町村合併から生まれた日本近代 明治の経験

9784062585668_w.jpg 松沢裕作「町村合併から生まれた日本近代 明治の経験」について。

昨日取り上げた「明治維新という過ち」よりも随分前に読んでいた本で、書評を書けるほどの感想は持てていなかった。けれど、昨日の記事を書いていると、明治維新がなぜ失敗しなかったのか、その一つの説明に繋がるものだと思い直して、記事を起してみた。

昨日の記事では「明治維新という過ち」という本をきちんと評価するには、他書も読むべきと書いたけれど、この本はそういう本の一つだと思う。

歴史上の事件・動きが丁寧に追いかけられている。
この時代の流れは、あまりに複雑かつ急進的なところがあって、読者としては、これについていくのは相当の集中力が必要である。それについては、本稿で取り上げてもせんないことである。

江戸時代の領地がモザイク状になっているというのは、この本を読む前から知識としてあったのだけれど、それでは、領主は統治するの難しいのではないだろうかということ。
領地が分散していては領主が大変だし、隣接地の領主が違っていては領民も大変じゃないだろうか。
そもそも、平安時代の荘園から、領地というものは、どんどん細分されて、権利関係が複雑になっていく。ひどいのになると村の年貢の何割がA領主、何割がB領主という状態になるわけだ。

はじめに 境界を持たない社会・境界を持つ権力
第一章 江戸時代の村と町
1 モザイク状の世界
2 組合村
3 村と土地所有・村請制
第二章 維新変革のなかで
1 「大区小区」制
2 明治初年の町村合併
第三章 制度改革の模索
1 区戸長たちのフラストレーション
2 内務省と井上毅
第四章 地方と中央
1 地方三新法
2 町村運営の行き詰まりと明治一七年の改革
第五章 市場という領域
1 境界なきものとしての市場
2 備荒儲蓄法
3 道路が結ぶもの
4 市場と地方
第六章 町村合併
1 「自治」の思想
2 合併の遂行
3 行政村と大字
むすび 境界的暴力と無境界的暴力
そういう事情があるから、水利組合や清掃組合など、ご領主さまとは関係のない、地勢的条件による組織が活動していた。つまり、封建時代という言葉とは裏腹に、特定の領主が領民の全生活を律するとか、領地を統治するというような社会ではなく、典型的には殿様とは所詮年貢の納め先でしかなく、殿様と領民に親密な関係などあろうはずがない(領域国家の体裁を持つ大藩なら別かもしれないが)。

昨日の「明治維新という過ち」は武士社会・武士道を礼賛する(百姓あがりの「志士」だから武士ならやらないような卑劣な行為ができる)のだけれど、こうした領主と領民の関係という視点は希薄。もっとも、薩長や土佐は一国領国だから、あまり入り組んではいないかもしれないが。


ということで、大きく感想を言うなら、明治維新後、日本国が経済的に破綻することもなく、なんとかいろんな形をさぐりながら現在に続いてきた、その根本のところは、地域における生産活動の存在が必要、なにより税金(年貢)を徴収するという地域の行政(の下請け)が機能していた、そのことが詳細に追跡されている。

江戸期には、一時的に御用金として集めるものはあったようだが、直接国税とか、藩から集める連邦税的なものは制度化されていない。
基本的に徴税機構は、代官が置かれた天領を別として、諸藩が運営しているもので、ご一新後も、これが機能しなければ、国家予算は組めなかっただろう。

だから赤報隊による「年貢半減」デマを流せたし、それが効果を上げたわけだ。


その後、国税の徴収システムが整備されたので、徴税機構としての地方の役割りは小さくなった。

と、このように、本書を読んでいるうちに、封建時代の税制から、中央集権の税制への移行がどう進められたかという点に私の興味は収斂したのだけれど、著者にとっては、そちらはむしろアタリマエみたいで、それよりも「境界」とは何かという、やや哲学的な問題意識があるようだ。

本書の「はじめに」は、"境界を持たない社会・境界を持つ権力"という副題が付いている。
一体、何を言いたいんだろうと訝りながら読んだわけだけれど、読み進めば、なんとなく著者の問題意識の所在というか、洞察を端的に表現する言葉であることが諒解されてくる。

そして、越境して拡大する経済の特質というところまで考察は広がる。

ただし、そちらについてはあくまで端緒として考察されるにとどまる)


細かい具体的事件・事象については、読後の記憶としては残りにくいけれど、なるほど、国のシステムが変わるというのは随分と大変なことなんだな、得する人も損する人も出るんだな、歴史の理解には税制の理解が必要だ、まだまだ勉強不足だなぁ、そういうことを考えさせられる本である。

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明治維新という過ち

原田伊織「明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」(改訂増補版)について。

71l_9-DlX0L.jpg 私は、以前から明治維新というのはあんまり好きじゃない。
血塗られた、下劣な薩長のやり口、とりわけ、真摯に許しを請う相手を侮辱するようなのは不快だし、自己保身だけの京都の公家というのも気に入らない。かといって、徳川慶喜は優秀だけど小手先で誤魔化そうとする無責任なトップ、そんなイメージがある。

ということで、タイトルに惹かれてこの本を読んだ。
読み始めると、「はじめに」には、~竜馬と龍馬~として、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が坂本龍馬を英雄にした、司馬遼太郎は"龍馬"でなく"竜馬"と表記することで小説中の人物という言い訳を込めている、そして、坂本龍馬はグラバー商会の使いっぱしりに過ぎないと、龍馬ファンなら怒髪冠を衝きそうなことが書かれている。

これは「はじめに」だから、結論じみたことを最初にアジテーショナルに書いたものと受け止めて、何故そう主張するのか章を進めていけば、その理由が明らかにされるものと思って読み続けたのだけれど、その攻撃的な口調が続く。ところどころに根拠が引かれるところはあるけれど、諸説があるようなので、史料批判に耐えるものなのか、浅学な私には判断できない。

著者の主張と異なることを勝海舟が証言していると、勝の言うことは信用できないと切り捨てているが、読者はどうしたら良いのか。


はじめに 〜竜馬と龍馬〜
第一章 「明治維新」というウソ
廃仏毀釈と日本人
「官軍教育」が教える明治維新
幼い天皇を人質とした軍事クーデター
実は失敗に終わった「王政復古の大号令」
戦争を引き起こすためのテロ集団・赤報隊の悲劇
第二章 天皇拉致まで企てた長州テロリスト
「家訓」を守った誇り高き賊軍
血塗られた京の文久二年
尊皇会津藩と朝敵長州の死闘
天皇拉致を防いだ池田屋事変
第三章 吉田松陰と司馬史観の罪
吉田松陰というウソ
「維新」至上主義の司馬史観の罪
第四章 テロを正当化した「水戸学」の狂気
「昭和維新」が生んだ「明治維新」
狂気のルーツ・水戸黄門
徳川斉昭の子供じみた攘夷
阿部正弘政権による実質的な開国
「瓢箪なまず」の改革
阿部の残した官僚たち
水戸の公家かぶれと『大日本史』の無理
第五章 二本松・会津の慟哭
戊辰戦争勃発、反乱軍東へ
戊辰東北戦争にみる奥羽の潔癖
三春の「反盟」、秋田の「裏崩れ」
誇り高き二本松 ~少年たちの戦~
会津藩と奥羽列藩の止戦工作
会津の惨劇 ~ならぬことはならぬ~
北斗の南
第六章 士道の終焉がもたらしたもの
薩摩の事情と西郷の苦悶
武士福沢諭吉の怒り
あとがき
一方、江戸時代が高度な社会システムを持っていたこと、幕末官僚には大変優秀な人が綺羅星の如くであったことなどは、あまり知られていないと著者は言うのだけれど、これは多くの歴史学者が一致するところであり、今では、常識に類することではないかと思う。

