笑いのとりかた

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近大と吉本興行“笑い”で協定

 近畿大学と吉本興業は、落語家や漫才師などが学生に笑いのとり方を授業で教え、就職活動の面接に役立てることなどを盛り込んだ協定を結びました。
 15日、この協定の締結式が、大阪・中央区で行われ、近畿大学の塩崎均学長と吉本興業の大崎洋社長が協定書に署名をしました。
 協定では、3学部の学生を対象に落語家や漫才師などが笑いをとる話し方を授業で教え、就職活動の面接に役立てるほか、医学部が吉本興業の喜劇などを研究の題材にして笑いによるストレス発散のメカニズムの解明を進めることなどが盛り込まれています。
 近畿大学の塩崎学長は「今の若者は精神的に弱いので、たくましい芸人さんの授業を受けて、へこたれない人材を育てたい」と話しています。
 また、吉本興業の大崎社長は「ぎすぎすした社会ですが、笑いは人をつなぎます。大学と一緒にチャレンジしていきたい」と話しています。

12月16日 07時01分 NHK

近畿大学と吉本興行が、学生に笑いのとり方を授業で教えるという協定を結んだことが報道されていた。

大学には「落研」というところがあって、おおぜいの噺家を生んでいるけれど、そういうものではなくて、授業だという。単位は出るのだろうか?

それはそうとして、就職活動の面接で笑いをとることが良いことかどうかは別だと思うけれど、社会で仕事をしていく上で、笑いをとることは結構有利だろう。
接客業(葬儀屋は除く)で愛想の良い笑いというのはのぞまれるわけだけれど、それだけではない。

以前、情報システムの開発事業に携わっていたときのこと。
システム開発自体は専門業者に委託しているわけだが、ユーザーへの説明会が何度も行われる。それが、あまりにもガチガチの説明になる。当然、聴いているユーザー側も不満である。
で、業者に指示をした、「笑いをとれ」と。

笑いをとることは、説明会の雰囲気を和やかにして、意思疎通が円滑になり、質問なども出やすくなる。直接的にはそういう効果がある。
しかし、もっと意義があると思うのは、笑いをとろうとすると、説明しようとしていることに対する理解が完璧で、説明のストーリーをきちんと組み立てていないと、ネタは入れにくい、そして、説明に自信がもてる余裕がないと、それを演じることができないということである。

とりわけ話はシステムのことである。
システムとはサブシステム、モジュールの組合せ、それぞれの関係、機能、そういうものでできていて、いつ、どんな形でユーザーとのインターフェイスがあるのか、そういうことが整理されていて、システムへの理解と、ユーザーが何をしなければならないかを過不足なく説明しなければならないはずである。

それが整理されていなければ、聴いている側には響いてこない。
そしてわかりにくい説明は、不信感につながる。
笑いをとれと指示したときには、そんなに深く考えていたわけではないと思うけれど、普段から考えていることが、笑いという言葉に凝縮したのだろう。

そして、その業者は笑いをとれるようになったか?
なかなか笑いをとれるまでにはならなかったけれど、次第に説明は分かりやすくなったように思った。

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免許なく32年

reibaisensei_41.jpg 教員免許を持たずに、32年間、7700人もの生徒を指導してきたという県立高校教諭がいたと報道されていた。

前にも教員免許をもたずに教員をしていた事件があったが、今回報道されたのは、正規の教員で期間も長く、なぜこんなことが起こるのかと思わせるものだった。
報道では、件の教諭は、教職課程は履修したが、教員免許の申請手続きをしなかったのだという。

私も、教員免許に必要な単位は揃っているので、申請すれば教員免許がいただけるのだけれど、教員になるつもりがなかったし、必要になればそのとき申請すれば良いと考えていたので、免許はとっていない。

定年退職するとき、某高校の校長から、教員が不足しているので週何コマか担当してもらえませんかと打診されたけれど、免許がないからではなくて、退職後もフルタイムの嘱託で働くことになっていたので断った。


無免許が発覚したのは、教員免許更新制が導入されて、更新期にその手続きができなかったからだそうだ。
しかし、不思議なのは、教員として正式採用するときに、免許を確認しなかったという点。
履修単位に不足がなければ、教壇に立たせる前に免許をとってくるように指導すればよかっただろうし、もし何かの単位が不足しているなら、臨時免許という方法もあったのではないかと思う。正式採用見送り、そのために教員不足になるなら臨時免許という方法である。

報道では、県教委は給与返還請求とかも考えているらしいけれど、それで県教委の責任が果たされるとは思えない。むしろ、県教委のチェックの甘さが「犯罪者」を作ってしまったということではないだろうか。
どんな授業・指導をされていたのか、生徒側の評価などはわからないけれど、特に問題のある先生ではなかったのなら、給与の対価にふさわしい労働をされていたとも言えるのではないだろうか。

免許が必要な仕事というのはいろいろあるけれど、以前、ニセ医者が問題になったことがあった。そうとは知らずに多くの患者が診察を受けていて、良いお医者さんだと思っていたという声もあったそうで、ニセ医者だから、権威ぶらず、ことさら丁寧に診察していたのではとも言われていた。ブラック・ジャックも無免許医である。

