サルが“ストライキ”

サルが“ストライキ”
 餌への不満爆発、山にこもる 大分の高崎山
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サルが現れず、閑散とする週末の寄せ場

 大分市の高崎山自然動物園で、餌をやる寄せ場にサルが現れなくなっている。サル数を抑制しようと餌の量を年々減らしてきた園に対し、不満を募らせたサルが山奥に引きこもり“ストライキ”に打って出たのが原因で、群れの力関係も影響しているとみられる。書き入れ時の7、8月の来園者は例年より計1万人以上も減り、普段は穏やかな園で緊張感が高まっている。
 :
西日本新聞社 11/8(木)
昨日、まるで虚構新聞のような記事が流れていた。

サルが餌に不満をもって、観光客の相手をしなくなる、つまりストライキに入っているのだという。

場所は大分の高崎山。
高崎山といえば、伊谷純一郎「高崎山のサル」、日本のサル学を有名にした研究フィールドである。
指導力抜群のリーダー「ジュピター」の話は、義務教育の教科書にも載っていたように思う。

ジュピターのイメージが強すぎて、サルの社会はそういうボスが支配していると解するむきもあったが、本当は同じニホンザルでも群れごとに個性というものがあり、「統治構造」はそれぞれ違うそうだ。高崎山もジュピター後は、「共同統治」時期があったという。ただ、メスに人気がないとリーダーになれないということは共通らしい。


ということで、このストライキも高崎山伝統の指導力抜群のリーダーがいるのかもしれない。

餌を、朝に四 暮に三でごまかすことはできなかったのだろうか。

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「ライオンはとてつもなく不味い 」

81ZRPkEj-xL.jpg 山形豪「ライオンはとてつもなく不味い 」について。

このタイトルには大いに興味がかきたてられた。
だから、内容も確認せずに、図書館の棚にあった本を借りた。

本を読む前の妄想は、

普通、われわれが食べる陸上哺乳類は草食獣である。肉食獣を食べるという話は、あまり聞いたことはない。肉食獣は不味いから人類は食用にしてこなかったのではないだろうか。それがどのぐらい不味いものなのか、それがわかるのではないだろうか……
しかし考えてみると、肉食動物でも、クジラは食べるし、哺乳類でなければワニはけっして不味くはない。
食べたことがないものでは、狸汁で有名なタヌキとか、犬(チャウチャウ種はもとは食用種だと聞いたことがある)とか、猫(書生が食べるという話を読んだことがある)とか。
そういえば、鳥類は、たいていは肉食・雑食だと思うけれど、これは不味いとはいわない。
してみると、ライオンとかは、それこそケダモノ臭くて食べられたものじゃないとでもいうのだろうか……


はじめに――フィールドでの一日
CHAPTER1 アフリカについて
CHAPTER2 動物たちは日々、生き残りを懸けている
CHAPTER3 フィールドでのサバイバル術
CHAPTER4 アフリカに命の輝きを求めて
CHAPTER5 南部アフリカに見る人間と自然との関係
おわりに――なぜアフリカで写真を撮り続けるのか
妄想はこのぐらいにして、本を開くと、あらあら、そんな話ではない。
ライオンを食べる話は、最後の最後、申し訳程度に、アフリカの人から食べてみるかと渡されたその乾燥肉を食べたというものだけだった。(そして不味いと書いてある)。

そういえば、筒井康隆氏にゾウとかを食べた話があった。氏の父君は動物園の園長で、戦争中、空襲にあって猛獣が逃げたら大変とのことで、殺処分を命じられ、猛獣を食べてみたというような話。たしか、美味いものではないとあったような。


というわけで、「期待」は大いに裏切られた本なのだけれど、それは妄想した私が悪いわけである。

小説や映画のタイトルなんか内容を直接指しているとは限らない。純朴な子供だった私は何度も裏切られている。「地球の皮を剥ぐ」って、マグマもマントルも出てこないじゃないか。


内容は、アフリカでのサファリ(写真撮影。トロフィーハンティングではない)がどのように行われているか。
著者は、アフリカに憧れてこの職業についたというわけではなく、子供の頃からアフリカで暮らしていて、むしろ日本での生活・人間関係になじめず、チャンスを活かして、アフリカや動物の写真を撮って暮らすプロになったという。
だからだろう、外から憧れるような視線ではなくて、むしろアフリカ人として、アフリカの自然を「売って」いるような印象である。
素晴らしい写真を撮って見せてくれるわけだけれど、それによってアフリカに人が押し寄せて自然が荒れるようになっても、だけどそれで潤ってもいるし、なにより動物保護事業が成り立ってもいるという、一種のジレンマも吐露している。

アフリカの動物保護区の中には、一泊百万円というような超高級ホテルがあるが、そこを出ると一日数百円の収入しかない人たちがひしめく。

もちろん本書は社会批評の本ではない。あるがままのアフリカ、動物たち、サファリを紹介している。

シャッターチャンスを長時間待ち続け、とらえた写真は見事だ。

「早すぎた発見、忘られし論文」

大江秀房「早すぎた発見、忘られし論文 常識を覆す大発見に秘められた真実」をとりあげるのだが、この本の書評を書いてもよいものだろうか?

というのは、
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 講談社ブルーバックス『科学史から消された女性たち』『早すぎた発見、忘られし論文』(いずれも大江秀房著)の2冊に関し、著作権上の問題があることが判明いたしました。そのため、この両書について回収・絶版の措置をとることに決定いたしました。著作権者の方、そして読者の皆様にお詫び申し上げます。

講談社ブルーバックス出版部

ということで、2006年3月に回収・絶版となっている。Amazonでは中古品だけが40円で売られている。

私は1年ぐらい前に図書館で借りたのだが、書評を書くほどのこともないと思っていたのだけれど、ブログのネタになるかと残しておいたメモがあったので、あらためて記事にしようとして、検索すると、上の引用のような記事が見つかった次第。
もう少しネットをあたると、とくに『科学史から消された女性たち』の方について、パクリ疑惑がかなり具体的な個所を指摘している激越な書き込みもあった(あえてリンクを張らないので関心のあるかたはネットで検索を)。

回収・絶版は2006年に行われているけれど、図書館ではそのことを問題視して貸出禁止にするなどはしなかったようだ。社会問題となった「ちびくろサンボ」や「はだしのゲン」とは扱いが違うわけだ。

第1章 初めて原子と分子を区別したアボガドロ
第2章 遺伝の法則を発見したメンデル
第3章 蘇った孤高の天才実験家キャベンディッシュ
第4章 決闘に散った数学者ガロアと群論
第5章 カオスの生みの親ポアンカレ
第6章 大陸移動説に命をかけたウェゲナー
第7章 イオンの存在証明に苦闘したアレニウス
第8章 宇宙を夢みた独学の天才ツィオルコフスキー
第9章 一〇〇年後に花開いたギブズの熱力学
第10章 流浪の天才数学者アーベルの悲劇
というようないわくつきの本なのだけれど、一応紹介する。
書名は仰々しいが、「忘れられし論文」というような発掘があるわけではない。現代人には正当に評価されている、歴史的業績である。
本書では10人の科学者の主たる業績とともに、人となりを紹介しており、類書はたくさんあるから、そう目新しいものはない。
初めて目にしたのはギブスぐらいかもしれない。ギブス自体については熱力学の教科書ではいやというほど出てくるから、業績はもちろん知っていた。(「いた」というのは昔の話だからで、今ではすっかり忘れている。)

もう一人紹介すると、ポアンカレは本書ではカオスの先駆者として取り上げられているが、かなり幅広い研究をした人だから、読みようによっては、あれもやった、これもやった式の偉人になりがちである。

それが後世の先駆けになるから歴史に残るわけで、ニュートンのように錬金術をやっていても、そちらはむしろ歴史的評価は受けない。

ただ、ポアンカレについては、その創造・発見の秘密について、ポアンカレ自身の言葉が紹介されている。著作権に触れない範囲だと思うので引用しておこう。
……彼が一九○八年にパリの心理学総合研究所で行った「数学上の発見」と題する講義で、これは著書「科学と方法』の第三章にもおさめられている。彼によれば、独創は事実、データ、論理などといった、“既存の要素” の新しい組み合わせであり、時系列でみると意識的段階、無意識的段階、そして意識的活動の段階の三つからなるという。
 第一番目の意識的段階では、問題に関係のありそうな要素をできるだけ多く集め、それらのさまざまな組み合わせをつくり、それぞれが実を結びうるかどうかを調べる。これはまさに暗中模索の状態であり、それがやがて睡眠中、食事中、散歩中などといった第二番目の無意識的段階でも行われるようになる。この段階でインスピレーションがひらめいて、豊かに実を結ぶであろう“既存の要素”の組み合わせ――ポアンカレのいう仮説――が天から舞い降りてくる。この仮説の誕生から第三番目の意識的活動の段階、すなわち仮説の正しさを実証するために行動する時期が始まる。
この部分は、私にはとても納得できるもの。
全く科学の進歩に寄与しなかった私でも、目の前の課題を解決するとき、同じようなことをやっていると思う。

数学というのは、説明されても解らないことも多いという限定つきではあるけれど、解るときにはそんな説明が良く思いついたなぁと驚くことが多い。

代数学では、数式の変形で答えが出るというものがちょくちょくあるけれど、目の前でやられるとなるほどと納得するけれど、どうしてそんなことを思いつくのかという気にもなるものだ。
教育実習で、高校生相手に授業をしたときには、生徒たちはキョトンとして、もう一回やってくださいと言われたりした。
ちなみにもっとひどいのは、数式をぐっと睨んだらこうなるでしょう、というのもある。


ということで、著作権問題は措いて、読んで無駄なものではなかった。

空蝉

P_20180721_143341_vHDRs.jpg 暑い日が続く、夏。
セミの声もどんどん大きくなる。

昨日、ふと、庭の木を見ると、セミの脱け殻。樫の木の葉にくっついている。

木の幹や枝にあるのは良く見かけるけれど、葉っぱの上とは。
それも、結構、高い位置、地上から2mぐらいの場所。
ここまで登ってきたのだろうけど、どうやって葉の先まできたのだろう。跳び付くなんてできないだろう。
また、何を考えて、わざわざ不安定な葉先で脱皮したのだろうか。

セミの幼虫は、脱皮の場所を求めて上へ上へと歩むのではないだろうか。
葉先にとまろうとしたら、自重で葉が垂れ下がるだろうから、葉もろとも、下向きになるのじゃないだろうか。
そうなると、写真のような向きにはならないのでは。
脱皮して翅を拡げるためには、頭が上にならなければならないだろう。
ということは、葉の上で180°体の向きを変えたということだろうか。

みんながみんな、こんな風に葉先で脱皮したら、セミの脱け殻が鈴なりの木になったりして。

昨日はこの一つしか確認できなかったけれど。


脱け殻があるということは、おそらく樫の木の根本あたりには、セミが這い出してきた穴もあるのだろう。下草が邪魔して確認できないけれど。

とにかく暑い。
こっちも殻を脱ぎたい。

昆虫こわい

81cTBO1DDbL.jpg 丸山宗利「昆虫こわい」について。

書名に「こわい」とあるけれど、猛毒の虫とか、疫病を媒介する虫とか、人間に害悪をもたらす虫のことを書いてあるわけではない。(もちろんそういう虫も出てくるけれど)
これは「饅頭こわい」の「饅頭」を「昆虫」に変えたものだと著者。

この著者の名前には見覚えがある。
少し前に同じ著者の「昆虫はすごい」を読んだところである。

この本の書評は書かなかったけれど、「遺伝子が解く! その愛は、損か、得か」の記事で引用はしている。


「すごい」の方は、昆虫界を広いまま、スゴイ例を取り集めてあり、上述の引用個所であるムクゲキノコムシや、例のトリカエヘチャタテの話などもある。ただ、なんといっても図版が少なく、あっても白黒であった。
「こわい」の方は、オールカラーで、たくさんのカラー写真が掲載されている。
「こわい」では多彩な種が扱われるわけではなくて、著者が子供のころから好きだったというカブトムシとかももちろん出てくるのだが、好蟻性あるいは好白蟻性という特徴をもつ虫たちが中心である。

正直、そうした特徴を持つ虫たちだから、だいたい同じような姿かたちをしている。「こわい」と「すごい」のどちらにカラー写真が欲しいかといえば、「すごい」のほうではある。(もちろん両方カラー写真がほしいことは言うまでもない)


第1章 最強トリオ、南米へ
―ペルーその1 2012年1月
第2章 アリの逆襲
―ペルーその2 2013年9月
第3章 虫刺されは本当にこわい
―カメルーンその1 2010年1月
第4章 ハネカクシを探せ
―カメルーンその2 2015年5月
第5章 新種新属発見!
―カンボジア 2012年6月ほか
第6章 熱帯の涼しくて熱い夜
―マレーシア 2000年5月ほか
第7章 研究者もいろいろ
―ミャンマー 2016年9月
第8章 いざサバンナへ
―ケニア 2016年5月
第9章 でっかい虫もいいもんだ
―フランス領ギアナその1 2016年1月
第10章 昆虫好きの楽園
―フランス領ギアナその2 2017年1月
番外編 ちゃんと研究もしてますよ
本書の内容を簡単にまとめれば、昆虫採集で世界(主に熱帯・亜熱帯)をかけめぐって、大好きな昆虫を手に入れる話と、それまでの旅の苦労や冒険譚というわけである。
読者としては、著者の行動を、本でトレースして、追体験し、感心することになる。

クスコに行っても、マチュピチュにいかない旅行者がいるなんて。


著者が採集のターゲットにする昆虫は、ツノゼミと、好蟻性(or好白蟻性)の虫、とりわけハネカクシという種類である。
図版を見れば一目瞭然、ツノゼミは形態的変化が強調されるが、ハネカクシのほうは蟻に擬態しているわけで、結果的にハネカクシ同士はお互いに良く似ている。

