「大西郷という虚像」(その2)

昨日の「大西郷という虚像」の続き、といっても、本の内容からは外れて。

「大西郷という虚像」の第1章では、薩長は関ヶ原の恨みを忘れていなかったことが、反幕の背景にあることが説明されている。
これ自体は目新しいことではなくて、みなもと太郎「風雲児たち」では幕末の風雲児を書くために、関ヶ原から始めている。

途中、保科正之とか田沼意次、平賀源内など、いっぱい寄り道して(=伏線を張って)、龍馬が出てくるまで何と30巻!

保科正之にスポットを当てたのは、もちろん幕末の会津の悲劇の淵源ということ。
田沼や源内にスポットを当てたのは、近代への胎動ということ。


しかし250年もの間、恨みを子子孫孫に伝え、恨みを再生産するなんてことをしていたのだろうか。

長州では、正月に徳川を攻めようか、未だ時機ではないというやりとりがあったという話は良く聴くけれど、それって偉い人の間での型どおりの儀式だろう、高杉や桂がそれで恨みの炎を燃やしただろうか。まして、久坂のような身分の低いものまで?
ストーリーとしては面白いけれど、はて、実際のところどうなんだろう。

そう思っていたら、本書で、薩摩では、妙円寺詣りという行事があると紹介されていた。
この行事については知らなかったのだけれど、関ヶ原での「前への退却」=敵陣突破以来、藩主を守り死んだ武功を称え、関ヶ原の恨みを新たにするという行事が、国を挙げての祭りとして、延々と続けれらてきたのだという。
西郷も大久保もこの祭に参加したらしい。
なるほど、これなら反幕精神が植えつけられても不思議じゃない。

恨みの再生産である。純化する分、そして見も知らぬ幕府の連中相手で、一層尖鋭化する?



ところで、来年の大河ドラマ「西郷(せご)どん」の配役が順次発表されている。
西郷どんは鈴木亮平氏。茫洋とした雰囲気があるかもしれないけれど、武闘派のイメージがないけど、大丈夫か?
「短刀一本あれば片が付く」って言えるかな。

大久保利通は瑛太。「篤姫」のときに小松帯刀を演じたけれど、大久保はどうだろう、策士で腹黒いイメージ、しかも身長が高かったと伝えられている。私のイメージでキャスティングするなら、北村一輝。
「北条時宗」のときの平頼綱役の不気味なイメージ。敵か味方かわからない、あくどいやりかたで実権を握って行く姿。

ネットでこのドラマについての前評判みたいなものが出ていたけれど、なんでも西郷さんと篤姫(=北川景子、美人過ぎ)が恋仲だとかいうプロットがあるらしい。

アリエン!


役者のイメージだけで言うのもどうかと思うけれど、これでは善人ばっかりが出てくる、なよなよした青春おともだちドラマになるんじゃないだろうか。
島津斉彬・久光は誰が演じるのだろう。西郷の崇拝の対象と、その反動か軽侮の対象となるこの二人。

私としては、久光は固いところ(尊王佐幕)があるが、紳士的で、その心がわからぬ西郷という構図が定型からはずれて面白いと思うけれど。


やっぱり、良心のかけらもないごろつき群像、原田伊織氏が言うようなドラマのほうが、数倍おもしろいに違いない。

ご子孫もいらっしゃるだろうし、子供には見せられないだろうけど。

昭和の掉尾を飾るドラマでっせ、NHKさん。

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◇ ◇ ◇

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大西郷という虚像

来年のNHK大河ドラマは「西郷(せご)どん」。
何度も書いたことだけれど、大河ドラマの功罪の功の一つは、関連する本の出版・再版や、テレビの歴史番組などの企画が増えること。

daisaigou_toiu_kyozou.jpg というわけで、原田伊織「大西郷という虚像」をとりあげる。
もっとも、この本は別に大河ドラマに便乗して急ぎ出版されたというわけではない。

それにこのタイトル、どう見てもNHK大河に阿るものではない。これから書店がどのように扱うのか楽しみである。


著者は原田伊織氏、この人の本については既にとりあげた。(「明治維新という過ち」)
下劣・悪辣・残虐・無慈悲の薩長の田舎のワルどもによる、理想もビジョンも尊王精神もなきクーデター、それが明治維新というわけである。

私もこうした見方にはかなり合点がいくところがあって、そうだろうそうだろうという感想も持つのだけれど、さすがにタダのワルばかりでは、そうそうクーデター政府が永続きするとも思えない。著者には、こんな出来の悪い、国民の支持も得られていない連中の「新政府」が、なぜその後の日本を牛耳ることができたのか、そのメカニズムとか、国民精神とかを明らかにしてもらいたい。
それこそが原田史観のもっとも説得力のある証明につながるにちがいない。

さて、前著(前掲書は本書の前に出されている)では、若干、維新の「偉人」を貶す筆致が踊り過ぎのきらいがあったけれど、本書では、もちろんそれもあるけれど、他書でもよく論拠とされる史実を援用して、歴史の流れを描いているので、前著よりも明解な論理構成になっていると思う。

はじめに ~「官」と「賊」を往復した維新の巨魁~
第1章 火の国薩摩
薩摩おごじょ
熊襲と隼人
肥後と薩摩
妙円寺詣り
第2章 西郷と島津斉彬
蘭癖大名
お由羅騒動と斉彬
「郷中」が育んだ「テゲ」の文化
島妻 愛加那
第3章 西郷の幕末動乱
西郷と島津久光~二度目の流刑~
密貿易の国・薩摩と薩英戦争
西郷登場
策謀
「赤報隊」という道具
無血開城という美談
第4章 明治復古政権の成立と腐敗
戊辰戦争終結と会津戦争
賞典禄と西郷
明治復古政権の成立
新政府の腐敗
終章 田原坂への道
岩倉使設団と西郷
明治六年政変と西郷
あとがきに代えて ~「二才頭」としての生涯と薩摩の滅び~
ただ「大西郷」、つまり西郷が大人物であったということを否定する部分については、やはり西郷の真意が何かはわれわれにはわからない。というか、大西郷だから真意はこうだったろうという推論が普通に行われていたところ、原田氏は、大西郷という前提を取っ払って、真意(があるとして)を見透かそうとし、その結果、大西郷というのは虚像だとしたわけである。
どちらが西郷の真意を捕えているのかは、そう簡単にはわからない。

著者は西郷に限らず、そもそも明治維新には指導原理などはなく、従って志士に「真意」や「大志」などというものを想像するのは、所詮、明治維新を称揚する官軍教育の賜物でしかないと言い切り、そうした先入観を排して歴史を正しく見ようと主張している。

また、前著でもそうだが、「幕末三俊」(岩瀬忠震、水野忠徳、小栗忠順)を賞揚する一方、徳川慶喜や、「幕末四賢侯」(島津斉彬、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城)を小賢しいだけの、腹の座らぬ小物と評価していて、これら小物のせいで、倒れる必要もなかった江戸幕府が倒れたとでも言いたげである。

その特筆すべき事件が「小御所会議」。
徳川慶喜の処遇について異を唱えた山内容堂をはじめとする尊王佐幕派重鎮が、西郷の「短刀一本あれば片が付く」の言にうろたえることが指摘されている。


そして、冒頭に書いた著者への問い、なぜ「新政府」がその後の日本を牛耳ることができたのか、に戻るのだが、新政府は、江戸入城したころは、外交ノウハウはもちろん、統治機構を持たなかったと推測するのだけれど、その状態で、諸藩はともかく、旧幕府の役人たちは、サボタージュなどしなかったのだろうか。

幕末三俊は、すでに放逐、あるいは処刑されているとしても、この三俊が個人の力量だけで仕事ができていたとは思えない。おそらく、組織がしっかりしていて、彼らに次ぐ優秀な役人も付いていたのではと想像する。
もし、彼らが新政府に協力しなかったら、外交関係はぐちゃぐちゃ、財政は破綻、そういうことになったのではないだろうか。

本書にも興味深いエピソードが紹介されている。

紀州徳川家に津田出という人物がいた。小栗忠順や水野忠徳などと並び称してもいい幕末の俊傑である。幕府崩壊後、西郷はこの津田を訪ね、話を聞いたことがある。忽ち、感服してしまった。そして、素直にこの人を担ごうと思ったようだ。戦が終わって、自分たちは次に何をどうしていいのか、さっぱり分からない。しかし、津田には明確な国家像がある。この人を担ぐしかない。無私な西郷は、正直に感服し、津田の担ぎ出しを平気で、本気で考える。当然、そのことを大久保以下の、戊辰戦争の勝者仲間に相談する。大久保や木戸にしてみれば、とんでもない話である。津田とは、直参ではないが幕府側=敵の人間ではないか。益して、将軍職を出してきた御三家の家臣である。勝者の自分たちが敗者の部下を担ぐとは、西郷は狂ったかといったことになる。


これなどは、西郷は大か小かはともかく、それなりの人物であったことを示すエピソードではないかと思うのだけれど、それはともかく、津田出が用いられなかったとしても、おそらくは旧幕府の役人はいろいろな形で、行政に携わったのだろう。もう少し時代が下がると、旧幕役人、あるいはその家柄の人たちが、いろんな場面で活躍して、新政府の政策を支える事例が表へ出てくる。

もちろん諸藩にも有能な人はいただろう。たとえば坂本龍馬が新政府の財政担当に推した福井藩の光岡八郎(由利公正)など。しかし、やはり江戸の組織と有能な旧幕府の役人を活用しなければ、政府運営は難しかったのではないだろうか。

ロシア革命のときに、帝政時代の官僚を放逐せよという意見に対し、レーニンが革命をつぶす気かと反対したという話を聞いたことがある。
明治政府でレーニンの役割を担ったのは誰だろう?


前の「明治維新という過ち」でもそうだが、著者は維新の志士をごろつき、新政府役人を権力欲、金銭欲の塊呼ばわりするのだけれど、旧幕府の有能な役人(慶喜や春嶽などは含まない)に肩入れする反動が、筆の勢いになっているのだろう。
「官軍教育」で旧幕府が貶められてきた、そのため正当に評価されてこなかったということに憤りをもっているのだろう。

私も悔しいというか、勿体ないという思いがある。
龍馬の死も悔しいが、小栗忠順の死は、新生日本にとってより大きな損失ではないだろうか。
しかし、現在は、旧幕府、とりわけ正統的な高級官僚たちがいかに優れた人材であり、明治政府はその遺産でかろうじて破綻を免れたことは、著者が思っているような裏歴史の扱いではなくて、もはや常識になっているように思う。

テロリストが役人になって、権力欲・金銭欲をむき出しにし、政府権力を私し、邪な動機で行使したと貶めるけれど、そういう部分もあったけれど、それだけではなかったはずだとも思う。
龍馬はグラバー商会の使いっぱしりという扱いをされているけれど、やはり、それだけではなく、龍馬はグラバー商会を利用していたという考え方もあるだろう。

西郷には、やはり人間的魅力がなければならない(勝が言うことは信用できないとしても、そのことでそれを否定する理由にはならない)。
薩摩伝統の二才頭の生き方を最後まで貫いたと著者も言っているわけだし。

歴史は勝者が書く。
このことだけはしっかり頭に入れておこうという本だと思う。

集団的自衛権問題とは何だったのか?

今日は憲法記念日
このところ多い記念日ネタ。

前に“「戦後80年」はあるのか”という本を紹介したところだが、そのときは内田樹「比較敗戦論」だけをとりあげた。今日は、憲法記念日に事寄せて、同書にある
木村草太「集団的自衛権問題とは何だったのか? ―憲法学からの分析」について。

C8hX2Z5VoAAzefL.jpg 木村氏は、テレビのニュース番組にもたびたび登場していて、いかにも法律学者らしい、法体系を基準とした解説ぶりが印象的である。
本書でも、その基本スタンスは崩していない。つまり法体系を基準として論理的に解説される。
すべて報道されていたような内容のはずなのだけれど、こうして憲法学者に整理してもらうと、論点も明確になる。

私も前に、国際法上集団的自衛権が認められているから、合憲だという倒錯した論理を述べる一部与党の議員には呆れたことを書いた(憲法と安全保障)。
木村氏もまったく同じことを指摘されていた。
ただ、笑って済ませられないのは、そうした初歩的な論理の誤謬を平気で口にする政治家がこの国を動かしているという事実。これで政策をあやまたないなどということは、結果オーライ以外にはアリエナイ。


現在、この安保法制により、北朝鮮へ向かう米海軍に対して、自衛隊が防護出動することになった。

このことをケシカランなどと言うつもりはない、念のため。

昨年の安保法制議論のときに、北朝鮮の緊張をどこまで予測していたのか、もし予測していて法律を準備したのなら慧眼だと思うが、木村氏の解説を読んでいると、コトはそう簡単ではない。

下に見出しと一言解説を載せたけれど、その中に「個別的自衛権を制限する安保法制」というくだりがある。
これはわかりにくいのだけれど、木村氏によると、

2015年9月11日の国会集中審議で、民主党(当時)の福山哲郎参議院議員が「我が国に対し国際法上違法な武力攻撃をしているA国に後方支援しているB国の補給艦に対して、わが国は自衛権を行使できるか」と質問しています。これに対し中谷元防衛大臣は、「B国はわが国に対して直接攻撃をしていないので自衛権の行使はできない」と答えています。今回の安保法制によって、日本の個別的自衛権が制限されることを認めてしまっているわけですが、日本の安全保障上、極めて深刻な問題だと言えるでしょう。


今のところ、北朝鮮を支援する国はないだろうから、こうした事態には至らないと思うけれど、もしこのやりとりどおりだとすると、本当に武力行使について詰めて考えたのか訝られる。

また、後方支援は、「現に戦闘が行われている場所は除く」という話になってたようだけれど、それなら、日本の支援船を無視して、A国艦船のみに攻撃が集中されたらどうなるんだろう。個別的自衛権ではないし、かけつけ警護というわけでもなさそう。A国を見殺しにして逃げるんだろうか。戦闘に至らない間だけ防護って、言葉として変では。

いずれにせよ、集団的自衛権としてA国と同盟する以上、武力行使はA国と一体化したものとみなされることは覚悟しなければならないのだろう。

それにしても、もし朝鮮戦争で北が勝利し、朝鮮半島全体が共産化していたら、日本国憲法は直ちに改正されたにちがいない。


国際法上、武力行使は原則禁止されている
国連憲章二条四項
 
三つの例外
集団安全保障措置としての武力行使
それまでの緊急的対応としての個別的自衛権の行使、集団的自衛権の行使
 
安倍政権も認める九条の解釈
国連憲章が認める武力行使は権利、義務ではない
一項全面禁止説と二項全面禁止説(一項は侵略戦争の禁止、武力保持禁止の二項で一般禁止)
 
九条の例外と自衛権
例外規定があるか、あるとする場合の根拠は十三条(国内の安全)
ただし、これでは集団的自衛権の根拠としては薄弱、が従来の考え方
 
日本政府に軍事権は負託されていない
軍事権の規定は憲法のどこにもない、内閣に負託された権限は七十三条
国内安全保障の範囲であれば防衛行政と考え軍事権を持ち出す必要はない
 
安保法制は「全部のせラーメン」
 
安保法制のポイント
1 在外邦人の保護
2 武器等防護に関する規定の改正
3 国際平和協力法の改正
   現地住民の安全確保、かけつけ警護
4 後方支援
   非戦闘地域に限る⇒現に戦闘が行われている現場では実施しない
   電車を待つのにホームの黄色い線の内側だったのが、電車が来ていなければ線路へ降りて良い
5 「存立危機事態」要件の追加
 
自衛隊員の安全は確保されるのか
 
イラク戦争の総括という問題
過去の失敗の検証すらできない
 
個別的自衛権を制限する安保法制
 
集団的自衛権の行使と「三国志」
 
存立危機事態という概念の曖昧さ
曖昧ということ自体が憲法違反(法治主義に反する)
 
国会の議論は無駄ではなかった
議論の過程で、さまざまな言質がとれた
 
集団的自衛権違憲訴訟は可能か
裁判所は事案が発生しないと判断しないが、弁護士である国会議員に懲戒請求をすれば裁判になるかも
 
附帯決議に盛り込まれた仕掛け
存立危機事態と武力攻撃事態が重ならないことはほとんどない、
武力攻撃事態等に該当しない存立危機事態での防衛出動は、例外なく国会の事前承認を求める
自衛隊の海外活動についての一定期間ごとに国会承認
国会が活動終了を決議したらすみやかにその措置をとる

