「ナメクジの言い分」

Adachi_Norio_Namekuji_no_iibun.jpg 足立則夫「ナメクジの言い分」について。

これも岩波科学ライブラリーの一冊。
であるけれど、ちょっと毛色が違い、科学書とは言いにくく、しかも科学者でない(けれど科学する)人が書いたエッセーというべき本(著者自身がそう書いている)。

ナメクジといえば普通は嫌われ者、殻があるカタツムリは愛嬌があって子供のおもちゃにもなるが(殻があるからナメクジのヌメヌメしたところを触らなくて良いからではないだろうか)、ナメクジ相手に遊ぶ子供というのはまず見ない。

私の家でも、庭にはたくさんのナメクジが棲息していて、家人が大事にしている花などは相当被害を受けている。したがってナメクジを誘引・退治する薬剤を置いたこともある(ああ、なんと罪深いことをしたのだろう)。


さて、著者は、生物学とか動物学とかの学者ではなくて、したがってナメクジで飯を食っているわけではない。ジャーナリスト、それも科学ジャーナリストではなくて、社会、経済といった分野のようである。

1 晩秋のナメクジ
季節外れによく出遭う/きっかけは娘のマニキュア/エスカルゴも同じ仲間/八〇年代に忽然と消えたキイロ/目撃情報からナメクジマップ/北海道は宝庫/東北にもチャコウラは進出/新しい外来種が侵入しつつある関東地方/皇居も小笠原もわが故郷青梅もチャコウラに占領された東京/神奈川も米軍施設周辺はチャコウラの天下/宙に浮くナメクジも,拝まれるナメクジもいる中部地方/近畿の海岸線はチャコウラの天下/中国・四国地方,瀬戸内の島にも進出するチャコウラ/チャコウラは九州・沖縄にも渡る/ヨーロピアンブラッグが世界各国を席巻する?
 
2 銀の筋は何なんだ
逃げ出したチャコウラ/「ゆっくりと」の警句の下で憤死/頼りになる米ソの文献/粘液には七つの機能/一つの足でなぜ動く/四本の角は視覚,嗅覚,味覚のセンサー/口には二万七〇〇〇枚もの鋭利な歯/便秘のナメクジがいてもおかしくない/喘息のナメクジはいない?/脈拍は人間と同じ/男性器も女性器も併せ持つ/超節電型の脳
 《コラム》平和な退治法
 
3 闇に包まれたライフスタイル
夜な夜な徘徊する/多くは菜食主義/天敵にはコウガイビルも/寒さの中で産卵,孵化する/広東住血線虫が寄生する/塩が苦手,砂糖は大丈夫
 
4 なぜ生き残ったのか
独立記念日はいつなのか/殻を捨てたのはなぜなのか/恐竜が絶滅したのはなぜなのか/ナメクジが生き延びたのはなぜなのか/ナメクジ史観とは何か
 
5 ナメクジに引かれた人たち
ナメクジに憑かれた研究者/文学大賞は内藤丈草と中村草田男,清少納言と村上春樹は落選/語源はどこから?/薬にしていた地方も/ナメクジ祭りの起源
そんな著者がなぜナメクジに興味をもったか、それはひょんなきっかけだったという。
マニキュアがきらいで、娘たちがマニキュア、ペティキュアを塗っているのをいまいましく思っていた著者が、あるとき銀色に光る筋を見つけ、娘たちのマニキュアがこぼれていると思い込んで叱りつけたところ、その銀色の筋をたどると、窓の方へ続き、あきらかに、それはナメクジの跡であることが了解され、娘たち、および彼女たちの母、つまり妻から、大逆襲に会う。
それがナメクジとはどういう生き物だろうという疑問と探究心が発現したのだそうだ。

だから、自身のナメクジ研究といっても、生体を解剖したり、化学物質(塩、砂糖を除く)の作用を調べるなどという、ハードなものではなくて、主として観察によるものである。

一番の特色は、人的ネットワークを活用した、ナメクジ分布の調査である。
といっても、特定地域をなめるように調べて、統計的手法で分布を推定するというような方法ではなくて、ナメクジを見つけたら報告してくださいという、実におっとりとしたやりかたである。
そんな中、現物を送ってくる人もいて、それが自身でナメクジを飼育することにもつながったらしい。

どこにでもいて、しぶとい奴と思われていそうなナメクジだけれど、飼育するとなると、これが案外難しいらしい。


だから、著者の研究は、自身の観察と、研究者からのヒアリング、諸文献の渉猟という方法になる。

ナメクジの研究者というのは、それは変な人が多いらしい。そういう人にはやはり著者同様、もともと文科系だったけれど、ナメクジへの興味が嵩じて生物学に転向したという人も複数紹介されている。


本書では、そうして集められた情報、考察に加え、文学におけるナメクジが取り上げられている。
残念ながら、ナメクジが登場する文学作品は数少ない。そしてその多くはけっして好意的なものではない。
著者が文学大賞を与えるとすれば、内藤丈草・中村草田男としている。(二人とも「草」が入っている。ナメクジの好物か。)内藤丈草は「芭蕉の十哲」に数えられる俳人だそうだが、次の一文が紹介されている(蛞蝓(かつゆ)とはナメクジのこと)。
多年屋ヲ負フ一蝸牛、化シテ蛞蝓トナリ自由ヲ得、
火宅最モ惶ル延沫尽ンコトヲ、法雨ヲ追尋シテ林丘二入ル

Teduka_Hinotori_namekuji.jpeg 文学作品というわけではないけれど、ナメクジが登場するフィクションといえば、本書でも触れられているけれど、手塚治虫「火の鳥-未来編」で、進化をやり直す過程で、ナメクジが知性を獲得し地球を支配する世界が現出し、そしてそれがあっけなく崩れていくというもの。

UltraQ-namegon.jpg もう一つ、私が覚えているのは、テレビ・シリーズ「ウルトラQ」で、巨大なナメクジが地球に飛来して、人類を脅かすもの。ただし、このナメクジ、最後は海に落ちてあっけなく死んでしまったと記憶している。

著者が本書を執筆して、一番希んでいるのは、「いみぢうきたなきもの なめくぢ」(枕草子)という、一面的で無思慮な言葉で片付けてしまう人が減ることだろう。

それにしても、全くの素人、関連分野の素養すら怪しい素人でも、探求心を持つことで、こんなに興味のひかれる本が書ける。
老境に入るものにとって、さわやかである。

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「お茶の科学」

大森正司「お茶の科学―『色・香り・味』を生み出す茶葉のひみつ」について。

Ocha_no_kagaku_Omori.jpg ブルーバックスの1冊。
ブルーバックスには「コーヒーの科学」(旦部幸博)という本もある。こちらはいわば姉妹編(お茶が後だからさしずめ妹か)ということになるか。

中学生のとき、紅茶に凝ったことがある。
ダージリンとか、アッサム、オレンジペコとかイングリッシュ・ブレックファストといった種類のリーフティーを集め、自分専用のポットを使って紅茶を入れていた。
もちろん、お湯は沸かしたてを使い、カップは前もって温めておくのは当然である。

紅茶のブランド物などは田舎では手に入りにくい。比較的高級なもので、当時どこでも手にはいるものといえば、トワイニングぐらいだったと思う。今だとトワイニングのダージリンだと、今の価格で1,000円/100gぐらいじゃないだろうか。
この頃は、マリアージュ・フレールとか、ルピシアとか、高級紅茶の店が増えた。これらだともちろん種類によるけれど、2,000~3,000円/100gというところだろうか。ダージリン・セカンド・フラッシュとかこだわるとさらに高価になる。

もっとも、普段飲むなら、リプトンのイエロー・ティーバッグがなんといっても気を使わず、扱いやすくて、それなりに紅茶の味わいがある。(これ以下だと、香りも味もなく、色だけ着く。)

リプトンのイエロー・ティーバッグは、浸出時間が長すぎると色は濃く、味は苦くなるのに、1つで2杯出そうとすると、2杯目はやたら気の抜けたものになる。1杯だけではもったいない気がするのに、2杯にすると情けなくなる。2杯分ぐらいの大きなカップにたっぷり入れるのが良いのかな。(お茶を出す、お茶を入れる、同じなのに逆の言葉だなぁ)
なお、本書によると、正しい入れ方は、まずお湯をカップに入れ、ティーバッグをその中に浸して1分間ほどそのままにするというもの。もちろん2杯出そうなどという貧乏根性はダメである。


それに、ティーバッグを馬鹿にしてはいけない。
ティーバッグの場合は、リーフグレードで、D(ダスト)とか、F(ファニングス)、BOPF(ブロークン・オレンジペコー・ファニングス)という、細かい葉が使われるが、茶葉の品質として悪いわけではないという。

等級の高い煙草の切れ端で作るシートタバコが、低等級の通常刻み葉のタバコより味わいがあるのと同様ではないだろうか。


第1章 お茶の「基本」をおさえる
~どんなお茶も、すべて同じ「チャ」だった
第2章 お茶はどこからきたのか?
~チャと茶のルーツを巡る旅
第3章 茶葉がお茶になるまで
~色や風味はいつどうやって作られるのか
第4章 お茶の色・香り・味の科学
~おいしさは何で決まる?
第5章 お茶の「おいしい淹れ方」を科学する
~煎茶を“玉露” にする方法
第6章 お茶と健康
~なぜお茶は身体にいいのか
第7章 進化するお茶
~味も楽しみ方も変える技術
本書では、緑茶やウーロン茶、さらには後発酵茶もとりあげられている。
ウーロン茶などについてはわからないけれど、緑茶は、紅茶よりもずっと繊細である。昔から、田舎の茶舗でも、かなり高いものが売られていて、そういうお茶は、葉がピンと細く巻いて、その抽出前の葉の上品さは、紅茶の比ではない。そして、トワイニングのダージリンの数倍の値がついていたように記憶する。

緑茶、つまり日本茶といえば茶道、煎茶道というわけで、子供が自分の小遣いでできるようなものではない。それらは「修行」みたいなものだから、趣味というには違うような気がする。
結局、紅茶の方が無難で近づきやすい趣味なのである。(日本の伝統というのは、どうして、こう重々しくて高くつくんだろう。)

さて、昔から、紅茶といえば、ミルクかレモンかという論争があるけれど(本書でも書かれているが、種類によっても向き不向きがあるらしい)、私は基本はストレートである。

そういえば、ミルク・ティーは、紅茶にミルクを注ぐのか、ミルクに紅茶を注ぐのかという論争もあった。


この頃はミルクかレモンかで論争になるどころか、フレーバー・ティーというのが流行っている。
紅茶の有名店というところへ行くと、ダージリン・セカンド・フラッシュなんてものも置いてたりするのだが、フレーバー・ティーが広い場所を占めている。当然、ストレートのリーフティーよりバリエーションが豊富だからそういうことになるのだろう。

私はフレーバー・ティーというのは、あんまり好きじゃなくて、出されたら飲むとしても、喫茶店でそうしたものを注文したり、そうした種類の紅茶を買うことはない。

フレーバーということではないが、以前はブランデーを滴らしたりしたこともあったが、この頃はブランデー自体が我が家には常備されていない。


そう思っていたところ、本書で著者が一言。
ところが、最近ではこうした紅茶本来の味を知らない人も少なくありません。「紅茶が好き」いって毎日飲んでいる人でも、話を聞いてみると、口にしているのはフレーバーティーである人が意外に多いのです。
    <中略>
 「どんな紅茶が好きですか?」と訊いたとき、瞬時に「アールグレイ」とか「ローズティー」などと答える客人には、筆者は笑顔で、次回からは出がらしの紅茶を煮出して差し上げることにしています。
 フレーバーティーしか馴染みがない人に、紅茶本来の渋みや香り、重厚さを味わえるリーフティーを淹れて差し上げると、「これが本当の紅茶の味なんですか!?」とたいてい驚かれます。
フレーバー・ティーをお洒落だと思って飲んでいる人が聴いたら、何と思うだろう。
筆写はフレーバー・ティーを馬鹿にしているわけではないだろう。ただ、そうした装飾をほどこさない、ストレートなお茶の味わいというものを知ってもらいたいということだと思う。その上で、お茶に自分の好みの香りづけを楽しむ、それはそれで好き好きだろう。

スーパーブルーブラッドムーン with cloud

昨夜は皆既月食
それも、スーパーブルーブラッドムーンというそうだ。

月が地球に接近した際に見える月は
「スーパームーン」。
1カ月に2回、満月になる現象は
「ブルームーン」。
さらに皆既月食で、月の表面が赤っぽく見えることから
「ブラッドムーン」。

地球上でこの現象がみられるのは、35年ぶりだとか。

で、朝から天気予報をチェックしていたが、曇の予報である。

夜7時頃は、薄い雲がかかっていて、この雲が厚くなるのか、それとも薄くなるのか。半分あきらめながら、その時間を待つ。

そして、食が始まる時間、雲はかなり薄くなったようで、写真も撮ることができた。

CANON Power Shot SX30 IS。
最大望遠(35mm換算で840mm相当)にして、手持ち撮影(以下同様)


ベタな天文ファンというわけでも、写真に凝っているわけでもないから、だいたい15分おきぐらいに撮影することにして、少し食が進んだ状態、半分ぐらい欠けた状態までは、まず順調に写真を撮ることができた。

しかし、食が始まって約45分後、また雲が濃くなって、朧月に。

そして、皆既になった頃には、ほとんど見えなくなった。
それでも、しばらくして、少し薄くなったか、肉眼では赤い月がかろうじて見えた。写真を撮ることは撮ったけれど、やはりぼやっとした像にしかならなかった。

空模様を見る限り、もう雲が晴れる、あるいはもっと薄くなることは期待できそうにない。
結局、皆既が終了する23:08頃もほとんど見えない状態。

その後、皆既が終了し、日の当たる状態になって、月が光っていることはわかるようになったが、雲が厚くて、欠けていると見える状態ではなく、全体にぼやっとした光るものがあるといった見え方。
しかたがないので、ここで観察は終了。

まじめに観察するなら、ちゃんと望遠鏡をセットしなければならないだろう。


私などは、こういう天体ショーのときだけのファンだからいいけれど、これを楽しみに、ずっと準備してきた人たちにとっては、何も今夜に曇らなくても、だいたい午前中は晴れてたじゃないか、と恨み言を、どこにもぶつけようのない恨み言を言っていることだろう。