無知な読者はこう考える。
好蟻性のハネカクシというのは、それぞれ近縁関係にあって(なにせどれもハネカクシだし)、寄生するアリの種類に応じてさまざまな変種が進化してきたのだろうと。

違いました!
その説明は、卑怯なことに最後、
「番外編 ちゃんと研究もしてますよ」まで明かされない。(著者最大の業績がオマケかよ)

ということで、結末は本書を読んで自分でたしかめるという人はここまで。
すぐに知りたい人は、下のボタンをクリック。




リュウグウとはやぶさ2

fig20180625-2_L.jpg 昨日、小惑星探査機「はやぶさ2」が、目標小惑星「リュウグウ」に到着したことが伝えられた。

これから、リュウグウのさまざまなデータを集めて、9月以降に小型着陸機を降ろす。来春には弾丸を撃ち込んで、「新鮮な」岩石を採取するという。

このニュースを聞いて、着陸までずいぶん時間があるなぁと思った。
そして、この間、はやぶさ2はどういう状態なんだろう、リュウグウはかなり小さくて重力も小さいだろうけど、はやぶさ2の推進力を使わず、惰性だけで周回することができるんだろうかという疑問がわいた。

ネットで情報を集めると、リュウグウの重力はまだわかっていないという。これからの観測(はやぶさ2への引力)によって、リュウグウの質量を決めることになる。
しかし、分からないからといって、はやぶさ2を軌道にのせないわけにはゆかない。ということで、ネットを調べると、仮のデータとして、リュウグウからの脱出速度(第二宇宙速度)を秒速40cmとしているという。

自由落下の状態で周回するには第一宇宙速度が必要だが、第一宇宙速度は、第二宇宙速度の1/√2だから、前述の仮の値を使えば28cm/secが第一宇宙速度になる。だいたい時速10km。
計算上は秒速28~40cmだったら、周回軌道にのっていることになる。

突飛な値ではない、ないけれど本当に、この速さで回ったら、リュウグウの周りを回り続けることができるものか、なかなかイメージしにくいところである。(計算にも自信ないけれど)
参考:宇宙速度(Wikipedia)


火星大接近2018

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記事用に昼間とったスクリーンショット
そのため火星が「天底」側にある
昨日、ワールドカップ・サッカー 日本対セネガル戦のテレビ中継を見ていたときのこと。

前半が終了して、ハーフタイムに入ったとき、庭に出て煙草を喫った。0時55分頃である。
ふと空を見ると、南東のそう高くないところに、赤い星が、強く輝いている。

夜中に庭に出て煙草を喫うとき、あたりが暗くて特に何もすることもないから、ぼーっと空を眺めることになるのだが、このような強い光を放つ赤い星は見慣れない。

火星?

スマホの "Sky Map" を起動して、その星の方向へ向けると、正体が表示された。
やはり火星である。
国立天文台のホームページを見ると、火星が大接近中で、来る7月31日が最接近日となっている。

地球が火星を追い越す周期、つまり火星の接近周期は2年2ヶ月である。
つまり、だいたい2年に1度、といっても最接近日をはさんで相当の期間、火星と地球の距離が近い状態になるわけで、火星の接近自体はそう珍しいことではない。

とはいうものの、接近の度合いは年によって違い、今年はかなり近く、火星との距離は5759万km、これほど近くなるのは2003年(5576万km)以来である。


普段、夜空を見たりしない人も、この夏は是非、火星を見ると良い。期間はたっぷりある。
強く、赤い輝きは、シンプルに感動的だ。


【追記】

この話をしていたら、"Google Sky Map"を知らない人がいたので、ダウンロードしたらと言ったのだが、なんと、iPhone版はないらしい。(似たようなアプリはあるらしい)
メジャーなスマホアプリで、iPhone版はあるが、Android版はないというケースは多いのだけれど、逆があったとは。


あなたの理系度チェックシート

竹内久美子「遺伝子が解く! その愛は、損か、得か」に、
あなたの理系度チェックシートなるものが掲載されていた。

竹内久美子式 独断&偏見判定法」とわざわざ書いてあるが、誰がみても独断と偏見としか言いようがないと思う。
それはともかく、竹内氏はこのシートに、
東大工学部卒の女優、菊川怜に対して、「所詮、 学力と頭の良さは別だ」などという評価を耳にします。確かに彼女は気の利いたコメントもできなければ、いかにも頭が切れそうだという発言も少ないかもしれない。でも、的外れな発言や勘違い、天然ボケの数々こそが理系の発想の源、そして才能の証なのです。理系人間なくしては、はたして日本経済は成り立つだろうか? 理系人間をもっと大事にしろ! そんなわけで今回は私の経験則に基づく、あなたの理系度チェックとまいります。基本的に「はい」と「いいえ」で答えて下さい。
と書いておられる。
そう、世間のイメージの理科系と、理科系の人間が考える理科系にはけっこうズレがある。
それに、理科系といっても一色ではない。竹内氏のシートから受けるイメージは博物学系ではないだろうか。数物系だとまた違うイメージになるかもしれない。

ということで、ほんのお遊びであるけれど、そのシートに忠実に、セルフチェック用スクリプトを以下のとおり用意したので、興味のあるかたはお試しあれ。

なお、配点が知りたい人は、同書をご覧ください。(スクリプトを見てもわかるでしょうけど)


あなたの理系度チェックシート
1一度会った人なら顔を覚えていられる。
2雑誌はまず目次を見る。
3歳より相当若く見られる。
4いわゆる行列ができる店にはぜひ行ってみたいと思う。
5自分は結婚生活に向いていない、と思うことがある。
6隣の家の風鈴の音が気になる。
7字が下手だ。
8Tシャツの内側のタグが肌にこそばゆく、
はずしてしまったりする。
9待ち合わせの時間に遅れたとき、本当の理由は言わず、
相手を傷つけない言い訳を考える。
10行きつけの店ではいつもほとんど同じメニューを注文する。
11お前はダメだと言われると、
本当に自分はダメなんだと落ち込む。
12温泉では個室露天風呂よりも大浴場からの眺めを楽しむ。
13世界地図や日本地図がいつも手元にある。
14昼食に出かけるとします。一人で行くことが多いですか?
二人で行くことが多いですか?
三人以上が多いですか?



「遺伝子が解く! その愛は、損か、得か」

takeuchi_kumiko_sono_ai_wa.jpg 竹内久美子「遺伝子が解く! その愛は、損か、得か」について。

この著者の本は今までに何冊か読んでいる。
基本的には、師匠(日高敏隆)ゆずりの動物行動学の知見を、人類に敷衍するもので、それなりにおもしろいものではある。
「生物は遺伝子の乗り物⇒遺伝子のコピーを増やすことが生きる意義⇒繁殖行動こそが最も重要な行動」という図式に従って、著作の多くで、性行動があからさまに描かれる。

この図式自体はその通りだと思うわけで、また、これがおもしろがられる所以であるわけでもあるのだけれど、ここにちょっとした陥穽もある。

世人におもしろがられる性行動というのは、それがどんなものであれ、生物の世界をながめれば見つかるものである。人類の歴史なんて短いもので、その何万倍もの長い時間、進化を重ねてきた生物には、子孫につないできた生き方に、それこそ想像を絶するバリエーションがあるわけだ。
第1章 たかがセックス、やっぱりセックス!
第2章 真似したい?真似したくない?
動物たちの羨ましい生態
第3章 こんなことも、あんなことも。
いろいろあります、人間ですから
第4章 奇妙な動物大集合!地球は誰のもの?
第5章 美しく咲き誇るだけではない植物たちの現実
第6章 陸、海、空―。
ムシ、トリ、サカナだって大活躍
つまり「こんな生き物がいる、人間と同じだ」という言説は、驚くにはあたらない。

逆に、人間でもこんなことをする人がいるけれど、生き物にはもっと巧妙なことをするのがいる。考えてやっているわけではないだろうに、そういう行動には驚くしかない、というのが正しい驚き方。
あるいは、人間にはとてもマネごとしかできないやつがいる!(たとえばトリカヘチャタテ)と驚く。

とまあ、随分といかめしい書評になったけれど、エッセイとしては大変おもしろい。本書は週刊文春に10年ぐらい連載された、読者からの相談に答えるという形のコラムをまとめたものらしい。
相談にはヤラセもありそうだが、この週刊誌の編集方針というかカラーに則った問答が選ばれたのだろう。なかには、よくそんなことに気づいて、疑問に思ったなぁというような質の高い質問もあって、感心させられる。

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乳つき順位
また、本書の末尾に、挿絵を書いた寄藤文平氏の解説(あとがき?)が載せられている。
それによると、有名週刊誌で仕事をしていることで、両親に安心してもらえたとある。ただ、ああいう絵はなんとかならんの?とも言われていたそうだ。

下ネタと言ってしまっては、著者に怒られるかもしれないけれど、そういうウケねらいもあるだろう(出版社には間違いなく)。
そのあたりをなんの衒いもなく、ズバリ言うのがこの著者の一貫した姿勢である。
竹内氏によれば、日本のリベラルは金玉が小さいという。氏がどういうのをリベラルと仰っているのかわからないけれど、私は自称リベラリストである。であれば……

先生にお聞きしたい、金玉が小さい男と、大きい男、どちらが性的に興奮しやすいんでしょうか?

ところで、ムクゲキノコムシの一種には、体長より長く大きな精子を持ち、それを交尾相手の雌に渡すものがいるという(丸山宗利「昆虫はすごい」)。

キーウィの卵の大きさは有名だが、精子の大きさでこれは。

こいつはどうですか、竹内先生。

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「技術の街道をゆく」(その2)

畑村洋太郎「技術の街道をゆく」をとりあげる2回目。
前回(昨日)は、同書の内容のうち、とくに具体的な「景色」をピックアップした。
今日は、なぜ日本の製造業がダメになっているのかという指摘の部分に注目する。

Roppongi-hills-kaitendoor.jpg 第1章から第4章までは、日本の技術現場がどんなふうに頑張って来たかを紹介しているが、「第5章 技術の系譜をたどる」では、特定のテーマではなくて、やや抽象度を高めて、失敗例を引き合いに出している。 一つの例として、六本木ヒルズで起こった回転ドアでの死亡事件がとりあげられる。

この事件のすぐ後に、ヒルズにある会社に用事があってこの現場の脇を通ったことがある。まだ、黄色いテープで通行禁止になっていた。


この事故の根本的な問題は、極めて重たい、人力ではとても止められそうにない慣性を持つドアを作ってしまったことであると指摘する。そしてそれに見合う強力な動力を用いて、その重たいドアを「制御」するという発想の不健全性。

回転ドアが考案されたのは、そもそも寒い地方で、ドアを開けたときに外の寒い風が吹き込まないようにするためである。なぜそれを日本の東京で使ったのかということも問題である。

回転ドアというか回転ゲートには違う使い方もある。それは人の流れを一方向に限るという使い方。普通のドアだと、開いていると出入のどちらの方向も可能になるが、回転ゲートにして、回転方向を一方向にすることにより、出入の一方向だけを許可することができる。小学校の遠足のときに、須磨水族園の出口で見て、簡単な仕掛けだけど、良く出来ているなぁと感心した覚えがある。


この「制御」に過度に頼るというのは、今日のITが進んだ世界ではやりがちなことであるけれど、本書では、安定には、制御安定と本質安定というのがあると指摘する。物理学などでは、動的平衡と静的平衡というような言い方にあてはまる。

磁気浮上式鉄道で、JRは軌道上の磁石と車体の磁石の反発を利用する。この場合、車体が沈むと磁石間の距離が短くなり反発力が強くなるから車体を浮かせるように磁力が働く(逆の場合は逆)。
これに対し、磁力を吸引力として利用する方式も研究されていたが、そちらは制御安定の例である。個人的には不安を覚える。


20180421IMG_0001b.jpg 「第6章 道なき道をゆく」では、日本の製造業の問題点に触れる。
まず「伝える」と「伝わる」が違うということは、前のほうで書いてあって、そのとおりだと納得させられるのだけれど、この章では「伝える」ことの大事さが強調されている。

著者独自の「思考展開法」というものが説明される。

著者は、エンジニアだと思うけれど、エンジニアリングというところまでの体系化は、実は厳しい。演繹的に考えているというより、うまくいったとか、失敗したとかの経験を少しでも見えるようにしたものだと思う。


Hatamura_shiko_tenkaihou.jpg そして、この思考展開法を著者が考えたのは、私も完全に同意するのだが、日本のメーカーは顧客ニーズを把握していないという現実に気づいているからだろう。
良いものなら売れるという時代は終わった。今は価値、顧客にとって価値のあるものが売れる時代である。言い換えれば、作れば売れるという大欠乏時代から、デマンドサイドへシフトしている。

思い返せば、日本が成長して日米貿易摩擦を引き起こした時、米国から、どうして米国製品を買ってくれないのか、こんなに良いものなのに、という苦情があったのだけれど、米国企業は自分たちが作っているものが最高だと言って、それを押し付けてくる。しかも、マニュアルすら日本語化しない。対して日本は米国のニーズにあわせて製品を作っている。という話があった。
今の日本の製造業の態度は、当時の米国企業のようになっているわけだ。


顧客ニーズを捕まえ切れていない、言い換えると、How toには長けているが、Whatあるいはfor whatが下手であるということなのだが、そうやって売れないものを作っていると、コストダウンばかりに目が行く、そして人件費の安い海外生産などでしのいでいるうちに、生産技術においても日本は中国に遅れをとりつつあるという。

もちろん土地の広さ・価格が違いすぎるから簡単に評価はできないのだけれど、中国の向上は製造ラインの周りはガラガラなのだそうだ。
それを日本の技術者がムダではないかと指摘すると、中国側からは、これは時間への投資だという答えが返ってくる。どういうことかというと、ラインの構成要素の変更や、製品仕様の変更などがあったときに、すぐに現行ラインの脇にそれに対応した工程を組み込めるという。

