声に出して読みたい日本語

koenidashiteyomitai.jpg 齋藤孝「声に出して読みたい日本語」について。

最初の巻が出版されたのは2001年だから、もう16年も前のこと。
当時、大変話題になったベストセラーだけれど、今まで読んだことはなかった。図書館の棚で見つけて、どんなものか、今更だけれど、見てみることにした。
知らなかったのだけれど、これは1冊でなく、最初の本が好評だったからか、続編が出され、全部で5巻あるらしい。

最初は単発で企画されたのだろう巻番号は付いてなくて、次から、2、3、4、5となる。他にも、子供用とか、関連する本が出ているし、音読されたCDもあるようだ。


著者が体を動かしながら、声を出してる姿とかをテレビで見た覚えがある。
声を出して読むことの意義は、この本が出る前からいろいろ言われていると思う。リズムを感じようとか、健康に良いとか。

で、せっかく借り出したのだけれど、本の趣旨には反し、家でもやっぱり声を出して読んだりはなかなかできるものではない。
傍に人がいたらやかましいと言われるだろうし、一人で声をだしているのも変な気持である。
結局、他の本と同じように黙読することになる。
同好の士が居て、声を合せてとか、競ってとか、そういう場がないと、音読というのはなかなか難しい。(実際、著者はそういう読み方を推奨している)

それでも頑張って、楽譜を読むように、口の中で呟くようなことをして、なんとなく声を出したつもりになっている。

口の中でぶつぶつ言うのも、口や舌、喉の動きを意識していて、音読と同じ時間・リズムを刻むから、まったく無駄ではないと思う。もちろん声を出すのと比べたら、しょぼいものかもしれないし、本書の趣旨には合わないだろうけれど。


1 腹から声を出す
2 あこがれに浮き立つ
3 リズム・テンポに乗る
4 しみじみ味わう
5 季節・情景を肌で感じる
6 芯が通る・腰肚を据える
7 身体に覚え込ませる・座右の銘
8 物語の世界に浸る
本書が言う音読というのは味わうためのものである。普通、本を読むときには音読などしない。
音読は、その言葉のリズムに沿うから、読むのに言葉が発せられるのと同じ時間がかかる。つまり、速く読めない。

大村はま先生が何かの本に書いていたと思うけれど、小学校では授業に音読が取り入れられるが、中学校になるとクラスで音読するようなことはしなくなる。それは、中学校は大人になる(社会に出る)準備をするところで、社会に出たら、たくさんの文書を読まなければならなくなる、それを音読していたのでは量をこなせない、だから黙読に慣れさせる必要があるというような趣旨だったと思う。

私は小学校の一斉音読の授業が嫌いだった。変な節が付いて、原文の雰囲気と無関係な音になるように思ったから。一人で読む、これは悪くない。これは音読というより、朗読というべきものだろう。


そうした鑑賞ということではなくて、素人考えにすぎないのだけれど、音読したほうが良いと思うテキストもある。
それは古文、とりわけ和歌である。もちろん和歌は声に出して鑑賞するのはごく普通のことだろうけど、そういう音楽的鑑賞という以前に、音読することでテキストの組み立てがわかりやすくなると思う。
そう思う理由だが、古文では歴史的仮名遣いが使われているわけだが、音読すると、かな文字という視覚情報に邪魔されず、音として感じることで、古語と現代語がリンクしやすくなり(言葉の派生関係など)、意味をとりやすくなるからではないだろうか。
だから、和歌に限らず物語類も含め、古文のテキストは音読することで意味がとりやすくなるように思う。

もちろんこういう目的の「音読」ならば、口の中でぶつぶつ言うということでもよいと思う。


それにしても本書でとりあげられているテキストは、なんともものすごい断片の寄せ集め。
バナナのたたき売りである。

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菊の節句

iwashimizu_kikkasai.jpg 今日は重陽の節句菊の節句ともいう。

菊の節句というのは、菊の開花時期だからそういうのだけれど、それは旧暦でのこと。今年の旧暦九月九日は、新暦10月28日であり、たしかに菊の盛り。

あちこちで菊花祭という祭事があるけれど、10月に開かれるものが多いが、これは菊の季節を重視したものだろう。一方で、新暦の9月9日に菊花祭をするところもある(石清水八幡宮)。両立させるなら旧暦の九月九日にやれば良さそうに思うけれど。

菊といえば皇室の紋でもあるけれど、Wikipediaによれば、これを採用したのは鎌倉時代、後鳥羽上皇だという。
百人一首に
凡河内躬恒
心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花
(秋277)
という歌があるけれど、定家は、後鳥羽上皇への思いをもって百首を撰したという(あやしげな?)説を聴いたことがある。この歌の「おきまどはせる」は「隠岐惑わ:せる」の意であり、「白菊」は後鳥羽上皇を指すのだという話だった。

この躬恒の歌は古今集に収載されているが、古今集には菊の歌は11首あるという。ところが万葉集には菊という言葉はでてこないのだそうだ。
万葉集を全部読んだわけではないけれど、愛読する斎藤茂吉「万葉秀歌」には菊の歌はなかった。野菊は日本にも自生していたが、今の鑑賞用の菊は中国由来だというから、渡来したのが奈良時代以降ということなのかもしれない。もしあればきっと歌われていただろう。

そういえば梅も渡来植物で、こちらは菊より早いのだろう(万葉集にも多く歌われている)。


その菊だけれど、古今集では、菊の色が変わるのをおもしろいとして詠んでいる歌がある。

よみ人知らず
色かはる 秋の菊をば ひととせに ふたたびにほふ 花とこそ見れ
(秋278)

これは躬恒の歌の次に配されている。 「色が変わるといえば、色あせることをいうのが普通だが、菊は白い色の盛りも美しいが色の変化も美しい、と少し常識の逆を行く歌。」と高田祐彦「新版 古今和歌集」には解説されている。

私は、白菊の色が変わるといえば、茶色く変色していくイメージの方が強くて、あじさいのような色変わりとして感じたおぼえがないのだけれど。


ただ、古今集には、菊の色が変わることを詠んだ歌は他にもあって、それを美しいとみたのか、むなしいと感じたのか、そのあたりはよくわからないが、枯れるというより、色がうつろうという意識が共通してもたれていたのかもしれない。

大江 千里
植ゑし時 花待ち遠に ありし菊 うつろふ秋に あはむとや見し
(秋271)

平 貞文
秋をおきて 時こそありけれ 菊の花 うつろふからに 色のまされば
(秋279)

貫 之
さきそめし 宿し変れば 菊の花 色さへにこそ うつろひにけれ
(秋280)

岩波書店が直木賞を初受賞

tsuki_no_michikake.jpg 先日、今年の芥川賞・直木賞の受賞作が発表された。
芥川賞は沼田真佑『影裏』(文學界5月号)、直木賞は佐藤正午の『月の満ち欠け』(岩波書店)である。

あまり小説を読まない私としては、ふぅ~んという程度で聞きながしていたニュースだけれど、ネットにおもしろい記事が出ていた。
岩波書店が直木賞を初受賞 書店員が頭を悩ませている理由とは?

タイトルですぐにピンと来る、岩波なら書店買い切りだから、どれだけ仕入れるとかで悩むだろう。

というか、岩波が新作小説(岩波だったら「文学」と言うべきか)を出版しているなんて、全く虚をつかれた思い。
岩波の小説といえば、漱石全集(我が家にも父が買いそろえた新書版全集があった)とか、評価の定まった古典的なものとか、岩波子どもの本とか。

子供の頃から、良い本屋とは岩波を置いている本屋だと聞かされてきた。
一時、ツタヤに岩波がなく、インチキ本屋だと思ったことがある(今は置いているところもあるようだ)。
学生時代、友人との待ち合わせ場所は、本屋の岩波コーナー(ジャリやビジネスマンなどが居ない)。

岩波にはトンデモ本はまずなく、きちんと吟味された本が出版されていると思う。「種まく人」は信頼のマークである。
さまざまな意欲的な企画が実行される。そんなに売れそうもない本なのに。
出版文化という言葉は、岩波のためにあるようなものだと思う。

「○○新書」というのは、今ではあちこちの出版社が出しているが、中にはこれって、著者の妄想じゃないかというようなものを平気で出版しているのもある。

岩波新書は読み応えのあるものが多い(ただし、どちらかというと反権力が多い)。


「○○文庫」というのも、私が学生の頃までは、岩波文庫、角川文庫が双璧だったと思う。もちろん収録されているのは、重厚な古典中心(笑い話のようなものでも古典文学として)。その後、あちこちからうすっぺらな文庫(新作のハードカバーが文庫に装丁されたもの)が「軽い」読み物としてもてはやされ、なんと「岩波も文庫を出しているんだ」と同類視する輩がいたりする。

岩波文庫で一番薄いのは、「共産党宣言」(マルクス、エンゲルス)と、「数について」(デデキント)ではないか。(後者は、「截断」を使って有理数を実数に拡張する論文。副題:連続性と数の本質)


『月の満ち欠け』も、いずれ岩波文庫に収録されるんだろうか。

私が源氏物語を書いたわけ

P_20170626_193808_vHDR_Auto-crops.jpg 山本淳子「私が源氏物語を書いたわけ 紫式部ひとり語り」について。

前に、「枕草子のたくらみ」で、この著者の本をとりあげた。
執筆年次からすると、本書のほうが先のようである。

この著者の本は、その前に平安人の心で『源氏物語』を読むも本ブログでとりあげた。
日本の古典文学、とりわけ女流文学に関しては、この先生の本が、なんだか安心して読めるような気がする。


本書は、全編、紫式部の語りという形をとっているのだけれど、私は、この本はもっと学術的な解説がなされるものと思っていた。
しかし、本書には、著者としての説明はなく(あとがきはあるが)、いきなり紫式部としての言葉から始まるので、そうした解説物を想像していた私としては、少々、面食らった。

私が予想していたのは、紫式部の「ひとり語り」と、それに対する著者の解説を併記するようなもの。
源氏のテキストはもとより、紫式部日記や家集、その他、同時代の文献などを駆使しながら、紫式部にそう語らせた根拠を、学者目線で丁寧に論証するように書かれているのだろうと、勝手に思っていた。


会者定離―雲隠れにし夜半の月
矜持―男子にて持たらぬこそ、幸ひなかりけれ
―春は解くるもの
喪失―「世」と「身」と「心」
創作―はかなき物語
出仕―いま九重ぞ思ひ乱るる
本領発揮―楽府といふ書
皇子誕生―秋のけはひ入り立つままに
違和感―我も浮きたる世を過ぐしつつ
女房―ものの飾りにはあらず
「御堂関白道長妾」―戸を叩く人
汚点―しるき日かげをあはれとぞ見し
崩御と客死―なほこのたびは生かむとぞおもふ
到達―憂しと見つつも永らふるかな
ところが、そうした解説は、紫式部の語りの中に溶かし込まれていて、読者がそれを察知するように仕向けられている。
こうした著者のたくらみは、語りと地の文を往き来する面倒を減殺する点では成功している。読み進むにつれて、紫式部の精神の動きも見えてくるようになっているからだ。
ただし、どうしても紫式部の語りの形をとるから、著者にもわからないことは、紫式部にもわからないこと

隠しておくという形や、想像にまかせるという形で語られる。
道長との仲についてなどがそう。

として語られる。(だから、小説じゃないというわけだ)

「枕草子のたくらみ」と本書で、やはり印象的なのは、定子と彰子。
定子については、理想の女性、ただし悲劇の中宮として、そして死後も宮廷から惜しまれた存在だったというのが著者の評価で、私もそうなんだろうと思う。
対して、彰子は、幼いうちに中宮となった、子供子供した、どちらかと言えば存在感の薄い女性のように思っていたけれど、著者は、ちゃんと成長し、必ずしも父道長のいうがままになっていたわけではない、宮廷権力の一角として自分の居場所をきちんと確保していると評価している。
紫式部、清少納言とも、その主人の存在なくしては、その作品はなかっただろう。

さて、著者は「あとがき」で、「これは小説ではない」と書いている。
たしかに小説というには、情景や心理描写が平板というか、固いから、その世界に没入して楽しむというような本ではないと思う。(それに大胆な推測は避けられている。)

しかし、これは小説にしたくなる、あるいはドラマにしたくなる素材だと思う。
前に、「枕草子のたくらみ」の記事で、同書をもとに、著者が著者が脚本を書いたら良いと書いたけれど、この「紫式部ひとり語り」も、これをもとに脚本を書いてもらえたらと思う。
小説としての言語表現に対しては著者は(学者であるせいか)、控え目なようだけれど、脚本ならば、それを解釈する監督によって、その上に自由な表現を載せることができるのではないかと思う。

山本淳子先生ご自身が脚本にしなくても、これを映画や演劇、あるいはマンガにしようという人がいたら、その人が脚本を書くに違いないが。
本書の腰巻に、「映画『源氏物語千年の謎』に答える!!」とあるけれど、この映画は存在も知らなかった。ネットの評を見る限り、本書が底本になっているようなものではないみたい。


大河ドラマでも良いんじゃないだろうか。
「私が源氏物語を書いたわけ」と「枕草子のたくらみ」の両方を下敷きにして。

残念ながら、紫式部と清少納言の直接のからみは史実としてはなさそうだけれど、少なくとも紫式部は清少納言を強く意識していたはずだから、時空を共有しなくても、精神的表現でなら、からみはつくれると思う。
キャスティングはどうなるだろう。紫式部は吉田羊とかが合いそうな気がする。
(清少納言は前に書いたように北川景子で)
彰子は、幼くして入内するときと、成長したときの両方ができる女優がいるだろうか。


学校では教えられない!エロすぎる古典

2017-06-23_115216.jpg 朝日放送に「ビーバップ!ハイヒール」という深夜番組がある。
狙って視ることはないので、何曜日か気にもとめていないが、放送日は木曜日である。

先日、もう寝ようと思ってテレビを消そうとしたら、この番組の案内がでた。
「学校では教えられない!エロすぎる古典」

この案内を見てすぐに、ゲスト解説者に思い至った。
ズバリ、大塚ひかり先生でしょう。

Screenshot_20170623-112423-crop.jpg 内容も当然、推察できる。最近、「快楽でよみとく古典文学」という本も読んだところである。
前にもこの先生の本を読んでいるけれども、動いて喋る先生は見たことがないので、どんな人か見てみようと思って、番組にお付き合いした。

まずは、竹取物語でジャブ。「得てしがな 見てしがな」という詞は、「ものにしたい やりたい」の意味であると解説される。

大塚先生によると、「見る」というのは、当時の貴族の女性は、父親や夫にしか顔を見せない、その顔を見るというのは、「やる」の意であるとのこと。


続いて、エロ小説の本命「源氏物語」。
もはや解説の必要はない。とにかく、ヒカル君はとんでもないゲス野郎ということである。

エロいのは女も同じ。番組中ではクイズ形式で説明されていた。

Screenshot_20170623-112814-crop.jpg Q 「おようの尼」が思う坊主をわがものとした方法は?