今回は、月食を見られる範囲はかなり広く、アメリカでも見えるとのこと。
あちこちでライブ中継もしているようだし、日本でも北海道の北見あたりは良く見えたと報道されていた。東京も関西よりは良く見えていたようだ。

そういう画像を暖かい部屋でゆっくり見ることにしよう。

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国立天文台の皆既月食案内ページから


怖くて眠れなくなる植物学

はじめに
 
PartⅠ 植物という不気味な生き物
何度でも蘇る
不老不死の生き物
超大国を作ったイモ ジャガイモ
命短く進化する
トウモロコシの陰謀 トウモロコシ
利用しているのは、どっちだ キャベツ
人類が働かなければならない理由 ヒトツブコムギ
人間が作りだした怪物 メキャベツ
ゴジラに登場した植物怪獣 オレタチ
植物と動物の違い ミドリムシ
私たちの祖先と植物の祖先 ミドリアメーバ
雑草は抜くほど増える
除草剤で枯れないスーパー雑草 チューリップ
バブル経済を引き起こした花
 
PartⅡ 奇妙な植物
もし、あなたが虫だったら ハエトリソウ
人食い植物の伝説 デビル・ツリー
これが、仏の仕打ちなのか マムシグサ
ジャングルの人食い花 ラフレシア
黄色い吸血鬼のパラサイト生活 ネナシカズラ
絞め殺し植物の恐怖 ガジュマル
歩き回る木 ウォーキングパーム
ライオンを殺す草 ライオンゴロシ
美しき悪魔 ホテイアオイ
植物は逆立ちした人間である
植物に感情はあるか? ドラセナ
墓場に咲く花の理由 ヒガンバナ
動物を生みだす木 ワタ
幽霊は柳の下に現れる ヤナギ
「白鳥の王子」の真実 イラクサ
不幸のクローバー シロツメクサ
天変地異がやってくる タケ
伝説のケセランパサラン ガガイモ
 
PartⅢ 毒のある植物たち
毒の森でリフレッシュ
毒を使うプリンセス ベラドンナ
その声を聞くと死ぬ マンドレイク
ブスになる トリカブト
魅惑の味はやめられない コーヒーノキ
変わり果てた姿に セイタカアワダチソウ
お菊さんの呪い ウマノスズクサ
七夕の真実 ホオズキ
麻酔の始まり チョウセンアサガオ
植物の毒の誘惑 カカオ
 
PartⅣ 恐ろしき植物の惑星
共生の真実 マメ科植物
操られしもの ドクムギ
アインシュタインの予言
密閉された空間
葉っぱ一枚に及ばない
蘇る古代の地球
 
おわりに
稲垣栄洋「怖くて眠れなくなる植物学」
同じ著者に「面白くて眠れなくなる植物学」という本があって、これはそれの続編というか、二番煎じ。

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何かで読んだ、あるいはどこかで聞いた話が多くて、全くの初耳というのはそう多くない。
植物に詳しい人なら、知っていることばかりかもしれない。
だけれども、表現のしかた、言葉の選び方で、知っている人にも興味が湧くようにできている。
前著「面白くて…」の方は読んでいないけれど、そちらもきっとそうなのだろう。

以前、「面白くて眠れなくなる進化論」のことを書いた。このシリーズなのだろう。


ということで、特に書評として書くことはやめて、目次と、それぞれで言及されている植物名の一部を掲げておく。

ところで、PartⅢの2節目「毒を使うプリンセス」のところで、「ラドンナ」が全部「ラドンナ」と先頭が清音で記載されている。こんな有名な植物の名前を間違うはずもないから、念のためにネット検索してみたが、やはり「ヘラドンナ」というのはない。
どうしてこうなったのだろう。


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物理と数学の不思議な関係

マルコム・E.ラインズ“物理と数学の不思議な関係―遠くて近い二つの「科学」”

butsuri_to_sugaku_no_kankei.jpg 学生に薦めたい本、そう書こうとしたけど、それでは上から目線になる。
素直に、学生のときにこの本があって、知っていたら、読みたかった本。

巻末解説で米沢富美子氏は、大学院の授業でとりあげたテーマとぴったり同じになっているとのことだけれど、本書があれば、学生の自主ゼミが成り立つように思う。


正直に言って、この本に書かれていることの多くは私には理解できない。
知っていることも書いてあるが、知っていることと理解していることとには大きな差がある。
そう言えば、そんな話があったなぁと思いだすこともあるけれど、思考回路は既に崩壊している。

大学の教養課程の数物関係のカリキュラムは、今はどうなってるか知らないが、私の頃は、数学は、微積・線型代数・確率論など、物理は、力学・電磁気学・熱力学など。

第1章数学 宇宙の姿を映す鏡
 ―物理と数学の不思議な関係
第2章自然は隙間を嫌うか
 ―アリストテレスからガラスの構造まで
第3章時空を支配する幾何学の正体
 ―ユークリッドから一般相対性理論まで
第4章実用主義の絶大な威力
 ―弦の爪弾きから固体中の電子まで
第5章a×bがb×aでなくなるとき
 ―整数から四元数まで…
第6章準周期的という絶妙な配列パターン
 ―タイル張りから準結晶まで
第7章方程式は単純、解は複雑
 ―ニュートンから量子カオスまで
第8章絶対役に立ちそうもない理論の効用
 ―ガロアからスーパーストリングまで
第9章ミクロとマクロをつなぐ架け橋
 ―コイン投げからエントロピーまで
第10章イボイノシシの赤ん坊は二重らせんの夢を見るか
 ―ケーニヒスベルクの橋からポリマーまで
第11章幾何学は自然を模倣できるか
 ―放物線からフラクトンまで
第12章一点における速度の深遠な意味
 ―ゼノンからシュレーディンガーまで
これらの授業での、行儀のよい教科書理解はもちろん重要だけれど、本書のような両領域にわたる、かなり専門的なテーマをとりあげて勉強するのは、数物どちらの学生にも有意義だろうし、何より、教科書で理解したつもりのものが、実際の問題にあたることで、理解の強化になるだろう。

この本では、各章のはじめに、その章の主役になる数学理論について基礎的な解説がなされ、その程度であれば多くの読者にも理解可能だと思うけれど、これが物理への応用となると、途端に飛躍する。丁寧な解説から一転して、数学的操作の結果と思えるような話に跳ぶ。

これが、私などには、知らない結論の場合は勿論のこと、知っていた結論でも論理過程を追うことができない自分の無能を悔しく思うことになる。

著者の意図は、シンプルな数学理論が、豊かな物理学的成果につながることを示したいのかもしれない。

40年前に、こうした本に出会っていたら、私も少しはまともな学生生活を送ったかもしれない。

トリカヘチャタテ

Male_penis and female_vagina 昨日、今年のイグノーベル賞の授賞を伝えるニュースがあった。
今年も日本人が受賞していて、これで11年連続日本人の受賞という。

その対象となったのは、メスのペニス、オスのワギナの発見。
これは既に3年前に発見されていたようだが、このたび晴れてイグノーベル賞の受賞となったわけだ。

何といってもショッキングな発見である。
タイトルだけを見たときには、メスが「ペニス」から卵をオスに送り込むのだろうかと思った。

卵を受けるのがオスではなくメスであるところが違うけれど、エイリアンがヒトのメスの子宮に卵を送り込んで育てさせるというようなSFがあったように思う。


しかしそうではなくて、メスのペニスをオスのワギナに挿入し、それを通してオスから精子のカプセルを取り入れるのだという。

オスが吸われちゃうんだ。精気を搾り取られちゃうんだ。


生物の性行動には、これに限らず想像を超えるものがある。
カタツムリやミミズなどは雌雄同体で、その時に応じて、オス役、メス役になって交尾するという。
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こんなのかなぁ

メスになると子供を産むという大きな負担を負わされるため、どちらがオスになるかをめぐって争いが起こり、けっきょく組み敷かれた方がメスになって精子を送り込まれるのだという話を何かで読んだことがある。
(ヒトのような胎生生物だったら出産の負担はとても大きいから、それこそセイシをカケル戦いになりそうだ)


面白がって下ネタにする不埒な奴(私のことか)もいるだろうが、トリカヘチャタテの研究自体は至極真剣なもので、類例が見られない性行動は、文句なしの大発見だと思う。


儀礼的無関心

wst1507100003-p3.jpg 以前から、電車の中で化粧をする女性について、みっともないとか、揺れたら危ないなどの否定的な意見があり、一方で、迷惑かけてなければいいという意見もある。

私は、電車が揺れて化粧が変なことになったり、眼を傷つけたりしないかと心配になる方だけれど、みっともないという意見については、何故、それがみっともないと感じるのか、その心理というのはどういうものだろうとも考えていた。

そうすると、ネットの情報サイトに、「電車内での化粧を多くの人が嫌がる社会学的理由」という記事があって、これを読んで、なるほどと思った。

詳細はリンク先を読んでもらえば良いわけだが、タイトルにある「社会学的理由」というのが、「儀礼的無関心(civil inattention)」というキーワードで説明されている。なお、この言葉・概念は、ゴッフマンという米国の社会学者が提唱したそうだ(Wikipedia)。

記事の冒頭を引用すると、
閉ざされた電車内の空間では、見ず知らずの他人同士が比較的近い距離感で一定時間を過ごすことになる。そのため、乗り合わせた他人が、自分の存在に対して違和感を抱かせないよう最低限の配慮が必要になり、生まれたのが「儀礼的無関心」という礼儀作法なのだという。

こういうマナーというのはおもしろい。
満員電車に乗っていて、自分が降りる駅で人をかきわけて降りようとするとき、全く動こうとしない、邪魔な乗客がいると腹が立つものだけれど、実際にはあまり空間的余地に変わりがなくても、少し体を寄せたり傾けたりしてくれる人には、この邪魔者めという敵愾心はわかない。

これなども、私はあなたが電車を降りようとしていることを認め、それを承認し、それに協力します、という意思表示に感じるからだと思う。そしてそれをしないのは、認知・承認・協力のどれかが欠けている、マナー違反というか敵と感じるのだろう。

そもそも人は知り合いでもない他人と接近することは嫌う生き物だという。デズモンド・モリス「裸のサル」では、その距離は3mぐらいだとし、この距離に入ると身構えると書いてあったと思う。また、同書では、都会では見ず知らずの他人とその距離内に入ることは頻繁に起こるけれど、多くの人は接触を避けるように行動しているともあったと記憶する。
デズモンド・モリス「裸のサル」は、大学の人類学の授業で、ローレンツの「ソロモンの指環」とともに、是非読みなさいと推薦された本。
その頃「ボインはお父ちゃんのためにあるんやないんやで~、赤ちゃんのためにあるんやで~」というのが流行ったけれど、モリスによれば、人類のメスの乳房は授乳には不向きな形状をしており、これはオスを惹きつけるためのもの(尻のコピー)であるという。
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対して、それなら、なぜオスの鼻は突出しなかったのかという反論もある。
昨日の「語り得ぬ世界では、天狗の面の写真を掲載して、「この画像をブログに掲載すること自体、セクハラと指弾されても致し方ないかもしれません」などと書いてましたな。


話がそれたけれど、儀礼的無関心という言葉は、なかなか言い得て妙、なかなか便利な概念だと思う。
もっとも、近頃は、そういうマナーを身につけてない輩がやたら多いように思う。ゴッフマンが現在の日本で研究していたら、この概念は生まれなかったかもしれない。

たてがみのないライオン

珍之助さまのように行動的かつ妄想力のあるブロガーは、ネタに困ることもなく、毎日の記事を悠々とアップされているけれど、私のように出不精かつ面白みのない日常を繰り返す者にとっては、ブログのネタ探しには毎回苦労する。

報道業界では「ニュースがないときは動物園へ行け」という格言があるそうだ。
といっても、動物園に行くだけで、ブログには十分なネタ、行けたらネタに困ったりしない。

というわけで、頼れるのはテレビの動物関係番組である。

ただし、私はペット動物の番組はあまり見ない。また、変な擬人化はキライ。
犬の言葉がわかるとかいう女性がテレビに登場すると不愉快になって、チャンネルを変えたくなる。頭ごなしに犬の言葉を否定するつもりはないが、頭ごなしに奇跡を信じろというのでは、科学的批判精神絶無。ローレンツが言うような意味での「犬の言葉」とか、言葉の発生研究とかなら、とても興味深いけれど。


さて、そうした動物関係の番組、NHK-BSの"ワイルドライフ"から。
今日はなんと昨年の4月18日に放映された「アフリカ 大サバンナ タテガミを捨てたライオンの謎を追う」から。

ネタ切れに備えて原稿を起したものの、時事の話題優先でアップせずに寝かせておいたら、そのままになり、1年以上経ってしまった。夏向きの話題だと思うので、ボツにせずアップすることにした。


tategaminonailion.jpg ケニアのツァボ国立公園。ここにとても奇妙なライオンがいる。立派なオスなのに、タテガミがほとんどない。姿形だけでなく、その暮らしぶりも常識外れだ。本来は群れの仲間が捕った獲物を横取りするのが当たり前のオスが、真面目に狩りをして群れに貢献する。他の地域ではまず考えられない行動をとるツァボのライオン。なぜこんなに変わった暮らしぶりになったのか。本来の習性を大きく変えてまで生き抜く不思議なライオンを探る。

番組ページ


番組を見て、いきなり引き込まれた。
なんとも貧相なライオンである。トラやヒョウなどは、もともとたてがみが無くても精悍な顔立ちなのに、このライオンは、たてがみが無いというより、しょぼしょぼとした抜け残りのようなたてがみで、なんだか髪が薄くなった我が身を思い知らされる。
貧相を通り越して、悪い病気にでもかかっているのかと思うぐらいである。
動物園にいたら、「不っ細工」と笑いものにされるか、「このライオン、病気なの?」と訝られるに違いない。
イボイノシシやハダカデバネズミなど、種としての不細工さとは尺度が違う、個体の不細工さである。雄々しい普通のライオンとの落差がキツすぎる不細工さである。