例えば、幕末の金の流出事件は、日本と諸外国の金銀交換比率の違いが原因ではあるが、それを幕閣が知らなかったからではなく、日本では金銀が素材として交換されるのではなく、銀貨は「銀で作った信用貨幣」という性格のものであったためで、あまりに先進的な日本の通貨システムが、外国人には理解不能(そしてそれを良いことに通貨の交換を正当化)という事情があったと言われている。


結局、怨念が表へ出過ぎているというか、怨念の固まりのような本になっているわけだけれど、これはこれで明治維新へのアンチテーゼという意義は十分に果たしている、ちょっと扇情的なぐらいに。

著者は、薩長の卑劣性、下劣性、残虐性を執拗に追及し、その証跡の言挙げに多くの紙幅を費やしている。
なかでも、二本松少年隊の悲劇は、「八重の桜」でもとりあげられたけれど、ほとんど一瞬画面を過った程度で、多くの印象を残さなかったが、本書ではかなり丁寧に解説されている。

会津(福島県)と長州(山口県)の間では、今でも婚姻が成り立ちにくいとは良く言われることだけれど、彦根と水戸や、二本松と三春(奥羽越列藩同盟を裏切る)もそうらしい。平成の大合併で、二本松と三春は合併してもおかしくない地理的条件であったにもかかわらず、ついに合併はならなかった、それもこれが原因という。


幕末の英雄を徹底的に貶めようという意図だけは明確である。
ただ、これでもか、これでもかと、あまりに容赦ないので、辟易するとともに、本当に、それほど、悪辣で、馬鹿で、卑怯で、下劣というだけでは、革命が成功するはずはないとも思う。

高校の日本史の授業のときに、教師が、みなさんが新政府の指導者だったら何をどうするか、と問いかけたことがあった。そして、誰も答えられないのを見計らって、そんなことでは革命はできませんね、と。
もっとも、新政府の施策を細かく説明している本などを見ると、まさに試行錯誤、見通して施策をうったとは思えないところも多い。結局、旧幕府が反革命を企図せず、江戸時代の惰性のおかげで、新政府はなんとかやっていけたという気がする。


著者は、幕末の志士(この言葉使いにもクレームをつけている)は、テロリストに過ぎない、そしてテロリズムは絶対に許さないという。

私も前に、吉田松陰はテロリストと書いたことがあるけれど(寅さんは尊王攘夷かい)。

しかし「テロとは失敗した革命である」という言い方もある。(学生運動が過激化したその末期の言)
ならば、著者が歯噛みしようと、革命に成功したならば、彼らはテロリスト呼ばわりはされないわけだ。

一つの歴史観として興味深いし、明治維新をそれほどの偉業とは思っていない私には共感するところも多い。
しかし、史料の選び方、読み方がフェアであるかについては、他書とも比較したほうが安全かもしれない。

誰が言ったのか忘れたが、「江戸は、後の近代日本を準備して、見事に、潔く役割りを終えた」ということは、間違いないと思う。

イルカ漁は残酷か

o3456230413891799425.jpg 沖縄旅行では定番の「美ら海水族館」に行ったが、この水族館でもイルカのショーが行われている。
時間の都合もあって、イルカ・ショーは見なかったのだけれど、というか、ショーを見ることを目的にすることに、ややうしろめたさもないわけではない。

伴野準一「イルカ漁は残酷か」というルポルタージュがある。
追い込み漁でイルカを生け捕りにして、水族館に売る、それが残酷だとは、どういうことなんだろう、殺して食べるというわけではないのに、そう素朴に思っていたけれど、実態はそんな綺麗事で済む世界ではなかったらしい、少なくとも少し以前までは。

iruka-ryo_wa_zankokuka.jpg イルカはときには数百頭もが追い込まれ、そのうち十数頭は生け捕られて水族館に売られるが、他のイルカは殺されていたのだそうだ。
いわば、水族館のショーで見る数頭のイルカの陰に、数百頭のイルカの犠牲があるというわけだ。

それどころか、もっと昔は、ただ魚を食べる害獣として駆除の対象となり、捕えられたイルカは、効率的に破砕され、とりだされた油脂は廃棄物として無料で製油会社に渡されていた時代もあるという。
もっとも、昔といっても、追い込み漁が「日本の伝統」と言えるほどの時間は経過していない。
昔は、そんな技術はなかったし、追い込み漁は稀にそういう状態になったときに行えるというもので、計画的なものではなかったという。

たまたま迷い込んだクジラやイルカを、天(海?)の恵みとして喜び、捕えて奪った命に対し「いただきます」と感謝しながら食べるのが伝統だろう。


先日、いくつかの水族館がJAZA(日本動物園水族館協会)を脱退していたことが伝えられていた。
WAZA(世界動物園水族館協会)が、追い込み漁で獲ったイルカを水族館に納めることを禁止すべきで、それに従えないのならJAZAをWAZAから除名すると言ってきて、厳しい選択を迫られたJAZAはその要求に応えることとしたが、それでは、イルカの入手が困難となる水族館にとっては館の存続に係る問題である。引き続き追い込み漁で捕獲したイルカの購入を続けるらしい。

動物園はWAZAから除名されると、希少動物を手に入れることが困難となり、園の運営が立ち行かなくなるが、水族館は必ずしもそうではないらしい。


まえがき
第一章 最後のイルカ漁
イルカ追い込み漁のメッカ伊豆半島/共同操業と資源枯渇の始まり/イルカの屠殺現場が明るみに
第二章 太地町立「くじらの博物館」物語
古式捕鯨発祥の地/江戸時代から盛んだったゴンドウ漁/短かった終戦直後のゴンドウ景気/南極海捕鯨から観光立町へ/新生太地町の象徴「くじらの博物館」/クジラ・イルカ捕獲作戦始動/追い込み失敗で広がる無力感
第三章 太地追い込み漁成立秘話
生け捕り成功、活気づく太地町/イルカ捕獲の試行錯誤/バンドウイルカの大量捕獲に成功/漁船のFRP化と追い込み漁の完成/生け捕り目的で始まったバンドウの追い込み
第四章 価値観の衝突
豊漁と表裏一体のイルカ食害/イルカ駆除成功で巻き起こる国際的な批判/ハワイからやってきた活動家/イルカ漁論争の原点/活動家、その短い生涯
第五章 スター誕生
イルカ・スタントショー発祥の地/マイアミ海洋水族館とリック・オバリー/アルビノ・イルカを捕まえろ/フリッパー登場/イルカ・トレーナーからイルカ活動家へ
第六章 乱獲と生体ビジネスの始まり、包囲網の形成
英作家C・W・ニコルの戦慄/リック・オバリー、イルカ漁を目撃/水銀問題と謎の撮影クルー/太地町を変えたドキュメンタリー映画
第七章 イルカと水族館
生体販売ビジネスに手を染めた太地町/エルザの会、JAZAに要望書を提出/名物園長イルカ問題を語る/鴨川シーワールド館長JAZA会長に就任/二〇一四年八月、世界協会と合意へ
第八章 幕間劇「くじらの博物館訴訟事件」
リック・オバリーは語る/身勝手な言い分
第九章 夏は終わりぬ
二〇一四年ジャパン・ドルフィンデー/記録的不漁だった二〇一四・二〇一五年漁期
終章 イルカと人間の現在
イルカと牛豚、屠殺方法の違い/動物福祉的価値観とイルカ漁/イルカ飼育は虐待か/命の値段
あとがきに代えて
こう書いてくると、私はイルカ漁に反対なのかというと、情けないことに、そう言い切れるわけではない。
そもそも、イルカを獲ってはいけない理由というのが全くわからない。
確かに、見た目の残酷さというのはあるにしても、動物というのは所詮、他の生き物の命を頂いているわけで、「いただきます」という気持ちとともに食べることが悪いとは思えない。
本書の「あとがきに代えて」では、太地町漁協の人の発言として、