雇用身分社会

Koyomibunshakai_Morioka.jpg 今日はメイデー
中学の英語の教科書では、"May day"は「五月祭」で、古代ローマ(キリスト以前)に発する、豊穣を予祝する祭という解説があり、それとともに、"Maypole"の周りでダンスをするという解説があった。
そうした祭が、労働者の祭になり、現在のメーデーとなったものといわれる。

若い頃は、私も、大阪城公園―御堂筋―なんばのメーデーデモに参加したこともある。
組合から休業補償の参加費が出るので、それを握りしめてミナミのビアハウスへ行って打ち上げる、というのが定番だった。

ということで、メーデーにちなんで、森岡孝二「雇用身分社会」について。(このところ、記念日ネタの記事が続くなぁ。)
労働者の祭典であるメーデーが、もはや一部の恵まれた労働者しか参加できないようなものになってしまった歴史を振り返る。

しかも、いつ頃からか、中央や各地のメーデー集会が、5月1日ではなくて、ゴールデンウィークの初日あたり(今年は4月29日)に行われるようになった。GWで旅行に出る人とかに配慮したのだろうけど、団結して盛り上がろうというものからは変容していることの現れではないだろうか。


さてこの本だけれど、きっちりまとまったもので、章だけでなく節見出しまでの目次を右に掲載したけれど、これを見れば著者の問題意識と論旨の展開も推察できることと思う。(だからとって内容を読む必要はないというつもりはないけれど)

序章 気がつけば日本は雇用身分社会
派遣は社員食堂を利用できない?
パートでも過労とストレスが広がる
使い潰されるブラック企業の若者たち
現代日本を雇用身分社会から観察する
全体の構成と各章の概要
第1章 戦前の雇用身分制
遠い昔のことではない
『職工事情』に見る明治中ごろの雇用関係
『女工哀史』に描かれた大正末期の雇用身分制
戦前の日本資本主義と長時間労働
暗黒工場の労働者虐使事件
戦前の工場における過労死・過労自殺
第2章 派遣で戦前の働き方が復活
戦前の女工と今日の派遣労働者
派遣労働の多くは単純業務
1980年代半ば以降の雇用の規制緩和と派遣労働
財界の雇用戦略―『新時代の「日本的経営」』
リーマンショック下の派遣切り
雇用関係から見た派遣という働き方
中高年派遣の実態と派遣法「改正」法案
第3章 パートは差別された雇用の代名詞
パートタイム労働者の思いを聞く
パートはどのように増えてきたか
日本のパートと世界のパート
日本的性別分業とM字型雇用カーブ
パートはハッピーな働き方か
シングルマザーの貧困
重なり合う性別格差と雇用形態別格差
第4章 正社員の誕生と消滅
正社員という雇用身分の成立
「男は残業・女はパート」
絞り込まれて追い出される
過労とストレスが強まって
拡大する「限定正社員」
時間の鎖に縛られて
正社員の消滅が語られる時代に
第5章 雇用身分社会と格差・貧困
雇用形態が雇用身分になった
戦後の低所得階層
非正規労働者比率の上昇と低所得階層の増加
現代日本のワーキングプア
潤う大企業と株主・役員
労働所得の低下に関するいくつかの資料
第6章 政府は貧困の改善を怠った
政府は雇用の身分化を進めた
雇用が身分化して所得分布が階層化
男性の雇用身分別所得格差と結婚
高い貧困率は政府の責任
公務員の定員削減と給与削減
官製ワーキングプア
生活保護基準の切り下げ
終章 まともな働き方の実現に向けて
急がれる最低賃金の大幅引き上げ
雇用身分社会から抜け出す鍵
ディーセントワーク
あとがき
目次で分かるとおり、この本では派遣や非正規労働の現状を概観したあと、戦前にもこうした働き方があった、この問題を考える上では、歴史を知る必要があるとして、戦前の、労働基本権もなかった頃の労働について解説される。

「女工哀史」とか「ああ野麦峠」など、存在は知っていても、今まできちんと読んだことはなかったが、本書ではそうした本に加え、国(農商務省)が調査した「職工事情」などを史料として、丁寧に追跡する。


なので、戦前の厳しい労働者の暮らしについては良くわかるのだけれど、以前に読んだ濱口桂一郎「日本の雇用と労働法」では、それまでの「渡り職工」・親方による間接管理に代わり、資本主義的経営が顕著になった時代の雇用者確保の企業ニーズであり、戦時にかけての国策(皇国に奉仕する産業戦士)も一定の寄与をしていると指摘されていた。

第4章「正社員の誕生と消滅」では、そのことが書かれるのかしらと思っていたが、そこは触れず、「正社員」という言葉の使用例を分析して、パート社員に対する語という形で解説されている。しかし、正社員という身分が資本主義社会において果たしてきた役割を考えるなら、言葉の使用法の問題ではないと思う。門外漢の私は濱口説に説得力を感じる。

濱口説は、前近代的・封建的な間接管理が、近代的・集権的な直接雇用へ組み替えられていく歴史過程を見事にとらえているように思う。それは、現代の派遣労働を生む理屈(短期的な経済合理性)とは、ベクトルが異なるものだろう。見かけが似ているだけでは、厳しい労働環境の描写にはなるけれど、なぜ戦前と逆の動きになるのか、そこを突っ込んでもらいたかった。


以下の各章では、さまざまな統計資料を使って、派遣やパート、非正規雇用の実態を解説している。その一つ一つをここでとりあげてもしかたがないので、本書を読んでいて、私なりに考えたことについて書いてみよう。

まず、著者がこのままではいけないと主張する、非正規の働きかたの問題だけれど、私には、現在の趨勢が続けば、正社員と非正規雇用の分断は一層深くなると思える。
そして、そのときは、正社員は被雇用者ではなく、経営側に立つ身分になっているのではないか。
もちろん、正社員が肩たたきにあって、途中でドロップアウトしてしまう(経営側にふさわしくない人材)こともあるだろうから、より丁寧に言えば、経営側予備軍というのが正社員の実態ではないだろうか。
ごく少数の経営側と、大半の非正規労働者。かつての資本家と労働者の構図が再現されるのではないだろうか。

冒頭、メーデーが全労働者の祭ではなくなったと書いた。かつての労働運動では「労働者の分断」と指弾されたはずの状況だけれど、正社員ばかりの労働組合が、自ら選択したものなのかもしれない。


ならば、労働法制は正社員のためにではなく、非正規のために考えるべきだと思う。

もちろん正社員が過労死する状況を放置するわけにはゆかないけれど。

このとき、非正規が不安定な身分では、結局、企業にとっても決して良いことばかりではない。経営側と労働者に分断された場合、労働者には、企業に対する責任というものは失われる。売上を上げることも、経費を節減することも、労働者側にはまったくインセンティブが働かなくなる。

そして、会社一家というのを否定した企業は、労働者に愛社精神を求めてはならず、労働者もまた会社のためではなく、自身の豊かな生活のため、つまりしかるべき給与にのみ関心を持つ。

このとき日本製品への信頼は大きく低下し、もともとビジネスビジョンの弱く競争力のない日本企業は、最後の誇りである品質すら守れないという状態になるかもしれない。

そんな企業はイヤだ、という経営者、つまり、昔型の経営者なら、国の労働法制の枠組みではなく、それこそ全従業員を経営側と考えるような経営をすれば良い。

また、さまざまな働き方を認めていくというなら、政府は、さまざまな働き方でも安定した暮らしができる制度を用意しなければならない。単に派遣の規制緩和をすれば良いわけではなかろう。(終章に著者の提言)

最後に一言。
本書でも再三、過重労働のことが書かれるのだけれど、私には企業の過重労働の多くは、合理性を欠いた、単なるシゴキではないのかと思える。
彼らは長い時間をかけて、一体、何を生産しているのかと訝しく思う。(無責任・責任転嫁の名人だけど)
日本の労働生産性はOECD中、最低ランクにある。何時間もかけて解決しない問題が、ちょっとしたヒントで氷解するような楽しい経験をした人が少ないのか。職人肌・学究肌でプロダクティブな人は日本では出世しないから無理もないけれど。

企業は労働法制が、経営合理性を阻害していると主張する前に、自らの生産性がなぜ低いのかしっかり反省するべきではないだろうか。生産性が高ければ、過重労働・低賃金の問題は解決するはずだから(経営者が金の亡者でなければ)。
それに私は信じている、本当に高い生産性は、高いモラールによって支えられると。


【追記】

職場の地元では、今日、地区メーデー開催。

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昭和史のかたち

今日は「昭和の日」。
私のような年齢の人は、反射的に天皇誕生日と思うのではないだろうか。
今上陛下が退位されても、「平成の日」が定められることはないと思う。やはり昭和は特別な時代だった。

Showashi_no_katachi_cover.jpg というわけで今日は、保阪正康「昭和史のかたち」について。

この著者については、以前から、一定の信頼を寄せている。
著者の意見や論評は、そう突飛でもアジテーショナルでもないということもあるが、史料へのあたりかたが丁寧で、幅広いようだ。それにテレビのドキュメンタリー番組などで目にする、著者が、その時代の経験者などから証言を聴く姿勢などに、この人の言うことは信用しても良いんじゃないか、という気になる。

さて、この本は、目次でわかるように、いろんな図形などが社会事象と結び付けられている。しかし、この図形は解説のための図解ではなくて、「たとえ」である。
その事象が持つ特徴が、どういう図形をイメージさせるのかといった性質のもので、事象を図解するというものではない。従って、そのたとえについて、なるほどそういうたとえも可能かなとか、これはちょっと無理があるなというのが率直な感想である。

そういう意味では、子供の頃、親に数学を教え込まれた(そして数学がイヤになった)という著者の一種の無理ワザでもある。なるほど、これはうまい譬だというのもある。そしてそのやりかた、アイデアがどれだけの事象説明に通用するのか、やってみたという感じである。

Showashi_and_square.jpg なかでも、うまい譬だと思ったのは、
「第2章 昭和史と正方形 ―日本型ファシズムの原型」。
国民を檻に閉じ込め、それを狭め、圧迫する(右図)。
その4つの壁が、「情報の一元化」、「教育の国家主義化」、「弾圧立法の制定と拡大解釈」、「官民挙げての暴力」であるとする。
これはなんだか、とても感じが出ているように思う。

三角や四角、円というのはともかく、座標軸を考えて分析するアプローチするのは、それなりに問題の所在を明らかにするのに有効なようだ。
たとえば「第8章 昭和史と座標軸」ではこのような考察が書かれている。
戦記・戦史の著者を、所属司令部を横軸に、階級を縦軸にとって、プロットすると、太平洋戦争の戦闘は意外なほど検証されていない、兵士の証言が語られてこなかったことが、戦後社会の歴史的欠陥だと指摘する。
将校たちは兵士に「戦死」を強要しながら、自分たちはひたすら生き残ることのみを考えている。
「戦争という軍事的行為を自らの栄達の手段と考えて、兵士たちの生命を平気で利用するその人間的退廃」。

この手法は「第10章 昭和史と平面座標」でも使われていて、天皇の戦争責任を、{法律的|政治的|歴史的|道義的|社会的}という区分を横軸に、{開戦|継戦|敗戦|終戦|臣民に犠牲を強いた|臣民の生命を危機に陥れた}を縦軸にとって分析している。
漠然と天皇の戦争責任と括るより、問題の所在を見つめる議論になりえる良い視点だと思う。
ただし、実際に検討するにあたって、気をつけなければならないのは、天皇は相手に応じた受け答えをする、つまり相手によって反対のことや矛盾することを答えることがあるという。天皇自身が、統治と統帥に分裂していたのかもしれない。

そうとしても、天皇を祀りあげることで、結果的に無責任な位置に安住しようとした軍の卑怯な態度は、否定できないだろう。もっとも戦後、その構図が見透かされたからこそ、卑怯者は追及されたが、天皇の戦争責任は追及されなかったのだろう。


こうした分析的視点に混じって、というかそれを支えるように、種々のエピソードがとりあげられている。
たとえば、軍事主導体制一色となったらどんなことになるのか、その結果が列挙されている。

1 軍事主導体制は、あらゆることが軍事のみに収斂されることになる。
2 兵士たちには命に値段がつけられているというのはあまり知られていない。
3 学問研究の内容は軍事的に価値があるか否かが判断の基準になる。


はじめに
第1章 昭和史と三角錐
―底面を成すアメリカと昭和天皇
第2章 昭和史と正方形
―日本型ファシズムの原型
第3章 昭和史と直線
―軍事主導体制と高度経済成長
第4章 昭和史と三角形の重心
―天皇と統治権・統帥権
第5章 昭和史と三段跳び
―テロリズムと暴力
第6章 昭和史と「球」、その内部
―制御なき軍事独裁国家
第7章 昭和史と二つのS字曲線
―オモテの言論、ウラの言論
第8章 昭和史と座標軸
―軍人・兵士たちの戦史
第9章 昭和史と自然数
―他国との友好関係
第10章 昭和史と平面座標
―昭和天皇の戦争責任
おわりに
2について、軍にそういう経済合理性があったのかと思ってしまいそうだが、それは経済合理性なんかでは全然ない。
特攻に出撃したのは、第一陣こそ職業軍人だが、以降、学徒兵、少年兵で多くが占められることになる。
「軍人一人を育てるのにはずいぶん経費がかかっている」からで、そうではない学生なら良いのだと、これは当時の航空関係の参謀の証言だという。
また、広島に原爆が投下されたとき、広島近郊の旧制中学や高等女学校の生徒が、遺体処理などのために広島市内に動員されている。江田島の海軍兵学校からは行っていない。
海軍首脳部によると「彼らは次代のエリートである。どうして彼らをそういう仕事に従事させることができようか」というのである。

3については、戦時中、多くの大学は文学部を廃止しているという指摘がある。
これなど、最近、文学部不要論なんていうのが出てきたことを連想してしまう。もちろん、戦時下の文学部不要論と、最近のそれとは違うものだけれど、案外、通底する感覚があるのではないだろうか。

1、2に関連しては、こんな証言もとりあげられている。
(元)陸軍の将官に会った折に男の子がいるか聴かれ、いると答えると「戦争で死なない方法を教えてあげよう。陸軍大学校に入れろ」と。陸大に行っていると前線には出ない、後方で作戦計画を練っているだけだから。大東亜戦争で陸大出身者の死者は驚くほど少ない。

そういえば、米国では、階級別戦死者数は階級別人員に比例する、つまりどの階級の軍人も同じ割合で戦死している(上位者の方がやや死亡率が高いとも)が、日本では、圧倒的に下位階級の死亡率が高いという統計があるそうだ。

つまり、今でいうなら、子供の命が惜しければ、防衛大学校へ入れれば良いということらしい。

もっとも民主的軍隊になったらそういうわけにはゆかないだろう。
エリートで無責任、憂国の身勝手なプライドだけは化け物じみて大きい。そういう軍隊にとっては民主教育は都合が悪いに違いない。


もちろん、そんな軍人ばかりのはずはない。率先して危険に身を投じた人も多かっただろうと思う。そうした立派な人を軍人の鑑として顕彰することもやぶさかではない。
しかし、問題は個人の資質にあるのではなくて、構造的な問題だろう。
立派な軍人という人たちは、インパール作戦を止めるのではなくて、そこで死んでいく方を選びがちなのではないだろうか。

比較敗戦論

今日は、サンフランシスコ講和条約記念日
65年前の1952年4月28日、「日本国との平和条約」が発効した日である。
言うまでもなく、この条約によりいわゆる戦後処理が終了し、日本国の主権が回復したわけである。

今どきの若い人にはピンとこないと思うけれど、1960~70年代は、この日は盛大なデモが行われる「旗日」だったと記憶する。平和条約発効を祝うものではなく、同時に締結された日米安保条約に反対するデモである。

「戦後80年」はあるのか―「本と新聞の大学」講義録
 
まえがき
 
姜尚中
第一回 基調講演
一色 清
姜尚中
第二回 比較敗戦論
      敗戦国の物語について
内田 樹
第三回 本と新聞と大学は生き残れるか
 
東 浩紀
第四回 集団的自衛権問題とは何だったのか?
      憲法学からの分析
木村草太
第五回 戦後が戦前に転じるとき
      顧みて明日を考える
山室信一
第六回 戦後日本の下半身
      そして子どもが生まれなくなった
上野千鶴子
第七回 この国の財政・経済のこれから
 
