「第三のチンパンジー」

3rd-chimpangee_cover.jpg ジャレド・ダイアモンド著、レベッカ・ステフォフ編著
「若い読者のための 第三のチンパンジー」(秋山勝訳)

について。

第三のチンパンジーとは、もちろんホモ・サピエンスのことである。遺伝的距離がホモ・サピエンスにもっとも近い現生生物は、いわゆるチンパンジー(コモンチンパンジー)、ボノボ(ピグミーチンパンジー)で、その系譜に連なる三番目のチンパンジーというわけである。

他のチンパンジーは人類のもっとも近い親戚であるわけだけれど、だからといって同列に扱えるものというわけではない。他の二種と人類のあいだには、深い溝がある、つまり、人類はそれほどユニークな動物であるという点は、繰り返し強調される。

サルの本はいろいろ読んでいるから、はじめ、本書の記述は特に目新しいとは思わなかった。いろんな本で知った知識を再整理したようなものだというのが最初の感想。

しかし、読み進んでいくと、そうした記述のなかで、これはこれはと思ったことがある。それは農業に対する評価である。
著者は、まず従来の「農業≒文明」史観を簡潔にまとめる。
はじめに 人間を人間であらしめるもの
この本のなりたち/本書の見取り図を描いてみよう/新たな方法で人間自身を見てみよう
 
第1部 ありふれた大型哺乳類
第1章 三種のチンパンジーの物語
三つの疑問/鳥類の世界を手がかりに/霊長類の系統樹/チンパンジーとヒトの違いは
 DNAでできた時計/人間は類人猿をどのように扱うべきなのか
 
第2章 大躍進
ヒトになる/アフリカで起きたふるいわけ/氷河期を生きたネアンデルタール人/もうひとつの人類集団/現生人類の台頭/ネアンデルタール人になにが起きたのか/一回目の躍進/小さな変化、大きな躍進
 人類は有能なハンターだったのか/フローレンス島の小人
 
第2部 奇妙なライフサイクル
第3章 ヒトの性行動
食性と家族生活/ヒトの要求を満たした社会システム/なぜ男性は女性より体が大きいのか/人間の風変わりな性行動/浮気の科学/目的の選択/どうやって配偶者を見つけるのか
 一夫一妻の鳥は浮気をしないのか
 
第4章 人種の起源
目に見える違い/肌の色は自然淘汰の結果なのか/性淘汰と体に現れた特徴/特徴と好みと配偶者の選択
 白か青か、それともピンクか
 
第5章 人はなぜ歳をとって死んでいくのか
ゆるやかになっていく加齢/体の修理と部品の交換/寿命をめぐる問題/進化と加齢/閉経後の人生
 巡洋艦の教え/加齢を引き起こす原因は存在するのか
 
第3部 特別な人間らしさ
第6章 言葉の不思議
タイムマシンがあれば/ベルベットモンキーの声を聞いてみると/〝言葉を話す〟類人猿/ヒトの側から言葉の橋を渡す/新しい言語はどうやて誕生するのか/言葉の青写真
 かみついたのはどっち/ハワイの子どもたちが作った言葉
 
第7章 芸術の起源
芸術とはなにか/類人猿の芸術家たち/美的評価とアズマヤドリ/芸術が担っている目的
 最古の芸術
 
第8章 農業がもたらした光と影
最近になって始まった農業の歩み/農業をめぐる伝統的な考え方/狩猟採集民の日常/農業と健康/階級格差の出現/先史時代の交差点
 農業に励むアリ/古代の病気を研究する新しい科学
 
第9章 なぜタバコを吸い、酒を飲み、
    危険な薬物にふけるのか
 自己損傷行動のパラドックス/長い尾羽に込められた手がかり/動物たちのコミュニケーションをめぐる理論/危険で対価の大きい人間の行動/誤ったメッセージ/動物と人間に課されたコストと利益
マレクラ島の男たちの危険なジャンプ
 
第10章 一人ぼっちの宇宙
宇宙の向こうに誰がいるのか/キツツキと収斂進化/生物学と無線通信の進化/宇宙の静けさは神のおぼしめし
 宇宙に存在する文明の数え方
 
第4部 世界の征服者
第11章 最後のファーストコンタクト
ファーストコンタクト以前の世界/隔離状態と多様性/失われた言語/人間社会のもうひとつのモデル
 焼き捨てられた芸術
 
第12章 思いがけずに征服者になった人たち
地理と文明/家畜化された動物の違い/馬がもたらした革命/植物の力/「南北の軸」対「東西の軸」/地理学が基本原則を制する
 絶滅が歴史の流れを決める
 
第13章 シロかクロか
ジェノサイドは人間の発明か/地球の反対側で起こっていた撲滅/集団殺戮/動物界の仲間殺しと戦争/ジェノサイドの歴史/倫理規定とその破綻/未来を見つめて
 ジェノサイドはなかった/最後のインディアン
 
第5部 ひと晩でふりだしに戻る進歩
第14章 黄金時代の幻想
モアが絶滅したニュージーランド/マダガスカルの消えた巨鳥/イースター島の謎/島と大陸/アナサジの黙示録/幼年期に起きた文明の生態学的破壊/環境保護主義の過去と未来
 太平洋の謎の島/溜め山に残されていた答え
 
第15章 新世界の電撃戦と感謝祭
人類史における最大の拡張/新世界ではじめての事件/マンモス絶滅
 メドウクロフト遺跡とモンテベルデ遺跡:残された疑問
 
第16章 第二の雲
環境の大破壊は進んでいるのか/現代に起きた種の絶滅/過去に起きた絶滅/将来に起こる絶滅/なぜ絶滅が問題なのか
 マレーシアの幻の淡水魚/ジャガーとアリドリ
 