昔、そのずっと昔の話として聞いたこと。
職員採用のため地方回りをしていたら、就職希望者が見つかったのだけれど、生年月日を見ると採用基準を満たしていない。学年からすれば当然基準を満たしているはずなのでおかしいと思ったら、小学校に入るときに1年(間違えてか意図的にか)、早く入学し、それがそのまま中学、高校と持ち上がってきたらしい。(中学も高校も気づいていたらしいが、知らぬ顔を決め込んだ?)
そんなことってありえるのか、という驚きの話である。(結局、1年間、何らかの形でつないだらしい。)


それにしても、件の先生、55歳までつつがなく教員生活をしてきて、あと5年で定年退職だったはず。
教員免許更新意志なしで早期退職してしまえば良かったのでは。責任感が邪魔をした?
それと、退職金や年金はどうなるんだろう。

「残念な教員」

zannnennakyoinrv.jpg 林純次「残念な教員」の評。
まず、Amazonのレビュー(右)を見てみよう。

見た通り、見事に評価が分かれている。
教育現場をよく知らない人が教員批判を痛快に思って高評価を与えている、というわけではない。 投稿者の多くが教員のようだが、教員の間でも評価が分かれている。

特に事前知識もなく、こうした評価についても知らずに読んだわけだが、主張そのものは今までも繰り返されていることが多い。低評価のレビューでも、内容が間違っているというような、つまり主張の内容に対するものは少ない。
拒否反応とも思えるレビューが並ぶのは、歯に衣着せず、時に攻撃的な筆致で書いてある点だろう。ところどころに出てくる「私も昔はだめだった」「まだまだ足りない」といった言葉も、攻撃を正当化するように使われている印象を与える。
低評価の内容は、「上から目線」「思いやりのある文章を書いてください」「同僚の方々の「怒り」や「悔しさ」が伝わってくるようです…」という書く姿勢にかかるものがほとんどである。

私も批判したくなる記述はある。教員批判とかに対してではなく「年間300冊(新聞雑誌を除いて)は読む」と数を誇るのはあまり良い趣味ではない。本当だとしたら、読む価値のない本ばかり読んでいるとしか思えない。(深い洞察や緻密なデータを含む本なら、1日で読むことは到底不可能。)


zannennakyoin.jpg しかし、本書でも何度か名前をあげられているが、斎藤喜博の本にも「残念な教員」的な筆致のところがある。それでも斎藤喜博が「上から目線」と批判されないのは、斎藤喜博が実際に「上」であり、それだけの実績があるからだと思う。

さて、そういう語り口への批判を措けば、内容については教授活動をうまく分類しているし、新人教員が何からはじめるべきかも具体的で説得力がある。
著者は、自分自身も経験年数だけで言えば長いとは言えないことを良く解っていて、経験上こうやって結果を得たということだけでなく、関連領域の理論の裏付けを求めながら教育に携わっていると思う。

私が承服できない点は、すべての教員に対して著者のこの水準を求めることである。
教員に社会常識を求めること(たとえば労務管理とは何かなど)は正当化されるけれど、教員が児童生徒に対し、ほとんど全人的と思える責任を負わされなければならないのか、またその能力を求めるのが適切なのか。

私は小・中・高と教育を受けるなかで、教員にそんな大きなものを求めはしなかった。もちろん優しい先生や一緒に遊んでくれる先生は好きだった。けれど、年齢が上がるにつれて、教員には、その教科のプロであってもらいたい(言い換えると自分が教えている教科が好きで好きでたまらないという姿勢)とは考えたけれど、生活指導や進路指導をしてもらいたいと思ったことはない。そもそも、教師も生徒も、人格として対等だと生意気にも思っていたから、人格的に指導されてたまるか、という気持ちであったと思う。

60~70年代の学生運動の盛期には、高校生以上の年齢であれば、社会思想・政治思想に触れ、自分をいっぱしの人間である、教師より優れていると思っている学生が多かったはず。


では、著者のような仕事は不要かというと、それはまた違う。教室での教育活動が円滑に効果を上げるために、必要ならば生活指導もしなければならないし、人生について考えさせることも必要だろう。それを必要とする生徒と、そうでない生徒がいるということだ。ただ、それはあくまで学校・教室を成立させるためのものという範囲で考えるべきことで、その枠におさまらないようなものは、家庭の問題であり、解決は学校ではなく、病院や官憲に委ねるべきものであろう。
学校が組織として、また学校外のさまざまな社会関係の中で解決するという発想で、もう少し先生にラクをさせながら、実際にはより適切な教育ができるというような視点(社会的分業)も考えてもらいたい。

教師という人種は何でも安請け合いしがちだけど、学校内はもちろん、校外の社会との協力関係で解決しようという態度が必要。逆に、そういう態度がないことが、昨今批判の的になる学校の秘密主義・情報隠蔽を起こすこととも関係があるのでは。


