆとりがあったはずはないけれど。

それはともかく、オールコック「大君の都」では、

将軍の都は心を奪われるほど美しい。……
ヨーロッパには、江戸のように沢山の素晴らしい特質を備えている都はない。また、町のたたずまいと周囲の風景のこのような美しさを誇れる都もない。……

とある。
そのなれの果ての東京だけれど、そのゆとりがあったから今があり、そして、やはり、ところどころにはその面影が残っているというわけだ。

そして、この本で紹介される数々の名所のほとんどに行ったことがないことにも思い至った。

現役の頃は頻繁に東京に行ってたけれど、たいてい日帰り、とんぼ返りだった。
かといって、用事もないのに東京なんて行くかなぁ。


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「万葉集―隠された歴史のメッセージ」(続き)

時事の話題を優先したり、休刊日があったりしたので、続けて書くつもりだったのが、随分遅くなった。
"万葉集一番歌「籠もよ み籠持ち」の作者は雄略天皇ではない"の続き。

時代代表歌人
巻一原撰部
(巻一の前半)
持統・文武額田王
巻一、巻二元明柿本人麻呂
巻三~巻十六聖武山上憶良
巻十七~巻二十光仁大伴家持
小川靖彦「万葉集―隠された歴史のメッセージ」について、前の記事で「私には新鮮」と書いたけれど、この本の内容について少し具体的に補足する。
万葉集は全20巻であるが、一度に成立したものではないという。このことは、著者が初めて言ったわけではなく、平安期から既に定説となっていたものである。
本書の著者は、その理由・経緯を次のように説明する。

《目次》
 
第一章『万葉集』という「書物」
──「やまと歌」による〈歴史〉の創造
「書物」としての『万葉集』
皇統の《始祖》──一番歌・雄略御製
満ち足りた実りの国──二番歌・舒明御製
歴史上の舒明天皇
天皇による統治の完成への歩み
藤原宮の主・文武天皇
巻子本であった『万葉集』
成長する「書物」・『万葉集』
 
第二章万葉歌人たちの詩の技法
額田王の〈媚態(コケットリー)〉
柿本人麻呂の想像力
山上憶良の悟り得ぬ心
大伴家持の孤独
作者未詳歌の輝き
 
第三章漢字に託す心
──漢字で書かれた「やまと歌」
巻一の書記法──記憶に支えられた大胆な表記
『万葉集』の《文字法》
漢字から「かな」へ
 
第四章万葉集古写本の世界
 
まず、巻一の53番歌あたりまでが最初に編まれた(原撰部)。これは持統天皇の正統性を主張することが目的であるという。そもそも万葉集の編纂は持統天皇の意志による。
ついで、巻一の残り、持統後継である。
そして巻二は、藤原氏の特権性を印象付ける目的だとする。
ここまでは、政治的である。
そして、巻三からは大きく編集方針が変わる。
巻十七~巻二十は、大伴家の私家集の性格があるという。
つまり、それぞれ編纂目的があって、順に増補されてきたものである。

異なる目的であったにもかかわらず「万葉集」として増補されてきたのは、既に権威として確立していたからだろう。とりわけ巻二が藤原氏を持ち上げるものとするなら、権威を利用する姿勢というのは、いかにも藤原氏らしい。

そこで不思議に思うのが、大伴家の私家集という説である。
大伴氏は、周知のとおり、古くからの武門の家系だけれど、奈良時代末には没落する。藤原氏との権力争いに敗れたわけだ。
大伴家持は、歌人である前に、政治家であったのではないか。
その私家集がなぜ万葉集に、紛れるどころか堂々と入っているのだろう。
そんなに読み込んでいるわけではないけれど、家持の歌に直接的に藤原氏を悪く言うようなものはないのではないか。

あらためて、茂吉「万葉秀歌」でも、そういう眼で読み直してみようか。

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万葉集一番歌「籠もよ み籠持ち」の作者は雄略天皇ではない

P_20161015_113617.jpg 小川靖彦「万葉集―隠された歴史のメッセージ」について。

「万葉集」は読んでみたいと思い、そしていくばくかはトライもしてきた歌集である。

中学3年ぐらいのときだろうか、解説書を買い求めた覚えがある。
家には岩波の日本古典文学大系の万葉集(1~4)を飾ってある(もちろんこうした専門的な本がきちんと読めるわけではない)。
斎藤茂吉「万葉秀歌」は、随分前に紙の本でも読んでいるが、青空文庫に収録されていることに気づいて、おそらく電子書籍として一冊を読み通した最初の本だと思う(今はKindleでも配信されているから、こちらを使っている)。

思えば、今までの読みは「日本人の心のふるさと」というような淡い、曖昧な憧れだったと思う。
P_20161015_113507.jpg 前掲の解説書も、歌の鑑賞が主であり、その理解のために、詠まれた時の状況や作者の説明といったものが付随する。

例示するなら、一番歌「籠もよ み籠持ち」は、歌のリズム、当時の習俗(家聞かな 告らさね)、雄略天皇は倭王武(ワカタケル)であり、王者らしい力強い言葉(おしなべてわれこそ居れ)を味わうという読み方である。

あるいは、万葉仮名や戯訓(戯書)の話とか、仮名文字ができる前のことを少し。

そんな読みをしていることについて、とくに疑問に思ったことはなかった。

manyoshu_hidden_message.jpg 小川靖彦「万葉集―隠された歴史のメッセージ」は、そういう貧しい鑑賞者に、新しい眼でこの歌集を見ることを教えてくれる。
副題には「歴史のメッセージ」とあるが、これは喩えとかではなく、著者は明確かつ直截に政治的メッセージを読み取る。そして、その読みこそ当時の人々に共有されていたものだろうとする。