日本の技術者にはマニュアル化された知識に頼りすぎるという面があるのかもしれない。
20180421_IMG0000b.jpg また、前後するが、技術にはブレークスルーがあって、同じことをしていては限界を超えることができない。成功体験にしがみつくことの危険性もある。

さて、本書では、鉄、津波、コンクリートと磁器と、まったく異なる分野の話がとりあげられているけれど、心的態度には(同じ人物だから当然と言えば当然だが)一貫したものを感じる。それはエンジニア魂とでもいうものだろうか。

よく理科系とか文科系とかいうけれど、文科系、とりわけ役人というのは、お金の配分だけ考えていて、事業のパースペクティブを持っていない。持っているのは「落としどころ」だけ。
理科系というのは興味本位で、見通しを持っていない場合もあるかもしれない。しかし、創造的なビジョンを本当に持てるのは文科系ではなくて、理科系のほうではないだろうか。

もしシャープが産業革新機構によって「救済」されていたら、悲惨なことになっていただろう、鴻海に買収されたからV字回復ができたのだという話もある。(⇒「産業革新機構でなくてよかった」

経産省(通産省)が日本の産業発展をリードしたというのも、たまたまうまくいったものもあれば、そうでないものも多い。(国が伸ばそうとした産業はよくコケる。)

旧い話だけれど、ホンダが乗用車を製造しようとしたときに、トヨタ、日産などの寡占市場を守ろうとしたが、ホンダはそれに従わなかった。結果はご覧のとおりである。(政府による妨害という試練を乗り越えられるところが成長する)

全然知らない分野だけど、国産ジェット旅客機(MRJ)があやうくなっている一方、ホンダ・ジェットは快調のようである。前者には国費でも入っているんだろうか。


「技術の街道をゆく」

71MypF-3IpL.jpg 畑村洋太郎「技術の街道をゆく」について。

本書を読んで、自分の経験に照らして、その通りだと思える人は理工系(だと思う)。

専門分野が、自然科学・工学か、社会科学・人文科学かということとは相関はあるけれど、絶対ではない。


「街道をゆく」というのは、もちろん司馬遼太郎の旅行エッセイのタイトルに倣ったものである。司馬遼太郎の文と須田剋太の挿絵(この原画が大阪府庁の廊下に展示されていたのを見たことがある)で人気の高かったエッセイである。
本書の著者は、このエッセイの融通無碍にフッと話題が切り替わりながら、印象的な洞察が語られる点が気に入っているとのことで、それにあやかったと説明されている。

その「街道の風景」から、印象的なものを拾い出してみる。

まずは「鉄の道をゆく」、ここには戦後の日本製鉄業の技術革新の様子が描かれている。

著者は鉄にはかなりのこだわりがあるようで、著者自身が製鉄所を見学したことや鉄の専門家から教えられたことが併せて語られる。

はじめに
第1章 鉄の道をゆく
技術の道に踏み出す/鉄の覇権を握る/技術の覇権は移り変わる/Sカーブを乗り換えられるか
 
第2章 たたらの里をゆく
村下を訪ねて/たたらの歴史/真の村下/木原さんの仕事/たたらの作業現場/たたら製鉄のプロセス/「伝える」ということ/雨の恵みとたたら製鉄
 
第3章 津波の跡をゆく
定点観測/防潮堤の役割/電気を信用しない/人間の帰巣本能/神社の分布と津波/津波石を見に行く/明和の巨大津波
 
第4章 ミクロの世界をのぞきに行く
岩を作り直す/ストーク·オン·トレント/ミクロの視点から見る/酒井田柿右衛門/変えないことの価値/時間軸を入れて変化を見る
 
第5章 技術の系譜をたどる
アイアンブリッジで考えたこと/マンチェスター·リヴァプール問鉄道/止まらない機関車/「動かす」と「止める」/制御安全と本質安全/ドアプロジェクト/回転ドアの系譜/問題設定の問題点
 
第6章 道なき道をゆく
GDPとオートバイ/イミテーションを抱き込む/How思考から抜け出せ/価値を生み出すWhat思考/良い物とは何だろうか?/リマンの効用/要求機能をあぶり出す/潜在化しているものを掘り出す/利益の源泉/リードタイムを短くする/会社の価値の増大/道なき道をゆく
 
付録 考えを作る―思考展開法とは何か
思考展開法の基本的な考え方/思考展開法のプロセス/発表と討論の重要性/思考展開法の有効性
日本製鉄業は、技術革新に取り組まなければ生き残れなかった。それは日本の鉄は、それまで 米国の鉄屑輸入に頼っていたのだが、米国側が輸出を規制したことにより、原料鉄が得られなくなったからだという。
小学校の社会科で貿易についての授業のとき、日本がアメリカから輸入しているものに鉄屑があって、子供心に、ゴミを売ってもらってるんだと、なんだか情けない感じがしたものだ。

しかし、日本は、これを機に、高炉を整備し、LD転炉を導入したのだそうである。とくに、銑鉄を鋼に転換する転炉を使いこなすことで、日本製の鉄鋼の高品質が生まれたということのようだ。最近、中国が圧倒的な鉄生産量を誇るようになっているが(トランプに叩かれている)、それまでは日本が世界一だった。そして「鉄は産業のコメ」と言われていたことを思い出す。

次の風景は「たたらの里をゆく」である。この章もまた鉄のことである。
たたら製鉄については、旧い製鉄法で、伝統技術として保存されているものぐらいに思っていたけれど、実は、たたら製鉄の技術は、少なくとも2度、途絶えているのだそうだ。
今、たたら製鉄を行っている技術者(「村下(むらげ)」という)は、その途絶えた技術をなんとか再現、再発明しているということだ。
また、たたら製鉄は、砂鉄から一気に鋼を取り出すもの(前章の高炉[銑鉄]→転炉[鋼]と異なり)で、そう言われればなるほど、玉鋼を刀鍛冶が鍛造していく動画になるのだなと、これはこれで驚きである。

さらに、視野を広げて。
たたら製鉄は大量の燃料、すなわち木材が必要となる。そして製鉄拠点出雲へ木材を供給するのは中国山地の山林ということになる。それが秀吉の朝鮮出兵のため、大量の武器が必要となり、このため中国山地はいたるところ禿山となったそうだ。そして、それによって、土砂崩れの危険地域があちこちにできてしまった。先年の広島での土砂災害も無関係ではないらしい。

厚労省のデータ捏造が問題になっているが、その陰で同じように捏造資料を使って国会を通した「森林環境税」で、本当に森林管理が良くなるんだろうか?


次の風景は「津波の跡をゆく」。鉄からうってかわって津波の話になる。
ものづくりというものとは少し趣が違うわけだが、ここで著者が指摘することは2つある。

20180421IMG_0002b.jpg 一つは「いなす」という発想。古い堤防は波の力をまともには受けないように、海に対して楔のように作られている。しかし、新しい堤防は、まるで津波と力相撲でもとるかのように向き合っている。そして東日本大震災では、その相撲で手もなくひねられてしまった。

もう一つは電気を信用しないということ。堤防の扉は電気がこなくても、人力や重力で閉まるように工夫されていて、その仕掛けが錆びつかないよう、点検と手入れがきちんと行われている。「全電源喪失」で大変な事態を招いた近代設備とはなんという違いだろう。

20180421IMG_0003b.jpg また、著者は石垣島で「津波石」というものを見て回ったとのこと。石垣島には84mもの津波が来襲した記録があるとのこと。上陸したら高さは下がるだろうけれど(84mはおそらく最高到達点)、それにしても大変な高さだ。

特定の対象をとりあげた風景は「第4章 ミクロの世界をのぞきに行く」までである。
であるけれど、この章のタイトルはミクロの世界になっているのだが、この章は巨大なダムの話からはじまる。
あれれと思っていたら、この章のテーマは陶磁器の微細構造についてである。それがダムのコンクリートの構造に通ずるものだということで、ダムの話から入っているわけだ。
陶磁器というが、主にとりあげるのは有田焼。陶石から作られる磁器の方。ダムが陶器のように空気を含んだ粗い構造では困るわけだ。
ここでも秀吉の名前が出てくる。朝鮮出兵で連れ帰った朝鮮の陶工によって、九州各地の陶磁器が生まれたことは良く知られている。有田に良い陶石を発見したのも朝鮮人の陶工らしい。

もっとも私はお茶を飲むのは陶器に限ると思っている。磁器は熱伝導が良すぎて、熱いお茶は飲めない。

ダムは岩を、人間が作り直しているものだという。(磁器は石というのかな)
形としてはダムであったり、お皿や茶碗だったりするけれど、その構造は岩のそれで、しかも均一で破綻のないものにすることが理想である。

著者には書き足りないことはたくさんあるのだろうけれど、エッセンスは十分伝わってくる。
そして、最終的には、なぜ日本の製造業がダメになっているのかについて、エンジニアの眼で明確に指摘される。

ブロッコリーと青虫

P_20180603_135851_vHDR_On.jpg 先日、庭に出て煙草を喫っていたら、ブロッコリーにモンシロチョウがとまっていた。

家の中では喫えないルールなので外へ出る。
マンションだと、近頃はベランダで煙草を喫うと、上や横の部屋から、煙が入ると、そして下の階からは灰が落ちてくると、苦情が出て、ベランダは禁煙だというところもあるらしい。
マンションでなくても、建てこんだ住宅地も、同様の問題があるらしい。


さて、モンシロチョウだけれど、卵を産みにきたのだろうかと、見てみると、葉っぱが既に食害されている。
注意してみると、既に成長した青虫が3匹。
さらに、葉裏にも小さな幼虫を数匹発見。

実はこのブロッコリー、残念ながら食べられるようなものにはならなかった。
普通に見かけるこんもりした芽がちょっと出ては、黄変してしまう。
ということで、この際、このまま青虫が食べるに任せて、チョウになってくれるのも良い。

心配なことは、見た通り、葉の量が少ないから、ちゃんと蛹に、そして成虫にまでなれるかどうか。
葉裏にいる数匹の幼虫にまでは、餌がいきわたらないのではないだろうか。

モンシロチョウはアブラナ科を食草とする。
ブロッコリーもアブラナ科である。
見た目が違っていてもアブラナはアブラナということがチョウにはわかるらしい。


鳥たちの繁殖期

P_20180522_071006_vHDR_On.jpg 今、鳥たちの繁殖期らしい。

このところ、自宅付近で鳥の鳴き声が騒がしい。
ヒヨドリやら、スズメやら、たくさんの鳥を見かける。

近くにあった山林が宅地になったため、そちらにいた鳥や動物たちが、付近にあふれだしてきたのかもしれない。

そして、この季節はなんといってもツバメが多い。
あちこちにツバメが巣を作っている。

ツバメは人家に巣を作ることが多い(カラスなどを避けるためらしい)から、ツバメの行動は山林がなくなったこととは、直接は関係なさそうだ。


P_20180522_071002_vHDR_On.jpg 前にも写真をアップしたことがあるが、駅にも何カ所も巣ができている。

初夏の訪れ(2017-05-08)
いよいよ巣立ち(2017-06-15)

今日の写真は、駅の入口にある監視カメラの上に作られた巣。

忙しく飛び回っていて、この写真を撮ろうとしたときにも、低空飛行で向かってきたので、おもわず身を低くした。

もうしばらく、このにぎやかな状態を楽しもう。
健やかに。
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○○マツタケ

Bakamatsutake.jpg ネットのニュースに
マツタケ近縁種のバカマツタケ 人工栽培に初成功」という記事が出ていた。

バカマツタケというキノコについては、名前を聞いたような記憶はあるけれど、この名前から想像するのは、
  • バカがマツタケと間違える
  • バカのように生えてくる
というようなもので、毒キノコか、よしんば毒がなくとも味・香りは似ても似つかぬ、つまり食用には適さないものに違いないと思っていた。

マツタケ近縁種のバカマツタケ
 人工栽培に初成功
 良食味生かし有利販売へ 奈良県
 奈良県森林技術センターと森林総合研究所は27日、マツタケと近縁種のバカマツタケの人工栽培に初めて成功したと発表した。バカマツタケは、マツタケと見た目や食味、香りが似たきのこ。菌糸を培養して苗木と一緒に植え、広葉樹の多い林で発生させる。採集より安定生産が見込め、良食味を生かした有利販売ができるとして、奈良県内のきのこ農家に技術の普及を進める。
2/28(水) 日本農業新聞
この人工栽培成功というニュースを見て、あらためて「バカマツタケ」でググると、名前の由来は、松林以外でも生え、時期も少し早いということからだという。

松茸に似たキノコとしては、バカマツタケのほかに、マツタケモドキ、ニセマツタケというのもあるという。(⇒秋の味覚「マツタケ」の偽物に注意!~マツタケモドキ、バカマツタケ、ニセマツタケ~(味覚ステーション)
このなかでは、バカマツタケは味・香りが松茸に似ているそうだ。Wikipediaにも美味と書かれている(松茸より柔らかいとあるけれど、ふにゃふにゃでは松茸の食味は殺がれるかも)。

それにしてもこの名前では八百屋・スーパーに出しにくかろう。
学名も"Tricholoma bakamatsutake"で、今さら正式名称を変更することはできないだろうから、買ってもらえそうな愛称、ブランド名を考案する必要があるだろう。

オソマツとかチョロマツとか(赤塚不二夫「おそ松くん」)や、コンマツ(「番頭はんと丁稚どん」)というわけにはゆかぬ。
「マタケ」というのも考えて見たが、これも受け入れられそうにない。
ここはやはり、人工栽培に成功した奈良県であるから、素直に「ナラマツタケ」というような名前だろうか(ナラタケは既存の別種)。

そういえば、普通に「シメジ」として売られているものはブナシメジという種で、本当のシメジとは違うもの(本当のシメジは栽培困難で流通量は少ないという)。
そういえば、松茸・シメジと並ぶキノコといえばシイタケだが、「まるしいたけ」という種類がある。これも食べてみたい。