ところが、ところが、このライオンは雄の理想のような行動をとるのである。

その前に、なぜたてがみを失ったのか、番組の説明では暑さへの対応だという。たてがみがあると熱の発散が妨げられる。それをサーモカメラで確認した映像が流されている。
同じくライオンが暮らすセレンゲッティ国立公園は高地(標高900~1800m)、ツァボは低地(標高400~600m)で、平均気温はそれぞれ24゜Cと32゜Cだという。
このためツァボのライオンは、雄のシンボルであるたてがみを犠牲にしたという説明である。

なお、番組では、たてがみは長さより色が重要ではないかという実験の紹介などもしていた。


そして、このライオンがとる雄の理想(雌から見て)のような行動について。

○雄は自分の餌は自分で獲る

普通のライオンはプライド(群れ)の主の雄ライオンは、雌に狩りをさせて、狩りが成功したら、雌たちを追い払って、獲物を自分のものにするが、ツァボの雄ライオンは、自分の食い扶持は自分で狩るという。これはもともと獲物が少ないツァボでの暮らし方だということだ。


○雌の狩りを手伝う

体の小さな雌には難しい獲物の狩りでは雄が手伝う。そして、そうやってとった獲物も、雄が必ずしも一番に食べるわけではなく、雄は狩りで火照った体をさますため木陰で休んで、後から食べる姿が紹介されている。


○他の群れあるいは独り者の雄と協力して狩りをする

さらに大きな獲物ともなると、なんと複数の雄が協力して狩りをする姿が紹介されている。
ツァボは獲物が少なくなわばりの形成があいまいだということである。そして、もともと涼しいセレンゲッティなどの高地での種内競争に敗れたライオンが先祖で、戦いを好まない性格が代々受け継がれているのではないかという。


どうだろう、まさに雌にとって理想の雄の姿ではないだろうか

それでもツァボの雌ライオンのところに、セレンゲッティの雄ライオンが来たら、雌ライオンたちは、ことごとくそちらに心を奪われるんだろうなぁ、ツァボの雄はセレンゲッティの雄に、力でもかないそうにないし。

長寿、迷走、台風5号

typhoon5_721.jpg 昨日、関西地方も台風5号の直撃を受けた。
奈良市上空を通過したとかで、我が家も至近である。

そもそもこの台風は去る7月21日に発生していて、そのとき既に、この台風がどこへ行くのか、どんな転機をたどるのか、非常に予想がつきにくいものだったという。

この段階で、まさかこの台風が近畿地方を直撃するなどとは想像すらしていなかった。

そして、進路だけでなく、あまりにも長寿命である。
記録では、21日間ぐらい台風だったというのもあるらしいが、長寿上位5本の指に入るらしい。

それだけ日本近海の海水温が高いということなのだろうか。


ニュースでも、この台風の進路予想は13種類もあると伝えらられていて(写真下左)、結局、昨日の段階までのこの台風の様子がその右である。

typhoon5_where.jpg typhoon5_wide.png

異なる13種類の予測を平均すれば良いというわけではない。しかし、さすがにこのケースではないと思うけど、それに近いことを知らず知らずにやってしまっていることがあるんじゃないだろうか、特に経済予測の分野では。バルチック艦隊が、対馬海峡を通るか、津軽海峡を通るか、どちらかわからないから平均をとって東京湾で待つようなものなのに。


結局、昨日の段階での予想進路図が次のとおり。

typhoon5_last.png


以下は、ネットで拾い集めた、過去の進路予想図。

typhoon5_729.jpg typhoon5_731.jpg typhoon5_801.jpg typhoon5_802.jpg typhoon5_803.jpg typhoon5_805.jpg

(これほど異常な台風になると分かってたら、もう少しきちんと集めておけばよかった。)


いつものことかもしれないが、大量の水が空から落ちてくる、その量には驚かされる。
このところ、水害のニュースが多い感じだけれど、大丈夫だろうか。

トマトの収穫

P_20170709_084057_vHDR_Auto.jpg 前に青い状態の写真をアップしたことがあるが、我が家のトマトも色づいたのが出来てきた。

このままだと、また鳥にプレゼントすることになるだろうから、その前に食べることにした。
完熟までは未だ日があるようだが、取り入れてから追熟すれば良いということである。

トマトは青い状態で収穫して、追熟させて販売する場合が多いらしい。完熟ものにくらべて味は薄いらしい。


P_20170709_084117_vHDR_Autos.jpg また、ミニトマトも成っている。
こちらも赤いのを選んで採り入れた。
ということで、数日後に、もう少し赤味が強くなったら食べることにする。

まぁ、これで食材の足しにするつもりは毛頭ないけれど、食べられるものが庭でできるのは悪い気はしない。

都市生活者というのは、なかなか自分で収穫したものを食べることがない。
というか、ちゃんとした店で売ってないものは、本当に食べられるのか訝しく思ったりする。

子供のころは、結構、その辺に成っている木の実をとって食べたり、蜂の巣を採って蜂の仔を食べたりしたものだけれど。
もっとも、農薬などが使われるようになって、それらが無害でも、薬が付いていたら危険なわけで、あんまり安易に採集するのはよくないのかもしれない。
その意味では、自宅のものは、そういう薬類は使っていないから、まだ安心と言えるかもしれない。


アガパンサス

P_20170701_124715_vHDR_Auto.jpg このところ兄弟ブログの「語り得ぬ世界」に、たびたびアガパンサスの写真が掲載されている。
我が家の庭にも、アガパンサスが咲いている。

というか、近所のあちこちでアガパンサスの群落を目にする。
職場の近くでも、アガパンサスがたくさん咲いているところもある。

ネット情報では、アガパンサスというのは、繁殖力が強く、水をやらなくても、ほったらかしでも、結構育つらしい。むしろ、アガパンサスに庭が占領されて困るという話もあるようだ。
南アフリカ原産らしいのだが、外来植物である。

外来植物だから許せないなどというつもりはないけれど、急激にアガパンサスが繁殖しているような気がする。

我が家のアガパンサスは、ご近所から分けてもらったものだけれど、今年咲いているのは2輪だけ。去年より増えているわけではない。


P_20170701_124733_vHDR_Auto.jpg 室町時代末期に伝来したある植物は、その後、多くの日本人に親しまれたが、今ではとんでもない大悪党の扱いである。

栽培自体は、厳格な国家管理の下で行われているが。


一方、こちらの外来植物を憎む人はそう多くない。

奥にアガパンサスが見える。

赤く熟すまでもう少し。

だけど、たいてい、うちの食卓に上る前に、鳥やら虫やらが食べてしまうかもしれない。
この左にイチゴがあるのだけれど、実はナメクジにやられてしまった。
また、隣にミニトマトもあるが、こちらは鳥がついばんで、持ち去ったところが目撃されている。



生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像(その2)

中沢弘基「生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像」についての続き。

著者は、はじめに進化論(これは疑えないもの)を持ち出しながら、進化論は生命にだけ使える法則ではないと主張する。(これは私もそう思う。遺伝、変異、選択が存在するものには適応進化が起こる。)

IMG-cropsr2.jpg そして分子の自然選択が、どこで、どのような条件で行われたのかを考察する。
その鍵は、分子の親水性、疎水性という性質で、これが分子を並べるメカニズムとして作用しただろうとする。
こうしたメカニズムの一部は、実験でも確かめることができるという。

このような非生命体での進化を考えるのに、著者はエントロピーを持ち出してくる。

周知のとおりエントロピーは増大する(熱力学第二法則)。
物理法則は時間を逆転しても成り立つが、例外はエントロピーの増大則。時間の流れる方向を決定するのはエントロピーであるという哲学的洞察がある。

また、マクスウェルの悪魔が存在するなら、エントロピーを減少させることができる。悪魔が行う粒子選択活動のエネルギーが系の外から来るのなら矛盾はないと思う。


著者は、地球の歴史にもそれがあてはまっているはずと説き、エントロピーの収支を考えるなら、生命の発生は必然であるという。
このあたりは良くわからない。
本書でも引用されているように、シュレディンガーが「生物は負のエントロピーを食べて生きている」と言ったことぐらいは知っていたけれど、エントロピーというのは量としては実感できるようなものではないし、帳尻としてはエントロピーは増大しなければならないにしても、メカニズムの説明にはならないように思う。

「宇宙の熱的死」だってそりゃそうかもしれないが、それがどうしたという話。
熱的死を迎えないように宇宙論を作るというような発想もないように思うけど。

また、生命活動は地球の内部エネルギーよりも、太陽エネルギーを多く使っている(本書でもその説明はある)わけで、これとエントロピーとどういう関係にあるのか。太陽系全体としてのエントロピーは増大していても、地球はどうなのか。

というわけで、このエントロピーが歴史を動かすという発想は、著者の信念を支えるものだとは思うけど、具体的な科学的陳述としては、今一つピンとこない。
もっとも、エントロピーを持ち出さなくても、分子の自然選択というメカニズムは至極納得できるものである。

最後に、生命を構成する分子はなぜ親水性なのかという疑問についても、問を逆転させ、そもそも親水性分子から生命が構成されたからと説明される。昔から生命現象の一つの謎であるキラリティについても同様のスタイルで説明される。

例によって、私にこの説の真贋を判断する力はないけれど、なんだか、とても説得力を感じる。

生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像

51EnxBfAoFL.jpg 中沢弘基「生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像」について。

生物学では、私の年代の者が高校で習ったことが大きく変わってきている。
その一つは、生物分類で、私の頃は植物界と動物界に大きく二分されていて、だからこそ、ミドリムシなど、ある種の生物については、植物か動物かというような論争があったわけだ。
ところが、今では、原核生物と真核生物に大きく分けた上で、原核生物に真正細菌と古細菌を、真核生物に原生生物界、植物界、菌界、動物界と6つの分類が最上位区分として設定されている。

しかも、キノコなどの菌類は、遺伝子的には植物より動物に近いということで、植物だと思い込んでいた私などはびっくり仰天、マツタケは胞子じゃなくて精子を出すのかと言いたくなる(下ネタ御免。なお、もちろん植物でも配偶子は精子と卵子と呼ばれる)。


また、私が高校のころは存在が知られていなかったというか、そんなところに生命体がいるとは考えられなかったところで、次々に生命体が見つかっている。

海底の熱水噴出孔に棲む生命とか、地中深く、地底微生物というものがいる。宇宙空間から隕石となって落ちてくる微惑星にも有機物がある。

そしてこうした特殊な環境の生命こそ、最初の生命の候補として脚光を浴びたりする。(最初の生命体は無機栄養でなければ理屈に合わない)

その生命の発生についてだけれど、本書でも紹介されているように、昔は、ミラーの実験のように無機物から有機物が合成されて、それが浅瀬などで水分の蒸発などで濃縮されたことなどが可能性として考えられていて、私も高校でそう教えられたと記憶する。

第1章 ダイナミックに流動する地球
第2章 なぜ生命が発生したのか、なぜ生物は進化するのか?
第3章 “究極の祖先”とは?―化石の証拠と遺伝子分析
第4章 有機分子の起源―従来説と原始地球史概説
第5章 有機分子の起源とその自然選択
第6章 アミノ酸からタンパク質へ―分子から高分子への進化
第7章 分子進化の最終段階―個体、代謝、遺伝の発生
第8章 生命は地下で発生して、海洋に出て適応放散した!
私が高校のときは既にDNAが発見されていて、DNAの複製や、RNAを介した蛋白質合成のメカニズムも授業で教えられていたが、その後、DNAは安定だが直接蛋白質合成にかかわらないから、最初の生命はRNAが本態ではないかとRNAワールドというのが提唱された。
あるいは、蛋白質こそ生命の本態と逆転して、スチュアート・カウフマンの自己組織系の話とかが興味を惹いた。

どれもこれも、そのときどきで、もっともらしい説と受け止められている(もっともらしくなかったら説にならない)。
というわけで、生物学の門外漢である私としては、結局、生命はどうやって誕生したのか、と半ばあきらめるような気持ちでいた。

本書では、上述の生命の起源論が一通り紹介され、その難点が指摘される。
そして、新しい生命の起源のストーリーが語られる。
(つづく)

「外来種は本当に悪者か?」(その3)

またまた、フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?」をとりあげるのだけれど、今日は、この本でとりあげられている意外な、少なくとも私は知らなかった驚きの話。

アマゾンの観光ガイドも環境保護論者も「アマゾン川の両岸に広がる熱帯雨林は、何百万年も前からまったく変わっていません」と言う。
ところがこれがそうじゃないんだそうだ。
25315014955amazon.jpg
1542年、スペインの征服者フランシスコ・デ・オレリャーナは、アマゾン川を下って全距離航行に成功した。河口から1100キロ、支流ネグロ川との分岐点の近くを通ったときのことを、彼は日誌に記している。「川岸に、24キロにわたる大きな町があった。家々がすきまなく並ぶ様子は壮観で、よく整備された幹線道路が内陸部に向かって何本も延びていた。川岸から10キロほど入ると、ほかにも白く輝く大きな町がいくつもあり、周囲に広がる農地は肥沃で、スペインと何ら変わらなかった」

都市の外側に広がるジャングルも原生林ではなく、少なくとも一度、おそらく数度にわたって開墾され農業が行われていた。世界最大の熱帯雨林は、つい500年前までは都市とその郊外だったというのである。

その都市や農地が放棄されたのは、もちろんヨーロッパ人が入り込み、疫病を持ち込んで原住民の多くを死に至らしめ、国・経済活動を再建することができなかったからだろう。
上述のような記録だけでなく、現代に実際に行われた調査では、ボリビア領内のアマゾン川流域で、3万キロにわたる盛り土を発見しているという。

今は熱帯雨林に取り残されたようなアンコールワットも同様である。建設当時は立派な都市文明、そしてそれを支える農業が広く行われていたはずである。

熱帯雨林で文明が発展しなかったと考えられてきたのは、熱帯雨林の土壌は痩せているという常識があったからである。私もそう聞いて来た。ところが、アマゾン川流域には土壌が肥沃なスポットが点在していることがわかった。そしてそのスポットというのは、熱帯雨林本来の酸性のやせた土に、炭になりかかった植物の燃えかす、それに腐葉土が混じったものだそうだ。どうやら人間の活動がからんでいるらしい。2500年前の陶器の破片などが見つかっているという。何千年もの間、ここでは農業が行われていたというのだ。

sabanna.gif 次はアフリカである。
ゾウやライオン、シマウマなどが悠然とたたずむアフリカの「原風景」。それがヨーロッパ人が乱獲し、アフリカの人口増によって失われていく、惜しいことだ、というのが大間違いなのだそうだ。

