「平家物語の女性たち」(その2)

昨日に続いて、永井路子「平家物語の女性たち」について。

さて、一昨日とりあげた兵藤裕己「平家物語の読み方」では、建礼門院は源氏物語の浮舟のイメージに重なるという指摘があった。
本書でも、源氏物語とイメージが重なるところの指摘がある。
それは、小督を源仲国が探し訪ねるシーンである。永井氏は次のように言う。
Sagano_no_tsuki.jpg  しかし、不満はあるにしても、この「小督」の巻は、『平家』の中で、最も美しい部分の一つである。秋の月の夜、物さびしい嵯峨野の小屋、琴と笛――。帝とその恋人を語る舞台装置は、絵のように美しく、そして悲しい。
 ところで、この部分を読むとき、ちょっと頭に浮かべていただきたいことがある。それは、『源氏物語』の第1巻「桐壺」の巻である。最愛の恋人、桐壺更衣に先立たれた帝は、秋の夕暮、物思いに沈みながら、更衣の生んだ皇子(源氏)を思い出し、更衣の母の侘住いに使いをやる。使にゆくのは靫負命婦という女官である。彼女は、更衣の母に会い、しみじみと語りあい、帝への返事をもって帰って来る。帝は寝もやらず待っておられて、その返事に涙される。



これを、単純に『源氏』のまねと思っていただいては困る。作者も原典を知っているし、読者にもその知識のあることを期待しながら話をすすめてゆき、その事によって、さらに物語の内容を豊かにする、というやり方は、日本の文学の中ではよく行なわれていることだからだ。

a90730764a572878d5914a80159f1dd8.jpg 「源平」というときの源氏ではないが、源氏物語と平家物語にそういう関係があるというのもおもしろい。
なので、私もイメージの重なるところがないか、いろいろ考えて見たのだけれど、どちらもきちんと読めていないからか、なかなか難しい。
というか、そもそも源氏の女性たちが描かれるのは、男との恋愛(人間関係の悩みも恋愛に起因するもの)ばかりで、その心情・内面に重点がおかれるように思う。

それもやたら細かく、執拗なぐらいネチネチと(与謝野源氏だと特に)。

対して、平家物語は、上に見たように女性たちの内面描写はあまりないのではないか。それが永井氏のいうような平板で類型的という評価になるのでは。読者は、物語の描写からだけでなく、自身で彼女たちに共感しなければならないように思う。

もちろん優劣ではなくて、描かれる場所が違うわけだ。源氏物語に、平家の女性たちが経験するような、生きたまま裂かれるような劇的な女性っているだろうか。
浮舟の悩みは、平家の女性たちの悩みとは随分性質が違う。

ところで「建礼門院には浮舟のイメージが重なる」についてだが、永井氏によれば、灌頂巻における建礼門院の姿であるという。
永井氏は、灌頂巻は平家物語本編に後から付け加えられたものだろう、あるいは「女院物語」というような別の作品があって、平家物語にとりこまれたのかもしれないという。
というのは、建礼門院が「きちんと」描かれているのは灌頂巻だけで、それまでの兼礼門院については、素直に評すれば、こんな酷い描かれ方だという。
 父に言われればそのまま天皇にとつぎ、そのまま男の子を生み国母ともなるが、いったん落目になれば素手でそれを支える才覚もなく、言われるままに都を落ち、まわりが死ねといえば死んでもみせる。しかし本心から堅い決心をしてとびこんだのではないから、すぐ助けられてしまう。

111087ukifune.jpg このイメージだと、はかなさという点では通ずるものはあるものの、自分というものをもたず、周囲に流されるだけ、父に言われて源氏に嫁ぐ、女三宮のほうが近いかもしれない。浮舟は自分の意思で二人の貴公子から逃げて入水しようとする。

もっとも薫と匂宮の間で、しかも匂宮には強引に抱かれた上で、くよくよと考えて、どうしようもなくなって逃げるわけだから、浮舟も本当の意味で自分の意思があるとは言えない。
一方、女三宮も柏木に恋い焦がれたわけではなく、ただずるずると抱かれるわけで、この二人、そういう点では良く似ているわけだが。

源氏の女性なら、やっぱり六条御息所や朧月夜が、私には魅力的だなぁ。(どっちと付き合っても破滅しそうだけど)
やはり、源典侍がええなぁ。


建礼門院は助け上げられてからすっかり悟って、別人のようになるわけだ(灌頂巻)。

何があったのか?
壇ノ浦夜合戦で自信がつき、目覚めた(何に)?
(ジョイン=女院に無礼であろうと書こうとしたら漢字変換で違うインの字が出るので困る)


平家物語に出てくる女性たちはほとんど、はかない女性なのだが、その中にあって、一人だけ、骨太の女性がいる。
衆目の一致するところ、二位の尼時子である。

(本書でとりあげられていないが宗子もなかなか。 頼朝の助命嘆願は失敗だったが。)

ただ、そのため、逆に、はかない平家の女たちのようには注目されないのかもしれない。

〈時子〉〈徳子〉
源義経(1966)長島丸子鳳八千代
新・平家物語(1972)中村玉緒佐久間良子
草燃える(1979)岩崎加根子生田悦子
義経(2005)松坂慶子中越典子
平清盛(2012)深田恭子二階堂ふみ
私には「新・平家物語」の中村玉緒の印象が強い。先年の「平清盛」の深田恭子は可愛すぎて。

右表に、昨日同様、大河ドラマで時子を演じた女優を一覧してみた。


やはり日本人として生まれたからには、平家物語を通読したほうが良いのかな。
といっても語り本系、読み本系、どっちを選んだらよいのだろう。

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「平家物語の女性たち」

81gsEYwM5L.jpg 昨日の「平家物語の読み方」に続いて、今日は永井路子「平家物語の女性たち」について。

実は平家物語は、原文はもちろん現代語訳も、通して読んだことはないけれど、有名な場面は中学・高校の教科書に載っているし、何度もドラマ化されているから、多くの段について知識はある。
それに、平家物語は戦記文学・歴史文学だから、歴史の本を読んでいれば、物語についての知識も得られるというものではある。

しかしながら、歴史の本では、戦いの様子や主要な(つまり高位の)女性については記載されるけれど、軽い身分の女性はまずとりあげられない。
しかし、平家物語には、そうした女性のエピソードがたくさんある。

男性でも、たとえば薩摩守忠度と俊成の話とか、熊谷直実のその後とか、歴史の本では扱われないエピソードはたくさんある。これらは「物語」であり、講談や土地々々、名所旧跡に付随する物語として生きている。


恋人たち 
祇王 祇女 仏御前
葵女御 小督局
千手前
横笛
 
妃たち 
祇園女御
二代后
 
人妻たち 
小宰相
維盛の妻
大納言典侍(佐)
 
2人のヒロイン 
建礼門院
二位の尼 時子
つまり、本書には、普通に歴史の本を読んでいても得られない、しかし、ドラマなどではたびたび目にする話が詰め込まれているわけだ。
これらは、清盛の残酷さを描いたり、物語に余情を与えるものになっている。
「源氏物語」でも、主ストーリーと、エピソード的巻があるとされる。物語のひとつの形なのだろう。

だからということでもないだろうが、本書では、平家物語に史書としての重きを置いてはいない。
最初の「祇王 祇女 仏御前」は、いずれも実在したかどうかわからない。この名前が古文書にあることはその通りとしても、そうした名前の白拍子がいたということでしかなく、平家物語に出てくる彼女たちそのものであるということにはならない。

物語を色づけるキャラクターとして彼女たちがいた。同じような存在として、千手前や祇園女御がいる。

祇園女御はかなりややこしい存在。その名はたしかに当時の史料に残るのだけれど、平家物語にあるような暮らしをしたのか、そもそも忠盛に下げ渡されたのかは多いに疑問とする。


というわけなのだけれど、著者は平家物語作者の描写力に対してはかなり辛口の評価をする。
「祇王 祇女 仏御前」には次のような一節がある。
 第一に物語の筋が、あまりにも常識的な仏教説話でありすぎる。現代の人間はこうしたお悟りの世界には、始めから不感症なのである。
 第二に登場人物が、あまりに類型的だ。祇王も仏もとぢもそこには何の個性も感じられない。
 かろうじて仏には、若い女らしいドライさ、気の強さを感じさせるが、個性的というほどではない。またとぢにいたっては、あまりに通俗的常識的な母親である。
 特にこの巻の最大の欠陥は、平清盛というその人の性格を全く捉えていないことであろう。

永井氏は清盛ファンかもしれない。


このように、女性たちの描き方が平板で、個性が感じられないという批判があちこちにある。外形的なものが淡々と描かれ、内面の心の動きが描かれていないというのである。

その一方、平家は、語り物だということを考えると、違う評価になるかもしれないと言う。
 私は近頃になって、何度か古曲の伝統を伝える検校たちが「平曲」を語るのを聞いた。はたして現存の曲が、そのまま全盛時代の「平曲」そのものであるかどうかはわからないが、単調ながら、何か神秘的な響きを持つ調子で語られるとき、活字の上ではいかにも彫りが浅く類型的に見える彼女たちが、ふしぎな翳をひきながら、鮮明にうかびあがって来るのではないかと―残念ながら私の聞いたのは祇王のくだりではないので、想像をめぐらせるだけでしかないのだが、少なくともそんなふうな気がした。
 ここに「語り物」と読む文学の差がある。その意味で、『平家』はいわゆる小説と同じに扱えないのである。

なるほど、語りは、使われている言葉としては豊かなものではないことが多いはずだ。
劇の脚本は、名台詞はあるにしても、だいたい短い。
語り物は、演じられることがあわさって本来のものになるのだろう。

「平家物語の読み方」

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理りをあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつゐには滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。
 
 七五調と、対句仕立ての美文が、この物語の理解を方向づけている。「諸行無常」「盛者必衰」などの仏教語彙が、その詠嘆口調とともにつよく印象されているのだが、しかしここで説かれる「無常」の意味内容は、ふつう一般に考えられているほど自明なものではなかった。
 まず、みぎの一節が受容された時代の共通理解を復元してみたい。
 祇園精舎は、釈迦に帰依した須達という長者が、釈迦に献じた寺の名。仏典の『祇園図経』等にみえる話だが、その一角には、僧侶が臨終をむかえるための無常堂という建物があり、建物の四隅に吊るされた頗梨(水晶)の鐘は、病僧の死期がせまると、つぎの偈(仏典中の歌謡)を鳴りひびかせたという。
兵藤裕己「平家物語の読み方」について。

平家物語は祇園精舎ではじまる。そして、本書の第一章も祇園精舎である。
学校の国語の授業では、冒頭のこの名文によって、平家物語全体を通じる「無常観」が鮮明に打ち出されると習う。

それが間違いというわけではないけれど、そう単純なものでもないらしい。
まず、この名文、美文には、下敷きになったものがあるのだそうだ。
諸行無常 諸行は無常にして
是生滅法 是れ生滅の法なり
生滅滅已 生滅、滅し已りて
寂滅為楽 寂滅なるを楽と為す
 
 大意は、生まれ滅んでゆくこの世のいっさいのものは無常であり、生滅無常の法を滅した寂滅(涅槃)の境地こそが真の常楽である、というもの。
 釈迦の入滅前後の事跡を記した『涅槃経』所出の著名な偈文である。無常堂の鐘の響きに、この四句偈を聴いた病僧は、たちどころに死の苦痛や恐怖から解放されて、やすらかに往生をむかえることができたという。

本書では、

釈迦の入滅前後の事跡を記した『涅槃経』所出の著名な偈文である。無常堂の鐘の響きに、この四句偈を聴いた病僧は、たちどころに死の苦痛や恐怖から解放されて、やすらかに往生をむかえることができたという。

とあり、著名なものだそうだが、恥かしながら私は知らなかった。

61Qj-4pWV1L.jpg 平家物語の作者(一人ではないだろう)がどこまで意識していたのかわからないけれど、涅槃経偈文では「生者必滅」であり、平家物語は「盛者必滅」であると、本書では指摘される。
もちろん違いはある、平家物語の作者も知っていただろう。
しかし、それを聴く者は、この違いには気づかなかったかもしれない。
違いに気づいても、こんなふうに考えたのではないか。

平家の勢いも結局は衰える。それは生きている者がいずれは死ぬのと同じことだ。そう違う話ではない、と。


しかし、ここに微妙なずらしを感じ取ることもできる。本書はそう見ている。
つまり、生きとし生けるものすべてが滅するとは言っていない、盛者、驕れる者が滅びると言っている。つまり平家は滅びるべくして滅びたという見方である。

どちらが正しいということではないのかもしれない。
聴き手によって、どちらにも受け止められる。重なるイメージ、そして微妙にずれて重なるイメージ。

はじめに―歴史の時間と物語の時間
 
第Ⅰ部 歴史の構想
第一章 祗園精舎
第二章 清盛と重盛
第三章 頼朝の挙兵
第四章 源平交替史
 
第Ⅱ部 反転する世界
第五章 終末の不安
第六章 怨霊・天魔・物の怪
第七章 テクストの流動
 
第Ⅲ部 平家物語の生成
第八章 前「平家」の発生
第九章 鎮まらざるもの
第十章 悪人の救済
第十一章 建礼門院の物語
 
付録 琵琶法師の位置
身体の刻印/穢れと聖性/異形の王子神/「伊勢平氏はすが目なりけり」/母と子の神/語りの主体
あとがき
解説 音に聴け、平家の声を 木村朗子
昨日、どうしても平家物語には、平家を残虐非道の悪になりきれず、むしろ滅びの哀感があって、雅に感じてしまうというように書いた。清盛の悪漢ぶりも、男衾三郎みたいに、血なまぐさい暴力というより、現代でも実力閣僚にいそうな傲慢オヤジぶりではないだろうか。

本書では、小松宰相重盛を配することで、清盛の非道を際立たせようとしていると指摘しているのだが、殿下乗合事件では、重盛が清盛を諌めたのではなくて、事件の張本人は重盛だということがわかっているからかもしれないが、もう一つパンチに欠けるように思ってしまう。

もっとも、作者の意図はわかるわけで、ここで正義の源氏が登場すれば、その意図が達成されると思うのだけれど、肝心の頼朝があまり人気をとれるキャラでない。

そう思って見ると、「平家物語史観」というのは、単純な勝者の歴史ではなくて、たしかに平家は滅びるべくして滅んだのかもしれないが、実は源氏だって同じような運命にある、そして源平が交替して、朝廷をお守りするということになるのかもしれない。

本当は源平が並んでおたがいに牽制あるいは切磋琢磨して朝廷をお守りするのが理想であるわけだけれど。

結局、盛者=生者必滅のイメージのズレとダブりというのは、この物語の避けられない面なのかもしれない。

そして、滅するわけではないのだが、もっとも憐を誘うのは建礼門院だろう。
建礼門院の物語は平家物語のラストに、そして本書でも最終章に置かれる。
本書では、建礼門院は、源氏物語の「浮舟」とイメージが重なると指摘する。

私も宇治から遠くないところに住んでいるから、浮舟にはそれなりの思い入れもある。これで寂光院が宇治にあったら、できすぎというだろうか。

徳子も浮舟も入水する。そして助けられる。
自らの意思で生きるというより、周囲の思い、めぐりあわせに浮かされる。

この指摘には納得する人は多いだろう。
昔から、平家物語を聴きながら、建礼門院に浮舟のイメージを重ねていたに違いない。
源義経鳳八千代(1966)
新・平家物語佐久間良子(1972)
草燃える生田悦子(1979)
義経中越典子(2005)
平清盛二階堂ふみ(2012)