河村小百合
第八回 総括講演
姜尚中
一色 清
あとがき
 
一色 清
というわけで、本格的な戦後がはじまる日にちなんで、今日は「比較敗戦論」。
「比較敗戦論? なんだそりゃ?」と訝られると思うけれど、この言葉は、“「戦後80年」はあるのか―「本と新聞の大学」講義録”という本の中で使われていたもの。

この本は、一色清、姜尚中をモデレータとして、著名な学者・研究者がそれぞれの専門領域について講義し、Q&Aを含めて編集されたもの。その中の内田樹氏の演題が「比較敗戦論」である。以下、その概略。

前の大戦での敗戦国、日本、ドイツ、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらが連合国が敵国として認定した国だそうだ。他に国と認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア独立国、満州国、中華民国南京政府などがあるという。

まず意外なことに、敗戦国に、日独伊三国同盟のイタリアは含まれない。
というのは、イタリアは1943年にイタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニを倒し、ドイツ軍を敗走させたので、イタリアは戦勝国という理屈になるのだそうだ。(おまけに1945年7月には日本に宣戦布告している。)
sengo80nen_0844b.jpg 最初は日独とともに連合国と戦い、内田氏も書いているように、戦後のイタリアは「自転車泥棒」などの映画で、荒廃した都市の映像が思い浮かぶので、まるで敗戦国のような印象がある。しかし、国土を戦場にしたけれど、最終的に勝利をおさめたという見方もできるわけだ。内田氏によれば、

イタリアは「内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。『まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ』と受け止めた。だから戦争経験について否認も抑圧もない。」という。


イタリアと逆に、フランスについては、戦勝国づらしているが、それは違うだろう、という。(内田氏は専門はフランス哲学ということで、このあたりは詳しいようだ。)
フランスはドイツにマジノラインを破られて、半分はドイツ領に、半分はヴィシー傀儡政権統治となり、大量の労働者をドイツに送って支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人を迫害した(捕えたユダヤ人は国外の収容所へ送られた)。
で、ドイツ軍が劣勢になってから、レジスタンスが膨れ上がり、対独協力政権の中枢人物もレジスタンスに加わるという。
このとき、ド・ゴールが国としての実体はない自由フランスを「戦勝国」にした。米英は認めたくなかったけれど、膠着した戦局の打開にレジスタンスを使うことで、ド・ゴールがうまく立ち回ったということらしい。

ずっとドイツに協力していたフランスが、最後になって、戦勝国に滑り込んだ、内田氏は、疚しさを感じるべきだった、という。そうした総括がないまま戦後となり、そのことが、トラウマになってしまう。つまり、ドイツに協力していたことをみんなが忘れよう、蓋をしておこうという行動に出るようになる。

ドイツは敗戦国とされるが、東ドイツは共産主義革命で建国した、戦勝国という話になっていたそうだ。だから、ナチスの戦争犯罪に対して責任を感じていないという。自分たちはナチスの被害者であり、ナチスと戦ってドイツ国民を解放した、ナチスの戦争犯罪について謝罪する必要はない、という。

他の敗戦国、ハンガリーやタイ、クロアチアなど、どの国も敗戦は忘れたい過去であった。
なお、韓国は戦勝国に座りたかったのだけれど、戦争中、日本と戦う「政府」はなかった。最終的にイギリスなどの反対で戦勝国にはなれなかった。(朝鮮戦争は日本との戦争だと思っている韓国民がいるらしい。)

日本は、前の戦争で犯した罪をきちんと反省し、敗戦の総括をしていない、だからいつまでも中国や韓国、東南アジア諸国との関係に影を落としていると良く言われる。
しかし、どの国も、自らの敗戦についてきちんと総括なんかしていないことは、同様のようである。
だからといって、日本の態度がこれで良いというわけではない。どの国もトラウマを抱えている。

内田氏によれば、結局、国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。
比較敗戦論というのは、国によって違いはあるものの、どうやらこうした敗戦処理の難しさを浮き彫りにした。そして、この比較論はこうした視野を持っていなかった私には新鮮だった。

話題は少しそれるけれど、内田氏はさらに、アメリカの強さに言及する。これについても少し紹介しておこう。

内田氏は、アメリカの強さは、カウンター・カルチャーを持つことにあるという。
アメリカには、体制を否定・反抗する勢力が常にいて、それがいるおかげで、アメリカに敵愾心をもつ海外のグループからも、アメリカをひとしなみに否定されたりはしないのだという。

そういわれれば、たしかに日本国内でベトナム反戦運動が激しかったころ、米国のステューデント・パワーもベトナム反戦運動をしていた。日本でも米国でも、ボブ・ディランが聴かれ、歌われて、海を隔てて共感していたという風がある。
日本では、米国の学生も反戦運動を戦っているぞ!と受け止められたし、もちろん米国の方では、海外の多くの国で、反戦運動が巻き起こっていると力を得ていたに違いない。
アメリカをこきおろしていた人たちが、アメリカに触れて、かぶれてしまうことも多かったと思う。


米国の一番のトラウマは南北戦争だろうという。
この国民の記憶が、国内でいかなる意見対立があっても、最後の一線、内戦が選択されないことになるのかもしれない。

“「戦後80年」はあるのか”という本は、小さな本で、短時間の講義録という性格から、細かい検証などは行われていないようだけれど、提示されたテーマはどれも興味深い。

上野千鶴子氏の講義については、前に少しとりあげている。


町村合併から生まれた日本近代 明治の経験

9784062585668_w.jpg 松沢裕作「町村合併から生まれた日本近代 明治の経験」について。

昨日取り上げた「明治維新という過ち」よりも随分前に読んでいた本で、書評を書けるほどの感想は持てていなかった。けれど、昨日の記事を書いていると、明治維新がなぜ失敗しなかったのか、その一つの説明に繋がるものだと思い直して、記事を起してみた。

昨日の記事では「明治維新という過ち」という本をきちんと評価するには、他書も読むべきと書いたけれど、この本はそういう本の一つだと思う。

歴史上の事件・動きが丁寧に追いかけられている。
この時代の流れは、あまりに複雑かつ急進的なところがあって、読者としては、これについていくのは相当の集中力が必要である。それについては、本稿で取り上げてもせんないことである。

江戸時代の領地がモザイク状になっているというのは、この本を読む前から知識としてあったのだけれど、それでは、領主は統治するの難しいのではないだろうかということ。
領地が分散していては領主が大変だし、隣接地の領主が違っていては領民も大変じゃないだろうか。
そもそも、平安時代の荘園から、領地というものは、どんどん細分されて、権利関係が複雑になっていく。ひどいのになると村の年貢の何割がA領主、何割がB領主という状態になるわけだ。

はじめに 境界を持たない社会・境界を持つ権力
第一章 江戸時代の村と町
1 モザイク状の世界
2 組合村
3 村と土地所有・村請制
第二章 維新変革のなかで
1 「大区小区」制
2 明治初年の町村合併
第三章 制度改革の模索
1 区戸長たちのフラストレーション
2 内務省と井上毅
第四章 地方と中央
1 地方三新法
2 町村運営の行き詰まりと明治一七年の改革
第五章 市場という領域
1 境界なきものとしての市場
2 備荒儲蓄法
3 道路が結ぶもの
4 市場と地方
第六章 町村合併
1 「自治」の思想
2 合併の遂行
3 行政村と大字
むすび 境界的暴力と無境界的暴力
そういう事情があるから、水利組合や清掃組合など、ご領主さまとは関係のない、地勢的条件による組織が活動していた。つまり、封建時代という言葉とは裏腹に、特定の領主が領民の全生活を律するとか、領地を統治するというような社会ではなく、典型的には殿様とは所詮年貢の納め先でしかなく、殿様と領民に親密な関係などあろうはずがない(領域国家の体裁を持つ大藩なら別かもしれないが)。

昨日の「明治維新という過ち」は武士社会・武士道を礼賛する(百姓あがりの「志士」だから武士ならやらないような卑劣な行為ができる)のだけれど、こうした領主と領民の関係という視点は希薄。もっとも、薩長や土佐は一国領国だから、あまり入り組んではいないかもしれないが。


ということで、大きく感想を言うなら、明治維新後、日本国が経済的に破綻することもなく、なんとかいろんな形をさぐりながら現在に続いてきた、その根本のところは、地域における生産活動の存在が必要、なにより税金(年貢)を徴収するという地域の行政(の下請け)が機能していた、そのことが詳細に追跡されている。

江戸期には、一時的に御用金として集めるものはあったようだが、直接国税とか、藩から集める連邦税的なものは制度化されていない。
基本的に徴税機構は、代官が置かれた天領を別として、諸藩が運営しているもので、ご一新後も、これが機能しなければ、国家予算は組めなかっただろう。

だから赤報隊による「年貢半減」デマを流せたし、それが効果を上げたわけだ。


その後、国税の徴収システムが整備されたので、徴税機構としての地方の役割りは小さくなった。

と、このように、本書を読んでいるうちに、封建時代の税制から、中央集権の税制への移行がどう進められたかという点に私の興味は収斂したのだけれど、著者にとっては、そちらはむしろアタリマエみたいで、それよりも「境界」とは何かという、やや哲学的な問題意識があるようだ。

本書の「はじめに」は、"境界を持たない社会・境界を持つ権力"という副題が付いている。
一体、何を言いたいんだろうと訝りながら読んだわけだけれど、読み進めば、なんとなく著者の問題意識の所在というか、洞察を端的に表現する言葉であることが諒解されてくる。

そして、越境して拡大する経済の特質というところまで考察は広がる。

ただし、そちらについてはあくまで端緒として考察されるにとどまる)


細かい具体的事件・事象については、読後の記憶としては残りにくいけれど、なるほど、国のシステムが変わるというのは随分と大変なことなんだな、得する人も損する人も出るんだな、歴史の理解には税制の理解が必要だ、まだまだ勉強不足だなぁ、そういうことを考えさせられる本である。

明治維新という過ち

原田伊織「明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」(改訂増補版)について。

71l_9-DlX0L.jpg 私は、以前から明治維新というのはあんまり好きじゃない。
血塗られた、下劣な薩長のやり口、とりわけ、真摯に許しを請う相手を侮辱するようなのは不快だし、自己保身だけの京都の公家というのも気に入らない。かといって、徳川慶喜は優秀だけど小手先で誤魔化そうとする無責任なトップ、そんなイメージがある。

ということで、タイトルに惹かれてこの本を読んだ。
読み始めると、「はじめに」には、~竜馬と龍馬~として、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が坂本龍馬を英雄にした、司馬遼太郎は"龍馬"でなく"竜馬"と表記することで小説中の人物という言い訳を込めている、そして、坂本龍馬はグラバー商会の使いっぱしりに過ぎないと、龍馬ファンなら怒髪冠を衝きそうなことが書かれている。

これは「はじめに」だから、結論じみたことを最初にアジテーショナルに書いたものと受け止めて、何故そう主張するのか章を進めていけば、その理由が明らかにされるものと思って読み続けたのだけれど、その攻撃的な口調が続く。ところどころに根拠が引かれるところはあるけれど、諸説があるようなので、史料批判に耐えるものなのか、浅学な私には判断できない。

著者の主張と異なることを勝海舟が証言していると、勝の言うことは信用できないと切り捨てているが、読者はどうしたら良いのか。


はじめに 〜竜馬と龍馬〜
第一章 「明治維新」というウソ
廃仏毀釈と日本人
「官軍教育」が教える明治維新
幼い天皇を人質とした軍事クーデター
実は失敗に終わった「王政復古の大号令」
戦争を引き起こすためのテロ集団・赤報隊の悲劇
第二章 天皇拉致まで企てた長州テロリスト
「家訓」を守った誇り高き賊軍
血塗られた京の文久二年
尊皇会津藩と朝敵長州の死闘
天皇拉致を防いだ池田屋事変
第三章 吉田松陰と司馬史観の罪
吉田松陰というウソ
「維新」至上主義の司馬史観の罪
第四章 テロを正当化した「水戸学」の狂気
「昭和維新」が生んだ「明治維新」
狂気のルーツ・水戸黄門
徳川斉昭の子供じみた攘夷
阿部正弘政権による実質的な開国
「瓢箪なまず」の改革
阿部の残した官僚たち
水戸の公家かぶれと『大日本史』の無理
第五章 二本松・会津の慟哭
戊辰戦争勃発、反乱軍東へ
戊辰東北戦争にみる奥羽の潔癖
三春の「反盟」、秋田の「裏崩れ」
誇り高き二本松 ~少年たちの戦~
会津藩と奥羽列藩の止戦工作
会津の惨劇 ~ならぬことはならぬ~
北斗の南
第六章 士道の終焉がもたらしたもの
薩摩の事情と西郷の苦悶
武士福沢諭吉の怒り
あとがき
一方、江戸時代が高度な社会システムを持っていたこと、幕末官僚には大変優秀な人が綺羅星の如くであったことなどは、あまり知られていないと著者は言うのだけれど、これは多くの歴史学者が一致するところであり、今では、常識に類することではないかと思う。

例えば、幕末の金の流出事件は、日本と諸外国の金銀交換比率の違いが原因ではあるが、それを幕閣が知らなかったからではなく、日本では金銀が素材として交換されるのではなく、銀貨は「銀で作った信用貨幣」という性格のものであったためで、あまりに先進的な日本の通貨システムが、外国人には理解不能(そしてそれを良いことに通貨の交換を正当化)という事情があったと言われている。


結局、怨念が表へ出過ぎているというか、怨念の固まりのような本になっているわけだけれど、これはこれで明治維新へのアンチテーゼという意義は十分に果たしている、ちょっと扇情的なぐらいに。

著者は、薩長の卑劣性、下劣性、残虐性を執拗に追及し、その証跡の言挙げに多くの紙幅を費やしている。
なかでも、二本松少年隊の悲劇は、「八重の桜」でもとりあげられたけれど、ほとんど一瞬画面を過った程度で、多くの印象を残さなかったが、本書ではかなり丁寧に解説されている。

会津(福島県)と長州(山口県)の間では、今でも婚姻が成り立ちにくいとは良く言われることだけれど、彦根と水戸や、二本松と三春(奥羽越列藩同盟を裏切る)もそうらしい。平成の大合併で、二本松と三春は合併してもおかしくない地理的条件であったにもかかわらず、ついに合併はならなかった、それもこれが原因という。


幕末の英雄を徹底的に貶めようという意図だけは明確である。
ただ、これでもか、これでもかと、あまりに容赦ないので、辟易するとともに、本当に、それほど、悪辣で、馬鹿で、卑怯で、下劣というだけでは、革命が成功するはずはないとも思う。

高校の日本史の授業のときに、教師が、みなさんが新政府の指導者だったら何をどうするか、と問いかけたことがあった。そして、誰も答えられないのを見計らって、そんなことでは革命はできませんね、と。
もっとも、新政府の施策を細かく説明している本などを見ると、まさに試行錯誤、見通して施策をうったとは思えないところも多い。結局、旧幕府が反革命を企図せず、江戸時代の惰性のおかげで、新政府はなんとかやっていけたという気がする。


著者は、幕末の志士(この言葉使いにもクレームをつけている)は、テロリストに過ぎない、そしてテロリズムは絶対に許さないという。

私も前に、吉田松陰はテロリストと書いたことがあるけれど(寅さんは尊王攘夷かい)。

しかし「テロとは失敗した革命である」という言い方もある。(学生運動が過激化したその末期の言)
ならば、著者が歯噛みしようと、革命に成功したならば、彼らはテロリスト呼ばわりはされないわけだ。

一つの歴史観として興味深いし、明治維新をそれほどの偉業とは思っていない私には共感するところも多い。
しかし、史料の選び方、読み方がフェアであるかについては、他書とも比較したほうが安全かもしれない。

誰が言ったのか忘れたが、「江戸は、後の近代日本を準備して、見事に、潔く役割りを終えた」ということは、間違いないと思う。

イルカ漁は残酷か

o3456230413891799425.jpg 沖縄旅行では定番の「美ら海水族館」に行ったが、この水族館でもイルカのショーが行われている。
時間の都合もあって、イルカ・ショーは見なかったのだけれど、というか、ショーを見ることを目的にすることに、ややうしろめたさもないわけではない。

伴野準一「イルカ漁は残酷か」というルポルタージュがある。
追い込み漁でイルカを生け捕りにして、水族館に売る、それが残酷だとは、どういうことなんだろう、殺して食べるというわけではないのに、そう素朴に思っていたけれど、実態はそんな綺麗事で済む世界ではなかったらしい、少なくとも少し以前までは。

iruka-ryo_wa_zankokuka.jpg イルカはときには数百頭もが追い込まれ、そのうち十数頭は生け捕られて水族館に売られるが、他のイルカは殺されていたのだそうだ。
いわば、水族館のショーで見る数頭のイルカの陰に、数百頭のイルカの犠牲があるというわけだ。