A 女を紹介するといって、闇に紛れて自分自身がその女となった


Q 男を来させたいときに、女がするおまじないとは?

A 服を裏返しに着る。(事が起こった状態を先取りする)


番組後半では、和泉式部がとりあげられ、現代劇に翻案した寸劇に仕立てられていた。

和泉式部を清少納言と紫式部が取り巻くという設定はやりすぎと思うけれど。


快楽でよみとく古典文学
はじめに 性愛の古典
第1章“恋”に費やす膨大な労“力”
第2章“見る”は結婚のはじまり
第3章“夜”が“離”れ、“枯”れていく恋
第4章“すき者”どもの禁断エロス
第5章“蜘蛛”の動きも“眉”の痒さも見逃さない
スピリチュアル主義
番組では「エロいはエラい」というテロップが何度も流された。

しかし「エロい」といっても、大塚先生が紹介する古典は、大してエロいものではない。いわゆる名作古典ばかりをとりあげているからで、古典ポルノにはあたらない。
エロ要素というより、セックスを隠すことなく、それをベースにおきつつ、男女の愛憎などを描写していると考えるべきものだと思う。

ポルノというのは、性的な行為の描写により、読者に性的興奮を起こすことを目的とした作品である。
これも古典に名作がある。有名なのは「小柴垣草紙」、鎌倉期に成立したという。
その詞書の一節をとりあげると

koshibagaki_sousho_shunga.jpg お足にたぐりつくままに、おしはだけたてまつりて、舌を差し入れてねぶり回すに、ツビはものの心なかりければ、かしらも嫌わず、水はじきのようなる物をば、せかせさせ給いけり。

というようなもの。そのものズバリである。

「春画展」にも出てました。


現代語訳で続きをもう少しサービス。

もだえる斎宮様の御姿に、男たるものなんで絶えられましょうや。紐解く手ももどかしく狩衣・袴を脱ぎ捨てれば、もはや玉茎はそそり立ち怒り波うちたる有様。 男はその玉茎を、ねぶりそそのかされて朱に膨らみ、御肌よりむらむらとわき出でた斎宮様の雛先に差し当てて、上から下へ、下から上へ、あらかにさすり上げ、さすりおろしたそうにございます。玉門はいよいよ潤い開き、玉茎のはりはますます強くなったことでございましょう。
斎宮様は、しし豊なお腰を男に押し当て、お足を高く差し上げ、田混じる滴り落ちる玉門をあらわに、今は耐え忍ぶことなくお声を上げ給うあられもなきお姿におなりあそばしました。それを見る男の玉茎は、いよいよ波打ち伸びそそり立ち、ここを先途と攻め立て奉り申したとか。
いやはや、来し方行く末、神に御使えする身も忘れ、卑しい男の口を吸い給い、歓喜を抑えかねて身もだえし、よがり声を上げ給う斎宮様は、常軌を逸した御有様でございました。

申し訳ないが、上は出典不明。以前、ネットを渉猟して見つけてメモしてたもの。


枕草子のたくらみ

山本淳子「枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い」

たくらみ」とは穏やかでない。まるで何か政治的な意図でもあるかのようだ。
makura_no_soushi_no_takurami.jpg しかし、この「たくらみ」とは、そうした権力的なものではない。定子のサロンが、おそらく当時としては破格の優れたサロンであったことを記録にとどめ、それとともに定子をいつまでもこの国の人々の記憶にとどめようという「たくらみ」である、と著者は主張している。

そして、その「たくらみ」は成功した。
私たちが今でも枕草子を大事に思い、読み継いでいるのだから。

枕草子は、伊周が献上した冊子(紙)に、古今集の筆写でもしようというところを押しのけて、清少納言に下命されて書かれている。そして、下命を受けて書かれたものは、下命者に献呈されるものである。定子に読んでいただくことを前提として、書かれたものである。
著者は、繰り返していう、定子になったつもりで読めと。

定子は完璧な女性である、少なくとも清少納言はそう思っている。
子供のころから、後宮に入ることを予定され、母貴子がそうであったように、和漢の典籍、礼楽に通じた深い教養、機知と人情に富む人柄、そして「かかる人こそは世におはしましけれ」といわれるほどの美しさ。
何不自由なく、自信に満ちた後宮生活、そして父関白のの死、兄内大臣の転落、一族が凋落するなかで24歳で閉じる命。

才気走って、ミーハーな清少納言、深みの無い作品枕草子。
それは表面的な読みだという。清少納言にそうした面があったことはそうなんだろう、しかし、かつてのサロンを懐かしみ、少しでも気散じにと、決して暗いことなど書かずに、サロンで起こった一コマを切り取って描写する、それを受け取る定子の気持ちをすべて踏まえるなら、これ以外の書き方はなかったのかもしれない。

そして、その通りだったら、清少納言というのは、なんと魅力的な女性だろう。
才気をひけらかして、他の女房から憎まれながら、言い訳をしたり、卑屈になることもなく、女主人への深い思いを秘め、そして女主人のために、そして女主人を偲ぶ、きりっとした姿が浮かぶ。ウェットな感情はけっして表に出さず。

これで絶世の美女で、艶聞も多かったら、完璧だ。昔あこがれた「カラマゾフ」のグルーシェンカのようだ。


ところで、紫式部が清少納言を酷評していることは有名で、本書でも最初(序章―酷評)にそのことが書かれている。これについて、著者は、それは、紫式部は、定子に起こった厳しい事情を知っているから、なぜ枕草子がそんな書き方をするのか、そのことに対する評だと言う。

そういえば、著者は別書「平安人の心で『源氏物語』を読む」で、清少納言ならぬ紫式部と定子の共通点、式部が定子(彰子ではなく!)に感情移入できる点がいくつかあるとも指摘されている。そして、桐壷の更衣のモデルは定子であろうとされる。(そうだとすると、私には紫式部もかなり屈折した性格に思える。)


紫式部を苛立たせこと、そして私たちが枕草子を読むときに定子に思いを致すことで、枕草子の「たくらみ」は完全に成就する。
本当のことはわからないけれど、著者のいうとおりのほうが、清少納言も枕草子も、ずっと魅力的なものになることは間違いない。

序章清少納言の企て
酷評/定子の栄華/凋落/再びの入内と死/成立の事情
第一章春は、あけぼの
非凡への脱却/和漢の后/定子のために
第二章新風・定子との出会い
初出仕の頃/機知のレッスン/型破りな中宮/後宮に新風を 清少納言の素顔/父祖のサバイバル感覚/宮仕えまで
第三章笛は
横笛への偏愛/楽の意味/堅苦しさの打破
第四章貴公子伊周
雪の日の応酬/鶏の声に朗詠/『枕草子』の伊周/伊周の現実
第五章季節に寄せる思い
『枕草子』が愛した月/節句の愉しみ/分かち合う雪景色
第六章変転
中関白道隆の病/疫禍/気を吐く女房たち
第七章女房という生き方
幸運のありか/女房の生き方/夢は新型「北の方」/「女房たちの隠れ家」構想
第八章政変の中で
乱闘事件/魔手と疑惑/定子、出家/枕草子の描く長徳の政変/引きこもりの日々/晩春の文/原『枕草子』の誕生/再び贈られた紙/原『枕草子』の内容/伝書鳩・源経房
第九章人生の真実
「もの」章段のテクニック/緩急と「ひねり」系・「はずし」系/「なるほど」系と「しみじみ」系
第一〇章復活
職の御曹司へ/いきまく清少納言
第一一章男たち
モテ女子だった清少納言/橘則光/若布事件/則光との別れ/藤原行成/鶏の空音
第一二章秘事
一条天皇、定子を召す/雪山の賭け/年明けと参内/壊された白山…/君臣の思い
第一三章漢学のときめき
香炉峰の雪/助け舟のおかげで
第一四章試練
生昌邸へ/道化と笑い/枕草子の戦術/清少納言の戦い
第一五章下衆とえせ者
下衆たちの影/臆病な自尊心/「えせ者」が輝くとき
第一六章幸福の時
「横川皮仙」/高砂/二后冊立/夫婦の最終場面
第一七章心の傷口
「あはれなるもの」のあはれでない事/紫式部は恨んだか/親の死のあはれ
第一八章最後の姿
「三条の宮」の皇后/お褒めの和歌/二人の到達
第一九章鎮魂の枕草子
「哀れなり」の思い/鎮魂の「日」と「月」
終章よみがえる定子
共有された死/藤原道長の恐怖/藤原行成の同情/公達らの無常感/一条天皇の悲歎/清少納言、再び

本書の読み方にしたがって、定子と清少納言を中心にした二次作品(映画、演劇、まんがなど)が作られたら魅力ある作品になると思う。著者が脚本を書いたら良いのではないだろうか。
さて、映画やドラマにするとしたら、定子、清少納言は、誰が演じるのが良いだろう。

清少納言には北川景子を推す。ツンツンした感じが良い。美人すぎるのが清少納言のイメージとは違うけど。
問題は定子、完璧な美女にして(とりわけ手・指が美しくなければならない)、知性あふれ、しかも優しい心、そして、明るさの中にふと暗い陰を感じさせるような女優。


プロット・アゲンスト・アメリカ

51GKIUw3K7L.jpg フィリップ・ロス「プロット・アゲンスト・アメリカ」

長編小説。このぐらいの長編といえば、学生時代のドストエフスキーの長編以来ではないだろうか。
普段、小説は避けている私が読んだのは、たしか "「戦後80年」はあるのか" の中で紹介されていて、一度読んでみてもよいかなと思ったから。

いわゆる過去SF、歴史改変小説で、歴史の分岐点において、実際に歩んだ歴史と異なる道を進んでいたらどうなっただろうか、という小説である。

本作では、ローズヴェルトが大統領三選をリンドバーグ(かの飛行機の英雄)に阻まれ、アメリカが第二次世界大戦に参戦せず、あろうことかナチスと友好関係を保つという、もう一つの歴史を、その状況に置かれたユダヤ人の子供の眼を通して描く。

(この子供は作者自身だろうか、同じ名前である)

リンドバーグ大統領に反発する両親、賛成・支持する兄、親戚や周囲のユダヤ人の生き方、そうしたものが、丁寧に描写される。
子供の眼だから、思想的なこと、政治的なことは直接的には論評しないのだけれど、その子供にも伝わる圧迫感、周囲の変調というものが、生々しい。大長編であることが、その変調が、じわじわと起こる過程を描く。その少しずつの変化。普通の日常生活を書きながら(子供らしい冒険はあるけれど)、世界が変わっていく。

あまりにも精緻に描かれていて、リンドバーグのアメリカを背景に、苦悩するユダヤ人、分断されるユダヤ人社会を描いた歴史小説かと錯覚するが、背景が虚構なのである。
登場人物は実在の人物が多い。そして、私は知らないが、その人たちの行動は、当時の行動、考え方から、さもありそうに描かれているらしい。リンドバーグは実際にナチから勲章を受けているし、ヘンリー・フォードは反ユダヤ主義者である。(巻末に登場人物の実際の年譜が掲載されている)

政策の方向性は違うけれど、トランプのアメリカと重ね合わせて読む人も多いと思う。
リンドバーグとヒトラーの関係が、トランプとプーチンの関係に、ユダヤ人がイスラム教徒に(ただし、ユダヤ人がテロをしたりはしていないところが違うけれど)。


分厚いハードカバーに製本されているから、さすがに通勤の車内では読みづらい(学生のときは平気だったけれど)。それで、寝る前にベッドの中で読んでいたのだけど、読みながら、いつのまにか寝てしまう。
ところが、寝てしまうと、たびたび夢を見る。本の続きを読んでいるという夢なのだ。
つまり、未だ読んでいないところを、夢に見る。
あるときは、本を読んでいるという夢ではなくて、自分自身が、このアメリカ社会に生きているという夢であったりする。

虚構の記憶が、夢という虚構の中で自律運動する。
優れた描写というのは、人の精神を狂わせるものらしい。

ところで、この本を読んでいて、「宇宙大作戦(Star Trek)」のあるエピソード(リンク先はYouTube)を思い出した。

2017-05-24_150700.jpg 錯乱して時空の歪みに入ったドクター・マッコイは1930年代のアメリカにタイム・スリップする。放置すると、マッコイにより歴史が改変されてしまう。このためカーク船長とスポック副長はマッコイを追う。そこでカークは平和運動家の素敵な女性(Edith Keeler)と出会い、恋心を抱く。
歴史の改変とは、事故死するはずの彼女がマッコイによって助けられ、彼女の反戦運動により、アメリカの第二次大戦への参戦が遅れ、ナチスが核を開発し、世界を征服してしまうことである。
ようやくマッコイを見つけたカークとスポック、そこへ歩み寄るキーラー、接近する車。キーラーに危険を知らせようとするカークをスポックが制止、助けようとするマッコイをカークが抱き止める。歴史は改変されずにすむ。