私は、春(夏)の筍、秋の松茸は、季節を感じるものとして、必ず食べることにしている。
もっとも、日本産は高価でとても手が出ないので、もっぱら北アメリカ産のものを買うことが多いのだけれど、バカマツタケはこれらより安く出されるだろうか。(バカみたいな値段を期待。)

いつから出荷されるようになるだろう。ニュースは今年の秋は未だ無理のように読めるけれど。

韓国で松茸の人工栽培に成功したというニュースもあるが、市場流通は未だではないだろうか。


「ナメクジの言い分」

Adachi_Norio_Namekuji_no_iibun.jpg 足立則夫「ナメクジの言い分」について。

これも岩波科学ライブラリーの一冊。
であるけれど、ちょっと毛色が違い、科学書とは言いにくく、しかも科学者でない(けれど科学する)人が書いたエッセーというべき本(著者自身がそう書いている)。

ナメクジといえば普通は嫌われ者、殻があるカタツムリは愛嬌があって子供のおもちゃにもなるが(殻があるからナメクジのヌメヌメしたところを触らなくて良いからではないだろうか)、ナメクジ相手に遊ぶ子供というのはまず見ない。

私の家でも、庭にはたくさんのナメクジが棲息していて、家人が大事にしている花などは相当被害を受けている。したがってナメクジを誘引・退治する薬剤を置いたこともある(ああ、なんと罪深いことをしたのだろう)。


さて、著者は、生物学とか動物学とかの学者ではなくて、したがってナメクジで飯を食っているわけではない。ジャーナリスト、それも科学ジャーナリストではなくて、社会、経済といった分野のようである。

1 晩秋のナメクジ
季節外れによく出遭う/きっかけは娘のマニキュア/エスカルゴも同じ仲間/八〇年代に忽然と消えたキイロ/目撃情報からナメクジマップ/北海道は宝庫/東北にもチャコウラは進出/新しい外来種が侵入しつつある関東地方/皇居も小笠原もわが故郷青梅もチャコウラに占領された東京/神奈川も米軍施設周辺はチャコウラの天下/宙に浮くナメクジも,拝まれるナメクジもいる中部地方/近畿の海岸線はチャコウラの天下/中国・四国地方,瀬戸内の島にも進出するチャコウラ/チャコウラは九州・沖縄にも渡る/ヨーロピアンブラッグが世界各国を席巻する?
 
2 銀の筋は何なんだ
逃げ出したチャコウラ/「ゆっくりと」の警句の下で憤死/頼りになる米ソの文献/粘液には七つの機能/一つの足でなぜ動く/四本の角は視覚,嗅覚,味覚のセンサー/口には二万七〇〇〇枚もの鋭利な歯/便秘のナメクジがいてもおかしくない/喘息のナメクジはいない?/脈拍は人間と同じ/男性器も女性器も併せ持つ/超節電型の脳
 《コラム》平和な退治法
 
3 闇に包まれたライフスタイル
夜な夜な徘徊する/多くは菜食主義/天敵にはコウガイビルも/寒さの中で産卵,孵化する/広東住血線虫が寄生する/塩が苦手,砂糖は大丈夫
 
4 なぜ生き残ったのか
独立記念日はいつなのか/殻を捨てたのはなぜなのか/恐竜が絶滅したのはなぜなのか/ナメクジが生き延びたのはなぜなのか/ナメクジ史観とは何か
 
5 ナメクジに引かれた人たち
ナメクジに憑かれた研究者/文学大賞は内藤丈草と中村草田男,清少納言と村上春樹は落選/語源はどこから?/薬にしていた地方も/ナメクジ祭りの起源
そんな著者がなぜナメクジに興味をもったか、それはひょんなきっかけだったという。
マニキュアがきらいで、娘たちがマニキュア、ペティキュアを塗っているのをいまいましく思っていた著者が、あるとき銀色に光る筋を見つけ、娘たちのマニキュアがこぼれていると思い込んで叱りつけたところ、その銀色の筋をたどると、窓の方へ続き、あきらかに、それはナメクジの跡であることが了解され、娘たち、および彼女たちの母、つまり妻から、大逆襲に会う。
それがナメクジとはどういう生き物だろうという疑問と探究心が発現したのだそうだ。

だから、自身のナメクジ研究といっても、生体を解剖したり、化学物質(塩、砂糖を除く)の作用を調べるなどという、ハードなものではなくて、主として観察によるものである。

一番の特色は、人的ネットワークを活用した、ナメクジ分布の調査である。
といっても、特定地域をなめるように調べて、統計的手法で分布を推定するというような方法ではなくて、ナメクジを見つけたら報告してくださいという、実におっとりとしたやりかたである。
そんな中、現物を送ってくる人もいて、それが自身でナメクジを飼育することにもつながったらしい。

どこにでもいて、しぶとい奴と思われていそうなナメクジだけれど、飼育するとなると、これが案外難しいらしい。


だから、著者の研究は、自身の観察と、研究者からのヒアリング、諸文献の渉猟という方法になる。

ナメクジの研究者というのは、それは変な人が多いらしい。そういう人にはやはり著者同様、もともと文科系だったけれど、ナメクジへの興味が嵩じて生物学に転向したという人も複数紹介されている。


本書では、そうして集められた情報、考察に加え、文学におけるナメクジが取り上げられている。
残念ながら、ナメクジが登場する文学作品は数少ない。そしてその多くはけっして好意的なものではない。
著者が文学大賞を与えるとすれば、内藤丈草・中村草田男としている。(二人とも「草」が入っている。ナメクジの好物か。)内藤丈草は「芭蕉の十哲」に数えられる俳人だそうだが、次の一文が紹介されている(蛞蝓(かつゆ)とはナメクジのこと)。
多年屋ヲ負フ一蝸牛、化シテ蛞蝓トナリ自由ヲ得、
火宅最モ惶ル延沫尽ンコトヲ、法雨ヲ追尋シテ林丘二入ル

Teduka_Hinotori_namekuji.jpeg 文学作品というわけではないけれど、ナメクジが登場するフィクションといえば、本書でも触れられているけれど、手塚治虫「火の鳥-未来編」で、進化をやり直す過程で、ナメクジが知性を獲得し地球を支配する世界が現出し、そしてそれがあっけなく崩れていくというもの。

UltraQ-namegon.jpg もう一つ、私が覚えているのは、テレビ・シリーズ「ウルトラQ」で、巨大なナメクジが地球に飛来して、人類を脅かすもの。ただし、このナメクジ、最後は海に落ちてあっけなく死んでしまったと記憶している。

著者が本書を執筆して、一番希んでいるのは、「いみぢうきたなきもの なめくぢ」(枕草子)という、一面的で無思慮な言葉で片付けてしまう人が減ることだろう。

それにしても、全くの素人、関連分野の素養すら怪しい素人でも、探求心を持つことで、こんなに興味のひかれる本が書ける。
老境に入るものにとって、さわやかである。

「お茶の科学」

大森正司「お茶の科学―『色・香り・味』を生み出す茶葉のひみつ」について。

Ocha_no_kagaku_Omori.jpg ブルーバックスの1冊。
ブルーバックスには「コーヒーの科学」(旦部幸博)という本もある。こちらはいわば姉妹編(お茶が後だからさしずめ妹か)ということになるか。

中学生のとき、紅茶に凝ったことがある。
ダージリンとか、アッサム、オレンジペコとかイングリッシュ・ブレックファストといった種類のリーフティーを集め、自分専用のポットを使って紅茶を入れていた。
もちろん、お湯は沸かしたてを使い、カップは前もって温めておくのは当然である。

紅茶のブランド物などは田舎では手に入りにくい。比較的高級なもので、当時どこでも手にはいるものといえば、トワイニングぐらいだったと思う。今だとトワイニングのダージリンだと、今の価格で1,000円/100gぐらいじゃないだろうか。
この頃は、マリアージュ・フレールとか、ルピシアとか、高級紅茶の店が増えた。これらだともちろん種類によるけれど、2,000~3,000円/100gというところだろうか。ダージリン・セカンド・フラッシュとかこだわるとさらに高価になる。

もっとも、普段飲むなら、リプトンのイエロー・ティーバッグがなんといっても気を使わず、扱いやすくて、それなりに紅茶の味わいがある。(これ以下だと、香りも味もなく、色だけ着く。)

リプトンのイエロー・ティーバッグは、浸出時間が長すぎると色は濃く、味は苦くなるのに、1つで2杯出そうとすると、2杯目はやたら気の抜けたものになる。1杯だけではもったいない気がするのに、2杯にすると情けなくなる。2杯分ぐらいの大きなカップにたっぷり入れるのが良いのかな。(お茶を出す、お茶を入れる、同じなのに逆の言葉だなぁ)
なお、本書によると、正しい入れ方は、まずお湯をカップに入れ、ティーバッグをその中に浸して1分間ほどそのままにするというもの。もちろん2杯出そうなどという貧乏根性はダメである。


それに、ティーバッグを馬鹿にしてはいけない。
ティーバッグの場合は、リーフグレードで、D(ダスト)とか、F(ファニングス)、BOPF(ブロークン・オレンジペコー・ファニングス)という、細かい葉が使われるが、茶葉の品質として悪いわけではないという。

等級の高い煙草の切れ端で作るシートタバコが、低等級の通常刻み葉のタバコより味わいがあるのと同様ではないだろうか。


第1章 お茶の「基本」をおさえる
~どんなお茶も、すべて同じ「チャ」だった
第2章 お茶はどこからきたのか?
~チャと茶のルーツを巡る旅
第3章 茶葉がお茶になるまで
~色や風味はいつどうやって作られるのか
第4章 お茶の色・香り・味の科学
~おいしさは何で決まる?
第5章 お茶の「おいしい淹れ方」を科学する
~煎茶を“玉露” にする方法
第6章 お茶と健康
~なぜお茶は身体にいいのか
第7章 進化するお茶
~味も楽しみ方も変える技術
本書では、緑茶やウーロン茶、さらには後発酵茶もとりあげられている。
ウーロン茶などについてはわからないけれど、緑茶は、紅茶よりもずっと繊細である。昔から、田舎の茶舗でも、かなり高いものが売られていて、そういうお茶は、葉がピンと細く巻いて、その抽出前の葉の上品さは、紅茶の比ではない。そして、トワイニングのダージリンの数倍の値がついていたように記憶する。

緑茶、つまり日本茶といえば茶道、煎茶道というわけで、子供が自分の小遣いでできるようなものではない。それらは「修行」みたいなものだから、趣味というには違うような気がする。
結局、紅茶の方が無難で近づきやすい趣味なのである。(日本の伝統というのは、どうして、こう重々しくて高くつくんだろう。)

さて、昔から、紅茶といえば、ミルクかレモンかという論争があるけれど(本書でも書かれているが、種類によっても向き不向きがあるらしい)、私は基本はストレートである。

そういえば、ミルク・ティーは、紅茶にミルクを注ぐのか、ミルクに紅茶を注ぐのかという論争もあった。


この頃はミルクかレモンかで論争になるどころか、フレーバー・ティーというのが流行っている。
紅茶の有名店というところへ行くと、ダージリン・セカンド・フラッシュなんてものも置いてたりするのだが、フレーバー・ティーが広い場所を占めている。当然、ストレートのリーフティーよりバリエーションが豊富だからそういうことになるのだろう。

私はフレーバー・ティーというのは、あんまり好きじゃなくて、出されたら飲むとしても、喫茶店でそうしたものを注文したり、そうした種類の紅茶を買うことはない。

フレーバーということではないが、以前はブランデーを滴らしたりしたこともあったが、この頃はブランデー自体が我が家には常備されていない。


そう思っていたところ、本書で著者が一言。
ところが、最近ではこうした紅茶本来の味を知らない人も少なくありません。「紅茶が好き」いって毎日飲んでいる人でも、話を聞いてみると、口にしているのはフレーバーティーである人が意外に多いのです。
    <中略>
 「どんな紅茶が好きですか?」と訊いたとき、瞬時に「アールグレイ」とか「ローズティー」などと答える客人には、筆者は笑顔で、次回からは出がらしの紅茶を煮出して差し上げることにしています。
 フレーバーティーしか馴染みがない人に、紅茶本来の渋みや香り、重厚さを味わえるリーフティーを淹れて差し上げると、「これが本当の紅茶の味なんですか!?」とたいてい驚かれます。
フレーバー・ティーをお洒落だと思って飲んでいる人が聴いたら、何と思うだろう。
筆写はフレーバー・ティーを馬鹿にしているわけではないだろう。ただ、そうした装飾をほどこさない、ストレートなお茶の味わいというものを知ってもらいたいということだと思う。その上で、お茶に自分の好みの香りづけを楽しむ、それはそれで好き好きだろう。

スーパーブルーブラッドムーン with cloud

昨夜は皆既月食
それも、スーパーブルーブラッドムーンというそうだ。

月が地球に接近した際に見える月は
「スーパームーン」。
1カ月に2回、満月になる現象は
「ブルームーン」。
さらに皆既月食で、月の表面が赤っぽく見えることから
「ブラッドムーン」。

地球上でこの現象がみられるのは、35年ぶりだとか。

で、朝から天気予報をチェックしていたが、曇の予報である。

夜7時頃は、薄い雲がかかっていて、この雲が厚くなるのか、それとも薄くなるのか。半分あきらめながら、その時間を待つ。

そして、食が始まる時間、雲はかなり薄くなったようで、写真も撮ることができた。

CANON Power Shot SX30 IS。
最大望遠(35mm換算で840mm相当)にして、手持ち撮影(以下同様)


ベタな天文ファンというわけでも、写真に凝っているわけでもないから、だいたい15分おきぐらいに撮影することにして、少し食が進んだ状態、半分ぐらい欠けた状態までは、まず順調に写真を撮ることができた。

しかし、食が始まって約45分後、また雲が濃くなって、朧月に。

そして、皆既になった頃には、ほとんど見えなくなった。
それでも、しばらくして、少し薄くなったか、肉眼では赤い月がかろうじて見えた。写真を撮ることは撮ったけれど、やはりぼやっとした像にしかならなかった。