それどころか、もっと昔は、ただ魚を食べる害獣として駆除の対象となり、捕えられたイルカは、効率的に破砕され、とりだされた油脂は廃棄物として無料で製油会社に渡されていた時代もあるという。
もっとも、昔といっても、追い込み漁が「日本の伝統」と言えるほどの時間は経過していない。
昔は、そんな技術はなかったし、追い込み漁は稀にそういう状態になったときに行えるというもので、計画的なものではなかったという。

たまたま迷い込んだクジラやイルカを、天(海?)の恵みとして喜び、捕えて奪った命に対し「いただきます」と感謝しながら食べるのが伝統だろう。


先日、いくつかの水族館がJAZA(日本動物園水族館協会)を脱退していたことが伝えられていた。
WAZA(世界動物園水族館協会)が、追い込み漁で獲ったイルカを水族館に納めることを禁止すべきで、それに従えないのならJAZAをWAZAから除名すると言ってきて、厳しい選択を迫られたJAZAはその要求に応えることとしたが、それでは、イルカの入手が困難となる水族館にとっては館の存続に係る問題である。引き続き追い込み漁で捕獲したイルカの購入を続けるらしい。

動物園はWAZAから除名されると、希少動物を手に入れることが困難となり、園の運営が立ち行かなくなるが、水族館は必ずしもそうではないらしい。


まえがき
第一章 最後のイルカ漁
イルカ追い込み漁のメッカ伊豆半島/共同操業と資源枯渇の始まり/イルカの屠殺現場が明るみに
第二章 太地町立「くじらの博物館」物語
古式捕鯨発祥の地/江戸時代から盛んだったゴンドウ漁/短かった終戦直後のゴンドウ景気/南極海捕鯨から観光立町へ/新生太地町の象徴「くじらの博物館」/クジラ・イルカ捕獲作戦始動/追い込み失敗で広がる無力感
第三章 太地追い込み漁成立秘話
生け捕り成功、活気づく太地町/イルカ捕獲の試行錯誤/バンドウイルカの大量捕獲に成功/漁船のFRP化と追い込み漁の完成/生け捕り目的で始まったバンドウの追い込み
第四章 価値観の衝突
豊漁と表裏一体のイルカ食害/イルカ駆除成功で巻き起こる国際的な批判/ハワイからやってきた活動家/イルカ漁論争の原点/活動家、その短い生涯
第五章 スター誕生
イルカ・スタントショー発祥の地/マイアミ海洋水族館とリック・オバリー/アルビノ・イルカを捕まえろ/フリッパー登場/イルカ・トレーナーからイルカ活動家へ
第六章 乱獲と生体ビジネスの始まり、包囲網の形成
英作家C・W・ニコルの戦慄/リック・オバリー、イルカ漁を目撃/水銀問題と謎の撮影クルー/太地町を変えたドキュメンタリー映画
第七章 イルカと水族館
生体販売ビジネスに手を染めた太地町/エルザの会、JAZAに要望書を提出/名物園長イルカ問題を語る/鴨川シーワールド館長JAZA会長に就任/二〇一四年八月、世界協会と合意へ
第八章 幕間劇「くじらの博物館訴訟事件」
リック・オバリーは語る/身勝手な言い分
第九章 夏は終わりぬ
二〇一四年ジャパン・ドルフィンデー/記録的不漁だった二〇一四・二〇一五年漁期
終章 イルカと人間の現在
イルカと牛豚、屠殺方法の違い/動物福祉的価値観とイルカ漁/イルカ飼育は虐待か/命の値段
あとがきに代えて
こう書いてくると、私はイルカ漁に反対なのかというと、情けないことに、そう言い切れるわけではない。
そもそも、イルカを獲ってはいけない理由というのが全くわからない。
確かに、見た目の残酷さというのはあるにしても、動物というのは所詮、他の生き物の命を頂いているわけで、「いただきます」という気持ちとともに食べることが悪いとは思えない。
本書の「あとがきに代えて」では、太地町漁協の人の発言として、

「まあ情けない。ぼくらもあの映像見たらね、わあこんなことやっとんたんかって反省しています。本当に反省しています。」

という言葉も紹介されている。

一方で、シーシェパードなどの行動は常軌を逸しているように思い、彼らに屈服することはテロに屈するのと同じだという気持ちもある。
しかし、イルカ漁を正当化する理由として、日本の伝統を持ち出すのは誤りであることは、疑えないようだ。

また、先年、Behind "THE COVE"という"THE COVE"を捏造と断じる反宣伝映画が制作され、それなりの話題になったが、この反宣伝への反論という、バッシング合戦も、あまり建設的ではないと思う。

さて、この本の「まえがき」に著者はこう書いている。

日本で、そして和歌山県太地町で行われているイルカ漁を考えるうえで、議論のための新しい土台が築けたのでないかと、私はいま感じている。


著者もイルカ漁について、否定も肯定もせずに、出来る限り事実を追いかけようとしている。そして、

ヘイトスピーチは撲滅しなければならないのと同じように、イルカ漁反対運動に内在するテロリズム的要素についても、私たちは断固として反対し、戦わなければならない。
 だが、傲慢不遜な彼らに対する反発から、私たちのなかからイルカ漁について虚心坦懐に考えようとする気運がうしなわれてしまったこともまた事実である。私たち日本人は、太地町で行われているイルカ漁について真剣に考えてみることなく、反イルカ漁運動に対する反発心から「イルカ漁は日本の文化なのだ」などと安直な主張を繰り返しているに過ぎないのではないか。

とする。

hatari21.jpg 陸上動物でも、野生動物を捕まえて動物園に売るということが、何の疑問もなく行われていた時代もそう昔のことではない。
中学校のときに観たジョン・ウェイン主演の「ハタリ」(1962年)という映画は、そういう時代のそういうハンターを描いていた。と同時に、動物への愛情も(人間の男女間の恋愛も)、描いていた。

ヘンリー・マンシーニ「子象の行進(Baby Elephant Walk)」はこの映画の挿入曲である。

そういう時代は遥か遠くなったようだ。

私欲じゃなければ良いのか

f21d2ef1dc86225a02bf959c84c62230.png 森友学園の籠池理事長は「真に日本国のためになる子どもを育てたい」とお国のために頑張っている、それが理解されないことに恨み言を言い、裏切られた思いと、堂々と証言している。

昔、会社ぐるみの不正に対して、それに協力していた社員や役員が、(私利私欲ではなく)会社のためにやったことと、反省の姿勢は見せながらも、自分の行為を正当化していたことがある。

これへの対応だと思うけれど、内部告発を行う労働者を保護する「公益通報者保護法」が2006年に施行されている。


やったことは違法だったかもしれないが、私利私欲ではないということで、同情する声も出ることがあるようだ。
しかし、私利私欲じゃなかったら、許されるとか同情の余地があるとかなるのだろうか。

籠池理事長は、維新の会の立ち上げの時に「ずいぶん支援した」という。
政治献金は、する側も、される側も私利私欲ではない、崇高な理想のためにしている、というタテマエだと思う。

細かいことから言うと、もし私費を投じて政治活動に邁進している政治家がいたとして、その政治家に政治献金をしたら、その政治家は私費を自分のために使えるようになる。私利じゃないか。

一般に、使途を限定して寄付をしても、それ以前にその使途で使われていたお金を他へ回すことができるだけで、使途を特定せずに寄付をするのと、そう変わらない(もちろん額によるけれど)。

支援してくれた人を大事にする、それは朴槿恵前大統領と崔順実氏の関係を考えれば、すぐわかることだ。

ある政党が税金のばらまき施策を提案したとする。それは国の政策として行われるわけで、その政党(の政治家)の私利私欲ではない。けれども、選挙のときには、そのばらまきが「我が党の提案で実現した」と宣伝するわけで、やはり党利を追求したことになるのではないか。

それも、他人(国民)の財布(税金)に手を突っ込んだに過ぎないのに。


そんなこと言ってたら政治なんてできない、どんな政策でも、それで得をする人、損をする人がいるという反論があるだろう。
その反論を認めよう、ほら、私利私欲でなかったら良いということにはならないでしょ、と。
そもそも、政治とは利害が対立する集団間の調整技術である、そうでしょう。

f_review_bob_dvd02_hair.jpg
やっぱりクレオパトラはリズだよな
もっとも、私は私利私欲などは実はたいしたことではないと思っている。
ほとんど誰もが、ユリウス・カエサルは偉大だったと認めるだろう。
彼は私利私欲とは全く無縁だったと思う。
資産を持ったとしても、政治的手段として使っただろう。クレオパトラに貢いだとしても単純な欲望からではなくて、性事じゃなくて政治のため(このあたりがアントニウスとはちがう)。
自分の財産などには拘泥しないし、借金は山ほどあっても気にしない、という人物のように思う。
つまり、私利私欲がないのではなく、私利私欲を超越しているのだろう。

政治家の評価は、私利私欲が有るとか無いとかではなくて、施策が(多くの)国民にとってどうなのかということでなされなければならないと思う。

立派な政治家なら、私利私欲で判断が曇らない程度の報酬を与えれば良いだろう。
そうじゃない政治家には、私利私欲を満足させられる程度の口止め料を与えれば良いだろう。


教育勅語

教育ニ関スル勅語」、いわゆる教育勅語を学校で教えようとか言っているらしい。

このことが話題になったのと、タイミングを合わせるように森友学園の幼稚園で教育勅語を子供に暗唱させているという話があったけれど、聞かれたから答えたということなんだろうか。


AS20170401000332_comms.jpg 実は、私は中学ぐらいの頃に教育勅語を憶えていた。別に教えられたわけではない。社会科の資料集かなにかに収録されていて、単純に面白がって憶えた。

「面白がって」というのは不敬かもしれないが、子供の受け止め方というのは、そうした無邪気で無批判なものではないだろうか。

教育勅語を教えようという人は、内容は良いことが書いてあると言い、こうしたことがきちんと教えられれば、道徳的な人に育ち、イジメなんて起きなくなるんだと言ってるらしい。

でもね、だ。
教育勅語は1890年に発布され、戦前教育の最高規範とされ、徹底的に教え込まれた。
そうやって教育勅語を憶えさせられていたはずなのに、最も陛下のお心に従うべき軍隊に入ったら、いじめが横行していたという。イジメ防止効果は疑わしいようだ。

というか、教育勅語を憶えられない子供がイジメの対象にされるんでは。


私も、書かれている内容は普通に徳目として大事なことが書かれていて、酷いものとは思わないけれど、同様のことはいろいろな形で教えられている。もし、とりたてて教育勅語が国民精神の涵養に効果があるとするなら、それは勅語、つまり天皇の言葉として畏敬する、天皇の神格化という前提があってのことだろう。親や教師の言うことはきかなくても、天皇の言うことはきく、そういう子供でなければ。

やっぱり天皇主権の国にしなければ成り立つ話じゃないですな。
というか、教育勅語で軍国教育を進めた軍幹部が、一番、天皇を軽視する行動をしていたようだけれど。


ところで、こういう話を聞いて、これからは国民と言わず、臣民と言わなければならなくなるのかと早とちりした。教育勅語中では、国民じゃなくて臣民を使っているから。
しかし、戦前も国民という言葉はある。「国民精神総動員」というように使う。

2017-04-07_124835.jpg 前の戦争の教訓は、敗ける戦争を繰り返さないためには、精神論とか情緒論とかでなくて、科学的精神、合理的精神を養わなければならないということ。
竹槍ではB29に対抗できないことを理解することではないのだろうか。
前と同じことをしても今度は勝てると言う人が愛国者なのか、前と同じことをしたらまた負けると考える人が愛国者なのか。

そんなことはわかってると言うのかもしれない。
ただし、わかっているのは指導者だけで十分、一般国民は教えられたとおりに突撃すれば良いのだ、ということかな。
その割には前の戦争では、教育勅語も戦陣訓も暗唱しているような指導者がみんな「お国のため」を免罪符に、卑劣で無責任な行動をしたようだけど。


自分勝手な愛国ですべてをいいくるめ、そうでない人を非国民と言う雰囲気が醸成されつつあるような気がする。
「逆コース」という言葉も既に死語扱い、同じことが「日本を取り戻す」正コースになってきたようだ。
次は戦陣訓を教えるようになるのだろう。

「生きて虜囚の辱めを受けず」なんて言ってたら中国には絶対勝てない。
中国と戦争になったとして、中国人の1割が投降してきたらどうするんだ。日本の人口と同じだけの中国人を日本で養わなければならなくなるんだぞ。


先制的自衛権

wor1704070040-p1.jpg 米国が、シリアが化学兵器を使用したと主張し、シリアに対してミサイル攻撃を行った。

シリアは、政府、反政府、ISの三つ巴の戦乱地域で、ここへ米国がミサイルを撃ち込んで、一体どうなることやら。
もちろん日本国政府は、米国の行為を断然支持している。

米国はトランプ大統領になってから、アメリカ・ファーストと言って、世界の警察官の役割りは小さくなるのかと思いきや、どうやら世界の警察長官はやめないで、下働きをあちこちの国にさせるつもりのように見える。
もちろん禁止されている化学兵器の使用は許されないし、米国の攻撃に喝采を送るシリアの人々もいるに違いない。子供たちが毒ガスに苦しむ姿を見て、こんなことをした輩を憎む気持ちは多くの人が共有すると思う。

ではあるけれど、今回のミサイル攻撃について、米国は自衛権の行使だと言っているそうだ。
自衛権」? 米国本土からはるかに離れたシリアの地で、自衛ってどういうことなんだろう。

思い出すのは、かつてのブッシュ・ドクトリン、ならず者相手なら、先制的自衛権、つまり、殴られる前に殴ることが認められるという理論。
先制的自衛権なるものが認められるかどうか、国際社会では意見が対立しているようだ。認める立場であっても、イラク攻撃の場合、その行使の理由となった大量破壊兵器は、ついに見つけられず、前提があやふやとなったけど。

_95008309_cf62329c-d244-4fd5-ba95-87d6e0bdb266.jpg 日本政府は、米国支持でわかるように、先制的自衛権を認める立場と考えられる。
さらに、先年、集団的自衛権も認めた上、米国を同盟国としているから、米国と同調した先制的自衛権の行使は論理的帰結と言える。

そして、日本の近くには、核兵器やミサイルを開発していて、しかも人道的にも問題があるとされる国がある。
米国まで到達するICBMの開発が進められているという。
現に、米国国務長官は、シリア攻撃はその国を含む諸国への警告だと言っている。

完璧に、日本も、米国も、先制的自衛権を主張できる状態である。
次に先制的自衛権が行使されるのは、その国に対して、そしてその先鋒となるのは日本国かな。
前述のように、日本国に、その行使を阻む法理論は存在しない。あとは「やる気」だけだ。

男女差合憲判決

もうひとつ釈然としない。

izokunenkin_danjosa.jpg 遺族年金の受給要件の男女差、つまり、男が死亡したとき配偶者女性は年齢に関係なく遺族年金を受けられるが、女が死亡したとき配偶者男性は55歳以上でなければ受給できない、という制度が合憲という最高裁の判断。

遺族年金が高齢者でなければ受け取れないという趣旨なら、裁判所がいうように女性の置かれた状況から、受給要件を緩和したという理屈もあるのかもしれないけれど、遺族年金ってそういう趣旨だったのだろうか。

判決理由について、いじわるな読み方をしてみた。

夫が自分の死で妻が苦労すると心配するのは合理的だけれど、妻が自分の死で夫が苦労すると思うのは合理性がない。

とか、

多くの夫婦は夫のほうが年上で、平均余命から考えても、夫が先に死ぬから、残された妻が受給するという制度には、合理性がある。
つまり、標準的な夫婦と異なるなら、異なっているやつが悪い。そんなことを法は想定していない。