おわりに
 なにも学ばれることなく、
 すべては忘れさられるのか
 
訳者あとがき
解説 長谷川眞理子(総合研究大学院大学学長)
 人類の歴史の大半を通じ、人という人は狩猟採集民として、野生の動物を狩り、野生の食べ物を集めて生きていく生活を強いられた。従来からの歴史観では、狩猟採集民の生活スタイルは野蛮で短命とされている。食べ物を育てることはなく、貯蔵する食物はごく限られ、手間のかかる食料探しに奮闘し、飢えから逃れようと必死だった。日々そうした戦いが続くため、気を抜ける日は一日としてない。こうした悲惨な状況から逃れられたのは、最終氷河期の終わりのことである。世界の各地域で自発的に植物を栽培して、動物の家畜化が始まった。農業革命は徐々に広がっていき、今日ではごく少数の狩猟採集民の部族が生き残っているにすぎない。
 農業を進歩と考える従来からのこうした見方のもとでは、「狩猟採集民であった私たちの祖先のほとんどが、どうして農業を採用するようになったのか」という問いを誰も口にしない。祖先が農業を始めたのは、言うまでもなく、少ない労働で多くの食べ物を得るには効率的な方法だったからである。木の実を探し、野生の動物を追いかけてくたくたになった未開の狩猟者が、はじめて豊かに実った果樹園や羊が群れる牧場を耳の当たりにした光景をどうか想像してみてほしい。農業がいかにいいものであるか気づくことに、100万分の1秒とかからないはずだ。
 典型的な進歩派の見解はさらに続く。芸術が誕生したのも農業が勃興したおかげだ。穀物は保存でき、ジャングルで探し回ることに比べると、庭で食物を育てたほうが時間もかからず、狩猟採集民には決してもてなかった余暇の時間が農業のおかげで授けられた。この余暇の時間を使い、私たちは芸術を生み出したのだ。これこそ農業が人類に与えた最大の贈り物だった。

(第8章 農業がもたらした光と影)


そして、この後に狩猟採集生活よりも農業文明生活のほうが優れている、とは言い切れないことが説明されるわけだが、それを健康という面から数値的に裏付ける。
農業と健康
 数千年前の古代ギリシャとトルコの遺骨を調べた研究である。氷河期のこの地方に住んでいた狩猟採集民の平均身長は、男性が178cm、女性が168cmだった。農業が始まるようになると身長は一気に低くなる。紀元前4000年ごろには、男性で平均160cm、女性は155cmになっていたのだ。それから数千年後、身長はゆっくり伸びはじめていったが、現代のギリシャ人とトルコ人は、健康な狩猟採集民の祖先の平均身長にはいまも達していないのである。
 ある古病理学者が、アメリカ先住民の狩猟採集民の祖先の骨は「あんまり健康的なので、調べているとなんだか気おくれしてくる」とこぼしていた。しかし、いったんトウモロコシの栽培が始まると、その骨はがぜん興味をかきたてるものになった。平均的な大人の虫歯の本数が、一本から一気に七本近くまで跳ね上がっていたのだ。歯の欠損は日常になっていた。子どもの歯にエナメル質形成不全が見つかったのは、育児に当たっていた母親が深刻な栄養失調に陥っていたことをうかがわせる。結核や貧血、それ以外の病気も劇的に急増していた。トウモロコシの栽培が始まる前までは、人口の5%が50歳以上まで生きていたのだが、栽培が始まるとその比率はわずか1%になり、しかも全人口の1/5は1歳から4歳のあいだに死亡していた。

このほかにもいろんな数字で、狩猟採取生活の優れた点が紹介されている。
狩猟採集民が健康である一つの理由として、現在に残っている狩猟採集民の記録によれば、食物の種類は80種類に及び、タンパク質とビタミン、ミネラルに富んだ多彩な食べ物を食べていた。対して農民は主にデンプン質で、小麦・米・トウモロコシの3種で、カロリーの半分以上がまかなわれているという。この単一作物依存農業は、栄養失調だけでなく、飢饉の危険も増すことになる。

また、狩猟採集生活では確実性の低い狩りでヘトヘトになると思われているが、同じ記録によれば、狩猟採集民の「労働時間」は、週12~19時間であるという。

ただし、文明社会では、家電製品が普及したなど、炊事・洗濯などの時間は著しく短縮されているから、この点については割り引かなければならないと私は思う。


そして、伝染病や寄生虫は、農業に移行するまでは確たる勢いをもっていなかったという。こうした病気がはびこるのは、人口が密集し、栄養不良の定住者の住む社会に限られ、住人は互いのあいだで、あるいはみずからの排泄物を介して絶えず病気をうつしあっていた、とする。

こうした指摘について、日本人なら多くの人が賛同できるかもしれない。日本の縄文時代は、狩猟採集生活の時代だけれど、世界で最も古い時期から土器を製造し、日本列島内はもとより、大陸とも交易を盛んにし、大きな集落をつくり、豊かな生活を営んでいた。その遺物がフランスで展示されるや「縄文日本には、一体、何人のピカソがいたのだ!」と驚嘆されたという。

西欧でも、農業がはじまるまえに、ラスコーやアルタミラの芸術があった。

日本での農業のはじまりが比較的遅かったのは、そうする必要がなかったからだといわれている。
穀物は保存できるといっても、狩猟採集民は、豊かな食糧が得られ、その必要がない環境で暮らしているから、それは大したメリットとはいえないわけだ。

また、農業にはさまざまな弊害があるということも常識だと思う。
ある意味では環境破壊だし、使い方を誤れば労多くして効少なしとなる。メソポタミア文明が興ったのは灌漑農業によるけれど、それが滅んだのもまた灌漑農業が土地を疲弊させたからだとも言う。サハラが砂漠となったのも人間のせいだし、アメリカの表土が流れてしまうのも農業が原因だ。それに土地をめぐっての殺し合いだとか、貧富の差を生んだとかである。

著者のこうした指摘はいちいち納得させられるのだけれど、それでもこれは一面的ではあると思う。
狩猟採集生活が成り立つ地域ばかりではないし、これら農業のデメリットを認めたとしても、農業から得られるメリットには代えられない、やはり人類は農業によって豊かになったと考えざるを得ないと思う。
それは、一人ひとりの人類の豊かさでは負けるかもしれないが、文明を手にしたことで人類全体が(少なくとも数の上では)繁栄していることである。

ロバート・ラングドン・シリーズの「インフェルノ」では、世界の人口を半分に減らすことが、人類を救う道であると考える人たちが描かれる。(私は映画を見たけれど、原作とはかなり違うらしい)


エデンの園で生きるのは幸福だけれど、そこで生きていける人数は限られている。

アダムとイブも楽園の中では子供をつくっていない。楽園で生きることは幸福というより、幸運というべきかもしれない。

狩猟採集生活と農業文明生活のどちらが「幸せ」かは、比較する前提・条件というものが違っているのだ。
もはや楽園に戻れない我々としては、楽園を成り立たせる諸条件を理解し、現代文明を反省することが、今後も人類が存続していくためには不可欠である、本書の意義はそういうところにあるのかな。

本書のタイトル「第三のチンパンジー」で、また違ったことも考えてしまった。
現生人類はたしかに繁栄しているけれど、生物種としての失敗は、第四、第五のチンパンジーを生んでいないことではないか。
もしそういう種がいたら、この種族は第三のチンパンジーが滅んでも、第四、第五のチンパンジーが我々の後を継いでくれるかもしれない。