「まあ情けない。ぼくらもあの映像見たらね、わあこんなことやっとんたんかって反省しています。本当に反省しています。」

という言葉も紹介されている。

一方で、シーシェパードなどの行動は常軌を逸しているように思い、彼らに屈服することはテロに屈するのと同じだという気持ちもある。
しかし、イルカ漁を正当化する理由として、日本の伝統を持ち出すのは誤りであることは、疑えないようだ。

また、先年、Behind "THE COVE"という"THE COVE"を捏造と断じる反宣伝映画が制作され、それなりの話題になったが、この反宣伝への反論という、バッシング合戦も、あまり建設的ではないと思う。

さて、この本の「まえがき」に著者はこう書いている。

日本で、そして和歌山県太地町で行われているイルカ漁を考えるうえで、議論のための新しい土台が築けたのでないかと、私はいま感じている。


著者もイルカ漁について、否定も肯定もせずに、出来る限り事実を追いかけようとしている。そして、

ヘイトスピーチは撲滅しなければならないのと同じように、イルカ漁反対運動に内在するテロリズム的要素についても、私たちは断固として反対し、戦わなければならない。
 だが、傲慢不遜な彼らに対する反発から、私たちのなかからイルカ漁について虚心坦懐に考えようとする気運がうしなわれてしまったこともまた事実である。私たち日本人は、太地町で行われているイルカ漁について真剣に考えてみることなく、反イルカ漁運動に対する反発心から「イルカ漁は日本の文化なのだ」などと安直な主張を繰り返しているに過ぎないのではないか。

とする。

hatari21.jpg 陸上動物でも、野生動物を捕まえて動物園に売るということが、何の疑問もなく行われていた時代もそう昔のことではない。
中学校のときに観たジョン・ウェイン主演の「ハタリ」(1962年)という映画は、そういう時代のそういうハンターを描いていた。と同時に、動物への愛情も(人間の男女間の恋愛も)、描いていた。

ヘンリー・マンシーニ「子象の行進(Baby Elephant Walk)」はこの映画の挿入曲である。

そういう時代は遥か遠くなったようだ。

私欲じゃなければ良いのか

f21d2ef1dc86225a02bf959c84c62230.png 森友学園の籠池理事長は「真に日本国のためになる子どもを育てたい」とお国のために頑張っている、それが理解されないことに恨み言を言い、裏切られた思いと、堂々と証言している。

昔、会社ぐるみの不正に対して、それに協力していた社員や役員が、(私利私欲ではなく)会社のためにやったことと、反省の姿勢は見せながらも、自分の行為を正当化していたことがある。

これへの対応だと思うけれど、内部告発を行う労働者を保護する「公益通報者保護法」が2006年に施行されている。


やったことは違法だったかもしれないが、私利私欲ではないということで、同情する声も出ることがあるようだ。
しかし、私利私欲じゃなかったら、許されるとか同情の余地があるとかなるのだろうか。

籠池理事長は、維新の会の立ち上げの時に「ずいぶん支援した」という。
政治献金は、する側も、される側も私利私欲ではない、崇高な理想のためにしている、というタテマエだと思う。

細かいことから言うと、もし私費を投じて政治活動に邁進している政治家がいたとして、その政治家に政治献金をしたら、その政治家は私費を自分のために使えるようになる。私利じゃないか。

一般に、使途を限定して寄付をしても、それ以前にその使途で使われていたお金を他へ回すことができるだけで、使途を特定せずに寄付をするのと、そう変わらない(もちろん額によるけれど)。

支援してくれた人を大事にする、それは朴槿恵前大統領と崔順実氏の関係を考えれば、すぐわかることだ。

ある政党が税金のばらまき施策を提案したとする。それは国の政策として行われるわけで、その政党(の政治家)の私利私欲ではない。けれども、選挙のときには、そのばらまきが「我が党の提案で実現した」と宣伝するわけで、やはり党利を追求したことになるのではないか。

それも、他人(国民)の財布(税金)に手を突っ込んだに過ぎないのに。


そんなこと言ってたら政治なんてできない、どんな政策でも、それで得をする人、損をする人がいるという反論があるだろう。
その反論を認めよう、ほら、私利私欲でなかったら良いということにはならないでしょ、と。
そもそも、政治とは利害が対立する集団間の調整技術である、そうでしょう。

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やっぱりクレオパトラはリズだよな
もっとも、私は私利私欲などは実はたいしたことではないと思っている。
ほとんど誰もが、ユリウス・カエサルは偉大だったと認めるだろう。
彼は私利私欲とは全く無縁だったと思う。
資産を持ったとしても、政治的手段として使っただろう。クレオパトラに貢いだとしても単純な欲望からではなくて、性事じゃなくて政治のため(このあたりがアントニウスとはちがう)。
自分の財産などには拘泥しないし、借金は山ほどあっても気にしない、という人物のように思う。
つまり、私利私欲がないのではなく、私利私欲を超越しているのだろう。

政治家の評価は、私利私欲が有るとか無いとかではなくて、施策が(多くの)国民にとってどうなのかということでなされなければならないと思う。

立派な政治家なら、私利私欲で判断が曇らない程度の報酬を与えれば良いだろう。
そうじゃない政治家には、私利私欲を満足させられる程度の口止め料を与えれば良いだろう。


教育勅語

教育ニ関スル勅語」、いわゆる教育勅語を学校で教えようとか言っているらしい。

このことが話題になったのと、タイミングを合わせるように森友学園の幼稚園で教育勅語を子供に暗唱させているという話があったけれど、聞かれたから答えたということなんだろうか。


AS20170401000332_comms.jpg 実は、私は中学ぐらいの頃に教育勅語を憶えていた。別に教えられたわけではない。社会科の資料集かなにかに収録されていて、単純に面白がって憶えた。

「面白がって」というのは不敬かもしれないが、子供の受け止め方というのは、そうした無邪気で無批判なものではないだろうか。

教育勅語を教えようという人は、内容は良いことが書いてあると言い、こうしたことがきちんと教えられれば、道徳的な人に育ち、イジメなんて起きなくなるんだと言ってるらしい。

でもね、だ。
教育勅語は1890年に発布され、戦前教育の最高規範とされ、徹底的に教え込まれた。
そうやって教育勅語を憶えさせられていたはずなのに、最も陛下のお心に従うべき軍隊に入ったら、いじめが横行していたという。イジメ防止効果は疑わしいようだ。

というか、教育勅語を憶えられない子供がイジメの対象にされるんでは。


私も、書かれている内容は普通に徳目として大事なことが書かれていて、酷いものとは思わないけれど、同様のことはいろいろな形で教えられている。もし、とりたてて教育勅語が国民精神の涵養に効果があるとするなら、それは勅語、つまり天皇の言葉として畏敬する、天皇の神格化という前提があってのことだろう。親や教師の言うことはきかなくても、天皇の言うことはきく、そういう子供でなければ。

やっぱり天皇主権の国にしなければ成り立つ話じゃないですな。
というか、教育勅語で軍国教育を進めた軍幹部が、一番、天皇を軽視する行動をしていたようだけれど。


ところで、こういう話を聞いて、これからは国民と言わず、臣民と言わなければならなくなるのかと早とちりした。教育勅語中では、国民じゃなくて臣民を使っているから。
しかし、戦前も国民という言葉はある。「国民精神総動員」というように使う。

2017-04-07_124835.jpg 前の戦争の教訓は、敗ける戦争を繰り返さないためには、精神論とか情緒論とかでなくて、科学的精神、合理的精神を養わなければならないということ。
竹槍ではB29に対抗できないことを理解することではないのだろうか。
前と同じことをしても今度は勝てると言う人が愛国者なのか、前と同じことをしたらまた負けると考える人が愛国者なのか。