蛇足にして老婆心だが、著者は全体に積極主義的な人だと感じるが、粘り強い指導、真摯に生徒に向き合う指導、それは当然としても、対人関係でその雰囲気が露骨に出ると、引いてしまう生徒・教員、不適応になる生徒・教員が出たり―そして本書に対する大半の批判がそうであるような反発が起こる―など、事態を悪化させることはないのだろうか。
頑張らなくて良いのだと言うべき場合もある。それも含めた実践ならとやかくいうことではないけれど。

教頭になりたくない

kiboukoukaku.jpg 先日、大阪市教育委員会が、教頭を志望する先生が少ないので、校長の推薦制を実施すると報道されていた。
副校長や教頭があまりに業務多忙なため、昇任試験の志願者が少ないので、各校長に部下の中から教頭候補者を推薦させ、受験させる異例の策という。

でも、希望者がいないから、無理やり指名するっていうのはどうなんだろう。
それに、教頭になりたくないのは、単に多忙だからというだけではないと思う。「生涯一教師」として子供に向き合いたいという先生も多いのではないだろうか。
また、それまでの人生で経験のない事務的な仕事を突然やらなければならなくなるなら、不安感も大きいだろうし、要領が分からなくて不要に時間がとられたりもするだろう。

大阪市は公募校長問題(歩留まりが悪すぎる)があるからだという意見も眼にするが、実はこの傾向は全国的なものといわれている。
以前、東京都教育委員会はこうした問題意識を背景として、学校の校務をどう改善するかについて調査したことがあると聞いた。(⇒東京都教育委員会「小中学校の校務改善の方向性について」
教頭の多忙感が何によるものか、教頭職の業務の多くを占める校務の実態を調査したものらしい。学校経営という視点から、それにあった組織とはどんなものか、ITによる支援のありかたなど、幅広く調査しているようだ。
教頭の激務を教頭だけに押し付けず、組織的に支えられるようになれば、状況の改善が見込めると考えているのだろう。

犠牲者を選ぶ制度ではなく、犠牲者が出ない制度を作るべきだと思う。
(東京都だからできる、大阪も都になればできる、なんて言わないよね)

大阪府教育長辞任

powerharanakahara.jpg前にとりあげたパワハラ教育長が、結局辞任するようだ。

市町村教育委員会からも「毅然たる対応をとるべき」などと批判されていたが、「自分より下」と考えている風だから、こうした批判に対しては強気をくずさなかっただろう。
おそらく、大阪府議会での追及が厳しく、辞職勧告が議決されそうな雰囲気もあったから、それでも居座るとますます政治情勢にも悪影響が出るという判断だったのではないだろうか。

思い起こせば、大阪府では前知事が役人はダメということで民間から登用した部長がセクハラで辞職しているし、公募校長は万引き事件で辞職。
大阪市では、公募校長、公募区長で、次々にセクハラや公文書偽造やら、さまざまな違法行為を起こして辞任連続。やはり役人には任せられないとした交通局では不適正随意契約、府市共同でやるのに一応意義はあると思っていた観光局でも、タイミングが悪いという同情すべき点はあったにしても、イベントの大赤字、個人賠償で免責されると勘違い。

前にも書いた覚えがあるが、こうなると人を見る目がなかったとか、たまたま選任した人が悪かったというようなレベルではなくて、当然、そういう人を選んでいるとしか思えない。
仮に5%が問題職員(維新の会の府会議員はそういっていた。どんな組織でも5%は問題職員がいるから、その5%をクビにしろと)、だとすると、何人ぐらいが知事・市長の意向で選ばれたかわからないが、これほど問題職員が出る確率は、たまたまで済ませられる数値ではないだろう。

何人のうち何人が問題職員になるかは二項分布に従うと考える。何人が橋下・松井人事かわからないので、15人ぐらいだったとしよう。仮に問題職員が5%の確率でいるとして、全員が問題職員ではないという確率は46%しかないわけで、1人ぐらい問題職員が混じっても責められるようなことではない。しかし、15人中5人以上が問題職員になる確率はなんと0.06%である(表の4人以下の確率の補数)。
あまりにひどいから、問題職員はもっと多くいると考えなければならない。30.5%ぐらいいるなら、問題職員5人以上の確率が50%となって納得(?)できる数値が得られる。公募に応募した人の3割は問題職員候補でした、それとも眼鏡にかなうのはやっぱりそういう人ということか。


     ■15人中、何人が問題職員になるかの確率
                  問題職員の出現率
    15人中の問題職員数   5%のとき  30.5%のとき
        0 人以下     46.33%     0.43%
        1 人以下     82.90%     3.26%
        2 人以下     96.38%    11.93%
        3 人以下     99.45%    28.39%
        4 人以下     99.94%    50.00%
        5 人以下     99.99%    70.82%



女性を泣かせちゃいけません

tachikawasaori1.jpgこのところ、セクハラ、モラハラ、マタハラが裁判例もあって、よくメディアで取り上げられている。
そしてパワハラ。ネットではかなり話題になっている大阪府教育委員会の中原徹教育長の問題。