上述のような「原風景」というのは、せいぜい130年前にできたものに過ぎないのだと。
列強による「アフリカ分割」のまっただなか、1887年、イタリア軍がアフリカに上陸したときに連れてきた牛に、牛疫ウィルスが便乗していた。
そして、1890年にはイギリス軍の将校が「人間の記憶のなかで、あるいは伝統の声の中で、これほど多くのウシが死に、野生動物が倒れたことはかつてなかった」と書き残しているという。

牛疫の流行は当初は、ウシの血を吸うツェツェバエに不利だったが、草を食む動物がいなくなったことで、牧草地だったところはあっという間に林や茂みに姿を変えた。ツェツェバエの幼虫が育つ環境だ。さらに野生動物は家畜のウシより個体数の回復が速かったため、ツェツェバエはその血を吸うことができた。これによりツェツェバエは急速に広がる。トリパノソーマとアフリカ睡眠病も一緒に。
これにより、生態学的革命が起きた。負けたのは人とウシ、勝ったのは野生生物だ。牧草地がなくなり、ウシの姿が消えた土地に灌木がしげり、野生動物がよみがえった。
アフリカの「原風景」というのは、人間が導入したウィルスの産物である。

アフリカには生態系が2種類ある。1つは農民と牧畜民が主体で、灌木もツェツェバエもしっかり抑え込まれている生態系。もう1つは、西洋人がイメージする「原始のアフリカ」で、灌木が茂り、ツェツェバエが飛びかう生態系だ。後者のほうが新しい。

牛疫で疲弊しきったアフリカ大陸には、もはや植民地化に抵抗する力は残っていなかった。
人間の生態系も大いに攪乱されてしまった、そういうことになる。

なんだか「外来種」ってヨーロッパ人のことと言いたいようだ。ただしこの外来種は悪者みたい。


DSC017281.jpg もう少しおとなしい事例も紹介されている。
フロリダのエヴァグレーズ国立公園には、点々と豊かな生態系があるスポットがあるが、それはかつてここに暮らした人間のゴミ捨て場なのだそうだ。

次は、日本でも普段から良く感じることで、驚くようなことではないのかもしれないが、イヌ、ネコはもちろん、人家が居心地の良いネズミとかゴキブリとかは当然のことだけれど、もっと野生野生している動物にとっても、都市は案外住みやすいところらしい。
野生動物=野生が好きというのは単なる人間の思い込みにすぎないという。

ゴミあさりなど、人間の生活と密着している場合もあるし、廃墟になった街でもその遺構は恰好の棲家になる。
チェルノブイリの例が紹介されているが、人が居なくなったチェルノブイリでは、どんどん野生動物が増え、人間の作った建物や設備を利用して大いに繁栄しているらしい。例外は人が捨てる食品ゴミに依存していたブタとかで、そうした動物はあまり増えないらしい。

昨年あたり、クマが里に下りてきて悲惨な事件を起こしている。天候不順で山に食べ物がなくなって下りてこざるを得ないということらしいが、案外、クマにとっても街が棲みやすいかもしれない。
先日、京都のホテルに闖入したイノシシとか、あちこちの水路に棲むタヌキなどは、街の方が棲みやすいのではないだろうか。人間だって「都市型狩猟採集民」なんてのがいる。


こうした意外性のある事例がいろいろ紹介されているが、理論という点でも驚きがある。
それが「共進化」という考え方。

本書も共進化を否定しているわけではないのだけれど、そもそも進化自体がゆきあたりばったりのものならば、徐々に共進化が進むばかりではなく、突然の出会いを否定する理由もない。てっとり早く、気に入った相手を見つけてパートナーになることがズルいとか、手抜きと言われる筋合いはないわけだ。
たとえて言えば、夫婦がお互いを高め合うというのが共進化なら、本書では、恋人選び・結婚、つまりたまたま相手が気に入って共生関係ができている例を指摘する。
在来種と外来種の関係はもちろん後者だ。中にはストーカーもいっぱいいるだろう。

そしてとうとう生態系というものの意義について疑問が出される。
生態系というのは、一定の空間を占め、そこに入る光や地熱、水や土地などの化学的資源の出入り(物理化学的エネルギー)があり、そこに多様な生物が棲み、エネルギーの連鎖が見られる、その総体を指す言葉と理解している。

従来、生態系は、本来、安定的な平衡状態に向かうものと想定されていて、その平衡状態にある状態は極相と特別な言葉で呼ばれる。これが環境保護論者の立ち位置だと思う。
ところが、本書が指摘するような外来種がアタリマエという状態となると、予定調和的な生態系、平衡状態の生態系というものを設定する意義自体が失われる。

つまるところ、生態系というもののとらえかたに、両者の対立が凝縮しているように思う。
予定調和の美しい世界、それは素敵だ。しかし、それは幻想かもしれない。
さて、どちらが正解なんだろう。

「外来種は本当に悪者か?」(その2)

フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?」について、著者が言う「侵入生物学は科学じゃない」という論点を中心に、Amazonレビューでの否定的意見を対照しながら、整理してみる。

第1部 異邦人の帝国
第1章 グリーンマウンテンにて
世界中から持ち込まれた動植物
外来種が高めたアセンション島の生物多様性
在来種vs外来種、仁義なき戦い
アリたちのスーパーコロニーと消滅
外来種は本当に悪者か?
 
第2章 新しい世界
外来種も病原菌も人類の旅のお供
動植物の順化と「脱走」
ホテイアオイとナイルパーチが増えた真の理由
驚異の木「メスキート」の悲劇
 
第3章 クラゲの海
船のバラスト水、海洋博物館からキラー生物
ほんとうの原因は人間による環境破壊
長い時間軸でとらえると在来種などいない
 
第4章 ようこそアメリカへ
タマリクス、熱狂的な期待のあとの転落
よそ者の貝が水質を浄化してくれたエリー湖
外来種にさらされても多様性あふれるサンフランシスコ湾
ペット出身の外来種たち
外来種排斥という陰謀の不都合な真実
 
第5章 イギリス―イタドリにしばられた国
ヴィクトリア朝ワイルド・ガーデンの末裔
かわいらしい外来種は許される?
 
第2部 神話とドラゴン
第6章 生態学的浄化
イタチごっこのネズミ捕り
袋小路に入る外来種駆除の取り組み
ワニも食べつくすオオヒキガエルが市民権を得るまで
民族浄化ならぬ生態系浄化の狂信ぶり
 
第7章 よそ者神話
偏見と詭弁がはびこる侵入生物学
外来種被害のずさんな算出方法
経済効果の高い外来種には触れていない
 
第8章 “手つかずの自然”という神話
森林の奥地に栄えた文明は無数にあった
牛疫ウィルスとツェツェバエが起こした生態学的革命
 
第9章 エデンの園の排外主義
ダーウィニズムと完璧なる自然
エコロジカル・フィッティングという手がかり
外来種悪玉論からの改宗と周回遅れの環境保護運動
 
第3部 ニュー・ワールド
第10章 新しい生態系
自然回復のきっかけをつくるコロナイザー
新しい生態系の復元力を認める
ほとんどの荒れた生態系は回復している
 
第11章 都市の荒廃地で自然保護を再起動する
都市の荒廃地にあらわれた楽園
驚くほど都会暮らしを楽しむ野生生物たち
野生生物の天国、チェルノブイリ
旧来型の環境保護は自分の首を絞めている
 
第12章 ニュー・ワイルドの呼び声
スーパー・スピーシーズ
それでも古い時代に自然を戻そうとする人びと
管理なき自然を求めて
■外来種が生態系を破壊する
こうした事例があることは本書も否定しない。
たとえば、イースター島に高木が繁茂しないことについて、定説では人間が採り尽くしてしまったからということになっているが、本書では人が持ち込んだナンヨウネズミがヤシを枯らした説が紹介されている。
そのほか、主要な外来種被害が数多く紹介されている。

つまり著者は外来種が悪さをすることを否定はしていない。
それどころか、人間が持ち込んだ外来種によって、生態系が攪乱され、まったく異なるものになった事例を紹介し、「手つかずの自然」などは存在しないことの論拠としている。

■外来種が入って生物多様性が増えることはなく、絶滅する種の分、多様性は下がる
生物多様性は種数だけではないということだけれど、その議論は実はもっと難しい、種とは何かに関連する。ここはナイーブに種とは異なる生き方や遺伝子プールの生物群というぐらいに考えておく。

たしかに絶滅する種があれば、多様性が下がるということになるだろう。そして完全に調和的な生態系が営まれて居たら、その一つの種の絶滅が他の種の絶滅を呼び、結局、生態系全体が死滅する、そうしたシナリオが描かれてきた。
だが、事実はそれとは違うことが多い。

本書が指摘するのは、外来種は、既存生態系が弱っているところ、そこをニッチとして入り込むことが普通である。つまり外来種の侵入を許すのは、すでにその生態系自体に何か問題があるからだという。
さらに、外来種が入り込むことによって、停滞していたその場所が活性化されることで、在来種が復活する事例を多くとりあげている。
多くの場所で、外来種を駆除すれば、在来種も生きていけないという状態が現実であると指摘している。

また、こういうシナリオもある。
きれいな水にしか済まない生物Aと、少し汚れたところが好きな生物Bがいるとする。きれいな水の場所があってAばかりが棲んでいた。しかしどういう原因か、人間が汚したのかもしれないが、水が汚れてきた。するとBがここへ入ってくるようになった。
これって外来種が悪いのか?

そして本書のタイトル、ニュー・ワイルドとは、外来種によってしたたかに多様化する世界を指す。
それは1種の外来種が入ることで1種増えるというだけではない。近縁の在来種との交雑により、新種が相当のスピードで生まれるという観察結果があることも指摘される。
安定していた生態系が攪乱されると、一気に進化(適応放散)が進むという主張である。

これが保護論者には絶対に許せない現象だろうと思う。


■外来種は多大な損害をあたえる
本書は、まずその根拠がきわめて薄弱だということを指摘する。
ごく局所的な損害を、その区域の面積を全地球の面積に拡大して得られるのが外来種が地球に与える損害額としてまかり通っていることを指摘する。しかも、ネズミによる食害なども損害額に含まれるが、根拠となった地域における外来種ネズミの食害が、どうして全地球に拡大できるのか理解できる人はいないだろう。

そして、さらに外来種が与える利益を計算していないのは不公平だとも言う。
なお、外来種の損害額とされるものには、外来種を駆除する費用が含まれているようだから、一体、何を計算したのだろうというわけだ。
そして外来種駆除に莫大な税金が投入されるのだが、これは外来種が悪いのか、外来種=悪という教義が悪いのか。

■外来種が駆除できるか
著者は、小さな島などでの特殊な事例を除いて不可能であると言う。
環境保護論者は、まだまだ努力が足りない。いくら難しくても、もっと駆除に努力をしなければならないと言う。
外来種駆除のために撒かれた毒薬が在来種を減らしたとしても、外来種駆除の暁にはそれらはまた復元するから、いくらでも毒薬を撒けばよい。

P_20170521_120007_vHDR_Auto.jpg 最後のいくらでも毒薬を撒けというのは、あまりに行き過ぎの純血主義で空恐ろしいと思う。
そもそも、前述のとおり、駆除コストはどう考えているのだろう。それと見返りに得られるものは。

人為的に純血主義を守っている「自然」というのは、そのことですでに自然ではない、本書はそういう言い方もしている。

もちろん守る値打ちのある生態系は人為的にでも守る必要はある。しかしそれは「自然」ではないという意味。



自然の湖沼を再現するアクアリウムというものがある。
コンラート・ローレンツの「ソロモンの指環」で紹介されていたものだが、この水槽には、水生植物、プランクトン、小さな魚、掃除屋の貝などが入っていて、適切な温度と照明を保つことで、完結的、平衡的な生態系を実現する。水槽の管理者はときどき水を補充(蒸発するから)すること、観察のためにガラス面を掃除するだけで、餌も与えない。そうやって、スイスの湖と、アマゾンの泥水を隣り合う水槽に作ることもできるという。
P_20170521_114552_vHDR_Auto-green.jpg そして、さらにローレンツは言う。この水槽に、ちょっとさびしいと、小魚を一匹追加したとたん、その水槽は腐った水に変わってしまう。

このようなイメージが環境保護論者には強いのだろうと思う。
しかし、自然というのは、小さなアクアリウムのように柔なもの、腫物にさわるように扱わなければならないものだろうか。

かつて特定の魚の生息状況が調べられていた。
これはその魚を保護しようというものではなくて、その川の水質の指標とするものだった。BOD(生物学的酸素需要量)が保たれているかを見るのに、その魚の食性を支えるより小さな魚やプランクトンがちゃんといるのか、そういう理屈である。
納得できる指標である。

これに対し、生態系を守るというのは、本当のところ良くわからない。
良くいわれるのは、食物連鎖の頂点にいる生物が、従来通り生きていけることは必要条件らしい。オオタカなど絶滅危惧種の大型猛禽類などが注目される。
食物連鎖、より広くは生態系のネットワークのどこかが変調をきたしていれば、そうした生物も生きていけないという理屈である。

ところが、在来種が単純に外来種で置き換わると、つまり生態系のネットワークの1要素を完璧に入れ替えていたら、そうしたことは起きない。生態系としては安定なままなのではないだろうか。
そんな都合のよい、コンパティブルな種なんていないと言うかもしれないが、必ずしも単一の種である必要はない。ネットワークが維持できるように入れ替われれば良いのである。そして、外来種が入っても、あんまり違っていないというのは、生態系としてはそれを受け入れたということであろう。

揖保川のアリゲーターガーの話や、琵琶湖で在来魚がブラックバスなどに追い立てられて数を減らしているというような話には、やはり不快感を持つ。現実に、琵琶湖では鮒ずしの原料になる鮒がとれなくなってきたというような話もあるらしい。それはまずいだろう。(誰だ、ブラックバスを琵琶湖に放流したのは。)