そんなことはわかってると言うのかもしれない。
ただし、わかっているのは指導者だけで十分、一般国民は教えられたとおりに突撃すれば良いのだ、ということかな。
その割には前の戦争では、教育勅語も戦陣訓も暗唱しているような指導者がみんな「お国のため」を免罪符に、卑劣で無責任な行動をしたようだけど。


自分勝手な愛国ですべてをいいくるめ、そうでない人を非国民と言う雰囲気が醸成されつつあるような気がする。
「逆コース」という言葉も既に死語扱い、同じことが「日本を取り戻す」正コースになってきたようだ。
次は戦陣訓を教えるようになるのだろう。

「生きて虜囚の辱めを受けず」なんて言ってたら中国には絶対勝てない。
中国と戦争になったとして、中国人の1割が投降してきたらどうするんだ。日本の人口と同じだけの中国人を日本で養わなければならなくなるんだぞ。


先制的自衛権

wor1704070040-p1.jpg 米国が、シリアが化学兵器を使用したと主張し、シリアに対してミサイル攻撃を行った。

シリアは、政府、反政府、ISの三つ巴の戦乱地域で、ここへ米国がミサイルを撃ち込んで、一体どうなることやら。
もちろん日本国政府は、米国の行為を断然支持している。

米国はトランプ大統領になってから、アメリカ・ファーストと言って、世界の警察官の役割りは小さくなるのかと思いきや、どうやら世界の警察長官はやめないで、下働きをあちこちの国にさせるつもりのように見える。
もちろん禁止されている化学兵器の使用は許されないし、米国の攻撃に喝采を送るシリアの人々もいるに違いない。子供たちが毒ガスに苦しむ姿を見て、こんなことをした輩を憎む気持ちは多くの人が共有すると思う。

ではあるけれど、今回のミサイル攻撃について、米国は自衛権の行使だと言っているそうだ。
自衛権」? 米国本土からはるかに離れたシリアの地で、自衛ってどういうことなんだろう。

思い出すのは、かつてのブッシュ・ドクトリン、ならず者相手なら、先制的自衛権、つまり、殴られる前に殴ることが認められるという理論。
先制的自衛権なるものが認められるかどうか、国際社会では意見が対立しているようだ。認める立場であっても、イラク攻撃の場合、その行使の理由となった大量破壊兵器は、ついに見つけられず、前提があやふやとなったけど。

_95008309_cf62329c-d244-4fd5-ba95-87d6e0bdb266.jpg 日本政府は、米国支持でわかるように、先制的自衛権を認める立場と考えられる。
さらに、先年、集団的自衛権も認めた上、米国を同盟国としているから、米国と同調した先制的自衛権の行使は論理的帰結と言える。

そして、日本の近くには、核兵器やミサイルを開発していて、しかも人道的にも問題があるとされる国がある。
米国まで到達するICBMの開発が進められているという。
現に、米国国務長官は、シリア攻撃はその国を含む諸国への警告だと言っている。

完璧に、日本も、米国も、先制的自衛権を主張できる状態である。
次に先制的自衛権が行使されるのは、その国に対して、そしてその先鋒となるのは日本国かな。
前述のように、日本国に、その行使を阻む法理論は存在しない。あとは「やる気」だけだ。

男女差合憲判決

もうひとつ釈然としない。

izokunenkin_danjosa.jpg 遺族年金の受給要件の男女差、つまり、男が死亡したとき配偶者女性は年齢に関係なく遺族年金を受けられるが、女が死亡したとき配偶者男性は55歳以上でなければ受給できない、という制度が合憲という最高裁の判断。

遺族年金が高齢者でなければ受け取れないという趣旨なら、裁判所がいうように女性の置かれた状況から、受給要件を緩和したという理屈もあるのかもしれないけれど、遺族年金ってそういう趣旨だったのだろうか。

判決理由について、いじわるな読み方をしてみた。

夫が自分の死で妻が苦労すると心配するのは合理的だけれど、妻が自分の死で夫が苦労すると思うのは合理性がない。

とか、

多くの夫婦は夫のほうが年上で、平均余命から考えても、夫が先に死ぬから、残された妻が受給するという制度には、合理性がある。
つまり、標準的な夫婦と異なるなら、異なっているやつが悪い。そんなことを法は想定していない。


遺族年金の男女差「合憲」 最高裁が初判断
賃金格差踏まえ


 労災で配偶者を亡くした場合の遺族補償年金をめぐり、夫だけは55歳以上でないと受給できない規定が憲法違反がどうかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁第3小法廷(山崎敏充裁判長)は21日、規定は合憲とする初判断を示した。「男女の賃金格差などを踏まえれば、(妻に手厚い)規定に合理性がある」と指摘した。
 合憲かどうかが争われたのは、1967年施行の地方公務員災害補償法の規定。妻は年齢を問わずに受け取れるため、妻を亡くした原告の堺市の男性(70)が、法の下の平等を定めた憲法に反するとして提訴した。
 同小法廷は判決理由で、男女間の労働人口の違いや平均賃金の格差、雇用形態の違いを挙げ、「妻の置かれている社会的状況に鑑みれば、妻に年齢の受給要件を定めない規定は合理性を欠くものではない」と判断した。裁判官5人の全員一致。男性の敗訴が確定した。
 民間や国家公務員の労災の遺族補償にも同様の年齢制限がある。
 2013年11月の一審・大阪地裁判決は「現在の一般的な家庭のモデルは共働き世帯で、配偶者の性別による差別的な扱いには合理性がない」とし、地方公務員災害補償基金(東京)による不支給の決定を取り消した。
 15年6月の二審・大阪高裁判決は男女間の賃金格差を理由に「夫を亡くした妻の方が、独力で生計を維持できなくなる可能性が高い」と指摘。規定は不合理な差別ではないとした。逆転敗訴した男性が上告していた。
 一、二審判決などによると、1998年、市立中学の教員だった妻(当時51)が自殺。男性は遺族補償年金の支給を申請したが、妻の死亡時点で男性が51歳だったため、受給要件の55歳に達していないとして支給されなかった。
日経 2017/3/21 23:27
前にも似たようなことがあった。
定年後の再雇用である。

定年後の再雇用で、職務内容が全く以前と変わらないのに給与が著しく下がるのは不法だという訴えに対し、一審は原告勝訴、二審の高裁で逆転敗訴した事件。

この事件については、もし同一労働同一賃金原則を徹底したら、そもそも定年後再雇用という、近年、広く行われつつある労働慣行自体が崩れるおそれがあるという社会的影響を考慮して、苦しいけれどなんとか理屈をつけたのだろうと思った。
(ただ現状追認ばっかりしていて良いのかという疑問は残るけど)


しかし、今回の事案は、裁判所が言うように、原告のようなケースは少数派だというのなら、原告勝訴でも社会的な影響はそんなに大きくなく、実物である年金基金の支給総額が著増するとかいうことはないのじゃないだろうか。
それなら、ここはエエカッコして、違憲判決出しても良かったのでは。

それとも「男女の賃金格差などを踏まえれば、(妻に手厚い)規定に合理性がある」というのは、判決を出す上での理屈で、これが解消されていったら、こういうケースが増えて、年金財政に大きな影響を与えるかもしれない、と予測したのだろうか。


それにしても、問題の地方公務員災害補償法だけでなく、他の法律でも同様の規定があるという。
合憲判決を出すにしても、男女別規定に対して疑問を投げるぐらいの付帯意見があっても良いのでは。

アイヌと縄文─もうひとつの日本の歴史

ainu_to_joumon.jpg 瀬川拓郎「アイヌと縄文─もうひとつの日本の歴史」について。

日本は単一民族の国と言って、認識不足を咎められた政治家がいたように思う。
最近はどうだか知らないが、私が昔受けた学校教育では、アイヌのことはほんのわずかしか触れられなかったように記憶する。
学校教育でとりあげられるのは、中央政権と接触した「事件」、哀しいかな、コシャマインの戦いとかシャクシャインの戦いとか、戦争である。