Wikipediaの歴史上の人物の項目には、その人を映画やテレビドラマで演じた俳優のリストが掲載されている場合が多いのだけれど、平徳子の項目にはそれがない。NHKの大河ドラマで演じた女優のリストを掲載しておこう。


昨日も書いたけれど、平家物語からは、雅な印象や、滅びの美学といった印象が強い。とても、勝者が都合よく書いた歴史書とは思えない。
これはやはり、鎌倉政権側の人を中心に作られたのではなく(逆に、吾妻鏡には平家物語の記述をひきうつしたようなところもあるというが)、王朝文化の残渣をいとおしむような人たちが中心になって書かれたのだろうと思う。
滅ぶことへの思いは、平家に対してだけではなく、そうした王朝文化に対しても向けられているのかもしれない。

入水

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「西郷どん」 17 西郷入水
大河ドラマ「西郷どん」、西郷と月照の入水のシーン。

入水(じゅすい)という言葉について、ちょっとひっかかるものがある。
もちろん、入水(じゅすい)が、海や湖沼、川への投身自殺であることに、全く違和感などはない。
そうではなくて、小学校の水泳の授業で、プールに入ることを「入水(にゅうすい)」と言うことについて。


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みなもと太郎「風雲児たちー幕末篇17」
 
NHK大河ドラマの回次も、風雲児たちの巻次も(たまたまだろう)17
私が小学校のときには、入水という言葉を聞いたことはなく、水に入れというような言葉使いしか記憶にない。
それが、いつしか「入水(にゅうすい)」という言葉が、学校現場で使われるようになり、親の方から、その言い方はないんじゃないかとクレームがついたという話を聞いたことがある。

学校の授業で一斉に水に入るというようなシーンは、昔からあったとは考えにくく、入水(にゅうすい)という言葉は、比較的新しい表現なのではないだろうか。
そして、入水(じゅすい)の方は、かなり昔から使われていたと思う。

そう考えると、言葉に鈍感な学校教育現場と、言葉に敏感な文化人の親という構図に見える。
こういう学校独特の表現というのはほかにもありそうだ。

というか、漢語的表現をしたがるところに問題がありそうな気もする。

「枝雀らくごの舞台裏」

Shijaku-rakugo_no_butaiura.jpg 小佐田定雄「枝雀らくごの舞台裏」について。

こちらはとりたてて詮索して聴いたりしていないのだけれど、舞台裏では細かい工夫・配慮がある。
それに乗せられる。

へたくそだと、そうはならない、話に乗って行けない。
上手(乗せる)の芸はわからないが、下手の悪いところはすぐにわかる。

滑舌が悪すぎる、
複数の登場人物を描き分けられていない、
会話のリズムが実際にあるであろうそれとは違う、
間のとりかたが悪い、

そして、こういう欠点が見当たらなければ面白く乗って行けるかというと、そうでもない。
つぶすのは簡単だが、きちんと演じるのは難しい。
音楽の演奏と同じようなものだ。

「舞台裏」では、枝雀という人の、その繊細さが語られる。
第2章の各節では、一つの噺をとりあげて、その簡単な筋立てが述べられた後、その噺にまつわるさまざまなことが語られる。
まえがき
第1章 持ちネタの変遷
第2章 枝雀精選48席―演題別につづる舞台裏噺
青菜/あくびの稽古/愛宕山/阿弥陀池/池田の猪買/いらちの愛宕詣り/植木屋娘/江戸荒物/延陽伯/親子酒/親子茶屋/替り目/くしゃみ講釈/口入屋/首提灯/高津の富/鴻池の犬/こぶ弁慶/子ほめ/鷺とり/さくらんぼ/算段の平兵衛/地獄八景亡者戯/始末の極意/蛇含草/崇徳院/住吉駕籠/代書/ちしゃ医者/つぽ算/鉄砲勇助/天神山/どうらんの幸助/時うどん/夏の医者/煮売屋/寝床/はてなの茶碗/一人酒盛/兵庫船/不精の代参/舟弁慶/饅頭こわい/宿替え/宿屋仇/幽霊の辻/龍さがし/おもいでや
第3章 音と映像と文字と
あとがき
噺の由来であったり、枝雀師がどう取り組んで、どこに工夫を入れたか。
あるいは直接、その噺に関わることでなく、話題が広がる。それがまた、そうだったのかと感心するもの。

たくさんあるエピソードの中から、一つだけ、英語落語ができたときのこと、有名な話かもしれないのだけれど、この本を読むまで知らなかったので、ここで紹介しよう。

枝雀師が英会話教室に通っているとき、担当講師に美女があてがわれたそうなのだが、枝雀師、彼女とはまったく話ができない。このあたり、私も同じである。
教室の先生は、日本の印象とか、いろいろ話題はあるでしょうと水を向けるのだけれど、枝雀師は「ききとうもない話はでけしまへん」と。
困った先生、それなら落語をやったら良えんじゃないですかと。
それではということで、件の美人講師の出身地(ペンシルヴァニアの片田舎)を訪れての「夏の医者」英語公演。
日本人を見たこともなく、怪しむ態度であった米国人と一気に気持ちが通うこととなったのだという。
Shijaku_Eigo_rakugo_CD.jpg

このエピソードをとりあげたのは、娘がホームステイしたときに友達になったボストンの女子がうちに来たことがある。そのとき、おみやげとして渡したのが、枝雀英語落語のCD「ホワイトライオン」と「愛宕山」だった。後で聴くと大うけだったそうだ。
⇒YouTubeで流れている"White Lion"


落語という芸は、関西人や江戸人には良くなじまれているものだと思うけれど、他の地域では案外、縁遠いもののようである。家人の実家の四国では、ラグビーと落語は、ほとんど知られていない。
「素人名人会」では、審査員の米朝師は、大阪(船場)、京都の言葉の微妙な違いにもうるさかったけれど、各地の言葉で落語をやるのも、この世界を広げるのに良いかもしれない。

なんで死なはったん。

ない

ある本を読んでいたら「たいくつきわまる」という表現があった。
これは漢字で書けば「退屈極まる」で、退屈な状態が極限にあるということだろう。

で、ふと思った、「たいくつきわまりない」という表現もある。
こちらは漢字で書けば「退屈極まりない」で、退屈な状態が極限を超えているということだろう。

ということで、後者は前者を否定しているのだけれど、意味としては同じである。

どちらのほうがより退屈なのかという議論もあるかもしれない。
論理的には後者のほうがより退屈と言える。なぜなら後者は無限を含意している。とはいえ、そもそも無限に退屈な状態というのはイメージできないが。


2018-03-23_095831-crop.jpgない」という表現は、「お座敷小唄」でも有名である。
富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も 雪に変りはないじゃなし」という歌詞で、「変りがない」であれば解るけれど、それが「じゃなし」ということは、変りがあるということなんじゃないか、それなら「変りがないじゃなし」ではなく、「変りがあるじゃなし」が正しいのではないかと。

この難問については、"「変りがない」じゃない?(isn't it?)"という付加疑問文だと、私は勝手に解釈している。

英語が出たところで、英語では否定疑問文というのもややこしいと思う。
< Isn't this proposition true? >に対しては、< Yes, it's true. >、< No, it isn't true. >となるだろうけれど、日本語では、「この命題は正しくないのですか?」と聞かれたら、正しければ「いいえ、正しいです」だし、正しくないなら「はい、正しくありません」である。けっして「はい、正しいです」とは答えない。

中学の英語の授業で違和感をもった覚えがある。<個人的には、否定の否定は肯定であるべきで、日本語のほうが論理的だと思っている。


英語の二重否定は、肯定になる場合もあれば、否定の強調に成る場合もある。
< I don't know nothing. >は、「何も知らないわけではない」だったり、「知らないものはない」だったりする。

何かの本で読んだ覚えがあるのだけれど、歴史的には否定の強調の方がアタリマエだったのが、否定の否定は肯定だと理屈を述べた学者がいたとか。

もっとも日本語も否定については曖昧で、英語なら、< All is not ~ >は「すべてが~というわけではない」で部分否定で一致するけれど、日本語で「全部~ではない」は曖昧である。

ところで「はしたない」という語があるけれど、これは「はした無い」ではなくて、「はした成し」であるという。
はした」とは端切れのことで、とるに足りないものにしか成らない(おやおやまた否定文)の意だという。

口のききかた

高齢者である知人男性が、郵便局へ何かの手続きをしにいったときの話。

窓口の職員(女性)が、その知人に対して、○○がしたいのね、××は持ってきた?という口調で応対したのだそうだ。 その知人はタメ口と表現していたが、これはタメ口というものではなくて、子供扱いというべきだろう。

この職員だけがそういう口のききかたをしているのではないそうだ。
別の日に、同じ郵便局へ行ったら、別の職員(女性)が応対したけれど、やはり同じような口調だったそうだ。

Rojin_to_kodomo_no_polka.jpg 知人は、高齢者ではあるけれど、まだ60代半ばというところで、特段、認知症を疑われるような挙動をするわけではない。

もっとも相手がお役所とかになると、変に委縮するらしいから、変な人と思われているだろうけど。

それはともかく、この郵便局では、高齢者には丁寧な応対をしようという職場教育をしているのかもしれない。

しかし、思うのだけれど、丁寧というのは、幼児語で対応することではないだろう。

昔、コンピュータ関係の入門書というのを目にしたとき、やたら丁寧というか、絵本のような言葉使いで書かれていて、子供が読者じゃないんだから、普通の日本語を使えば良いのではと思ったことがある。


実際、その知人は、こういう言葉使いで遇されることに対して―おそらくその場では何も言っていないだろうけど、かなり不快感を持っているようだった。
うるさい年寄りだったら、「年寄り扱いするな!」と、すごい剣幕で、怒鳴るところだろう。

「ちいさい言語学者の冒険」

広瀬友紀「ちいさい言語学者の冒険―子どもに学ぶことばの秘密」について。
岩波科学ライブラリーの一冊。
やはりこのシリーズにはおもしろい本が多い。

子供のなにげない行動を、そのままやり過ごすか、そこにヒトの精神の秘密を読み解こうとするか。
発達心理学とか、本書の場合は言語学とか、ベースになる知識・理論を持っている人が見れば、子供の心で何が起こっているのか、こんなふうに洞察できる、そういう本。

本書の参考文献にも上げられているスティーブン・ピンカー「言語を生みだす本能」は随分前に読んでいるから、本書で紹介される事例やその解釈は、同書で読んだ覚えのあるものも多い。

ピンカーの本は音声言語の枠を超えないで洞察されているけれど(この本を書いた頃のピンカーはチョムスキー理論にかなり肩入れしていたと思う)、本書が最初にとりあげているのは、「『は』にてんてんをつけたら何ていう」のように、音声と文字システムのギャップをとらえている。

有声音―無声音の対応関係は、「ぱ」と「ば」。古い日本語では「は」は「ぱ」に近い「ふぁ」音。古い表記では濁点は記されないからかな文字上では音の変遷は追えないけれど、日葡辞書のローマ字綴りには反映している。これも外国人に教えられるということの一つかもしれない。


言語の研究といえば音声言語をベースに考えるのが正統なのかもしれないけれど、だからといって文字システムを否定、あるいは無視するのでなく、本書のように、音声言語と文字システムとの乖離を観察することで、かえって(音声)言語の習得過程の秘密を垣間見ることができるということかもしれない。

音声言語習得という事象に、文字習得というバイアスをかけることで、見えなかったものが見える――文字システムが試薬の役割りをしているといったら言い過ぎか――ということかもしれない。
つまり、文字システムとの乖離が子供を混乱させる要因になっていること、そしてその混乱がなぜ起こるのか考えるわけだ。
(そもそも、子供は、音声言語でも、文字でも、そこにシステム構造を無意識に嗅ぎ取るのだろう。)

文字システムから書き起こしているからまずそれについて評したけれど、その後は、やはり音声言語が中心になっている。
「過剰適用」や「適用拡張」といったピンカー本で指摘されている英語での事例も、日本人の子供であらためて確認されているわけだ。

本書では深入りは避けているようだけれど、ピンカーが大胆に「本能」と表現し、言語を生み出す「遺伝子」を想定したように、それは人類に共通だという証拠とも言える。


また、本書では、言語の隠れた法則を気づかせてくれるのは、子供や外国人だと指摘している。
これも、音声言語のシステムと文字システムの乖離から言語の秘密が垣間見えるのと同様、母国語システムと日本語システムの乖離から、それぞれの言語の秘密が垣間見えるということだろう。

子供の「間違い」には、言葉に関するものに限らず、思わず笑ってしまうようなものがたくさんある。そして、それがかえって微笑ましく、ネットにもいろいろな事例報告がなされる。
本書の著者も、そうしたネット情報もいろいろ参照して、事例収集をしているようだ。

小学校のとき、国語のテストで「右手の反対はなんですか?」という問に「左足」と答えて×をもらった覚えがある。そのときは、なぜ×なのか理不尽だと思ったのだが、今では、そのとき先生はきっと噴き出していただろうなぁと思いだす。


書評はやけに堅苦しい書き方をしたけれど、おもしろおかしく読める本である。
そうそう、イラスト(いずもり・よう)も楽しく、秀逸。
chiisai_genngo_gakusha_hirose.jpg

まえがき
第1章 字を知らないからわかること
 「は」にテンテンつけたら何ていう?
テンテンの正体
「は」と「ば」の関係は普通じゃない
子どもはテンテンの正体を知っている
「は」行は昔「ぱ」行だった
字をマスターする前だから気づく
子どもと外国人に教わる日本語の秘密
数があわない
納得できない「ぢ」と「じ」
第2章 「みんな」は何文字?
日本語のリズム
日本語の数え方は少数派
子どもなりの区切り方
じつはかなり難しい「っ」
「かににさされてちががでた」
必殺!「とうも殺し」
第3章 「これ食べたら死む?」
        ――子どもは一般化の名人
「死む」「死まない」「死めば」―死の活用形!
規則を過剰にあてはめてしまう
「死にさせるの」
おおざっぱすぎる規則でも、まずはどんどん使ってみる
「これでマンガが読められる」
日本の子どもだけが規則好きなのではない
手持ちの規則でなんとか表現してしまおう
普通に大人をお手本にすればいいのに?
第4章 ジブンデ! ミツケル!
教えようとしても覚えません
教えてないことは覚えるのになあ!
ジブンデ! ミツケル!
「か」と「と」の使い方は難しい
結局、何が手がかりになっているのか
第5章 ことばの意味をつきとめる
はずかしいはなし
「ワンワン」とは?
「おでん」とは?
「坊主」とは?
どうやって意味の範囲を最初に決めるのか
どうやって意味を修正するか
モノの名前でなく動詞の場合は?
そもそも、どこからどこまでが単語?
ことばの旅はおわっていない
第6章 子どもには通用しないのだ
ぶぶ漬け伝説
子どもに通じるか
ことばにしていないことがどうして伝わるのか
500円持っているときに「ボク100円持っているよ」は正しいか
子どもも大人のような解釈ができるか
相手の心をよむチカラ
周りの状況をよむチカラ
第7章 ことばについて考える力
ことばを客観的に見る
音で遊ぶ――しりとり
意味で遊ぶ――「踏んでないよ」
構文で遊ぶ――「タヌキが猟師を鉄砲で」
解釈で遊ぶ――「大坂城を建てたのは誰?」
音で遊ぶ(その2)――「がっきゅう○んこ」
ことばの旅路をあたたかく見守ろう
あとがき
もっと知りたい人へのおすすめ書籍
        参考文献・引用文献
カバー・本文イラスト=いずもり・よう
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ネーミングの妙