三人の弁護士で構成する第三者委員会の調査により、以前の「疑惑」から「認定」へ昇格した。

この件を、疑惑段階でとりあげた週刊誌の記事を読んだが、見出しの派手さからすれば、たいした内容ではなかったのだが……

tachikawasaori2.jpg調査報告は第1次は既に昨年の12月に出ていたらしい。第2次、第3次とあるようだ。
調査報告書全体は、大阪府のホームページ(平成27年2月委員会会議)に掲載されているから、誰でも読める。(「急施議題 第三者による調査の取扱いについて」の添付資料)
特定の委員・職員へのパワハラというより、中原氏の人格問題という面があらわになるような報告である。
なお陰山教育委員長は「戦慄した」と表現している。

週刊誌の疑惑段階では、職員に対するものだけが取り上げられていたと思う。
調査に決定的だったのは「女の涙」だったのでは。

tachikawasori3.jpg立川さおり委員は、いわゆる教育学者とか、教育専門家という立場ではない。報告書のなかのやりとりでも、「三歳の子の母として」という発言が記録されているが、保護者としての真摯な思いを吐露されているように思う。
立川委員は、自分の知識不足を補うためだろう、精力的に勉強され、学校現場や教育行事を熱心に視察されていたようだ。
いろんな意味で、悔しかったに違いない。
訂正する。女の涙ではない、正義の涙である。

そもそも教育委員には保護者委員を入れることが求められている。レイマン・コントロールという考え方が教育委員会制度の基本にあるからだ。
それを、まるで委員を素人扱いするような態度は、法の趣旨に反する。また、教育長の「罷免要求するぞ」は、罷免条件を定めた法の事務的・手続的な部分で(こういうところで揚げ足をとるのが得意はずなのに)、法を理解していないということになる。

セクハラでは、相手がセクハラと思えばセクハラだというようなおそろしい話があるが、パワハラも相手がパワハラと思わなければ良いのかもしれない。「このくそったれ」という言葉に親近感を覚えるのならパワハラじゃないのかもしれない。
が、それは相互の信頼関係が基礎にあってこそである。それはリーダーの条件である。

辞職しないということだが、このまま居座っても、部下がきちんと動くとは思えない。
ということは、大阪府の教育行政は、既定路線を粛々とやる以外には何もできるとは思えない。
まもなく統一選だが、この状態では選挙に不利になることは間違いないから、普通なら、周囲(お友達の徹ちゃん)が辞職をすすめるのが普通だと思うのだけど。

セクハラ、パワハラ、ナカハラ、と語呂が良いから、七十五日で忘れられたりはしないと思う。

大学入試改革

今日からセンター試験がはじまった。
例年、どこかでなにかのトラブルが起こるようだが、たくさんの会場・受験者がいるのだから、完璧にするのは難しいだろうと思う。

NHKdaigakunyushi.jpgところで、昨年、中教審の大学入試改革のことが報道されていた。
NHKの解説委員室のページ「時論公論」で「大学入試改革 実現性は?」として、とりあげられている。
このページに改革の要点がまとめられているので引用する:

▽今の大学入試センター試験を廃止して、知識の活用力を問う新しいテスト「大学入学希望者学力評価テスト」を導入し、年複数回実施する。
▽高校在学中に学習の到達度をはかるため「高等学校基礎学力テスト」という新たなテストを設け、進学や就職の際の学力の証明として使えるようにする。
▽大学は、個別試験では、筆記だけでなく、小論文や面接、志望理由書など様々な物差しで学生を丁寧に多面的に評価するとともに、どんな学生が欲しいのか、そうした学生を選ぶためにどんな試験を行うのかを明らかにする。


知識の活用力とか考える力とか、それは大事なことなのだけれど、これをペーパーテストで判定するのは難しいと思う。また「基礎学力テスト」というのも知識を基礎学力というのなら学校でやってるテストと変わらないのではないだろうか。

そもそも、知識の活用力というが、その前提として相当の知識の量が要求される。
人工知能研究でも、膨大な情報が知的な振る舞いをする上でのキーになるというのが流れではないだろうか。それに、たとえば負数の計算で「マイナス×マイナス=プラス」と機械的に覚えている人は多いが、なぜそうなのかをきちんと理解している人はむしろ少数だと思う(裏の裏は表ぐらいの情緒的な理解程度だろう)。これを考える力などと言い出したらほとんどの人は大学へ行く資格もない。

英語でも、使える英語といって会話を重視する風潮があるが、昔、国際的な企業人の話として、英語が使える人というのはやっぱり東大卒とかで、ビジネスで必要なのは高度な単語・表現で、そしておよそ日常会話ではありえない、そういう文章が出題される入試を突破した者にそれが期待できる、というような趣旨のことを読んだ覚えがある。(ネイティブの子供は、6歳ぐらいまでに、日本の生徒が高校までに習う単語の数より1桁ぐらい多い単語を覚えるともいわれている)