もっとも、それはそれでしかたがないとも思う。
日本史を学ぶなら、日本とは接点のなかった世界がとりあげられないのは当然で、日本史という枠組みではなくて、人類史ということであれば、例えば古代ローマ史なんてのは日本とはおよそ接点がなくても、人類史を代表するような時代ということで興味深いわけだ。

それにアイヌには文字がない。ユカラは文字化されているけれど(知里幸恵「アイヌ神謡集」青空文庫にもある)、アイヌの歴史を語ってくれるわけではない。

と、言い訳ばかりしているが、「もうひとつの日本の歴史」については思い至ることもなくこの歳まで生きてきた。
この本を読んで、このすっぽり落ちている部分が、というか、その抜け落ちているということに気づかないでいた部分の存在に気づき、そして少し埋めてもらった。

第1章アイヌの原郷
―縄文時代
   アイヌと縄文文化
   アイヌと縄文人
   アイヌと縄文語
第2章流動化する世界
―続縄文時代(弥生・古墳時代)
   弥生文化の北上と揺れ動く社会
   古墳社会との交流
   オホーツク人の侵入と王権の介入
第3章商品化する世界
―擦文時代(奈良・平安時代)
   本州からの移民
   交易民としての成長
   同化されるオホーツク人
第4章グローバル化する世界
―ニブタニ時代(鎌倉時代以降)
   多様化するアイヌの世界
   チャシをめぐる日本と大陸
   ミイラと儒教
第5章アイヌの縄文思想
   なぜ中立地帯なのか?
   なぜ聖域で獣を解体するのか
本書は、アイヌを縄文人の正統な末裔とする。
縄文人は弥生人に包含されて居なくなったのではなくて、縄文ライフスタイルを選んだ人達が独自の歴史を築いてきたということが再構成される。

前述のように、アイヌには文字がないからアイヌ自身による歴史記述というのはないわけだけれど、伝承や考古学的資料、和人や大陸の側の記録などで、丁寧に説明される(史料が少ないから、著者の推測とことわっているものも多いけど)。
そしてその縄文的なものは、現代日本人にも引き継がれている。

関西人である私は、東日本は後進地域で、東京へ行くことは東下りと表現する。(負け惜しみか)
西国の方が早く文明化し、都は奈良・京都、不破関より東は文化果つるところで、貧しく、人口密度も低いという観念を持っていた。

しかし、鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」によると、なるほど都市としては平城京・平安京かもしれないが、地域として考えると、東北・関東の方が豊かで、人口支持力も高く、したがって人口密度も高かったらしい。

縄文時代といえば、縄文海進で知られるとおり、温暖な時期で、東北の縄文人が、何が不服で、鳥獣魚介に変えて米を喰わなきゃいけないのかという気もする。(気候が変わったのがライフスタイルの変更の一因というわけだが。)

そうした生活を基本に、弥生人に同化せずに、足りないものは弥生人との交易で手に入れるというのは、合理的で豊かな生き方だったろう。
そして、以前は、それぞれのライフスタイルは「それで宜し」とされていただろう。

ただし、文字がないというのはやっぱり損をしていると思ってしまうけど。


近代というものができて、それが圧倒的なパワーを持つようになると、相対主義はどこへやら、同じ土俵で競う公正な社会というものができて、その土俵で「勝てる」相手には容赦なく勝負を挑むようになったようだ。

新幹線が来る!?

hokuriku-shinkansen_matsuiyamate_route.jpg 北陸新幹線の敦賀―京都間のルートが、ようやく小浜ルートに落ち着いたと思ったら、京都と大阪の間は、南回りルートが浮上したとたん、あっという間に松井山手ルートで本決まりになったようだ。

前に珍之助さまのブログへのコメントで、南回りルートは同志社付近から西へ行くのかなとコメントしたけれど、そうではなくて、なんと、松井山手である。こちらの方が距離が短く、市街地も少ないので、速くかつ建設費も安いのだそうだ。

開通すると、京都まで7分とか、新大阪まで8分とのことだが、今は京都までバスで30分、新大阪までJR片町線-環状腺-東海道線で50分である。
再来年にはおおさか東線が放出-新大阪までつながるから少し早くなるだろうけど、そんなレベルではない、驚きの速さである。

開通は随分先のことだろうから、私はそうした便益を享ける前に死んでいるだろうけれど、これによって、不動産価格や都市インフラの整備がどうなるのかは今からでも気になるところである。

新幹線の軌道や駅というのは仕掛けが大きい。
重量のある車両が高速で運転されるのだから、在来線の設備とくらべてオーダーが異なるだろうというのは想像できる。 それが松井山手というローカルな街にふさわしいかどうかは微妙。現在の松井山手では新幹線を受け入れられる基盤は整っていないと思う。
北陸新幹線、南側ルートを満場一致で可決
 与党検討委  JR西も同意
 北陸新幹線で未決定の京都-新大阪間のルートについて、与党検討委員会は13日、JR片町線(学研都市線)の松井山手駅(京都府京田辺市)に接続する新駅をつくる「南側ルート」を採用することを、満場一致で可決した。京都府や北陸3県など沿線自治体のほか、運営主体となるJR西日本も同意した。ルートは、15日に開かれる与党整備新幹線建設推進プロジェクトチーム(PT)の会合で正式に決定する。
 JR西の来島達夫社長はこの日の検討委で、松井山手接続の南側ルートの費用対効果が投資に見合う「1」を超える「1・05」との試算が出たことを受け、受け入れを正式に表明。新駅設置については「コストはかかるが、それ以上の利用者増につながり、関西文化学術研究都市(けいはんな学研都市)から北陸への新たな流動につながる」と述べた。
 京都府の山田啓二知事は「ルートは学研都市の発展につながる形にしてほしい」と要望。松井山手から学研都市内にある終点の木津駅までの区間が単線となっているため、複線化と運行本数の増加を求めた。複線化を含む費用負担について山田知事は「京都府は受ける便益に応じて、負担するべきだ」と述べた。具体的な負担額については、検討委では議論を持ち越した。
 京都府によると、松井山手駅周辺は人口増が続いており、現在半径5キロ圏内に約33万人が居住。新駅設置で京都までが50分から7分に、新大阪までが50分から8分に短縮される。
産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/170313/wst1703130062-n1.html
だから、これから新幹線開業に向けて、街のスケールが変わるような開発が進むことになるだろう。

JR片町線松井山手駅は、平成元年の開業。京阪電車が開発した住宅地(京阪東ローズタウン)で、松井山手駅の建設費は京阪電車が負担したとか聞いたことがある。掘り込まれた小さな駅である。はじめて訪れた人はどこに駅があるかわからないと言う。

道路の方は、鉄道よりも大規模な整備が行われてきた。
既に第二京阪道路が全線開通して、久御山JCTで名神、京滋バイパス、さらに阪神高速(京都線)に接続しているが、第二京阪が、八幡で新名神とつながる。既に八幡と城陽の間の工事は始まっているが、これは第二京阪と京奈和道路を接続するらしい。

そしてこのおかげで、松井山手から京都へは第二京阪経由の「直Qバス」で30分弱、500円が運行されているし、高速京田辺からは関空へのリムジンも出ている。

直Qバスは、運行前にニーズ調査があった。1コイン、30分なら使うと回答した覚えがある。それまでは京田辺まで出て、新田辺から近鉄というルートだった。
この頃は、朝の出勤時にはこのバスに大勢並んでいる。同一時刻に2台で捌いている様子である。