いや、そういう種がいたのに、第三のチンパンジーが彼らを絶滅させたのかもしれないが。


最後に、タイトルに「若い読者のための」とあることについてだけれど、内容としては年齢を問うようなものではないと思う。著者の思いは、人類という種がたくさんの生物種を絶滅させ、環境を破壊し、そしてそのしっぺ返しを受けることが予見される、そのこれからの時代を生きる「若い読者」へのメッセージという意味のようだ。
そして、日本語版解説を書かれた長谷川眞理子氏も、そのことへのこだわりをお持ちのようである。

頭の固い年寄は相手にしないというわけではない。


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「世にも奇妙なニッポンのお笑い」~(その2)笑いの翻訳

51GjN1r1QAL.jpg チャド・マレーン「世にも奇妙なニッポンのお笑い」の2回目、
今日は「第八話 笑いを翻訳するのは難しい」を中心に。

著者は、漫才師であるとともに、字幕翻訳家としての活動もしているそうだ。
みずからを「チャド奈津子」と称している。もちろん戸田奈津子さんのもじりである。(⇒戸田奈津子「字幕の中に人生」

最初は板尾創路さんあたりからの、突然の依頼があったらしいのだが、要するに、英語国民がこの字幕で笑えるのかをチェックしてもらいたいということが発端のようだ。
お笑いで使われる言葉は、リズムがあり、韻があり、メロディというか抑揚がある。音は感じられたとして、意味を同時に理解するには…

書中では、その一例として、チュートリアルの漫才の英訳が掲載されている。
徳井俺の生活は荒れたよ。From then on, it was all a downward spiral.
福田なんで?! チリンチリンなくなっただけやろ?Why? All you did was lose your "Ringy Dingy".
徳井毎晩毎晩、酒飲んだよI started drinking all the time.
福田えーっ? おかしない?Are you serious?
徳井毎晩毎晩、酒飲んで。べろんべろんや。Night after night, I got "Wobbly Bobbly".
福田うん。Hm.
徳井朝起きて、チリンチリン探した。I'd wake up and look for my "Ringy Dingy"
福田うん。Hm.
徳井夜、べろんべろん
朝、チリンチリン
俺の体、がりんがりんや。
My nights were "Wobbly Bobbly"
My days were "Ringy Dingy"
I ended up "Boney Woney".
福田ややこしいわ、お前。You're making things way too complicated

前に、「日本語を翻訳するということ」の記事では、オノマトペの翻訳はなかなか難しいことを書いたおぼえがあるが、チャドはおそるべし、その語感を英語に移す努力、されにそれらが韻を踏んでいることまで再現しようとしている。そのため、新しい言葉を創り出すことまでする。

新しい言葉を創るなんてのは、母国語とする人でなければ無理じゃないだろうか。外国人だったら、そんな言葉は無いで終わらされそうだ。


そういうチャド奈津子も納得できる翻訳ができないことがままあるという。
その一つが方言で演じられるお笑い。東北や九州などのお笑いでは、その方言が笑いの源泉になっていることが多いが、これを翻訳する、つまり、日本の中にある方言という位置まで含めてということだと思うが、これはとてもできないという。

本書を読むまで全く知らなかったのだけれど、オーストラリア(チャドの出身国)映画の「マッドマックス」は有名だけれど、この映画を米国で上映するときには、オーストラリア英語を米国語にする吹替えを行ったそうだ(欧米では字幕は好まれない)。元のオーストラリア英語では、発音に違和感があるだけでなく、語彙・表現も違っていて、とても米国語民には理解できないシロモノだという(もちろんその可笑しさが)。


この本を読んでいて思い出した。この記事ではなくて、「日本語を翻訳するということ」に書くべきだったと思うけれど、良く知られた夏目漱石の逸話がある。
英語教師をしていた漱石が、"I love you" の訳しかたとして、日本人はそんな直接的な表現はしない、「月が綺麗ですね」とでもやるほうが良いと言ったとか。

このエピソードを思い出してネットにあたったら、なかなか見事な解説を見つけた。
 ⇒夏目漱石がI LOVE YOUを「月が綺麗ですね」と訳した理由(潮見惣右介)


ところで、先だって公のメディアでの誤訳が問題になっていた
"I get why people would be upset about it."を、「なぜ多くの人が騒いでいるのか分からない」と誤訳したというもの。こんなセンシティブなところで、どうして間違うかなぁ。仮定法は「そういう人がいるがどうかは知らないけれど、もしそういう人がいれば」という慎重な言い回しなんだと思うけれど、誤訳した人はそれに引きずられたんだろうか。

ためしに、この英文をGoogle翻訳に入れたら、「私はなぜ人々がそれに怒っているのでしょう」と変な日本語に翻訳された。問題の誤訳と同意のようにも読める。そこで、仮定法(would be)を直説法(are)にしてみたら「私はなぜ人々がそれに憤慨しているのかわかります」とまともに翻訳された。AIも仮定法は苦手なのかな。

この頃は、翻訳機とか、スマホにも翻訳アプリがあるけれど、こんなことでは、チャド奈津子や漱石の水準になることはまだまだ難しそうだ。


「カンタン英語で浄土真宗入門」

Kantan-eigo-de-Jodo-shinshu.jpg 大來尚順「カンタン英語で浄土真宗入門」について。

以前、京都のお寺、たしか知恩院だったと思うが、そこで外国人(欧米系と見える)観光客の会話が耳に入った。
もちろん全部が聴き取れるわけではないのだが、"Zen"という単語が聞こえた。どうやら"Wonderful Zen temple"とでも言っているようだった。

ちょっと待てよ、知恩院は禅寺ではない、浄土宗の総本山である。
仏教に詳しくない外国人には、禅宗も浄土宗も区別がないみたいだ。外国映画などで仏教に関心を持つ外国人が出てくる場合、その仏教はたいてい禅宗のようだから、こういう会話になるのかもしれない。

もっとも、日本人でも宗派の違いをきちんと理解しているかというと、あやしい。それどころか、むしろ神さまも仏さまもごっちゃにしているぐらいである。他国人のことは言えない。

なので、葬式のときなど、宗派の確認でときとして悩ましい。
家人の実家は真言宗で、義兄の葬式は浄土真宗だった。私の仲人は創価学会。それぞれ葬儀のやりかたが違うけれど、いずれも宗派を知っているから混乱はなかった。(創価学会は強烈に自覚している)
しかし、若い人には家は仏教だと思うけど、宗派はなんだったかな、というのも多いらしい。家に仏壇があったり、勤行の手引きみたいなのがあれば、見る人が見れば解るのだけど。