空模様を見る限り、もう雲が晴れる、あるいはもっと薄くなることは期待できそうにない。
結局、皆既が終了する23:08頃もほとんど見えない状態。

その後、皆既が終了し、日の当たる状態になって、月が光っていることはわかるようになったが、雲が厚くて、欠けていると見える状態ではなく、全体にぼやっとした光るものがあるといった見え方。
しかたがないので、ここで観察は終了。

まじめに観察するなら、ちゃんと望遠鏡をセットしなければならないだろう。


私などは、こういう天体ショーのときだけのファンだからいいけれど、これを楽しみに、ずっと準備してきた人たちにとっては、何も今夜に曇らなくても、だいたい午前中は晴れてたじゃないか、と恨み言を、どこにもぶつけようのない恨み言を言っていることだろう。

今回は、月食を見られる範囲はかなり広く、アメリカでも見えるとのこと。
あちこちでライブ中継もしているようだし、日本でも北海道の北見あたりは良く見えたと報道されていた。東京も関西よりは良く見えていたようだ。

そういう画像を暖かい部屋でゆっくり見ることにしよう。

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国立天文台の皆既月食案内ページから


怖くて眠れなくなる植物学

はじめに
 
PartⅠ 植物という不気味な生き物
何度でも蘇る
不老不死の生き物
超大国を作ったイモ ジャガイモ
命短く進化する
トウモロコシの陰謀 トウモロコシ
利用しているのは、どっちだ キャベツ
人類が働かなければならない理由 ヒトツブコムギ
人間が作りだした怪物 メキャベツ
ゴジラに登場した植物怪獣 オレタチ
植物と動物の違い ミドリムシ
私たちの祖先と植物の祖先 ミドリアメーバ
雑草は抜くほど増える
除草剤で枯れないスーパー雑草 チューリップ
バブル経済を引き起こした花
 
PartⅡ 奇妙な植物
もし、あなたが虫だったら ハエトリソウ
人食い植物の伝説 デビル・ツリー
これが、仏の仕打ちなのか マムシグサ
ジャングルの人食い花 ラフレシア
黄色い吸血鬼のパラサイト生活 ネナシカズラ
絞め殺し植物の恐怖 ガジュマル
歩き回る木 ウォーキングパーム
ライオンを殺す草 ライオンゴロシ
美しき悪魔 ホテイアオイ
植物は逆立ちした人間である
植物に感情はあるか? ドラセナ
墓場に咲く花の理由 ヒガンバナ
動物を生みだす木 ワタ
幽霊は柳の下に現れる ヤナギ
「白鳥の王子」の真実 イラクサ
不幸のクローバー シロツメクサ
天変地異がやってくる タケ
伝説のケセランパサラン ガガイモ
 
PartⅢ 毒のある植物たち
毒の森でリフレッシュ
毒を使うプリンセス ベラドンナ
その声を聞くと死ぬ マンドレイク
ブスになる トリカブト
魅惑の味はやめられない コーヒーノキ
変わり果てた姿に セイタカアワダチソウ
お菊さんの呪い ウマノスズクサ
七夕の真実 ホオズキ
麻酔の始まり チョウセンアサガオ
植物の毒の誘惑 カカオ
 
PartⅣ 恐ろしき植物の惑星
共生の真実 マメ科植物
操られしもの ドクムギ
アインシュタインの予言
密閉された空間
葉っぱ一枚に及ばない
蘇る古代の地球
 
おわりに
稲垣栄洋「怖くて眠れなくなる植物学」
同じ著者に「面白くて眠れなくなる植物学」という本があって、これはそれの続編というか、二番煎じ。

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何かで読んだ、あるいはどこかで聞いた話が多くて、全くの初耳というのはそう多くない。
植物に詳しい人なら、知っていることばかりかもしれない。
だけれども、表現のしかた、言葉の選び方で、知っている人にも興味が湧くようにできている。
前著「面白くて…」の方は読んでいないけれど、そちらもきっとそうなのだろう。

以前、「面白くて眠れなくなる進化論」のことを書いた。このシリーズなのだろう。


ということで、特に書評として書くことはやめて、目次と、それぞれで言及されている植物名の一部を掲げておく。

ところで、PartⅢの2節目「毒を使うプリンセス」のところで、「ラドンナ」が全部「ラドンナ」と先頭が清音で記載されている。こんな有名な植物の名前を間違うはずもないから、念のためにネット検索してみたが、やはり「ヘラドンナ」というのはない。
どうしてこうなったのだろう。


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物理と数学の不思議な関係

マルコム・E.ラインズ“物理と数学の不思議な関係―遠くて近い二つの「科学」”

butsuri_to_sugaku_no_kankei.jpg 学生に薦めたい本、そう書こうとしたけど、それでは上から目線になる。
素直に、学生のときにこの本があって、知っていたら、読みたかった本。

巻末解説で米沢富美子氏は、大学院の授業でとりあげたテーマとぴったり同じになっているとのことだけれど、本書があれば、学生の自主ゼミが成り立つように思う。


正直に言って、この本に書かれていることの多くは私には理解できない。
知っていることも書いてあるが、知っていることと理解していることとには大きな差がある。
そう言えば、そんな話があったなぁと思いだすこともあるけれど、思考回路は既に崩壊している。

大学の教養課程の数物関係のカリキュラムは、今はどうなってるか知らないが、私の頃は、数学は、微積・線型代数・確率論など、物理は、力学・電磁気学・熱力学など。

第1章数学 宇宙の姿を映す鏡
 ―物理と数学の不思議な関係
第2章自然は隙間を嫌うか
 ―アリストテレスからガラスの構造まで
第3章時空を支配する幾何学の正体
 ―ユークリッドから一般相対性理論まで
第4章実用主義の絶大な威力
 ―弦の爪弾きから固体中の電子まで
第5章a×bがb×aでなくなるとき
 ―整数から四元数まで…
第6章準周期的という絶妙な配列パターン
 ―タイル張りから準結晶まで
第7章方程式は単純、解は複雑
 ―ニュートンから量子カオスまで
第8章絶対役に立ちそうもない理論の効用
 ―ガロアからスーパーストリングまで
第9章ミクロとマクロをつなぐ架け橋
 ―コイン投げからエントロピーまで
第10章イボイノシシの赤ん坊は二重らせんの夢を見るか
 ―ケーニヒスベルクの橋からポリマーまで
第11章幾何学は自然を模倣できるか
 ―放物線からフラクトンまで
第12章一点における速度の深遠な意味
 ―ゼノンからシュレーディンガーまで
これらの授業での、行儀のよい教科書理解はもちろん重要だけれど、本書のような両領域にわたる、かなり専門的なテーマをとりあげて勉強するのは、数物どちらの学生にも有意義だろうし、何より、教科書で理解したつもりのものが、実際の問題にあたることで、理解の強化になるだろう。

この本では、各章のはじめに、その章の主役になる数学理論について基礎的な解説がなされ、その程度であれば多くの読者にも理解可能だと思うけれど、これが物理への応用となると、途端に飛躍する。丁寧な解説から一転して、数学的操作の結果と思えるような話に跳ぶ。

これが、私などには、知らない結論の場合は勿論のこと、知っていた結論でも論理過程を追うことができない自分の無能を悔しく思うことになる。

著者の意図は、シンプルな数学理論が、豊かな物理学的成果につながることを示したいのかもしれない。

40年前に、こうした本に出会っていたら、私も少しはまともな学生生活を送ったかもしれない。

トリカヘチャタテ

Male_penis and female_vagina 昨日、今年のイグノーベル賞の授賞を伝えるニュースがあった。
今年も日本人が受賞していて、これで11年連続日本人の受賞という。

その対象となったのは、メスのペニス、オスのワギナの発見。
これは既に3年前に発見されていたようだが、このたび晴れてイグノーベル賞の受賞となったわけだ。

何といってもショッキングな発見である。
タイトルだけを見たときには、メスが「ペニス」から卵をオスに送り込むのだろうかと思った。

卵を受けるのがオスではなくメスであるところが違うけれど、エイリアンがヒトのメスの子宮に卵を送り込んで育てさせるというようなSFがあったように思う。


しかしそうではなくて、メスのペニスをオスのワギナに挿入し、それを通してオスから精子のカプセルを取り入れるのだという。

オスが吸われちゃうんだ。精気を搾り取られちゃうんだ。


生物の性行動には、これに限らず想像を超えるものがある。
カタツムリやミミズなどは雌雄同体で、その時に応じて、オス役、メス役になって交尾するという。
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こんなのかなぁ

メスになると子供を産むという大きな負担を負わされるため、どちらがオスになるかをめぐって争いが起こり、けっきょく組み敷かれた方がメスになって精子を送り込まれるのだという話を何かで読んだことがある。
(ヒトのような胎生生物だったら出産の負担はとても大きいから、それこそセイシをカケル戦いになりそうだ)


面白がって下ネタにする不埒な奴(私のことか)もいるだろうが、トリカヘチャタテの研究自体は至極真剣なもので、類例が見られない性行動は、文句なしの大発見だと思う。


儀礼的無関心

wst1507100003-p3.jpg 以前から、電車の中で化粧をする女性について、みっともないとか、揺れたら危ないなどの否定的な意見があり、一方で、迷惑かけてなければいいという意見もある。

私は、電車が揺れて化粧が変なことになったり、眼を傷つけたりしないかと心配になる方だけれど、みっともないという意見については、何故、それがみっともないと感じるのか、その心理というのはどういうものだろうとも考えていた。

そうすると、ネットの情報サイトに、「電車内での化粧を多くの人が嫌がる社会学的理由」という記事があって、これを読んで、なるほどと思った。

詳細はリンク先を読んでもらえば良いわけだが、タイトルにある「社会学的理由」というのが、「儀礼的無関心(civil inattention)」というキーワードで説明されている。なお、この言葉・概念は、ゴッフマンという米国の社会学者が提唱したそうだ(Wikipedia)。

記事の冒頭を引用すると、
閉ざされた電車内の空間では、見ず知らずの他人同士が比較的近い距離感で一定時間を過ごすことになる。そのため、乗り合わせた他人が、自分の存在に対して違和感を抱かせないよう最低限の配慮が必要になり、生まれたのが「儀礼的無関心」という礼儀作法なのだという。

こういうマナーというのはおもしろい。
満員電車に乗っていて、自分が降りる駅で人をかきわけて降りようとするとき、全く動こうとしない、邪魔な乗客がいると腹が立つものだけれど、実際にはあまり空間的余地に変わりがなくても、少し体を寄せたり傾けたりしてくれる人には、この邪魔者めという敵愾心はわかない。

これなども、私はあなたが電車を降りようとしていることを認め、それを承認し、それに協力します、という意思表示に感じるからだと思う。そしてそれをしないのは、認知・承認・協力のどれかが欠けている、マナー違反というか敵と感じるのだろう。

そもそも人は知り合いでもない他人と接近することは嫌う生き物だという。デズモンド・モリス「裸のサル」では、その距離は3mぐらいだとし、この距離に入ると身構えると書いてあったと思う。また、同書では、都会では見ず知らずの他人とその距離内に入ることは頻繁に起こるけれど、多くの人は接触を避けるように行動しているともあったと記憶する。
デズモンド・モリス「裸のサル」は、大学の人類学の授業で、ローレンツの「ソロモンの指環」とともに、是非読みなさいと推薦された本。
その頃「ボインはお父ちゃんのためにあるんやないんやで~、赤ちゃんのためにあるんやで~」というのが流行ったけれど、モリスによれば、人類のメスの乳房は授乳には不向きな形状をしており、これはオスを惹きつけるためのもの(尻のコピー)であるという。
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対して、それなら、なぜオスの鼻は突出しなかったのかという反論もある。
昨日の「語り得ぬ世界では、天狗の面の写真を掲載して、「この画像をブログに掲載すること自体、セクハラと指弾されても致し方ないかもしれません」などと書いてましたな。


話がそれたけれど、儀礼的無関心という言葉は、なかなか言い得て妙、なかなか便利な概念だと思う。
もっとも、近頃は、そういうマナーを身につけてない輩がやたら多いように思う。ゴッフマンが現在の日本で研究していたら、この概念は生まれなかったかもしれない。

たてがみのないライオン

珍之助さまのように行動的かつ妄想力のあるブロガーは、ネタに困ることもなく、毎日の記事を悠々とアップされているけれど、私のように出不精かつ面白みのない日常を繰り返す者にとっては、ブログのネタ探しには毎回苦労する。

報道業界では「ニュースがないときは動物園へ行け」という格言があるそうだ。
といっても、動物園に行くだけで、ブログには十分なネタ、行けたらネタに困ったりしない。

というわけで、頼れるのはテレビの動物関係番組である。

ただし、私はペット動物の番組はあまり見ない。また、変な擬人化はキライ。
犬の言葉がわかるとかいう女性がテレビに登場すると不愉快になって、チャンネルを変えたくなる。頭ごなしに犬の言葉を否定するつもりはないが、頭ごなしに奇跡を信じろというのでは、科学的批判精神絶無。ローレンツが言うような意味での「犬の言葉」とか、言葉の発生研究とかなら、とても興味深いけれど。


さて、そうした動物関係の番組、NHK-BSの"ワイルドライフ"から。
今日はなんと昨年の4月18日に放映された「アフリカ 大サバンナ タテガミを捨てたライオンの謎を追う」から。

ネタ切れに備えて原稿を起したものの、時事の話題優先でアップせずに寝かせておいたら、そのままになり、1年以上経ってしまった。夏向きの話題だと思うので、ボツにせずアップすることにした。


tategaminonailion.jpg ケニアのツァボ国立公園。ここにとても奇妙なライオンがいる。立派なオスなのに、タテガミがほとんどない。姿形だけでなく、その暮らしぶりも常識外れだ。本来は群れの仲間が捕った獲物を横取りするのが当たり前のオスが、真面目に狩りをして群れに貢献する。他の地域ではまず考えられない行動をとるツァボのライオン。なぜこんなに変わった暮らしぶりになったのか。本来の習性を大きく変えてまで生き抜く不思議なライオンを探る。