「隠されたメッセージ」ではなくて、現代の和歌鑑賞者の眼からは隠れていた、忘れられていたということだろう。


ぐだぐだ能書きばかり垂れたけれど、たとえばこういうことである。

一番歌「籠もよ み籠持ち」の作者は雄略天皇ではない。

雄略天皇の歌として素朴に鑑賞する者としては、これは虚をつかれた感がある。
虚仮おどしの好きな作家が書くなら、これを本のタイトルにしたのではないだろうか。

いきなりそう書かれたら衝撃的(なのでこの記事のタイトルとさせてもらったし、上では朱書き)だが、誠実な研究者と思しき著者は、そんな読者を驚かせようという悪趣味はお持ちではなく、こういう書き出しをするわけでも、このような断定的な表現をとるわけでもない。
この主張は、諄々と万葉集の成立過程を解き明かすなかで、なるほどと納得させられる形で提示される。
なお、誰が作ったかは措いて、雄略天皇が詠ったものとして読むことが、鑑賞上は適切であることはいうまでもないし、そう読まれることこそが、万葉集編纂者の意図なのである。

本書は、前述のような歌の鑑賞や、「我が国最古の歌集である」式の受験知識の水準ではなくて、万葉集の成立の動機、編集意図というものを解き明かそうとしている。
とりわけ興味深いのは、巻一原撰部、巻一および巻二の成立に関しての部分である。

P_20161015_113121.jpg 上述の「一番歌の作者は雄略天皇ではない」については、本当の作者が誰であるかの問題ではなく、根拠があやしいというだけでなく、編集意図を考えれば、一番歌の作者を雄略天皇とすることに意義があったという論述がされている。

二番歌は、舒明天皇御製「大和には 郡山あれど……」(おそらくこれも舒明天皇作ではない)である。
この2人の天皇の間にはかなりの年代差がある、なぜ雄略の次が舒明になるのか、なぜ推古ではいけないのか……
そうしたことに疑問をもち、そこを起点に、万葉集の編纂目的、編集者の意図を、緻密に読み解いている。

その世界では周知のことなのかもしれないが、不勉強な私には、とても新鮮な本なのである。

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「江戸前魚食大全」

61sVWQ4oHHL.jpg 冨岡一成「江戸前魚食大全」について。
別に、豊洲市場問題から、築地の歴史を調べようなどと考えて読んだわけではない。

実際、築地中央市場についてはほとんど触れられていない。
(江戸では市場を整備したのは幕府ではない、公設市場は築地中央市場からである、という程度の説明はある)


Amazonのレビューでも同じような感想を投稿している人がいたが、書名からすると「江戸前寿司」とかの話かと思いそうだが、もちろん、それについても触れられている(第八章)けれど、江戸の魚食について、もっと総合的に、漁、流通、料理、及びそれらの成り至った歴史の全般を取り扱っている。

目次を見ればその拡がりが推察されるだろう。まさに、「大全」であり、江戸の上下の人々と魚の関わりの文化誌というにふさわしい本だと思う。

第一章なぜ江戸だったのか?
江戸前とは何か
自然と人のつくった漁場
江戸の生活からうまれた魚
第二章江戸の始まりから魚河岸ができるまで
江戸の都市づくりと水運の改変
関西漁業の進出
魚河岸の誕生
第三章海に生きた人々
漁業はどのように始まったか
水産業のルーツ
古代・中世の流通ネットワーク
海の上のしきたり
第四章江戸前漁業のシステム
漁村と漁法と流通
江戸時代に漁村がうまれる
江戸沿岸の漁村
江戸前の漁法
江戸の鮮魚流通
第五章賑わう江戸の魚河岸
江戸っ子のルーツを探る
日に千両の商い
幕府御用達の明暗
江戸っ子の見本
第六章日本人と魚食、知られざる歴史
日本人はなぜ魚を食べてきたのか
「食べられない」から生まれた食文化
江戸の魚食、現代の魚食
第七章関東風の味覚はどうつくられたか
魚が劇的にうまくなった理由
江戸の味覚
旬と初物
外食文化の発展
第八章江戸前料理の完成
浅草海苔―真の江戸前―
佃煮―漁民のつくった保存食―
―外食文化のルーツ―
天ぷら―南蛮渡来の江戸前料理―
すし―伝統食のコペルニクス的転回―
第九章楽しみと畏怖、江戸人の水辺空間
水辺に遊ぶ
異界の水際
水辺の信仰
第十章江戸から東京へ、江戸前の終焉
海からやってきたえびす
去りゆく江戸前
江戸前漁業の終焉
付録魚河岸の魚図鑑
文章は平明・簡潔で読みやすい。難を言えば、着眼点に沿って書かれているので、時代が跳ぶことがあることぐらい。そして、それは江戸時代というのが、開府から幕末まで、ひとしなみに語れないということでもある。
たとえば、魚河岸というのは、もとは幕府へ魚を納めるためにできたものだが、中期を過ぎると御用よりも、民間需要が重要になる。

驚くべきことに、本書によれば、幕府は市価の1/10ぐらいの価格で魚を仕入れていたと言う。そして魚屋が魚を隠すとそれを見つけ出して、有無を言わさず安値でとりあげる御用役が置かれるという「進歩」もあり、そして魚河岸と幕府の暴力沙汰まで記録されているとのことだ。

そのことを思えば、今どきの役所が民間の商売にいいようにされて、高い買物をしているという批判が、可笑しくなってくる。江戸の奉行所の方が良かったとでも言うのかな。


本書では、随所に江戸川柳が引用されて、魚にまつわる江戸人の様子を描いている。落語も紹介される。それどころか、江戸以前、日本人の魚とのかかわりについては、万葉集までその範囲は広がる。

こういう該博な知識を、読みやすくまとめている著者は、どんな人なのだろう。
本書裏表紙見返しに次のとおり紹介されている。
冨岡一成(とみおか・かずなり)

1962年東京に生まれる。博物館の展示や企画の仕事を経て、1991年より15年間、築地市場に勤務。「河岸の気風」に惹かれ、聞き取り調査を始める。このときの人との出会いからフィールドワークの醍醐味を知る。仕事の傍ら魚食普及を目的にイベント企画や執筆などを積極的におこなう。実は子どもの頃から生魚が苦手なのに河岸に入ってしまい、少し後悔したが、その後魚好きになったときには辞めていたので、さらに後悔した。江戸の歴史や魚の文化史的な著述が多い。近著に「築地の記憶―人より魚がエライまち」(共著・旬報社)