("The City on the Edge of Forever" 1967)


「プロット・アゲンスト・アメリカ」でも、結局、本来の歴史の流れに戻るわけだが、ネタバレになるので、このあたりで記事は終りにしよう。
あらためて、小説の持つ力というか、作者の筆力というものが、侮れないと感じさせられた。

京唄子逝く

wst1704070033-p1.jpg 少し前のことになるけど、今年4月6日、京唄子さんがお亡くなりになっている。
先日、テレビで略伝のようなものが放送されていたので、あらためて唄子さんについて、とりあげることにした。

テレビでしか見たことはないのだけれど、唄子・啓助では、ちょっときつい唄子さんである。
俳優としては、めちゃくちゃウェットな伝統的役柄。

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ChouchouYuji.jpg
高校のとき、美人芸能人といえば誰だと思うというような他愛無い雑談をしていて、私が京唄子なんか美人だと思うと言うと、周囲がのけぞった。
そうかな、大口やというけど(漫才では啓助が「吸い込まれる」というのがネタだった)、ソフィア・ローレンの口も大きいがな、整った顔だちやと思うけどな……、賛同が得られないので、冨士眞奈美(当時は「おくさまは18歳」の渋沢先生で有名だった)は美人だろうと言うと、人格を疑われた。
同級生連中は、岡崎友紀や吉沢京子、高めでは酒井和歌子とかの名前を出していた。

YounosukeKitayo.jpg KouroSachiko.jpg 冒頭のテレビ番組で、ミヤコ蝶々さんが、京唄子さんのところに来て、私の後はあんたに頼むわ、というような話をしたことが紹介されていた。
ミヤコ蝶々さんも、南都雄二さんとコンビを組んで漫才をしていた。漫才と女優業、京唄子さんとたしかに通じる。

夫婦漫才(離縁してからもそれをネタに続けるコンビが多い)といえば、人生幸朗・生恵幸子、島田洋之介・今喜多代なんかも好きだった。いわゆる漫才ブームとは関係なく名人芸。
AzumaHinako59760.gif 今ならなんといっても、宮川大助・花子が最高のコンビだと思う。

女芸人といえば、漫才じゃないけれど、忘れられないのは、吾妻ひな子。女漫談って他にはいなかったんじゃないだろうか。とにかく、独特の口調と間が名人芸だった。

関東には、この人達に匹敵するような芸人はいたんだろうか、全く思い浮かばないが。
こうした芸が、東京の風土に合わないものだとしたら、なんでも東京に靡く時代、もう、こんな芸人は出てこないかもしれない。

唄子さん、あんたの後は?

ぼんやりの時間

4004312388c.jpg 辰濃和男「ぼんやりの時間」について。

読みたい本が手元にないとき、通勤時間はムダな時間になる。
そう考える人に、ムダな時間があることが豊かさの根源にある、そこを思い直せという本である。
通勤電車でぼんやり過ごすのが勿体ないと考えて、こんな本を読んでいる。笑い話である。

とはいうものの、著者が言うようなぼんやりの時間は、けっして通勤電車のような猥雑で、ぎすぎすした時空で過ごされていない。本当のぼんやりの達人なら、そういうところでこそ心の静穏を、本も読まずに過ごせるのではないだろうか。

電車の中の乗客の様子を観察するのは、実は面白い。だけど、それではぼんやりしたことにはならないだろう。


ぼんやりする時間が必要だということは、私も納得している。
また、工程図(PERT)には、フロートという考え方がある。何もしないという工程を導入することで、不測の事態への対処を可能とすることになる。

贅沢な時間の過ごし方は、なにもしないで過ごすことだと思うし、素晴らしいコンサートで気持ちよく寝てしまうことは、それ以上の贅沢だと思う(めちゃくちゃ悔しいけど)。

だから、著者の意見には賛同するところも多いのだけれど、ただ、著者がぼんやり過ごす時間というのが、あまりにも上質なので、そんな立派なぼんやりはできそうにないと思ってしまう。

また、著者は著名人の言動・文章を引いて、ぼんやりの達人であるとし、その人達の活動を支えたのがぼんやりだろうと言う。それは多分間違っていない。
しかし、こういう偉い人にことよせて、ぼんやりが大事だと言われても、私はただぼんやりするだけで、そのぼんやりが支える私の活動なんて、これぽっちも世の中の益にならない。小人閑居して不善をなす、というか小人閑居して不善すらなさない。

本書は、動-静、緊-緩、実-虚、陽-陰、といった対照に、ぼんやりを考えている風もある。しかし、そんなことをする必要もないだろう。それに光に対してダークエネルギーがあって宇宙を支えているというような言い方は好きじゃない。宇宙は宇宙、人間のぼんやりとは何ら関係がない。変な擬えを持ち出して、わかったとか説明したという気になるより、あるがままを受け入れる、というか、あるがままとは何かを追求するのが正しい姿だと思う。
(擬えに意義があるのは、擬えるもの、擬えられるもののの、それぞれの世界が同一構造を持つ場合)


心足即為富
身閑仍当貴
富貴在此中
何必居高位
心が満ち足りれば、富んでいるのと同じだ
身が閑であれば、高貴な身分にあるのと同じだ
富貴はこうした心身のあり方にある
どうして高い身分にいる必要があろう
白氏文集巻六 閑居(抄)
本書が説くぼんやりの一例として、白楽天が引かれている。

著者の教養がしのばれる。
その余光を鑑賞し、先人のぼんやりの意義深いお言葉を賜る。

勉強になった、とてもぼんやりなどしてられない。

お役人の仕事

お役人の仕事
<○府□課>
A担当: 小学校の新設の申請が来そうなんですが。
B係長: ちゃんとしたとこやろな。
A担当: それが、今幼稚園をやってるとこなんですが、ややこしいとこで。
B係長: どうややこしいねん。
A担当: 前に、設置認可条件を変えろというてきたとこです。
B係長: ああ、あれか。あれが布石やったんやな。
A担当: 何でも首相が関係してるとかで、幼稚園の名誉園長は首相夫人ですわ。
B係長: そうか……、申請内容はちゃんとしてるんか。
A担当: それが、経営計画とかもう一つで。
B係長: あかんとこちゃんと言うたりいな。
 
 
<○府□課応接>
A担当: この間のご相談ですが、経営計画に無理があるように見えるんですが。
C理事長: どこがあかんねん、収入か、支出か?
A担当: そうですね、バランスしてないというか、この支出やったら児童数もっといるんちゃいますか。
C理事長: そしたら、児童数、増やそか。
A担当: そんなんしたら、少子化の今日日、審議会通りませんよ。
C理事長: そしたら支出下げなあかんけどな。
A担当: それできますか。
C理事長: ちょっと調整するわ。
 
 
<●省×局応接>
C理事長: あそこの土地のことやけど、借地料、まからんか。 2017-03-08_124547.jpg
D事務官: 前は4000万でOKて仰ってましたが。
C理事長: ゴミ出たやろ。
D事務官: それは撤去したと思いますが。
C理事長: 全部調べたんか、まだ出るかもしれんやろ。
D事務官: それが借地料減額の理由ですか。
C理事長: それはそっちにまかせるわ。
 
 
<●省×局>
D事務官: あそこの土地、借地料の減額要望がきてますが。
E掛長: そのことか、○○先生からも聴いてるわ。
D事務官: それで、ゴミが出るリスクがあるというのが減額理由になるかと。
E掛長: ゴミは処理したと聞いているけど……、そうか、ゴミがあったということなら、まだあるかもしれん、そのリスク分ということか。
D事務官: そういうことです。
E掛長: なるほど、うまい理屈だな。しかし、府の認可は降りるんだろうね。
D事務官: それについては、府とも連絡をとってます。
 
 
<○府□課>
C理事長: 経営計画を見直して持ってきたぞ。
A担当: ランニングが随分下がりましたね。
C理事長: 借地料を減額してもろたんや。
A担当: わかりました。お急ぎのようですのでこれで審議会にはかります。
 
 
<○府□審議会>
F会長: 臨時審議会をはじめます。本日は○○小学校の設置認可についてです。 shingikai_toushin.png
G委員: この人なぁ、けったいな幼稚園やってはるんや。
H課長: よほどのことでなければ、教育方針については認可条件にはしにくいかと。
I委員: 経営計画がちょっと怪しいな。本当に工事契約とか、この額でやってるんですか、安すぎるように思うけど。
H課長: それは出されたものを信用するということで。
F会長: 認可を出さないというのも難しい、かといって委員のみなさんの経営上の疑義が拭いきれないということですので、ここは認可とまでは言えないが、条件付きで、条件が満足されていることが確認できるなら認可ということでよろしいでしょうか。
 
 
<○府□課応接>
C理事長: 審議会、ようやってくれはった。そやけど条件付きいうのが気に入らんな。
A担当: まだ委員には経営計画に疑念をもってる人もいてはります。ランニング全体、なんとかなりませんか。
C理事長: ほなら、借地やのうて、土地を買い取ってしまおか。
A担当: そんなことできるんですか。
C理事長: うちは定期借地権で契約して、もう学校建てにかかってるんや、他のもんは買われへん。随意契約でOKや。
A担当: しかし、その分、初期投資が増えて、毎年の金利負担が高くなると厳しいんちゃいますか。
C理事長: なんぼで売ってくれるか、それがはっきりしてからや。
 
 
<●省×局応接>
C理事長: このあいだは、借地料まけてもうて助かったわ。そやけど府に持って行ったらまだまだ経営計画が甘いいうて怒られてんねん。いっそ借地やのうて、買うてしまおか思てるんや。 2017-03-08_165420-crop.jpg
D事務官: 買うって、9億円、出せるんですか。
C理事長: そこやがな、前に借地料減額のときは、隠れてたゴミが出てくるリスクがあるからいうて下げてくれたやろ。今度は、ほんまにゴミが出たんやということでどや。
D事務官: ゴミ、出たんですか?
C理事長: そういうこっちゃ。
D事務官: いくら出せるんですか。
C理事長: 府に出してる経営計画の収入をベースに逆算したら1億数千万円いうとこや。
D事務官: 9億円と随分差がありますね。
C理事長: ゴミ処理ちゅうのは、そのぐらいかかるもんやで。
 
 
<●省×局>
D事務官: あの土地、学校側が売ってくれと言ってきました。 baikyakusareta_kokuyuchi.jpg
E掛長: 売るとなるとまた入札になるな。
D事務官: そこは大丈夫です、定借契約して建物も建てはじめてますから、一者随契でいけます。
E掛長: そうなるとあとは値段か。理屈がほしいな。
D事務官: 技術に聴いたら、ゴミ処理の値段というのはなかなか難しいようです。
E掛長: こっちが処理したら値段が丸見えになるな。
D事務官: 向こうに処理させるということで、その分、いくらかかってもこちらは知らないということでどうでしょう。
E掛長: 借地料のときと同じ理屈だね。
 
 
<C理事長のひとりごと>
  役人いうたら、でけへん理屈ばっかり言うて、頭固い奴ばっかりやと思てたけど、みんな有能でものわかりのええ人で良かったわ。
やっぱり政治家の名前出したら、話も丁寧に聴いてくれる。迅速な意思決定、これが政治主導のええとこや。国ちゅうもんはこうやなかったらあかん。
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。ありがたいありがたい。
 
 
<○府、●省それぞれ>
  なんか、えらいことになってるけど……

※本作品はフィクションであり、実在の人物・事件との関連はありません。
写真はいずれもイメージ資料です。


子供は吸っちゃいけません

P_20170211_094612_vHDR_Auto.jpg 京都駅の新幹線構内の喫煙室。
"For adult smokers only"、たしかに間違ってはいない。

でも、この表示には違和感を感じた。
(私だけかもしれないが)

この表示を見ると、人間を、"大人"と"子供"、"喫煙者"と"非喫煙者"という2つの属性によって分類しているという構造を読み取ってしまう。
(私だけかもしれないが)

そして、ここは喫煙者のための部屋なのに、なぜ喫煙者でも大人だけに限定しているのだろう、子供の喫煙者はどうしてくれるんだ、と連想が働く。
(私だけかもしれないが)

669a7_196_06069223902126b68389f1c5fd57c594.jpg それに、非喫煙者が入室しても、本人が承知の上ならかまわないではないか。
余計な修飾語を入れることで、異なるイメージが喚起されているのではないだろうか。

普通は「喫煙者⊂大人」と意識しているので、子供というだけで喫煙者ではないと推論する。
しかし、ことさら「成人喫煙者」と表現されると、子供も喫煙することがあるのかもしれないという、裏のイメージが喚起されるのかもしれない。
(私だけかもしれないが)

と、ぐだぐだ考えているうちに思った。
この表示を考えた人は、たとえ喫煙者でも子供には利用させない、つまり子供は煙草を吸うなということを主張しているのかもしれない。
子供と非喫煙者は利用しないでください」と書いてあったらどう感じただろう。

平安人の心で『源氏物語』を読む

Screenshot_20170130-092450-crop.jpg 山本淳子「平安人の心で『源氏物語』を読む」について。

あとがきにも書かれているように、暮らしや考え方など、視点のおきかたには際限がない。現代との違いがあるもの、同様のもの。体系的にというわけではないけれど、物語を読む上で知っておいた方が良いことがちりばめられている。