番組ページ


番組を見て、いきなり引き込まれた。
なんとも貧相なライオンである。トラやヒョウなどは、もともとたてがみが無くても精悍な顔立ちなのに、このライオンは、たてがみが無いというより、しょぼしょぼとした抜け残りのようなたてがみで、なんだか髪が薄くなった我が身を思い知らされる。
貧相を通り越して、悪い病気にでもかかっているのかと思うぐらいである。
動物園にいたら、「不っ細工」と笑いものにされるか、「このライオン、病気なの?」と訝られるに違いない。
イボイノシシやハダカデバネズミなど、種としての不細工さとは尺度が違う、個体の不細工さである。雄々しい普通のライオンとの落差がキツすぎる不細工さである。

ところが、ところが、このライオンは雄の理想のような行動をとるのである。

その前に、なぜたてがみを失ったのか、番組の説明では暑さへの対応だという。たてがみがあると熱の発散が妨げられる。それをサーモカメラで確認した映像が流されている。
同じくライオンが暮らすセレンゲッティ国立公園は高地(標高900~1800m)、ツァボは低地(標高400~600m)で、平均気温はそれぞれ24゜Cと32゜Cだという。
このためツァボのライオンは、雄のシンボルであるたてがみを犠牲にしたという説明である。

なお、番組では、たてがみは長さより色が重要ではないかという実験の紹介などもしていた。


そして、このライオンがとる雄の理想(雌から見て)のような行動について。

○雄は自分の餌は自分で獲る

普通のライオンはプライド(群れ)の主の雄ライオンは、雌に狩りをさせて、狩りが成功したら、雌たちを追い払って、獲物を自分のものにするが、ツァボの雄ライオンは、自分の食い扶持は自分で狩るという。これはもともと獲物が少ないツァボでの暮らし方だということだ。


○雌の狩りを手伝う

体の小さな雌には難しい獲物の狩りでは雄が手伝う。そして、そうやってとった獲物も、雄が必ずしも一番に食べるわけではなく、雄は狩りで火照った体をさますため木陰で休んで、後から食べる姿が紹介されている。


○他の群れあるいは独り者の雄と協力して狩りをする

さらに大きな獲物ともなると、なんと複数の雄が協力して狩りをする姿が紹介されている。
ツァボは獲物が少なくなわばりの形成があいまいだということである。そして、もともと涼しいセレンゲッティなどの高地での種内競争に敗れたライオンが先祖で、戦いを好まない性格が代々受け継がれているのではないかという。


どうだろう、まさに雌にとって理想の雄の姿ではないだろうか

それでもツァボの雌ライオンのところに、セレンゲッティの雄ライオンが来たら、雌ライオンたちは、ことごとくそちらに心を奪われるんだろうなぁ、ツァボの雄はセレンゲッティの雄に、力でもかないそうにないし。

長寿、迷走、台風5号

typhoon5_721.jpg 昨日、関西地方も台風5号の直撃を受けた。
奈良市上空を通過したとかで、我が家も至近である。

そもそもこの台風は去る7月21日に発生していて、そのとき既に、この台風がどこへ行くのか、どんな転機をたどるのか、非常に予想がつきにくいものだったという。

この段階で、まさかこの台風が近畿地方を直撃するなどとは想像すらしていなかった。

そして、進路だけでなく、あまりにも長寿命である。
記録では、21日間ぐらい台風だったというのもあるらしいが、長寿上位5本の指に入るらしい。

それだけ日本近海の海水温が高いということなのだろうか。


ニュースでも、この台風の進路予想は13種類もあると伝えらられていて(写真下左)、結局、昨日の段階までのこの台風の様子がその右である。

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異なる13種類の予測を平均すれば良いというわけではない。しかし、さすがにこのケースではないと思うけど、それに近いことを知らず知らずにやってしまっていることがあるんじゃないだろうか、特に経済予測の分野では。バルチック艦隊が、対馬海峡を通るか、津軽海峡を通るか、どちらかわからないから平均をとって東京湾で待つようなものなのに。


結局、昨日の段階での予想進路図が次のとおり。

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以下は、ネットで拾い集めた、過去の進路予想図。

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(これほど異常な台風になると分かってたら、もう少しきちんと集めておけばよかった。)


いつものことかもしれないが、大量の水が空から落ちてくる、その量には驚かされる。
このところ、水害のニュースが多い感じだけれど、大丈夫だろうか。

トマトの収穫

P_20170709_084057_vHDR_Auto.jpg 前に青い状態の写真をアップしたことがあるが、我が家のトマトも色づいたのが出来てきた。

このままだと、また鳥にプレゼントすることになるだろうから、その前に食べることにした。
完熟までは未だ日があるようだが、取り入れてから追熟すれば良いということである。

トマトは青い状態で収穫して、追熟させて販売する場合が多いらしい。完熟ものにくらべて味は薄いらしい。


P_20170709_084117_vHDR_Autos.jpg また、ミニトマトも成っている。
こちらも赤いのを選んで採り入れた。
ということで、数日後に、もう少し赤味が強くなったら食べることにする。

まぁ、これで食材の足しにするつもりは毛頭ないけれど、食べられるものが庭でできるのは悪い気はしない。

都市生活者というのは、なかなか自分で収穫したものを食べることがない。
というか、ちゃんとした店で売ってないものは、本当に食べられるのか訝しく思ったりする。

子供のころは、結構、その辺に成っている木の実をとって食べたり、蜂の巣を採って蜂の仔を食べたりしたものだけれど。
もっとも、農薬などが使われるようになって、それらが無害でも、薬が付いていたら危険なわけで、あんまり安易に採集するのはよくないのかもしれない。
その意味では、自宅のものは、そういう薬類は使っていないから、まだ安心と言えるかもしれない。


アガパンサス

P_20170701_124715_vHDR_Auto.jpg このところ兄弟ブログの「語り得ぬ世界」に、たびたびアガパンサスの写真が掲載されている。
我が家の庭にも、アガパンサスが咲いている。

というか、近所のあちこちでアガパンサスの群落を目にする。
職場の近くでも、アガパンサスがたくさん咲いているところもある。

ネット情報では、アガパンサスというのは、繁殖力が強く、水をやらなくても、ほったらかしでも、結構育つらしい。むしろ、アガパンサスに庭が占領されて困るという話もあるようだ。
南アフリカ原産らしいのだが、外来植物である。

外来植物だから許せないなどというつもりはないけれど、急激にアガパンサスが繁殖しているような気がする。

我が家のアガパンサスは、ご近所から分けてもらったものだけれど、今年咲いているのは2輪だけ。去年より増えているわけではない。


P_20170701_124733_vHDR_Auto.jpg 室町時代末期に伝来したある植物は、その後、多くの日本人に親しまれたが、今ではとんでもない大悪党の扱いである。

栽培自体は、厳格な国家管理の下で行われているが。


一方、こちらの外来植物を憎む人はそう多くない。

奥にアガパンサスが見える。

赤く熟すまでもう少し。

だけど、たいてい、うちの食卓に上る前に、鳥やら虫やらが食べてしまうかもしれない。
この左にイチゴがあるのだけれど、実はナメクジにやられてしまった。
また、隣にミニトマトもあるが、こちらは鳥がついばんで、持ち去ったところが目撃されている。



生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像(その2)

中沢弘基「生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像」についての続き。

著者は、はじめに進化論(これは疑えないもの)を持ち出しながら、進化論は生命にだけ使える法則ではないと主張する。(これは私もそう思う。遺伝、変異、選択が存在するものには適応進化が起こる。)

IMG-cropsr2.jpg そして分子の自然選択が、どこで、どのような条件で行われたのかを考察する。
その鍵は、分子の親水性、疎水性という性質で、これが分子を並べるメカニズムとして作用しただろうとする。
こうしたメカニズムの一部は、実験でも確かめることができるという。

このような非生命体での進化を考えるのに、著者はエントロピーを持ち出してくる。

周知のとおりエントロピーは増大する(熱力学第二法則)。
物理法則は時間を逆転しても成り立つが、例外はエントロピーの増大則。時間の流れる方向を決定するのはエントロピーであるという哲学的洞察がある。

また、マクスウェルの悪魔が存在するなら、エントロピーを減少させることができる。悪魔が行う粒子選択活動のエネルギーが系の外から来るのなら矛盾はないと思う。


著者は、地球の歴史にもそれがあてはまっているはずと説き、エントロピーの収支を考えるなら、生命の発生は必然であるという。
このあたりは良くわからない。
本書でも引用されているように、シュレディンガーが「生物は負のエントロピーを食べて生きている」と言ったことぐらいは知っていたけれど、エントロピーというのは量としては実感できるようなものではないし、帳尻としてはエントロピーは増大しなければならないにしても、メカニズムの説明にはならないように思う。

「宇宙の熱的死」だってそりゃそうかもしれないが、それがどうしたという話。
熱的死を迎えないように宇宙論を作るというような発想もないように思うけど。

また、生命活動は地球の内部エネルギーよりも、太陽エネルギーを多く使っている(本書でもその説明はある)わけで、これとエントロピーとどういう関係にあるのか。太陽系全体としてのエントロピーは増大していても、地球はどうなのか。

というわけで、このエントロピーが歴史を動かすという発想は、著者の信念を支えるものだとは思うけど、具体的な科学的陳述としては、今一つピンとこない。
もっとも、エントロピーを持ち出さなくても、分子の自然選択というメカニズムは至極納得できるものである。

最後に、生命を構成する分子はなぜ親水性なのかという疑問についても、問を逆転させ、そもそも親水性分子から生命が構成されたからと説明される。昔から生命現象の一つの謎であるキラリティについても同様のスタイルで説明される。

例によって、私にこの説の真贋を判断する力はないけれど、なんだか、とても説得力を感じる。

生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像

51EnxBfAoFL.jpg 中沢弘基「生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像」について。

生物学では、私の年代の者が高校で習ったことが大きく変わってきている。
その一つは、生物分類で、私の頃は植物界と動物界に大きく二分されていて、だからこそ、ミドリムシなど、ある種の生物については、植物か動物かというような論争があったわけだ。
ところが、今では、原核生物と真核生物に大きく分けた上で、原核生物に真正細菌と古細菌を、真核生物に原生生物界、植物界、菌界、動物界と6つの分類が最上位区分として設定されている。

しかも、キノコなどの菌類は、遺伝子的には植物より動物に近いということで、植物だと思い込んでいた私などはびっくり仰天、マツタケは胞子じゃなくて精子を出すのかと言いたくなる(下ネタ御免。なお、もちろん植物でも配偶子は精子と卵子と呼ばれる)。


また、私が高校のころは存在が知られていなかったというか、そんなところに生命体がいるとは考えられなかったところで、次々に生命体が見つかっている。

海底の熱水噴出孔に棲む生命とか、地中深く、地底微生物というものがいる。宇宙空間から隕石となって落ちてくる微惑星にも有機物がある。

そしてこうした特殊な環境の生命こそ、最初の生命の候補として脚光を浴びたりする。(最初の生命体は無機栄養でなければ理屈に合わない)

その生命の発生についてだけれど、本書でも紹介されているように、昔は、ミラーの実験のように無機物から有機物が合成されて、それが浅瀬などで水分の蒸発などで濃縮されたことなどが可能性として考えられていて、私も高校でそう教えられたと記憶する。

第1章 ダイナミックに流動する地球
第2章 なぜ生命が発生したのか、なぜ生物は進化するのか?
第3章 “究極の祖先”とは?―化石の証拠と遺伝子分析
第4章 有機分子の起源―従来説と原始地球史概説
第5章 有機分子の起源とその自然選択
第6章 アミノ酸からタンパク質へ―分子から高分子への進化
第7章 分子進化の最終段階―個体、代謝、遺伝の発生
第8章 生命は地下で発生して、海洋に出て適応放散した!
私が高校のときは既にDNAが発見されていて、DNAの複製や、RNAを介した蛋白質合成のメカニズムも授業で教えられていたが、その後、DNAは安定だが直接蛋白質合成にかかわらないから、最初の生命はRNAが本態ではないかとRNAワールドというのが提唱された。
あるいは、蛋白質こそ生命の本態と逆転して、スチュアート・カウフマンの自己組織系の話とかが興味を惹いた。

どれもこれも、そのときどきで、もっともらしい説と受け止められている(もっともらしくなかったら説にならない)。
というわけで、生物学の門外漢である私としては、結局、生命はどうやって誕生したのか、と半ばあきらめるような気持ちでいた。

本書では、上述の生命の起源論が一通り紹介され、その難点が指摘される。
そして、新しい生命の起源のストーリーが語られる。
(つづく)

「外来種は本当に悪者か?」(その3)

またまた、フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?」をとりあげるのだけれど、今日は、この本でとりあげられている意外な、少なくとも私は知らなかった驚きの話。

アマゾンの観光ガイドも環境保護論者も「アマゾン川の両岸に広がる熱帯雨林は、何百万年も前からまったく変わっていません」と言う。
ところがこれがそうじゃないんだそうだ。
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1542年、スペインの征服者フランシスコ・デ・オレリャーナは、アマゾン川を下って全距離航行に成功した。河口から1100キロ、支流ネグロ川との分岐点の近くを通ったときのことを、彼は日誌に記している。「川岸に、24キロにわたる大きな町があった。家々がすきまなく並ぶ様子は壮観で、よく整備された幹線道路が内陸部に向かって何本も延びていた。川岸から10キロほど入ると、ほかにも白く輝く大きな町がいくつもあり、周囲に広がる農地は肥沃で、スペインと何ら変わらなかった」

都市の外側に広がるジャングルも原生林ではなく、少なくとも一度、おそらく数度にわたって開墾され農業が行われていた。世界最大の熱帯雨林は、つい500年前までは都市とその郊外だったというのである。