第1章 浄土真宗の基本
浄土真宗/親鸞聖人/阿弥陀仏(阿弥陀如来)/念仏/南無阿弥陀仏/浄土真宗の聖典/浄土三部経 顕浄土真実教行証文類(教行信証)/正信念仏偈(正信偈) 恩徳讃 歎異抄/和讃 御絵伝/御伝鈔 御文章(御文)/聖徳太子/七高僧/蓮如上人/門主/門首/法主/門徒/本願
 
第2章 浄土真宗の教え
他力・自力/信心/摂取不捨/回向/煩悩/回心/俱会一処/浄土/往生/悪人正機/愚禿/非僧非俗
 
《英語で説明してみよう》
01「摂取不捨」/02「浄土」/03「煩悩」
 
第3章 浄土真宗の仏事
勤行/法要・法事/焼香/斎/降誕会/報恩講/永代経法要/彼岸/盆/念珠/布施/法話
 
英語で読み解く『正信念仏偈』
 
あとがき
さて、大來尚順「カンタン英語で浄土真宗入門」は、たまたま図書館の新着棚にあったのを読んでみたもの。特に浄土真宗について勉強しようとしたわけではなくて、仏教全体のことも英語で説明しているのだろうと、例によって、通勤の徒然に読むため、あまり深く考えずに借りた。

というわけだけれど、読むと上のような外国人の仏教理解についていろいろ考えさせられた。
そして、それ以上に仏教について、それなりに簡潔に説明されているとちょっと感心した。

仏教に関する本を読んでいると、仏教の概念や仏の説明するのに、もとになった漢語や梵語のことが出てくることが多いけれど、この本では、それに英語が加わる。梵語は英語とルーツを同じくする印欧語族だから、対照の妙もある。

普通、仏教を知ろうとすると、難しい漢字を読もうとするわけだが、英語になるとその必要はないわけで、著者も「英語で考えたほうが仏教用語を理解しやすい」(あとがき)と述べているように、仏の教えが簡単な英語で説明されると、かえって理解しやすくなるという。著者曰く、
英訳された仏教用語は単に漢字を英訳しているのではなく、その仏教用語の本来の意味を抽出したものが英訳されているからだ

とはいうものの簡単にするのもその人の理解。フィルターを通って出て来るもの。私が好きな仏教の言葉は「嘘も方便」である。これを解釈するに、言葉それ自体にすべての真実が含まれていると考えてはならない。
たとえば、親鸞が自身日本語で語ったものは、一見簡単なようでも、それを正しく理解するのは、やはり難しく、誤解されることも多い。親鸞在世時にも、京都の親鸞からは関東の善鸞の理解違いを正す書状も多く出されている。善鸞は逆らう気はなかったと思うけれど、間違ったという扱いか。

さて、本書には有名な教えについて、英訳、あるいは英語での解説が付いている。
悪人正機
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
"Even a good person attains birth in the Pure Land, so it goes without saying that an evil person will."
ネットで悪人正機の英訳を検索すると、“The evil persons are the right object of Amida's salvation, The evil persons have the unique opportunity to go to heaven”というほうが多く出てくる。本書では直訳で、こちらは意訳ということかもしれない。

また、本書による「煩悩」の説明は次のようになっている。
Blind Passion
"Bonno" is composed of three passions: Desire, Hatred, and Ignorance. While it's very easy to list these three passions, what is hard to accept or realize is that these three passions are a big part of our daily life! For most of us, we are unconscious that these blind passions affect our behavior, actions and thinking every moment of our lives. This is the reason why the word "blind" is used in the Shin translation of "bonno.
そして、次の日本語説明が付されている。
煩悩
 「煩悩」とは、貪りむさぼり瞋りいかり・無知という3つの毒(三毒)から成り立っています。これらの3つを羅列するのは容易なことですが、問題となるのはこれらが私たち一人ひとりの日常生活において深く関わりをもっていることを正直に受けとめ自覚できないことです。大抵、私たちは日常生活のいたるところで「煩悩」が振舞い・行動・思考に影響を及ぼしていることに気がついていないのです。よって、浄土真宗で煩悩を英語で表現する際には「blind」(目には見えない)という言葉を用いるのです。

さて、みなさんはわかった気になれたかな。

畑のリンゴ

某金融機関のチラシ兼月間カレンダーに、暮らしの知恵といったコラムが載っている。

P_20180705_213251_vHDR_On.jpg 気にも留めないものだが、先日、たまたま目に入ったそれに、ちょっとひっかかることが書いてあった。

ジャガイモは……、
ビタミンCがリンゴの約10倍も含まれるため「畑のリンゴ」といわれています。


ジャガイモは土リンゴとか大地のリンゴと言われる。それが畑のリンゴになってもおかしくはない。
しかし、土リンゴというのは、フランス語の"pomme de terre"の直訳ではないのか。フランス語だけでなく、スウェーデンの方言では、earth-pearという意の言葉が使われているそうだ。

ジャガイモはアメリカ原産で、ヨーロッパに入ったのは16世紀、食されるようになったのは18世紀である。

はじめは、聖書に書かれていないという理由で、あえて食べるような人はいなかったという。食べられるようになったのは、フリードリッヒⅡが耕作を強制してからという。(伊藤章治「ジャガイモの世界史」)


"pomme de terre"という言葉も18世紀には定着していたと思う。
そして、18世紀には、ビタミンCあるいはビタミンというものはまだ発見されていない。
「畑のリンゴ」が"pomme de terre"の直訳だとして、少なくともその時点では「ビタミンCが云々」という説明はなかったはずである。

そもそもフランス語で"pomme de terre"と呼ぶようになった理由はなんだろう。
全然、赤くもなければ、ツルッとした綺麗な球形をしているわけでもない。見た目ではリンゴとは似ても似つかない。
ただフランス語のpommeも、英語のappleも、あのリンゴと限るわけではなく、果物全般をあらわす語でもあるという。「エデンの園」の「知恵をさずける実」は、俗説ではリンゴというが、聖書にはその記述はないし、旧約聖書の時代・場所に、リンゴは存在しないはず。
だからフランス語で"pomme de terre"というのは深い意味はなく、土中にできる実ということなのかもしれない。