遺族年金の男女差「合憲」 最高裁が初判断
賃金格差踏まえ


 労災で配偶者を亡くした場合の遺族補償年金をめぐり、夫だけは55歳以上でないと受給できない規定が憲法違反がどうかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁第3小法廷(山崎敏充裁判長)は21日、規定は合憲とする初判断を示した。「男女の賃金格差などを踏まえれば、(妻に手厚い)規定に合理性がある」と指摘した。
 合憲かどうかが争われたのは、1967年施行の地方公務員災害補償法の規定。妻は年齢を問わずに受け取れるため、妻を亡くした原告の堺市の男性(70)が、法の下の平等を定めた憲法に反するとして提訴した。
 同小法廷は判決理由で、男女間の労働人口の違いや平均賃金の格差、雇用形態の違いを挙げ、「妻の置かれている社会的状況に鑑みれば、妻に年齢の受給要件を定めない規定は合理性を欠くものではない」と判断した。裁判官5人の全員一致。男性の敗訴が確定した。
 民間や国家公務員の労災の遺族補償にも同様の年齢制限がある。
 2013年11月の一審・大阪地裁判決は「現在の一般的な家庭のモデルは共働き世帯で、配偶者の性別による差別的な扱いには合理性がない」とし、地方公務員災害補償基金(東京)による不支給の決定を取り消した。
 15年6月の二審・大阪高裁判決は男女間の賃金格差を理由に「夫を亡くした妻の方が、独力で生計を維持できなくなる可能性が高い」と指摘。規定は不合理な差別ではないとした。逆転敗訴した男性が上告していた。
 一、二審判決などによると、1998年、市立中学の教員だった妻(当時51)が自殺。男性は遺族補償年金の支給を申請したが、妻の死亡時点で男性が51歳だったため、受給要件の55歳に達していないとして支給されなかった。
日経 2017/3/21 23:27
前にも似たようなことがあった。
定年後の再雇用である。

定年後の再雇用で、職務内容が全く以前と変わらないのに給与が著しく下がるのは不法だという訴えに対し、一審は原告勝訴、二審の高裁で逆転敗訴した事件。

この事件については、もし同一労働同一賃金原則を徹底したら、そもそも定年後再雇用という、近年、広く行われつつある労働慣行自体が崩れるおそれがあるという社会的影響を考慮して、苦しいけれどなんとか理屈をつけたのだろうと思った。
(ただ現状追認ばっかりしていて良いのかという疑問は残るけど)


しかし、今回の事案は、裁判所が言うように、原告のようなケースは少数派だというのなら、原告勝訴でも社会的な影響はそんなに大きくなく、実物である年金基金の支給総額が著増するとかいうことはないのじゃないだろうか。
それなら、ここはエエカッコして、違憲判決出しても良かったのでは。

それとも「男女の賃金格差などを踏まえれば、(妻に手厚い)規定に合理性がある」というのは、判決を出す上での理屈で、これが解消されていったら、こういうケースが増えて、年金財政に大きな影響を与えるかもしれない、と予測したのだろうか。


それにしても、問題の地方公務員災害補償法だけでなく、他の法律でも同様の規定があるという。
合憲判決を出すにしても、男女別規定に対して疑問を投げるぐらいの付帯意見があっても良いのでは。

アイヌと縄文─もうひとつの日本の歴史

ainu_to_joumon.jpg 瀬川拓郎「アイヌと縄文─もうひとつの日本の歴史」について。

日本は単一民族の国と言って、認識不足を咎められた政治家がいたように思う。
最近はどうだか知らないが、私が昔受けた学校教育では、アイヌのことはほんのわずかしか触れられなかったように記憶する。
学校教育でとりあげられるのは、中央政権と接触した「事件」、哀しいかな、コシャマインの戦いとかシャクシャインの戦いとか、戦争である。

もっとも、それはそれでしかたがないとも思う。
日本史を学ぶなら、日本とは接点のなかった世界がとりあげられないのは当然で、日本史という枠組みではなくて、人類史ということであれば、例えば古代ローマ史なんてのは日本とはおよそ接点がなくても、人類史を代表するような時代ということで興味深いわけだ。

それにアイヌには文字がない。ユカラは文字化されているけれど(知里幸恵「アイヌ神謡集」青空文庫にもある)、アイヌの歴史を語ってくれるわけではない。

と、言い訳ばかりしているが、「もうひとつの日本の歴史」については思い至ることもなくこの歳まで生きてきた。
この本を読んで、このすっぽり落ちている部分が、というか、その抜け落ちているということに気づかないでいた部分の存在に気づき、そして少し埋めてもらった。

第1章アイヌの原郷
―縄文時代
   アイヌと縄文文化
   アイヌと縄文人
   アイヌと縄文語
第2章流動化する世界
―続縄文時代(弥生・古墳時代)
   弥生文化の北上と揺れ動く社会
   古墳社会との交流
   オホーツク人の侵入と王権の介入
第3章商品化する世界
―擦文時代(奈良・平安時代)
   本州からの移民
   交易民としての成長
   同化されるオホーツク人
第4章グローバル化する世界
―ニブタニ時代(鎌倉時代以降)
   多様化するアイヌの世界
   チャシをめぐる日本と大陸
   ミイラと儒教
第5章アイヌの縄文思想
   なぜ中立地帯なのか?
   なぜ聖域で獣を解体するのか
本書は、アイヌを縄文人の正統な末裔とする。
縄文人は弥生人に包含されて居なくなったのではなくて、縄文ライフスタイルを選んだ人達が独自の歴史を築いてきたということが再構成される。

前述のように、アイヌには文字がないからアイヌ自身による歴史記述というのはないわけだけれど、伝承や考古学的資料、和人や大陸の側の記録などで、丁寧に説明される(史料が少ないから、著者の推測とことわっているものも多いけど)。
そしてその縄文的なものは、現代日本人にも引き継がれている。

関西人である私は、東日本は後進地域で、東京へ行くことは東下りと表現する。(負け惜しみか)
西国の方が早く文明化し、都は奈良・京都、不破関より東は文化果つるところで、貧しく、人口密度も低いという観念を持っていた。

しかし、鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」によると、なるほど都市としては平城京・平安京かもしれないが、地域として考えると、東北・関東の方が豊かで、人口支持力も高く、したがって人口密度も高かったらしい。

縄文時代といえば、縄文海進で知られるとおり、温暖な時期で、東北の縄文人が、何が不服で、鳥獣魚介に変えて米を喰わなきゃいけないのかという気もする。(気候が変わったのがライフスタイルの変更の一因というわけだが。)

そうした生活を基本に、弥生人に同化せずに、足りないものは弥生人との交易で手に入れるというのは、合理的で豊かな生き方だったろう。
そして、以前は、それぞれのライフスタイルは「それで宜し」とされていただろう。

ただし、文字がないというのはやっぱり損をしていると思ってしまうけど。


近代というものができて、それが圧倒的なパワーを持つようになると、相対主義はどこへやら、同じ土俵で競う公正な社会というものができて、その土俵で「勝てる」相手には容赦なく勝負を挑むようになったようだ。

新幹線が来る!?

hokuriku-shinkansen_matsuiyamate_route.jpg 北陸新幹線の敦賀―京都間のルートが、ようやく小浜ルートに落ち着いたと思ったら、京都と大阪の間は、南回りルートが浮上したとたん、あっという間に松井山手ルートで本決まりになったようだ。

前に珍之助さまのブログへのコメントで、南回りルートは同志社付近から西へ行くのかなとコメントしたけれど、そうではなくて、なんと、松井山手である。こちらの方が距離が短く、市街地も少ないので、速くかつ建設費も安いのだそうだ。

開通すると、京都まで7分とか、新大阪まで8分とのことだが、今は京都までバスで30分、新大阪までJR片町線-環状腺-東海道線で50分である。
再来年にはおおさか東線が放出-新大阪までつながるから少し早くなるだろうけど、そんなレベルではない、驚きの速さである。

開通は随分先のことだろうから、私はそうした便益を享ける前に死んでいるだろうけれど、これによって、不動産価格や都市インフラの整備がどうなるのかは今からでも気になるところである。

新幹線の軌道や駅というのは仕掛けが大きい。
重量のある車両が高速で運転されるのだから、在来線の設備とくらべてオーダーが異なるだろうというのは想像できる。 それが松井山手というローカルな街にふさわしいかどうかは微妙。現在の松井山手では新幹線を受け入れられる基盤は整っていないと思う。
北陸新幹線、南側ルートを満場一致で可決
 与党検討委  JR西も同意
 北陸新幹線で未決定の京都-新大阪間のルートについて、与党検討委員会は13日、JR片町線(学研都市線)の松井山手駅(京都府京田辺市)に接続する新駅をつくる「南側ルート」を採用することを、満場一致で可決した。京都府や北陸3県など沿線自治体のほか、運営主体となるJR西日本も同意した。ルートは、15日に開かれる与党整備新幹線建設推進プロジェクトチーム(PT)の会合で正式に決定する。
 JR西の来島達夫社長はこの日の検討委で、松井山手接続の南側ルートの費用対効果が投資に見合う「1」を超える「1・05」との試算が出たことを受け、受け入れを正式に表明。新駅設置については「コストはかかるが、それ以上の利用者増につながり、関西文化学術研究都市(けいはんな学研都市)から北陸への新たな流動につながる」と述べた。
 京都府の山田啓二知事は「ルートは学研都市の発展につながる形にしてほしい」と要望。松井山手から学研都市内にある終点の木津駅までの区間が単線となっているため、複線化と運行本数の増加を求めた。複線化を含む費用負担について山田知事は「京都府は受ける便益に応じて、負担するべきだ」と述べた。具体的な負担額については、検討委では議論を持ち越した。
 京都府によると、松井山手駅周辺は人口増が続いており、現在半径5キロ圏内に約33万人が居住。新駅設置で京都までが50分から7分に、新大阪までが50分から8分に短縮される。
産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/170313/wst1703130062-n1.html
だから、これから新幹線開業に向けて、街のスケールが変わるような開発が進むことになるだろう。

JR片町線松井山手駅は、平成元年の開業。京阪電車が開発した住宅地(京阪東ローズタウン)で、松井山手駅の建設費は京阪電車が負担したとか聞いたことがある。掘り込まれた小さな駅である。はじめて訪れた人はどこに駅があるかわからないと言う。

道路の方は、鉄道よりも大規模な整備が行われてきた。
既に第二京阪道路が全線開通して、久御山JCTで名神、京滋バイパス、さらに阪神高速(京都線)に接続しているが、第二京阪が、八幡で新名神とつながる。既に八幡と城陽の間の工事は始まっているが、これは第二京阪と京奈和道路を接続するらしい。

そしてこのおかげで、松井山手から京都へは第二京阪経由の「直Qバス」で30分弱、500円が運行されているし、高速京田辺からは関空へのリムジンも出ている。

直Qバスは、運行前にニーズ調査があった。1コイン、30分なら使うと回答した覚えがある。それまでは京田辺まで出て、新田辺から近鉄というルートだった。
この頃は、朝の出勤時にはこのバスに大勢並んでいる。同一時刻に2台で捌いている様子である。


というわけで、交通の結節点として俄然注目されていると思う。
今回、北陸新幹線京都-大阪が、松井山手経由であっさり決まったのは、この地域イメージがあるからだろう。

shinmeishin-highway.jpg

もっとも地元住民としては、今度、スーパー銭湯ができて、その上にホテルも開業するというような話のほうが身近である。
コストコ、ホームセンタームサシをはじめとする大規模店舗が次々に開業して(いずれも八幡市側、京田辺市側はほとんど商業用途のものはない)、生活道路(山手幹線)の混雑のほうがずっと気になるところ。
引っ越した当初は、車の数も少なかったのに、今ではたびたび渋滞し、直Qバスの運転手が「今日はコストコ渋滞が予想されます」と車内アナウンスするぐらいになった。

今、周辺では複数のけっこうな規模の宅地開発が進められている。
こうやって街になっていくんだろうな。

我が家は、駅まで直線距離で約500m弱。新幹線の騒音ってどんなものだろう。
まさか新幹線が傍を通るなんて、思ってもみなかった。

国民を無理矢理連帯保証人

福島原発賠償費、電気代での負担額は
 1世帯あたり試算
 東京電力福島第一原発事故の損害賠償費用は、原発を持つ東電以外の電力会社も一部を負担している。家庭の電気料金でまかなっている7社について、朝日新聞が取材を元に国の家計調査を当てはめて試算したところ、1世帯(2人以上)あたり年約587~1484円を負担している概算となった。家庭の負担額は料金内訳が書かれた検針票には示されておらず、利用者の目には届かない。
 国の試算で、賠償費用は7・9兆円にのぼる。うち5・5兆円分について、東電の負担に加え、他の電力会社も「一般負担金」として、原発の出力などに応じて負担している。
 7社は東京、北海道、東北、中部、関西、四国、九州の各電力。朝日新聞の試算では、家庭向けの電気料金で回収している一般負担金は1キロワット時で約0・11~0・26円だった。
 関電と中部電が取材に対し、家庭向けの1キロワット時の概算を出していることを明らかにした。この方法を元に朝日新聞が他社分も試算。全社がこの試算の考え方に誤りがないことを認めている。
朝日新聞デジタル 2/27(月) 0:30配信
genpatsu_futan_sisan.jpg 明日で東日本大震災から6年。

復興事業がどの程度進捗しているのか、はずかしながら、詳しいことは知らない。けれど、報道されるたびに情けない気持ちになるのは、やはり福島原発。
「失われた自然は元に戻らない」とはよく言われてきたことだけれど、汚染された大地もやはり元に戻らないのか。

学校での「原発いじめ」、しかもそれを教師がむしろ助長するなどという、とんでもないことも起こっている。
そのいじめのネタとして、原発賠償金のこともあるらしい。
被災してきた人に対して、賠償金をもらっているだろうと金品をゆすりとったのなどと伝えられている。

この問題では、廃炉費用、賠償費用など、多額の費用がかかる。
この経費を、電気を使う国民がみんなで負担しようということになるらしい。

現に原発事故で苦しんでいる人がいるから、それを国民みんなで支えようということは、そんなに理不尽なことではない。
国民は、(誤った情報に基づく判断だったかもしれないが)原発を容認し、放射性廃棄物処理費用や将来の廃炉費用などを過小にし、その分、安い電気代という利益を享受してきたのだから、その借りを返すべきなのかもしれない。

「オレは原発にはずっと反対だった」という人もいるだろう。
しかし、あなたが反対していたからといって、民主的に決定された国策である以上、国民としては負担するのがスジなのではないだろうか。

ニコール・キッドマンが、国民が選んだのだからトランプ大統領を応援しようと言って、さんざん批判されたと伝えられているけれど、スジとしては彼女の言うことは正しいと思う。
私はニコールの味方です、下僕です、崇拝者です、お傍に仕えさせてください。


たしかに、誤った情報に基づく判断、というか国民をミスリードした政治家の責任は重いと思う。
彼らは他人の金を思うように使える立場だ。その責任は果たすべきだと思う。
だけど、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」と憲法が定めている。
結局、責任をとるのは国民一人一人ということになるようだ。(ここだけは、改憲論者も改正するつもりはないらしい。)

今日のタイトル「国民を無理矢理連帯保証人」というのは、何年か前に話題になった川柳である。
そして契約当事者は、債務を弁済する意思はない。

日本の税金:新版

昨日の記事では、e-Taxできちんと確定申告を行い、不足額を追加納付することを書いた。

税金をきちんと払うのは、揶揄で言うのではない、国民の義務である。

今日は、税金についての本の書評、確定申告をするちょっと前に読んだ三木義一「日本の税金:新版」について。

この本の序章は「私たちは誰のために税を負担するのだろう?」というタイトルが付いているのだけれど、まずはじめに、「税法は法律の中でももっとも難しいものの一つで、弁護士もほとんど知らない。その難しい法律の内容を正確に理解して、様々な項目の計算をした上で初めて税額が出てくる」と前置きして、こんな一節がある。
間違えて税額を少なく申告すると加算税という制裁が課される。有利な制度があることを知らないために税額を高く計算して申告したら、税法を知らなかったお前のミスだから救済はしないと言われる。計算に誤りがあった場合には、申告期限から一年以内に限って減額してくれる。しかし、一年以上過ぎてからわかった場合はダメだ。ところが、税務署には五年間も減額する権限はある。そこで、税務署に「嘆願書」を出して、嘆願すれば、助けてやらないわけでもない、と言われる。まるで江戸時代の農民がお代官様に嘆願しているようだ。
nihon_no_zeikin_sin.jpg まぁ、国民は踏んだり蹴ったりの眼に合わされるというように書いてあるのだけれど、これに続けて、国民主権の時代であり、税制の枠組みもまた国民が(代表を通じてだが)決めるようになっていると続ける。
もちろんそんな実感はない。やっぱり税金は盗られるものというのが普通の感覚。