P_20171223_100028-crops.jpg おもしろい名前の飲食店がある。
社員食堂」という。

この前をときどき車で通過するので、だいぶ前から気づいていたのだけれど、何しろただの通過点で、利用することはおろか、今まで写真を撮ることもなかったのだけれど、先日、渋滞していたおかげで、ようやく写真をとることができた。

車窓からあわてて撮っているので、画像が傾いているけれど、「臨場感」のため、補正せずに掲載。


この店の向いには、同じ経営とおぼしき飲食店もある。
さて、どちらのほうが客が多いのだろう。

以前、「総務部」という名前の会社があると聞いたことがある。
伝票の整理とか、旅費の計算とか、多くの会社の総務部がやっている仕事を代行する会社らしい。
電話を受けたときにはどう返事するのだろう。「総務部です」ではとおりが悪そうだから、「株式会社総務部です」とでも言うのだろうか。

普通名詞を固有名詞として使っているわけだけれど、商標登録には制限はないのだろうか。
自治体名とか、公的機関と錯覚させる名前は多分アウトである。
「株式会社 消防署」なんてのもアウトだろう。消火器を売りつける時に「消防署のものです」では具合が悪い。

そういえば、「のん」という名前の女優がいる。
本名は能年玲奈で、以前はこれを芸名としていたのに、プロダクションともめて、本名なのに名乗れないという不可思議なことが起こった。本人はこれで納得し、気持ちの整理もできているのだろうけれど、訴訟にでもなっていたら、裁判所はどう判断したのだろう。
「ノン(non)」かな。

天ぷらそばのツライとこ

Wani_no_marukajiri.jpg天ぷらそばのツライとこ」というのは、
東海林さだおのエッセイ集「ワニの丸かじり」におさめられている一話である。
私は読んでいない。

その読んでもいない本の書評を書くことにしたのは、見ていたテレビドラマがとりあげていたから。
ドラマの原作とかそういうものではない。
ドラマの中の小道具として使われたものである。

ドラマはこの声をきみにというNHKが放送した連続もの(昨日、最終回が放送された)。
ノット・セオリーが専門の数学者が主人公で、その専門にかこつけてか、妻との離婚やら朗読教室の女性講師との絆やらの人間関係を描くもの。

ノット・セオリーについてはほとんど知らない。紐の位置関係を分類するものだけれど、その成果がどんなもので、どういう応用があるのかなど、全く知らない。なお、ドラマを楽しむのにノット・セオリーの知識は不要である。


vlcsnap-2017-11-16-15h15m20s76b.png さて、主人公の通う朗読教室の先輩から、自分が参加する朗読会に、意味深な言葉で招待される。
大人の男だけの朗読会で、欲望をむき出しにした会であるという。

そしてその先輩が朗読するのが、「天ぷらそばのツライとこ」なのである。
そのシーンがNHKの番組ホームページにアップされている(【朗読シーンのご紹介】天ぷらそばのツライとこ)。

YouTubeにも転載されている


vlcsnap-2017-11-16-15h17m37s174.png この科白というか朗読テキストを読んでみたくなったわけである。

実は、「天ぷらそばのツライとこ」でググったときにヒットした本のなかに
東海林さだお「偉いぞ!立ち食いそば」というのがあって、これに収録されているのだろうと勘違いして、こちらを図書館で借り出したのだ。

ところが、いつまで読んでもドラマで使われたテキストは出てこない。
この本を下敷きにして、脚本家がテキストを新たに書いたのだろうかと考えていたのだが、どうもそうでもないようなので、「偉いぞ!…」を読み終わってから、再度検索したら「ワニの丸かじり」に収録されていることがわかったという次第である。

もともとがテレビで放送された朗読シーンである。
目的の本は読んでいないわけだが、番組から(実際にはNHKの番組ページにアップされている動画から)、私が聴き取ったテキストを掲載しておこう。
最初なんとなく頑なな態度を見せていたかき揚げが、どんぶりの底で苦労を味わったせいであろうか、すっかりうちとけ、腰も低く、うってかわってやわらかくなっている。
苦労が彼を一回りやわらかくしたのだ。
周辺のつゆはいっそう脂っこくなっている。
このつゆをここで一口味わう。

浮上したかきあげはしばらくするとやわらかくなりすぎて、全身がぼろぼろになってくる。
苦労しすぎたのかもしれない。
この、ぼろぼろが、うまい。

ぼろぼろは次第にとろとろになり、ふわふわになって、もろもろになる。
このもろもろが、うまい。
このもろもろをそばとつゆといっしょにすすりこむと、うまい。

天ぷら油を吸った小麦粉のかたまりが、さらにそばのつゆを吸い込んだおいしさ。

一度かき揚げに吸い込まれた天ぷら油が、かき揚げの味を含んで脱出し、つゆと合体し、脂を含んだ小麦粉のかたまりと合体した、おいしさ。

あつく、うまく、しばし恍惚となる。

もろもろの間をぬって、ときどき紅生姜や、さくらえびや、たまねぎの味も、かすかにする。

真に迫る描写、そして朗読が、うまい。
ドラマで描かれたとおり、たしかにそば屋に走りたくなる。

が、待てよ、私も駅の立ち食いそばって行ったことがあるけれど、そんなに美味しかったか?
駅のそばで出汁の香りに惹かれる、それは良くある。
そして思いを決して、のれんをくぐって、落胆まではいかなくても、こんなものだろうなで終わる。

そば粉がどのぐらい入っているのか、小麦粉と黒の着色料だけでできているのではないかと思えるそば。

その小麦粉っぽいそばと、やはり小麦粉の衣ばかりの天ぷら。
単調で、同類相食むような醜さ。

いかにも濃縮原液を薄めた風のつゆ、質の悪い天ぷら油でぎとぎとになって、
そのぎとぎとが衣の残骸のもろもろと一体になって、ヘドロのように沈んでいる。

その頃にはつゆもぬるくなって。

それに私は、そばといえば冷たいもののほう、ざるやおろしが好き。熱いかけなら、ニシンそばに限る。
同系統の食べ物なら、天ぷらうどんであり、かきあげうどんであり、きつねうどん、つまりうどんである。
(昔の宇高連絡船の立ち食いうどんはおいしかったなぁ)

関西の駅にある立ち食いそばと、東京の立ち食いそばは違うのかもしれない。
もっとも、東京でも駅のそばは食べたことがあるけれど、エッセイが書けるほどとも思えなかったが。


修飾語ばっかり

若い頃、上司から「君たちの書いた文章は修飾語ばっかりや。それを抜いたら何にも残らん」と注意を受けたことがある。
もちろん、そこは素直にその通りだと反省した。

修飾語を使っている場合は大きく分けて二通りある。
一つは、その修飾語が意味しているところの実態があり、それを逐一記述すると文章が長くなってしまう場合。この場合は、具体例を記述することで、それらが含意する意味がわかる。
もう一つは、実はそうした具体例が思いつかないので、修飾語でごまかしているとしか言えない場合。

もちろん前者については、この修飾語は何を意味しているのかと聞かれたらきちんと答えられるのだけれど、後者の場合はそうはいかない。
ある人などは「君の文章を修正したら、最後の“。”しか残らんかった」などと言われていた。

Koike_Yuriko_Twitter.jpg 政治家の言葉も、この二つを注意深く聞き分ける必要がある。
日本に希望の星としてひとりひとりが輝くように私も必要なお手伝いをしたい。皆さんが、思う存分日本国民のために働けるようなそういう後押しをしていきたい。
何を言っているのか、言いたいのか、さっぱりわからない。

昔、ある人が「この事業が失敗することがあれば、そのときは、私はこの事業からきっぱり手を退く」と力強く言っていたのを思い出す(これでは「逃げ恥」だと思うが、単なる言い間違いだったかもしれない)。


Abe_Shinzo_Twitter.png もう一つ。
ただスローガンを重ねるだけでは、社会を変えることはできない。具体的な政策なくして、そのスローガンを現実のものとすることはできない。具体的な政策を提案し、実行し、そして結果を出していく決意だ。
前に「テンプレート人間」の記事を書いたけれど、これは典型例。
テンプレートは修飾語だけでできている。もちろん、この発言の裏には深謀遠慮があるのだろうけれど。

中味のない修飾語を連ねて文章を書くことを、「筆がすべっている」と表現したりする。私も上司の教えを守って、後輩などが書いた文章を読んだ時、そうした疑いがあるときは、この言葉の意味は何だ、具体的には何だ、と聞くことにしている。

ダラダラとつかみどころのない文章は「議会答弁」と言われる。しかし、本当の議会答弁でそんな文章だったら、曖昧な修飾語は、議員の突っ込みが入りやすい脆弱な部分になる。(ただし、時間消費のみを目的とするのであれば、作戦としてはありうるだろう。)

大昔、O府の副知事を務めたN氏は「役人はどの分野でも素人だが、文章だけはプロでなければならない」と仰ったそうだ。これは決して曖昧な修飾語をつないで文章を仕立てるという意味ではない。

声に出して読みたい日本語

koenidashiteyomitai.jpg 齋藤孝「声に出して読みたい日本語」について。

最初の巻が出版されたのは2001年だから、もう16年も前のこと。
当時、大変話題になったベストセラーだけれど、今まで読んだことはなかった。図書館の棚で見つけて、どんなものか、今更だけれど、見てみることにした。
知らなかったのだけれど、これは1冊でなく、最初の本が好評だったからか、続編が出され、全部で5巻あるらしい。

最初は単発で企画されたのだろう巻番号は付いてなくて、次から、2、3、4、5となる。他にも、子供用とか、関連する本が出ているし、音読されたCDもあるようだ。


著者が体を動かしながら、声を出してる姿とかをテレビで見た覚えがある。
声を出して読むことの意義は、この本が出る前からいろいろ言われていると思う。リズムを感じようとか、健康に良いとか。

で、せっかく借り出したのだけれど、本の趣旨には反し、家でもやっぱり声を出して読んだりはなかなかできるものではない。
傍に人がいたらやかましいと言われるだろうし、一人で声をだしているのも変な気持である。
結局、他の本と同じように黙読することになる。
同好の士が居て、声を合せてとか、競ってとか、そういう場がないと、音読というのはなかなか難しい。(実際、著者はそういう読み方を推奨している)

それでも頑張って、楽譜を読むように、口の中で呟くようなことをして、なんとなく声を出したつもりになっている。

口の中でぶつぶつ言うのも、口や舌、喉の動きを意識していて、音読と同じ時間・リズムを刻むから、まったく無駄ではないと思う。もちろん声を出すのと比べたら、しょぼいものかもしれないし、本書の趣旨には合わないだろうけれど。


1 腹から声を出す
2 あこがれに浮き立つ
3 リズム・テンポに乗る
4 しみじみ味わう
5 季節・情景を肌で感じる
6 芯が通る・腰肚を据える
7 身体に覚え込ませる・座右の銘
8 物語の世界に浸る
本書が言う音読というのは味わうためのものである。普通、本を読むときには音読などしない。
音読は、その言葉のリズムに沿うから、読むのに言葉が発せられるのと同じ時間がかかる。つまり、速く読めない。

大村はま先生が何かの本に書いていたと思うけれど、小学校では授業に音読が取り入れられるが、中学校になるとクラスで音読するようなことはしなくなる。それは、中学校は大人になる(社会に出る)準備をするところで、社会に出たら、たくさんの文書を読まなければならなくなる、それを音読していたのでは量をこなせない、だから黙読に慣れさせる必要があるというような趣旨だったと思う。

私は小学校の一斉音読の授業が嫌いだった。変な節が付いて、原文の雰囲気と無関係な音になるように思ったから。一人で読む、これは悪くない。これは音読というより、朗読というべきものだろう。


そうした鑑賞ということではなくて、素人考えにすぎないのだけれど、音読したほうが良いと思うテキストもある。
それは古文、とりわけ和歌である。もちろん和歌は声に出して鑑賞するのはごく普通のことだろうけど、そういう音楽的鑑賞という以前に、音読することでテキストの組み立てがわかりやすくなると思う。
そう思う理由だが、古文では歴史的仮名遣いが使われているわけだが、音読すると、かな文字という視覚情報に邪魔されず、音として感じることで、古語と現代語がリンクしやすくなり(言葉の派生関係など)、意味をとりやすくなるからではないだろうか。
だから、和歌に限らず物語類も含め、古文のテキストは音読することで意味がとりやすくなるように思う。

もちろんこういう目的の「音読」ならば、口の中でぶつぶつ言うということでもよいと思う。


それにしても本書でとりあげられているテキストは、なんともものすごい断片の寄せ集め。
バナナのたたき売りである。

菊の節句

iwashimizu_kikkasai.jpg 今日は重陽の節句菊の節句ともいう。

菊の節句というのは、菊の開花時期だからそういうのだけれど、それは旧暦でのこと。今年の旧暦九月九日は、新暦10月28日であり、たしかに菊の盛り。

あちこちで菊花祭という祭事があるけれど、10月に開かれるものが多いが、これは菊の季節を重視したものだろう。一方で、新暦の9月9日に菊花祭をするところもある(石清水八幡宮)。両立させるなら旧暦の九月九日にやれば良さそうに思うけれど。

菊といえば皇室の紋でもあるけれど、Wikipediaによれば、これを採用したのは鎌倉時代、後鳥羽上皇だという。
百人一首に
凡河内躬恒
心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花
(秋277)
という歌があるけれど、定家は、後鳥羽上皇への思いをもって百首を撰したという(あやしげな?)説を聴いたことがある。この歌の「おきまどはせる」は「隠岐惑わ:せる」の意であり、「白菊」は後鳥羽上皇を指すのだという話だった。

この躬恒の歌は古今集に収載されているが、古今集には菊の歌は11首あるという。ところが万葉集には菊という言葉はでてこないのだそうだ。
万葉集を全部読んだわけではないけれど、愛読する斎藤茂吉「万葉秀歌」には菊の歌はなかった。野菊は日本にも自生していたが、今の鑑賞用の菊は中国由来だというから、渡来したのが奈良時代以降ということなのかもしれない。もしあればきっと歌われていただろう。

そういえば梅も渡来植物で、こちらは菊より早いのだろう(万葉集にも多く歌われている)。


その菊だけれど、古今集では、菊の色が変わるのをおもしろいとして詠んでいる歌がある。

よみ人知らず
色かはる 秋の菊をば ひととせに ふたたびにほふ 花とこそ見れ
(秋278)

これは躬恒の歌の次に配されている。 「色が変わるといえば、色あせることをいうのが普通だが、菊は白い色の盛りも美しいが色の変化も美しい、と少し常識の逆を行く歌。」と高田祐彦「新版 古今和歌集」には解説されている。

私は、白菊の色が変わるといえば、茶色く変色していくイメージの方が強くて、あじさいのような色変わりとして感じたおぼえがないのだけれど。


ただ、古今集には、菊の色が変わることを詠んだ歌は他にもあって、それを美しいとみたのか、むなしいと感じたのか、そのあたりはよくわからないが、枯れるというより、色がうつろうという意識が共通してもたれていたのかもしれない。

大江 千里
植ゑし時 花待ち遠に ありし菊 うつろふ秋に あはむとや見し
(秋271)

平 貞文
秋をおきて 時こそありけれ 菊の花 うつろふからに 色のまされば
(秋279)

貫 之
さきそめし 宿し変れば 菊の花 色さへにこそ うつろひにけれ
(秋280)

岩波書店が直木賞を初受賞

tsuki_no_michikake.jpg 先日、今年の芥川賞・直木賞の受賞作が発表された。
芥川賞は沼田真佑『影裏』(文學界5月号)、直木賞は佐藤正午の『月の満ち欠け』(岩波書店)である。

あまり小説を読まない私としては、ふぅ~んという程度で聞きながしていたニュースだけれど、ネットにおもしろい記事が出ていた。
岩波書店が直木賞を初受賞 書店員が頭を悩ませている理由とは?