いわゆる学者・研究者の類でもなければ、文筆業というわけでもないようだ。
著書も本書以外は、写真集のようなものの解説を付けているものしか見当たらない。

本は、何冊も書けば良いというわけではない。
しかし、この著者は、この本の一部を取り出して、適宜、膨らませたりすれば、まだまだ何冊も書けるに違いない。
そのぐらい、見事な本に仕上がっていると思う。

真摯に仕事に取り組み、そしてそれを楽しみ、そこから興味を広げていけば、こういう本が書けるんだろうか。

tomioka_tsukiji.jpg そうそう、ネットでこの著者名でググると、“あと半年で閉鎖、「築地市場」に行くべき理由~「人より魚がエライまち」の懐は実に広かった”という記事が見つかった。
豊洲でも、このように親しみと誇りを持った本が書かれるだろうか。







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礒山氏の推薦盤―礒山雅 「モーツァルト」(その3)

本書の最後では、15作品をとりあげて、推薦録音が紹介されている。

セレナード ト長調 KV525ゲヴァントハウスSQ+コントラバス、ユーロアーツ 2005年
ワルター/コロムビアSO、ソニー 1958年
モテット「エクスルターテ・ユビラーテ」 KV165バーバラ・ボニー、ピノック/イングリッシュ・コンサート
 アルヒーフ 1993年
フルート四重奏曲 ニ長調 KV285 菅きよみ、鈴木秀美他 アルテ・デラルコ 2011年
ピアノソナタ イ短調 KV310 小倉貴久子「輪舞」 ALM 2012年
ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 KV364 寺神戸亮、クイケン、ラ・プティト・バンド アリアーレ 1995年
弦楽四重奏曲第14番 ト長調「春」 KV387ゲヴァントハウスSQ 《アイネ・クライネ》 DVD
セレナード 変ロ長調 KV361
 「グラン・パルティータ」
ブリュッヘン/18世紀オーケストラ フィリップス 1988年 DVD
ピアノと木管のための五重奏曲 変ホ長調 KV452 シフ、ホリガー デッカ 1993年
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 KV466グルダ、ミュンヘン・フィル クラシカル 1985年
バレンボイム/ベルリンPO ワーナー 1988年
歌劇「フィガロの結婚」 KV492プライ、ポップ、ヴァイクr、ヴァルツァ、ヤノヴィッツ、
 ベーム/ウィーン国立歌劇場来日公演1980年
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」 KV527 ムーティ/ウィーン国立歌劇場 デノン 1999年
交響曲 第40番 ト短調 KV550アバド/モーツァルト管弦楽団 アルヒーフ 2009年
クラリネット五重奏曲 イ長調 KV581四戸世紀、トッパンホールアンサンブル TDK 2006年
ヴィトマン、アルカント・カルテット ハルモニアムンディ 2012年
歌劇「魔笛」 KV620 デイヴィス/コヴェント・ガーデン デノン 2003年 DVD
レクイエム ニ短調 KV626アバド/ルツェルン祝祭管弦楽団
 キング・インターナショナル 2012年 DVD

で、著者礒山氏の推薦盤というのは1つも持っていなかった。

本文中で紹介されている録音については、私も持っているものがいくつもあったけれど。

それで、とくに興味を惹かれたものを買うことにした。
フルート四重奏曲 二長調(KV285)、ピアノソナタ イ短調(KV310)、協奏交響曲 変ホ長調(KV364)の3CD。
このいずれもが古楽器を使用したものである。

flute_quartet_suga.jpg ■フルート四重奏曲全曲
 菅きよみ(Flauto traverso) 、
 若松夏美(Vn)、成田寛(Vla)、鈴木秀美(Vc)

これは驚いた。フラウト・トラヴェルソがこんなにきびきびと鳴るなんて。
もちろんモーツァルトの時代には、この楽器でこの曲を演奏していたはずだから、驚くようなことではないのかもしれないけれど。
モーツァルトはフルートが嫌いだったという説がある。しかし、磯山氏は、本当に嫌いだったら、魔笛のフルートの説明がつかないと仰っている。私もそう思う、というか思いたい。
モーツァルトが嫌いだと言ったのは、協奏曲の注文主の銭払いが悪かったからだろう(2曲注文されて、1曲はオーボエ協奏曲の編曲だから無理ないことだけれど)。


Baroque-Traversos.jpg 実は、知人が持っているフラウト・トラヴェルソを触らせてもらったことがある。
トラヴェルソは現代フルート(C管)と違い、管自体の調性はD管、つまりすべての穴を塞いだ管長が最も長い状態で出る基音はDである。そう考えれば、ある程度は納得できる運指ではある。

リコーダーはソプラノはC管、アルトはF管である。私はアルトを吹くときは、頭の中で移調してソプラノと同じ指使いにするのだけれど、人によってはアルトは別の楽器として、アルトの指使いを覚えるそうだ。
つまり、Fを鳴らすとき、私はそれをアルトのドと頭の中で移調して、ソプラノのド(C)の指使いで吹くけれど、人によってははじめからアルトのFは指孔を全部塞ぐ指使いと覚えているということ。正確にシフトされるわけではないだろうから、アルト用に指を覚えるほうが正しいのかもしれないけれど。

が、それ以上に奇々怪々な運指が要求されていて、とても尋常には演奏できない。トリルを吹くときに、バラバラの指を3,4本動かすなんて芸当は無理。私は小一時間ためして、あきらめた。

Symphony_concertante_K364.jpg ■協奏交響曲、ヴァイオリン協奏曲第3番
 寺神戸亮(Vn)、S.クイケン(Vla)&ラ・プティット・バンド