知り合いの役人がこんなことを言っていた:

税法には目的は書かれていない。


普通、法律には制定趣旨や目的が最初に書かれている。ある本に書かれていたことだけれど、具体的な法適用について解釈に困ったときは、趣旨・目的に沿って考えるべきだという。税法にはそれがない。

もちろん法案が出るときには目的があるのだろうけど、条文には書かれないという意味。
また、目的を書くと目的税と誤解され、使途が限定されるおそれがあるのかもしれない。しかし、何に使うかではなく、課税の論理として考えれば良いのではないだろうか。福祉目的税を作ったとしても、一般財源からその分が減額されるだけの玉突きになるのが関の山なわけだし。


本書でも例として取り上げられているが、印紙税というのがある。契約書などに貼るあの証紙である。
これを貼らなければ脱税となって処罰の対象になるけれど、貼らなかったからといって契約が無効になるというようなことはない。貼ってもなんのご利益もない。
一体、印紙って何のためにあるの?
答えは、税金をとるためである。

序 章私たちは誰のために税を負担するのだろう?
第1章所得税-給与所得が中心だが給与所得者は無関心
第2章法人税-選挙権がないので課税しやすい?
第3章消費税-市民の錯覚が支えてきた?
第4章相続税-自分の財産までなくなる?
第5章間接税等-税が高いから物価も高い?
第6章地方税-財政自主権は確立できたのか?
第7章国際課税-国境から税が逃げていく
終 章税金問題こそ政治
それはさておき、本書は大変良い本である。
国民が自分の権利と義務を考える上で、税金というフィールドで考えることが、もっともわかりやすいと思う。そのことが各税の枠組みが具体例を交えて説明されている。

たとえば、一部の金持ちや貧乏人でも税法を誤解している人の批判の的になる累進課税でも、所得の再分配効果が期待されているわけで、批判するならその効果を吟味しなければならない。

思うに、富というのは「マタイ効果」があって、同じだけの努力をしたとしても、生まれや運で少しの差がついたときに、富の蓄積は増幅されてしまうものである。そしてそのことが固定化すれば、国民の間に不公平感が蓄積し、結局は安定を欠いた格差社会になってしまう。つまり、課税の理屈も、その効果も、誰もが納得できるものだろう。

一方で、印紙税がそうじゃないかと思うのだけれど、税をとることを目的としたんじゃないかという税もあるようだけど。

税を盗られるものと考えていては、正しい税のありかたを考える主権者にはなりえない。

だから源泉徴収で税について考えないようにしているという見方もあるようだけれど。


以前、ある市の市長さんが、障碍者の方から、(今までいろんな優遇を受けてきたけれど)、ようやく税金を納めることができるようになったと嬉しそうに報告していただいた、という趣旨のことをしゃべっていたことを思い出す。

ところで、今まで意識してなかったけれど、地方税の税率は自治体によって違う。地方税法が定めるのは標準税率で、各自治体はその1.5倍までは独自の税率を定めることができる。
軽自動車税については、実際、標準税率の1.5倍(上限いっぱい)の自治体があるらしい。

で、思ったのだけれど、税率を安くして、他自治体住民の軽自動車の登録を引き寄せれば、トータルで増収になるんではないだろうか。
タックス・ヘイブンというか、リベリア船籍の船というか。ふるさと納税が、変な歪みを起していると批判されているから、それに代えてどうだろう(宣伝したら絶対批判されると思うけど)。

人間・始皇帝

tsuruma_ningen-shikoutei.jpg 鶴間和幸「人間・始皇帝」について。

始皇帝にかかる伝説の多くは司馬遷の「史記」による。
いうまでもなく「史記」が書かれたのは、始皇帝の時代から150年も後のことで、同時代資料とは言えない。
近年、古代の遺物(出土資料)の発見により、「史記」の記述に反するものが揃ってきた。
本書は、それら出土資料から、秦始皇にかかる数々の伝説を書き換える。

私(というか多くの人)は、始皇帝の諱は「」と習ったと思う。
本書では、まずこれが正される。諱は「」であったと。
当時の竹簡などの直接証拠がある。
傍証もある。「正月」を記述するとき、「正」の字を避けて「端月」としたという。
司馬遷の記述では、正月に生まれたから「政」と名付けたとされるが、そうではなくて、正月に生まれたから「正」と名付けられ、後に皇帝になったために「正月」の方が皇帝に遠慮したという話である。
また秦代には「政」の字はまだ使われておらず、「政事」は「正事」と表記されていたともいう。

他にもある。
始皇帝は、趙に質子として送られていた子楚の子ではなく、趙姫と呂不韋の子であるという話は広く言われる。呂不韋の妾の趙姫を気に入った子楚がもらいうけたが、そのときには既に始皇帝を身ごもっていたという話である。
しかし、子楚のもとに行ってから、始皇帝が生まれるまで12ヶ月あり、潤色する理由もないことから、やはり始皇帝は子楚の子と考えるのが適当だという。

第1章趙正出生―生誕の秘密(一歳)
第2章秦王即位―帝王誕生の背景(一三歳)
第3章嫪毐の乱―彗星は語る(二二歳)
第4章暗殺未遂―刺客の人物像(三三歳)
第5章皇帝巡行―「統一」の実像(三九歳)
第6章中華の夢―長城と焚書坑儒(四七歳)
第7章帝王の死―遺言の真相(五〇歳)
第8章帝国の終焉―永遠の始皇帝
嫪毐事件も別の分析がされる。
この事件は、宦官を装って後宮に入った嫪毐が、淫乱な母親趙姫を巨根で喜ばせてたところ、それが発覚して、誅罰されるまえに叛乱を起したというものとされる。
ところが著者は、秦の時代、夫を失った女が別の男と関係を持つことを不倫とはとらえていなかったという時代であり、むしろ母を一旦は罰するが、母に対する不孝であるとして、咸陽宮に戻すということをとりあげる。
また、呂不韋が年老いて趙姫を満足させることができずにに嫪毐を後宮に送りこんだとされるが、呂不韋と趙姫の関係も嫪毐事件で暴露されているはずなのに、呂不韋は事件後、丞相の地位は失うが、爵位・領地は二年後までそのままであったという。

おやおやと思ったのは「五十歩百歩」のこと。
「戦場で五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を臆病者だと嘲笑したら、どう思うか」と問う孟子にたいし、梁の恵王が「逃げ出したことには変わりないのだから同じだ」という良く知られた話。
ところが、秦の軍律では、逃げた歩数によって、処罰に軽重がつけられていたのだそうだ。
結局、梁(後の魏)は秦に滅ぼされる。

教訓: 五十歩百歩を曖昧にするものは、軍規を緩ませ滅びに至る。


本書ではさらに、刺客荊軻の事件や、遺詔のことなど、今まで信じられてきたことの多くに疑問がなげかけられる。

去年、NHKで放送されたザ・ヤング始皇帝 少年が乗り越えた3つの試練」(歴史秘話ヒストリア)は、「史記」の記述にもとづいて制作されていた。

この番組は、結構、新発見を採りいれる番組だと思っていたが、これは違った。
番組ホームページには、参考文献に、本書もあげられているのだけれど。
兵馬俑展とリンクした番組だったようで、歴史批判の方には眼が向かなかったのかもしれない。


2000年も信じられてきたことが、新事実の発見でつぎつぎに書き換えられる。
なんともおもしろい時代に生まれたものだ。

○○元年1月1日は困難なのか

rokujiro_kaigenss.jpg 天皇の生前譲位は、今上陛下を対象とした特別法で決着しそうな情勢である。

譲位が認められなかったら、気に入らない天皇を排除するには死んでもらうしかない。
実際、古くは暗殺された天皇もいたわけだし、海外の例では、終身皇帝という時期が永かった古代ローマでは、他に方法はないということで、多くの皇帝が殺されている。生前譲位したのはディオクレティアヌスぐらいかな。


皇室典範に定めがないから云々と議論が続いてきたけれど、一般に、定めがないということは、できないということを意味しないのが普通ではないだろうか。
陛下のご意向で、皇室典範を改正するとなると、天皇は政治に関わらないという憲法の趣旨に反するとか、難しい話もあるようだ。国会を信頼しているわけではないけれど、そもそも天皇は時の権力者によって、誰がいつ即位するかが左右されてきた歴史が圧倒的に長いわけで、国権の最高機関というところが手続きするのは、歴史的にも自然なんだろう。
いずれにせよ、皇室典範は、国民の権利義務とは関係ないし、陛下の意向があったにせよ、決めるのは国会というタテマエからすれば、高齢となったので引退しようというだけの話、わざわざ話を難しくしなくても良いようにも思うのだけれど。

そうして生前譲位が決着して、平成は30年で終わり、西暦2019年1月1日から新天皇ということになりそうだけれど、ここで宮内庁の次官という人から、元日は天皇が忙しいから、1月1日からの即位(践祚)・新元号はむずかしいと横やりが入った。

元号法
 (昭和五十四年六月十二日法律第四十三号)

1  元号は、政令で定める。
2  元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

   附 則
1  この法律は、公布の日から施行する。
2  昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

元号を改める政令
 (昭和六十四年一月七日政令第一号)

 内閣は、元号法 (昭和五十四年法律第四十三号)第一項 の規定に基づき、この政令を制定する。

 元号を平成に改める。

   附 則
 この政令は、公布の日の翌日から施行する。
しかし、思い返せば、昭和から平成への代替わり、崩御当日、践祚の儀式として、昭和64年1月7日 剣璽等承継の儀が行われている。そして平成元年は1月8日から始まった。
いくら想定していたとはいえ、この日を選んで崩御されたわけではなかろう、その慌ただしい中でも践祚礼は行われている。
正月の行事というと、ネットで調べると、四方拝というのと、歳旦祭というのがあるらしいが、践祚礼ができないほど忙しいのだろうか。

天皇が行う神事には、内の神事、表の神事、外の神事があって、この2つの祭儀だけではないのかもしれないから、宮内庁がいうようにもっと多忙なのかもしれないけれど。


私としては、宮内庁がどういおうが、国民にわかりやすく、事務的にも対応しやすいのは、1月1日に改元することだと思う。天皇が忙しいからというのでは、国民の混乱を避けたいという陛下の思いに応えていない(思いに答えたら憲法違反か)。
歴史的にも踰年改元(布告の年の末日までを旧元号とし、翌年の元日から新元号を用いる)が行われた例は多いという。昔から、民の暮らしに配慮されていたわけだ。

以前、昭和を続けるかどうかという議論もあり、やはり明治以来の「一世一元」を守ろうということで、元号法が制定された。生前譲位について法整備をするなら、元号法もセットでやれば良いだけだと思う。

改元をまず決めて、無理のない退位・践祚の日取りを選べば良いのではないだろうか。

吼える前に

C1DyXDsUQAABNOO.jpg いささか古い話になったけれど、今年の正月、
ベビーカー自粛要請で大騒ぎ」という報道があった。

東京板橋区の乗蓮寺が「ベビーカーご利用自粛のお願い」の看板を出したとツイートされ、それに対し、寺を非難する意見がネット上にあふれた、とりわけ、乙武氏のような有名人や、東京都議が寺を非難する意見をツイートしたり、ブログに載せたりした。
ところが、寺がなぜこの看板を出したかを取材すると、この寺はもともとは「ベビーカー優先」だったのだけれど、それを逆手にとって、ベビーカー1台に十数人が付いて全員が優先参拝したり、はては小学校5年生の子供を無理やりベビーカーに乗せて優先参拝をしたりと、やりたい放題の参拝者が現れ、とうとう、ベビーカーとの接触で怪我人が出るまでに至ったという。

件の都議は、それを知ると潔く謝罪していた。その態度は立派だと思うけれど、そもそも十分な状況把握をせずに、軽々しくブログに非難記事を載せたことは、やはり思慮不足、都議という政治的人間ならば、もう少し慎重さがあってしかるべきだっただろう。

こういう、一見、ケシカランことと見えることでも、よくよく事情を聴くとなるほどというものは結構ある。

前にも書いたような気がするけれど、街路樹の枝を切り落としている役所に対して、せっかく育って、夏の日差しを防ぎ、眼を楽しませているのに、酷い、そのうえ税金の無駄遣いだと抗議したところ、枝が張り出して信号機が見えなくなっているので、安全上必要なので剪定しているという説明を受けて、それなら当然と納得したという。
この例は、昔の話で、当事者に抗議して、理由を聞いて納得しているわけだけれど、この頃だと、こういうことをネットに流してフレームアップする輩がいるわけだ。

都市伝説かもしれないが、某ハンバーガーチェーンでは、出来上がってから一定の時間が経過したハンバーガーは廃棄にするという。これが本当なら、実に勿体ない話である。世界には飢餓に苦しむ人もいるのに。半額で良いから売ったら良いじゃないかと思うわけだが、もしそんなことをしたら、それを目当てに、ちょうど夕暮れのスーパーで値引き札が貼られるのを待つように、並ぶ人が出てきて収拾が付かなくなるだろう。(あるいは注文時に半額を前払いして、もし取りに来なかったら、他の人に半額で売るというようなルールを作るかな)。

かつて企業の社員採用で、指定校というのがあった。特定の大学を卒業したものしか入社試験を受けさせないというもので、あちこちから不公平と指弾されたものである。ただ、こういう制度にした理由というのはちゃんとあったそうだ。縁故採用をしない・断る言い訳に使っていたのだという。
企業側としては、指定校以外の優秀な人材を採用できない損失と、縁故で採用せざるを得ないできの悪い学生を採用する損失を天秤にかけたわけだ。指定校だけから採るつもりなら、みんな試験を受けさせて、指定校以外を不合格にしても良いわけだが、そうすると縁故採用の防波堤にはならない(縁故者を試験で落とすことは難しい)。だから「制度として」というガードを必要としたということである。
いわば「別件逮捕」のようなもので、類例としては、駐車場の「外車お断り」(暴力団排除が目的)とか、いろいろあるようだ。

こうした事例は探し出したらキリがない。
徒然草第十段には、

後徳大寺大臣の寝殿に鳶ゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心、さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にもいかなる故か侍りけん。

という話がある(高校の古文の教科書に載っていたので覚えている)。

そうかと思うと逆手にとった話もある。

茶店で買われている猫の餌用の皿が大変な値打ち物、これに気づいた目利きが、猫を売ってくれと言い商談成立。猫が使い慣れた皿も一緒にというと、主「いやこれは値打ちものの皿なので渡せません」。どうして値打ち物を猫の皿にしているのかと問えば、主「こうしておくと猫が売れますのや」(「猫の皿」)


現代に戻る。
携帯電話の解約は、店舗か電話受付になっている。店舗は客が多くて順番待ち、電話はなかなかつながらない。IT企業なんだから、Webで解約手続きを受け付けるぐらいお茶の子、そうしてくれたら顧客は便利だし、事務処理も効率化されて良いと思うのだけれど、これにもちゃんと事情がある。
簡単に手続きができると解約者が増えるおそれがある。来店や、電話をかけさせることで、まず解約者に心理的機制がかかり、なかなかつながらないことであきらめさせるように仕向け、いざ電話がつながれば解約は思い直すように説得する(応対マニュアルがあるらしい)。
どうだろう、そういう事情が解ってしまえば、面倒な手続きも納得できるのではないだろうか。できるかっ!