このように考えてきたけれど、「畑のリンゴ」はフランス語の直訳ではないとしたらどうか。
ちなみにWikipediaのジャガイモの項には次のような記述がある。
利用法
ジャガイモの利用形態は、……
……ジャガイモは、デンプン源だけでなくビタミンやカリウムも多く含んでいる。特にビタミンCが豊富で、フランスでは「大地のリンゴ(pomme de terre:ポム・ド・テール)」と呼ばれ、ドイツ語や上述のオランダ語でも同様の表現が存在する。ジャガイモのビタミンCはデンプンに保護されるため、加熱による損失が少ないという。……

(Wikipedia ジャガイモ)

おやおや問題のチラシのコラムは、ここからきているのかもしれない。


前述のとおり、ビタミンCの発見は"pomme de terre"の語より新しいけれど、ビタミンの発見以前でも、壊血病を防ぐ効果に気づいて、リンゴにもたとえられるもの、すなわちリンゴのような薬効があるから「畑のリンゴ」と言ったのかもしれない。それを現代の知識でいいかえたのが、「ビタミンCが多いから畑のリンゴと呼ぶ」という説も成り立たないわけではない。

もっとも「畑のレモン」とか「畑のイチゴ」(キイチゴじゃないってこと?)のほうがピッタリだが。


おそらく真相は次のようなものではないだろうか。

初めて目にするジャガイモに対して、フランス人は"pomme de terre"という語をあてた。
"pomme"はあのリンゴとしてではなく、実一般を指す語として使われた(つまり「大地のリンゴ」は誤訳で「大地の実」とすべき)。そうやって成立した"pomme de terre"の語だが、後にビタミンCの含有量が多いことが知られ、語源的には関係ないけれど、そのことを言い得て妙な表現であるということで、後付けの理屈として「畑のリンゴ」という言い方が広められた、そういうことではないだろうか。

要するに、ビタミンCが多いことは事実だが、それが命名の理由ではないと愚考するのである。
読者諸賢はどうお考えだろう。

「字幕の中に人生」

Jimaku_no_nakani_jinsei.jpg 戸田奈津子「字幕の中に人生」

家で、外国映画を観る時、吹替えで見るか、字幕で見るか、(どちらもなしで見る人もいるかもしれない)。
DVDやブルーレイディスクはもちろん、テレビ放映でも、この頃は二ヶ国語や字幕が選べるようになっている。
私は、ものにもよるけれど、字幕で見ることが多いように思う。

本書によると、日本人は字幕派が多いらしい。著者によると、偏狭な島国の住民の外国への憧れは強いものがあり、ホンモノ志向も強いから、と分析されている。

そもそも本書では、映画館で字幕で上映されることが多いのは日本だけで、他国では吹替えが多いのだそうだ。そのことを聞くと出演者は大いに喜ぶそうだ。そりゃそうだろう、台詞に精一杯の演技を込めているはずだから、それを消され、他人の声で置き換えられたら、半分、いやそれ以上の体が削られたように思うだろう。

著者がインタビューを受けているテレビ番組を見たことがある。
字幕翻訳家っていうのは、語学はもちろん、さまざまな生活習慣とかを知っていて、しかも限られた字数で、セリフを再構成しなければならない。職人文化人である。氏が持つその雰囲気がテレビ越しに伝わってきていた。

翻訳料も、結構な額がもらえるのかなと思っていたのだけれど、年間400本程度の外国映画の翻訳料を合計しても1.6億円ぐらいなのだそうだ。(字幕付けに多額の投資はできないし、翻訳家がせいぜい20人までというのも当然だ)

著者が字幕を担当した作品数は、巻末付録によると、最初は1970年、70年代の10年で9本である。1980年には7本、81年に9本、82年には一気に24本である。その後、毎年、30以上を担当し、1995年には、なんと50本もの作品に字幕をつけている。
ということは、この年の年収は約2000万円ということになる。
たしかに、この調子だったら高額の収入はあることになるけれど、いつもいつも安定してあるということでもなさそうである。それに、この特殊技能、少ない人数で日本中のニーズに応えている。一方で大儲けの映画会社があるとしたら、やっぱり安いのではないかと思う。

先ごろ、映画上映における音楽著作権料のことで、JASRACと映画業界がもめているという報道があった。日本では安すぎるというわけだが、字幕作家には著作権料というのもないんじゃないだろうか(人格権はあるだろうけれど、実入りとしての著作料)。


古典に属する演劇やオペラには、昔から日本語訳が付けられている。
ハムレットの有名な台詞、“To be, or not to be, that is the question”などは、「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」だったり、「生か死か、それが疑問だ」だったりする。(本当か嘘か知らないが「とべます(to be?)、とべません、それはわかりません」なんてのもあるとか。)
「フィガロの結婚」でもっとも有名なフィガロの“Non più andrai, farfallone amoroso”も、「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」だったり「もはや飛べまい、この蝶々」だったり。

名作劇には複数の訳があるわけだが、映画でも、映画館上映時と、テレビ放映時は字幕が違うことがあるようだ。本書では説明されてないので、私の推測にすぎないけれど、テレビ局は、いつも日本国内の配給会社から放映権を買うわけではなくて、外国の製作会社から買う場合もあるのだろう。その場合、配給会社が付けた字幕の著作権は製作会社にはないのだろう。

vlcsnap-2018-01-22-11h31m11s3.png DeAgostiniが出した「DVDオペラ・コレクション」は、全作品日本語字幕付きだけれど、海外で製作されたディスクは(そしてオペラのDVD等はほとんど海外制作)、日本で発売されているものでも、装丁が日本向けになっていても、字幕は原詞というものが多い。

オペラはイタリア語、ドイツ語、数は多くないがフランス語(「カルメン」など)だから、英語字幕を表示することになるのだが、当然、眼も頭もついていかない。

古典的なオペラは、そのストーリーもおおまかな歌詞も頭に入っているからそれなりについていけるけれど。オペラを見る人は必ず予習しておくように。(言葉がわかる人でも、節回しの関係で聴き取りにくかったり、ポリテキストの場合もあるから必須)
本書にもあるように、言葉が違うと、笑うべきところで笑えなかったり、笑うタイミングがズレたり、本当に大変みたいだ。


Jimaku_no_nakani_jinsei_tankou.jpg 字幕につかわれる文字も独特である。一番の特徴は「口」のように、線で囲まれていて空気穴のない字を書かないということである。これは、フィルムに字幕を焼きつけるときに型が使われるからで、空気穴があいていると型にならないからだそうだ。そして、すべて手書きだそうだ。
単行本として刊行されたのは1994年。20数年前のことだから、今は、技術的にはデジタル化がとりいれられて製作過程が変わっているかもしれないけれど。

これについて、(本書題字及びカード参照)とあるのだけれど、私が読んだ文庫本ではそうはなってなくて、単行本での装丁のことらしい。
なお、「あとがき」によると単行本には、本物のフィルム(「尼僧の恋」)を切って作った1枚1枚違う栞が付いていたそうだ。(図書館が収蔵するときはどう扱ってるんだろう?)