タイトルですぐにピンと来る、岩波なら書店買い切りだから、どれだけ仕入れるとかで悩むだろう。

というか、岩波が新作小説(岩波だったら「文学」と言うべきか)を出版しているなんて、全く虚をつかれた思い。
岩波の小説といえば、漱石全集(我が家にも父が買いそろえた新書版全集があった)とか、評価の定まった古典的なものとか、岩波子どもの本とか。

子供の頃から、良い本屋とは岩波を置いている本屋だと聞かされてきた。
一時、ツタヤに岩波がなく、インチキ本屋だと思ったことがある(今は置いているところもあるようだ)。
学生時代、友人との待ち合わせ場所は、本屋の岩波コーナー(ジャリやビジネスマンなどが居ない)。

岩波にはトンデモ本はまずなく、きちんと吟味された本が出版されていると思う。「種まく人」は信頼のマークである。
さまざまな意欲的な企画が実行される。そんなに売れそうもない本なのに。
出版文化という言葉は、岩波のためにあるようなものだと思う。

「○○新書」というのは、今ではあちこちの出版社が出しているが、中にはこれって、著者の妄想じゃないかというようなものを平気で出版しているのもある。

岩波新書は読み応えのあるものが多い(ただし、どちらかというと反権力が多い)。


「○○文庫」というのも、私が学生の頃までは、岩波文庫、角川文庫が双璧だったと思う。もちろん収録されているのは、重厚な古典中心(笑い話のようなものでも古典文学として)。その後、あちこちからうすっぺらな文庫(新作のハードカバーが文庫に装丁されたもの)が「軽い」読み物としてもてはやされ、なんと「岩波も文庫を出しているんだ」と同類視する輩がいたりする。

岩波文庫で一番薄いのは、「共産党宣言」(マルクス、エンゲルス)と、「数について」(デデキント)ではないか。(後者は、「截断」を使って有理数を実数に拡張する論文。副題:連続性と数の本質)


『月の満ち欠け』も、いずれ岩波文庫に収録されるんだろうか。

私が源氏物語を書いたわけ

P_20170626_193808_vHDR_Auto-crops.jpg 山本淳子「私が源氏物語を書いたわけ 紫式部ひとり語り」について。

前に、「枕草子のたくらみ」で、この著者の本をとりあげた。
執筆年次からすると、本書のほうが先のようである。

この著者の本は、その前に平安人の心で『源氏物語』を読むも本ブログでとりあげた。
日本の古典文学、とりわけ女流文学に関しては、この先生の本が、なんだか安心して読めるような気がする。


本書は、全編、紫式部の語りという形をとっているのだけれど、私は、この本はもっと学術的な解説がなされるものと思っていた。
しかし、本書には、著者としての説明はなく(あとがきはあるが)、いきなり紫式部としての言葉から始まるので、そうした解説物を想像していた私としては、少々、面食らった。

私が予想していたのは、紫式部の「ひとり語り」と、それに対する著者の解説を併記するようなもの。
源氏のテキストはもとより、紫式部日記や家集、その他、同時代の文献などを駆使しながら、紫式部にそう語らせた根拠を、学者目線で丁寧に論証するように書かれているのだろうと、勝手に思っていた。


会者定離―雲隠れにし夜半の月
矜持―男子にて持たらぬこそ、幸ひなかりけれ
―春は解くるもの
喪失―「世」と「身」と「心」
創作―はかなき物語
出仕―いま九重ぞ思ひ乱るる
本領発揮―楽府といふ書
皇子誕生―秋のけはひ入り立つままに
違和感―我も浮きたる世を過ぐしつつ
女房―ものの飾りにはあらず
「御堂関白道長妾」―戸を叩く人
汚点―しるき日かげをあはれとぞ見し
崩御と客死―なほこのたびは生かむとぞおもふ
到達―憂しと見つつも永らふるかな
ところが、そうした解説は、紫式部の語りの中に溶かし込まれていて、読者がそれを察知するように仕向けられている。
こうした著者のたくらみは、語りと地の文を往き来する面倒を減殺する点では成功している。読み進むにつれて、紫式部の精神の動きも見えてくるようになっているからだ。
ただし、どうしても紫式部の語りの形をとるから、著者にもわからないことは、紫式部にもわからないこと

隠しておくという形や、想像にまかせるという形で語られる。
道長との仲についてなどがそう。

として語られる。(だから、小説じゃないというわけだ)

「枕草子のたくらみ」と本書で、やはり印象的なのは、定子と彰子。
定子については、理想の女性、ただし悲劇の中宮として、そして死後も宮廷から惜しまれた存在だったというのが著者の評価で、私もそうなんだろうと思う。
対して、彰子は、幼いうちに中宮となった、子供子供した、どちらかと言えば存在感の薄い女性のように思っていたけれど、著者は、ちゃんと成長し、必ずしも父道長のいうがままになっていたわけではない、宮廷権力の一角として自分の居場所をきちんと確保していると評価している。
紫式部、清少納言とも、その主人の存在なくしては、その作品はなかっただろう。

さて、著者は「あとがき」で、「これは小説ではない」と書いている。
たしかに小説というには、情景や心理描写が平板というか、固いから、その世界に没入して楽しむというような本ではないと思う。(それに大胆な推測は避けられている。)

しかし、これは小説にしたくなる、あるいはドラマにしたくなる素材だと思う。
前に、「枕草子のたくらみ」の記事で、同書をもとに、著者が著者が脚本を書いたら良いと書いたけれど、この「紫式部ひとり語り」も、これをもとに脚本を書いてもらえたらと思う。
小説としての言語表現に対しては著者は(学者であるせいか)、控え目なようだけれど、脚本ならば、それを解釈する監督によって、その上に自由な表現を載せることができるのではないかと思う。

山本淳子先生ご自身が脚本にしなくても、これを映画や演劇、あるいはマンガにしようという人がいたら、その人が脚本を書くに違いないが。
本書の腰巻に、「映画『源氏物語千年の謎』に答える!!」とあるけれど、この映画は存在も知らなかった。ネットの評を見る限り、本書が底本になっているようなものではないみたい。


大河ドラマでも良いんじゃないだろうか。
「私が源氏物語を書いたわけ」と「枕草子のたくらみ」の両方を下敷きにして。

残念ながら、紫式部と清少納言の直接のからみは史実としてはなさそうだけれど、少なくとも紫式部は清少納言を強く意識していたはずだから、時空を共有しなくても、精神的表現でなら、からみはつくれると思う。
キャスティングはどうなるだろう。紫式部は吉田羊とかが合いそうな気がする。
(清少納言は前に書いたように北川景子で)
彰子は、幼くして入内するときと、成長したときの両方ができる女優がいるだろうか。


学校では教えられない!エロすぎる古典

2017-06-23_115216.jpg 朝日放送に「ビーバップ!ハイヒール」という深夜番組がある。
狙って視ることはないので、何曜日か気にもとめていないが、放送日は木曜日である。

先日、もう寝ようと思ってテレビを消そうとしたら、この番組の案内がでた。
「学校では教えられない!エロすぎる古典」

この案内を見てすぐに、ゲスト解説者に思い至った。
ズバリ、大塚ひかり先生でしょう。

Screenshot_20170623-112423-crop.jpg 内容も当然、推察できる。最近、「快楽でよみとく古典文学」という本も読んだところである。
前にもこの先生の本を読んでいるけれども、動いて喋る先生は見たことがないので、どんな人か見てみようと思って、番組にお付き合いした。

まずは、竹取物語でジャブ。「得てしがな 見てしがな」という詞は、「ものにしたい やりたい」の意味であると解説される。

大塚先生によると、「見る」というのは、当時の貴族の女性は、父親や夫にしか顔を見せない、その顔を見るというのは、「やる」の意であるとのこと。


続いて、エロ小説の本命「源氏物語」。
もはや解説の必要はない。とにかく、ヒカル君はとんでもないゲス野郎ということである。

エロいのは女も同じ。番組中ではクイズ形式で説明されていた。

Screenshot_20170623-112814-crop.jpg Q 「おようの尼」が思う坊主をわがものとした方法は?

A 女を紹介するといって、闇に紛れて自分自身がその女となった


Q 男を来させたいときに、女がするおまじないとは?

A 服を裏返しに着る。(事が起こった状態を先取りする)


番組後半では、和泉式部がとりあげられ、現代劇に翻案した寸劇に仕立てられていた。

和泉式部を清少納言と紫式部が取り巻くという設定はやりすぎと思うけれど。


快楽でよみとく古典文学
はじめに 性愛の古典
第1章“恋”に費やす膨大な労“力”
第2章“見る”は結婚のはじまり
第3章“夜”が“離”れ、“枯”れていく恋
第4章“すき者”どもの禁断エロス
第5章“蜘蛛”の動きも“眉”の痒さも見逃さない
スピリチュアル主義
番組では「エロいはエラい」というテロップが何度も流された。

しかし「エロい」といっても、大塚先生が紹介する古典は、大してエロいものではない。いわゆる名作古典ばかりをとりあげているからで、古典ポルノにはあたらない。
エロ要素というより、セックスを隠すことなく、それをベースにおきつつ、男女の愛憎などを描写していると考えるべきものだと思う。

ポルノというのは、性的な行為の描写により、読者に性的興奮を起こすことを目的とした作品である。
これも古典に名作がある。有名なのは「小柴垣草紙」、鎌倉期に成立したという。
その詞書の一節をとりあげると

koshibagaki_sousho_shunga.jpg お足にたぐりつくままに、おしはだけたてまつりて、舌を差し入れてねぶり回すに、ツビはものの心なかりければ、かしらも嫌わず、水はじきのようなる物をば、せかせさせ給いけり。

というようなもの。そのものズバリである。

「春画展」にも出てました。


現代語訳で続きをもう少しサービス。

もだえる斎宮様の御姿に、男たるものなんで絶えられましょうや。紐解く手ももどかしく狩衣・袴を脱ぎ捨てれば、もはや玉茎はそそり立ち怒り波うちたる有様。 男はその玉茎を、ねぶりそそのかされて朱に膨らみ、御肌よりむらむらとわき出でた斎宮様の雛先に差し当てて、上から下へ、下から上へ、あらかにさすり上げ、さすりおろしたそうにございます。玉門はいよいよ潤い開き、玉茎のはりはますます強くなったことでございましょう。
斎宮様は、しし豊なお腰を男に押し当て、お足を高く差し上げ、田混じる滴り落ちる玉門をあらわに、今は耐え忍ぶことなくお声を上げ給うあられもなきお姿におなりあそばしました。それを見る男の玉茎は、いよいよ波打ち伸びそそり立ち、ここを先途と攻め立て奉り申したとか。
いやはや、来し方行く末、神に御使えする身も忘れ、卑しい男の口を吸い給い、歓喜を抑えかねて身もだえし、よがり声を上げ給う斎宮様は、常軌を逸した御有様でございました。

申し訳ないが、上は出典不明。以前、ネットを渉猟して見つけてメモしてたもの。


枕草子のたくらみ

山本淳子「枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い」

たくらみ」とは穏やかでない。まるで何か政治的な意図でもあるかのようだ。
makura_no_soushi_no_takurami.jpg しかし、この「たくらみ」とは、そうした権力的なものではない。定子のサロンが、おそらく当時としては破格の優れたサロンであったことを記録にとどめ、それとともに定子をいつまでもこの国の人々の記憶にとどめようという「たくらみ」である、と著者は主張している。

そして、その「たくらみ」は成功した。
私たちが今でも枕草子を大事に思い、読み継いでいるのだから。

枕草子は、伊周が献上した冊子(紙)に、古今集の筆写でもしようというところを押しのけて、清少納言に下命されて書かれている。そして、下命を受けて書かれたものは、下命者に献呈されるものである。定子に読んでいただくことを前提として、書かれたものである。
著者は、繰り返していう、定子になったつもりで読めと。

定子は完璧な女性である、少なくとも清少納言はそう思っている。
子供のころから、後宮に入ることを予定され、母貴子がそうであったように、和漢の典籍、礼楽に通じた深い教養、機知と人情に富む人柄、そして「かかる人こそは世におはしましけれ」といわれるほどの美しさ。
何不自由なく、自信に満ちた後宮生活、そして父関白のの死、兄内大臣の転落、一族が凋落するなかで24歳で閉じる命。

才気走って、ミーハーな清少納言、深みの無い作品枕草子。
それは表面的な読みだという。清少納言にそうした面があったことはそうなんだろう、しかし、かつてのサロンを懐かしみ、少しでも気散じにと、決して暗いことなど書かずに、サロンで起こった一コマを切り取って描写する、それを受け取る定子の気持ちをすべて踏まえるなら、これ以外の書き方はなかったのかもしれない。

そして、その通りだったら、清少納言というのは、なんと魅力的な女性だろう。
才気をひけらかして、他の女房から憎まれながら、言い訳をしたり、卑屈になることもなく、女主人への深い思いを秘め、そして女主人のために、そして女主人を偲ぶ、きりっとした姿が浮かぶ。ウェットな感情はけっして表に出さず。

これで絶世の美女で、艶聞も多かったら、完璧だ。昔あこがれた「カラマゾフ」のグルーシェンカのようだ。


ところで、紫式部が清少納言を酷評していることは有名で、本書でも最初(序章―酷評)にそのことが書かれている。これについて、著者は、それは、紫式部は、定子に起こった厳しい事情を知っているから、なぜ枕草子がそんな書き方をするのか、そのことに対する評だと言う。

そういえば、著者は別書「平安人の心で『源氏物語』を読む」で、清少納言ならぬ紫式部と定子の共通点、式部が定子(彰子ではなく!)に感情移入できる点がいくつかあるとも指摘されている。そして、桐壷の更衣のモデルは定子であろうとされる。(そうだとすると、私には紫式部もかなり屈折した性格に思える。)


紫式部を苛立たせこと、そして私たちが枕草子を読むときに定子に思いを致すことで、枕草子の「たくらみ」は完全に成就する。
本当のことはわからないけれど、著者のいうとおりのほうが、清少納言も枕草子も、ずっと魅力的なものになることは間違いない。