というわけで、交通の結節点として俄然注目されていると思う。
今回、北陸新幹線京都-大阪が、松井山手経由であっさり決まったのは、この地域イメージがあるからだろう。

shinmeishin-highway.jpg

もっとも地元住民としては、今度、スーパー銭湯ができて、その上にホテルも開業するというような話のほうが身近である。
コストコ、ホームセンタームサシをはじめとする大規模店舗が次々に開業して(いずれも八幡市側、京田辺市側はほとんど商業用途のものはない)、生活道路(山手幹線)の混雑のほうがずっと気になるところ。
引っ越した当初は、車の数も少なかったのに、今ではたびたび渋滞し、直Qバスの運転手が「今日はコストコ渋滞が予想されます」と車内アナウンスするぐらいになった。

今、周辺では複数のけっこうな規模の宅地開発が進められている。
こうやって街になっていくんだろうな。

我が家は、駅まで直線距離で約500m弱。新幹線の騒音ってどんなものだろう。
まさか新幹線が傍を通るなんて、思ってもみなかった。

国民を無理矢理連帯保証人

福島原発賠償費、電気代での負担額は
 1世帯あたり試算
 東京電力福島第一原発事故の損害賠償費用は、原発を持つ東電以外の電力会社も一部を負担している。家庭の電気料金でまかなっている7社について、朝日新聞が取材を元に国の家計調査を当てはめて試算したところ、1世帯(2人以上)あたり年約587~1484円を負担している概算となった。家庭の負担額は料金内訳が書かれた検針票には示されておらず、利用者の目には届かない。
 国の試算で、賠償費用は7・9兆円にのぼる。うち5・5兆円分について、東電の負担に加え、他の電力会社も「一般負担金」として、原発の出力などに応じて負担している。
 7社は東京、北海道、東北、中部、関西、四国、九州の各電力。朝日新聞の試算では、家庭向けの電気料金で回収している一般負担金は1キロワット時で約0・11~0・26円だった。
 関電と中部電が取材に対し、家庭向けの1キロワット時の概算を出していることを明らかにした。この方法を元に朝日新聞が他社分も試算。全社がこの試算の考え方に誤りがないことを認めている。
朝日新聞デジタル 2/27(月) 0:30配信
genpatsu_futan_sisan.jpg 明日で東日本大震災から6年。

復興事業がどの程度進捗しているのか、はずかしながら、詳しいことは知らない。けれど、報道されるたびに情けない気持ちになるのは、やはり福島原発。
「失われた自然は元に戻らない」とはよく言われてきたことだけれど、汚染された大地もやはり元に戻らないのか。

学校での「原発いじめ」、しかもそれを教師がむしろ助長するなどという、とんでもないことも起こっている。
そのいじめのネタとして、原発賠償金のこともあるらしい。
被災してきた人に対して、賠償金をもらっているだろうと金品をゆすりとったのなどと伝えられている。

この問題では、廃炉費用、賠償費用など、多額の費用がかかる。
この経費を、電気を使う国民がみんなで負担しようということになるらしい。

現に原発事故で苦しんでいる人がいるから、それを国民みんなで支えようということは、そんなに理不尽なことではない。
国民は、(誤った情報に基づく判断だったかもしれないが)原発を容認し、放射性廃棄物処理費用や将来の廃炉費用などを過小にし、その分、安い電気代という利益を享受してきたのだから、その借りを返すべきなのかもしれない。

「オレは原発にはずっと反対だった」という人もいるだろう。
しかし、あなたが反対していたからといって、民主的に決定された国策である以上、国民としては負担するのがスジなのではないだろうか。

ニコール・キッドマンが、国民が選んだのだからトランプ大統領を応援しようと言って、さんざん批判されたと伝えられているけれど、スジとしては彼女の言うことは正しいと思う。
私はニコールの味方です、下僕です、崇拝者です、お傍に仕えさせてください。


たしかに、誤った情報に基づく判断、というか国民をミスリードした政治家の責任は重いと思う。
彼らは他人の金を思うように使える立場だ。その責任は果たすべきだと思う。
だけど、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」と憲法が定めている。
結局、責任をとるのは国民一人一人ということになるようだ。(ここだけは、改憲論者も改正するつもりはないらしい。)

今日のタイトル「国民を無理矢理連帯保証人」というのは、何年か前に話題になった川柳である。
そして契約当事者は、債務を弁済する意思はない。

日本の税金:新版

昨日の記事では、e-Taxできちんと確定申告を行い、不足額を追加納付することを書いた。

税金をきちんと払うのは、揶揄で言うのではない、国民の義務である。

今日は、税金についての本の書評、確定申告をするちょっと前に読んだ三木義一「日本の税金:新版」について。

この本の序章は「私たちは誰のために税を負担するのだろう?」というタイトルが付いているのだけれど、まずはじめに、「税法は法律の中でももっとも難しいものの一つで、弁護士もほとんど知らない。その難しい法律の内容を正確に理解して、様々な項目の計算をした上で初めて税額が出てくる」と前置きして、こんな一節がある。
間違えて税額を少なく申告すると加算税という制裁が課される。有利な制度があることを知らないために税額を高く計算して申告したら、税法を知らなかったお前のミスだから救済はしないと言われる。計算に誤りがあった場合には、申告期限から一年以内に限って減額してくれる。しかし、一年以上過ぎてからわかった場合はダメだ。ところが、税務署には五年間も減額する権限はある。そこで、税務署に「嘆願書」を出して、嘆願すれば、助けてやらないわけでもない、と言われる。まるで江戸時代の農民がお代官様に嘆願しているようだ。
nihon_no_zeikin_sin.jpg まぁ、国民は踏んだり蹴ったりの眼に合わされるというように書いてあるのだけれど、これに続けて、国民主権の時代であり、税制の枠組みもまた国民が(代表を通じてだが)決めるようになっていると続ける。
もちろんそんな実感はない。やっぱり税金は盗られるものというのが普通の感覚。

知り合いの役人がこんなことを言っていた:

税法には目的は書かれていない。


普通、法律には制定趣旨や目的が最初に書かれている。ある本に書かれていたことだけれど、具体的な法適用について解釈に困ったときは、趣旨・目的に沿って考えるべきだという。税法にはそれがない。

もちろん法案が出るときには目的があるのだろうけど、条文には書かれないという意味。
また、目的を書くと目的税と誤解され、使途が限定されるおそれがあるのかもしれない。しかし、何に使うかではなく、課税の論理として考えれば良いのではないだろうか。福祉目的税を作ったとしても、一般財源からその分が減額されるだけの玉突きになるのが関の山なわけだし。


本書でも例として取り上げられているが、印紙税というのがある。契約書などに貼るあの証紙である。
これを貼らなければ脱税となって処罰の対象になるけれど、貼らなかったからといって契約が無効になるというようなことはない。貼ってもなんのご利益もない。
一体、印紙って何のためにあるの?
答えは、税金をとるためである。

序 章私たちは誰のために税を負担するのだろう?
第1章所得税-給与所得が中心だが給与所得者は無関心
第2章法人税-選挙権がないので課税しやすい?
第3章消費税-市民の錯覚が支えてきた?
第4章相続税-自分の財産までなくなる?
第5章間接税等-税が高いから物価も高い?
第6章地方税-財政自主権は確立できたのか?
第7章国際課税-国境から税が逃げていく
終 章税金問題こそ政治
それはさておき、本書は大変良い本である。
国民が自分の権利と義務を考える上で、税金というフィールドで考えることが、もっともわかりやすいと思う。そのことが各税の枠組みが具体例を交えて説明されている。

たとえば、一部の金持ちや貧乏人でも税法を誤解している人の批判の的になる累進課税でも、所得の再分配効果が期待されているわけで、批判するならその効果を吟味しなければならない。