「蘭学事始」

杉田玄白「蘭学事始」(全訳注:片桐一男)について。

Rangaku-kotohajime_katagiri.jpg 図書館の書棚で見つけて、「風雲児たち~蘭学革命篇」を見たあとだったので、借りて読んだ。

「蘭学事始」は、高校の国語の教科書に一部が収録されていたことは覚えているのだけれど、どの部分だったのか、おそらく冒頭ではないかと思うのだけれど、もう一つ記憶が曖昧である。

本書は、現代語訳、原文、解説からなる。現代語訳はとても読みやすい。全部読み通すのに1時間もかからない。(文庫版で70ページ)
現代語訳を読んだあと、原文も読んでみたが、書き下し文で、ルビもふられているから、こちらも、そう苦労なく読める。前述の、本書収録の教科書も現代国語のものだったのではないだろうか。
また、原文には、豊富な注(132個)が付いている。34ページもある。原文は50ページだが、大きな活字でルビもふられている。注のフォントサイズは小さいから、実量としては注のほうが多いだろう。

現代語訳
蘭学事始上の巻
蘭学事始下の巻
原文
長崎本『蘭東事始』凡例
蘭東事始上之巻
蘭東事始下之巻
解説
一 『蘭学事始』執筆の目的と著作の意義
二 「蘭学事始」「蘭東事始」「和蘭事始」
三 底本「蘭東事始」
四 古写本とその分類
五 杉田玄白の著作
六 蘭学事始附記
七 杉田氏略系図
八 記念碑・史跡・墓地
九 『蘭学事始』に関するおもな参考文献
 
あとがき
『蘭学事始』年表
件のドラマでも、ネタに面白く使われていた「フルヘッヘンド」については、解説ではなく、注に記載があった。
「フルヘッヘンド」を「堆し」(うずたかし)と訳すくだりは、訳語をあてる苦労の代表例として有名な個所であるわけだけれど、それだけでなく、原文で10行もあって、玄白の得意な様子がうかがわれる。
ところが、近年の研究で、ターヘル・アナトミアにはその語自体が見当たらないということで、さらに有名になったといういわくつきの場所である。
本書では次のように注が付されている。

(82)フルヘッヘンドせし物 玄白が例にあげた鼻の個所に該当する記述を原書に探しても「フルヘッヘンド」という発音に当たる文字はみえない。しいていえば附図のXIにみえる鼻の解剖につけられたa印に対応する本文aのところにみえる文、a Dorsum, de rug, naamentlyk de verhevene langte der Neus. のうちのverheveneを指すということになろう。意は「盛り上がった」である。玄白の老齢故の記憶違いかと思われる。

本書のように老齢に帰するのが妥当なところかもしれないが、なかにはこれを玄白の創作と見る向きもあるようだ。私は、むしろ玄白がその後、オランダ語の習熟度を上げた、その結果、単語の派生関係なども理解するようになって、親縁の語を取り違えるに至ったのではないかと想像する。
なお、ネットのオランダ語辞書で、verhevene(verheven)を調べると、その例文中に、verhevenheidという語が見いだせる。

ドラマで前野良沢が一節切を吹くシーンがあったが、みなもと太郎の原作では特にこれには触れられていないが、「蘭学事始」には、そのことが書かれている。
此良沢といへる男も天然の奇士にてありしなり。専ら医業を励ミ東洞の流法を信じて其業を勤め、遊芸にても、世にすたりし一重切を稽古して其秘曲を極め、又をかしきハ、猿若狂言の会ありと聞て、これも稽古に通ひし事もありたり。

三谷幸喜氏は、原作をドラマ化するにあたって、そのさらにもとになった史料も読んでいたということだろうか。
なお、なぜ良沢が「世にすたりし一重切」を演奏したかについては、上の引用個所のすぐ前に、良沢を養った伯父宮田全沢の教えとして、「人と云者は、世に廃れんと思ふ芸能は習置て末々までも不絶様にし、当時人のすてはててせぬことになりしをハこれを為して、世のために後にも其事の残る様にすへしと教られし由」とある。

P_20180130_101531_vHDR.jpg 本書の底本は「長崎本」と呼ばれる長崎浩斎が入手したもの。
浩斎は、大槻玄沢の弟子で、玄白への入門を希んだが既に玄白は病中であったため、玄白の一の弟子である玄沢に入門した人だそうだ。高岡市の出身で、この原本は高岡市立図書館に寄託されている。
高岡市立図書館には古文書のデジタル画像を公開しているのだけれど、これはその対象となっていない。(公開してほしいなぁ、減るもんじゃなし。)

そしてこの底本の表紙は「蘭東事始」(蘭学東漸事始)となっているのだが、本書では、このタイトルを巡って、少々面倒くさい議論がなされている。
私は何の疑いもなく「蘭学事始」と思っていたが、こうした題名の本があり、また「和蘭事始」というものもあるのだそうだ。結局、元の本を持っていた大槻玄沢も、「蘭学事始」が良いと考えていたらしいと推測されている。(その結論までに随分の紙幅が費やされている。)

ところで「蘭学事始」によれば、「蘭学」という言葉自体が、「解体新書」後に使われ出した言葉だという。だからこそ、蘭学事始なのである。なお、蘭学事始の冒頭部分、蘭学が興る前に、西洋の医術を少しでも学んで実践する医術は「南蛮方」というような言い方がされていたとある。

先日、NHKの「大岡越前」を見ていたら、小石川養生所の蘭方医というのが出てくるのだけれど、これは吉宗の時代の話であるから、もし玄白が云うとおりなら、「蘭方医」という言い方ははなかったかもしれない。

どうして「一本化」したがるんだろう

20170321-00000044-mai-000-view.jpg ローマ字の表記で学校が混乱しているから、教員が一本化を要望しているというニュースを見た。

またか、どうして学校の先生というのは、何でもかんでも正解を決めておかないとダメという発想をするんだろう、と思った。
どっちでもいいという教育はなぜできないんだ? 試験の採点(減点)が目的か?