その一方、子供のころから、道端で目にするタンポポはセイヨウタンポポ。
どぶ川で捕っていたのはアメリカザリガニ。
それで何も疑問に思っていなかった。

結局のところ、本書でも指摘されているように、素朴に、

カワイイから許す、役に立ってるから許す、悪いことはしてなさそうだから許す、
俺たちが利用している生物資源を荒らす(つまり競合する)から、許せない、

というヒトのワガママ、

自然はアリノママ守らなければならない、

というヒトのワガママ、どこまでいっても平行線かもしれない。

外来種は本当に悪者か?

kob_origin_1_1.jpg 先日、兵庫県の揖保川で、北アメリカ原産の巨大肉食魚アリゲーターガーが捕獲されたというニュースがあった。

アユやウナギを食い尽くすのではないかなどと心配されていて、従来から駆除に努力していたのを、釣り上げてくれた人がいたということらしい。
アリゲーターガーは日本各地で目撃されているが、観賞用に飼育されていたものが放流されたものらしい。

私もこのニュースは喜ばしいことだと思っている。
小さな水系の場合、アリゲーターガーのような魚の場合、在来魚を食い尽くし、次は自分自身が飢え死にするかもしれず、そうなら、ガーは繁殖に失敗し、長期的に見たら元の生態系が回復するかもしれない。
とはいうものの、もちろん短期的な人間に対する損害を放置することはできないから、この場合、駆除は正しいと思う。

51PbfPBOBOL.jpg であるけれど、常に外来種の駆除が正しいのかということに、疑問をつきつける本もある。
フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD」である。

評価が分かれている本のようだ。
しかし、Amazonにアップされている否定的なレビューには、ちゃんと読んだのか怪しいものも多い。

著者は、外来種をどんどん導入せよと言っているわけではないし、在来種の価値を否定しているわけでもない。
在来種の価値を無視していると批判するのなら、保護論者は外来種の価値を計算に入れないという著者の指摘に答えなければならないだろう。
自説に都合の良い論文、データばかり引用していると批判するなら、著者の、従来の外来種の「悪事」の論拠とする論文・データは怪しいものばかりという指摘に反論し、論拠を示すべきだろう。

たしかに本書での「環境保護論者」への批判の筆致はかなり攻撃的である。
それは、外来種=悪という教義の下、それへの疑いを差し挟めば直ちに攻撃され、学会からは無視され、言いたいことも言えなかった、そうした人々の憤懣、反動がベースにあるからだと思う。売り言葉に買い言葉的な。

環境保護論者にしてみれば、著者が攻撃する理屈を(今も)主張しているわけではない、お門違いの批判だと言いたげな意見もあるようだ。しかしそうした理屈が優勢という状況が少なくとも過去にはあったのではないだろうか。
実際に無駄ではないかという駆除費用が世界中で支出されているのだから。
本書の巻末解説を書いている岸由二氏によれば、本書が批判する環境保護論者の論説は、既に学会内でも旗色が悪くなっており、新しい保護理論が求められているという。想像するに外来種駆除の投資効果に疑問が出始めているからではないだろうか。


また、実際に駆除に関わっている人からすれば、仮にこの本の主張が正しいとしても、それが曲解されて、一般に外来種駆除を否定するような言説がまかりとおることには我慢がならない、反射的に否定したくなるとも想像できる。

筆者は生態学者とかではなくて、この問題に関わってきたジャーナリストである。
以前は保護論者の側にいて、外来種の危険を宣伝する側にいたらしい。
しかし、問題に関わるうちに、どうも真実は違うようだと感じ、今まで圧殺されてきた異端の研究、研究者に接するうちに、外来種=悪の呪縛から逃れたらしい。みんな早く、その教団から逃げなさいと言っている。

ただ、書評を書くにあたって、ことわっておくが、私も生態学の知識を持っているわけではない。だから、本書と、それを批判する意見のどちらが正しいのかという点については、判断できない。それぞれの論理破綻を見てとるしかない。
だから、著者を批判するなら、自らの教義と異なるということを理由にせず、きちんと科学的にやってもらいたい。
著者は「侵入生物学」などは科学ではないと言い切っている、それへの反論を期待したい。

本書の要点やレビューにみられる批判についてのコメントは、長くなりそうなのであらためて。

クモの糸でバイオリン

kumo_no_ito_de_violin.jpg 大崎茂芳「クモの糸でバイオリン」について。

この本は、岩波科学ライブラリーのなかの一冊。このシリーズは、モノグラフというのか、テーマを定めて書かれているものが多く、とても読みやすい。著者はモノ書きが商売の人じゃないようだから、編集者の力量もあるのだと思う。


さて、「クモの糸でバイオリン」だけれど、著者は生体高分子が専門のようで、その意味ではクモの糸は守備範囲にもなるわけだが、生きているクモとなると全くの素人で、音楽の方は、バイオリンを触ったこともないという。

というわけで、「クモの糸でバイオリン」は思いつきとしてはありえるものの、それを実行するには、クモの糸を手にいれなければならない。それには生きたクモを手に入れなければならず、クモが居る場所を探すところから始まる。それも、不思議なことだが、クモの生息場所の情報をネットその他で調べてピンポイントで訪れるのならともかく、どうやらクモなんてどこにでもいるという思いこみで始めたために、いきなり、生きたクモを集めることでつまずいたということである。

思えば、クモってあちこちに居るといっても、それは種を問わなければという話であって、実験に向いた特定の種となると、生息場所は限られるだろう。もっとも、実験に向いた種を選びだすには、いろんな種類のクモで試す必要があるわけで、そうなるまでは、手当たり次第に集める時期もあるだろう。


迂遠なエピソードからはじめたが、その後、クモに長い糸を出させる苦労とか、結構、寄り道する。
これがまた楽しそうなのだ。

そうやってクモの糸が手に入れば、さすが高分子の専門家、化学情報には詳しいし、解析機器も思う存分使える立場である。さらに、クモを集めたり、糸を取り出すのに「無償労働力(学生)」の協力も得られる。

そして、表紙に見えるとおり、ぶら下がり、トラックを牽き……、次はバイオリンだ!
そして生まれて初めてバイオリンを手にし、音楽教室に通う……
ここでも、どういう伝手があるのか、飛び込みなのか、音楽大学へいって教えを受ける。なんと最後は、ストラディヴァリウスにクモの糸の弦というところまで行く。

violin_string_microscope.jpg ところで、普通に使われているバイオリンの弦は巻線といって、ガットやプラスティックの繊維束を芯として、そのまわりをアルミや銀などの線でぐるぐる巻きにする精緻な構造である。

ところが、肝心のクモの糸の弦について、最終的に弦にしたときの構造は本書には書かれていない。

クモの糸の繊維を束にすると亀の子状に隙間のない構造になることが解説されていて、これが弦の強度に貢献しているとのことだけれど、このまま弦として使うんだろうか、このままでは弾いたときに繊維がほどけてしまうような気がするのだけれど。
ひょっとして企業秘密?…んなわけないか。

面白くて一気に読めるだろうから、これ以上は本の内容については書かないけれど、著者も言っているように、こんな何の役に立つかもわからない研究は、趣味だからできるもの。

バイオリンの弦に限らず、クモの糸を何かに使おうということ自体、普通の神経じゃないから、海外でもこんなことをする人がいない(したがって参考文献も少ない)という。
spider-man_promo_12t.jpg

もっともクモの糸の強さはスパイダーマンで実証済みだから、バイオリンの弦はともかく、研究対象にしてもおかしくない。軍事企業「オズコープ」が研究しても良さそうに思うけれど。


しかし、こうやってできあがったクモの糸のバイオリンは、世界中で大評判になる。そのドタバタ、マスコミ取材の裏話なども本書で触れられている。(BBC Newsの記事へリンク

■関連リンク

この研究が掲載された「フィジカル・レビュー・レターズ」で要約を読むことができる(会員登録してないと要約のみ)。
・Spider Silk Violin Strings with a Unique Packing Structure Generate a Soft and Profound Timbre/Shigeyoshi Osaki - Phys. Rev. Lett. 108, 154301 – Published 11 April 2012

著者による解説がネットでも流れている。
・クモの糸でヴァイオリンは弾けるのか? -大﨑 茂芳

クモの糸のバイオリンの音もネットで見つけた。
・クモの糸の弦のバイオリンの演奏


できれば、クモの糸のバイオリンを、人間の髪の毛の弓で、松尾依里佳さんに弾いてもらえないかな。

人間の髪の毛の弓は「探偵ナイトスクープ」でやってた。


関心を持ったテーマがあり、探究心、間違いをおそれない勇気-ただし間違いから学べる謙虚さ、基礎的な理科知識、情報源を渉猟するセンス、つまり、科学マインドがあれば、世界中の人を驚かせる研究成果をあげることができるという実例。
未知のものに臆せず挑む、応用力のある学力を目指すというなら、そのお手本になる研究。

ただし、文科省はどう考えてるんだろう。
公費を使わずに趣味でどんどんやってください、趣味を楽しめる程度の給料は払ってるでしょ、
あ、研究設備の目的外利用はダメですよ、なんてことはないだろうな。


科学の発見~練習問題

ワインバーグ「科学の発見」は各章末に練習問題がついている。

1 タレスの定理
2 プラトンの立体
3 和音
4 ピタゴラスの定理
5 無理数
6 終端速度
7 落下する水滴
8 反射
9 水に浮かんだ物体と水中に沈んだ物体
10 円の面積
11 太陽と月の大きさと距離
12 地球の大きさ
13 内惑星と外惑星の周転円
14 月の視差
15 正弦と弦
16 地平線
17 平均速度定理の幾何学的証明
18 楕円
19 内惑星の離角と軌道
20 日周視差
21 面積速度一定法則とエカント
22 焦点距離
23 望遠鏡
24 月の山
25 重力加速度
26 放物線軌道
27 屈折の法則をテニスボールによって導き出す
28 屈折の法則を最短時間から導き出す
29 虹の理論
30 屈折の法則を波動説から導き出す
31 光の速度を計測する
32 向心加速度
33 月と落体との比較
34 運動量の保存
35 惑星の質量
各章で言及された数学の定理や物理法則などについて、結論は本文中にも書かれているのだけれど、それを読者が自分で導くようになっている。

なお、それぞれの解答は、巻末に「テクニカルノート」として収録されている。
これって、なかなか良い問題集になる。


この本は、大学での講義が下敷きになっているとのことだけれど、こうした練習問題は、講義を聴いた学生への宿題としたのだろうか。
もしそうなら、学生に自分の頭で考えて確かめさせ、科学的態度というものを身に着けさせようとしたわけだ。

このあたりが文科系(一括りにしたら怒られるかもしれないが)と理科系の違い。
教科書を読むにしても、教科書が描く世界をきちんと理解するのが理科系の勉強の基本。
対して文科系では理解する対象は教科書ではないらしい。

以前、就職してからのことだが、社内研修で経済学の連続講義があったのだけれど、私は教科書を読みこんで、書かれているマクロの方程式の理解に努めて授業に臨んだのだけれど、経済学部出身の人は、既知のことだからかもしれないが、教科書はそっちのけで関連する経済誌の記事などを拾い集めて授業に臨んでいた。

教科書を理解した上でのことならば立派なことなのだけれど、確固とした体系を持たずに知識の切り貼りだったらどうだろう。
それに体系的でなかったら、背理法のような強力な推論が使えなくなってしまうんじゃないだろうか。


さて、本書に収録されている問題は右のとおり。
問題も解答も簡単に想像がつくものもあれば、どういう着眼点だろうと思うものもある。
「屈折の法則」なんてやけにいろいろ証明を付けている。
著者も書いているが、高校卒業程度の学力があれば十分理解できる範囲である。

ただ、情けないことに、歳をとったせいか、しっかりと証明を追いかける気力がなくなっている。


最初の「タレスの定理」の証明に付いている図をあげておこう。
Thalēs_theorem_red 「タレスの定理」は勿論、物理学ではない。数学である。
本書ではこの定理について特にとりあげているわけではなくて、「万物の根源は水」と言ったとされることから、根拠も何もない哲学的思索の端緒というような形でタレスを紹介し、その一方で数学的業績について触れている。

次の図は「虹の理論」に付いているもの。
rainbow_ray_blue.jpg 虹というのは物理学者にはとても魅力的らしい。
ウォルター・ルーウィン「これが物理学だ」でも虹の説明にはやけに力が入っていた。

ルーウィン先生、セクハラでクビになっちゃったけど、どうしてるんだろう。


どうだろう、この練習問題、どれもワクワクするようなことじゃないだろうか。

数学は科学じゃないと言うけれど、科学を推し進めるには数学が不可欠ということバレている。
もっとも、紙の上でできることといえば、やっぱり数学が中心になってしまうのはしかたがない。


科学の発見

img_de20f707265ab56d5a6d96cb62d465ec3313156.jpg 前にもちょっと触れた、ワインバーグ「科学の発見」について。

そんなにいろいろ読んだわけではないけれど、今まで読んだ科学史の本というのは、さまざまな危機(理論の矛盾点や説明不能の事象)がありつつも、その危機を克服しながら、進歩してきた歴史が描かれていた。 そして、それゆえに科学は、現在の到達点に向かって、順調に成長してきたという印象を持つ。

そのような科学史では、コペルニクス、ガリレイ、ケプラー、ニュートンと、逐次、真理に近づくのに貢献した人達の名前が出てきて、着実な科学の進歩が跡づけられる。

しかし、この本では、そうした時代を進めた人だけでなく、同じ対象について思索を深めながら、近代科学の発展には貢献しなかった人、あるいは時代を停滞させた人もとりあげられ、何故間違ったのか、どこで間違ったのかが考察されている。今まで名前も聞いたことがなかった人たちも多い。

業績をひろっているのが普通の科学史で、教科書的にまとまるけれど、これは、不業績もひろっている。
つまり、そうした科学史の知識は、人間の営み全般ではなくて、そのなかの成功した部分の歴史にすぎなかったというわけだ。

第一部 古代ギリシャの物理学
第一章まず美しいことが優先された
第二章なぜ数学だったのか?
第三章アリストテレスは愚か者か?
第四章万物理論からの撤退
第五章キリスト教のせいだったのか?
  