序章清少納言の企て
酷評/定子の栄華/凋落/再びの入内と死/成立の事情
第一章春は、あけぼの
非凡への脱却/和漢の后/定子のために
第二章新風・定子との出会い
初出仕の頃/機知のレッスン/型破りな中宮/後宮に新風を 清少納言の素顔/父祖のサバイバル感覚/宮仕えまで
第三章笛は
横笛への偏愛/楽の意味/堅苦しさの打破
第四章貴公子伊周
雪の日の応酬/鶏の声に朗詠/『枕草子』の伊周/伊周の現実
第五章季節に寄せる思い
『枕草子』が愛した月/節句の愉しみ/分かち合う雪景色
第六章変転
中関白道隆の病/疫禍/気を吐く女房たち
第七章女房という生き方
幸運のありか/女房の生き方/夢は新型「北の方」/「女房たちの隠れ家」構想
第八章政変の中で
乱闘事件/魔手と疑惑/定子、出家/枕草子の描く長徳の政変/引きこもりの日々/晩春の文/原『枕草子』の誕生/再び贈られた紙/原『枕草子』の内容/伝書鳩・源経房
第九章人生の真実
「もの」章段のテクニック/緩急と「ひねり」系・「はずし」系/「なるほど」系と「しみじみ」系
第一〇章復活
職の御曹司へ/いきまく清少納言
第一一章男たち
モテ女子だった清少納言/橘則光/若布事件/則光との別れ/藤原行成/鶏の空音
第一二章秘事
一条天皇、定子を召す/雪山の賭け/年明けと参内/壊された白山…/君臣の思い
第一三章漢学のときめき
香炉峰の雪/助け舟のおかげで
第一四章試練
生昌邸へ/道化と笑い/枕草子の戦術/清少納言の戦い
第一五章下衆とえせ者
下衆たちの影/臆病な自尊心/「えせ者」が輝くとき
第一六章幸福の時
「横川皮仙」/高砂/二后冊立/夫婦の最終場面
第一七章心の傷口
「あはれなるもの」のあはれでない事/紫式部は恨んだか/親の死のあはれ
第一八章最後の姿
「三条の宮」の皇后/お褒めの和歌/二人の到達
第一九章鎮魂の枕草子
「哀れなり」の思い/鎮魂の「日」と「月」
終章よみがえる定子
共有された死/藤原道長の恐怖/藤原行成の同情/公達らの無常感/一条天皇の悲歎/清少納言、再び

本書の読み方にしたがって、定子と清少納言を中心にした二次作品(映画、演劇、まんがなど)が作られたら魅力ある作品になると思う。著者が脚本を書いたら良いのではないだろうか。
さて、映画やドラマにするとしたら、定子、清少納言は、誰が演じるのが良いだろう。

清少納言には北川景子を推す。ツンツンした感じが良い。美人すぎるのが清少納言のイメージとは違うけど。
問題は定子、完璧な美女にして(とりわけ手・指が美しくなければならない)、知性あふれ、しかも優しい心、そして、明るさの中にふと暗い陰を感じさせるような女優。


プロット・アゲンスト・アメリカ

51GKIUw3K7L.jpg フィリップ・ロス「プロット・アゲンスト・アメリカ」

長編小説。このぐらいの長編といえば、学生時代のドストエフスキーの長編以来ではないだろうか。
普段、小説は避けている私が読んだのは、たしか "「戦後80年」はあるのか" の中で紹介されていて、一度読んでみてもよいかなと思ったから。

いわゆる過去SF、歴史改変小説で、歴史の分岐点において、実際に歩んだ歴史と異なる道を進んでいたらどうなっただろうか、という小説である。

本作では、ローズヴェルトが大統領三選をリンドバーグ(かの飛行機の英雄)に阻まれ、アメリカが第二次世界大戦に参戦せず、あろうことかナチスと友好関係を保つという、もう一つの歴史を、その状況に置かれたユダヤ人の子供の眼を通して描く。

(この子供は作者自身だろうか、同じ名前である)

リンドバーグ大統領に反発する両親、賛成・支持する兄、親戚や周囲のユダヤ人の生き方、そうしたものが、丁寧に描写される。
子供の眼だから、思想的なこと、政治的なことは直接的には論評しないのだけれど、その子供にも伝わる圧迫感、周囲の変調というものが、生々しい。大長編であることが、その変調が、じわじわと起こる過程を描く。その少しずつの変化。普通の日常生活を書きながら(子供らしい冒険はあるけれど)、世界が変わっていく。

あまりにも精緻に描かれていて、リンドバーグのアメリカを背景に、苦悩するユダヤ人、分断されるユダヤ人社会を描いた歴史小説かと錯覚するが、背景が虚構なのである。
登場人物は実在の人物が多い。そして、私は知らないが、その人たちの行動は、当時の行動、考え方から、さもありそうに描かれているらしい。リンドバーグは実際にナチから勲章を受けているし、ヘンリー・フォードは反ユダヤ主義者である。(巻末に登場人物の実際の年譜が掲載されている)

政策の方向性は違うけれど、トランプのアメリカと重ね合わせて読む人も多いと思う。
リンドバーグとヒトラーの関係が、トランプとプーチンの関係に、ユダヤ人がイスラム教徒に(ただし、ユダヤ人がテロをしたりはしていないところが違うけれど)。


分厚いハードカバーに製本されているから、さすがに通勤の車内では読みづらい(学生のときは平気だったけれど)。それで、寝る前にベッドの中で読んでいたのだけど、読みながら、いつのまにか寝てしまう。
ところが、寝てしまうと、たびたび夢を見る。本の続きを読んでいるという夢なのだ。
つまり、未だ読んでいないところを、夢に見る。
あるときは、本を読んでいるという夢ではなくて、自分自身が、このアメリカ社会に生きているという夢であったりする。

虚構の記憶が、夢という虚構の中で自律運動する。
優れた描写というのは、人の精神を狂わせるものらしい。

ところで、この本を読んでいて、「宇宙大作戦(Star Trek)」のあるエピソード(リンク先はYouTube)を思い出した。

2017-05-24_150700.jpg 錯乱して時空の歪みに入ったドクター・マッコイは1930年代のアメリカにタイム・スリップする。放置すると、マッコイにより歴史が改変されてしまう。このためカーク船長とスポック副長はマッコイを追う。そこでカークは平和運動家の素敵な女性(Edith Keeler)と出会い、恋心を抱く。
歴史の改変とは、事故死するはずの彼女がマッコイによって助けられ、彼女の反戦運動により、アメリカの第二次大戦への参戦が遅れ、ナチスが核を開発し、世界を征服してしまうことである。
ようやくマッコイを見つけたカークとスポック、そこへ歩み寄るキーラー、接近する車。キーラーに危険を知らせようとするカークをスポックが制止、助けようとするマッコイをカークが抱き止める。歴史は改変されずにすむ。

("The City on the Edge of Forever" 1967)


「プロット・アゲンスト・アメリカ」でも、結局、本来の歴史の流れに戻るわけだが、ネタバレになるので、このあたりで記事は終りにしよう。
あらためて、小説の持つ力というか、作者の筆力というものが、侮れないと感じさせられた。

京唄子逝く

wst1704070033-p1.jpg 少し前のことになるけど、今年4月6日、京唄子さんがお亡くなりになっている。
先日、テレビで略伝のようなものが放送されていたので、あらためて唄子さんについて、とりあげることにした。

テレビでしか見たことはないのだけれど、唄子・啓助では、ちょっときつい唄子さんである。
俳優としては、めちゃくちゃウェットな伝統的役柄。

UtakoKeisuke.jpg









ChouchouYuji.jpg
高校のとき、美人芸能人といえば誰だと思うというような他愛無い雑談をしていて、私が京唄子なんか美人だと思うと言うと、周囲がのけぞった。
そうかな、大口やというけど(漫才では啓助が「吸い込まれる」というのがネタだった)、ソフィア・ローレンの口も大きいがな、整った顔だちやと思うけどな……、賛同が得られないので、冨士眞奈美(当時は「おくさまは18歳」の渋沢先生で有名だった)は美人だろうと言うと、人格を疑われた。
同級生連中は、岡崎友紀や吉沢京子、高めでは酒井和歌子とかの名前を出していた。

YounosukeKitayo.jpg KouroSachiko.jpg 冒頭のテレビ番組で、ミヤコ蝶々さんが、京唄子さんのところに来て、私の後はあんたに頼むわ、というような話をしたことが紹介されていた。
ミヤコ蝶々さんも、南都雄二さんとコンビを組んで漫才をしていた。漫才と女優業、京唄子さんとたしかに通じる。

夫婦漫才(離縁してからもそれをネタに続けるコンビが多い)といえば、人生幸朗・生恵幸子、島田洋之介・今喜多代なんかも好きだった。いわゆる漫才ブームとは関係なく名人芸。
AzumaHinako59760.gif 今ならなんといっても、宮川大助・花子が最高のコンビだと思う。

女芸人といえば、漫才じゃないけれど、忘れられないのは、吾妻ひな子。女漫談って他にはいなかったんじゃないだろうか。とにかく、独特の口調と間が名人芸だった。

関東には、この人達に匹敵するような芸人はいたんだろうか、全く思い浮かばないが。
こうした芸が、東京の風土に合わないものだとしたら、なんでも東京に靡く時代、もう、こんな芸人は出てこないかもしれない。

唄子さん、あんたの後は?

ぼんやりの時間

4004312388c.jpg 辰濃和男「ぼんやりの時間」について。

読みたい本が手元にないとき、通勤時間はムダな時間になる。
そう考える人に、ムダな時間があることが豊かさの根源にある、そこを思い直せという本である。
通勤電車でぼんやり過ごすのが勿体ないと考えて、こんな本を読んでいる。笑い話である。

とはいうものの、著者が言うようなぼんやりの時間は、けっして通勤電車のような猥雑で、ぎすぎすした時空で過ごされていない。本当のぼんやりの達人なら、そういうところでこそ心の静穏を、本も読まずに過ごせるのではないだろうか。

電車の中の乗客の様子を観察するのは、実は面白い。だけど、それではぼんやりしたことにはならないだろう。


ぼんやりする時間が必要だということは、私も納得している。
また、工程図(PERT)には、フロートという考え方がある。何もしないという工程を導入することで、不測の事態への対処を可能とすることになる。

贅沢な時間の過ごし方は、なにもしないで過ごすことだと思うし、素晴らしいコンサートで気持ちよく寝てしまうことは、それ以上の贅沢だと思う(めちゃくちゃ悔しいけど)。

だから、著者の意見には賛同するところも多いのだけれど、ただ、著者がぼんやり過ごす時間というのが、あまりにも上質なので、そんな立派なぼんやりはできそうにないと思ってしまう。

また、著者は著名人の言動・文章を引いて、ぼんやりの達人であるとし、その人達の活動を支えたのがぼんやりだろうと言う。それは多分間違っていない。
しかし、こういう偉い人にことよせて、ぼんやりが大事だと言われても、私はただぼんやりするだけで、そのぼんやりが支える私の活動なんて、これぽっちも世の中の益にならない。小人閑居して不善をなす、というか小人閑居して不善すらなさない。

本書は、動-静、緊-緩、実-虚、陽-陰、といった対照に、ぼんやりを考えている風もある。しかし、そんなことをする必要もないだろう。それに光に対してダークエネルギーがあって宇宙を支えているというような言い方は好きじゃない。宇宙は宇宙、人間のぼんやりとは何ら関係がない。変な擬えを持ち出して、わかったとか説明したという気になるより、あるがままを受け入れる、というか、あるがままとは何かを追求するのが正しい姿だと思う。
(擬えに意義があるのは、擬えるもの、擬えられるもののの、それぞれの世界が同一構造を持つ場合)


心足即為富
身閑仍当貴
富貴在此中
何必居高位
心が満ち足りれば、富んでいるのと同じだ
身が閑であれば、高貴な身分にあるのと同じだ
富貴はこうした心身のあり方にある
どうして高い身分にいる必要があろう
白氏文集巻六 閑居(抄)
本書が説くぼんやりの一例として、白楽天が引かれている。

著者の教養がしのばれる。
その余光を鑑賞し、先人のぼんやりの意義深いお言葉を賜る。

勉強になった、とてもぼんやりなどしてられない。

お役人の仕事

お役人の仕事
<○府□課>
A担当: 小学校の新設の申請が来そうなんですが。
B係長: ちゃんとしたとこやろな。
A担当: それが、今幼稚園をやってるとこなんですが、ややこしいとこで。
B係長: どうややこしいねん。
A担当: 前に、設置認可条件を変えろというてきたとこです。
B係長: ああ、あれか。あれが布石やったんやな。
A担当: 何でも首相が関係してるとかで、幼稚園の名誉園長は首相夫人ですわ。
B係長: そうか……、申請内容はちゃんとしてるんか。
A担当: それが、経営計画とかもう一つで。
B係長: あかんとこちゃんと言うたりいな。
 
 
<○府□課応接>
A担当: この間のご相談ですが、経営計画に無理があるように見えるんですが。
C理事長: どこがあかんねん、収入か、支出か?
A担当: そうですね、バランスしてないというか、この支出やったら児童数もっといるんちゃいますか。
C理事長: そしたら、児童数、増やそか。
A担当: そんなんしたら、少子化の今日日、審議会通りませんよ。
C理事長: そしたら支出下げなあかんけどな。
A担当: それできますか。
C理事長: ちょっと調整するわ。
 
 
<●省×局応接>
C理事長: あそこの土地のことやけど、借地料、まからんか。 2017-03-08_124547.jpg
D事務官: 前は4000万でOKて仰ってましたが。
C理事長: ゴミ出たやろ。
D事務官: それは撤去したと思いますが。
C理事長: 全部調べたんか、まだ出るかもしれんやろ。
D事務官: それが借地料減額の理由ですか。
C理事長: それはそっちにまかせるわ。
 
 
<●省×局>
D事務官: あそこの土地、借地料の減額要望がきてますが。
E掛長: そのことか、○○先生からも聴いてるわ。
D事務官: それで、ゴミが出るリスクがあるというのが減額理由になるかと。
E掛長: ゴミは処理したと聞いているけど……、そうか、ゴミがあったということなら、まだあるかもしれん、そのリスク分ということか。
D事務官: そういうことです。
E掛長: なるほど、うまい理屈だな。しかし、府の認可は降りるんだろうね。
D事務官: それについては、府とも連絡をとってます。
 
 
<○府□課>
C理事長: 経営計画を見直して持ってきたぞ。
A担当: ランニングが随分下がりましたね。
C理事長: 借地料を減額してもろたんや。
A担当: わかりました。お急ぎのようですのでこれで審議会にはかります。
 
 
<○府□審議会>
F会長: 臨時審議会をはじめます。本日は○○小学校の設置認可についてです。 shingikai_toushin.png
G委員: この人なぁ、けったいな幼稚園やってはるんや。
H課長: よほどのことでなければ、教育方針については認可条件にはしにくいかと。
I委員: 経営計画がちょっと怪しいな。本当に工事契約とか、この額でやってるんですか、安すぎるように思うけど。
H課長: それは出されたものを信用するということで。
F会長: 認可を出さないというのも難しい、かといって委員のみなさんの経営上の疑義が拭いきれないということですので、ここは認可とまでは言えないが、条件付きで、条件が満足されていることが確認できるなら認可ということでよろしいでしょうか。
 
 
<○府□課応接>
C理事長: 審議会、ようやってくれはった。そやけど条件付きいうのが気に入らんな。
A担当: まだ委員には経営計画に疑念をもってる人もいてはります。ランニング全体、なんとかなりませんか。
C理事長: ほなら、借地やのうて、土地を買い取ってしまおか。
A担当: そんなことできるんですか。
C理事長: うちは定期借地権で契約して、もう学校建てにかかってるんや、他のもんは買われへん。随意契約でOKや。
A担当: しかし、その分、初期投資が増えて、毎年の金利負担が高くなると厳しいんちゃいますか。
C理事長: なんぼで売ってくれるか、それがはっきりしてからや。
 