韓国のエリート高校は、ペーパーテストによる入試はやらないのだと聞いたことがある。中学校で既に選別されていて、限られた生徒だけが推薦されてくるので、高校側は面接で評価するのだそうだ。これは一握りのエリートしか対象としないからできる方法だと思うが、もし文科省がそういうエリートを育てることを考えているなら、大学入試改革などは実は不要かもしれない。そういう生徒はそもそも入試で苦労したりしない。それこそ応用力・活用力が高い。
一定の知識・スキルを持つ学生を育てる《マスプロ教育》を目指すのと、一握りのエリートを育てる教育は全く違うものだと思う(「エリートの大量養成」は言葉として矛盾している)。
教育改革の議論の多くは、そのターゲットの設定にズレがあるのではないか、また、そのことを自覚して議論しているのか怪しいのではないだろうか。

おそらく大事なことは、入試改革ではなくて、大学改革・高校改革だと思う。
まず大学で簡単に単位を与えないこと。卒業させるのが大学の責任だという考え方を捨て、卒業するのは学生の責任、単位がとれない自分が悪い、にすること。大学に全入させてもいいけれど、卒業できるのはそれだけのものを身につけた学生に限るとすれば、やる気のない学生は大学に行かないだろう。

実は、本稿はセンター試験にあわせてアップするつもりで、あらかじめを書いておいたところが多いのだが、先日、「卒業要件厳格化へ…15年度に省令改正 文科省方針」という報道があった。


そしてそうなると、大事になるのは高校教育、大学へ行かせる教育をすれば良いということにならない。

大学の卒業要件厳格化が何をもたらすか、ちゃんと文科省は考えているのだろうか。
大きく振れてきた(その時の声の大きさ次第だろう)教育政策の歴史を見ると、悲しいことにそこが信じきれない。企業からの大学に対するニーズに反射的に対応して済む問題ではない。


前にも書いたかもしれないが、段階別の教育の役割は、

小学校は社会で生きる基礎的な力を身につけるところ、
中学校は大人になるための教育を行うところ、
高等学校は自分の進路を決めるところ

と私は考えている(教育者でも、教育の専門家でもないが、少なくともこのうち小学校・中学校の役割は大村はま先生がおっしゃっていたことの受け売り)。
今の日本では考えられないというかもしれないが、現に、学力トップクラスと崇められるフィンランドなどでは多くの高校生は大学へは行かないという。就職してから、さらに深く、あるいはまた別のことを学ぶために大学へ行くらしい。

問題の一部への対症療法や、他国のシステムの一部だけを見て、あちこちつぎはぎ細工をして制度設計しても、良くなるはずはないだろう。

民間人校長

昨日、「教員の資質向上」の稿で、社会経験を積んだ民間企業などの経験者を校長として採用(民間人校長)する自治体があることに触れた。
今回は、これについて考えてみよう。

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民間人校長の採用に積極的なのは、大阪市、大阪府であるが、そうして採用された校長から、セクハラ、パワハラ、万引き、公文書偽造(虚偽アンケート)など、問題事例の頻発が報道されている(ちなみに大阪府では知事部局のライン部長で民間採用の人がやはりセクハラで辞職している)。
大阪市では、議会が民間人校長の制度的欠陥ではないかと、制度を積極的に進めてきた市長を批判し、制度の撤廃も議論されている。市長側は制度には問題はないと(根拠は説明せずに)突っぱねている。

実は筆者は、大阪府(当時は太田房江知事時代)が採用した初期の民間人校長の一人を知っている。NHKの番組でもとりあげられた人で学校改革と生徒の進路指導(とりわけ就職)でも成果が評価されている。このときもう一人民間人校長が採用されているのだが、こちらは現場ともPTAともかなり軋轢があったと聞いている。

思うに、人を得たかどうかだけで制度の効果が決まるのなら、これは博打のようなもので、制度として評価に値しない。
「ダメなら直ちにクビにして良い人が来るまで何度でもやり直すことができる、それがこの制度の良いところだ」とでも言うつもりだろうか(公務員として採用された教員は簡単にはクビにできないからダメなんだということの裏返し。しかし民間人校長は非行が多いから簡単にクビにできる、めでたしめでたし。・・・ん、なんか変)。
そのために失われた子供たちの時間もリセットできるわけではないのだから。

それにしても歩留まりが悪すぎる。
選考する側に人を見る目がないのか、選考基準が間違っているのか、どちらかだろう。

どちらかと言えば、この後者のほうがありそうだと思う。選ぶ側が自分の気に入る人を選んだらこうなる、という見方もあるかもしれないが、それより、あるのは漠然とした期待だけで、本当の意味での選考基準がはっきりしていないのだと思う。

民間人校長は、学校に民間の経営ノウハウを持った人が入ることによって、斬新な学校経営ができるというのが制度の趣旨らしい。確かに「こんな人に校長になってもらいたい」とみんなが思っても、制度上なれないというのは問題だと思うが、民間経験=経営ノウハウ=学校改革という図式で考えるのはあまりに杜撰。現場の改革に結びつくノウハウを持っているのかを評価して選考しているのだろうか。
つまり、そのためには、選ぶ側が、経営の観点から現状を評価し、学校を改革するビジョンを持っていて、それに裏付けられた選考基準があるのだろうか。
でないと、斬新(奇異)であれば良いのか、経営ノウハウは企業によって違うけど特定のノウハウがその学校で役に立つのか。そもそもノウハウはあくまでノウハウであって目標ではない。教育の目標を民間感覚で決めて良いのか。疑問は多い。