これはちょっと期待はずれ。
この曲の初演のとき、モーツァルトがヴィオラを担当し、ヴィオラを半音高く(つまり変ホ長調に)調弦したことは良く知られている。しかし、現代の演奏でそういうことをしている奏者は少ない。この演奏はそれを注実にやっているという。
ヴィオラの音に張りがある、そう思って聴けばそのとおりなのだけれど、いかんせん、ヴァイオリンの音が薄い。
この曲は、哀愁の強い(第2楽章)ところもあるので、もっと豊かな音が合うと思うのだけれど、どうもヴァイオリンがひぃーひぃー鳴きすぎる感じ。
あらためてヴィオラをモーツァルト指定の調弦にした演奏のCDを調べると、五嶋みどり・今井信子・北ドイツ管弦楽団の演奏、ヨセフ・スークのものなどがあるようだ。こちらも聴いてみたいと思う。


礒山氏は、日本人による良い演奏があれば、そちらを優先的にとりあげているような気がする。

もう1枚のCD、輪舞(ロンド)~ソナタ第8、9、11番、2つのロンド 小倉貴久子については、稿をあらためて。

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「すみれ」の真実―礒山雅 「モーツァルト」(その1)

71mMblyTkfL.jpg 「モーツァルトと女性たち」では、「モーツァルトの伝記として絶対に外せない書であると思う」と書いた。
この本に触発されて、比較的最近のもので、評判の良い伝記も読んでみようと思って、「モーツァルトは貧乏じゃなかった」というコピーが付いた、この本、礒山雅「モーツァルト」を読むことにした。

モーツァルトについては、「神童」で片づけられてしまう風潮に多くの人が異義を唱えてきている。

もちろん神童でもある。しかも二十歳すぎてもただの人ではない。

モーツァルトは曲芸を仕込まれた犬ではないし、「赤い上着を着た子供」で終わるわけではない。
その作品を、「優美」や「美しい」で済ますわけにはいかないし、「疾走する哀しみ」や「デモーニッシュ」と言えば深いということにもならないと思う。

本書では、アタリマエのことだけれど、大変な霊感と真摯な作曲態度、さらに加えて洒落のめした遊びまで、幅広いモーツァルトが描かれる。
特に、この最後の洒落のめした遊びというのは、もちろん沢山の下品なカノンの類については前からモーツァルトの遊びとして理解してきたけれど、本書の「すみれ」KV476の解説には驚いた。そして、大いに納得した。

Das_Veilchen_KV476.jpg 「すみれ」は前にも記事にしたことがある。

庭に咲いた花をスミレだと思って書いたのだけれど、スミレではなさそうだ。


恥かしながら、この曲については、「すみれ」というイメージに引きずられて、あまり深く考えたことはない。
曲自体は、美しく、劇的である。
しかし、最後にモーツァルトが付け加えた「かわいそうなスミレ、本当に素敵なスミレだった」の歌詞で、モーツァルトがスミレに寄せる思いを「素直に」語ることで、「かわいいモーツァルト」という、あまりにもベタなところがあると思っていた。

実際、これをモーツァルトの優しさと解説するものは多く目にすることができる。

ところが磯山氏は、ここにモーツァルトの秘密(大袈裟だな)があると言う。

この曲を劇的にしているトリックの一つは、テーマがなんと7小節=4小節+3小節で構成されているという点にある(礒山氏の指摘でなるほどと思った)。
これにより、劇的で、ひっかかるような、躓いたような感じが生まれてくるように思う。
そして、これは一種の諧謔でもある。通常の作曲作法を知る人達にとっては。

そうしてみると(聴くと)、最後にモーツァルトが付け加えた部分:「かわいそうなすみれ、それは本当にかわいいすみれだった」の部分は、少女趣味ではなくて、これは、悲劇を喜劇に笑い飛ばすためのダメ押しなのだ。

秘かに美しい少女に思いを寄せ、そのことに気づかれることもなく、さらに、存在すら気づかれないまま、踏み潰されるというのは、悲喜劇以外の何だろう。そういう思いをした可哀そうな少年はたくさんいるに違いない。そして、それを傍から見ている他人。


美しいメロディが悲劇性をかきたてて、その悲劇を笑い飛ばすための変則な4+3小節があるわけだ。
礒山氏が書くように、モーツァルトは友人たちと、笑い転げていただろう。

P_20160922_162230.jpg シューベルトの歌曲の多くは、「シューベルティアーデ」と呼ばれる、作曲家と親しい人達の集まりで生まれたといわれている。
モーツァルトの歌曲もそうした私的な集まりで生まれたようだが、その雰囲気の違い、片や堅物、片や洒落、ということなのかもしれない。もちろん、これによって、作品の質が落ちるわけではないが、見様によっては、悪魔の所業である。

ベートーヴェンがモーツァルトを許さない理由の一つは、ここにあるのではないだろうか(それだけベートーヴェンは良い耳を持っていた?)。


こうしたことを踏まえて、氏は、劇的に歌うペーター・シュライアーの演奏を推薦されている。なるほど。
少々、大げさに、歌うのがこの曲の本来の姿なのかもしれない。

ペーター・シュライアーの「すみれ」。
(LPからデジタル化、レコード針のトラッキングが悪くて申し訳ない。
アップするにあたって、モノーラル・低音質化した。)


良く表現するには、表現しすぎないことです
超越的な表現者、モーツァルトの哄笑が聞こえてくる。

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キリシタン―「宗教で読む戦国時代」(その2)

KB252160.jpg 一昨日、神田千里「宗教で読む戦国時代」をとりあげたけれど、今日は関連して思ったこと。
一昨日は、キリシタン、一神教になると、神の観念が変わるようだと書いたが、そういう神の観念自体が一神教特有のものなんだろう。

本書では、一向一揆は信仰をめぐるものではない、つまり信仰を賭けて戦ったものではない、弾圧者から、棄教を迫られるというような面はなかったと説明されているが、昨日書いたように、私はこの著者の説はやや怪しいと思っている。

絶対的な信仰を持つと人は変わるのである。そしてそれはキリスト教では顕著な姿になるようだ。
一昨日も書いたように、天道思想はキリスト教受容の下地になったと著者は指摘するのだが、仮にそうだとしても、キリシタンになったとたんに、日本の天道思想とは相容れないものになったのではないだろうか。