第二部 古代ギリシャの天文学
第六章実用が天文学を生んだ
第七章太陽、月、地球の計測
第八章惑星という大問題
  
第三部 中世
第九章アラブ世界がギリシャを継承する
第十章暗黒の西洋に差し込み始めた光
  
第四部 科学革命
第十一章ついに太陽系が解明される
第十二章科学には実験が必要だ
第十三章最も過大評価された偉人たち
第十四章革命者ニュートン
第十五章エピローグ:大いなる統一をめざして
そして名をなした、科学を進歩させた偉大な人に対しても、誤りについては厳しい。
なかでもデカルトなんて、物理学には何の貢献もしていない、数学だって座標の導入は画期的だが数学的真理として大した発見はしていないという。哲学者であると。

その時代の偉人だからといって、偉いとはいわない。
科学の評価は科学の尺度で行う。そしてその科学の尺度というのは、近代になってようやく確立したものである、したがって、現代科学の眼で過去の「科学」を評価する。

もちろん(科学的には間違った)認識が人間の歴史に与えた影響は無視できるものではないと思うから、文化史とか経済史というようなものなら別だろうけれど、真理を求めるのが科学であるなら、これが科学史的評価だろう。

本書では、数学は科学とは違うとも指摘している。
私もそうだと思う。
数学は数学のためにあると考えている私だけれど、やっぱり宇宙の真理は数学にはない。

数学と物理の違いについて、数学の授業ではこんなことも言っていた。

物理の人って微分方程式には解があることがアプリオリなんですよね。
数学では解の存在証明が大事なんだけど、物理屋にしてみれば、自然現象を記述しているのが方程式、それに解が存在しないなんて、自然現象が存在しないことになるのか、というわけです。

その一方、こんな話もある。

数学では、1/2乗のオーダーでも収束する近似式を発見したら立派な業績だけれど、物理ではそんな緩い近似式なんて、計算しても丸め誤差が累積するだけで何の意味もないでしょう。


それはともかく、数学においては科学とは異なり、神が介入する余地はない。
ある定理が成り立つということは、まさに神の御業だと喜ぶことはできるかもしれないが、神が作った公理系は存在しない。

本書では、古代ギリシア人は科学的真理ではなく、美を優先したと指摘する。
だから、彼らは、数学(哲学)では偉大な成果をあげたにもかかわらず、物理学では成果をあげなかった。
数学的思索の産物としては、音楽(ピタゴラス音律)では成果をあげたと思うけれど、悲しいかな、「美しくない」無理数を認めない(というか使おうとしない)から、ギリシア人は平均律にはたどり着きようがなかっただろう。

それにしても、世界は美しく見えて、実は結構歪んでいるわけだ。

真っ直ぐ、つまり真理と美が一致してたらこんなに紆余曲折はなかったかも。

誰の作品だったか忘れてしまったけれど、こんなSFショートショートを読んだ憶えがある:

宇宙は神様たちが作った。
神様たちは、分担して自分の持ち場の宇宙を創る。
ところが中に出来の悪い神様がいた。
その神様が作った宇宙は、空間は歪んでるわ、スペクトルは赤方に偏移しているわ、できそこないなのであった。

オチは忘れてしまったけど、こんな宇宙を「矯正」したら、中で暮らしている人間はどうなっちゃうんだろう。

日本語の科学が世界を変える

matsuo_nihongo_no_kagakuga.jpg 松尾義之「日本語の科学が世界を変える」について。

何か時間潰しに読むものはないかと、図書館でタイトルだけ見て借りた。
タイトルから想像したものとは全く違っていた。

私が想像したのは、日本語を科学する、つまり、日本語の統語構造や、表現、文字づかい(漢字と仮名)などを説明し、外国語の吸収の歴史を踏まえて、世界を記述する言語として優位性があるというようなことを主張するといったこと。

この本は、そうではなくて、日本語でする科学的活動が世界に貢献するという主張の本だった。

私が思ったのは日本語を研究対象とする科学、この本は日本人が科学研究をするときには日本語を使っているという、言われればアタリマエのような話である。

Amazonのレビューには評価の低いものがあるが、そうしたレビュアーは、この本を、何か系統だった、科学的な論説と勘違いしているのだろう。
これは、仕事をしていて感じたことを書き連ねたエッセイとして読むものだ。


つまるところ、日本語が優秀だというわけではなく、西欧が未だにキリスト教の呪縛が強いことと対比して、日本が有利、あるいは多様な文化が交流することが新しい発見につながるというような、これもまた至極普通の話である。いろんな経験談を紹介して、そうでしょう、と同意を求めてくる。

第1章西欧文明を母国語で取り込んだ日本
第2章日本人の科学は言葉から
第3章日本語への翻訳は永遠に続く
第4章英国文化とネイチャー誌
第5章日本語は非論理的か?
第6章日本語の感覚は、世界的発見を導く
第7章非キリスト教文化や東洋というメリット
第8章西澤潤一博士と東北大学
第9章ノーベル・アシスト賞
第10章だから日本語の科学はおもしろい
というわけで、なんや全然思ったのと違うがな、というわけだけれど、私が勝手に勘違いしただけで、この本に罪があるわけではない。
それに、それなりに面白い話が盛り込まれている。
著者が直接・間接に付きあって来た多くの科学者の話である。この中のどなたともお付き合いできないのが普通なのに、著者は実に多くの人と直に話をされているのだから。

湯川秀樹、山中伸弥、木村資生、西澤潤一、蔡安邦、……


ここでそれらを紹介するつもりはないけれど、著者はかなり強引に、各先生に「あなたの研究は何語でされているのか」という問いをぶつけたが、多くの先生はその質問の趣旨が理解できなかったということも書かれている。
やはり、かなり強引なエッセイと言うべきか。

科学的真理というか、真理に限らず「命題」というものは、特定の言語で表現されなければならないというものではないと思う。命題の内容・真偽は言語形式に依存しない。

ところで、論理的思考というのは、書き言葉と密接に関係するという説がある。
ジェイムズ・グリック「インフォメーション 情報技術の人類史」に紹介されている話だが:

雪が降る極北では、すべての熊は白い色をしています。
ノヴァヤ・ゼムリャは極北にあって、常に雪が降ります。
では、そこの熊はどんな色をしていますか?




科学vs.キリスト教

41H3YjIWA2L.jpg 昨日は「大洪水」をとりあげて、創造主義者と括るには、科学的態度をとろうとした人達がいたようだという趣旨のことを書いた。

それは、ちょうど、岡崎勝世「科学vs.キリスト教」を読んでいたから。
この本では、そうした「虚しい努力」の歴史が丁寧に書かれている。

ただ、読んでいて全然面白くはない。
真理に近づくワクワク感がないからである。
面白くないから、論に集中できない。
集中できないから、いらぬことが思い浮かんでくる、あれはどうなんだ、とか。
そして、そういういらぬことが浮かぶのは、実は、文章中の言葉に触発されるから。

本書から得られる教訓は、科学を盲信してはいけないことだと思う。
その反面教師として多くの知性の努力が描かれている。
私にはなじみのない名前が連なるのだけれど、もしそういう人達と同時代に生きていたら、案外、コロッと「騙されて」しまったかもしれない。

本書で紹介されているウィリアム・ウィストン「地球の新理論」(1696年)の記述を抜き出してみよう。
まず、太陽系の運動について。
 原初の地球も月も完全な円軌道上を動いていた。従って一年は現在の太陽年より10日と1時間30秒短かった。地軸の傾斜がなかったから昼と夜の時間が等しく、季節の変動もなかった。自転していなかったから、太陽や惑星は西から東に移動した。地表にはまだ大洋はなかったが、小規模な海や湖のほか、川や平野、山脈なども、すでに今日と同様の状態で同じ場所に存在していた。エデンの園は、合流しているチグリスとユーフラテスが4本の流れ、すなわちピソン、ギホン、チグリス、ユーフラテスに分かれる場所にあった。・・・・・・
「神の呪い」により、地球の自転が開始され、これに伴って最初球体であった地球が楕円体となったし、自転開始時に地軸が傾斜して今日に至っている。このときから太陽が東から昇るようになり、四季の変化も始まったのである。

どうだろう、一年は今より「10日と1時間30秒短かった」なんて、細かい数字を挙げていて、いかにもきちんと計算した風ではないだろうか。

昨日とりあげた大洪水については、見事にそのときの状況が描写されている。
 大洪水は神の怒りによるものとはいえ、現実には自然学的原因、すなわち接近した彗星によって引き起こされた。楽園のあった地域では紀元前2349年11月27日木曜日、朝の8時から9時の間に発生した。それは、黄道面を近日点に向かって下降してきた彗星が、大洪水の最初の日にわが地球の直前を通過し、地球が彗星の大気と尾を通過することになったからである。大量の水蒸気が供給されて、40日間にわたる豪雨が始まったのである。聖書にある二度目の雨は、通過後の再接近の際に尾から再度供給された水蒸気によるもので、95ないし96日間の長期間続いた。彗星は、結局、大洪水に必要と計算される水量の半分を供給したのである。
 彗星はまた、深淵から水をあふれさせた。接近した彗星の引力によって深淵内の水に潮汐運動が起こって地球が卵形に変形し、変形で弱体化した部分で、地殻に割れ目や裂け目ができた。一方、豪雨開始から1時間もすると彗星から供給された水の重量も膨大なものとなり、その重さが地殻を押し下げる圧力として働いた。この圧力により、裂け目を通じて水が深淵からあふれ出たのである。そして雨による水と合わさって巨大な洪水となり、水は全地球を、山々の頂を越えて覆い尽くしていった。

まるで見てきたかのような迫真の描写である。
なるほど、洪水というのはこんな風に起こったのかと、なかなか説得力がある。
子供達、いや大人だって同じ、このように教えられたら、騙されて、このまま信じてしまうだろうと思う。
実際、当時の人の多く、いや現代アメリカ人だって、これを信じているのだから。

しかし、この描写、ファンタジー小説とかファンタジー映画としてなら、立派な作品になってるかも。
そうか、聖書ってファンタジーだったんだ。だから人気があるんじゃなかろうか。


ウィリアム・ウィストン「地球の新理論」(1696年)
第一章 科学革命と普遍史の危機 ―宇宙から機械論的宇宙へ
デカルト、バーネット、ニュートン、ウィストン
1 デカルトと普遍史の危機 ―デカルト『哲学の原理』(1644)
2 ニュートンと普遍史の変革
第二章 啓蒙主義における自然史の形成と人間観の変革
ビュフォン、リンネ、ブルーメンバッハ
1 ビュフォンの自然史記述と啓蒙主義的世界史
2 人間観の変革
第三章 ドイツ啓蒙主義歴史学における普遍史から世界史への転換
ガッテラー、シュレーツァー
1 ガッテラーにおける普遍史から世界史への転換
2 シュレーツァーにおける普遍史から世界史への転換
第四章 進化論と世界史 ―世界史記述におけるアダムの死
ハックスレー、ラボック、ダーウィン、ケルヴィン卿
1 ハックスレーとラボック ―「アダム」から「先史時代」へ
2 進化論と地球の年齢の問題 ―ダーウィンとケルヴィン卿
騙される」なんて不穏当な言葉を使ったけれど、もちろんウィストン氏が世間を謀ろうなどとしたわけではない。大真面目で考え、数々の反論に対して立ち向かう。

なかでも、こういう論ですら、キリスト教会側からは許せないものであって、断罪されるかもしれない危険を冒しながら、だから注意深く、論を展開しているという。

地動説を主張したジョルダノ・ブルーノが火あぶりにされたのは100年足らず前である。
そして、この100年の間に、ニュートンの万有引力の法則(1665年頃)が、宇宙の新しい姿を描いていて、多くの聖書学者が、ニュートンを否定せずに創世記を理解しようとしているという。
本書中でグールドの言葉が紹介されている、虚しい努力と。

しかし、ちょっと思う。
この黴臭い、現代から見れば無価値な研究でも、当時は偉大な知性だったのだ。
この人達の研究は、同時代人の眼で評価すべきで、虚説として退けるつもりはないというのが著者の立ち位置らしい。
対して、ワインバーグ「科学の発見」は、科学的「価値」を問題にする。同時代での評価は考慮せず、現代科学の眼で過去の「科学」を探求する。

ワインバーグの本も、本書と同じような「科学の進歩」を記述するのだけれど、ワインバーグの独自の視点は、科学はそこにあるものではなく、「発見」されなければならなかったと指摘することだと思う。言い換えるなら、「科学的態度」というものは、それまで存在しなかったということだと思う。


偉大な業績を上げた人が、新説を攻撃するという例は、科学史には山ほどある。
コペルニクスの地動説は、惑星は完全な円軌道としていたために、観測事実と合わなかった。
天動説は、長い歴史のなかで修飾され、ソフィスティケイトされていて、地動説より観測事実に良く適合した。
結局、どっちも間違っていたといえるけれど、後の科学の進歩には、もちろん天動説が有効であったことは言うまでもない。

やはり、科学的態度であったかどうかが重要なんじゃないだろうか。

大洪水

某テレビ局が、トランプ大統領を支持するのはどんな人達なのか、連続して報道していた。

ark_encounter_YouTube.jpg その中で、"Ark Encounter"という施設が紹介されていた。
ノアの方舟を、聖書の記述に従って再現したテーマパークである。

大洪水は聖書より古い「ギルガメッシュ叙事詩」にも描かれている。だから、聖書の神だけが洪水を起こしたというわけではない、というのでは勿論なくて、現代的な理解としては、人類の記憶に残る大洪水がかつて起こり、そしてそれがそれぞれ言い伝えられたのではないか、「黒海大洪水説」というのもある。

それはともかく、冒頭で言及したテレビ報道では、"Ark Encounter"に来ていた人達に取材すると、大洪水は実際に起こったことで、ノアは実在の人物であり、人類はそのときに一旦リセットされて、現在に至っていると信じているとのことだ。

日本人なら、この報道で驚くわけだけれど、米国の世論調査では進化論を正しいと考えている人は、最近ようやく過半数になったけれど、それでも4割の人は、、神が人間を創造したと信じているんだそうだ。
米国では、学校で進化論を教えてはならないという人もいる。共和党の大統領候補をトランプ氏とあらそったテッド・クルーズ氏もそう主張していた。