実は、校長次第で学校は変わる、というのは教員の間では実感されていることらしい。そしてそういう校長は、教員としての経験(教え方であり学級づくり、子供たちとのかかわり方)に一本スジが通っている人が多いと言われる。

たとえば、テレビで紹介されていた話だが、ある校長は職員会議を廃止した。この校長は叩き上げの教員で民間人ではない。職員会議を廃止したのは、その時間、子供とのコミュニケーションをとる時間が減るからであり、会議をするぐらいなら子供のところへ行け、ということなのだそうだ。この改革によって、それまで荒れていた学校がみるみる落ち着きを取り戻し、県内の平均以下だった成績が、トップクラスにまで向上したという。

一方で、教育行政を取り仕切る側は、職員会議は校長の意志を伝達するものであって、学校の方針を決定するものではないといって、職員会議の議決を禁止するという。もともと設置根拠もない職員会議についてその議決を禁止するというのも変な日本語なのだが、職員会議の意見を尊重する慣行が、職員会議が学校の最高意思決定機関だという錯覚に結びついていることを問題視しているのだろう。しかし、普通に考えて、運動会をどう運営しようかと職員が話し合って(会議といっちゃいけないんでしょ)、知恵を出し合って段取りや役割分担を決めることが、校長権限を冒すと思っているならあまりにバカバカしい話だと思う。(それに普通の仕事だと、相手に文句を言う権限がなくても、納得してもらえるよう努力するのが普通だろう。)


そもそも校長に何ができるんだろう。
校長は、学校現場の事務管理の責任者である、これは間違いない。

前述の筆者の知り合いの民間人校長は赴任してすぐの頃、呆れ返っていた。
「鉛筆一本買うのも校長の決裁がいるなんて、一体どういうことだ。」


校長が使える資源は、学校の設備と教員しかない。(あとわずかな校長裁量予算。兵站を軽視し、根性と精神論で何とかしろ、というのは我が国の伝統ではあるけれど。)
設備はともかく、教員というのは普通の会社の社員のように、職務を自由に充てることはできない。小学校ならともかく、教科担任制の中高の場合、教える教科も決まっていて、数学が足りないから、社会科の先生にお願いしますということはできない。

教育のこと、教育現場のことを大して知りもしない民間人が、甘い夢を持って校長になりたいと思ってきているのだ。
民間人校長の選考において、口先で勇ましいことを言ったとしても、現場で実行できる権能が校長に与えられていないのなら、期待に応えようとしてもそれは無理な話、その人を選ぶのなら、その主張が通る環境整備をするか、でなければできる範囲がどこまでか説明して、それでもあなたの思う学校が実現できますか、と詰めをいれないと、採用後にこんなはずじゃなかったとなっても仕方がないだろう。

たとえば、英語教育に力を入れますなどの理想を掲げるとする。校長に英語教員を増やすことはできない。もしそうしたいなら、英語教員から学校用務の類をすべて外し、英語教育に専念できる組織にするなどの方策が必要だと思うが、そういうソリューションを持っていないなら採用を見送るべきである。それが選ぶ側に必要な「経営感覚」だと思うし、そもそも民間の経営感覚を持っているなら、夢のような目標を掲げるだけでなくて、それに至るソリューションも必要だというぐらいは解っているはずだ。


使える資源が限れらているから、できることには限りがある、それはそうだが、学校改革のネタは、教育の中身とは別のところにたくさんあるように思う。
学校が閉鎖的で世間の常識からかけ離れているという批判は多分当たっていて、組織で仕事をするとか、きちんと予算管理・執行管理をするとか、ある意味あたりまえの仕事ができていないところが多いらしい。そしてそれが学校運営の非効率につながっている可能性がある。
こういうところにこそ民間経験を生かして、組織で仕事をすること、目標を定めて事業を運営すること、意思決定を迅速にするための会議の仕方とか、改革できることは、細かいかもしれないが、たくさんあるように思う。
たとえば、何か問題が起ったときに、最終責任は組織の長がとるというのが社会常識である。担当者が解決に向けて最善を尽くすのは当然で、その仕事を長が応援しつつ、組織を代表して外部と折衝するものだ。ところが、学校ではそういう常識がないようで、組織的対応が後手にまわりがちになるようだ。結局は校長が陳謝することになるのだが。

思うに、民間人校長は教育の内容には口を出さず(口は出してもよい。あんまり勉強してない教師にはちゃんと各教科に関連する世界の情勢を知らない人もいるかもしれないし、素人考えが当たることも、岡目八目ということもある。ただし決定権は教師側にあるだろう)、環境を整える仕事、つまり何が教員の足を引っ張っているのかを見極め、それに対処すること、それと教員に対する評価(ちゃんと見ているぞ)というあたりだろう。