島原の乱は、キリスト教を棄教すれば許すという点、信仰のかかったものである。

もちろん叛乱者の団結を切り崩すという意図があっただろう。無理やりキリスト教徒にさせられた人たちもいて、それなりの効果もあったらしい。いずれにせよ、信仰が乱の大きな要素である。


一神教というのは、たくさんの神のうち一つを選んで信じるのではない。
神は一つのみ存在し、そしてその神のみをすべての人が信じなければならないということである。
 ∃1xy [ y は x を信じる ]   ([ ワイクルスを信じる ] と読んでください)

※ x と y の順番を入れ替える (∀y∃1x [ y は x を信じる ] ) と弱い命題=寛容な一神教になる

従って、他の神はすべて否定される。

同じ1つの神を信じるとしても――ユダヤ教の神、キリスト教の神、イスラム教の神は同じ神だと聞いているわけだけれど、この3宗教の対立は一体どうしたことか。同じ神を信じるものとしての連帯ではなく、お互いを異端(異教)視する。

対して、日本には八百万の神が居る。アニミズム的信仰の対象となるものは別として、主要な神や、各種の仏教教派があっても、これらは同じ神が違う姿で顕れたもの(本地垂迹)として、丸く収める知恵があるのに。

他宗を否定する教義の場合は、これがあてはまらない。


キリシタンは、弾圧された被害者のような扱いというか、学校の歴史の授業ではそういうイメージで教えられた覚えがある。しかし、既存宗教を否定し、信仰のためなら乱暴狼藉を働く一面があったことが、本書では紹介されている。
キリシタン大名の領国では、多数の寺社が破壊され、僧侶が殺されたという。島原の乱にあっても、多くの寺社が破壊されたそうだ。(昨日稿に書いた仏教教団間の暴力闘争があったことも、キリシタンの暴力行使への抵抗感を下げていただろうと思う。)

こういうキリシタンの乱暴狼藉の話を読むと、「ローマ人の物語」(塩野七生)や「背教者ユリアヌス」(辻邦夫)が重ねあわされてくる。これらを読んでいると、キリスト教というのが、どれほどイヤラシく、卑劣で、粗野なものなのか、「あのガリラヤ人どもめ」と罵りたくなる。現代の我々が賛美してやまない、ミロのビーナスやサモトラケのニケのような美術品が、キリスト教徒によって無残にも木端微塵にされてしまったのだ。

偶像崇拝を禁止するイスラム教(本来、キリスト教もだけど)では、過激派は異教の偶像を破壊する。タリバンやISの美術品破壊行為を批判する資格が、キリスト教徒にあるのだろうか。


eikyuji_map16.jpg それは古代ローマの話じゃないか、その後キリスト教は洗練され、すばらしい芸術も生み出したという意見もあるだろう。しかし、日本ではわずか400年ほど前、すでにプロテスタントも出現している時代に、キリシタンが神社仏閣を、仏像・神像を破壊しまくったわけである。

もっとも、明治の廃仏毀釈の嵐も同様のことをしているわけだ。私が生まれ育った市には、内山永久寺という壮麗な寺院があったらしいが、廃寺となった。

西洋に学ぶということは、キリスト教の不寛容という精神を学ぶということだったのかもしれない。
一神腐乱である。

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天道思想―「宗教で読む戦国時代」(その1)

KB252160.jpg 日本人は無宗教だという言説がある。

日曜日に教会に行くこともないし、一日のはじまりが神への祈りで始まる人というのはそう多くない。
そのくせ、初詣に行き、お盆やお彼岸の行事はやる。結婚式は神式が多く、最近はキリスト教式が増え、葬式は多くが仏式である。
外国人からは、日本人には信じる神はいないのかというように見えるというわけだ。

「家の宗旨は○○です」という言い方はしても、「私は○○の信者です」という言い方は稀である。


何という本だったか忘れたけれど、日本人に宗教心がないというのは、特定の教派・教会という組織への帰属のことにすぎず、ちゃんと神を敬う気持ちはもっているという反論を読んだことがある。

神田千里「宗教で読む戦国時代」は、この根深い日本人の宗教心というのが、既に戦国時代からあったという。
著者はそれを「天道」思想と表現している。

子供の頃、「お天道様が見てるよ」と言われて育った人は多いと思う。脈々と流れている神を畏敬する気持ちであろう。


信長ですら天道思想の持ち主であったとする。
信長と宗教といえば、叡山の焼き討ち、長島一向一揆の皆殺し、石山本願寺との長い闘いが思い起こされるけれど、信長は宗教を否定しているわけではない。信仰も布教も禁止はしていないという。僧にあるまじき富や権力への執着、そのための敵対勢力との共闘、そういったものを攻撃したにすぎない。

また、日本の仏教諸派間の諍いは信仰上のものではなく、もっぱら教派指導者の権力争いだと分析する。
一向一揆(この言葉も江戸時代に真宗側が自らの功績を誇るために使いだしたものだという)は、宗教のための戦いではなくて、その地の時の権力者の争いに加わったもので、加賀が門徒で持つ国というのは、宗教国家を作ったのではなく、守護をめぐる戦いの結果として、寺が地域支配をしたものという見方。

しかし疑問もある。当時、激烈な宗派間闘争があったことをどう理解するのか。
天文法華の乱(1536年)。

僧兵と宗徒、近江の大名・六角定頼の援軍が加わって、延暦寺は総計約6万人を動員して京都市中に押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる人々を殺害した(天文法難)。
さらに延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。

(Wikipedia)

本書では、この乱については全く触れられていない。
なお、この事件の前に起こった山科本願寺焼き打ち(法華宗側と浄土真宗の諍い、浄土真宗の京都での勢力拡大に法華宗が対抗)については本書でも触れられてはいるが、著者は当時の公家の日記に「今日一時に滅亡、しかしながら天道なり」(鷲尾隆康『二水記』天文元年8月24日条)とあることをもって、天道思想が一般的であったことを傍証するものという扱いとなっている。

しかし、これはやはり無理があるように思う。
天文法華の乱の引鉄となったのは、法華宗が延暦寺に宗教問答をふっかけ、法華宗の一門徒が叡山の僧を論破してしまったこととされている。これを根にもった延暦寺側が、上述の暴挙に出たというわけだ。
著者がいうように、俗世の権力争いがからんでいたかもしれないが、発端は信仰の違いと考えるべきだと思う。