いわゆる平安貴族の風俗とか、暮らしぶりは勿論だけれど、源氏の登場人物に似た境遇の実在の人物のことなどが多く取り上げられている。

光源氏のモデルとして、源高明、源融、藤原道長などの名があげられるけれど、誰か一人がモデルということではなく、おそらく、いいとこどりや使える艶聞・醜聞など、いろんな人物から造形したものと思う。その中には、在原業平なども入っているに違いないというわけである。

女性の方もそうしたモデルやエピソードを採り集めて造形されたものと思う(源氏物語では、宇治十帖を別として、男性より女性の方がキャラが立っていると思う)。

Screenshot_20170130-092611-crop.jpg Screenshot_20170130-092547-crop.jpg そのネタになる歴史的事実や伝説が本書で紹介されるので、紫式部の創作の秘密というか裏話を垣間見た思いである。

そうした物語創作の真骨頂がやはり桐壷の巻、「いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに」という書き出しは、単純にこれから書く物語はいつのことだかわかりませんよ、というわけでもなければ、「あんなこと書いているけれど、これは今の時代のことよね」と思わせない工夫であるという。
そのキーワードとして「女御・更衣」が選ばれている。

Screenshot_20170130-092633-crop.jpg Screenshot_20170130-092621-crop.jpg 紫式部の時代、つまり一条天皇には更衣はおかれておらず、更衣という言葉から、読者は一昔前を想起するというしかけだ。
また、それとあわせ、帝位の継承順(帝との続柄)から、桐壷帝-朱雀帝-冷泉帝のモデルになったのは、醍醐-朱雀-村上であり、これも同時代の読者にそう思わせるしかけだろう。

ところが、その一方で、桐壷の更衣が帝の寵愛を一身に受けて、宮廷秩序を見出し、不幸な最後を遂げるということが、中宮定子と重ね合わせられている、まさに今のことを書いているのだと、そうも思わせたものだとも言う。

Screenshot_20170130-092644-crop.jpg たくみに現政権批判ととられるのをかわしつつ、多くの宮廷人の同時代的共感を得るという、きわどい作品なのである。

そういう読みにつながるのは、そもそも紫式部と定子の共通点、式部が定子に感情移入できる点がいくつかあるからだという。

定子の母は受領階級で、紫式部と同じ。
定子は漢才があり、そしてそれによって疎まれた、これも紫式部と同じ。

そうした定子への共感と不幸な最期への思いは、桐壷の更衣を創り出した。

紫式部は定子のライバル(と言ってよいのだろうか)の彰子に仕えているから、こうした思いに至らなければ、桐壷の更衣のモデルが定子だとは考えられないだろう。
後ろ楯のいる女が栄耀栄華を極めるのがアタリマエの世界で、帝の寵愛で偉そうにされてはたまらない、それこそ後宮の秩序を乱すものということだそうだ。そして、愛されて不幸になる女の話は、多くの女性の共感を呼ぶのだろう。

この本は、2011年から2013年にかけて刊行された「週刊 絵巻で楽しむ源氏物語五十四帖」(朝日新聞出版)に連載された「御簾の内がたり」というエッセイが下敷きになっているそうだ。
「絵巻で楽しむ……」という週刊本については知らないが、全部で60冊だったらしい。本書も60章からなる。1帖が複数章になるところもあるけれど、「桐壷」から順に紹介され、はじめによくまとまったプロットが置かれ、続けて関連(連想?)する話題が導かれる。
源氏物語の豊かな世界は、歴史というか執筆当時の世界の拡がりだということがわかる。そして、源氏物語自体が、単純な続きものではないことも。

今までこういう読みをしたことはなかった、とりわけ作者の心理にまで思い至るような読み方は。
源氏に詳しくない私としては、とても興味深く読めた。

著者は、是非、原文(古文)で読んでほしいという。
いや、それはちょっと難しいかな。
谷崎源氏では読んだことにならないでしょうか。

トランプ語録

la-na-pol-trump-legal-immigration-20160901-snap.jpgネットを検索すると「トランプ語録」というサイトがいくつかヒットする。
選挙中のものや、最近のものなど、過激な発言をおもしろおかしく、というか、批判的にとりあげている。

批判的にせよ、これらの言葉が報道されたり、ネットで拡散されるということは、それだけ注目されているということでもあり、支持者と反対者の溝というのは、当分、埋まりそうにない。壁は立つだろうけれど。

一時、H元O府知事・O市長の発言も、同じように大小のメディアでとりあげられていた。やっぱり似たところがあるんだろう。


ということで、最近気になったお言葉から、応用場面が広そうなもの、つまりアメリカでなくても使えそうな表現を拾い出してみた。

(米国への入獄国制限に関して)
・混乱しているというのは、反対して騒ぐ奴らがいるからで、問題はおこっていない。

騒ぎになってるのは、騒ぐ奴らがいるからで、素直に従えば平穏な状態が保たれる。
騒いでいるのは、野党のみなさんだけで、国民はそう考えていない。
「すべての人がキリストを信じたら、世界は平和になる」を裏返した表現かな。


(就任式に参加した人が少ないと言うマスメディアの指摘に対して)
・ものすごい数の人が参加した、それがもう一つの事実(alternative fact)だ。

数が多いか少ないかではなくて、それだけの人々が支持しているという事実がある。
日本語では「見解の相違」とか表現すると思う。


Alternative factと思しき直近の例は、「日本は不公正な為替操作を行っている」だろう。
事実を微妙に改変したうえで、それを論拠に敵を攻撃する。単発の言葉だけでなく、連打を浴びせるわけですな。
このやりかたって、前にもどこかで。

それはそうと、為替操作って、グローバル・スタンダード=アメリカン・スタンダードに従っているだけだろうと思うのだけれど、自分が定めたルールで戦っても、負けそうになるとルールを変えようということらしい。


私は別にトランプ氏に反対だとか、発言を揶揄しようと考えているわけではなくて、こういう台詞って、勢いなんだろうなぁと注目しているわけ。

「屁のつっぱりはいらんですよ」みたいな。
「この仕事に失敗したら、責任をとって、この仕事から身を引く覚悟です」みたいな。

調子の良い言葉は、寄席を盛り上げる。

でも変なオチはつけないでね。


「いろは順」

sub-buzz-668-1482825828-1.jpg
 いろは順の採用は1942年、厚生年金の前身である「労働者年金保険法」が制定された時に始まり、現在まで引き継がれた。
 いろは順での整理は時代遅れになった。だが、データが膨大で五十音順に変更するのが難しいこともあり、すべての事務所で統一せず、バラバラになった。
ファイルに入っているのは、被保険者が納める保険料と将来の年金額の計算に使われる算定基礎届などで、現在の年金受給者には直接関係がない書類。いろは順によって書類を探すのにもたついたとしても、受給者に「迷惑をかけることはない」。
 「今では、いろは順が使われなくったのは事実です。新人の方には抵抗があるはずですし、面倒をかけます。私は事務所に入った時、慣れるまで数ヶ月かかりました」
 指導は、事務所ごとに任せている。いろは順が必要なところでは、紙を用意したり、ファイルボックスにインデックスを貼ったりして対応している。
 「統一すれば、職員の仕事のしやすさは確保できますが、今すぐに変えるのは難しいのが現実です。膨大なデータを変更するのは時間も費用もかかりますし、年金受給者に直接影響を与えない以上、優先順位が低いのです。お客様の対応改善や制度の改正に予算を投入するのが先です」
 「ですが、今回、河野議員から貴重な意見をいただきました。五十音順に統一できるかどうか、議論して検討したいと考えています」
少し前のこと、ネットにおもしろい記事が出ていた。

ファイルを「いろは順」で整理する日本年金機構 「あいうえお順」にできない理由とは


ネットニュースはいつ消えるかわからないので、要旨を掲載しておく。

この記事の元になったのは、河野太郎衆院議員のブログだというので、それへのリンク。
いろいろイロハな皆様へ



この記事では「いろは」とひらかな書きになっているが、本当は「イロハ」とカタカナ書きになっているのではなかろうか(河野議員のブログではカタカナ)。

「イロハ」順でも、「あいうえお」順でも、要は慣れの問題で、それも個人的慣れではなくて、社会的慣れ(文化)に従うべきだろう。ただし「あいうえお」(五十音表)というのは、日本語の音韻システムを反映している優れたものだから、単なる慣れだけの問題ではないけれど。

私の記憶では「あいうえお」が主流になったのはそんなに古いことではないと思う。
もちろん今でも慣用句として、「イロハのイ」というような言い方は残っていて、「アイウエオのア」という慣用句はない。

私が学齢児童だったときは、箇条書きをするときは、123・・・の下位は、イロハ・・・で項目を立てていた。
社会人になってからも、そういう教育を受けていたから、イロハ順で文書を書いたことがあったけれど、会社が定めている書式では、はっきりと箇条書きは「アイウエオ」とすることになっていた。

というか、学生時代までは箇条書きにイロハやアイウエオを使うという習慣はなくて、abcだったと思う。日本語のカナを使うこと自体に違和感を感じていた。日本語の中に記号的にカナを使うことに抵抗感があったのかもしれない。
2016-12-28_102630-crop.jpg

もっとも、英語の文章中の箇条書きにabcが立っていたりするが、こっちには違和感がないのはなぜだろう。


今でも「イロハ」なのは音楽。音名は「ハニホヘトイロハ」(CDEFGAB)が使われる。
「二十四の瞳」では、「ハニホ…」の前に「ヒフミヨイムシ」(1234567)の時代があったらしく、大石先生が怪我で休職したあと、男先生の音楽の授業では奇怪な歌が唄われ、子供たちが失笑するシーンが描かれていた。

それはそうとして、冒頭の年金機構の話に戻ると、ファイルがイロハ順というのは、実は解せない。
というのは、辞書類は結構古い時代から、アイウエオ順になっていると思うから。
分冊になっている百科事典などは、「第1巻 ア~カ」、「第2巻 キ~シ」などと、やはりアイウエオ順、ファイルを配列するなら、やはりこっちじゃないだろうか。

であるけれど、Wordの箇条書きには「イロハ」も用意されている。

コンビニ人間

9784163906188_2.jpg 「コンビニエンスストアは、音で満ちている。」
で、いきなり始まって面食らい、おもわずページを戻したが、「コンビニ人間」という扉だけである。

序文や「はじめに」があり、章節が設けられるなど論理構成が明確で目次がある、そうした本ばかり読んでいる身としては、小説というのは、なんとも奇態なものである。

ブログで書評を書くとき、目次を掲載して記事を増量するのだが、この手は使えない。


芥川賞を受賞した小説を、まだ新作と言える時に読んだと言えば、高校生のときに、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」以来だ。
社会人になってからは、小説というものは、何か別の本(それは小説ではない)や、誰かが推薦・紹介しているようなものしか読まないことにしていて、そうすると歴史小説かSFということになる。

私とコンビニといえば、タバコを買うか、事情があって一人暮らしをしたときに弁当やドーナツなどを買うかで、あんまり縁がない。QUOカードなんかをもらったときも使いようがない。
であるけれど、コンビニの経営や裏事情など、情報サイト(川乃もりや「コンビニ探偵!」など)の記事は興味深く読んでいる。社会勉強である。

読み始めてまず驚くのは、「私(古倉恵子)」が、「コンビニ人間として生まれる前」にしていた突拍子もない行動である。

小鳥の死骸を拾って、食べようと考えること。

周囲は可哀そうだからお墓をつくってあげようというのだけれど、私なら、病気で死んだかもしれないから、食べると病気になるかもしれないと言うと思うけど。

同級生の喧嘩を止めるのに、スコップで頭を叩くこと。

暴力を嫌悪する心情ができていない、あるいは、スコップの凶器性を学習していない。

女教師のスカートとパンツを引き下ろすこと。

羞恥心が未成熟。


この恵子の行動の異常性には、はっとするが、それを発想する作者も突拍子もない。

こうした行動を心理的に規制するメカニズムは、子供のうちに育つのが普通だと思う。
他人に暴力をふるう行為は、かなり心理的なバリアがあり、子供の喧嘩といえども、かなり身構えなければできるものではないと思う。
また、人間の道徳性は、ある程度、先天的に備わっていることを示す実験がある。

5ヶ月から1歳未満の幼児にある道徳劇を見せる。3人の登場人物(人形)がいてボール遊びをしているが、うち1人がボールを相手に返さず持って逃げる(非道徳的な行動)。その後、それぞれの人物の前におやつを置いて、被験者(幼児)に、そのどれかからおやつをとらせると、ボールを持って逃げた人物からおやつをとる。非道徳的なことをした人を咎める行動と解される。


恵子は、この行動・心理を客観的に観察している。
一昔前のイメージかもしれないが、人工知能が語っているようである。 いわゆる情動というようなものは描かれず、自分自身を客観的に観察し、そして同様の眼で他人を観察し、その行動を意志的に模倣することもできる。
本当にいたら、化け物である。

話が急展開するのは、ダメ人間の白羽を家に住まわせることから。
そのことにより引き起こされる、コンビニの店員という均質性・部品性が、ヒトのオス・メスがむき出しになる状況への変化。

そして、白羽が居所としている風呂から出てくる気配の描写があり、空白がおかれる。

多くの読者は、この空白は性行為の暗示と受け取ったのではないだろうか。
もし、セックスをしても、そして感じたとしても(恵子は決してセックスを忌避・嫌悪しないと思う)、「今、感じている私がいる、性の快楽を体験している」と客観的に説明するにちがいない。
そう期待して読み進むのではないだろうか。

だけど、そうはならなかった。

そして、白羽に促されるまま、就活をするなか、最後にコンビニ人間としての自覚が、前向きな形をとって、再確認される。

読者としては、それまでの恵子の、醒めていること自体を理解しようとしてきた読者としては、このエンディングは、吹っ切れすぎていて、拍子抜けの感があるる。
アルバイトのオールドミス、しかも処女という、世間的には負け組という評価が変わるわけではないかもしれないが、それを自らの生き方としてしまうことで、恵子の内部と外部が折り合いをつけてしまう
それまでは、恵子は、外部と折り合いをつけることを演じていたわけだが、心理的にも折り合いをつけてしまったようだ。