Google大先生なんて、訓令式でもヘボン式でも理解してくれる。ローマ字に限らず、表記のゆれにはかなり広く対応している。
「おんな城主 直虎」でも言ってるじゃないか、「答えは一つとは限らない」って。

前に数学の場合で、学校の先生の理不尽な質問について書いたけれど、ローマ字の問題も、これが問題になること自体が嘆かわしい。

と、反射的に思ったのだけれど、この問題については、先生方の言い分にも一理あると思うところがある。
それは、記事にもあるように、文部科学省は「特段の理由がない限り、内閣告示で定められた訓令式で教えることになる」としているからだ。

問題は、学校の先生じゃなくて、それを指導する文科省か。


<ローマ字>表記で混乱 
 英語教科化、教員ら「一本化を」


 2020年度から実施される学習指導要領改定案に基づき、小学校のローマ字教育が従来の国語だけでなく、新たに教科化される英語でも始まる。ローマ字には「ち」を「ti」と表記する訓令式と「chi」と書くヘボン式があり、使い分けに混乱する児童もいることから、教育現場から「どちらかに一本化してほしい」との声も上がっている。
 ローマ字は小学3年の国語の授業で習うことになっている。読み書きのほか、情報通信技術(ICT)教育の一環として、コンピューターで文字を入力する操作を学ぶ。これに加え、20年度からは小学5、6年で教科化される英語でも「日本語と外国語の違い」に気付かせることを目的に、ほぼ母音と子音の2文字で構成されるローマ字について学習することになった。
 学校では現在、ローマ字を原則的に訓令式で教えている。しかし、名前や地名など実際の表記は圧倒的にヘボン式が多く、国際的な身分証明書となるパスポートもヘボン式だ。使い分けに困惑する児童もおり、教え方に悩む教員も少なくない。
 2月に新潟市で開催された日本教職員組合の教育研究全国集会でも、ローマ字について小中学校の教員から「いつヘボン式を教えればいいのか」「ヘボン式を教えると子どもが戸惑う」などの意見があった。兵庫県の中学校に勤務する女性教諭は「訓令式とヘボン式の2通りあるから子どもが混乱する。学校で教えるローマ字はどちらかに一本化すべきではないか」と話した。
 これに対し、文部科学省は「特段の理由がない限り、内閣告示で定められた訓令式で教えることになる」としている。
 ローマ字教育に詳しい清泉女学院大の室井美稚子教授(英語教育)は、訓令式について「日本語の音の大半を母音と子音の2文字で表すことができ、読み書きがしやすい」と利点を挙げたうえで「日本語の音に対応しているヘボン式と混同する恐れはある。訓令式は外国人に間違って発音されやすく、自分の名前や地名はヘボン式で書けるように指導する必要がある。自分で名刺を作製するなど楽しい活動を通じて練習させるべきだ」と指摘している。【伊澤拓也】
毎日新聞 3/21(火) 12:19配信
先生が困っているのは、文科省の指導が現場と合っていないということなのかもしれない。
それなら話は違うぞ、先生を逆説的に応援したくなる。

社会通念と異なる指導を行わなければならないということになる学校現場において、それでも内閣告示の通りに教えなければならないということを、はっきり言ってもらいたい、と。


もちろん、ものごとには標準化とか一本化とかが必要なことがある。スポーツのルールなどはその典型で、野球でホームラン性の打球を観客が客席から身を乗り出してキャッチしたらどうなるのかなんてのは、適切な判断が示されていないともめる元になる。

しかし、ローマ字の使い分けって、そもそも社会的になされていない。そんなものに「正解・不正解」なんて決めようがないだろう。

文科系の学問では、よく言葉の定義でもめる。けれど、理科系ではそういうことはあまりない。
理科系では、この研究で使われている言葉は、こういう意味で使われているということを理解し、了承したうえで、成果の正否や効能を評価するのが普通だと思う。もちろん、普通の使い方とか、優勢な使い方ってのが、次第に定まるだろうけど、それこそ、その言葉の定義の有効性の証拠でもある。
学問に限らず、まず相手を理解しよう、そういう姿勢こそ尊重し、教育すべきじゃないだろうか。


さて、ローマ字だけど、記事にはヘボン式と訓令式の違いが掲載されているけれど、日本語のローマ字表記には、これに該当しないものも多くある。
たとえば、「ジ」というのはヘボン式では「ji」、訓令式では「zi」だけれど、「gi」というのも見かける。これは英語圏での表記に多い。フジナミがFuginamiとなる。
ところが訓令式では「ギ」を表すことになっているから、初めて見たときには違和感があった。
なぜ「gi」が「ジ」になるのか。英語でもフランス語でも、「ギ」と発音する場合は普通uを挟んで「gui」と綴り、そうでない場合は「ジ」である。

また、PCが普及して、日本語をローマ字入力する場合には、独特のローマ字綴りを使うということもあるかもしれない。

というか、英語由来のカタカナを入れる場合、もとの英語の綴りを入れてしまいヘンテコになるという経験は多くの人がしていると思う。


ところで、訓令式って、一体誰が決めたんだろう。
記事中に「日本語の音の大半を母音と子音の2文字で表すことができ、読み書きがしやすい」ことを訓令式の利点としながらも、ヘボン式を教える必要性を説く先生が紹介されている。
しかし、これって利点だろうか。タ行で、タ、テ、トの子音と、チ、ツのそれは別の音である。同じ文字で違う音を表す訓令式が教育的とは思えないのだけれど。
やはり、日本語では子音と母音の可能な組合せがすべてそろっているわけではない、訓令式の子音字母は正しい音を示さないことを教えるほうが良いのでは。

パスポートの表記はヘボン式だったように思うし、クレジット・カードも、特に希望しなければヘボン式だったと思う。それこそ、ヘボン式のほうが通用する場面が多いことの証拠だろう。

折り返し翻訳辞書

finvfimage.jpg 「折り返し翻訳辞書」というのが話題になっている。

リンク先で確認してもらえれば良いが、日本語を入れると、一旦、英語、オランダ語、イタリア語に翻訳、それを再び日本語に戻すというサービス(?)である。
順像の逆像は、元の集合には戻らないという状況である。

ググると、珍妙なケースが多数紹介されていることがわかる。
私もやってみた。
orikaeshihonyaku1.jpg
画面のとおり、「二重行政の無駄」は「ダブル廃棄物管理」になった。
どうやら大阪府も大阪市も廃棄物だったらしい。

もう一つやってみた。
維新」は「復元」なんだ。てっきり改革だと思っていたのだけれど。

それにしても維新の党の泥仕合はどうなってるんだろう。
橋下氏の政治団体だから、氏を抜いての党には求心力が感じられないわけだけど。




orikaeshihonyaku2.jpg 随分昔、中学か高校ぐらいのときから、和英辞典を引いて、英和辞典を引くということをやっていた。
これは真っ当な英語の勉強という意味と、単なるお遊びという意味がある。折り返し翻訳辞書で遊ぶのはもちろん後者である。