天道思想をもちだすなら、一部宗派は天道思想を受け入れていない、そしてその宗派の門徒以外は天道思想を持っているから、当該宗派を受け入れない、と解することが自然だと私は思う。

私の知り合いで教誨師をされていて、あちこちの刑務所を回っておられた方がいたが、その方は「創価学会の人が講和をすると他宗を否定するので受刑者が騒いでしまう」という話をされていた。


それはそうとして、著者は、天道思想がキリスト教受容の下地になった可能性を指摘する。
キリスト教の宣教師も、そのことに気づいていて、天道思想とキリスト教の教えを照応させて、布教につとめていたという。

2016-09-13_094714-index.jpg しかしながら、一旦キリシタン、というか一神教になると、神の観念は変化するようだ。

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モーツァルト亡きあと~「モーツァルトと女性たち」(その5)

Mozart-Lange.jpg 前々章「モーツァルトのもうひとつの家族」では、コンスタンツェがモーツァルトに愛されたという事実だけで、もう十分良妻であったと言って良いと書いた。
この章では、そうした情緒的な評価にとどまらず、コンスタンツェの復権を目指したのではと思われる記述が続く。

モーツァルトの伝記というと、聖マルクス墓地に葬られた、というところで終わってしまう。しかし、「伝記」というのは、これから書き始められるのである。

本章では、伝記がどのように成立したのかということに多くの注意が払われている。
コンスタンツェとナンネルの、おそらくは不仲が伝記にどう影響したか、ということも含め、コンスタンツェが非協力的だったために協力を求められたナンネルが、まともにとりあわずに話したことが伝記に採用されること、そしてそれを知ったコンスタンツェが「本当の」モーツァルト伝(後の夫ニッセンによる)を望んだことなど、経緯が描かれる。

Sofie_Weber.jpg そして、モーツァルトに不用意に「子供」のイメージがまとわりつくこと、金銭感覚が夫婦ともになかったとされることなど、モーツァルト死亡直後のナンネルの不用意な発言が影響を与えたのではないかとする。
そしてコンスタンツェは、自分が関わらないところで出されたモーツァルト伝を、出版された本の買い占めも含め、正しいものにしようと努力することになる。

最後までモーツァルトの世話をしたコンスタンツェの妹ゾフィー(右図)の証言が今なお伝えられるのは、こうした努力のおかげでもある。

コンスタンツェ悪妻説では、モーツァルトの遺稿を二束三文で売り払ったというような話を聞かされてきたが、実際には、売り払ったことは事実としても、それはモーツァルトの作品を出版したいということであり、それを商行為としてできるかぎり安く買いたたこうという出版社との間での駆け引きの中での話である。
コンスタンツェとしては、モーツァルトの名誉・評価を最大限に高めることが、自分が生きていくためにも必要なことだったはずである。

そして、その活動の過程で、ナンネルとも往き来するようになる。
著者の一環した、コンスタンツェ、ナンネルへの好意的な眼差しが、ようやく報われることになる。

Franz_Xaver_Mozart_(Wolfgang_Jr)_1825.jpg ところで、モーツァルトには2人の生き残った息子がいる。上の子(カール)はイタリアで官吏として生き、下の子(クサバー=モーツァルトⅡ)は、音楽で身を立てている。
コンスタンツェは下の子の方が音楽の才能があると考えて、カールには音楽の道をあきらめさせ(本人は音楽もやりたかったらしい)、クサバーはモーツァルトⅡ世として売り出そうと考えたらしい。
しかし、モーツァルトⅡ世は、それだけで演奏会に客を呼ぶことはできるけれど、残念ながらそれ以上にはなれなかった。おそらく本人は、大変な重荷と、自己否定感覚にまとわりつづけたことだろう。

モーツァルトⅡ世の曲を聴いたことがある(ピアノ四重奏曲)。
日本で歌われている「タンタンタヌキの……」にそっくりのモティーフが現れる曲だった。


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「無私の日本人」

2016-08-22_101814-crop.jpg 映画「殿、利息でござる」のテレビCMを見て、面白そうだなと思った。そして、原作というかタネ本が、磯田道史「無私の日本人」であると知って、「武士の家計簿」同様、これは期待できる作品だろうと思った。

映画はいずれテレビでも放送されるだろうけれど、何より、磯田先生の本なら面白いだろう、そう思って、すぐに電子書籍を購入した。

語り口、まさにそういう表現がピッタリである。カタイ歴史解説書のような、史料・解釈という体裁をとらない。まるで司馬遼太郎か吉川栄治を読んでいるみたいな感覚である。旅の道中、タブレットで一気に読んでしまった。

なんでも著者を「平成の司馬遼太郎」という人もいるらしい。


「無私の日本人」には3つの話がとりあげられている。穀田屋十三郎、中根東里、大田垣蓮月である。

598e97e9f7401b5a1cd68fed2266ba26.jpg 映画のもとになったのは、穀田屋十三郎の部分である。
私は映画は見ていないが、テレビCMから受ける印象はコメディ。だから本書を読み始めるときも、してやったりという領民の姿が描かれるのかと思ったが、そうではない。

藩側の役人、代官の橋本権右衛門、出入司(実質的な財政トップ)の萱場杢の2人が重要である。代官橋本は領民の思いを受け止め、領民の企てが成就することを助けるわけだが、出入司の萱場は領民の足下を見てさらに搾り取るわけだが、それでも実務官僚らしく、領民の知恵に興味を持つ懐の深さもあるようだ。