それに実社会では、これほどできる店員なら、優秀なトレーナーとして本部がほっておかないだろう。


私は、この作品の値打ちは、やはり前半にあると思う。
人間の部品性が前面に描かれ、そしてヒトの肉性を描く仕掛けとして白羽の存在があった、それは理解できるけれど、折角、部品性と肉性を見事に裏返して描いたのだから、恵子が積極的に生きるような形、それは部品と肉の幸福な両立で決着させず、そうではなくて、ずっと対立したまま、あるいはさらに対立を尖鋭化させてもらいたかった。

恵子は、ドロドロの底辺へ落ち込んでいくが、人類社会を相対化する眼がさらに鋭くなる。
白羽は、恵子を強姦し(荒々しくではないにしても)、ダメ人間からクズ人間に進化、「強姦されている」という口癖との折り合いをつけようともがく。


そうすると、何とも落としどころのない読後感になったにちがいないが。

昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか

mukashibanashiwa_naze_hikari.jpg 「高齢者」シリーズの3回目。
今日は、大塚ひかり「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」という本について。

実は、昨日・一昨日の記事に書いた、律令による官人の定年は70歳というのは、この本に書かれていたこと。

前の記事では、致仕についてWikipediaへリンクをはっていることでわかるように、そうした問題意識でネットを調べたら情報を見つけることはできる。しかし、そもそもその問題意識をどう持つのか。このことが現在の教育では重視されつつあると思うが、わかりやすく言えば、自らの経験、読書、そうしたものがあって、問題意識も生まれ、方向性も示されるのだと思う。
辞書・事典は、本の代わりにはならないのである。

そして、人間の記憶力はたいしたもので、本に書かれていることを完全には覚えていなくても、「こんなことが書かれていたような気がする」を糸口に、ネットで調べれば、たいていのことについて何らかの情報は得られる(もちろんその真偽など吟味が必要であるけれど)。


閑話休題。
大塚ひかりという人の本は、読んでいてとてもおもしろい。下ネタ満載である。
本書以外では、「竹取物語」、「本当はひどかった昔の日本」、「源氏の男はみんなサイテー」を読んだことがあるが、他にも、「本当はエロかった昔の日本」、「日本の古典はエロが9割」、「愛とまぐはひの古事記」、「カラダで感じる源氏物語」、「快楽でよみとく古典文学」など、エロいタイトルの著書が並ぶ。
どれも読んでみたいけれど、おそらく、内容にはかなり重複したところがありそうなので、購入は思いとどまっているけれど。

図書館に置かれているものもあるが、女性司書を赤面させてはいけないという気配りで、エロいタイトルの本は今まで借りたことがない。どうして図書館には「成人図書コーナー」がないのだろう。(Y図書館はセルフ・レジ。そっちで借りようか)


さて、他の本についてはまたあらためて記事にすることもあるかもしれないが、今日は「昔話はなぜ……」について。
大塚ひかり本は、かなり著者の思い入れ(独善)が入っていそうで、おもしろおかしく読める、あるいはそういう読みもあると、軽いエッセイとして読むのが普通かもしれないが、冒頭の「官人は70歳以上で致仕を聴す」が本書で知ったように、この本は、しかるべき根拠資料にもとづいて書かれているようだ。

古典からは、官人の定年意外に、律令における高齢者にかかる規定などがひかれている。役人の定年のことも含めて抜き書きすると、

  • "凡そ官人年七十以上にして、致仕(ちじ)聴す"(「選叙令」)
  • 八十歳になる者と"篤疾"(難病、狂気、両足が使えない、両目が見えないのたぐい)には、"侍"(介護役)を一人与えよ。九十歳の者には二人。百歳の者には五人。まず子や孫を当てよ。もし子や孫がなければ、近親者を取ることを許せ。近親者もなければ、"白丁"を取れ」(戸令)
  • 「天下の老人の八十歳以上のものに位一階を授ける」
    「百歳以上のものには、絁三疋、綿三屯、布四端、粟二石」とあって、九十以上、八十以上の人にも、それより少なめの絁や綿などが天皇の詔によって授けられることになりました(『続日本紀』巻第七 養老元年(717)年十一月)
  • "凡そ年七十以上・十六以下、及び廃疾(中程度の身障者)"は、流罪に相当する罪を犯した場合、配流の代わりに"贖"(ぞく)を取ることが許されていました。"贖"とは、銅や布・稲・土地・人身などで罪を贖うこと。さらに、
    "八十以上・十歳以下、及び篤疾(重度の身障者)"は、反逆・殺人といった死罪になるべき罪を犯した場合、"上請"(じょうしょう)が許されていました。"上請"とは、天皇に上奏して判断を仰ぐこと。酌量の余地が生じるわけです。これらの人が窃盗や傷害を犯した場合は、"贖"を取ることが許されました。そして、
    "九十以上・七歳以下"は死罪があっても、刑罰を加えない、とあります。
    また罪を犯した時点では、こうした高齢者や身障者に当てはまらなくても、罪が発覚した時、高齢者や身障者になっていれば、右のような規定によって裁けといいます。(以上「名例律」)

そして、高齢化白書や「人口から読む日本の歴史」(鬼頭宏)、警察庁の犯罪統計などなど、本書のトピックスに応じて、多彩な文献が参照・引用されている。

古典からの引用はこの人の専門だろうけど、専門外の犯罪白書などにもあたっているのは、本書のテーマにあわせて調べた結果なんだろうけれど、きちんと裏をとる姿勢は(ネタ探し、文字数増量という面もあるだろうけど)、評価できる。

もっとも、ネット社会では、こうした情報に簡単にアクセスできるようになっていて、昔のように大きな図書館へ行って調べなくてもネタが簡単に手に入るわけだけれど。
書きたいことがあって、それを根拠づける、あるいは補強する情報を探す。そして文章力。
純文学でもなく、学術作品でもない、こうした作品群はネット社会の発達に支えられて、これからも成長するだろう。


目次を下に掲げておくけれど、年寄りは元気でエロいとか、奈良時代から福祉政策があったというような、明るい話もあれば、姥捨て伝説のような暗い話もある。

先日、旅行代理店で宿・列車の予約をしていたら、パンフレットに「シニア限定」というのがあった。
おもわず、「姥捨て行き、片道、シニア限定」と口をついて出てしまった。


で、本書の評価?
おもしろかった。

大塚ひかり「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」
 昔の老人の人生昔話と古典文学が伝える貧しさや孤独という「現実」
1 昔話の老人は、なぜ働き者なのか「爺は山で柴刈り、婆は川で洗濯」の背景
2 昔話の老人は、なぜ「子がいない」のか「わらしべ長者」のルーツを探る
3 家族の中の老人の孤独「姥捨て山」説話と「舌切り雀」の真実
4 古典文学の中の「婚活じじい」と「零落ばばあ」平安・鎌倉期の結婚事情
5 昔話に隠された性「浦島太郎」が竜宮城に行った本当の理由
6 古典文学の老いらくの恋と性『万葉集』から『東海道中膝栗毛』まで
7 古典文学の中の「同性愛」の老人たち爺と稚児、婆と美女の物語
8 昔話は犯罪だらけ老人たちの被害と加害
9 自殺や自傷行為で「極楽往生」?昔話の往生話と平安老人たちの「終活」
10 老いは醜い昔話の「姥皮」と大古典の老人観
11 閉塞状況を打開する老人パワー古典文学の名脇役たちと、棄老伝説
12 「社会のお荷物」が力を発揮する時昔話はなぜ老人が主役なのか
13 昔話ではなぜ「良い爺」の隣に「悪い爺」がいるのか老人の二面性と物語性
14 昔話はなぜ語り継がれるのか『源氏物語』の明石の入道・尼君夫妻が子孫に伝えたこと
15 昔話と古典文学にみる「アンチエイジング」若返りの目的はさまざま
16 実在したイカす老人成尋阿闍梨母、乙前、世阿弥、上田秋成、四世鶴屋南北、葛飾北斎、阿栄

「万葉集―隠された歴史のメッセージ」(続き)

時事の話題を優先したり、休刊日があったりしたので、続けて書くつもりだったのが、随分遅くなった。
"万葉集一番歌「籠もよ み籠持ち」の作者は雄略天皇ではない"の続き。

時代代表歌人
巻一原撰部
(巻一の前半)
持統・文武額田王
巻一、巻二元明柿本人麻呂
巻三~巻十六聖武山上憶良
巻十七~巻二十光仁大伴家持
小川靖彦「万葉集―隠された歴史のメッセージ」について、前の記事で「私には新鮮」と書いたけれど、この本の内容について少し具体的に補足する。
万葉集は全20巻であるが、一度に成立したものではないという。このことは、著者が初めて言ったわけではなく、平安期から既に定説となっていたものである。
本書の著者は、その理由・経緯を次のように説明する。

《目次》
 
第一章『万葉集』という「書物」
──「やまと歌」による〈歴史〉の創造
「書物」としての『万葉集』
皇統の《始祖》──一番歌・雄略御製
満ち足りた実りの国──二番歌・舒明御製
歴史上の舒明天皇
天皇による統治の完成への歩み
藤原宮の主・文武天皇
巻子本であった『万葉集』
成長する「書物」・『万葉集』
 
第二章万葉歌人たちの詩の技法
額田王の〈媚態(コケットリー)〉
柿本人麻呂の想像力
山上憶良の悟り得ぬ心
大伴家持の孤独
作者未詳歌の輝き
 
第三章漢字に託す心
──漢字で書かれた「やまと歌」
巻一の書記法──記憶に支えられた大胆な表記
『万葉集』の《文字法》
漢字から「かな」へ
 
第四章万葉集古写本の世界
 
まず、巻一の53番歌あたりまでが最初に編まれた(原撰部)。これは持統天皇の正統性を主張することが目的であるという。そもそも万葉集の編纂は持統天皇の意志による。
ついで、巻一の残り、持統後継である。
そして巻二は、藤原氏の特権性を印象付ける目的だとする。
ここまでは、政治的である。
そして、巻三からは大きく編集方針が変わる。
巻十七~巻二十は、大伴家の私家集の性格があるという。
つまり、それぞれ編纂目的があって、順に増補されてきたものである。

異なる目的であったにもかかわらず「万葉集」として増補されてきたのは、既に権威として確立していたからだろう。とりわけ巻二が藤原氏を持ち上げるものとするなら、権威を利用する姿勢というのは、いかにも藤原氏らしい。

そこで不思議に思うのが、大伴家の私家集という説である。
大伴氏は、周知のとおり、古くからの武門の家系だけれど、奈良時代末には没落する。藤原氏との権力争いに敗れたわけだ。
大伴家持は、歌人である前に、政治家であったのではないか。
その私家集がなぜ万葉集に、紛れるどころか堂々と入っているのだろう。
そんなに読み込んでいるわけではないけれど、家持の歌に直接的に藤原氏を悪く言うようなものはないのではないか。

あらためて、茂吉「万葉秀歌」でも、そういう眼で読み直してみようか。

万葉集一番歌「籠もよ み籠持ち」の作者は雄略天皇ではない

P_20161015_113617.jpg 小川靖彦「万葉集―隠された歴史のメッセージ」について。

「万葉集」は読んでみたいと思い、そしていくばくかはトライもしてきた歌集である。

中学3年ぐらいのときだろうか、解説書を買い求めた覚えがある。
家には岩波の日本古典文学大系の万葉集(1~4)を飾ってある(もちろんこうした専門的な本がきちんと読めるわけではない)。
斎藤茂吉「万葉秀歌」は、随分前に紙の本でも読んでいるが、青空文庫に収録されていることに気づいて、おそらく電子書籍として一冊を読み通した最初の本だと思う(今はKindleでも配信されているから、こちらを使っている)。

思えば、今までの読みは「日本人の心のふるさと」というような淡い、曖昧な憧れだったと思う。
P_20161015_113507.jpg 前掲の解説書も、歌の鑑賞が主であり、その理解のために、詠まれた時の状況や作者の説明といったものが付随する。

例示するなら、一番歌「籠もよ み籠持ち」は、歌のリズム、当時の習俗(家聞かな 告らさね)、雄略天皇は倭王武(ワカタケル)であり、王者らしい力強い言葉(おしなべてわれこそ居れ)を味わうという読み方である。

あるいは、万葉仮名や戯訓(戯書)の話とか、仮名文字ができる前のことを少し。

そんな読みをしていることについて、とくに疑問に思ったことはなかった。

manyoshu_hidden_message.jpg 小川靖彦「万葉集―隠された歴史のメッセージ」は、そういう貧しい鑑賞者に、新しい眼でこの歌集を見ることを教えてくれる。
副題には「歴史のメッセージ」とあるが、これは喩えとかではなく、著者は明確かつ直截に政治的メッセージを読み取る。そして、その読みこそ当時の人々に共有されていたものだろうとする。

「隠されたメッセージ」ではなくて、現代の和歌鑑賞者の眼からは隠れていた、忘れられていたということだろう。


ぐだぐだ能書きばかり垂れたけれど、たとえばこういうことである。

一番歌「籠もよ み籠持ち」の作者は雄略天皇ではない。

雄略天皇の歌として素朴に鑑賞する者としては、これは虚をつかれた感がある。
虚仮おどしの好きな作家が書くなら、これを本のタイトルにしたのではないだろうか。

いきなりそう書かれたら衝撃的(なのでこの記事のタイトルとさせてもらったし、上では朱書き)だが、誠実な研究者と思しき著者は、そんな読者を驚かせようという悪趣味はお持ちではなく、こういう書き出しをするわけでも、このような断定的な表現をとるわけでもない。
この主張は、諄々と万葉集の成立過程を解き明かすなかで、なるほどと納得させられる形で提示される。
なお、誰が作ったかは措いて、雄略天皇が詠ったものとして読むことが、鑑賞上は適切であることはいうまでもないし、そう読まれることこそが、万葉集編纂者の意図なのである。