また、教員への負担が重いのは、必要な予算や人員を確保せずに、教員の無償労働で対処してきた歴史があるからだと思う。そして持ちこたえられる限界を超えてしまったのが、今、批判される学校の姿なのではないだろうか。
やり手の自治体首長や国会議員というのは中央の金を地元に持ってくる人のことを言うそうだ。それなら、教育委員会の予算を学校に持ってくる人がやり手ということでもいいんじゃないか。教育委員会の指令に従うだけでなく。(でも教育委員会の指令に従わないとダメ校長と言われるんだろうな)

教員の資質向上

kaikoshiki.jpg昨日の新聞に、「教員採用冬の気配」という見出しで、今後の子供の減少により教員ニーズが大きく落ち込み、2021年から採用が急減するという予測が紹介されていた。

今は、教員の大量退職大量採用時期にあって、ベテラン教員が定年退職し、ミドル層が薄く、大量採用された新採教員が多い構造になっている。
新採教員の大群を目の当たりに見たことがあるのだが、この子(新採教員)たちにうちの子供を任せて大丈夫だろうか、いきなり教壇に立たせて大丈夫かという気持ちが起きることも事実。このため、採用後の教員研修は法律にも規定されており、相当量の研修を受けることになっている。
kyoshigasodatsu.jpg
教育についてはいろんな人がさまざまな意見を持っているものだが、案外、現場のことは知られていない。
(教員の研修や、学校がおかれた状況などについては、今津 孝次郎「教師が育つ条件」 という本に詳しい。教育について語るなら読んでおくべき本だと思う。)

それはそうとして、採用減少を見据えていたのかどうかわからないが、教員の資質向上策として、教員免許資格を大学院修了にする案が議論されてきている。
もし、教育で高く評価されているフィンランドの教師が大学院修了者であることからの発想だとしたら、ちょっと情けないと思う。

finland.jpgフィンランドでは、高校卒業後すぐに大学へ行くのはむしろ少数で、それぞれ就職してからさらに高い技量を身に付けたり、別の世界の勉強をしたいと考える人が大学に入るらしい。大学院は大卒者で同様の動機を持ったエリートが入るというわけだ。だから、フィンランドの教員は、純粋培養されて教員になっているわけではなくて、社会の、人生のいろんなことを学んで、その中から自分の天職として教員を選んでいるのだろう。

フィンランドの教育についての本によると: 
フィンランドでは教員は社会的に尊敬されている。その日の自分の授業が終了すれば学校から出ても良く、そうした時間は教育内容・方法の研鑽に充てられる。教科書は、標準的なものはあるにしても、何を使うか・使わないかは教員が自分で決める。何より小学校課程では1学級十数名、一人一人に目が届く教育が可能。また課外のスポーツ指導などはない(欧米ではスポーツ活動は地域クラブ中心で学校をベースとしない)。


我が国で、単純に大学院修了とするのは、単純に2年間純粋培養期間が長くなるだけではないだろうか。何のことはない、大学4年でろくに学びもせずに、教員になろうと最後の2年だけ勉強しようというケシカラン学生を作るだけかもしれない。

それではフィンランドのように、社会経験を積んだ上で教師となる人材が確保できるか、というとこれはアヤシイ。
人口が5百数十万の国と国情が違うのは当然、そのうえ社会システム・文化が違う。
前に「日本の雇用と労働法」で書いたように、雇用が「メンバーシップ型」で、新卒者を採用して退職まで企業に忠誠を誓うことが我が国のスタイルであるなら、そもそもフィンランドのように、キャリアアップやリカレントのために大学に入るという行動(複線的ライフステージ)は、まだまだ我が国では例外だろう。そこへもって大学院への延長は、単線的ライフステージを強化するだけになる可能性が大きいと思う。当然、フィンランド型の社会経験を積んだ教員が出てくることも期待できないだろう。

ひょっとしたら、フリーター/非正規労働でいろんな経験を積んだ人が増えてくるかもしれない。
教育公務員は民間大企業が引き取ってくれないそうした人たちにとっては身分保障のある魅力的な職ではないだろうか。
(校長については民間企業経験者などを採用する民間人校長というのがある。これについては別稿で。)


それに、大学院で何を学ばせるつもりだろう。「グローバル化や情報化、少子高齢化等社会の急激な変化」「いじめ、不登校への対応、特別支援教育の充実、ICTの活用、初任段階で学校現場の諸課題への対応に困難を抱える教員の増加、知識技能の継承機能の困難化」等などというが、専門知識を身に付けるために大学院(教職大学院)でこうした講座があるのは良いと思うが、これ全部を履修し、現場で1人の教員に背負わせるのは組織としてアリエナイし、どれか必要な講座というなら大学院に毎日通う必要などないのではないだろうか。

そもそも教員の資質向上で学校現場の問題を解決しようなどというのは、教育問題を直視しない態度であって、教育行政としてあまりにも無責任な態度であろう。教員の負担がどこにあり、教育の質・効率を上げるためには教員以外の役割を含めて制度設計しなければ問題は解決しないだろう。