思うに、富というのは「マタイ効果」があって、同じだけの努力をしたとしても、生まれや運で少しの差がついたときに、富の蓄積は増幅されてしまうものである。そしてそのことが固定化すれば、国民の間に不公平感が蓄積し、結局は安定を欠いた格差社会になってしまう。つまり、課税の理屈も、その効果も、誰もが納得できるものだろう。

一方で、印紙税がそうじゃないかと思うのだけれど、税をとることを目的としたんじゃないかという税もあるようだけど。

税を盗られるものと考えていては、正しい税のありかたを考える主権者にはなりえない。

だから源泉徴収で税について考えないようにしているという見方もあるようだけれど。


以前、ある市の市長さんが、障碍者の方から、(今までいろんな優遇を受けてきたけれど)、ようやく税金を納めることができるようになったと嬉しそうに報告していただいた、という趣旨のことをしゃべっていたことを思い出す。

ところで、今まで意識してなかったけれど、地方税の税率は自治体によって違う。地方税法が定めるのは標準税率で、各自治体はその1.5倍までは独自の税率を定めることができる。
軽自動車税については、実際、標準税率の1.5倍(上限いっぱい)の自治体があるらしい。

で、思ったのだけれど、税率を安くして、他自治体住民の軽自動車の登録を引き寄せれば、トータルで増収になるんではないだろうか。
タックス・ヘイブンというか、リベリア船籍の船というか。ふるさと納税が、変な歪みを起していると批判されているから、それに代えてどうだろう(宣伝したら絶対批判されると思うけど)。

人間・始皇帝

tsuruma_ningen-shikoutei.jpg 鶴間和幸「人間・始皇帝」について。

始皇帝にかかる伝説の多くは司馬遷の「史記」による。
いうまでもなく「史記」が書かれたのは、始皇帝の時代から150年も後のことで、同時代資料とは言えない。
近年、古代の遺物(出土資料)の発見により、「史記」の記述に反するものが揃ってきた。
本書は、それら出土資料から、秦始皇にかかる数々の伝説を書き換える。

私(というか多くの人)は、始皇帝の諱は「」と習ったと思う。
本書では、まずこれが正される。諱は「」であったと。
当時の竹簡などの直接証拠がある。
傍証もある。「正月」を記述するとき、「正」の字を避けて「端月」としたという。
司馬遷の記述では、正月に生まれたから「政」と名付けたとされるが、そうではなくて、正月に生まれたから「正」と名付けられ、後に皇帝になったために「正月」の方が皇帝に遠慮したという話である。
また秦代には「政」の字はまだ使われておらず、「政事」は「正事」と表記されていたともいう。

他にもある。
始皇帝は、趙に質子として送られていた子楚の子ではなく、趙姫と呂不韋の子であるという話は広く言われる。呂不韋の妾の趙姫を気に入った子楚がもらいうけたが、そのときには既に始皇帝を身ごもっていたという話である。
しかし、子楚のもとに行ってから、始皇帝が生まれるまで12ヶ月あり、潤色する理由もないことから、やはり始皇帝は子楚の子と考えるのが適当だという。

第1章趙正出生―生誕の秘密(一歳)
第2章秦王即位―帝王誕生の背景(一三歳)
第3章嫪毐の乱―彗星は語る(二二歳)
第4章暗殺未遂―刺客の人物像(三三歳)
第5章皇帝巡行―「統一」の実像(三九歳)
第6章中華の夢―長城と焚書坑儒(四七歳)
第7章帝王の死―遺言の真相(五〇歳)
第8章帝国の終焉―永遠の始皇帝
嫪毐事件も別の分析がされる。
この事件は、宦官を装って後宮に入った嫪毐が、淫乱な母親趙姫を巨根で喜ばせてたところ、それが発覚して、誅罰されるまえに叛乱を起したというものとされる。
ところが著者は、秦の時代、夫を失った女が別の男と関係を持つことを不倫とはとらえていなかったという時代であり、むしろ母を一旦は罰するが、母に対する不孝であるとして、咸陽宮に戻すということをとりあげる。
また、呂不韋が年老いて趙姫を満足させることができずにに嫪毐を後宮に送りこんだとされるが、呂不韋と趙姫の関係も嫪毐事件で暴露されているはずなのに、呂不韋は事件後、丞相の地位は失うが、爵位・領地は二年後までそのままであったという。

おやおやと思ったのは「五十歩百歩」のこと。
「戦場で五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を臆病者だと嘲笑したら、どう思うか」と問う孟子にたいし、梁の恵王が「逃げ出したことには変わりないのだから同じだ」という良く知られた話。
ところが、秦の軍律では、逃げた歩数によって、処罰に軽重がつけられていたのだそうだ。
結局、梁(後の魏)は秦に滅ぼされる。

教訓: 五十歩百歩を曖昧にするものは、軍規を緩ませ滅びに至る。


本書ではさらに、刺客荊軻の事件や、遺詔のことなど、今まで信じられてきたことの多くに疑問がなげかけられる。

去年、NHKで放送されたザ・ヤング始皇帝 少年が乗り越えた3つの試練」(歴史秘話ヒストリア)は、「史記」の記述にもとづいて制作されていた。

この番組は、結構、新発見を採りいれる番組だと思っていたが、これは違った。
番組ホームページには、参考文献に、本書もあげられているのだけれど。
兵馬俑展とリンクした番組だったようで、歴史批判の方には眼が向かなかったのかもしれない。


2000年も信じられてきたことが、新事実の発見でつぎつぎに書き換えられる。
なんともおもしろい時代に生まれたものだ。

○○元年1月1日は困難なのか

rokujiro_kaigenss.jpg 天皇の生前譲位は、今上陛下を対象とした特別法で決着しそうな情勢である。

譲位が認められなかったら、気に入らない天皇を排除するには死んでもらうしかない。
実際、古くは暗殺された天皇もいたわけだし、海外の例では、終身皇帝という時期が永かった古代ローマでは、他に方法はないということで、多くの皇帝が殺されている。生前譲位したのはディオクレティアヌスぐらいかな。


皇室典範に定めがないから云々と議論が続いてきたけれど、一般に、定めがないということは、できないということを意味しないのが普通ではないだろうか。
陛下のご意向で、皇室典範を改正するとなると、天皇は政治に関わらないという憲法の趣旨に反するとか、難しい話もあるようだ。国会を信頼しているわけではないけれど、そもそも天皇は時の権力者によって、誰がいつ即位するかが左右されてきた歴史が圧倒的に長いわけで、国権の最高機関というところが手続きするのは、歴史的にも自然なんだろう。
いずれにせよ、皇室典範は、国民の権利義務とは関係ないし、陛下の意向があったにせよ、決めるのは国会というタテマエからすれば、高齢となったので引退しようというだけの話、わざわざ話を難しくしなくても良いようにも思うのだけれど。

そうして生前譲位が決着して、平成は30年で終わり、西暦2019年1月1日から新天皇ということになりそうだけれど、ここで宮内庁の次官という人から、元日は天皇が忙しいから、1月1日からの即位(践祚)・新元号はむずかしいと横やりが入った。

元号法
 (昭和五十四年六月十二日法律第四十三号)

1  元号は、政令で定める。
2  元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

   附 則
1  この法律は、公布の日から施行する。
2  昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

元号を改める政令
 (昭和六十四年一月七日政令第一号)

 内閣は、元号法 (昭和五十四年法律第四十三号)第一項 の規定に基づき、この政令を制定する。

 元号を平成に改める。

   附 則
 この政令は、公布の日の翌日から施行する。
しかし、思い返せば、昭和から平成への代替わり、崩御当日、践祚の儀式として、昭和64年1月7日 剣璽等承継の儀が行われている。そして平成元年は1月8日から始まった。
いくら想定していたとはいえ、この日を選んで崩御されたわけではなかろう、その慌ただしい中でも践祚礼は行われている。
正月の行事というと、ネットで調べると、四方拝というのと、歳旦祭というのがあるらしいが、践祚礼ができないほど忙しいのだろうか。