ただ「学校で進化論を教えることを禁止する法律」は憲法違反と連邦最高裁が判断しているから、もしクルーズ氏が大統領になっていたら、どうなったんだろう。


こういう現状に腹を立てているのか、ドーキンスなんかは、これでもか、これでもかと、怒りを込めて神を否定する。
ドーキンス「神は妄想である―宗教との決別」

知り合いに、牧師になろうと考えているキリスト教徒がいる。「六二郎さんは最近どんな本を読んでるんや?」と聞かれて、即座に「ドーキンス」と答えたら絶句していた。


日本人は学校教育で進化論を教えられるから、それこそ教えられたとおりに、ヒトはサルと共通の祖先から進化したと信じている。
創造主義者を「狂信者」と言うなら、これはこれで科学の「盲信者」と言われかねないけれど、学校以外での宗教観の違いというのも、日本と米国(というか一神教国)の進化論の受容態度の差になるのではないかと思う。

日本人の感覚では、神を信じることと、聖書を字義通りに信じることは切り分けられていると思う。
日本にはもともと八百万の神が坐すわけだし、仏教が渡来しても「嘘も方便」というわけで、語られることは譬喩として理解し、(そんなに馬鹿馬鹿しいことが本当にあるはずはないと)そのまま真実でなくてはならないとは考えないという態度が普通だと思う。

神頼みにしても、それが成就すれば感謝し、だめだったとしても、神様はいつも頼みをきいてくれるわけではないぐらいに考えている。占いに対する態度もこれと同様で、曖昧な言葉を適当に合うように解釈して当たったと言って満足するのが普通である。

良くも悪くも、日本人は、宗教に対して(科学に対しても?)、鷹揚というか、相対化するというか、妙にものわかりが良いところがあるように思う。(ご都合主義)

だから、理詰めで、冷静に、魔女狩りをするというのは、普通の日本人の感性では、ちょっと信じられなくて、もし、日本で魔女狩りが行われるとしたら、恐怖感とかが先に立って、残虐なことをすれば、残虐性そのものに酔い、逆上してやるのではないだろうか。

昔、大学の先輩が、西洋人は血を見慣れているが、日本人はそうじゃないから、血を見ると逆上するんじゃないかと言っていたのを思い出す。(731部隊とかオウム真理教なんかは例外なのかもしれないが)


ただ、創造論者を単純に「狂信者」と言うことはできない。
というのは、少なくとも18世紀ぐらいまでは、真剣に創造論を「科学的」に裏付けようと頑張っていた人がいて、それが「常識」として受け入れられていたという。
ニュートンも宇宙の秩序は神が創造したのでなければアリエナイというようなことを言っているそうだ。

ただし、ニュートンが神を持ち出したのは、彼の万有引力の法則では、宇宙の(定常的な)秩序を永遠に維持することが不可能という論理的帰結まで見通したうえでのことで、単純に非科学的とは言えないようにも思う(ここで前提条件を疑うか、神を持ち出すかが問題だけど)。
それはケルヴィン卿が地球の年齢をせいぜい数億年としたことと同様の事情でもある。


前述の進化論裁判では、判事は、学校教育のなかで教えるべき科学理論とはどのようなものか、その条件を次のように提示したという。
  1. 自然法則により導き出される。
  2. 自然法則への言及によって説明される。
  3. 経験可能な世界に対して検証可能である。
  4. その結論は仮のものである。つまり、最終的な結論である必要がない。
  5. 反証可能である。
この最後の「反証可能性」は、カール・ポパーの「どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」が下敷きになっているのだろう。
言い換えれば、神を持ち出さなければ説明がつかない理論は、どこかに欠陥がある、ということになるのではないだろうか。

信じる者は救われる。

赤ちゃんにも正義感?

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赤ちゃんにも正義感? ヒーロー選ぶ実験結果 京大
 正義感は人間の本能? 攻撃された弱者を見ても何もしない「傍観者」より、弱者を助ける「正義の味方」を選ぶ性質が、生後半年の乳児の段階で備わっていることを、京都大などの研究グループが明らかにした。31日、英科学誌ネイチャー・ヒューマンビヘイビアに発表した。
 正義の感覚は生まれつきなのか、学習によって育まれるかは分かっていない。京大の鹿子木(かなこぎ)康弘特定助教(発達科学)らは、攻撃者、犠牲者、正義の味方、傍観者の4種類のキャラクターが登場するアニメ動画を作り、生後6カ月と10カ月の乳児計132人に見せた。攻撃者が犠牲者に体当たりして攻撃すると、(1)正義の味方が助ける(2)傍観者は何もしない、を4回ずつ交互に繰り返した。
 その後、正義の味方と傍観者の実物のキャラクターを乳児の前に置き、どちらに触れるか調べると、生後6カ月の乳児20人のうち17人が正義の味方を、3人が傍観者を選んだ。別パターンの動画を見せた実験結果も併せると、乳児はキャラクターの色の好みではなく、攻撃者から犠牲者を守る行為と理解して選んだと言えるという。
 鹿子木さんは「人間社会が成り立つには一定程度の正義感が必要になる。人間は生まれたときから正義感の原形を備えている可能性がある」と話す。(西川迅)
朝日新聞デジタル 1/31(火) 2:48配信
ネットにまた興味深い記事が出ていた。
右に引用したとおり、正義感は生得的ということを示唆する実験結果である。

先日、「コンビニ人間」の書評記事で、主人公の感性が常人からはずれているということについて、道徳感は、ある程度先天的という説があることに触れたが、この正義感が生得的という結果は、それと同様の内容で、相互に補強しあう結果ということだろう。

先天的、後天的という言葉も、以前はそれぞれ、遺伝的、学習により獲得に対応するような言い方がされていたけれど、今はこの二分法ではなく、それに加えて、エピジェネティックという考え方もあるようだ。
メカニズムは遺伝的でも、創り出されるものは微細な状況(ゆらぎ?)によって随分と異なることがあるというように理解しておけば良いのだろうか。
エピジェネティックスの分野では、遺伝子がいろんな化学的修飾を受けて、発現したり、しなかったりするメカニズムが明らかにされてきている。

そのメカニズムが解る以前から、たとえば「言語を生みだす本能」(スティーブン・ピンカー)は、「心は空白の石板(blank slate)か」という問いに対し、そうではなくて、言語に関与する遺伝的メカニズムの存在が必要であることを説いている。

そして、メカニズムが生み出され、種として継承されていくから、人類は神を信じたがる。
実験した研究者は、進化心理学という大きなフレームの中で意義をもって取り組んでおられるのだと思う。

この分野はまだまだ発展するに違いない。

天気予報サイト

Screenshot_20170130-084801.jpgスマホの画面に、天気予報のウィジェットを貼り付けている人は多いと思う。
私もその一人である。家人も貼り付けている。

ところが、家人が「今日、午後は雨が降りそう」と言ったのに、私のスマホではそんな予報は出ていない。
で、実際、家人が使っている方の天気予報が的中したということがあった。

天気予報を出しているのは、気象庁はもちろんだけれど、気象庁の予報区は大きい(粗い)から、場所をピンポイントで指定できる民間の天気予報を使う人が多いと思うけれど、事業者によって、微妙に予報が異なっているようだ。

Yahoo天気予報などのネット予報は、自分たちで天気を計算しているとは思えない、それぞれ予報事業者と契約しているのだろうけど、そうした複数のルートで流れてくる予報が一致しているのは、同じ予報事業者と契約しているのだろう。
これは単なる想像だけれど、日本気象協会が出している予報を使っているところが多いのではないだろうか。
家人が使っている方の天気予報が特殊で、それが異なる予報を出しているのかもしれない。

日本では、テレビなどで流される予報は気象庁のものを使っていて、どれも同じ予報内容だと思うが、外国では予報事業者のものを流していて、メディアによって異なる予報が提供されているという話を聞いたことがある。
ネット天気予報はこういう状況のようだ。

天気予報を業として行うには、気象庁長官の許可が必要で、許可を受けた事業者のリストもホームページに掲載されている。なかには個人で登録されている人もいるようだ。

で、家人が使っているのはAccuWeatherというところのもの。ASUS ZenFone2 Laserにプリインストールされていた。これはアメリカの会社で、件の予報事業者リストには見当たらない(違う事業者名で登録されているのかもしれない)。

そして、Yahoo天気と、AccuWeatherの予報は微妙に(というか、天気予報自体が微妙なもの)違う。
今のところ、両方のウィジェットを貼り付けて様子を見ている。

豊洲のベンゼン

200px-Benzene-3D-vdW.png 昨日は豊洲市場をとりあげたけれど、汚染の程度がどういうものなのか、ちょっと考えてみた。

報道されているのはベンゼンが基準値の79倍ということなので、ベンゼンによる汚染の程度をわかりやすくしてみようということである。

今回の調査は、おそらく地下の水の調査だろうから、水質環境基準の0.01㎎/ℓ以下を参照したものと思う。ただ、水にどのぐらいのベンゼンがあっても、水中生物ではないわれわれとしては実感がわかない。

ということで、空気に置き換えて考えることにした。
ベンゼンは揮発性だから、空気中にベンゼンが揮発して、それを吸い込むものと考え、水質基準の上限値と、有害大気汚染物質に係る環境基準の上限値は、同等の効果があるものと、勝手に考えて、大気汚染の基準値 0.003㎎/㎥以下の方を基本にする。

さて、繰り返すがベンゼンが基準の79倍のところがあったと伝えられているから、大気汚染の方も基準値の79倍のところがあったということにしてみる。
つまり、0.003㎎/㎥×79=0.237mg/㎥ の濃度だったとする。

この汚染空気の中に居たとして、1回の呼吸で吸いこむベンゼンの量は、

0.237㎎/㎥×0.5ℓ=0.0001185㎎=0.1185μg となる。


さて、この濃度の空気を吸い込むというのがどういうことなのか、身近なこと、喫煙に換算してみる。
タバコに含まれるベンゼンはタバコの銘柄によって随分違うけれど、マイルドセブン(現行商品名:メビウス)の場合、1本あたり25.8μgのベンゼンが含まれている。

したがって、汚染空気を吸って、それがタバコ1本分になる呼吸回数は、

25.8μg/0.1185μg=217.72回 ということになる。


呼吸回数は1分に18回とすれば、

217.72/18=12.1分

つまり、この汚染空気中に12分居たら、タバコ1本分くらいのベンゼンを吸うことになる。
もちろん、タバコの有害物質はニコチン、タール、一酸化炭素だから、ベンゼンで比較しても意味はないのだけれど、ベンゼンの量ということだけなら、12分でタバコに含まれるベンゼンを吸い込むという話である。

部屋にいて吸い込むという状況を想定すれば、タバコの主流煙より、副流煙の方で考える方がイメージがとりやすいかもしれない。

副流煙の場合は、マイルドセブンで 294μg/本である。これが部屋中に拡散していると考える。

オーダーとしては今回調査の最大値237μg/㎥に近いから、何となくそれっぽい。


仮に、部屋が6畳相当(10㎡×2.5m=25㎥)の容積があるとすると、豊洲の汚染と同じ濃度になるのは、

237μg/㎥×25㎥=5,925μg のベンゼンが均一に拡散している場合で、

それは、5,925μg/294μg=20.15本のタバコを吸った状態に相当する。


uramahjong_stil.jpg 六畳間で、タバコを吸う人3人と、吸わない人1人でマージャンを半荘2局(1時間)やったとして、喫煙者が9分に1本ぐらいの割合でもうもうとタバコを吸っている。そんなイメージだろうか。

もちろん副流煙に含まれる有害物質はベンゼンだけではないから、本当にこんな状態だったら、豊洲よりははるかに酷い状態であろう。

ただ逆の立場で見ると、豊洲の汚染なんて、一昔前の雀荘よりはずっとましということなのかもしれないが。



数値出典:

・厚生労働省 平成11-12年度たばこ煙の成分分析について(概要)
・環境省 化学物質情報検索支援システム


パスツールのフラスコ

h1_index01.jpg すぐにアップするつもりで書いたけれど、他の記事を優先させたので、時季外れになった、そういうネタから。

随分前のことだけれど、いつもの朝のテレビの情報番組(NHK「まちかど情報室」)を見ていたら、パンをおいしく食べるのに役立つグッズの紹介があった。

出勤する直前で内容はちゃんと見ていないのだけれど、ひっかかったのがアナウンサーの言葉。
パンってすぐにカビてしまいますからね

このアナウンサーはきっと高級な手作りパンを食べているんだな、大手メーカー製のパンだとそんなに早くカビることはないけれどと思った。

私もパン工房といった店のパンがおいしいと思う。K阪百貨店に行くと、いつも某パン屋のクロワッサンやバタールを買うことにしている。問題は大手メーカー製のパンよりずっと値段が高いことだけれど。

こういうことを言うと、それは大手メーカー製のパンには大量の添加物が入っているからだとのたまう人がいる。

しかし、大手メーカーは添加物は使っていないという。
それなのになぜカビないかというと、大手メーカーの工場の衛生管理がしっかりしていて、雑菌やカビの胞子などが混入しない製造工程になっているからだそうである。

pastour_experiment.jpg これって要するに「パスツールのフラスコ」である。
白鳥の首フラスコを使って、煮沸した肉汁が腐らない、つまり生物の自然発生を否定した有名な実験と同じだ。

食品の殺菌法(摂氏100度以下の温度で行う加熱殺菌法)はパスチャライゼーション(Pasteurization)という。パスツール他が開発したことから。普通の牛乳にはこの表示がある。なお、日本では日本酒の「火入れ」としてパスツールに先立つこと300年前から使われているという。


「食品添加物=悪」という短絡的思考はまだまだはびこっている。
その裏返しで、「自然のものは良い」と信じ込んでいる人もいる。
こういう人たちは、超自然(神や悪魔)の力が作用すれば、生物も自然発生すると言っているに近い。

もちろん、完全な衛生管理は難しく、完璧に雑菌やカビを遮断できると無批判に信じるつもりはない。しかし、「添加物=悪」説でかたづける態度は、問題の所在を曖昧にする非科学的態度だと思う。