まぁ、瞬間湯沸かし器的に吼える前に、何か事情があるのだろうかと考えることが肝要だろう。
とくに権力のある人は。

デマクラシー(demagogue+-cracy)

img_08d2ef3a41ac950e70c8d05ac1fd8f14203665.jpg 昨日、トランプ氏の大統領就任式が行われた。

就任演説では、結束を掲げたけれど、ワシントンでは反トランプの人たちが暴徒化して、多くの逮捕者が出たと伝えられる。
「アメリカの製品を買い、アメリカ人を雇う」というときのアメリカ人に、WASP以外の人も含まれるのだろうか。

ある調査によると、支持率は40%、不支持率は52%だという。
これで大統領に選ばれるのだから、選挙制度に疑問を持つ人がいるというのも不思議ではない。

テニスで、1セットをタイブレークのすえ
6-7で落としたとする。
 獲ったゲームは、ラブゲーム(+4pt)
 失ったゲームは、最小得点差(-2pt)
とすると、セット計のポイント差は、
 4×6 + (-2)×7=10pt
10ポイント多くとってもセットを失う

5セットマッチを2-3で負けたとき、
 獲得セットは1ポイントも落とさず、
 失ったセットは前述のとおりとすると、
   24×2 + 10×3=78pt
78ポイント多く獲っても負けになる
米国は連邦制で州単位での意思表示という考え方が基調にあるという。
日本も小選挙区制をとっているから支持率が50%未満でも国会では過半数を持てる。

テニスでポイントを多く獲った方が負けることもある理屈である。


ただこれは選挙制度だけの問題ではない。

前に「多数決を疑う」という記事を書いた。

集団の合意形成の方法としての多数決を、集団のメンバーの意思を集計する函数(集計函数)の一種とし、その他の各種の可能な集計函数との比較や、集計函数に望まれる性質について書かれた本(社会的選択理論)についてである。


その記事にも書いたけれど、論理的・科学的に決定できる命題を多数決で真偽判定するのは間違っていると思うのだけれど、それだけではない。
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こんなところに多数決が出しゃばったら、昔の地球は平たくて、今の地球は丸くなったことになるし、
昔は魔女が多かったが、みんな退治したから今は居なくなったって話になる。


多数決などの集計函数では、通常、集団のメンバーは独立した個人であることが前提されているが、実際の社会では、個人の意思は周囲の意見に大きく左右される。

「多数決を疑う」では、独裁は1人のメンバーの意思のみを反映する集計函数として扱われているが、多数決の場合でも、メンバーの意思にバイアスがかかっていれば程度の差はあっても同様の状態になるだろう。
これは「見かけ上の多数決」と言うべきものではないだろうか。

ポピュリズムはエリート専制よりましといっている元O府知事・O府市長がいるけれど、ポピュリズムは大衆に迎合するだけではなくて、見かけ上の多数決を正当性の根拠とし、そしてその見かけ上の多数を創り出す政治手法だろう。
その意味では見かけが違ってもエリート専制もポピュリズムも実態は同じじゃないだろうか。
古代ローマの人も言った:「アテネは民主政をとることで、ペリクレスの独裁が強力に行われている。」


demonstration_march.jpg 大塚久雄氏が何かで書いていた話だが、デモ行進の群衆の中の個人は、自分では動く方向を決められないが、その行進の推進力になっている。
これは経済活動のたとえだと思うけれど、集団の意思と力というものも同じじゃないだろうか。

さらに進むと、集団極性化(group polarization)という現象も起こる。いわゆる群集心理。
また、パニック状態では、デマ情報で群衆がより危険な方向へ誘導されることがあるという。
魔女狩りが起こる!

デモクラシー(democracy)ならぬデマクラシー(demagogue+-cracy)に陥らなければ良いと思う。

チェンジ、オバマ

今日1月20日(日本時間では明日)、米国大統領就任式が行われる。

反対デモも計画されているとかで、ものものしい警備がしかれるようだ。

"Change"、"Yes, we can"で迎えられたオバマ氏も、"Change, Obama!"と退場を命じられた。

トランプといえば、ジョーカーが連想されるけれど、これはジョークではない。

"Make America great again"というけれど、
"Make America threat again"となっちゃうのか。
世界の警察官はやらないというが、すでに脅威にはなっている。

自分の主張と異なる相手は恫喝。
米国大企業は唯々諾々のようだが、トヨタはタイミングが悪かったみたい。

その一方で中小企業やプア・ホワイトの人気はかなり高いらしい。
今のところ主張は一貫しているようだ。個々の問題に対して、うまく気を惹く言葉が受けていると思う。

しかし政策に一貫性、あるいはバランスというものがあるのか、それはわからない。

とりあえずトランプ景気とやらで、アメリカは景気が良いという。その余得がこちらにもきてくれるうちはいいけれど。
所詮、裏付けがあって、実物経済が良くて、というわけではない。

はじめは良いけれど、そのうち風向きが変わることになるのではと心配である。
日本でも、アベノミクスが景気をあげたのははじめのうちだけ。それも株価という指標以外にはこれといってなく、実感できるようなことはない。

ブレグジット・ショック、トランプ・ショック、まだまだショックが続くのでは。

今日は文章はどうでもよくて、久しぶりのモーフィングで遊ぶのが趣旨。


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豊洲市場、落としどころが見えなくなったかな

関西人としてはそれほど関心は強くない東京都豊洲市場問題。
だけども、前に、「豊洲市場、落としどころが見えてきたかな」なんていう記事を書いたから、フォローしておこう。

周知のとおり、先日公表された汚染調査結果で、落としどころが全く見えなくなってしまった
市場のホームページは、汚染が全体に広がっているわけではないなど、安全性を強調するような書き方がされていたけれど、これも書き換えられるのかな。

そういえば、以前、市場のホームページに、全体に盛り土をしているとあったのが、盛り土がされていない場所が発覚して、ホームページが調整中になったことがあった。


読売新聞に、汚染場所のマップがアップされていたので、再掲しておく。
img_741f7f2d54ff75c4510fa26ef372257f72028.jpg
fukushima_osen_img_3.jpg 見た通り、結構、広範囲に拡がっているようだ。
今までは、たまたま高濃度汚染の場所があったが、封じ込め可能という雰囲気だったように思う。

多くの場所でデータがとれたわけだから、汚染物質の濃度のコンターとか作って公表してくれないかな。

コンター図のイメージとして、福島の放射性物質汚染マップを掲げたけれど、ネットに適当なサンプルが見当たらなかっただけで、他意はまったくありません。


「進むも地獄、退くも地獄」という状況。
誰が地獄を作ったんだと、さぞかし市場の利用者や都民が恨んでいることだろう。

政党復活枠

PK2016112602100052_size0.jpg 年が明けると、多くの都道府県では予算の復活折衝がはじまるそうだ。

12月頃に財政担当の査定が行われ、財政担当が決めかねた事業(査定では予算を認めなかったもの)について、知事の判断を仰ぎ(復活折衝)、それを受けて、2月頃からはじまる議会へ提出する予算案が作成されるという手順だという。

当然、知事が復活するためには、相当する財源が用意されているはずで(でないと、既に担当査定でOKのものを削らないと収支がバランスしないが、それをするのは相当の剛腕の知事でないと難しいだろう)、いわばこの額が知事の裁量の範囲ということになるわけだ。


その復活折衝にあたって、東京都の予算編成では「政党復活枠」というのがあるのだそうだ。
200億円と伝えられているその枠は、政党の要望によって復活する分として、とりわけられているという。
小池都知事はこの枠を廃止するという。

都知事の説明では、全国道府県で同種のやりかたをしているところはないという。
本来、予算編成は知事の権限である。議会は知事が提出した予算案に修正を加えることはできるが、予算案として提出することはない。

某自治体では議会が認めなかった事業について、歳出予算を減額したことがある。歳出の減額であれば、歳入側は予備費に充当するなどして予算の体裁はとれるだろうけれど、歳出増だったら大変である。(というか、税収見積もりがあまいと指摘されて、歳入減額されても大変だろう)


予め議会用にとりおいたとしても、各政党の要望に応じて予算に組み入れるのは知事側が最終決定するだろうから、形式的には問題ないというのが議会側の意見のようだ。

この慣習がいつ頃からできたのか知らないけれど、おそらく知事と議会の関係を円滑にするためにできてきたものだろう。

議会:こんなことをしてもらいたい。
知事:議会用の枠の内でしたら要望にお応えできます。

(子:おもちゃ買ってぇ~
 親:おこづかいがあるでしょう)


americano_kinkenseiji.jpg というわけで、知事側は、議会の際限ない要求を抑える言い訳として利用し、議会側は、自分たちの要望によって実現した成果であると誇る。

米国には「イヤーマーク(ear mark)」という言葉があるそうだ(軽部 謙介「ドキュメント アメリカの金権政治」)。
議員の要望で実現した事業については、印(イヤーマーク)を付けておく。そうすると、議員が自分の要望がどう取り入れられたか確認でき、成果を誇ることができるのだという。

昔、聞いた話だけれど、ある自治体では事業担当者がなんとかして予算を付けてもらいたいときに、議員にネタを持ち込んで、議会質疑などで事業の推進を要望させ、それを根拠に財政担当に予算を付けるよう圧力をかけるやりかたがあるそうだ。

財政側は、予算編成権の侵害であると憤るのが普通。仮に要望が通って予算がついても、後年度でしっぺ返しをしたりするらしい。


ホントかウソか知らないが、交通量の多い幹線道路にたくさん歩道橋が設置されるのは、地元議員が子供の安全のためにと自治体に要望して、それが実現することが多いのだそうだ。歩道橋というのは目に見える成果としてわかりやすい。近隣住民は「○○先生の橋」と呼ぶのだとか。

歩道橋の設置はそう高額ではないのかもしれない。なぜなら、近くに信号のある交差点があれば、どこともつながらない単独の歩道橋が使われることはあまりなく、それに高い税金を投入することはしないだろうから。


議会制民主主義には、選挙以外にもいろいろコストがかかるものらしい。

議会: 議会軽視だ!
行政: いえ、議会経費です。
都民: こちとら江戸っ子でぇ、シとヒの区別はつかねぇや。


山田雄司「忍者の歴史」

yamada_ninjanorekishi.jpg 「真田丸」完結。
伝えられているように、「手柄とせよ」と首をさしだして討たれることもなく、しかし、晴れやかに、そして画面もホワイトアウトして、最期のシーンをうまく処理したと思う(ちょっと肩透かしをくった感じだけど)。

歳をきかれた佐助が「五十五歳です」と答えて、わ、歳とらんな(本人は腰が痛いとか言ってたが)というか、信繁より年上やないかと、不思議な連帯感を醸し出していた感じがする。

「真田丸」はそれぐらいにして、今日はネタに困ったときの「書評」。無理やり佐助を持ち出したが、とりあげるのは、山田雄司「忍者の歴史」

「忍者の実像」というわけだけれど、それは「第一章 戦国時代の忍び」の部分で概ね尽くされている。
「第二章 兵法から忍術へ」「第三章 忍術書の世界」あたりになると、忍者の実像というより、忍術というものがどのように書かれてきたのかが中心になり、「忍者の実像」というより、「忍術書の実像」という感じ。

もちろん、私は忍者について良く知っているわけではないのだけれど、そう思うのは、二章以下は、江戸時代に編纂された「忍術書」の内容紹介が中心になっていて、荒唐無稽と思えるようなことでも、それ自体に批判を加えずに紹介しているようだから。
忍者が活躍する場面がどれだけあったのか怪しい江戸時代にまとめられた「忍術書」というのは、奇書の類かもしれないし、本書でも偽書としているものもある。

著者は、決して「忍術書」を鵜呑みにして、これが忍術だというわけではない。超人的な忍者像は間違いで、基本的に諜報活動を行う専門家としてとらえ、当時の記録からも読み取れる、体力より知力が求められるという、誰が聴いても納得できる説明をしてくれる。
たとえば、忍者は手裏剣などの武器は持ち歩かない、何故なら、諜報が主活動だから、そうしたものを携行していれば、当然、怪しい奴となるからだと、本書は指摘する。その一方、火術(爆薬)などの扱いに習熟していなければならないという記述もある。

だとしたら、忍者というのは、やはりいろんなタイプがいて、一括りに考えてはいけないのかもしれない。

sanadamaru3355.jpg 「真田丸」に出てくる最高の「忍者」は、佐助でも、出浦昌相でもなく、なんといっても厨の爺さんであろう。おそらく、視聴者の96%以上(私も)が、許しがたい奴と憎んだに違いない。
徳川に通じたのは、個人的怨恨からだったにせよ、諜報活動はするわ、偽情報で攪乱するわ、最後は城に火までかける。そしてそれがすべて効果的で、戦の勝敗に直結したと描かれている。
まさに忍者として、最高の働きである。
しかも、この人は実在だったらしい。
 [⇒Wikipedia 大角与左衛門]
息の根を止めなかった信繁の手ぬるさが悔やまれる。
こいつ(与左衛門)がおらんかったら勝ってたかもしれんやん!

616HYN2RboL.jpg さて、問題は忍術の方。忍者の活動がどうあれ、子供の頃、少年マガジンなどで紹介されていたような忍術、それらは忍術書に根拠があったのだということはわかるんだけれど、平和ボケして、忍者が忍者らしい活躍をすることがほとんどなくなった時代、机上で考えた「忍術」なのではないだろうかと思う。

それでも、子供の心をおどらせるのは、超人的な術。
蟇に化けるとか、何メートルもジャンプするというような自然法則を無視した荒唐無稽は別として、鍛えられた体というのは本当らしい。テレビで、忍術家が関節をはずす様子を見たことがあるけれど、こういう荒技は、忍術書にも書かれているそうだ。

忍者の本当の姿、というような言説が、何を根拠にかたられるのか、そういう眼で読むと、この本は基礎知識としておさえておくのには、文献学的には良いのかもしれない。

しかし、普通の読者としては、文献学などはどうでもよくて、忍術書に書かれていることの、どれが本当で、どれは脚色あるいは虚構なのか、怪しげな忍術のほうをこそ、はっきりしてもらいたいと期待したいわけだ。

プレミアム・フライデー

20161212001-a.jpg 今日は金曜日、月末じゃないけれど。
そう、報道によると月末の金曜日に“プレミアム・フライデー”というのをやるんだそうだ。

「プレミアムフライデーの実施方針・ロゴマークが決定しました」(経済産業省)


毎月、月末の金曜日は午後3時に仕事を終えて、リフレッシュ(消費活動)に精を出しましょう、商店やアミューズメント施設は、それに合わせてイベントを行いましょうという、これは「呼びかけ」である。

実施は再来年2月からだという。
もちろん、そういう法律ができるとかではなくて、単に各企業に趣旨を理解して協力してくださいということらしい。

報道では、実施の障害になることとして、未だ時間年休という制度をもっていない企業があると指摘していた。

そもそも、時間年休制度というのは、有給休暇のうち、年間最大5日分(つまり5×8時間)を時間単位で与えることができるという制度。ただし、本来、有給休暇は労働者のリフレッシュが目的で1日単位が基本だから、労使協定で定めておく必要がある。
プレミアム・フライデーは午後3時からとのことだが、毎月実施なら 5×8/12=3時間20分、時間単位で3時間が限界ということからの逆算か。(私の今の職場は17:15が終業時刻だから、14:15から休むということになるのだろうか。)


ニュースへの反応としては、
  • その前に定時退社だろう
  • その分、他の日にしわ寄せがくるだけだ
  • 時給にプレミアムを付けてもらいたい
など。

こういう心配や希望はあるとして、プレミアム・フライデーの取り組み自体は悪いことではないと思う。
消費の刺激だけでなく、これに併せて、無駄な仕事を整理して、プレミアム・フライデーが実現できるように改革したら良いのではないか。
日本の生産性が先進国中最低レベルなのは、生産額が低いのではなくて、投入労働時間が長いからだと私は思っている。

プレミアム・フライデーとは関係ないけど、チームで仕事というスタイルが、チームの合意が得られるまで我慢比べの時間になったりしてないか。チームの責任として、一人一人が責任を回避する体質になっていないか。マネージャーが見るべきところはたくさんあると思う。


高校か大学のとき、テレビで、ドイツの航空会社のCMを見た覚えがある。週休4日だといってたように思う。
日本では未だ週休二日制にもなっていないときである。(私も就職したときはまだ日曜だけ休みで、土曜日半ドンの時代)

バートランド・ラッセルは、労働は一日の大半を考えずに済むというメリットがあると言った。どういう文脈で言ったのか、私は高校の英語の参考書でラッセルの論考の一部を取り出したものしか読んでいないから、氏の真意はわからない。単なる諧謔だったのかもしれないし、自ら目標を定めて考えることの難しさを強調するためだったのかもわからない。

プレミアム・フライデーです、好きなことをしてください、突然言われても困る人は多いかもしれない。

私はその頃には毎日が日曜日になってそうだ。困ったことだ。


大統領の弾劾

n-PARK-GEUN-HYE-large570.jpg 韓国の朴槿恵大統領に対する弾劾決議が韓国国会で可決された。

前に、「韓国の政治スキャンダル」では、そんなに大きな問題なのかなぁ、と書いた。自分の不明を恥じるしかない。

その後、このスキャンダルはどんどん大きくなって、まさに燎原の火の如し。

ある説では、北朝鮮の謀略が働いて騒ぎを大きくしているというような説もあった。
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週刊誌なども、さまざまな方向から、この事件をとりあげていた。
ある記事によると、そもそも韓国では、偉くなった人が、親戚・友人を優遇するのはアタリマエというか、それをしないと人間失格ぐらいに評価されてしまうのだとか。
だから歴代大統領がそろって退任後に、悲惨な末路を遂げたり、親族の悪事が追及されるのだという。