その都市や農地が放棄されたのは、もちろんヨーロッパ人が入り込み、疫病を持ち込んで原住民の多くを死に至らしめ、国・経済活動を再建することができなかったからだろう。
上述のような記録だけでなく、現代に実際に行われた調査では、ボリビア領内のアマゾン川流域で、3万キロにわたる盛り土を発見しているという。

今は熱帯雨林に取り残されたようなアンコールワットも同様である。建設当時は立派な都市文明、そしてそれを支える農業が広く行われていたはずである。

熱帯雨林で文明が発展しなかったと考えられてきたのは、熱帯雨林の土壌は痩せているという常識があったからである。私もそう聞いて来た。ところが、アマゾン川流域には土壌が肥沃なスポットが点在していることがわかった。そしてそのスポットというのは、熱帯雨林本来の酸性のやせた土に、炭になりかかった植物の燃えかす、それに腐葉土が混じったものだそうだ。どうやら人間の活動がからんでいるらしい。2500年前の陶器の破片などが見つかっているという。何千年もの間、ここでは農業が行われていたというのだ。

sabanna.gif 次はアフリカである。
ゾウやライオン、シマウマなどが悠然とたたずむアフリカの「原風景」。それがヨーロッパ人が乱獲し、アフリカの人口増によって失われていく、惜しいことだ、というのが大間違いなのだそうだ。

上述のような「原風景」というのは、せいぜい130年前にできたものに過ぎないのだと。
列強による「アフリカ分割」のまっただなか、1887年、イタリア軍がアフリカに上陸したときに連れてきた牛に、牛疫ウィルスが便乗していた。
そして、1890年にはイギリス軍の将校が「人間の記憶のなかで、あるいは伝統の声の中で、これほど多くのウシが死に、野生動物が倒れたことはかつてなかった」と書き残しているという。

牛疫の流行は当初は、ウシの血を吸うツェツェバエに不利だったが、草を食む動物がいなくなったことで、牧草地だったところはあっという間に林や茂みに姿を変えた。ツェツェバエの幼虫が育つ環境だ。さらに野生動物は家畜のウシより個体数の回復が速かったため、ツェツェバエはその血を吸うことができた。これによりツェツェバエは急速に広がる。トリパノソーマとアフリカ睡眠病も一緒に。
これにより、生態学的革命が起きた。負けたのは人とウシ、勝ったのは野生生物だ。牧草地がなくなり、ウシの姿が消えた土地に灌木がしげり、野生動物がよみがえった。
アフリカの「原風景」というのは、人間が導入したウィルスの産物である。

アフリカには生態系が2種類ある。1つは農民と牧畜民が主体で、灌木もツェツェバエもしっかり抑え込まれている生態系。もう1つは、西洋人がイメージする「原始のアフリカ」で、灌木が茂り、ツェツェバエが飛びかう生態系だ。後者のほうが新しい。

牛疫で疲弊しきったアフリカ大陸には、もはや植民地化に抵抗する力は残っていなかった。
人間の生態系も大いに攪乱されてしまった、そういうことになる。

なんだか「外来種」ってヨーロッパ人のことと言いたいようだ。ただしこの外来種は悪者みたい。


DSC017281.jpg もう少しおとなしい事例も紹介されている。
フロリダのエヴァグレーズ国立公園には、点々と豊かな生態系があるスポットがあるが、それはかつてここに暮らした人間のゴミ捨て場なのだそうだ。

次は、日本でも普段から良く感じることで、驚くようなことではないのかもしれないが、イヌ、ネコはもちろん、人家が居心地の良いネズミとかゴキブリとかは当然のことだけれど、もっと野生野生している動物にとっても、都市は案外住みやすいところらしい。
野生動物=野生が好きというのは単なる人間の思い込みにすぎないという。

ゴミあさりなど、人間の生活と密着している場合もあるし、廃墟になった街でもその遺構は恰好の棲家になる。
チェルノブイリの例が紹介されているが、人が居なくなったチェルノブイリでは、どんどん野生動物が増え、人間の作った建物や設備を利用して大いに繁栄しているらしい。例外は人が捨てる食品ゴミに依存していたブタとかで、そうした動物はあまり増えないらしい。

昨年あたり、クマが里に下りてきて悲惨な事件を起こしている。天候不順で山に食べ物がなくなって下りてこざるを得ないということらしいが、案外、クマにとっても街が棲みやすいかもしれない。
先日、京都のホテルに闖入したイノシシとか、あちこちの水路に棲むタヌキなどは、街の方が棲みやすいのではないだろうか。人間だって「都市型狩猟採集民」なんてのがいる。


こうした意外性のある事例がいろいろ紹介されているが、理論という点でも驚きがある。
それが「共進化」という考え方。

本書も共進化を否定しているわけではないのだけれど、そもそも進化自体がゆきあたりばったりのものならば、徐々に共進化が進むばかりではなく、突然の出会いを否定する理由もない。てっとり早く、気に入った相手を見つけてパートナーになることがズルいとか、手抜きと言われる筋合いはないわけだ。
たとえて言えば、夫婦がお互いを高め合うというのが共進化なら、本書では、恋人選び・結婚、つまりたまたま相手が気に入って共生関係ができている例を指摘する。
在来種と外来種の関係はもちろん後者だ。中にはストーカーもいっぱいいるだろう。

そしてとうとう生態系というものの意義について疑問が出される。
生態系というのは、一定の空間を占め、そこに入る光や地熱、水や土地などの化学的資源の出入り(物理化学的エネルギー)があり、そこに多様な生物が棲み、エネルギーの連鎖が見られる、その総体を指す言葉と理解している。

従来、生態系は、本来、安定的な平衡状態に向かうものと想定されていて、その平衡状態にある状態は極相と特別な言葉で呼ばれる。これが環境保護論者の立ち位置だと思う。
ところが、本書が指摘するような外来種がアタリマエという状態となると、予定調和的な生態系、平衡状態の生態系というものを設定する意義自体が失われる。

つまるところ、生態系というもののとらえかたに、両者の対立が凝縮しているように思う。
予定調和の美しい世界、それは素敵だ。しかし、それは幻想かもしれない。
さて、どちらが正解なんだろう。

「外来種は本当に悪者か?」(その2)

フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?」について、著者が言う「侵入生物学は科学じゃない」という論点を中心に、Amazonレビューでの否定的意見を対照しながら、整理してみる。

第1部 異邦人の帝国
第1章 グリーンマウンテンにて
世界中から持ち込まれた動植物
外来種が高めたアセンション島の生物多様性
在来種vs外来種、仁義なき戦い
アリたちのスーパーコロニーと消滅
外来種は本当に悪者か?
 
第2章 新しい世界
外来種も病原菌も人類の旅のお供
動植物の順化と「脱走」
ホテイアオイとナイルパーチが増えた真の理由
驚異の木「メスキート」の悲劇
 
第3章 クラゲの海
船のバラスト水、海洋博物館からキラー生物
ほんとうの原因は人間による環境破壊
長い時間軸でとらえると在来種などいない
 
第4章 ようこそアメリカへ
タマリクス、熱狂的な期待のあとの転落
よそ者の貝が水質を浄化してくれたエリー湖
外来種にさらされても多様性あふれるサンフランシスコ湾
ペット出身の外来種たち
外来種排斥という陰謀の不都合な真実
 
第5章 イギリス―イタドリにしばられた国
ヴィクトリア朝ワイルド・ガーデンの末裔
かわいらしい外来種は許される?
 
第2部 神話とドラゴン
第6章 生態学的浄化
イタチごっこのネズミ捕り
袋小路に入る外来種駆除の取り組み
ワニも食べつくすオオヒキガエルが市民権を得るまで
民族浄化ならぬ生態系浄化の狂信ぶり
 
第7章 よそ者神話
偏見と詭弁がはびこる侵入生物学
外来種被害のずさんな算出方法
経済効果の高い外来種には触れていない
 
第8章 “手つかずの自然”という神話
森林の奥地に栄えた文明は無数にあった
牛疫ウィルスとツェツェバエが起こした生態学的革命
 
第9章 エデンの園の排外主義
ダーウィニズムと完璧なる自然
エコロジカル・フィッティングという手がかり
外来種悪玉論からの改宗と周回遅れの環境保護運動
 
第3部 ニュー・ワールド
第10章 新しい生態系
自然回復のきっかけをつくるコロナイザー
新しい生態系の復元力を認める
ほとんどの荒れた生態系は回復している
 
第11章 都市の荒廃地で自然保護を再起動する
都市の荒廃地にあらわれた楽園
驚くほど都会暮らしを楽しむ野生生物たち
野生生物の天国、チェルノブイリ
旧来型の環境保護は自分の首を絞めている
 
第12章 ニュー・ワイルドの呼び声
スーパー・スピーシーズ
それでも古い時代に自然を戻そうとする人びと
管理なき自然を求めて
■外来種が生態系を破壊する
こうした事例があることは本書も否定しない。
たとえば、イースター島に高木が繁茂しないことについて、定説では人間が採り尽くしてしまったからということになっているが、本書では人が持ち込んだナンヨウネズミがヤシを枯らした説が紹介されている。
そのほか、主要な外来種被害が数多く紹介されている。

つまり著者は外来種が悪さをすることを否定はしていない。
それどころか、人間が持ち込んだ外来種によって、生態系が攪乱され、まったく異なるものになった事例を紹介し、「手つかずの自然」などは存在しないことの論拠としている。

■外来種が入って生物多様性が増えることはなく、絶滅する種の分、多様性は下がる
生物多様性は種数だけではないということだけれど、その議論は実はもっと難しい、種とは何かに関連する。ここはナイーブに種とは異なる生き方や遺伝子プールの生物群というぐらいに考えておく。

たしかに絶滅する種があれば、多様性が下がるということになるだろう。そして完全に調和的な生態系が営まれて居たら、その一つの種の絶滅が他の種の絶滅を呼び、結局、生態系全体が死滅する、そうしたシナリオが描かれてきた。
だが、事実はそれとは違うことが多い。

本書が指摘するのは、外来種は、既存生態系が弱っているところ、そこをニッチとして入り込むことが普通である。つまり外来種の侵入を許すのは、すでにその生態系自体に何か問題があるからだという。
さらに、外来種が入り込むことによって、停滞していたその場所が活性化されることで、在来種が復活する事例を多くとりあげている。
多くの場所で、外来種を駆除すれば、在来種も生きていけないという状態が現実であると指摘している。

また、こういうシナリオもある。
きれいな水にしか済まない生物Aと、少し汚れたところが好きな生物Bがいるとする。きれいな水の場所があってAばかりが棲んでいた。しかしどういう原因か、人間が汚したのかもしれないが、水が汚れてきた。するとBがここへ入ってくるようになった。
これって外来種が悪いのか?

そして本書のタイトル、ニュー・ワイルドとは、外来種によってしたたかに多様化する世界を指す。
それは1種の外来種が入ることで1種増えるというだけではない。近縁の在来種との交雑により、新種が相当のスピードで生まれるという観察結果があることも指摘される。
安定していた生態系が攪乱されると、一気に進化(適応放散)が進むという主張である。

これが保護論者には絶対に許せない現象だろうと思う。


■外来種は多大な損害をあたえる
本書は、まずその根拠がきわめて薄弱だということを指摘する。
ごく局所的な損害を、その区域の面積を全地球の面積に拡大して得られるのが外来種が地球に与える損害額としてまかり通っていることを指摘する。しかも、ネズミによる食害なども損害額に含まれるが、根拠となった地域における外来種ネズミの食害が、どうして全地球に拡大できるのか理解できる人はいないだろう。

そして、さらに外来種が与える利益を計算していないのは不公平だとも言う。
なお、外来種の損害額とされるものには、外来種を駆除する費用が含まれているようだから、一体、何を計算したのだろうというわけだ。
そして外来種駆除に莫大な税金が投入されるのだが、これは外来種が悪いのか、外来種=悪という教義が悪いのか。

■外来種が駆除できるか
著者は、小さな島などでの特殊な事例を除いて不可能であると言う。
環境保護論者は、まだまだ努力が足りない。いくら難しくても、もっと駆除に努力をしなければならないと言う。
外来種駆除のために撒かれた毒薬が在来種を減らしたとしても、外来種駆除の暁にはそれらはまた復元するから、いくらでも毒薬を撒けばよい。

P_20170521_120007_vHDR_Auto.jpg 最後のいくらでも毒薬を撒けというのは、あまりに行き過ぎの純血主義で空恐ろしいと思う。
そもそも、前述のとおり、駆除コストはどう考えているのだろう。それと見返りに得られるものは。

人為的に純血主義を守っている「自然」というのは、そのことですでに自然ではない、本書はそういう言い方もしている。

もちろん守る値打ちのある生態系は人為的にでも守る必要はある。しかしそれは「自然」ではないという意味。



自然の湖沼を再現するアクアリウムというものがある。
コンラート・ローレンツの「ソロモンの指環」で紹介されていたものだが、この水槽には、水生植物、プランクトン、小さな魚、掃除屋の貝などが入っていて、適切な温度と照明を保つことで、完結的、平衡的な生態系を実現する。水槽の管理者はときどき水を補充(蒸発するから)すること、観察のためにガラス面を掃除するだけで、餌も与えない。そうやって、スイスの湖と、アマゾンの泥水を隣り合う水槽に作ることもできるという。
P_20170521_114552_vHDR_Auto-green.jpg そして、さらにローレンツは言う。この水槽に、ちょっとさびしいと、小魚を一匹追加したとたん、その水槽は腐った水に変わってしまう。

このようなイメージが環境保護論者には強いのだろうと思う。
しかし、自然というのは、小さなアクアリウムのように柔なもの、腫物にさわるように扱わなければならないものだろうか。

かつて特定の魚の生息状況が調べられていた。
これはその魚を保護しようというものではなくて、その川の水質の指標とするものだった。BOD(生物学的酸素需要量)が保たれているかを見るのに、その魚の食性を支えるより小さな魚やプランクトンがちゃんといるのか、そういう理屈である。
納得できる指標である。