パンのカビ問題については、添加物は使用していないということだから、添加物の良し悪しの議論以前の問題だろう。なお、防腐効果のある添加物を加えたほうが安心して食べられるという意見もあるけれど。


パンがなぜカビないかについて、参考ページをあげておく。

スーパー十六夜

P_20161115_202407_NT.jpg 一昨日はスーパームーンで、テレビでは青森あたりで見える月を放送していたけれど、うちのあたりでは、雨雲に覆われて、その姿を拝めなかった。

で、昨夜は旧暦10月16日、十六夜。
スーパームーンというのは、月と地球の距離が近いときを言うわけだから、1日経ったからといって、その距離が急に遠くなるわけではないから、スーパー十六夜といっても良いんじゃないだろうか。

というか、月齢に関係なく、地球に一番接近した月を特別視するのもアリかもしれない。
月は潮汐を引き起こす原因で、それに相当する運動エネルギーを失うことで、月の軌道が次第に地球から遠ざかる。
そういえば、昔、月との距離を精確に測定するといった目的で、アポロ宇宙船が月にレーザー反射板を設置したけれど、あれは今でも使われているんだろうか。


写真は家から、スマホ(ZenFone3)で撮ったもの。
去年のスーパームーンは、ズームのついたデジカメで撮影しているけれど、今回アップしたのはナイト・モードで撮ってトリミングしたもの。
他に、ローライトやHDRでも撮ったけれど、これが一番見た感じに近い。それに、天体写真ならいざ知らず、日常のスナップとしては家並が写っているほうが良いだろう。

今夜は立待の月。

音でHDDを破壊

2016-10-28_130110.jpg 「日経コンピュータ」に驚きの記事が出ていた。

同記事によると、「ライブ会場でHDDビデオレコーダーがよく壊れる」という話があって、それを聞いたデータセンターを運営している会社の人が「音環境が精密機器に与える影響に関する考察」という論文で警告していたという。
「130デシベルの騒音レベルであれば、HDDを故障させる力を十分に秘めている」そうだ。

カードやATMが10時間使えず
消火設備の大音量でHDDが故障

2016年9月にING銀行のデータセンターで大規模障害が発生した。原因は、ガス消火設備の定期試験で発生した大音量の噴射音。サーバーのHDDが破損した。これに伴い、カードやATM、インターネットバンキングなどが使えなくなった。復旧にも手間取り、障害は約10時間に及ぶ。大音量がHDDを破壊する問題は国内外で以前から指摘されていたが現実のものとなった。

不快な音としては、普段は精神的な印象が強くて、電車の中でヘッドフォンから漏れてくるシャカシャカ音とか、人の怒鳴り声、ガラスを引っ掻く音などなどが気になるけれど、音もエネルギーを伝える波だから、当然、物理的作用がある。

大昔、「SFマガジン」に、眉唾物かもしれないが、フランス陸軍が開発中の殺人兵器(7Hzだかの超低周波音を放射する)というのが紹介されていたことも思い出す。
そういう殺人音波ではなくて、ちゃんと実用されている音響兵器もある(Wikipedia)

音を照射される側から言えば、大音量で鼓膜が破れるということも実際にあるし、声でグラスを割る(これは共振させてだけれど)こともある。

超音波メスや超音波歯ブラシというのは、ブレードやブラシを超音波域の周波数で振動させるもので、音波の物理作用とは言えない。超音波洗浄機(一時ブームになった超音波洗顔器というのもある)は、空気ではなくて水を振動させるから、こっちは音波の物理作用と言えるかもしれない。


そういえば子供の頃、マンガで実写版TVドラマもあった「少年ジェット」の主人公の必殺技は「ミラクルボイス」、子供たちがまねて「う~、や~、たぁ~」と叫んでいた。
115651787515816546.jpg DesayMiracleVoice.jpg

同じく「ミラクルボイス」といっても、ナタリー・デセイのものとは違う。


HDDが音に弱い、とまでは言えないと思うけれど、これからはデータセンター内に「静粛に!」という貼り紙が出るようになるかもしれない。
だからといって、HDDを全部SSDに換えたら、今度はEMP(電磁パルス)が恐ろしい。

ところで、この号の特集記事は「領収書よ、さらば」となっているけれど、これは白紙の領収書を出すというような時機にマッチして企画されたものではない。念のため。

発見という行為

lif1610030031-p11.jpg 東工大 大隅良典栄誉教授がノーベル医学・生理学賞を受賞するというニュース。
オートファジー(Autophagy、細胞の自食作用)の解明が受賞理由。ノーベル賞の単独受賞というのはとても珍しい、それほどユニークで画期的な研究だと評価されたわけだ。

細胞内のこういうメカニズムについては、一般向けの生物学の教養書(たとえば、永田和宏「タンパク質の一生―生命活動の舞台裏」)などにも書かれているけれど、そして、精巧にできているんだなと圧倒されるけれど、これが大隅先生の研究から発展した領域だということまでは思い至らなかった。

前掲書では「最近日本の研究者が明らかにしたこと」という記述はあるけれど、大隅先生の名前は出ていなかったと思う。
この本は細胞生物学の最新の知見を整理・解説する教養書ということで、引用文献や、誰々の業績という書き方はしない方針のようだ。(この本を批判しているわけではありません、実に良くまとまった良書です。)


こういう発見を成し遂げる人の頭ってどうなってるんだろう?
こんなことを考えてみた。

普通に頭の良い人は、教えられている理論を身に付け、それによって現象を理解して満足する。効率的で頭の良いやりかたである。試験の成績も良いだろう。エリート・コースである。
そうではなく、いろんなことに疑問を持って、なかなか目的地(目的も実ははっきりしない)にたどり着かない。実に非効率である。

natural_secret_crop.png 簡単な図を書いてみた。
坂道を転がり落ちるボールがある。坂道の一部が隠れている。ボールがこの部分を通って出てくる。それだけの現象である。

頭の良い人は、落体の法則どおりだ、何も不思議なことはないと見切る。
ところが、隠れた部分をのぞいてみると、転がってきたボールと出てきたボールは別のものだった、ということもある。
猜疑心のかたまりの研究者は、理論値とのわずかなズレを不審に思い、本当に同じボールだろうかと疑問に思って、たとえばボールにマークを付けて転がしてみるなどの実験を案出する。

発見されてしまえばアタリマエのように思っても、そこに真理が隠れているということに気づくことは簡単ではない。偶然の発見だとしても、それは関連領域の深い知識と日々の努力があってこそのもの。セレンディピティは無から生まれるものではない。
同等の能力を持ち、日々努力している多勢の研究者がいて、たまたまそのうちの一人に偶然が微笑む、そういうことなのだろう。だから、その研究者だけが偉いわけではなくて、そうした多勢の研究者が偉く、そしてそれを支える社会が健全なのだと思う。

社会の役にたつエリートばかり求めていたら、そつなく見切っておしまいの、進歩も刺激もない社会になるのでは。(それに全員がエリートになるはずもない。義務教育でエリート教育を標準にできるわけがない。)
大学が社会の役にたつかどうかは結果でしかない。それを咎め、成果ばかり求めるような国は貧しく、不健全である。大学以外に、そんな研究者をたくさん飼っておける場所なんてないでしょう。

大隅先生の言葉が新聞に紹介されていた:人の役にたつ研究をしたいという学生ばかりでは困る。

日本人、とりわけ日本国内で研究している先生が、ノーベル賞を受賞するたびに、同じ趣旨の発言が繰り返されているように思う。


利益至上主義の経営の世界でも、実は同じようなことがある。
広告展開で大成功したデパート王のジョン・ワナメーカーはこう言っているそうだ。
「広告に費やす金の半分は無駄だ。ただ、どちらの半分が無駄なのかはわからない。」

今年のカサブランカ

P_20160714_210916.jpg 今年も庭にカサブランカが咲いた。
立派な花だが、カサブランカから想像される大輪よりは、心持ち小ぶりである。
咲いたのは一輪、あと蕾が一つ。
離れたところに、もう一株あるのだけれど、こちらは蕾がついていないから、花は期待できそうにない。

それもそのはず、このカサブランカは去年咲いたものが自然に残した球根から出たもの。

⇒去年のカサブランカ


写真は開花に気付いて夜中に撮ったもの。家人が言うには、この日の夕方は未だ咲いていなかったというので、夜中だけれどスマホで慌てて撮影。

写真には不思議な色がついているが、こちらで細工したわけではなくて、カメラのストロボの関係だろう。角度的にとても撮りにくい場所だったので、懸命に腕を伸ばして、画面も視ずに手探りで撮ったもの。


例年であれば、家人が園芸店で新しい球根を買ってきて植えるのだけれど、今回はその時期に世話をする家人がいなかった。カサブランカに限らず、春の花、例年ならチューリップなども、何一つ、新しく植えたものはなく、そして咲かなかった。そんな中でも、小さい水仙などは可憐に咲いていた。

P_20160714_211139-crop.jpg 本音を言うと、園芸店から買ってきた球根や種を植えて花を楽しむというのは、悪くはないけれど、園芸家ではない私は、そんなに執着しているわけではない。
むしろ、季節になると自然に花が咲いてくる、野草のようなものでも十分だと思っている。

それでも、なかなか子供の頃に見ていたような野草が、今の新興住宅地では思ったように咲いてこない。
それは、たとえば、タンポポであったり、オオイヌノフグリであったり。花とはいいにくいけれど、ツクシも生えない。

その一方で、タカサゴユリは、今年もたくさん繁茂していて、夏の盛りにはまた花が咲くことだろう。
どうも、帰化植物のほうが進出速度が速いように思える。もっとも、悪名高いキリンソウ(セイタカアワダチソウ)などは、未だ我が家には侵出してきていない。

雑草の庭、それもまたよし、である。

「フライドチキンの恐竜学」のおまけ

kentucky_friedchiken_cut.gif 昨日とりあげた「フライドチキンの恐竜学」に、日本大学の学園祭で野生生物学教室の学生が配布していたパンフレットからとことわって、ケンタッキー・フライド・チキン(以下KFC)のピースの可食部について、サイが122g、ウィングが72gということが書いてあった。

KFCは学生になるまで食べたことがなくて(近所に店が無かった)、はじめて食べたときは、可もなし不可もなし、普通の鶏の唐揚げの方がおいしいんじゃないかと思った。

唐揚げは具材に味付けをして揚げるもので、フライドチキンは粉に味付けして揚げるものだそうだ。


その割には無性に食べたくなることがある。前にも書いたけれど、以前は小食の私でも3ピースは食べるのが普通だったけれど、歳をとると2ピースでもう十分ということになっている。
しかしピースによって肉量が違うのなら、食べるピースによって3ピース食べられるのかもしれない。

 部位 KFC重み 肉量(可食部)
左記ページ 本書の値
 リブ 1 119.0
 サイ 1.5 127.5 122 
 ウィング  0.5 83.5 72 
 キール 1 92.0
 ドラム 1 65.5
「フライドチキンの恐竜学」では、サイとウィング以外は書かれてなかったので、他の部位はどうなのか、同じようなことを調べた例はないのか、ネットで検索してみた。
日大のパンフレットは見つからなかったが、肉量を計量したというページが見つかった(⇒「チキン肉量分析」)。

こちらのページでは本書が引用しているデータとは異なり、ウィングよりドラムの方が可食部が少ないという結果が報告されているのだが、KFCでは部位に重みがついていて、リブ、キール、ドラムは単独で1ピースだが、サイは1.5ピース、ウィングは0.5ピースという重みを付けているらしいから、それとは矛盾することになる。
kentucky_friedchiken_parts.jpg
同ページでは、計量の様子が写真で示されているが、ドラムでは食べられそうなところがまだまだ残っているように見受けた。これがKFCの重みや日大の調査結果とのずれになっているではないだろうか。
私ならドラムの関節部分もガリガリ食べるし、一番好きなリブなら、肋骨はほとんど残らない(そこにこそ鶏本来のジューシーさが詰まっていると思う)。



なんだか、久しぶりに食べたくなってきた。

フライドチキンの恐竜学

friedchiken_dinosaurus.jpg 私が子供の頃は、学校でフナやカエルの解剖とか、高校では牛の眼の解剖とかをやった覚えがあるのだが、この頃は命を大事にしなければならないとかで、そういう授業は避けらるそうだ。

だから、先生方は、煮干しのイワシの「解剖」など、授業を工夫されているようだ。
また、本書の内容を先取りするようだが、鶏手羽先を使って骨格標本を作るなどもあるらしい。


こうした「気遣い」には賛否もあると思うけれど、本書では、沖縄の子供たちに「知ってるトリは?」と聞いたら「ハクチョウ」と答えるような自然との距離(バーチャル化)に対する問題意識があるようだ。

さて、盛口 満「フライドチキンの恐竜学」は楽しい本である。
内容は、タイトルからもちろん想像できるのだけれど、どんな風に料理するのかワクワクさせてくれる。

第1章に、こんなことが書いてある。

トリケラトプスを発掘し、自宅に展示しようとしたら、調査に1~2ヶ月半、発掘に1~2ヶ月、掘り上げてから展示できるようになるまでに1~2年、この間に必要な費用は、ざっと20~25万ドル……
  (ファストフスキー他「恐竜の進化と絶滅」による)

というわけで「貧者の恐竜」を着想して、それがトリの骨というわけだそうだ。もちろん子供にとって、それはやっぱり恐竜ではなくて、トリなんだけれど。

全ページカラーで、見開き左ページはやさしい語り口の解説(というかエッセイ)、右ページは西澤真樹子氏(なにわホネホネ団)の愉快な絵―この本の成功の半分はこの絵の手柄かも)という構成で、とてもとっつきやすい。

friedchiken_dainosaurus_samples.jpg


しかし内容は高尚で、難しい骨の名前もばんばん出てくる。子供の読み物のように考えていると内容が頭に入ってこない。当然、しっかりと骨のイメージを頭に描きながら読もうとすると、普通の本よりもずっと時間もかかる。

本書末尾の参考文献に挙げられている犬塚則久「恐竜ホネホネ学」(NHKブックス)ほど手ごわいわけではないが。


なかなか骨のある本なのであった。

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