本書は、前述のような歌の鑑賞や、「我が国最古の歌集である」式の受験知識の水準ではなくて、万葉集の成立の動機、編集意図というものを解き明かそうとしている。
とりわけ興味深いのは、巻一原撰部、巻一および巻二の成立に関しての部分である。

P_20161015_113121.jpg 上述の「一番歌の作者は雄略天皇ではない」については、本当の作者が誰であるかの問題ではなく、根拠があやしいというだけでなく、編集意図を考えれば、一番歌の作者を雄略天皇とすることに意義があったという論述がされている。

二番歌は、舒明天皇御製「大和には 郡山あれど……」(おそらくこれも舒明天皇作ではない)である。
この2人の天皇の間にはかなりの年代差がある、なぜ雄略の次が舒明になるのか、なぜ推古ではいけないのか……
そうしたことに疑問をもち、そこを起点に、万葉集の編纂目的、編集者の意図を、緻密に読み解いている。

その世界では周知のことなのかもしれないが、不勉強な私には、とても新鮮な本なのである。

ノーベル文学賞

Dylan01.jpg ボブ・ディランが2016年度のノーベル文学賞を受賞した。
いわゆる文学ではない、シンガー・ソング・ライターの受賞で、賛否両論がある。

否定的な意見の人は、だいたいボブ・ディランが好きだとか、素晴らしいという前置きをした上で、「ジャンル」として疑義を表明する。また、ディランの前に受賞すべき人がいるだろうとも言う。

その「ディランより前に受賞すべき人」に名前があがった人達はほとんど知らないし、もちろん作品を読んだこともない。
科学系の賞の場合、研究者の名前は知らなくても、その業績を聴けば凄い研究をしたんだと納得できるけれど。


対して肯定的な人は、ディランは吟遊詩人の伝統の伝承者であると、ちょっと牽強付会な理屈をつけたりしているようだ。
Dylan02.jpg

「伝承者」という言葉には疑問。ディランがオルフェウスを直接に伝承したわけではないだろう。生態的位置に似たものがあるという程度以上ではない。そしてこの位置は珍しいものではない。


日本では、今年も村上春樹が受賞を逃したという落胆ムード。(私は小説は読まないことにしているので、村上春樹も読んでいない。従って関心もない。)

ボブ・ディランといえば、私が中学から高校ぐらいの頃に流行っていたことを思い出す。
家には兄が買った「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」などの17cmEPがあった。
私は、特に好きということはなかったけれど、「風に吹かれて」とか「ミスター・タンブリン・マン(Mr. Tambourine Man)」など、兄が聴いているから、たびたび耳に入った。

Dylan05.jpg Dylan04.jpg 当時、「反戦フォーク」というジャンルがあって、ディランはそのカリスマのようなもの。他、ジョーン・バエズとかも良く聴かれていたと思う。日本では、岡林信康とか中川五郎とか。
で、フォークから出発して、メジャーになっていった歌手をあまり快く思わないという雰囲気もあった。反体制じゃないのか、というわけである。
ただ、授賞は反戦平和運動に対してというわけではない、それなら平和賞だろうし。

Dylan03s.jpg ディラン受賞で思った、それなら永六輔が受賞しておかしくない(故人は受賞できないが)。谷川俊太郎なんか絶対に受賞すべきじゃないだろうかと。あるいはビートルズが受賞しても全然おかしくないのでは。

というか、ノーベル文学賞が「最高の文学」を顕彰するものとは思えないし、そもそも文学賞があること自体が不思議。

平和賞も不思議な賞だけれど、政治的なものと割り切って評価すべきだろう。そういえば、文学賞でもソルジェニーツィンが受賞したときは、政治的な意図があると、旧ソ連からは批判されていた。

文学賞も平和賞も、毎年のように授賞への疑義がとりざたされるけれど、文学賞や平和賞はバイアスの強い、金持ちの道楽ぐらいに割り切って、あんまり騒がないで良いのではないだろうか。

で、ふと思ったのだけれど、文学賞を誰に先に与えるべきかを議論するより、どのジャンルに賞を与えるべきか考える方がよほど建設的なんじゃないだろうか。

ノーベルの遺言が基本だから、ジャンルを新設するのは難しいのかもしれない。だったら、各賞の対象範囲を広げたらどうだろう。ローレンツ、フリッシュ、ティンバーゲンはそろって動物行動学で生理学・医学賞を受賞しているけれど、それまでの生理学・医学賞からすると、随分異質だったと思う。

Dylan11.jpg
ということで、人文科学と括られるものを対象とする賞は設けられていないが、文化人類学や言語学、宗教学(へたするとアブナイ)といったジャンルは、人類の平和に向けて、相互理解を高める上で大いに寄与すると思うから、こういうものも「文学賞」の対象としたらどうだろう。

また、周知のとおり、ノーベル賞には数学賞はない(フィールズ賞があるからなくても良いけど)。
数学は他の分野を支えているから、具体的な成果とセットで授賞は可能かもしれない。ショールズが経済学賞を受賞したときに、伊藤清が共同受賞しても全然おかしくなかっただろう。

その応用まで展望していたら喜んで受けるだろうけれど、思いもよらない応用だったら辞退しそうだ。


読書で寿命が伸びる

dokusho_yd_book2.jpg ネットの情報サイトに、“読書で「寿命が伸びる」のは本当か ”という記事があった。

私は月10冊以上は読んでいるから、読書量は平均より多いと思う。この記事で引用されている調査では、月7冊以上読む人を最上位の階層としているから、私もここに属する。

ただし、自分では読書家だとは思っていない。
理由は簡単、読書時間がほとんど通勤電車だからだ。
読書家というのは、やはり書斎で本と睨めっこして、徹底的に読みこなすような人でなければ本物じゃない。

もっとも私の先輩には「通勤時間が長いやつほど文化人だ」と言っていた人がいる。通勤時間が貴重な読書タイムという意味だ。


冊数というのもいいかげんなもので、ハーレクイン・ロマンスのようなものを何十冊読んだところで、それで読書量が多いと言えるだろうか。
数学の本などは教科書ですら1ページ進むのに何日もかかることはザラ。それでもじっくり取り組めば理解もできようというものだが、読んでも読んでも理解できないハイデッガーの著作なんて、ついに1冊も読めなかったと思う。

スラスラ読めるというのは、その本に書かれている世界とか論理と同様・同類のものが、既に読者の頭にある場合だろう。


それはそれとして、読書で寿命が伸びるというならアリガタイことだが、この読書量には、こういうジャンルというか本の特性は考慮されているんだろうか。難しい本ばっかり読んでたら、寿命が伸びるとは思えないのだけれど。

そういえば、読書量と所得に相関があるという説もある。
本を買って読むとしたら、所得がないと買えないから正の相関があってもおかしくはないけれど。(そうすると、所得と健康にも相関があるのでは、というか、それが陰にあるのでは。)

子供の学習能力は、家庭の「文化資産」の量と相関があると言う説があるが、文化資産の量は所得と相関していると思う。

所得と学力の相関だが、たとえば市町村別に全国学力テストの結果と当該市町村の平均所得と相関させてみれば顕著に表れるといわれている。


dokusho_yd_sukima1.jpg はじめに戻る。通勤時間が長いやつほど健康だということについて。
実際は通勤時間に本を読んでいる人はそう多くはない。読書する人よりも、音楽を聴いている人、新聞やネットで情報を得ている人、ゲームをしている人のほうが多いように思う。

“通勤電車の中で何をしている? 年収によって違い”


なお、冒頭にあげた記事によると、電子書籍は場合によっては健康を害することがあるという。
いくつか例示されているが、とくに電子書籍よりも実際の本からの情報のほうが、頭に内容が残りやすいとの結果が出ているという。電子書籍よりも印刷された書籍を読んだ人のほうがストーリーの順序をよく覚えており、その差は「著しい」のだそうだ。

これが本当だとしたら悩ましい。たしかに、私自身もはじめは電子書籍は頭に入りにくいと感じていた(老眼鏡を付けて読むのと、付けないで読むのと同じような感覚)。この頃はそうでもないと思うのだが、この調査は、どんな本を、どんなデバイスで読んだのか、被験者の電子書籍への習熟度は、など、気になる点は多い。

電子書籍は、持ち運びがラクで、いつでも辞書・事典を検索できて便利だと思う。
読書者自身が、電子書籍でも紙の本と同等に理解ができるというなら、統計的な結果を気にすることはないのだけれど。

いるのよねぇ「そういう調査結果があるんだ」と、統計に合わないと事実の方を否定する人が。


立川吉笑「現在落語論」

kissho_genzairakugoron.jpg 立川吉笑「現在落語論」。

若僧が何を生意気に講釈垂れてるんだ、というのが読み始めた時の年寄りの感想。
というか、著者はもともと京都のくせに(というか京都だから大阪への反発?)、江戸落語なんぞやって、上方落語をどう考えてるんだということも初っ端にもよおす不快感。
上方の落語家が、江戸落語について「もぞもぞ言ってるだけで何がおもしろいんや」と酷評していたこともあった。

もっともそういう状態は本書にも書かれているように、一時代前の状況で、かつて立川談志がこのままでは能のようになってしまうと憂えた頃のことでもあるようだ。

その談志、粋の固まりみたいなところを感じるわけだけれど、そしてうまいと思うけれど、上方贔屓の私としては、いちばん小気味よい話は、米朝の東京公演を談志が聴きに来て、ガックリ肩を落として帰ったというエピソードである。(「名人は名人を知る、ようわかっとるやんけ」と余裕で談志を誉めた。)

ということで、訝りながら読み始めた本だけれど、そこに書かれていることは至極きちんと筋の通ったことである。
落語について、その技術や特性について考えた、あるいは考えさせられた人なら、右に掲げた目次を見れば、どういうことが書かれているか、たちどころに了解できるものと思う。

著者は、自らのお笑い体験・落語家としての修業を通して、こうした理詰めの落語技法を文章化したのだろうと思う。その分析にはなるほどと思わせるところも多いし、よくまとめられている。

少し違うかなと思うのは、落語がもつアドバンテージを強調するあまり、実はその表現技法は落語だけというわけではないんじゃないかということ。
たとえばありえない時間・空間的設定(第一章1。跳躍や歪みであったりする)を落語の特有のもののように書いているが、これはエッシャーの絵をはじめ、絵画やマンガでも、ケースによってはよりうまく表現できる場合もある。『胴斬り』のシュールさは『猿飛佐助』をはじめとする初期のマンガでも多用されていると思う。

また落語特有と著者がいう、情報を「隠す」(第二章1)技は、小説のような単線的な順序を持つ表現形式なら同様に可能である(もちろん演劇とかだと、隠れていたということに意味が出てしまってうまくいかない)。

その一方、昔からあるシュールな落語について、落語の表現の柔軟さを強調するわけだが、実際には、それ以上に感心すべきなのは、そんな昔から、その話をおもしろがる感性を持っていた庶民の方かもしれない。

この本を契機として、立川吉笑、立川談笑という落語家の芸をYouTubeで見せてもらった。
やっぱりまだまだこなれてないなぁ~、と思ってしまう。

米朝などは、喋っている人間や場面の転換、そうしたものを表現するための、顔や体の向き、目線、言葉使い、そのすべてに対し、細かな演技が必要であり、それが自然にできる(それがどれほど難しいかはやってみようとすればわかる)ようになるのが落語の稽古であると考えていたようなフシがあって、それを厳しく弟子に求めていたと思う。

また、言葉使い一つで、大家なのか店子なのか、侍か商人かがわかるわけだが、もちろん、吉笑氏もそのことは承知の上だろうけれど、この人の高座ではそれは残念ながら十分には聞き分けられない。
みずから自身の代表作という「ぞおん」でも、登場人物2人のメリハリはもう一つのように思う。

落語の技術としては、まだまだ未熟なのだと思う。
おそらくそのことは自身も良く解っていて(でないとこれだけの本は書けないだろう)、これからの精進を期待する。

第一章 落語とはどういうものか
1 何にもないから何でもある
顔色の悪い赤鬼
不条理な空間を描く
2 落語の二面性―伝統性と大衆性
始まりは大衆芸能
二面性についてのコンセンサス
3 古典落語と新作落語
伝統性と大衆性のバランス
古典落語の誕生
アーカイブによる伝統性の強化
なぜ新作落語がつくれるのか
それ、落語じゃなくていいだろ
4 マクラは何のためにあるのか
自己紹介の役割
お客さまを知る
メッセージにリンクさせる
フェイントマクラ
幻想マクラ
第二章 落語は何ができるのか
1 省略の美学
引き算の美学
下半身の省略
空想の具現化
場面転換が容易
情報を「隠す」ことができる
自由自在な入れ子構造
2 使い勝手のよさ
辻褄が合っていなくても問題なし
歌のように聴ける
定番キャラクターの存在
3 古典落語を検討する
『二階ぞめき』
『不動坊』
『胴斬り』
第三章 落語と向き合う
1 志の輔の新作落語
落語でしか描けないもの
伝えたいメッセージとは
2 談笑の改作落語
改作落語の狙い
「花魁」を「アイドル」に
スライドの技術とセンス
大衆性をブーストする
噺の本質を掴む
改作としての『紺屋高尾』
3 擬古典という手法
擬古典とはなにか
擬古典を選んだ理由
擬古典『舌打たず』台本
4 ギミックについて
ネタづくりのルール
ギミックの展開例
ネタをチェックする基準
代表作『ぞおん』
現代が舞台のネタ
落語との向き合い方
第四章 落語家の現在
1 吉笑前夜
弟子入り
師匠選びも芸のうち
2 「面白いこと」への道
ぼくの好きなお笑い
お笑い芸人を目指す
面白いことをやりたい
決定的な転機
3 落語会の抱える二つのリスク
需要と供給のバランス崩壊
外部参入による構造改革
ただの大衆芸能になる日
4 落語の未来のために
全国ツアーという活路
ぼくが立つ場所