江戸時代の役人の仕事(不作為)ぶり、つまり先例主義、盥回し、そして相手の足下を見るには長けた様子が、縷々書かれていて、読んでいる側にも悔しさが湧いてくる。

中根東里については、本書を読むまで存在も知らなかった(もちろん穀田屋十三郎も知らなかった)。
儒者というより仁者と言うべきか。

rengetu01.jpg そして大田垣蓮月、この名前はどこかで聞いた覚えはあった。
本書によると今の京都大学構内に居住し、焼き物の工房跡が発見されている。今、その場所から西、御所方面へ行くには今でも今出川か荒神口、丸太町の橋を渡るわけだけれど、丸太町の橋を最初に架けたのは蓮月さんだという。しかも橋を架けるために貯めていたお金は飢饉のときにはすべて拠出したこともあるという。

また、江戸無血開城は、西郷と勝の会談の成果とか、天璋院や静寛院宮による両陣営への嘆願などといわれているけれど、本書によれば、西郷を動かしたのは蓮月の西郷への直訴だろうという。

あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば


以前、珍之助さまのブログへのコメントに、蓮月は「傍目にはどうみても不幸続き。自ら眉を抜き、歯を抜き、自分が美人であることをどれほど呪ったことか」と書いた。これも本書で知ったことである。

aa6dba62c7420895d1615f54e490e9c0.png 美貌で文武に優れ、血筋も高貴、そして無私無欲で慈愛に満ちた人。

中根東里と蓮月には仁慈の人として、通ずるものがあるように思う。
二人とも、傍目には恵まれない境遇を生きたように見えて、本人たちは至高の人生を全うしたようだ。

この記事を書くために蓮月をネットで見ていたら、「無私の歌人」という、本書のタイトルを採ったと思われる展覧会(既に終了)の案内チラシが見つかった。

あちこちに刺激を与えている本だ。
(残念ながら私は電子書籍で読んだので、お貸しすることができない。あしからず。)

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モーツァルトとオペラの女性たち~「モーツァルトと女性たち」(その4)

AnnaGottliebColorDetail.jpg この章は見事なまでにオペラの楽曲解説で埋め尽くされる。

モーツァルトのオペラといえば、本書では"ラ・フィンタ・センプリッチェ"(KV51)を最初に取り上げている。同時期に"バスティアンとバスティエンヌ"(KV50)もあるが、これは習作のようで、上演公開をもくろんだ最初の作品として"ラ・フィンタ・センプリッチェ"をとりあげたのだろう。
私ももちろんどちらも録音を聴いたことはあるけれど、映画「アマデウス」でもモーツァルトの成功を印象付けるシーンに使われた"後宮からの誘拐"(KV384)以前のオペラについては、正直なところ、後の"フィガロの結婚"(KV492)や"ドン・ジョバンニ"(KV527)などのような興奮を覚えることはなかった。

初期のオペラというと、"恋の女庭師"(KV196)は、他愛ないストーリーだが、それなりにまとまっているように思う(ドイツ語版とイタリア語版があることからも再演されていたことがうかがわれる)。
また、"ルチオ・シルラ"(KV135)は素晴らしい序曲やアリアがあって、それぞれ単独の楽曲として楽しめるけれど、劇作品としての完成度はいかがなものかというのが正直な感想である。

ちなみにルチオ・シルラという人物は、塩野七生「ローマ人の物語」によれば、とんでもない実力者であり、反抗者に対しては苛酷な処置をした人という。モーツァルトの作品のストーリーとはちと違うような気がするが。

そして"後宮"の大成功が際立つのだけれど、本書では、その前にミュンヘンで上演された"イドメネオ"(KV366)が重要な作品として、そして素晴らしい作品として取り上げられている。

ただ情けないことに、著者は"イドメネオ"のアリアやレチタティーヴォについて、生き生きと語るのだけれど、私にはその音楽が聞こえてこない、序曲は強い印象を受ける名曲で、単独で演奏されることも多い(オペラとは別だが"イドメネオのための舞踊音楽"も)。しかし、このオペラを通して視たことがあまりなく、また、ビデオを通して視ても、やはり退屈なのである。


そして、なぜ"イドメネオ"が後期のオペラと比べて、やや貧相な感じを受けるのかがわかった。
モーツァルトは、歌手に合せて音楽を作った。

FabPlayer_[20160718-175156-463] 歌手の力量が低いと、それに合わせた音楽にせざるを得ないのである。
もちろん「やさしい」曲では効果が得られないというわけではなく、モーツァルトはやさしい曲でも立派な効果をあげること、それは歌手の歌だけでなく、伴奏オーケストラにも役割を持たせることでもなされる、というわけだが、やはり、歌手の力量に差があると、やはりバランス感は落ちるのではないだろうか。

それだけに、どこで演奏する予定だったのかがわからないいわゆる三大交響曲(KV543、KV550、KV551)の成立が謎なのだ。


今なら、曲に合わせて、プレイヤーが集められるのがアタリマエだけど、当時はプレイヤーに合せて曲が作られた。これはモーツァルトのことだけではない。

そして演奏したい曲に必要なプレイヤーが参加できなければ、編曲という手段がとられる。"メサイア"のモーツァルト編曲版(KV572)では、あろうことか、第三部の「ラッパが鳴り響いて」のトランペットがない(ホルン代用)。


"イドメネオ"の後は、いよいよ"後宮からの誘拐"(KV384)が取り上げられる。ようやく思ったような仕事ができたというわけである。

だからこそ、映画「アマデウス」でも一躍、ウィーンのトップとして認知されるモーツァルトを表現するものとして取り上げられたわけである。

"劇場支配人"(KV486)にちょっと触れて、オペラ作品としてはもちろん中途半端なものであるけれど、サリエリとの腕比べでもあって、モーツァルトは楽しんでやった仕事だろうという評である。

JosephaDuschek.jpg そしていよいよ、"フィガロの結婚"(KV492)、"ドン・ジョバンニ"(KV527)、"コシ・ファン・トゥッテ"(KV588)、"魔笛"(KV620)が順次とりあげられる。そして、著者の解説の言葉が、その各楽曲を頭の中で響かせる、それぐらい的確な描写がなされる。

ところで、この4曲については、どれが一番好きか、という問いがときどきあるのだけれど、私は「最後に聴いたのが一番好き」と答えることにしている。
それは、誰だったか忘れたが、スタンダールが好きな人が「"赤と黒"と"パルムの僧院"のどちらが好きですか」と聞かれたら、最後に読んだ方、と答えることにしているというのを、そのまま使わせてもらっている。