これに対し、生態系を守るというのは、本当のところ良くわからない。
良くいわれるのは、食物連鎖の頂点にいる生物が、従来通り生きていけることは必要条件らしい。オオタカなど絶滅危惧種の大型猛禽類などが注目される。
食物連鎖、より広くは生態系のネットワークのどこかが変調をきたしていれば、そうした生物も生きていけないという理屈である。

ところが、在来種が単純に外来種で置き換わると、つまり生態系のネットワークの1要素を完璧に入れ替えていたら、そうしたことは起きない。生態系としては安定なままなのではないだろうか。
そんな都合のよい、コンパティブルな種なんていないと言うかもしれないが、必ずしも単一の種である必要はない。ネットワークが維持できるように入れ替われれば良いのである。そして、外来種が入っても、あんまり違っていないというのは、生態系としてはそれを受け入れたということであろう。

揖保川のアリゲーターガーの話や、琵琶湖で在来魚がブラックバスなどに追い立てられて数を減らしているというような話には、やはり不快感を持つ。現実に、琵琶湖では鮒ずしの原料になる鮒がとれなくなってきたというような話もあるらしい。それはまずいだろう。(誰だ、ブラックバスを琵琶湖に放流したのは。)

その一方、子供のころから、道端で目にするタンポポはセイヨウタンポポ。
どぶ川で捕っていたのはアメリカザリガニ。
それで何も疑問に思っていなかった。

結局のところ、本書でも指摘されているように、素朴に、

カワイイから許す、役に立ってるから許す、悪いことはしてなさそうだから許す、
俺たちが利用している生物資源を荒らす(つまり競合する)から、許せない、

というヒトのワガママ、

自然はアリノママ守らなければならない、

というヒトのワガママ、どこまでいっても平行線かもしれない。

外来種は本当に悪者か?

kob_origin_1_1.jpg 先日、兵庫県の揖保川で、北アメリカ原産の巨大肉食魚アリゲーターガーが捕獲されたというニュースがあった。

アユやウナギを食い尽くすのではないかなどと心配されていて、従来から駆除に努力していたのを、釣り上げてくれた人がいたということらしい。
アリゲーターガーは日本各地で目撃されているが、観賞用に飼育されていたものが放流されたものらしい。

私もこのニュースは喜ばしいことだと思っている。
小さな水系の場合、アリゲーターガーのような魚の場合、在来魚を食い尽くし、次は自分自身が飢え死にするかもしれず、そうなら、ガーは繁殖に失敗し、長期的に見たら元の生態系が回復するかもしれない。
とはいうものの、もちろん短期的な人間に対する損害を放置することはできないから、この場合、駆除は正しいと思う。

51PbfPBOBOL.jpg であるけれど、常に外来種の駆除が正しいのかということに、疑問をつきつける本もある。
フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD」である。

評価が分かれている本のようだ。
しかし、Amazonにアップされている否定的なレビューには、ちゃんと読んだのか怪しいものも多い。

著者は、外来種をどんどん導入せよと言っているわけではないし、在来種の価値を否定しているわけでもない。
在来種の価値を無視していると批判するのなら、保護論者は外来種の価値を計算に入れないという著者の指摘に答えなければならないだろう。
自説に都合の良い論文、データばかり引用していると批判するなら、著者の、従来の外来種の「悪事」の論拠とする論文・データは怪しいものばかりという指摘に反論し、論拠を示すべきだろう。

たしかに本書での「環境保護論者」への批判の筆致はかなり攻撃的である。
それは、外来種=悪という教義の下、それへの疑いを差し挟めば直ちに攻撃され、学会からは無視され、言いたいことも言えなかった、そうした人々の憤懣、反動がベースにあるからだと思う。売り言葉に買い言葉的な。

環境保護論者にしてみれば、著者が攻撃する理屈を(今も)主張しているわけではない、お門違いの批判だと言いたげな意見もあるようだ。しかしそうした理屈が優勢という状況が少なくとも過去にはあったのではないだろうか。
実際に無駄ではないかという駆除費用が世界中で支出されているのだから。
本書の巻末解説を書いている岸由二氏によれば、本書が批判する環境保護論者の論説は、既に学会内でも旗色が悪くなっており、新しい保護理論が求められているという。想像するに外来種駆除の投資効果に疑問が出始めているからではないだろうか。


また、実際に駆除に関わっている人からすれば、仮にこの本の主張が正しいとしても、それが曲解されて、一般に外来種駆除を否定するような言説がまかりとおることには我慢がならない、反射的に否定したくなるとも想像できる。

筆者は生態学者とかではなくて、この問題に関わってきたジャーナリストである。
以前は保護論者の側にいて、外来種の危険を宣伝する側にいたらしい。
しかし、問題に関わるうちに、どうも真実は違うようだと感じ、今まで圧殺されてきた異端の研究、研究者に接するうちに、外来種=悪の呪縛から逃れたらしい。みんな早く、その教団から逃げなさいと言っている。

ただ、書評を書くにあたって、ことわっておくが、私も生態学の知識を持っているわけではない。だから、本書と、それを批判する意見のどちらが正しいのかという点については、判断できない。それぞれの論理破綻を見てとるしかない。
だから、著者を批判するなら、自らの教義と異なるということを理由にせず、きちんと科学的にやってもらいたい。
著者は「侵入生物学」などは科学ではないと言い切っている、それへの反論を期待したい。

本書の要点やレビューにみられる批判についてのコメントは、長くなりそうなのであらためて。

クモの糸でバイオリン

kumo_no_ito_de_violin.jpg 大崎茂芳「クモの糸でバイオリン」について。

この本は、岩波科学ライブラリーのなかの一冊。このシリーズは、モノグラフというのか、テーマを定めて書かれているものが多く、とても読みやすい。著者はモノ書きが商売の人じゃないようだから、編集者の力量もあるのだと思う。


さて、「クモの糸でバイオリン」だけれど、著者は生体高分子が専門のようで、その意味ではクモの糸は守備範囲にもなるわけだが、生きているクモとなると全くの素人で、音楽の方は、バイオリンを触ったこともないという。

というわけで、「クモの糸でバイオリン」は思いつきとしてはありえるものの、それを実行するには、クモの糸を手にいれなければならない。それには生きたクモを手に入れなければならず、クモが居る場所を探すところから始まる。それも、不思議なことだが、クモの生息場所の情報をネットその他で調べてピンポイントで訪れるのならともかく、どうやらクモなんてどこにでもいるという思いこみで始めたために、いきなり、生きたクモを集めることでつまずいたということである。

思えば、クモってあちこちに居るといっても、それは種を問わなければという話であって、実験に向いた特定の種となると、生息場所は限られるだろう。もっとも、実験に向いた種を選びだすには、いろんな種類のクモで試す必要があるわけで、そうなるまでは、手当たり次第に集める時期もあるだろう。


迂遠なエピソードからはじめたが、その後、クモに長い糸を出させる苦労とか、結構、寄り道する。
これがまた楽しそうなのだ。

そうやってクモの糸が手に入れば、さすが高分子の専門家、化学情報には詳しいし、解析機器も思う存分使える立場である。さらに、クモを集めたり、糸を取り出すのに「無償労働力(学生)」の協力も得られる。

そして、表紙に見えるとおり、ぶら下がり、トラックを牽き……、次はバイオリンだ!
そして生まれて初めてバイオリンを手にし、音楽教室に通う……
ここでも、どういう伝手があるのか、飛び込みなのか、音楽大学へいって教えを受ける。なんと最後は、ストラディヴァリウスにクモの糸の弦というところまで行く。

violin_string_microscope.jpg ところで、普通に使われているバイオリンの弦は巻線といって、ガットやプラスティックの繊維束を芯として、そのまわりをアルミや銀などの線でぐるぐる巻きにする精緻な構造である。

ところが、肝心のクモの糸の弦について、最終的に弦にしたときの構造は本書には書かれていない。

クモの糸の繊維を束にすると亀の子状に隙間のない構造になることが解説されていて、これが弦の強度に貢献しているとのことだけれど、このまま弦として使うんだろうか、このままでは弾いたときに繊維がほどけてしまうような気がするのだけれど。
ひょっとして企業秘密?…んなわけないか。

面白くて一気に読めるだろうから、これ以上は本の内容については書かないけれど、著者も言っているように、こんな何の役に立つかもわからない研究は、趣味だからできるもの。

バイオリンの弦に限らず、クモの糸を何かに使おうということ自体、普通の神経じゃないから、海外でもこんなことをする人がいない(したがって参考文献も少ない)という。
spider-man_promo_12t.jpg

もっともクモの糸の強さはスパイダーマンで実証済みだから、バイオリンの弦はともかく、研究対象にしてもおかしくない。軍事企業「オズコープ」が研究しても良さそうに思うけれど。


しかし、こうやってできあがったクモの糸のバイオリンは、世界中で大評判になる。そのドタバタ、マスコミ取材の裏話なども本書で触れられている。(BBC Newsの記事へリンク

■関連リンク

この研究が掲載された「フィジカル・レビュー・レターズ」で要約を読むことができる(会員登録してないと要約のみ)。
・Spider Silk Violin Strings with a Unique Packing Structure Generate a Soft and Profound Timbre/Shigeyoshi Osaki - Phys. Rev. Lett. 108, 154301 – Published 11 April 2012

著者による解説がネットでも流れている。
・クモの糸でヴァイオリンは弾けるのか? -大﨑 茂芳

クモの糸のバイオリンの音もネットで見つけた。
・クモの糸の弦のバイオリンの演奏


できれば、クモの糸のバイオリンを、人間の髪の毛の弓で、松尾依里佳さんに弾いてもらえないかな。

人間の髪の毛の弓は「探偵ナイトスクープ」でやってた。


関心を持ったテーマがあり、探究心、間違いをおそれない勇気-ただし間違いから学べる謙虚さ、基礎的な理科知識、情報源を渉猟するセンス、つまり、科学マインドがあれば、世界中の人を驚かせる研究成果をあげることができるという実例。
未知のものに臆せず挑む、応用力のある学力を目指すというなら、そのお手本になる研究。

ただし、文科省はどう考えてるんだろう。
公費を使わずに趣味でどんどんやってください、趣味を楽しめる程度の給料は払ってるでしょ、
あ、研究設備の目的外利用はダメですよ、なんてことはないだろうな。


科学の発見~練習問題

ワインバーグ「科学の発見」は各章末に練習問題がついている。

1 タレスの定理
2 プラトンの立体
3 和音
4 ピタゴラスの定理
5 無理数
6 終端速度
7 落下する水滴
8 反射
9 水に浮かんだ物体と水中に沈んだ物体
10 円の面積
11 太陽と月の大きさと距離
12 地球の大きさ
13 内惑星と外惑星の周転円
14 月の視差
15 正弦と弦
16 地平線
17 平均速度定理の幾何学的証明
18 楕円
19 内惑星の離角と軌道
20 日周視差
21 面積速度一定法則とエカント
22 焦点距離
23 望遠鏡
24 月の山
25 重力加速度
26 放物線軌道
27 屈折の法則をテニスボールによって導き出す
28 屈折の法則を最短時間から導き出す
29 虹の理論
30 屈折の法則を波動説から導き出す
31 光の速度を計測する
32 向心加速度
33 月と落体との比較
34 運動量の保存
35 惑星の質量
各章で言及された数学の定理や物理法則などについて、結論は本文中にも書かれているのだけれど、それを読者が自分で導くようになっている。

なお、それぞれの解答は、巻末に「テクニカルノート」として収録されている。
これって、なかなか良い問題集になる。


この本は、大学での講義が下敷きになっているとのことだけれど、こうした練習問題は、講義を聴いた学生への宿題としたのだろうか。
もしそうなら、学生に自分の頭で考えて確かめさせ、科学的態度というものを身に着けさせようとしたわけだ。

このあたりが文科系(一括りにしたら怒られるかもしれないが)と理科系の違い。
教科書を読むにしても、教科書が描く世界をきちんと理解するのが理科系の勉強の基本。
対して文科系では理解する対象は教科書ではないらしい。

以前、就職してからのことだが、社内研修で経済学の連続講義があったのだけれど、私は教科書を読みこんで、書かれているマクロの方程式の理解に努めて授業に臨んだのだけれど、経済学部出身の人は、既知のことだからかもしれないが、教科書はそっちのけで関連する経済誌の記事などを拾い集めて授業に臨んでいた。

教科書を理解した上でのことならば立派なことなのだけれど、確固とした体系を持たずに知識の切り貼りだったらどうだろう。
それに体系的でなかったら、背理法のような強力な推論が使えなくなってしまうんじゃないだろうか。


さて、本書に収録されている問題は右のとおり。
問題も解答も簡単に想像がつくものもあれば、どういう着眼点だろうと思うものもある。
「屈折の法則」なんてやけにいろいろ証明を付けている。
著者も書いているが、高校卒業程度の学力があれば十分理解できる範囲である。

ただ、情けないことに、歳をとったせいか、しっかりと証明を追いかける気力がなくなっている。


最初の「タレスの定理」の証明に付いている図をあげておこう。
Thalēs_theorem_red 「タレスの定理」は勿論、物理学ではない。数学である。
本書ではこの定理について特にとりあげているわけではなくて、「万物の根源は水」と言ったとされることから、根拠も何もない哲学的思索の端緒というような形でタレスを紹介し、その一方で数学的業績について触れている。

次の図は「虹の理論」に付いているもの。
rainbow_ray_blue.jpg 虹というのは物理学者にはとても魅力的らしい。
ウォルター・ルーウィン「これが物理学だ」でも虹の説明にはやけに力が入っていた。

ルーウィン先生、セクハラでクビになっちゃったけど、どうしてるんだろう。


どうだろう、この練習問題、どれもワクワクするようなことじゃないだろうか。

数学は科学じゃないと言うけれど、科学を推し進めるには数学が不可欠ということバレている。
もっとも、紙の上でできることといえば、やっぱり数学が中心になってしまうのはしかたがない。


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六二郎。六二郎。


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苦しい家計の足しに再就職
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