ディズニーの絵本

wanwanmonogatari.jpg このところ絵本の話題をつづけたけれど、絵本というと大量に出回っていたのがディズニーの絵本。
私の家にもディズニーの絵本が何冊かあった。

アニメのシーンを切り取って本にしたというものだったと思う。
今、手元にはないが、記憶をたどると、「わんわん物語」、「シンデレラ」、「バンビ」、「ピノキオ」などがあったと思う。

で、実は、バンビぐらいはそうでもなかったが、他の本は、なんとなく怖かった。
後に、なぜこれらに対して怖さを感じたのか考えて、思ったのが、これらの本の色使い。深く、べったりとした色なのだ。
吸い込まれるような不安感を覚えたのではないかと思う。

それに対し、お気に入りの「ちいさいおうち」は、淡い色調で落ち着く。

そもそも、ディズニーのアニメは、昔のものはそうではないけれど、最近の主人公は、口は耳元まで裂け、眼は大きくつりあがり、日本のアニメのかわいさ強調のワンパターンとは違うけれど、やはりワンパターンじゃないかと思う。そして、あんまり感情移入できない。
disneycinderella.jpg このブログでも「アナと雪の女王」をとりあげたことがあるが、そこにも同じようなことを書いていた。

日本のアニメは、かわいさの記号が充満していて、見るものはその他の細部にはそれほど注意がいかないのではないだろうか。だから細部は結構大胆に雑に描かれていても、それがかえって落ち着くように思う。
ディズニーは細部までのこだわり、特に動きのなめらかさにこだわりが強くて、気を休めるところがないのかもしれない。そして、動きの中であればそうでもないけれど、絵本に固定化すると、その細部が平たく塗りつぶされていると、空虚感を感じてしまうのかもしれない。

私はテレビゲームのたぐいはほとんどやらないのだけれど、テレビCMなどで目にする絵を見る限り、ゲームの絵はどんどん精細化しているようだ。そして、当然だが、細部へのこだわりも強くなっているだろう。しかし、ゲームの絵へのこだわりは、アニメのように平たく塗りつぶすものではなく、コンピュータが細部を埋め続けているから、ディズニーとは違うようだ。

ところで、ディズニーものというと、こうした絵本でも、パクリのものがあったのではないだろうか。
絵柄がディズニーのそれとは違う感じのものを見るような気がする。

ぞうのババール

zounobabar.jpg 子供の本の話をもう一つ。
やはり、親から与えられた絵本で「ぞうのババール」。

あらためて表紙を見ると「ババール」とカタカナで書いてある。幼年向けの本はたいていひらかなだけで、カタカナにはひらがなでルビがふってあったように思うのだけれど。


この本も繰り返し読んだ覚えがある。
しかし、この本の中では、ぞうのおうさまが毒キノコを食べて死んでしまうというくだりがある。震える線で描かれた、その年老いたおうさまの絵が痛々しかった。
おうさまが亡くなったので、街にいたババールが象の群れに呼び戻され、新しいおうさまになるわけだ。しかも結婚して。

「ろけっとこざる」のようなドタバタ要素はないし、「ちいさいおうち」のようなしあわせな暮らしを考えさせる要素もうすいと思う。しかし、ぞうたちの友情のようなものが描かれていたように思う。

ところで、ぞうのばばーるの原題は、"BABAR"であるが、こっちのBaBarとは関係ないでしょうな。

ちいさいおうち

先日、映画「パディントン」のCMで原作本を思い出したことを書いた。
また、元日の記事は干支にちなんで「ろけっとこざる」を取り上げたけれど、その時も子供の頃に読んだ本のことをいろいろ思い出していた。

chiisaiouchi.jpg 私の一番のお気に入りだったのは、「ちいさいおうち」。
「ろけっとこざる」よりも前で、小学校に上がってすぐか、その前ぐらいからである。
周囲の大人に何度も読んでとせがんだことを覚えている。

田舎ののどかな場所に建っているちいさいおうちが、遠くに街の灯を見て、街ってどんなところだろうと考えていると、ちいさいおうちの周りも街になってしまう。そこへ、ちいさいおうちを建てた人の子孫が、このうちはご先祖が建てた家だといって、ちいさいおうちを元の田舎に似た場所へ引っ越しさせるというお話。

どうしてこの話が好きだったのか、自分でもさっぱりわからない。バージニア・リー・バートンの絵が良かったのかもしれない。
この本の絵の多くは、ちいさいおうちを同じアングルで描いていたと思う。
田舎のこんもりとした芝地に建つちいさいおうちの春夏秋冬、同じく夜、それから周りがだんだん街になっていくところ。ビルと高架線(鉄道)に囲まれたちいさいおうち。そして元いたような田舎に引っ越したちいさいおうち。

イエラ・マリ「木のうた」という有名な絵本がある。小中学校の授業で使ったりするらしいが、まったく言葉がない絵本である。これも同じアングルで木を描き、季節を一巡するように作られている。
これも、見る対象を固定しながら、対象や周囲の変化が描かれる。
こういう書き方というのは、時の流れに自分の身を任せるような感じで、そこが子供心に響いたのかもしれない。

ところで、長じてからこの話をしていたら、その場にいた2人の女性が口をそろえて「六二郎さんには似合わないねぇ」と一蹴された。
しゃくなので、英語原本を手に入れた(2人のうち一人は外国人だったので)。

くまのパディントン

takecarethisbear.jpg テレビで「パディントン」の映画のCMが流れている。
今日、1月15日日本公開である。

CMを見る限り、設定やキャラクターは多分原作を踏襲していて、エピソード(要するにパディントンのいろんな失敗)も原作から取り入れているように見えるが、悪役が出てくるみたいだから、ストーリーはオリジナルなのかもしれない。

この悪役はニコール・キッドマン。
この私好みの女優の悪役は素敵。


原作は周知のとおり、マイケル・ボンド「くまのパディントン」。
paddington_large.jpg 私はこの本とは、今から四十数年前、高校生のときに出会った。少し歳の離れた妹に贈ったもので、私自身も読んだ。

インターネットもないし、子供向けの本の評価もそこらで簡単に手に入る時代ではないから、私とこの本の出会いといったら、まったくの通りすがり。
パディントンも飼い主(家族になる家の人)との出会いは、パディントン駅でのただの通りすがりなわけだが、私にとっても本屋でたまたま見つけたというわけである。

kumanopadington.jpg 特に話題になっていた本というわけでもなかったように思うし(当時は受験生だから、書評を読むという習慣がそもそもなかった)、本屋でも平積みされているわけではなかった。さして大きくもない、ただし本に詳しくこだわりのある本屋の比較的高い棚にあったのを見て、なんだかおもしろそうと手にとったもの。

最初の作品である「くまのパディントン」が面白かったので、続けて第2作「パディントンのクリスマス」、第3作「パディントンの一周年記念」の2冊も後に購入した。

もともとは妹のために買ったのだけれど、妹がちゃんと読んだかどうかは知らないし、感想を聞いたこともない。高校生の分際で、小学生が読むような本を読んで面白がっていたわけだ。

子供向けの本なのかもしれないが、内容としては大人が読んでも、上質のコメディだと思う。
パディントンはどことなく紳士ぶって、というか本人(本クマ)は、まるっきり紳士のつもりなのだが、それと引き起こされる行動及び結果との落差が愉快でほほえましい。
carethisbear.jpg
さて、映画になると、パディントンが映像化されてしまうわけだが、その紳士と子供じみたところがうまく描けるだろうか。偶像崇拝を禁止する宗教が、教祖の映像化を拒否するというのと、次元は違うけれど、通ずるものがあるかもしれない。

であるけれど、やっぱり、映画も見てみたいと思う。


北杜夫

今日は北杜夫の命日。
珍之助さまブログ「語り得ぬ世界」へのコメントで予告したこと。

そもそも、私は文学的素養が実に貧弱で、教科書に載るぐらいの有名文学作品でも未読のものが夥しい。
トルストイ、ユーゴー、スタンダールなど、名前は聞いていても、それらを読んだのはずっと後になる。

大学時代、優秀な同級生などは、世界文学全集のようなものは小さい頃にあらかた読んでしまっていた。湯川博士の兄弟たちは、子供の頃に四書五経を読んでいたという話もある。

一方で、私には変に凝り性のところがあって、特定の作家の作品について連続して読んだり、シリーズ物は全作品を読もうとしたりした。

受験勉強でもそういうところがあって、普段は授業の予習しかしないのだけど、長期休暇になったら、問題集か参考書を1冊決めて、それを休暇中にやる。1冊は文字通り1冊で教科ごとにとかではないから、選んだ本が数学だったら、その休暇中は数学以外の勉強は全くしなかった。

それはともかく、ドストエフスキーとか、安倍公房、モーリス・ルブラン(ルパン・シリーズ)などの後年の特定作家へのこだわりに先だって、かなり集中的に読んだのが北杜夫である。実家の本棚には相当数の北杜夫作品が並んでいる。もっとも私が中学高校のころだから、それ以後の作品はほとんど読んでいない。

kitamoriotokushu.jpg 北杜夫は、中高生にも大変読みやすい。ただし、小説ではなくエッセイ類、つまり「どくとるマンボウ」シリーズである。航海記、昆虫記、青春記など。

粘着質でなく、快速の文体は、エッセイ一冊を読み通すのになんの努力もいらない。「あーおもしろかった」である。
躁状態で書いたと思しき作品は「怪盗ジバコ」。完全なスラップスティックスである。

今では、私にとっても「青春記」のネタになるような話で、特別な思い入れというようなものはやや薄くなっているけれど、この名前を見ると懐かしさというのが湧いてくる。

さて、珍之助さまがそろそろ焦れてきた頃だと思うので、本題へ。

北杜夫というとエロスと向き合わない作家という印象が強い。これは珍之助さまもエロ要素がないと同様の判断をされている。
「北杜夫の作品には女の裸が出てこない」という編集者とのやりとりを面白おかしく書いてあったエッセイがあったし、おっぱいも「呼び鈴のようなおっぱい」(さびしい王様)という、エロスのかけらもないような扱われ方をする。

しかし、「性欲より食欲を上位に置く」と自らいう北杜夫の作品にも、エロティックなものがある。
北杜夫が亡くなったとき、いくつかの雑誌が特集をしていたが、そのうちの一冊を読んでみたら、読んだことのなかった初期短編が収録されていた。

その「静謐」という短編は、これを脚本にしてビデオを作ったら、なかなかエロいものになるだろうと思わせる。
その最後の部分、お屋敷の離れに暮らす老婦人が、訪れた小さな孫娘に、若い頃体験したことを話し聞かせているという状況……



いかがだろう、設定・描写とも、特別なものとは言えないし、性行為を直接描写するポルノ文学とは違うと思うが、また違った北杜夫が立ち現れる。
この後、話を聞き終わった孫娘が両親のもとへ戻った情景が描かれて作品が閉じられる。



中学生のとき読んだ「航海記」に、海外の港で日本人を見ると『イッパツヤルカ』という日本語に気まずい思いをしたという話があったが、当時の私は、その意味はわからなかった。
筆一本でクライマックスに至らせることが作家の理想というようなことを誰かが言っていたが、「航海記」では、正面からエロティックなものを書いてやろうという気はないようだ。

「美貌の女帝」

nagaimichiko_bibounojotei.jpg 永井路子氏は、よっぽど藤原氏が嫌いらしい。

以前、「天上の虹」で、「永井路子に元正天皇、孝謙天皇を主人公にした歴史小説があるらしい。」と書いたことがあるが、そのうち元正天皇を主人公にしたのがこの小説である。

元正天皇=氷高皇女は、当時の記録でも大変な美人と評されていたらしい。そういえば「天上の虹」でもそのように描かれていた。
「美貌の女帝」はそのことから書き出される。
 誰が言いだしたのだろう。
「ひめみこの瞳はすみれ色だ」
 と。幼い日からの彼女の美貌を、人々はそんな言い方で噂しあった。……

藤原京から平城京への遷都は元明女帝のときに行われている。
なぜ藤原京が放棄されたのか、それは範をとった中国の都城との構成の違い(内裏が、天子南面により北にあるのに対し、藤原京では中央にある)の是正とか、都市排水が悪く物理的に使用に堪えなくなったとか、諸説あるけれど、本小説では、藤原氏の陰謀、すなわち蘇我の駆逐である。

niitabehidaka-3.jpg 元明・元正は、しかたなく不比等に従った、ささやかな抗いは、飛鳥にある蘇我所縁の寺の平城京への移転の約束なわけだが、その一つ、大官大寺は移転を目の前に焼失する。永井氏はこうした事件の流れを捉えて、藤原氏の陰謀を印象付けてくる。

このように、年表上の事件の記述に因果関係を感じとり、歴史の流れを絵解きする。これができるのが小説の強みであり、永井路子氏の慧眼なのだろうと思う。
そして、その後、この絵解きが新たな史実の発見により、強化されることも。

私は、小説は読まないことにしているけれど、興味関心のある事柄に即して小説が仕立てられている場合など、何かのとっかかりがあれば読む(hontoの50%割引クーポンが送られて来ると、まとめ買いの一冊として紛れ込ませやすい)。