それにしても、この大統領をクビにしようという国民の怒りはどうだろう。
そしてこの怒りの先にあるものは。

大統領弾劾という結果は何も生産的なものはない。
ここからのビジョン、そんなものは何にもなさそうだ。
ただ、一つだけ確かなことがある。
外に敵をつくって、それを攻撃して怒りの矛先を変えることだ。

IR法案、ひょっとしてカジノ依存症?

casino_Las_vegas.jpg 統合リゾート(IR)法案が昨日衆議院を通過。
カジノの設置も可能にする、というかそれがあるので賛否が分かれる法案である。

私はカジノが悪だと思っているわけではないし、カジノが必要だと思っているわけでもない。
ただ国会審議がちょっと乱暴だと思っているだけだ。

論点に全く触れず、一方的にお経を唱えたり、俳句を披露したりする「質問」というのも審議時間のうちだというのだろうか。


それはともかく、反対者が一番心配しているのは、ギャンブル依存症が増えるということみたいで、というかこればかりが強調されている。
たしかに、ギャンブル依存症の悲惨な実態を伝える情報番組も見たことがあるし、若い頃住んでいたマンションの近所に競輪場があって、自治会長を拝命したときに、競輪ですった人が金を借りにくるような事件があったことを聞かされた。一方で、地元協力金なるものも自治会としていただいていた。

賭け事で莫大な借金を抱えたくせに、純愛だとか偉そうにいう奴の話もある(「戦争と平和」)。


だけれど、統合リゾートができたからといって、もちろん依存症は減りはしないだろうけど、法案でイメージされているような高級なカジノだったら、私のような貧乏人には縁はなさそうな気もする。

現金100万円以上持ってないと入れてもらえないとかだったら到底無理、10万円でもアブナイ。
時代劇でも良くある、貧乏人が賭場へ行ったら「金は持ってんのか、帰れ、帰れ」と叩き出されるシーンが。


le-joueur-blu-ray.jpg その貧乏人だから、かえって、若干の憧れはある。
ドストエフスキーに「賭博者」という小説がある。ジェラール・フィリップ主演の映画もテレビで放送されたことがある。
金持ちのお付きで華やかなカジノに来た青年が、賭け事にのめりこむ姿が生々しく描かれている。
007シリーズには、たびたびカジノのシーンがある。きれいな姐ちゃんがいっぱいいるんだ。


なけなしの金を注ぎ込むから悲惨さが際立つので、大金持ちがどれだけ損をしたってそう酷いことにはならないという感じもある。大金持ちとかは、何十億円もするヨットや別荘を賭けたりするんだそうだし。

以前、どこかの大会社の二代目ぼっちゃん社長とかがギャンブルで会社の金までつぎ込んだということがあって、従業員にも迷惑がかかってたら酷い話だけれど。


じゃあ賛成かといわれたら、それはそれで微妙。
単純にカジノ解禁であるなら、カジノ収益に高額の税をかけ、カジノ主催者が、ギャンブル依存症になりそうな人をきちんと指導する義務を負って、健全に運営されるのならアリかなとも思う。

ラスベガスなどでは、客の動きを監視し、イカサマ師のチェックはもちろん、負けがこんでいる人は賭場から引き離すなどもやっているという。返せない借金を背負わないようにして、ここですっからかんになったら、稼いでからまたおいでということなのかもしれない。身ぐるみ剥ぐことが目的なのではなく、「健全」に儲けを継続的に出せば良いのだから。


fc547aa1267421d5307e729bb42b1ede.jpg 気になるのは、シンガポールその他を引き合いにだして、カジノがないと国際的なリゾートが成り立たないという論の方。
もしリゾートを成り立たせるのにカジノの収益を使うと言うなら、収益はみんなリゾート内に落ちちゃうんではないだろうか。少しでも外部におこぼれがあるんだろうか。
この国の公共事業の様子では、むしろ逆にリゾートを成功させるために税金を投入しそうな気がしてくる。

先日のテレビ番組では、カジノは既に過当競争になっているという報道もあった。米国のアトランティック・シティはさびれてしまったという。

ちなみに米国ではネイティブの居留地にはカジノが開かれているところが多い。ネイティブの本来の経済活動はとっくにできなくなっているし、他の産業といってこれというものがない。てっとり早いのがカジノであるらしい。そしてこの許認可権限が政府に握られていて、この利権が地域支配のカードとなっている、そういう話も読んだことがある(軽部 謙介「ドキュメント アメリカの金権政治」 (岩波新書))。
こっちは「カジノ依存症」といっていい。


また、カジノは何と言っても、古来、犯罪の温床になっていたのは事実だろう。

賭場で莫大な借金を作って、借金のカタに娘を女郎にし、果ては金欲しさに強盗をはたらいて……、とか、
賭場の利権をめぐってヤクザが抗争を繰り広げる、そのとばっちりで罪もない庶民が殺される……

というわけで、健全な経営とはどのようなものであるべきか、リゾートとしてどれほど収益、特に一般国民にどれだけ還元されるのか、そうした面を審議するには、あまりにも短い時間だったのではないだろうか。

今の国会情勢からすれば、法案は通るだろうけれど、せめて健全なカジノ経営にかかる政令を工夫していただきたいものだ。
で、金持ちから巻き上げて、貧乏人に分配、そして景気が良くなる、なら、悪くはないのかもしれないけど。

全然話はかわるが、天皇陛下の生前譲位のことも、いずれ国会で議論されるらしい。
おいおい、国会なんかで決めて良いのか。

「ヌーハラ」って知ってる?

yd_kubota2_nuhara.jpg このところ、メディア不信について何度か書いたけれど、ときどきチェックするビジネス情報サイトに興味深い記事があったので紹介する。

「ヌーハラ報道」に、目くじらを立てる理由という記事。

「ヌーハラ」という言葉は初めて聞いたから、何のことだろうと思って読んでみた。
「ヌードル・ハラスメント」を縮めて「ヌーハラ」というのだそうだ。麺類を食べるときの音がうるさいということらしい。
落語では麺類をすする音は重要である。そばとうどんは微妙に演じ分ける(ラーメンをすする音というのは未だ聞いたことがないけれど)、というような奥深い日本文化が、外国人に理解されないことだろうかと思ったけれど、そういう話ではなかった。

この記事は、そもそも「ヌーハラ」などというものは、少なくとも社会問題としては存在しないとし、これを面白おかしくとりあげて拡散しているマス・メディアの姿勢を批判するものだ。
「ヌーハラ」などは笑い話で、いつしか終息するだろうけれど、この記事では、デマが人の生命を奪う罪深い事例が紹介されている。

米国あたりには、超常現象や怪しげな事件を専門に取り上げる「新聞」があると聞いたことがある。まともなアメリカ人は、その新聞全体を一種のジョークとして楽しむのだそうだが、この記事を取り上げて、米国の新聞でも報道されていますと、まことしやかに増幅する日本のメディアがあったりする。

大した問題でもないことを、さも重大なことのように取り上げたり、ネットの怪しげな風説を興味本位に取り上げる。
裏をとる取材も、科学的な追求もしない。

政府などの報道発表はそのまま転載する。
官僚の間では、「マスコミの脳は『小鳥の脳』だから、これくらいの情報を食わせておけばいい」と言われているそうだ。
官僚側はそれで良いかもしれないが、国民としては、これがさえずるから始末が悪い。

決定版 江戸散歩

2016-11-03_085202-crop.png 東京の人が大阪へ来て、展望台から街を見ると「何だこの街は、緑が全然ないじゃないか」と言うらしい。
ほっといてくれ、という気持ちもないわけではないけれど、実際そうなのだから困ったものだ。

たしかに東京タワー(未だスカイツリーに行ったことがない、建設中の姿は良く見たのだけれど)などの展望台から、都内を眺望すると、あちこちに緑地が散在している。
某テレビ局は敷地にある「毛利庭園」からたびたび中継画像を流している。

けれども、こういう姿は、別に東京人が偉いとか、政府や東京都がしっかりしているからだとは言えまい。すべては江戸幕府の遺産といって良い。
もし大阪が首都になっていたなら、こういう景色にはならなかったに違いない。
理由は簡単である。武士の街だったから。

山本博文「決定版 江戸散歩」は、その事情を具体的に教えてくれる。
KADOKAWAの電子書籍が割引販売されていたときに、何かないか見ていて、この著者なら間違いないだろうと思って買ったもの。

フォーマットがイメージだったので、テキストを自由に拡大(つまり文字サイズにあわせて改行改頁)できないので、スマホの画面で見るのは困難。PCか大画面のタブレットで読む。
もっともイメージ収録というのもしかたがない、とりあげられた各所の写真が数多く収録され、レイアウトされているのだから。


2016-11-03_085328-crop.png 歴史上のエピソードを紹介しながら、尾張屋版江戸切絵図と現在の地図を重ね、往時の様子と今の姿を、解説してくれる本で、江戸の観光ガイドになっている。
東京の公園というのは、その多くが、将軍家や大名の屋敷跡なのだそうだ。

地方にある名園の多くが大名庭園だったのと同じ。
日本三名園とされる金沢兼六園、岡山後楽園、水戸偕楽園、いずれもそう。家人の郷里の香川県には栗林公園、中津万象園がある。
地方に分散しているのと同じくらい、江戸に集結していたのかもしれない。

これらの大名屋敷は、庭園が公園になったり、公共施設になったり、中には民間宅地になったものもあるようだが、それだけのゆとりある空間を都心に保持していたから、ど真ん中に政府機関や公共施設が立地できた。
(やはり大阪や京都では近代日本の首都にはなれなかっただろう)
もっとも江戸の総面積の1/6に、半分の人口=50万人が住んでいた町人地の方にはゆとりがあったはずはないけれど。

それはともかく、オールコック「大君の都」では、

将軍の都は心を奪われるほど美しい。……
ヨーロッパには、江戸のように沢山の素晴らしい特質を備えている都はない。また、町のたたずまいと周囲の風景のこのような美しさを誇れる都もない。……

とある。
そのなれの果ての東京だけれど、そのゆとりがあったから今があり、そして、やはり、ところどころにはその面影が残っているというわけだ。

そして、この本で紹介される数々の名所のほとんどに行ったことがないことにも思い至った。

現役の頃は頻繁に東京に行ってたけれど、たいてい日帰り、とんぼ返りだった。
かといって、用事もないのに東京なんて行くかなぁ。


福岡市で陥没現場がまた沈下

2016-11-26_220118.png 先日、大きく陥没した福岡市の道路が、また沈下したと大々的に報道されていた。
この陥没事故は、わずか1週間で復旧したことが、海外では高く評価されているそうだ。そこが、また凹んだということである。

私は、なんといいかげんな復旧工事をしたのかと責めるつもりではない。
沈下したということを聴いてまず思ったのは、そりゃ沈下するだろうよ、よほど密なもので隙間なく埋め、完璧に均一に整地しないかぎり、沈下するのは当然だろうということ。
関空などは、何年、何十年で沈下することを想定して、建物にはジャッキが備え付けられている。

それに報道では、市側ではある程度の沈下(80mm程度。今回は70mmぐらいの沈下)は想定内だという。
市側は、監視カメラをたくさん設置していたというし、沈下を検知してからすぐに、道路を封鎖して安全確認に念を入れている。
思うに、今回については、市側はできる限りのことをしていたように思う。
もし責めるとすれば、沈下がおさまるまで数十年間、道路を封鎖しつづけなかったということだろう。

それより気になったのは、これが重大事件であるかのように、全国放送(たとえばNHKの午後7時のニュース)のトップ記事として、長時間放送されたということ。
これって、それほど重大なことなんだろうか。

報道するなというつもりはもちろんないけれど、市側の説明と土木の専門家の意見、過去の事例などなど、きちんと調べて、どの程度の重大性があるのか評価してるのだろうか。
それに、今後の沈下についての情報提供はなかったようにも思う。最初ある程度沈下すれば、その後はあまり沈下しないと思うけれど。

メディアは、責める側にまわって煽り立てることが正義だと勘違いしてないか。
この姿勢は、ポピュリズム政治家と同じだと思う。
マスメディアが、ポピュリズム政治を生み出しているのではないか。

この国のメディアは、所詮、イエロージャーナリズムだったのか。
メディア不信だ。

給食中止の撤回

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三重県鈴鹿市の給食中止で市長が方針表明

 三重県鈴鹿市が、野菜価格の高騰を理由に、市立の幼稚園と小学校の給食を2日間中止にするとし、その後撤回した問題で、市は、15日、中止を回避する分を防災訓練の炊き出しなどで、対応する方針を示しました。
 「2回削減した給食のうち、1回分は実施することとし、もう1回は、災害時の訓練を兼ねた炊き出しを行い、備蓄食と合わせて給食の替わりとして提供します」(鈴鹿市  玉川登美男教育長)
 鈴鹿市の末松則子市長は、15日、給食中止の回避策として、1日分を防災訓練での炊き出しなどを行い、もう1日分は献立を変更し、食材費を抑えることで対応する方針を示しました。
 市の教育委員会は、先月、野菜価格の高騰を理由に、市立の全ての小学校と幼稚園で、来月20日と来年1月12日の2日間給食の中止を決めましたが、市長がすぐに撤回を表明しました。
 防災訓練は、来年3月10日に実施し、費用は公費で負担する考えで、市は、今月中に結論を出したいとしています。

CBCテレビ

■発端の記事
 【野菜高騰で給食中止 鈴鹿市、今冬に2日間(中日新聞)】
食材の値上がりで学校給食が提供できないという問題、市の教育委員会が中止を決定し、即座に市長が撤回するとしていたが、このほど、その対応方法が発表された。

もともと2日分の中止を予定していたところ、1日は献立を変更して食材費を抑え、もう1日分は防災訓練の炊き出し(備蓄?)で対応するのだそうだ。
とりあえず、これで学校給食の中止は回避されたわけだ。

このところ野菜が高騰しているようで、家人が行っているグループ購入の注文書には、「価格が高騰していて注文時の価格で納品できない場合は、注文に応じられない場合がある」という但し書きが入っているそうだ。

それはそうとして、最初に給食中止の報に接した時に、そんなことができるんだろうか、と疑問に思った。
学校給食というのは、市から補助も出ているだろうけれど、保護者も給食費として負担していると思う。

そうなら、給食というのは、学校、というか教育委員会と保護者の間の契約、一定の負担をすれば期間中の給食が提供されるという契約なんじゃないだろうか。それが、原材料費高騰により、提供できませんで理屈が通るんだろうか。

先日、地元の文化祭のことを記事にしたけれど、このとき地元農家の協力でナスを無料配布する予定になっていたのだけれど、天候不順ということでそれができなくなった。しかしナスの引換券は既に各戸に配布してしまっているから、何も出さないというわけにはいかない。しかたがないので、自治会予算(自治会費は毎年度繰越金が出るぐらい余裕がある)でタマネギ、ジャガイモを購入して、ナスの代わりに配布することにした。

こんな話も思い出した。
ある事業所では、学生対象のイベントを実施、プログラムでは合宿も予定されていたが、台風接近のため合宿を中止した。相当する内容は別途実施したが、予定していた飯盒炊爨は中止となった。合宿施設は食材は用意済なのでその分のキャンセル料が発生する。

さて、一方の参加者側は、予定通りのプログラムを受けていない。本社では「一旦納入された参加料は返金しない」という一文があるし、キャンセル料に充当し、返金する必要はないと言う。
営業所側は、その一文は参加者都合というのが当然の前提で、主催者都合の場合にはあてはまらないと判断、本社の指示には従わなかった。本社は、キャンセル料は持ち出しになるから、監査で不適正支出と指摘されても責任は負わないと言うので、問題になったら所長・次長が私費で弁済すると押しきった。

監査で問題になるより、返金しなかったときのクレームのほうが大きな問題になるだろうし、まともな監査人なら、実費徴収しておきながら、サービスを提供せず相当額を返金しないことが不適正と判断すると思うのだけれど、読者諸賢のお考えは如何。


子供たちがかわいそうとか、親の負担が、とか、そういう意見があったことは想像に難くないけれど、そもそも法的に問題がないのかという議論はあったのだろうか。
今回は市長の決断で丸くおさまったようで、これはこれで良かったと思うけれど。

この記事を書いていて、アップせずに寝かしていたところ、フォロー記事があった。
市会議員の問題意識は私とは違うようだが、行政ではそれがアタリマエなんだろうか。

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