真っ当な勉強というのは、和英辞典が引いてくる英語は、必ずしも表そうとしている状況・対象を指しいるわけではないから、その英語を英和辞典で引いて、ニュアンスや用例を含めて確認するほうが良い、というものである。

実は、もう一つ実用的というか、苦し紛れの使い方もときどきすることがある。
文章を書いているとき、適当な言葉が思い浮かばないとき、国語辞典やシソーラスを引いてもぴったりくる言葉が出てこない、そういうときに、一旦英語にしてみて、英和辞典を引く。そうすると、たまに「なるほど」と思わせることがある。

ところで、この折り返し翻訳辞書は、折り返しポイントは、英語なのだろうか。それともオランダ語、イタリア語だろうか。

Sleeping Lady

日本―ギリシアは引き分け。通勤電車の中でタブレットに付いているテレビ、フルセグは不安定なので、時々ワンセグ。
こういうイベントのときはやはりテレビの威力だが、通勤の慰みは普通は読書。通勤読書用の本が手元にないことがある。そういう時はタブレットで電子書籍を読むことにしている。
といっても、予めいくらかストックしておかないといざというときに電車の中で検索してダウンロードすることになるので、Amazon Kindleの無料本をときたまチェックする。以前は青空文庫をチェックしていたが、この頃は青空文庫がKindleに収録されてきているので、Kindleだけチェックすれば十分である。

そんなことをしていると、Kindleではpornographyも無料で配信されていることを発見した。このブログのカテゴリは、学校の教科を基本にしているわけだが、外国語のカテゴリはこれからもあまり成長しそうにないから、このことを書いて数を稼ぐことにする。

日本語のポルノ小説もあまり経験はないが、英語のpornographyは全く慣れない分野。そういう私のような人のために、試しにダウンロードした作品の一部分を引用して、その雰囲気を伝えることとしよう。もっとも、本来の目的である通勤電車内読書には不向き(スポーツ紙のエロ小説を読んでるオヤジをたまに見かけるけど)。
sleepinglady.jpg     His cock nudged into her entrance. He was so thick that she knew she was going to come whether she wanted to or not. Maybe not a big, body-shaking orgasm, but he wouldn't be able to miss her inner muscles gripping him. He pressed in, deeper and deeper, so slowly that the inevitable moment was barely kept at bay. Then he cupped her breasts, and she squeezed her eyes tight, her brow tense. His thumbs passed over her nipples, teasing them to eager little peaks. She was trembling, barely holding back.
     He rocked his hips back and entered her again. And again. She moaned, giving into her needs. Her legs involuntarily spread so she could better accommodate all of his girth, and she pressed her heels into the mattress, her body arching up and meeting his thrusts.

Cleo Peitsche "Sleeping Lady"


FannyHill.jpg描写が抑制的なのは、主人公は眠ったふりをしつづけるように言われているという設定のためだろう、女性にも読みやすい作品ではないだろうか。
Kindleは簡単に電子辞書(プログレッシブ英和中辞典、俗語もある程度収録)を引けるので便利、お試しあれ。

ところで、翻訳では読んだことのある古典中の古典"Fanny Hill"をネットで検索すると、Project Gutenbergに全文が採録されている。Project Gutenbergは米国版青空文庫だからKindleにも収録されているのではないかと考えて、あらためてKindleを検索するとやっぱり無料で配信されている。
("Sleeping Lady"に比べると長編だから読み通す気はおきないけど。)

なお、"Sleeping Lady"も"Fanny Hill"も売春防止法違反であり、この点では不適正な作品であることはいうまでもない。

ginkgo、gingko、ginkyo

少し前、3月の話になるが、公立高校の入学試験で出題ミスがあったそうな。

英語の試験で、設問文中で、「銀杏」に ginkgo gingko の二様の綴りが混在していたそうだ。
報告してくれた人(英語の先生)によれば、念のために辞書を調べると ginkgo gingko も載っているのがあったそうだ。
話を聞いて、すぐに、もともと ginkgo と綴ること自体が ginkyo の誤植だろう、何を今さら。100416_04.jpg

ginkgo の綴りについては思い出がある。
昔、世話になった通訳さんが「銀杏はなぜ ginkgo と綴るのか、 gingko なら分かるが…」と仰っていたのが記憶に残っていて、それから何年も経ってからだが、IBMのCI誌「無限大」を読んでいたら、ケンペルの「日本誌」のことが書かれていて、ケンペルは ginkyo と書いたのだが、 y g と紛らわしくて、 ginkgo と誤植したのが印刷されて広まったという解説があり、そういうことだったのか、と合点し、昔から気にかかっていたことをあらためて思い出し、かつ解決したということがあった。
(今だったらインターネットで調べるとすぐに答えが見つかるような話だが、すぐ見つけて、すぐ忘れるような気もする。長い間ひっかかってるからこそ忘れないのかも)

こういう過去の経緯があったので、入試のミスの話を聞いて、直ちに、そもそも ginkgo ginkyo の誤植でしょう、と返したわけだ。
(結局、間違いとは言えないが、受験生を混乱させたかもしれないとして採点対象外になったそうだ。スペルの違いに気づいた人もほとんどいないらしいが、この問題を一所懸命やった子には不利になったのでは。だいたいこの手のスペル違いは実社会でしょっちゅう遭遇するはず。それで混乱してては英語力はありません。)

英語の綴りというのは例外が多くて、有名なジョーク(?)で、 fish はこれからは ghoti と綴ろうというのがある。 gh enough とか tough とかの gh で音 f を、 o women o で音 i を、 ti nation とかの ti で音 sh 、結局、 fish となるという話である。
例外的な綴りを改めようという話もあるようだが、なかなかそうはならないようだ。一方で、 you u through thru to 2 (例えば、com to exe を com2exe)としたりするのも良く見かける。(英語失敗小噺で、日本人がアメリカで電車の切符を買おうと思って、"to New York" と言ったらチケットが2枚出てきた、これはいかんと思って、"for New York" と言ったら今度は4枚出てきた、これは困った「エーと、エーと」と考えていると8枚出てきた、という噺があった)

ところで ginkyo が載っている英語辞書はないらしい。英米ではいまだに誤植を修正する気はないようだ。

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六二郎。六二郎。


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苦しい家計の足しに再就職
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