筆者は、教員の資質を確保するなら、医者に研修医があるように、教員にも研修教員の制度を作って1~2年は研修教員として、現場で経験を踏ませたら良いのではないかと思う。もちろんこの期間中に、教員には向いていないことが判明すれば転職してもらう。給与は安いとしても、大学院で授業料を払うよりは教員志望者にはありがたいのではないだろうか。
研修教員を指導する正規教員は大変だというかもしれないが、教材作りや授業の準備、教育委員会からくるさまざまな資料要求その他雑用など、自分の仕事=教員の仕事をある程度やらせながら、実地に覚えてもらおうというわけだ。(先生方にも人を使うことを覚えてもらわなければ)

それはそうとして、何でもかんでも教育のせいにし、その責任を教師におしつけるのは、いくら何でも酷過ぎる。

子供たちのタブレット

昨日、NHK「クローズアップ現代」で、タブレットを使った学校教育が紹介されていた。

tabletclass.jpgタブレットを使うことで自主的な学習、より深い学びが期待されるという。
タブレット利用の各国比較で、我が国が著しく遅れているというデータが示されていた。オバマ大統領の演説とともに米国の取り組みが強調され、我が国の立ち遅れが指摘されていた。

しかし、タブレットを使うことを目的にするのは少し違うと思う。学力の向上が目的であってタブレットを使うことが目的ではないはずだ。
番組では最先進国の韓国の反省が紹介されていた。学カの向上には結びついていない可能性があるという。
韓国の現場教員からの「タブレットではわかった気になるだけで、本当の理解は付いていない」というコメントもあったし、学カとの相関が強いと言われる読書の減少も観察されていることも指摘されていた。

タブレットの可能性は大きいと思う。番組にもあったように数学で3D表示により立体図形のイメージをとらえるなど良い教材だと思う。また、子供たちが、教科書に載ってないことが調べられるというのも良くわかる。

しかし、筆者の経験ではネットで調べものをするには、その動機が先だってある。
多くは、注目しているテーマに関連して、次々に疑問が湧いてくる、その先を知るために、ネットを使う。(昔なら調べるのが面倒でほっておいたことでも、ネットで検索すればすぐに結構な情報が集まる。ただし、信頼できる情報化どうかという判断能力が必要)
また、人間の記憶とはすごいもので、仕事の経験、どこかで聞いたとか、何かで読んだとか、断片的な記憶が何かに触発されて思い出される。

そういうわけでタブレットが使えるというより、タブレットにニーズを感じる子供を育てるのが大事だろう。
タブレットが学ぶ意欲の契機になることと、学ぶ意欲に応えるものになること、そしてツールとして使いこなせるようになることを期待する。
決して、アイコンをタップして、出てくる画像を無批判に見て面白がっていては、タブレットを使ったとはいえない。
何事につけ、目的が先に立つべきだ。

ただし、筆者もそうだが、なんということもなくテレビを「ながら視聴」することで、思わぬ情報が入ることも多い(実際、冒頭で述べたNHKの番組も、これを見ようと思って見ていたわけではない)。新聞も注目記事の周辺にある違う記事に目がいくこともあるし、辞書をひいていて近くにある言葉に興味をそそられることもある。
そういう意味ではすべてが目的志向である必要はないと思う。セレンディピティという言葉もある。ただし、セレンディピティは、普段から問題意識を持っていなければ発見に結びつくものではない。

精密コード

教育に関する本―たしか「社会力を育てる」(岩波新書)で、子供の学習力の違いとの関連がみられる家庭環境として、
一つは家庭内の文化資産(本や芸術など文化的なものがどれだけ家庭にあるか)、
もう一つは家庭で使われている言葉が精密コードか限定コードのどちらか、という記述があった。
精密コードとは、論理的な構成をもち、科学的真理や推論がきちんと表現できるような言葉使いであり、
限定コードとは、「勉強しなさい」「めし、ふろ、ねる」など、使える場面が限られた(感情的な?)言葉使いという。
学校で教師が話す言葉は精密コードであり、これに慣れていない子供は理解力が劣ることになるという話である。

赤子は鰐をてなずけることができない
(ルイス・キャロルが何かに書いていたという、かなり異常な論理的表現)

IT部門の人と話をすると、会社が違っていても共通して、何もかもIT部門にまかせてくるという愚痴を聞く。
技術的なことはともかく、情けないのは、それぞれの事務の担当者が自分の仕事をきちんと理解していないことだそうだ。
「前にやってもらったけど、中身はわからないけど、あれやって」というようなことが良くあるそうな。

自分が担当している事務が、どんな情報を扱っており、それをどう操作して、どんな出力情報を得るのか、
これをきちんと理解しておらず、言葉で表現できない。

実際には、事務処理で扱う多岐にわたる情報の操作を、厳密に自然言語で表現することは結構難しい。
SQLで表現すれば曖昧さのない(SQLに内在する曖昧さを度外視すれば)、情報操作を表現できる。
SQLの習得は、精確な情報操作を表現するための良いトレーニングになるのではないだろうか。
プログラム言語の習得が、物事を手順を追って整理する能力を高めるように。

さて、精密コードとSQLのどっちが習得しやすいだろうか。
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