著者は、もちろんいずれも不朽の名作としながらも、この中では少し評価が低いと思われる"コシ・ファン・トゥッテ"をかなり持ち上げる。私にも異論はないけれど、そう思うのは、他の3作品は、台本の乱れみたいなものがあって、演奏によっては曲の順序の入れ替えなどもあるのだけれど、"コシ"にはそういう乱れは全くなく、作品としての完成度としては最も高いと言えるからだと思う。

"フィガロ"は有名なザルツブルク音楽祭でのポネル演出カラヤン指揮の演奏では、楽曲の順序を入れ替えていたと思う。また、"ドン・ジョバンニ"はそうした乱れはないけれど、アリアの追加や終曲のカットなどはある。"魔笛"はベルイマンの映画版では、曲の順序が入れ替えられていたと思う。

もっとも、著者は"コシ・ファン・トゥッッテ"は、伝統的秩序や道徳への挑戦(これは他の曲でもそう)だと言うのだけれど、私のような現代人にしてみると、とてもそういう難しい楽しみ方はできなくて、当時はそういう評価もあったのだろうかとは思うものの、モーツァルトはいろんな人間がいて、いろんなことを考えて、いろんな失敗をするんだということを、見事に描いてくれたというようにしか思えないのだけれど。

いずれにせよ、この章を読んでいる間、頭の中に、オペラの各節が鳴り響くこと請け合いである。

上でゴシック体にした作品のうち演奏機会の少ないものをYouTubeから拾ってみた。

La Finta Semplice  (KV51)
Idomeneo  (KV366)
Entführung aus dem Serail  (KV384)
Der Schauspieldirektor  (KV486)
(演奏機会が少ないとはいえ、後二者は舞台も見たことがある)


高音質・高画質というわけにはゆかないにしても、こうやっていつでも見られるというありがたい時代になったものだ。


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モーツァルトのもうひとつの家族~「モーツァルトと女性たち」(その3)

この章では、モーツァルト自身の家族、つまりコンスタンツェとの結婚生活のことが書かれる。
そしてこの章で最も意外だったのは、コンスタンツェが良き妻であったとされることである。

Wolfgang-Constance_choco.jpg ザルツブルクをはじめ、オーストリアの土産物店には、二人の肖像がならんだチョコレート類が各種売られている。
私は、ながらく「コンスタンツェ=悪妻」という通説を疑っていなかったから、一体、オーストリア人は何を考えてるんだと訝しく思い、コンスタンツェが並んでいないチョコレートを探し、そしてそちらを土産に購入した。

でも、本書によれば違うみたいである。

コンスタンツェが(客観的に)悪妻であったかどうかは別として、モーツァルトが愛していたという一点において、モーツァルトにとっては良妻であり、コンスタンツェが並んで描かれる権利はあると思うようになった。

今までの知識では、コンスタンツェを悪妻にするためだろう、モーツァルトがコンスタンツェの身持ちについて小言をいう手紙などがことさら紹介されていたと思うが、本書では、恋する女性に対する自然な思いでしかないと扱われる。

Costanze_Mozart_by_Lange_1782.jpg モーツァルトがコンスタンツェの身持ち、つまり不倫を心配する手紙を書いたのは、不倫の事実があるからではなくて、嫉妬心、愛が他者に向かう事への心配にすぎないとも解される。

「お金の使い方をしらない男と、お金を使うのが大好きな女が結婚したら、破滅することは当然である」みたいなことが"青島広志のこれだけ!西洋音楽史!!"というCDの解説(ナレーション)にあったように記憶するけれど、コンスタンツェの浪費については本書では、少なくともこんな無駄なことにお金を使った、という形では出てこない。もちろん妊娠や病気その他、必要な経費は多かったようだが、どうも一番の「浪費」にあたるのは身の丈に合わない住居を借りた(それは音楽家として仲間を集め、有利な就職を得る投資という面もあるのだけれど)ということのようだ。
そしてむしろ、経済的危機にあっては、少なくともモーツァルトよりはうまく切り抜ける知恵を持っていたようだ。

コンスタンツェ=悪妻説が論拠とするのは、葬式のときにお墓まで行かなかった、モーツァルトの骨の行方がわからなくなった、死別後になってようやく夫が天才だったとわかったが、そのときは自分の金儲けのために利用した、云々である。

これが適正な評価であったかどうかは、最終章「モーツァルト亡きあと」で詳細に点検される。

Aloysia_weber.jpg コンスタンツェだけでなく、ウェーバー家全体に対する評判も芳しくない。
いくつかの評伝では、モーツァルトはウェーバー家の巧妙な罠におちて、はじめはアロイジアに気を惹かれ、ついでコンスタンツェと結婚させられたという評価がなされる。

しかし、本書ではその説には与しない。
この説のよりどころとなるのは、ウェーバー家を警戒するレオポルトの態度なのだろうと思うけれど、レオポルトはウェーバー家と利害が対立しているのである。
ウェーバー家はモーツァルトから絞れるものを絞ろうとしている、つまり自分の懐に入るべきものが入らなくなるという怖れを持っている、そしてそのことにより、モーツァルトをウェーバー家から引き離そうとしているということである。

モーツァルトは、繰り返し、「ウェーバー家の人たちは気持ちの良い人たちで、音楽的にも素晴らしい人たちです」とレオポルトに手紙を書いているが、前半はともかく、後半については、音楽に関しては絶対に妥協しないモーツァルトが嘘を書くはずはないと私は思う。だからといって前半の記述も正しいということにはならないけれど、レオポルトが言うように、モーツァルトがだまされているという証拠にはならないだろう。

長姉ヨゼファも、アロイジアも、素晴らしいソプラノとして成功を収めている。おそらくモーツァルトよりも、安定した生活をしていたものと思う。また、何といっても、モーツァルトの最後の世話をしたのは、末妹のゾフィーである。
ウェーバー家が、家ぐるみモーツァルトを金づるとして取り込んだというのは、やはり無理があるように思う。


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