 
<●省×局応接>
C理事長: このあいだは、借地料まけてもうて助かったわ。そやけど府に持って行ったらまだまだ経営計画が甘いいうて怒られてんねん。いっそ借地やのうて、買うてしまおか思てるんや。 2017-03-08_165420-crop.jpg
D事務官: 買うって、9億円、出せるんですか。
C理事長: そこやがな、前に借地料減額のときは、隠れてたゴミが出てくるリスクがあるからいうて下げてくれたやろ。今度は、ほんまにゴミが出たんやということでどや。
D事務官: ゴミ、出たんですか?
C理事長: そういうこっちゃ。
D事務官: いくら出せるんですか。
C理事長: 府に出してる経営計画の収入をベースに逆算したら1億数千万円いうとこや。
D事務官: 9億円と随分差がありますね。
C理事長: ゴミ処理ちゅうのは、そのぐらいかかるもんやで。
 
 
<●省×局>
D事務官: あの土地、学校側が売ってくれと言ってきました。 baikyakusareta_kokuyuchi.jpg
E掛長: 売るとなるとまた入札になるな。
D事務官: そこは大丈夫です、定借契約して建物も建てはじめてますから、一者随契でいけます。
E掛長: そうなるとあとは値段か。理屈がほしいな。
D事務官: 技術に聴いたら、ゴミ処理の値段というのはなかなか難しいようです。
E掛長: こっちが処理したら値段が丸見えになるな。
D事務官: 向こうに処理させるということで、その分、いくらかかってもこちらは知らないということでどうでしょう。
E掛長: 借地料のときと同じ理屈だね。
 
 
<C理事長のひとりごと>
  役人いうたら、でけへん理屈ばっかり言うて、頭固い奴ばっかりやと思てたけど、みんな有能でものわかりのええ人で良かったわ。
やっぱり政治家の名前出したら、話も丁寧に聴いてくれる。迅速な意思決定、これが政治主導のええとこや。国ちゅうもんはこうやなかったらあかん。
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。ありがたいありがたい。
 
 
<○府、●省それぞれ>
  なんか、えらいことになってるけど……

※本作品はフィクションであり、実在の人物・事件との関連はありません。
写真はいずれもイメージ資料です。


子供は吸っちゃいけません

P_20170211_094612_vHDR_Auto.jpg 京都駅の新幹線構内の喫煙室。
"For adult smokers only"、たしかに間違ってはいない。

でも、この表示には違和感を感じた。
(私だけかもしれないが)

この表示を見ると、人間を、"大人"と"子供"、"喫煙者"と"非喫煙者"という2つの属性によって分類しているという構造を読み取ってしまう。
(私だけかもしれないが)

そして、ここは喫煙者のための部屋なのに、なぜ喫煙者でも大人だけに限定しているのだろう、子供の喫煙者はどうしてくれるんだ、と連想が働く。
(私だけかもしれないが)

669a7_196_06069223902126b68389f1c5fd57c594.jpg それに、非喫煙者が入室しても、本人が承知の上ならかまわないではないか。
余計な修飾語を入れることで、異なるイメージが喚起されているのではないだろうか。

普通は「喫煙者⊂大人」と意識しているので、子供というだけで喫煙者ではないと推論する。
しかし、ことさら「成人喫煙者」と表現されると、子供も喫煙することがあるのかもしれないという、裏のイメージが喚起されるのかもしれない。
(私だけかもしれないが)

と、ぐだぐだ考えているうちに思った。
この表示を考えた人は、たとえ喫煙者でも子供には利用させない、つまり子供は煙草を吸うなということを主張しているのかもしれない。
子供と非喫煙者は利用しないでください」と書いてあったらどう感じただろう。

平安人の心で『源氏物語』を読む

Screenshot_20170130-092450-crop.jpg 山本淳子「平安人の心で『源氏物語』を読む」について。

あとがきにも書かれているように、暮らしや考え方など、視点のおきかたには際限がない。現代との違いがあるもの、同様のもの。体系的にというわけではないけれど、物語を読む上で知っておいた方が良いことがちりばめられている。

いわゆる平安貴族の風俗とか、暮らしぶりは勿論だけれど、源氏の登場人物に似た境遇の実在の人物のことなどが多く取り上げられている。

光源氏のモデルとして、源高明、源融、藤原道長などの名があげられるけれど、誰か一人がモデルということではなく、おそらく、いいとこどりや使える艶聞・醜聞など、いろんな人物から造形したものと思う。その中には、在原業平なども入っているに違いないというわけである。

女性の方もそうしたモデルやエピソードを採り集めて造形されたものと思う(源氏物語では、宇治十帖を別として、男性より女性の方がキャラが立っていると思う)。

Screenshot_20170130-092611-crop.jpg Screenshot_20170130-092547-crop.jpg そのネタになる歴史的事実や伝説が本書で紹介されるので、紫式部の創作の秘密というか裏話を垣間見た思いである。

そうした物語創作の真骨頂がやはり桐壷の巻、「いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに」という書き出しは、単純にこれから書く物語はいつのことだかわかりませんよ、というわけでもなければ、「あんなこと書いているけれど、これは今の時代のことよね」と思わせない工夫であるという。
そのキーワードとして「女御・更衣」が選ばれている。

Screenshot_20170130-092633-crop.jpg Screenshot_20170130-092621-crop.jpg 紫式部の時代、つまり一条天皇には更衣はおかれておらず、更衣という言葉から、読者は一昔前を想起するというしかけだ。
また、それとあわせ、帝位の継承順(帝との続柄)から、桐壷帝-朱雀帝-冷泉帝のモデルになったのは、醍醐-朱雀-村上であり、これも同時代の読者にそう思わせるしかけだろう。

ところが、その一方で、桐壷の更衣が帝の寵愛を一身に受けて、宮廷秩序を見出し、不幸な最後を遂げるということが、中宮定子と重ね合わせられている、まさに今のことを書いているのだと、そうも思わせたものだとも言う。

Screenshot_20170130-092644-crop.jpg たくみに現政権批判ととられるのをかわしつつ、多くの宮廷人の同時代的共感を得るという、きわどい作品なのである。

そういう読みにつながるのは、そもそも紫式部と定子の共通点、式部が定子に感情移入できる点がいくつかあるからだという。

定子の母は受領階級で、紫式部と同じ。
定子は漢才があり、そしてそれによって疎まれた、これも紫式部と同じ。

そうした定子への共感と不幸な最期への思いは、桐壷の更衣を創り出した。

紫式部は定子のライバル(と言ってよいのだろうか)の彰子に仕えているから、こうした思いに至らなければ、桐壷の更衣のモデルが定子だとは考えられないだろう。
後ろ楯のいる女が栄耀栄華を極めるのがアタリマエの世界で、帝の寵愛で偉そうにされてはたまらない、それこそ後宮の秩序を乱すものということだそうだ。そして、愛されて不幸になる女の話は、多くの女性の共感を呼ぶのだろう。

この本は、2011年から2013年にかけて刊行された「週刊 絵巻で楽しむ源氏物語五十四帖」(朝日新聞出版)に連載された「御簾の内がたり」というエッセイが下敷きになっているそうだ。
「絵巻で楽しむ……」という週刊本については知らないが、全部で60冊だったらしい。本書も60章からなる。1帖が複数章になるところもあるけれど、「桐壷」から順に紹介され、はじめによくまとまったプロットが置かれ、続けて関連(連想?)する話題が導かれる。
源氏物語の豊かな世界は、歴史というか執筆当時の世界の拡がりだということがわかる。そして、源氏物語自体が、単純な続きものではないことも。

今までこういう読みをしたことはなかった、とりわけ作者の心理にまで思い至るような読み方は。
源氏に詳しくない私としては、とても興味深く読めた。

著者は、是非、原文(古文)で読んでほしいという。
いや、それはちょっと難しいかな。
谷崎源氏では読んだことにならないでしょうか。

トランプ語録

la-na-pol-trump-legal-immigration-20160901-snap.jpgネットを検索すると「トランプ語録」というサイトがいくつかヒットする。
選挙中のものや、最近のものなど、過激な発言をおもしろおかしく、というか、批判的にとりあげている。

批判的にせよ、これらの言葉が報道されたり、ネットで拡散されるということは、それだけ注目されているということでもあり、支持者と反対者の溝というのは、当分、埋まりそうにない。壁は立つだろうけれど。

一時、H元O府知事・O市長の発言も、同じように大小のメディアでとりあげられていた。やっぱり似たところがあるんだろう。


ということで、最近気になったお言葉から、応用場面が広そうなもの、つまりアメリカでなくても使えそうな表現を拾い出してみた。

(米国への入獄国制限に関して)
・混乱しているというのは、反対して騒ぐ奴らがいるからで、問題はおこっていない。

騒ぎになってるのは、騒ぐ奴らがいるからで、素直に従えば平穏な状態が保たれる。
騒いでいるのは、野党のみなさんだけで、国民はそう考えていない。
「すべての人がキリストを信じたら、世界は平和になる」を裏返した表現かな。


(就任式に参加した人が少ないと言うマスメディアの指摘に対して)
・ものすごい数の人が参加した、それがもう一つの事実(alternative fact)だ。

数が多いか少ないかではなくて、それだけの人々が支持しているという事実がある。
日本語では「見解の相違」とか表現すると思う。


Alternative factと思しき直近の例は、「日本は不公正な為替操作を行っている」だろう。
事実を微妙に改変したうえで、それを論拠に敵を攻撃する。単発の言葉だけでなく、連打を浴びせるわけですな。
このやりかたって、前にもどこかで。

それはそうと、為替操作って、グローバル・スタンダード=アメリカン・スタンダードに従っているだけだろうと思うのだけれど、自分が定めたルールで戦っても、負けそうになるとルールを変えようということらしい。


私は別にトランプ氏に反対だとか、発言を揶揄しようと考えているわけではなくて、こういう台詞って、勢いなんだろうなぁと注目しているわけ。

「屁のつっぱりはいらんですよ」みたいな。
「この仕事に失敗したら、責任をとって、この仕事から身を引く覚悟です」みたいな。

調子の良い言葉は、寄席を盛り上げる。

でも変なオチはつけないでね。


「いろは順」

sub-buzz-668-1482825828-1.jpg
 いろは順の採用は1942年、厚生年金の前身である「労働者年金保険法」が制定された時に始まり、現在まで引き継がれた。
 いろは順での整理は時代遅れになった。だが、データが膨大で五十音順に変更するのが難しいこともあり、すべての事務所で統一せず、バラバラになった。
ファイルに入っているのは、被保険者が納める保険料と将来の年金額の計算に使われる算定基礎届などで、現在の年金受給者には直接関係がない書類。いろは順によって書類を探すのにもたついたとしても、受給者に「迷惑をかけることはない」。
 「今では、いろは順が使われなくったのは事実です。新人の方には抵抗があるはずですし、面倒をかけます。私は事務所に入った時、慣れるまで数ヶ月かかりました」
 指導は、事務所ごとに任せている。いろは順が必要なところでは、紙を用意したり、ファイルボックスにインデックスを貼ったりして対応している。
 「統一すれば、職員の仕事のしやすさは確保できますが、今すぐに変えるのは難しいのが現実です。膨大なデータを変更するのは時間も費用もかかりますし、年金受給者に直接影響を与えない以上、優先順位が低いのです。お客様の対応改善や制度の改正に予算を投入するのが先です」
 「ですが、今回、河野議員から貴重な意見をいただきました。五十音順に統一できるかどうか、議論して検討したいと考えています」
少し前のこと、ネットにおもしろい記事が出ていた。

ファイルを「いろは順」で整理する日本年金機構 「あいうえお順」にできない理由とは


ネットニュースはいつ消えるかわからないので、要旨を掲載しておく。

この記事の元になったのは、河野太郎衆院議員のブログだというので、それへのリンク。
いろいろイロハな皆様へ



この記事では「いろは」とひらかな書きになっているが、本当は「イロハ」とカタカナ書きになっているのではなかろうか(河野議員のブログではカタカナ)。

「イロハ」順でも、「あいうえお」順でも、要は慣れの問題で、それも個人的慣れではなくて、社会的慣れ(文化)に従うべきだろう。ただし「あいうえお」(五十音表)というのは、日本語の音韻システムを反映している優れたものだから、単なる慣れだけの問題ではないけれど。

私の記憶では「あいうえお」が主流になったのはそんなに古いことではないと思う。
もちろん今でも慣用句として、「イロハのイ」というような言い方は残っていて、「アイウエオのア」という慣用句はない。

私が学齢児童だったときは、箇条書きをするときは、123・・・の下位は、イロハ・・・で項目を立てていた。
社会人になってからも、そういう教育を受けていたから、イロハ順で文書を書いたことがあったけれど、会社が定めている書式では、はっきりと箇条書きは「アイウエオ」とすることになっていた。

というか、学生時代までは箇条書きにイロハやアイウエオを使うという習慣はなくて、abcだったと思う。日本語のカナを使うこと自体に違和感を感じていた。日本語の中に記号的にカナを使うことに抵抗感があったのかもしれない。
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もっとも、英語の文章中の箇条書きにabcが立っていたりするが、こっちには違和感がないのはなぜだろう。


今でも「イロハ」なのは音楽。音名は「ハニホヘトイロハ」(CDEFGAB)が使われる。
「二十四の瞳」では、「ハニホ…」の前に「ヒフミヨイムシ」(1234567)の時代があったらしく、大石先生が怪我で休職したあと、男先生の音楽の授業では奇怪な歌が唄われ、子供たちが失笑するシーンが描かれていた。

それはそうとして、冒頭の年金機構の話に戻ると、ファイルがイロハ順というのは、実は解せない。
というのは、辞書類は結構古い時代から、アイウエオ順になっていると思うから。
分冊になっている百科事典などは、「第1巻 ア~カ」、「第2巻 キ~シ」などと、やはりアイウエオ順、ファイルを配列するなら、やはりこっちじゃないだろうか。

であるけれど、Wordの箇条書きには「イロハ」も用意されている。

コンビニ人間

9784163906188_2.jpg 「コンビニエンスストアは、音で満ちている。」
で、いきなり始まって面食らい、おもわずページを戻したが、「コンビニ人間」という扉だけである。

序文や「はじめに」があり、章節が設けられるなど論理構成が明確で目次がある、そうした本ばかり読んでいる身としては、小説というのは、なんとも奇態なものである。

ブログで書評を書くとき、目次を掲載して記事を増量するのだが、この手は使えない。


芥川賞を受賞した小説を、まだ新作と言える時に読んだと言えば、高校生のときに、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」以来だ。
社会人になってからは、小説というものは、何か別の本(それは小説ではない)や、誰かが推薦・紹介しているようなものしか読まないことにしていて、そうすると歴史小説かSFということになる。

私とコンビニといえば、タバコを買うか、事情があって一人暮らしをしたときに弁当やドーナツなどを買うかで、あんまり縁がない。QUOカードなんかをもらったときも使いようがない。
であるけれど、コンビニの経営や裏事情など、情報サイト(川乃もりや「コンビニ探偵!」など)の記事は興味深く読んでいる。社会勉強である。