NHK大河も、女主人公にイケメン脇役という下衆根性ではなくて、まず素晴らしい原作を得るところから企画するべきだと思う。そして、それにふさわしい役者を発掘(安いギャラで)することが、NHKらしいと思うのだけれど。

古池に蛙は飛び込んだか

furuikenikawazu.jpg 俳句がおもしろいと思ったのははじめてだ。(ちょっと言い過ぎ)
長谷川櫂「古池に蛙は飛びこんだか」。
書名はもちろん「古池や 蛙飛び込む 水の音」からである。

俳句というものは、文化人の教養ではあり、知らなければ恥ずかしい思いをすることはある。けれども、解ったような、解らないような、せいぜい解ったような気になる(そうならないと不愉快だ)以上に何があるのだという程度のものと思っていた。
私には関係のないものと思っていた。(周囲の人も不似合と一蹴するだろう)

何分、俳句には全く疎いもので、図書館でこの本を見たとき、歌枕がどこかとか、古池がどこにあるかとか、そういう考証をしているのだろうかと思って手に取った。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」で、このセミの種類は何かという論争があったと、北杜夫のエッセイで読んだ覚えがある。ニイニイゼミが通説で斉藤茂吉がこれに反論したという。そういう類の考証をするのだろうかと思った。

ではなかった。全然違った。
俳句の簡明な理論、そして奥深さを教えてくれる本であった。

結論は、蛙は古池に飛びこまなかった、である。
蛙の飛び込む水の音が聞こえてくる、心の中に古池の像が浮かんでくる、ということだという。
著者がそう解釈するのには、明解な根拠がある。

この句が出来たときの様子を記録した各務支考「葛の松原」という本がある。芭蕉は、まず「蛙飛び込む水の音」を作った、上五をどうするか。その場の門人も含めて考え、其角は「山吹や」を提案したのだという。 古今集以来、「蛙の声」には「山吹」を合わせるのが慣いという(私の居所の隣町、井手町の玉川の河鹿と山吹がともに名所)。ここで声でなく水音に山吹をずらして合わせるのが、伝統・因襲への批判になるという意図があるのだそうだ。
対して、芭蕉は「古池や」と置いた。

「や」は切字というのだそうだ。現代では「や」「かな」「けり」を3つがあるとされる。

(助詞のおもしろさについては前に「に・へ・を」でも書いたおぼえがある)

著者は別の著書で次のように述べているそうだ。

「句を切る」ことによって生み出されるこの間こそ、短い俳句が文章や詩に匹敵し、あるいはそれ以上の内容を伝えることを可能にしている。間とは言葉の絶え間。すなわち沈黙。俳句は言葉を費やすのではなく言葉を切って間という沈黙を生み出すことによって心のうちを相手に伝えようとする。


本書で、俳句の作り方として、「一物仕立て」「取り合わせ」というのがあると知った。
「古池や」は、蛙の水の音と、心象風景の古池の取り合わせであるという。これに対し、通俗理解では一物仕立てで「古池があって、そこに蛙が飛び込んで水の音がした」という一つの叙述。

著者は、古池の句を、通俗理解していたのでは、次の疑問の答えが見つからないと考えている。
  • 古池の句がなぜ蕉風開眼の句といわれるか
  • 蕉風とは何か
  • 蕉風開眼の句である以上、古池の句はそれ以後の芭蕉の句にどう影響したか
そうして、切字と仕立ての2つの概念を使って、芭蕉・蕉門の句を解釈する。

「閑さや」の句も、セミの鳴く声に気づき、そしてそのセミの声以外の音がしないことに気づく、それが「閑さや」と立つと解釈される。決して静かだからセミの声に気付いた訳ではない。時間の順序は、「古池や」と同様、逆転しているという。そして「古池や」以後の多くの芭蕉の句が同種の構造をしていることを示し、新しい解釈を与える。

Amazonのレビューを見ると面白いことに気付いた。
レビューが8つ載っているのだけれど、うち6つが★★★★★、2つが★と、評価が両極端である。
★1つの人は、それまでの人生での俳句体験を否定された思いなのだろう。あるいは子規や虚子の崇拝者で、彼らの読みを「浅い」と否定されたことに対する憤りなのかもしれない。

著者は「写生主義」を批判している。目の前に実際にあるものが、心象よりもリアルであるという思いこみによる「リアリズム」が、芭蕉の読みを誤らせてきたと考えているからである。ただし、写生主義そのものを否定するわけではなさそうである。芭蕉・蕉門の理解を写生主義で行う必要はないと言っているにすぎない。


日本の詩歌といえば、短歌と俳句ということになると思うが、七七の違いは随分大きいと思う。
短歌には、その決して長くない五七五七七に、語りがあると思う。ストーリーがあると思う。もちろん先立つ長歌があったり、詞書があったりすることもあって、それらに助けられることもあるかもしれないが、五七五七七の中に語られる世界が感じられる。

俳句というのは、蕉風というのは、心象の切り取り、だと思う。
(こういう解ったような解らないような言葉使いは本当は良くないと思うけど、今は他に言葉が見つからない。)

こどもの日

今日はこどもの日。
「国民の祝日に関する法律」では、このように「こども」とひらがなで表記し、第2条に
「こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。」とある。

「こども」の表記としては「子供」もある。しかしこの表記を否定する人もいる。「供」はお供、添物だから、こどもを一人の人格として認めていないと言う。そして「子ども」と書く。

Screenshot_2015-02-18-15-12-08.pngけれど、私は漢字かなまぜ書きというのはどうも好きになれない。ただ、そもそも「こども」は漢語ではないから、すべてかな書きが落ち着く。
漢字一字で「仔」というのもあるけれど、人偏がついているのに、この文字を使うのは動物の場合のようだ(右)。

漢字かなまぜ書きというと、「障がい」というのもある。害と書くと悪いことみたいだからかなにしたというが、これは昔は「障碍」と書いていたのを「碍」が常用漢字にないから「害」にしたとかである。こういう漢字制限のために本来の言葉を変えてしまうというのはいかがなものか。

「世論」(よろん)も以前は「輿論」と書いて、これは御輿の輿で、世の中の多くの人が担ぐ意見の意味だったのが、やはり漢字制限で輿が使えないので世で代えたという。その後、世論が定着したため、ニュアンスも変わり、(せろん)と読む人も出てきたという。

shirakawaskanji.jpg漢字制限論者は、漢字の数が多くて習得が負担になるからということを主張するのだけれど、漢字は偏と旁というように分解すれば素材はそんなに多くない。漢字の構成を教えずに、ただ数が多いと言うのは、十進数のメカニズムを教えずに、「11」というデザインを丸のみさせて、「9999」より多くの数を使ってはいけないというようなものではないだろうか。
英語でも26字だけを覚えて文章が読み書きできるわけではなかろう。語幹である要素の音・綴りの組み合わせとして理解されるから、効率的な読み書きができるのではないだろうか。

康熙字典には約200の部首があり、中国語の音は約400だから、600ぐらいは覚えないといけないのかもしれない。逆に言うと、600覚えたら200×400=60,000字を覚えるのはそう難しくないとも言えるのでは。
また、大抵の子供はこういう漢字の成り立ちに漠然と気づくと思うが、正しい知識を持つと当然、効率良く覚えられる。


白川静先生の出身地の福井県では、漢字の成り立ちやもともとの意味を解説した漢字解説本『白川静博士の漢字の世界へ』を小学校の授業で使っているそうだ。こうやって漢字を覚えた小学生は、文科省流の漢字制限論(程度問題だけど)に与することはないだろう。

ただし、私は漢字制限論者である。多少多くても(諸橋大漢和の5万字でも)よいから、「すべての漢字」をきちんと定義し、それ以外は一切認めない(字形が違うなら、公的文書においては、近しい文字に置き換えることを法定する)という意味でだが。

「天上の虹」完結

去る3月18日の「道鏡」の稿で、『作者が「あと1巻で完結」と予告しているから(といってもいつのことかは)』と書いたのだけれど、3月13日に、第23巻<完結>が出版されていた。
tenjononijifin.jpg

ときどき Amazonで出版情報をチェックしていたのだけれど、その狭間になって気付くのが遅くなった。だいたいAmazonは購入実績はもちろん、調べただけのものでも記録して、おせっかいなメールやウェブで「おすすめ」を執拗に案内してくるのだけれど、この数年来「天上の虹」の新刊はAmazonで買っていたにもかかわらず、第23巻を案内するメールが来た覚えがない。今までなら出版予告段階でも案内されて、すぐに予約購入していたのに。


既に前の巻から、長寿の妙薬として水銀を服用していて(中国にはこんなすばらしい薬があると言いながら)、体調が悪いことが描かれ、崩御が近いことが予告されていたから、最終巻はおそらく淡々と死に至る日々が書かれるに違いないと思っていた。

ネタバレにならない程度に書くけれど、日本書紀と古事記、なぜ2つの歴史書が作られたのか、従来からいろいろな説があるようだし、古事記には偽書説もある。本書ではその理由が推測されている。その根拠はおそらくまったくないのだろうが、作家だからこその想像力、うますぎる話のようにも思うけれど、なるほどとも思う。

讃良の読みは「ささら」と「さらら」の2つがあり、「ささら」の方が有力だったのだが、音感で「さらら」を選んだと作者あとがきにある。私は「さらら」だと思っていたが、これも里中先生の影響だったのかもしれない。

そういえば、万葉集で有名な「ささのは」の歌について、「さのはは やまもやに やけども」と「さのはは やまもやに だるとも」の2つの読みがあり、前者はさ音の多用が笹の葉が風に騒ぐ音風景を表すというのに対し、斎藤茂吉は「万葉秀歌」のなかで、前者は軽すぎ、「やま」のに対して「だるとも」が韻であり、それが重厚であると後者をとる。音の問題は讃良を音仮名(万葉仮名)で表記したものなど決定的な証拠が出ないと難しいのではないだろうか。


そして、讃良の死の状況であるが、これも今まで聞いたことのない様子で描かれる。
最後は、良く知られた史実、初めて火葬された天皇として、後の仏教立国の礎を築くことになるのだが、本作では火葬の煙となって全国にゆきわたり、国を、民を、ささえていくのだという讃良の思いで情緒的にしめくくる。

茶化すようだが、大河ドラマでヒロインがぜんぜん歳をとらない、おかしいという話を耳にするが(最後に突然、白髪になったりする)、「天上の虹」でも、讃良が一向に老けない。しわひとつないままで崩御する。

持統の後、文武、元明、元正、聖武、孝謙(称徳)と続くわけだが、里中先生には「女帝の手記―孝謙・称徳天皇物語」という作品もある(未だ読んでない)。これには道鏡はどう描かれているのだろう。
また、永井路子に元正天皇、孝謙天皇を主人公にした歴史小説があるらしい。これも未だ読んだことはないが、興味が惹かれる。

こうして完結してみると、またあらためて第1巻から通して読み直したくなるのだけれど、実は、読みたいという人がそこそこいて、そういう人のところに分散してしまっている。これを揃えるのにまた一苦労しそうだ。

ところで、以前、大阪府立弥生文化博物館を訪れたとき、ミュージアム・ショップで、里中満智子先生による色紙や扇などが販売されていた。マンガ一冊より高い価格だったので購入しなかったけれど、まだ売っているのだろうか。

米朝さん逝く

jigokubakkei.jpg今では、昨夜になったが、テレビのニュース番組を見ていたら、米朝さんがお亡くなりになったことがテロップで流された。

米朝落語大全集の「地獄八景亡者戯」(YouTubeにリンク)の中では、地獄にも寄席があって、
「桂米朝、近日来演」(クリックで該当箇所を再生)と宣伝されているというくすぐりが入っていたのを思い出す。

このところ歌舞伎や演劇の名優・名人が次々に鬼籍に入っておられる。
地獄八景によれば、地獄の芝居・寄席では、さぞかし賑やかに名演が催されていることだろう。

しかし、此岸のわれわれは、あまりにさびしい。

美坊主

bibouzuzukan.jpgbibouzu.jpg昨年のことだが、仏教の本場奈良で、お坊さんのファッションショーが開かれたと伝えられていた。
モデルは、なんでもイケメンの坊さんで、全国からの選りすぐりだということだった。

最近もイケメンの坊さんに人気とかで、「美坊主図鑑」という本が紹介されていた情報番組を見た。
「美坊主」である。美少年、美青年はカビが生えた言葉だけれど、「美坊主」とは何ともフレッシュ。

寺ガールというのもこの頃増えているそうだ。
神社仏閣を訪れることを趣味とする女性を指すらしいが、寺ガールが、美坊主にキャーキャー言うようになったらスゴイ。

と考えていると、昔見た古典文学を紹介するテレビ番組を思い出した。
「枕草子」を紹介するもので、その一節「説教の講師は」をとりあげて、現代風に脚色して、マンガと現代口語(ギャル語?)訳をつけていたもの。

NHK100min.jpg
説教の講師は、顔よき。講師の顔を、つとまもらへたるこそ、その説くことの尊とさもおぼゆれ。ひが目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪を得らむとおぼゆ。

(仏教の講師は、顔がよくないと。講師の顔をじっと見守ってしまうくらいだと、お話も尊く思われてくるわよね。わき目をふると、すぐ忘れちゃうから、醜いのって罪なんじゃないかしら。)


昔見た番組が何だったかは解らなかったが、調べると「100分で名著」というNHKの番組があって、これもこの話をとりあげたらしい(写真)。

江戸時代には、大奥女中が美僧と密通した事件とかもある(こっちはちょっと淫靡な感じがしてしまうが)。

女犯は破戒です。いくら女房衆がキャーキャー言っても、親鸞の前の時代に、妻帯する坊さんなんかいなかっただろうなぁ。というか、坊さんが妻帯しているなんて日本だけだ、というような話を聞いたことがある。
(理趣経というのもあるけど)
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