読み始めてまず驚くのは、「私(古倉恵子)」が、「コンビニ人間として生まれる前」にしていた突拍子もない行動である。

小鳥の死骸を拾って、食べようと考えること。

周囲は可哀そうだからお墓をつくってあげようというのだけれど、私なら、病気で死んだかもしれないから、食べると病気になるかもしれないと言うと思うけど。

同級生の喧嘩を止めるのに、スコップで頭を叩くこと。

暴力を嫌悪する心情ができていない、あるいは、スコップの凶器性を学習していない。

女教師のスカートとパンツを引き下ろすこと。

羞恥心が未成熟。


この恵子の行動の異常性には、はっとするが、それを発想する作者も突拍子もない。

こうした行動を心理的に規制するメカニズムは、子供のうちに育つのが普通だと思う。
他人に暴力をふるう行為は、かなり心理的なバリアがあり、子供の喧嘩といえども、かなり身構えなければできるものではないと思う。
また、人間の道徳性は、ある程度、先天的に備わっていることを示す実験がある。

5ヶ月から1歳未満の幼児にある道徳劇を見せる。3人の登場人物(人形)がいてボール遊びをしているが、うち1人がボールを相手に返さず持って逃げる(非道徳的な行動)。その後、それぞれの人物の前におやつを置いて、被験者(幼児)に、そのどれかからおやつをとらせると、ボールを持って逃げた人物からおやつをとる。非道徳的なことをした人を咎める行動と解される。


恵子は、この行動・心理を客観的に観察している。
一昔前のイメージかもしれないが、人工知能が語っているようである。 いわゆる情動というようなものは描かれず、自分自身を客観的に観察し、そして同様の眼で他人を観察し、その行動を意志的に模倣することもできる。
本当にいたら、化け物である。

話が急展開するのは、ダメ人間の白羽を家に住まわせることから。
そのことにより引き起こされる、コンビニの店員という均質性・部品性が、ヒトのオス・メスがむき出しになる状況への変化。

そして、白羽が居所としている風呂から出てくる気配の描写があり、空白がおかれる。

多くの読者は、この空白は性行為の暗示と受け取ったのではないだろうか。
もし、セックスをしても、そして感じたとしても(恵子は決してセックスを忌避・嫌悪しないと思う)、「今、感じている私がいる、性の快楽を体験している」と客観的に説明するにちがいない。
そう期待して読み進むのではないだろうか。

だけど、そうはならなかった。

そして、白羽に促されるまま、就活をするなか、最後にコンビニ人間としての自覚が、前向きな形をとって、再確認される。

読者としては、それまでの恵子の、醒めていること自体を理解しようとしてきた読者としては、このエンディングは、吹っ切れすぎていて、拍子抜けの感があるる。
アルバイトのオールドミス、しかも処女という、世間的には負け組という評価が変わるわけではないかもしれないが、それを自らの生き方としてしまうことで、恵子の内部と外部が折り合いをつけてしまう
それまでは、恵子は、外部と折り合いをつけることを演じていたわけだが、心理的にも折り合いをつけてしまったようだ。

それに実社会では、これほどできる店員なら、優秀なトレーナーとして本部がほっておかないだろう。


私は、この作品の値打ちは、やはり前半にあると思う。
人間の部品性が前面に描かれ、そしてヒトの肉性を描く仕掛けとして白羽の存在があった、それは理解できるけれど、折角、部品性と肉性を見事に裏返して描いたのだから、恵子が積極的に生きるような形、それは部品と肉の幸福な両立で決着させず、そうではなくて、ずっと対立したまま、あるいはさらに対立を尖鋭化させてもらいたかった。

恵子は、ドロドロの底辺へ落ち込んでいくが、人類社会を相対化する眼がさらに鋭くなる。
白羽は、恵子を強姦し(荒々しくではないにしても)、ダメ人間からクズ人間に進化、「強姦されている」という口癖との折り合いをつけようともがく。


そうすると、何とも落としどころのない読後感になったにちがいないが。

昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか

mukashibanashiwa_naze_hikari.jpg 「高齢者」シリーズの3回目。
今日は、大塚ひかり「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」という本について。

実は、昨日・一昨日の記事に書いた、律令による官人の定年は70歳というのは、この本に書かれていたこと。

前の記事では、致仕についてWikipediaへリンクをはっていることでわかるように、そうした問題意識でネットを調べたら情報を見つけることはできる。しかし、そもそもその問題意識をどう持つのか。このことが現在の教育では重視されつつあると思うが、わかりやすく言えば、自らの経験、読書、そうしたものがあって、問題意識も生まれ、方向性も示されるのだと思う。
辞書・事典は、本の代わりにはならないのである。

そして、人間の記憶力はたいしたもので、本に書かれていることを完全には覚えていなくても、「こんなことが書かれていたような気がする」を糸口に、ネットで調べれば、たいていのことについて何らかの情報は得られる(もちろんその真偽など吟味が必要であるけれど)。


閑話休題。
大塚ひかりという人の本は、読んでいてとてもおもしろい。下ネタ満載である。
本書以外では、「竹取物語」、「本当はひどかった昔の日本」、「源氏の男はみんなサイテー」を読んだことがあるが、他にも、「本当はエロかった昔の日本」、「日本の古典はエロが9割」、「愛とまぐはひの古事記」、「カラダで感じる源氏物語」、「快楽でよみとく古典文学」など、エロいタイトルの著書が並ぶ。
どれも読んでみたいけれど、おそらく、内容にはかなり重複したところがありそうなので、購入は思いとどまっているけれど。

図書館に置かれているものもあるが、女性司書を赤面させてはいけないという気配りで、エロいタイトルの本は今まで借りたことがない。どうして図書館には「成人図書コーナー」がないのだろう。(Y図書館はセルフ・レジ。そっちで借りようか)


さて、他の本についてはまたあらためて記事にすることもあるかもしれないが、今日は「昔話はなぜ……」について。
大塚ひかり本は、かなり著者の思い入れ(独善)が入っていそうで、おもしろおかしく読める、あるいはそういう読みもあると、軽いエッセイとして読むのが普通かもしれないが、冒頭の「官人は70歳以上で致仕を聴す」が本書で知ったように、この本は、しかるべき根拠資料にもとづいて書かれているようだ。

古典からは、官人の定年意外に、律令における高齢者にかかる規定などがひかれている。役人の定年のことも含めて抜き書きすると、

  • "凡そ官人年七十以上にして、致仕(ちじ)聴す"(「選叙令」)
  • 八十歳になる者と"篤疾"(難病、狂気、両足が使えない、両目が見えないのたぐい)には、"侍"(介護役)を一人与えよ。九十歳の者には二人。百歳の者には五人。まず子や孫を当てよ。もし子や孫がなければ、近親者を取ることを許せ。近親者もなければ、"白丁"を取れ」(戸令)
  • 「天下の老人の八十歳以上のものに位一階を授ける」
    「百歳以上のものには、絁三疋、綿三屯、布四端、粟二石」とあって、九十以上、八十以上の人にも、それより少なめの絁や綿などが天皇の詔によって授けられることになりました(『続日本紀』巻第七 養老元年(717)年十一月)
  • "凡そ年七十以上・十六以下、及び廃疾(中程度の身障者)"は、流罪に相当する罪を犯した場合、配流の代わりに"贖"(ぞく)を取ることが許されていました。"贖"とは、銅や布・稲・土地・人身などで罪を贖うこと。さらに、
    "八十以上・十歳以下、及び篤疾(重度の身障者)"は、反逆・殺人といった死罪になるべき罪を犯した場合、"上請"(じょうしょう)が許されていました。"上請"とは、天皇に上奏して判断を仰ぐこと。酌量の余地が生じるわけです。これらの人が窃盗や傷害を犯した場合は、"贖"を取ることが許されました。そして、
    "九十以上・七歳以下"は死罪があっても、刑罰を加えない、とあります。
    また罪を犯した時点では、こうした高齢者や身障者に当てはまらなくても、罪が発覚した時、高齢者や身障者になっていれば、右のような規定によって裁けといいます。(以上「名例律」)

そして、高齢化白書や「人口から読む日本の歴史」(鬼頭宏)、警察庁の犯罪統計などなど、本書のトピックスに応じて、多彩な文献が参照・引用されている。

古典からの引用はこの人の専門だろうけど、専門外の犯罪白書などにもあたっているのは、本書のテーマにあわせて調べた結果なんだろうけれど、きちんと裏をとる姿勢は(ネタ探し、文字数増量という面もあるだろうけど)、評価できる。

もっとも、ネット社会では、こうした情報に簡単にアクセスできるようになっていて、昔のように大きな図書館へ行って調べなくてもネタが簡単に手に入るわけだけれど。
書きたいことがあって、それを根拠づける、あるいは補強する情報を探す。そして文章力。
純文学でもなく、学術作品でもない、こうした作品群はネット社会の発達に支えられて、これからも成長するだろう。


目次を下に掲げておくけれど、年寄りは元気でエロいとか、奈良時代から福祉政策があったというような、明るい話もあれば、姥捨て伝説のような暗い話もある。

先日、旅行代理店で宿・列車の予約をしていたら、パンフレットに「シニア限定」というのがあった。
おもわず、「姥捨て行き、片道、シニア限定」と口をついて出てしまった。


で、本書の評価?
おもしろかった。

大塚ひかり「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」
 昔の老人の人生昔話と古典文学が伝える貧しさや孤独という「現実」
1 昔話の老人は、なぜ働き者なのか「爺は山で柴刈り、婆は川で洗濯」の背景
2 昔話の老人は、なぜ「子がいない」のか「わらしべ長者」のルーツを探る
3 家族の中の老人の孤独「姥捨て山」説話と「舌切り雀」の真実
4 古典文学の中の「婚活じじい」と「零落ばばあ」平安・鎌倉期の結婚事情
5 昔話に隠された性「浦島太郎」が竜宮城に行った本当の理由
6 古典文学の老いらくの恋と性『万葉集』から『東海道中膝栗毛』まで
7 古典文学の中の「同性愛」の老人たち爺と稚児、婆と美女の物語
8 昔話は犯罪だらけ老人たちの被害と加害
9 自殺や自傷行為で「極楽往生」?昔話の往生話と平安老人たちの「終活」
10 老いは醜い昔話の「姥皮」と大古典の老人観
11 閉塞状況を打開する老人パワー古典文学の名脇役たちと、棄老伝説
12 「社会のお荷物」が力を発揮する時昔話はなぜ老人が主役なのか
13 昔話ではなぜ「良い爺」の隣に「悪い爺」がいるのか老人の二面性と物語性
14 昔話はなぜ語り継がれるのか『源氏物語』の明石の入道・尼君夫妻が子孫に伝えたこと
15 昔話と古典文学にみる「アンチエイジング」若返りの目的はさまざま
16 実在したイカす老人成尋阿闍梨母、乙前、世阿弥、上田秋成、四世鶴屋南北、葛飾北斎、阿栄

「万葉集―隠された歴史のメッセージ」(続き)

時事の話題を優先したり、休刊日があったりしたので、続けて書くつもりだったのが、随分遅くなった。
"万葉集一番歌「籠もよ み籠持ち」の作者は雄略天皇ではない"の続き。

時代代表歌人
巻一原撰部
(巻一の前半)
持統・文武額田王
巻一、巻二元明柿本人麻呂
巻三~巻十六聖武山上憶良
巻十七~巻二十光仁大伴家持
小川靖彦「万葉集―隠された歴史のメッセージ」について、前の記事で「私には新鮮」と書いたけれど、この本の内容について少し具体的に補足する。
万葉集は全20巻であるが、一度に成立したものではないという。このことは、著者が初めて言ったわけではなく、平安期から既に定説となっていたものである。
本書の著者は、その理由・経緯を次のように説明する。

《目次》
 
第一章『万葉集』という「書物」
──「やまと歌」による〈歴史〉の創造
「書物」としての『万葉集』
皇統の《始祖》──一番歌・雄略御製
満ち足りた実りの国──二番歌・舒明御製
歴史上の舒明天皇
天皇による統治の完成への歩み
藤原宮の主・文武天皇
巻子本であった『万葉集』
成長する「書物」・『万葉集』
 
第二章万葉歌人たちの詩の技法
額田王の〈媚態(コケットリー)〉
柿本人麻呂の想像力
山上憶良の悟り得ぬ心
大伴家持の孤独
作者未詳歌の輝き
 
第三章漢字に託す心
──漢字で書かれた「やまと歌」
巻一の書記法──記憶に支えられた大胆な表記
『万葉集』の《文字法》
漢字から「かな」へ
 
第四章万葉集古写本の世界
 
まず、巻一の53番歌あたりまでが最初に編まれた(原撰部)。これは持統天皇の正統性を主張することが目的であるという。そもそも万葉集の編纂は持統天皇の意志による。
ついで、巻一の残り、持統後継である。
そして巻二は、藤原氏の特権性を印象付ける目的だとする。
ここまでは、政治的である。
そして、巻三からは大きく編集方針が変わる。
巻十七~巻二十は、大伴家の私家集の性格があるという。
つまり、それぞれ編纂目的があって、順に増補されてきたものである。

異なる目的であったにもかかわらず「万葉集」として増補されてきたのは、既に権威として確立していたからだろう。とりわけ巻二が藤原氏を持ち上げるものとするなら、権威を利用する姿勢というのは、いかにも藤原氏らしい。

そこで不思議に思うのが、大伴家の私家集という説である。
大伴氏は、周知のとおり、古くからの武門の家系だけれど、奈良時代末には没落する。藤原氏との権力争いに敗れたわけだ。
大伴家持は、歌人である前に、政治家であったのではないか。
その私家集がなぜ万葉集に、紛れるどころか堂々と入っているのだろう。
そんなに読み込んでいるわけではないけれど、家持の歌に直接的に藤原氏を悪く言うようなものはないのではないか。

あらためて、茂吉「万葉秀歌」でも、そういう眼で読み直してみようか。

万葉集一番歌「籠もよ み籠持ち」の作者は雄略天皇ではない

P_20161015_113617.jpg 小川靖彦「万葉集―隠された歴史のメッセージ」について。

「万葉集」は読んでみたいと思い、そしていくばくかはトライもしてきた歌集である。

中学3年ぐらいのときだろうか、解説書を買い求めた覚えがある。
家には岩波の日本古典文学大系の万葉集(1~4)を飾ってある(もちろんこうした専門的な本がきちんと読めるわけではない)。
斎藤茂吉「万葉秀歌」は、随分前に紙の本でも読んでいるが、青空文庫に収録されていることに気づいて、おそらく電子書籍として一冊を読み通した最初の本だと思う(今はKindleでも配信されているから、こちらを使っている)。

思えば、今までの読みは「日本人の心のふるさと」というような淡い、曖昧な憧れだったと思う。
P_20161015_113507.jpg 前掲の解説書も、歌の鑑賞が主であり、その理解のために、詠まれた時の状況や作者の説明といったものが付随する。

例示するなら、一番歌「籠もよ み籠持ち」は、歌のリズム、当時の習俗(家聞かな 告らさね)、雄略天皇は倭王武(ワカタケル)であり、王者らしい力強い言葉(おしなべてわれこそ居れ)を味わうという読み方である。

あるいは、万葉仮名や戯訓(戯書)の話とか、仮名文字ができる前のことを少し。

そんな読みをしていることについて、とくに疑問に思ったことはなかった。

manyoshu_hidden_message.jpg 小川靖彦「万葉集―隠された歴史のメッセージ」は、そういう貧しい鑑賞者に、新しい眼でこの歌集を見ることを教えてくれる。
副題には「歴史のメッセージ」とあるが、これは喩えとかではなく、著者は明確かつ直截に政治的メッセージを読み取る。そして、その読みこそ当時の人々に共有されていたものだろうとする。

「隠されたメッセージ」ではなくて、現代の和歌鑑賞者の眼からは隠れていた、忘れられていたということだろう。


ぐだぐだ能書きばかり垂れたけれど、たとえばこういうことである。

一番歌「籠もよ み籠持ち」の作者は雄略天皇ではない。

雄略天皇の歌として素朴に鑑賞する者としては、これは虚をつかれた感がある。
虚仮おどしの好きな作家が書くなら、これを本のタイトルにしたのではないだろうか。

いきなりそう書かれたら衝撃的(なのでこの記事のタイトルとさせてもらったし、上では朱書き)だが、誠実な研究者と思しき著者は、そんな読者を驚かせようという悪趣味はお持ちではなく、こういう書き出しをするわけでも、このような断定的な表現をとるわけでもない。
この主張は、諄々と万葉集の成立過程を解き明かすなかで、なるほどと納得させられる形で提示される。
なお、誰が作ったかは措いて、雄略天皇が詠ったものとして読むことが、鑑賞上は適切であることはいうまでもないし、そう読まれることこそが、万葉集編纂者の意図なのである。

本書は、前述のような歌の鑑賞や、「我が国最古の歌集である」式の受験知識の水準ではなくて、万葉集の成立の動機、編集意図というものを解き明かそうとしている。
とりわけ興味深いのは、巻一原撰部、巻一および巻二の成立に関しての部分である。

P_20161015_113121.jpg 上述の「一番歌の作者は雄略天皇ではない」については、本当の作者が誰であるかの問題ではなく、根拠があやしいというだけでなく、編集意図を考えれば、一番歌の作者を雄略天皇とすることに意義があったという論述がされている。

二番歌は、舒明天皇御製「大和には 郡山あれど……」(おそらくこれも舒明天皇作ではない)である。
この2人の天皇の間にはかなりの年代差がある、なぜ雄略の次が舒明になるのか、なぜ推古ではいけないのか……
そうしたことに疑問をもち、そこを起点に、万葉集の編纂目的、編集者の意図を、緻密に読み解いている。

その世界では周知のことなのかもしれないが、不勉強な私には、とても新鮮な本なのである。

ノーベル文学賞

Dylan01.jpg ボブ・ディランが2016年度のノーベル文学賞を受賞した。
いわゆる文学ではない、シンガー・ソング・ライターの受賞で、賛否両論がある。

否定的な意見の人は、だいたいボブ・ディランが好きだとか、素晴らしいという前置きをした上で、「ジャンル」として疑義を表明する。また、ディランの前に受賞すべき人がいるだろうとも言う。

その「ディランより前に受賞すべき人」に名前があがった人達はほとんど知らないし、もちろん作品を読んだこともない。
科学系の賞の場合、研究者の名前は知らなくても、その業績を聴けば凄い研究をしたんだと納得できるけれど。


対して肯定的な人は、ディランは吟遊詩人の伝統の伝承者であると、ちょっと牽強付会な理屈をつけたりしているようだ。
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「伝承者」という言葉には疑問。ディランがオルフェウスを直接に伝承したわけではないだろう。生態的位置に似たものがあるという程度以上ではない。そしてこの位置は珍しいものではない。


日本では、今年も村上春樹が受賞を逃したという落胆ムード。(私は小説は読まないことにしているので、村上春樹も読んでいない。従って関心もない。)

ボブ・ディランといえば、私が中学から高校ぐらいの頃に流行っていたことを思い出す。
家には兄が買った「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」などの17cmEPがあった。
私は、特に好きということはなかったけれど、「風に吹かれて」とか「ミスター・タンブリン・マン(Mr. Tambourine Man)」など、兄が聴いているから、たびたび耳に入った。

Dylan05.jpg Dylan04.jpg 当時、「反戦フォーク」というジャンルがあって、ディランはそのカリスマのようなもの。他、ジョーン・バエズとかも良く聴かれていたと思う。日本では、岡林信康とか中川五郎とか。
で、フォークから出発して、メジャーになっていった歌手をあまり快く思わないという雰囲気もあった。反体制じゃないのか、というわけである。
ただ、授賞は反戦平和運動に対してというわけではない、それなら平和賞だろうし。

Dylan03s.jpg ディラン受賞で思った、それなら永六輔が受賞しておかしくない(故人は受賞できないが)。谷川俊太郎なんか絶対に受賞すべきじゃないだろうかと。あるいはビートルズが受賞しても全然おかしくないのでは。

というか、ノーベル文学賞が「最高の文学」を顕彰するものとは思えないし、そもそも文学賞があること自体が不思議。

平和賞も不思議な賞だけれど、政治的なものと割り切って評価すべきだろう。そういえば、文学賞でもソルジェニーツィンが受賞したときは、政治的な意図があると、旧ソ連からは批判されていた。

文学賞も平和賞も、毎年のように授賞への疑義がとりざたされるけれど、文学賞や平和賞はバイアスの強い、金持ちの道楽ぐらいに割り切って、あんまり騒がないで良いのではないだろうか。

で、ふと思ったのだけれど、文学賞を誰に先に与えるべきかを議論するより、どのジャンルに賞を与えるべきか考える方がよほど建設的なんじゃないだろうか。

ノーベルの遺言が基本だから、ジャンルを新設するのは難しいのかもしれない。だったら、各賞の対象範囲を広げたらどうだろう。ローレンツ、フリッシュ、ティンバーゲンはそろって動物行動学で生理学・医学賞を受賞しているけれど、それまでの生理学・医学賞からすると、随分異質だったと思う。

Dylan11.jpg
ということで、人文科学と括られるものを対象とする賞は設けられていないが、文化人類学や言語学、宗教学(へたするとアブナイ)といったジャンルは、人類の平和に向けて、相互理解を高める上で大いに寄与すると思うから、こういうものも「文学賞」の対象としたらどうだろう。

また、周知のとおり、ノーベル賞には数学賞はない(フィールズ賞があるからなくても良いけど)。
数学は他の分野を支えているから、具体的な成果とセットで授賞は可能かもしれない。ショールズが経済学賞を受賞したときに、伊藤清が共同受賞しても全然おかしくなかっただろう。

その応用まで展望していたら喜んで受けるだろうけれど、思いもよらない応用だったら辞退しそうだ。


読書で寿命が伸びる

dokusho_yd_book2.jpg ネットの情報サイトに、“読書で「寿命が伸びる」のは本当か ”という記事があった。

私は月10冊以上は読んでいるから、読書量は平均より多いと思う。この記事で引用されている調査では、月7冊以上読む人を最上位の階層としているから、私もここに属する。

ただし、自分では読書家だとは思っていない。
理由は簡単、読書時間がほとんど通勤電車だからだ。
読書家というのは、やはり書斎で本と睨めっこして、徹底的に読みこなすような人でなければ本物じゃない。

もっとも私の先輩には「通勤時間が長いやつほど文化人だ」と言っていた人がいる。通勤時間が貴重な読書タイムという意味だ。


冊数というのもいいかげんなもので、ハーレクイン・ロマンスのようなものを何十冊読んだところで、それで読書量が多いと言えるだろうか。
数学の本などは教科書ですら1ページ進むのに何日もかかることはザラ。それでもじっくり取り組めば理解もできようというものだが、読んでも読んでも理解できないハイデッガーの著作なんて、ついに1冊も読めなかったと思う。

スラスラ読めるというのは、その本に書かれている世界とか論理と同様・同類のものが、既に読者の頭にある場合だろう。


それはそれとして、読書で寿命が伸びるというならアリガタイことだが、この読書量には、こういうジャンルというか本の特性は考慮されているんだろうか。難しい本ばっかり読んでたら、寿命が伸びるとは思えないのだけれど。

そういえば、読書量と所得に相関があるという説もある。
本を買って読むとしたら、所得がないと買えないから正の相関があってもおかしくはないけれど。(そうすると、所得と健康にも相関があるのでは、というか、それが陰にあるのでは。)

子供の学習能力は、家庭の「文化資産」の量と相関があると言う説があるが、文化資産の量は所得と相関していると思う。

所得と学力の相関だが、たとえば市町村別に全国学力テストの結果と当該市町村の平均所得と相関させてみれば顕著に表れるといわれている。


dokusho_yd_sukima1.jpg はじめに戻る。通勤時間が長いやつほど健康だということについて。
実際は通勤時間に本を読んでいる人はそう多くはない。読書する人よりも、音楽を聴いている人、新聞やネットで情報を得ている人、ゲームをしている人のほうが多いように思う。

“通勤電車の中で何をしている? 年収によって違い”


なお、冒頭にあげた記事によると、電子書籍は場合によっては健康を害することがあるという。
いくつか例示されているが、とくに電子書籍よりも実際の本からの情報のほうが、頭に内容が残りやすいとの結果が出ているという。電子書籍よりも印刷された書籍を読んだ人のほうがストーリーの順序をよく覚えており、その差は「著しい」のだそうだ。

これが本当だとしたら悩ましい。たしかに、私自身もはじめは電子書籍は頭に入りにくいと感じていた(老眼鏡を付けて読むのと、付けないで読むのと同じような感覚)。この頃はそうでもないと思うのだが、この調査は、どんな本を、どんなデバイスで読んだのか、被験者の電子書籍への習熟度は、など、気になる点は多い。

電子書籍は、持ち運びがラクで、いつでも辞書・事典を検索できて便利だと思う。
読書者自身が、電子書籍でも紙の本と同等に理解ができるというなら、統計的な結果を気にすることはないのだけれど。

いるのよねぇ「そういう調査結果があるんだ」と、統計に合わないと事実の方を否定する人が。


立川吉笑「現在落語論」

kissho_genzairakugoron.jpg 立川吉笑「現在落語論」。

若僧が何を生意気に講釈垂れてるんだ、というのが読み始めた時の年寄りの感想。
というか、著者はもともと京都のくせに(というか京都だから大阪への反発?)、江戸落語なんぞやって、上方落語をどう考えてるんだということも初っ端にもよおす不快感。
上方の落語家が、江戸落語について「もぞもぞ言ってるだけで何がおもしろいんや」と酷評していたこともあった。

もっともそういう状態は本書にも書かれているように、一時代前の状況で、かつて立川談志がこのままでは能のようになってしまうと憂えた頃のことでもあるようだ。

その談志、粋の固まりみたいなところを感じるわけだけれど、そしてうまいと思うけれど、上方贔屓の私としては、いちばん小気味よい話は、米朝の東京公演を談志が聴きに来て、ガックリ肩を落として帰ったというエピソードである。(「名人は名人を知る、ようわかっとるやんけ」と余裕で談志を誉めた。)

ということで、訝りながら読み始めた本だけれど、そこに書かれていることは至極きちんと筋の通ったことである。
落語について、その技術や特性について考えた、あるいは考えさせられた人なら、右に掲げた目次を見れば、どういうことが書かれているか、たちどころに了解できるものと思う。

著者は、自らのお笑い体験・落語家としての修業を通して、こうした理詰めの落語技法を文章化したのだろうと思う。その分析にはなるほどと思わせるところも多いし、よくまとめられている。

少し違うかなと思うのは、落語がもつアドバンテージを強調するあまり、実はその表現技法は落語だけというわけではないんじゃないかということ。
たとえばありえない時間・空間的設定(第一章1。跳躍や歪みであったりする)を落語の特有のもののように書いているが、これはエッシャーの絵をはじめ、絵画やマンガでも、ケースによってはよりうまく表現できる場合もある。『胴斬り』のシュールさは『猿飛佐助』をはじめとする初期のマンガでも多用されていると思う。

また落語特有と著者がいう、情報を「隠す」(第二章1)技は、小説のような単線的な順序を持つ表現形式なら同様に可能である(もちろん演劇とかだと、隠れていたということに意味が出てしまってうまくいかない)。

その一方、昔からあるシュールな落語について、落語の表現の柔軟さを強調するわけだが、実際には、それ以上に感心すべきなのは、そんな昔から、その話をおもしろがる感性を持っていた庶民の方かもしれない。

この本を契機として、立川吉笑、立川談笑という落語家の芸をYouTubeで見せてもらった。
やっぱりまだまだこなれてないなぁ~、と思ってしまう。

米朝などは、喋っている人間や場面の転換、そうしたものを表現するための、顔や体の向き、目線、言葉使い、そのすべてに対し、細かな演技が必要であり、それが自然にできる(それがどれほど難しいかはやってみようとすればわかる)ようになるのが落語の稽古であると考えていたようなフシがあって、それを厳しく弟子に求めていたと思う。

また、言葉使い一つで、大家なのか店子なのか、侍か商人かがわかるわけだが、もちろん、吉笑氏もそのことは承知の上だろうけれど、この人の高座ではそれは残念ながら十分には聞き分けられない。
みずから自身の代表作という「ぞおん」でも、登場人物2人のメリハリはもう一つのように思う。

落語の技術としては、まだまだ未熟なのだと思う。
おそらくそのことは自身も良く解っていて(でないとこれだけの本は書けないだろう)、これからの精進を期待する。

第一章 落語とはどういうものか
1 何にもないから何でもある
顔色の悪い赤鬼
不条理な空間を描く
2 落語の二面性―伝統性と大衆性
始まりは大衆芸能
二面性についてのコンセンサス
3 古典落語と新作落語
伝統性と大衆性のバランス
古典落語の誕生
アーカイブによる伝統性の強化
なぜ新作落語がつくれるのか
それ、落語じゃなくていいだろ
4 マクラは何のためにあるのか
自己紹介の役割
お客さまを知る
メッセージにリンクさせる
フェイントマクラ
幻想マクラ
第二章 落語は何ができるのか
1 省略の美学
引き算の美学
下半身の省略
空想の具現化
場面転換が容易
情報を「隠す」ことができる
自由自在な入れ子構造
2 使い勝手のよさ
辻褄が合っていなくても問題なし
歌のように聴ける
定番キャラクターの存在
3 古典落語を検討する
『二階ぞめき』
『不動坊』
『胴斬り』
第三章 落語と向き合う
1 志の輔の新作落語
落語でしか描けないもの
伝えたいメッセージとは
2 談笑の改作落語
改作落語の狙い
「花魁」を「アイドル」に
スライドの技術とセンス
大衆性をブーストする
噺の本質を掴む
改作としての『紺屋高尾』
3 擬古典という手法
擬古典とはなにか
擬古典を選んだ理由
擬古典『舌打たず』台本
4 ギミックについて
ネタづくりのルール
ギミックの展開例
ネタをチェックする基準
代表作『ぞおん』
現代が舞台のネタ
落語との向き合い方
第四章 落語家の現在
1 吉笑前夜
弟子入り
師匠選びも芸のうち
2 「面白いこと」への道
ぼくの好きなお笑い
お笑い芸人を目指す
面白いことをやりたい
決定的な転機
3 落語会の抱える二つのリスク
需要と供給のバランス崩壊
外部参入による構造改革
ただの大衆芸能になる日
4 落語の未来のために
全国ツアーという活路
ぼくが立つ場所


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六二郎。六二郎。


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苦しい家計の足しに再就職
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