天皇が行う神事には、内の神事、表の神事、外の神事があって、この2つの祭儀だけではないのかもしれないから、宮内庁がいうようにもっと多忙なのかもしれないけれど。


私としては、宮内庁がどういおうが、国民にわかりやすく、事務的にも対応しやすいのは、1月1日に改元することだと思う。天皇が忙しいからというのでは、国民の混乱を避けたいという陛下の思いに応えていない(思いに答えたら憲法違反か)。
歴史的にも踰年改元(布告の年の末日までを旧元号とし、翌年の元日から新元号を用いる)が行われた例は多いという。昔から、民の暮らしに配慮されていたわけだ。

以前、昭和を続けるかどうかという議論もあり、やはり明治以来の「一世一元」を守ろうということで、元号法が制定された。生前譲位について法整備をするなら、元号法もセットでやれば良いだけだと思う。

改元をまず決めて、無理のない退位・践祚の日取りを選べば良いのではないだろうか。

吼える前に

C1DyXDsUQAABNOO.jpg いささか古い話になったけれど、今年の正月、
ベビーカー自粛要請で大騒ぎ」という報道があった。

東京板橋区の乗蓮寺が「ベビーカーご利用自粛のお願い」の看板を出したとツイートされ、それに対し、寺を非難する意見がネット上にあふれた、とりわけ、乙武氏のような有名人や、東京都議が寺を非難する意見をツイートしたり、ブログに載せたりした。
ところが、寺がなぜこの看板を出したかを取材すると、この寺はもともとは「ベビーカー優先」だったのだけれど、それを逆手にとって、ベビーカー1台に十数人が付いて全員が優先参拝したり、はては小学校5年生の子供を無理やりベビーカーに乗せて優先参拝をしたりと、やりたい放題の参拝者が現れ、とうとう、ベビーカーとの接触で怪我人が出るまでに至ったという。

件の都議は、それを知ると潔く謝罪していた。その態度は立派だと思うけれど、そもそも十分な状況把握をせずに、軽々しくブログに非難記事を載せたことは、やはり思慮不足、都議という政治的人間ならば、もう少し慎重さがあってしかるべきだっただろう。

こういう、一見、ケシカランことと見えることでも、よくよく事情を聴くとなるほどというものは結構ある。

前にも書いたような気がするけれど、街路樹の枝を切り落としている役所に対して、せっかく育って、夏の日差しを防ぎ、眼を楽しませているのに、酷い、そのうえ税金の無駄遣いだと抗議したところ、枝が張り出して信号機が見えなくなっているので、安全上必要なので剪定しているという説明を受けて、それなら当然と納得したという。
この例は、昔の話で、当事者に抗議して、理由を聞いて納得しているわけだけれど、この頃だと、こういうことをネットに流してフレームアップする輩がいるわけだ。

都市伝説かもしれないが、某ハンバーガーチェーンでは、出来上がってから一定の時間が経過したハンバーガーは廃棄にするという。これが本当なら、実に勿体ない話である。世界には飢餓に苦しむ人もいるのに。半額で良いから売ったら良いじゃないかと思うわけだが、もしそんなことをしたら、それを目当てに、ちょうど夕暮れのスーパーで値引き札が貼られるのを待つように、並ぶ人が出てきて収拾が付かなくなるだろう。(あるいは注文時に半額を前払いして、もし取りに来なかったら、他の人に半額で売るというようなルールを作るかな)。

かつて企業の社員採用で、指定校というのがあった。特定の大学を卒業したものしか入社試験を受けさせないというもので、あちこちから不公平と指弾されたものである。ただ、こういう制度にした理由というのはちゃんとあったそうだ。縁故採用をしない・断る言い訳に使っていたのだという。
企業側としては、指定校以外の優秀な人材を採用できない損失と、縁故で採用せざるを得ないできの悪い学生を採用する損失を天秤にかけたわけだ。指定校だけから採るつもりなら、みんな試験を受けさせて、指定校以外を不合格にしても良いわけだが、そうすると縁故採用の防波堤にはならない(縁故者を試験で落とすことは難しい)。だから「制度として」というガードを必要としたということである。
いわば「別件逮捕」のようなもので、類例としては、駐車場の「外車お断り」(暴力団排除が目的)とか、いろいろあるようだ。

こうした事例は探し出したらキリがない。
徒然草第十段には、

後徳大寺大臣の寝殿に鳶ゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心、さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にもいかなる故か侍りけん。

という話がある(高校の古文の教科書に載っていたので覚えている)。

そうかと思うと逆手にとった話もある。

茶店で買われている猫の餌用の皿が大変な値打ち物、これに気づいた目利きが、猫を売ってくれと言い商談成立。猫が使い慣れた皿も一緒にというと、主「いやこれは値打ちものの皿なので渡せません」。どうして値打ち物を猫の皿にしているのかと問えば、主「こうしておくと猫が売れますのや」(「猫の皿」)


現代に戻る。
携帯電話の解約は、店舗か電話受付になっている。店舗は客が多くて順番待ち、電話はなかなかつながらない。IT企業なんだから、Webで解約手続きを受け付けるぐらいお茶の子、そうしてくれたら顧客は便利だし、事務処理も効率化されて良いと思うのだけれど、これにもちゃんと事情がある。
簡単に手続きができると解約者が増えるおそれがある。来店や、電話をかけさせることで、まず解約者に心理的機制がかかり、なかなかつながらないことであきらめさせるように仕向け、いざ電話がつながれば解約は思い直すように説得する(応対マニュアルがあるらしい)。
どうだろう、そういう事情が解ってしまえば、面倒な手続きも納得できるのではないだろうか。できるかっ!

まぁ、瞬間湯沸かし器的に吼える前に、何か事情があるのだろうかと考えることが肝要だろう。
とくに権力のある人は。

デマクラシー(demagogue+-cracy)

img_08d2ef3a41ac950e70c8d05ac1fd8f14203665.jpg 昨日、トランプ氏の大統領就任式が行われた。

就任演説では、結束を掲げたけれど、ワシントンでは反トランプの人たちが暴徒化して、多くの逮捕者が出たと伝えられる。
「アメリカの製品を買い、アメリカ人を雇う」というときのアメリカ人に、WASP以外の人も含まれるのだろうか。

ある調査によると、支持率は40%、不支持率は52%だという。
これで大統領に選ばれるのだから、選挙制度に疑問を持つ人がいるというのも不思議ではない。

テニスで、1セットをタイブレークのすえ
6-7で落としたとする。
 獲ったゲームは、ラブゲーム(+4pt)
 失ったゲームは、最小得点差(-2pt)
とすると、セット計のポイント差は、
 4×6 + (-2)×7=10pt
10ポイント多くとってもセットを失う

5セットマッチを2-3で負けたとき、
 獲得セットは1ポイントも落とさず、
 失ったセットは前述のとおりとすると、
   24×2 + 10×3=78pt
78ポイント多く獲っても負けになる
米国は連邦制で州単位での意思表示という考え方が基調にあるという。
日本も小選挙区制をとっているから支持率が50%未満でも国会では過半数を持てる。

テニスでポイントを多く獲った方が負けることもある理屈である。


ただこれは選挙制度だけの問題ではない。

前に「多数決を疑う」という記事を書いた。

集団の合意形成の方法としての多数決を、集団のメンバーの意思を集計する函数(集計函数)の一種とし、その他の各種の可能な集計函数との比較や、集計函数に望まれる性質について書かれた本(社会的選択理論)についてである。


その記事にも書いたけれど、論理的・科学的に決定できる命題を多数決で真偽判定するのは間違っていると思うのだけれど、それだけではない。
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こんなところに多数決が出しゃばったら、昔の地球は平たくて、今の地球は丸くなったことになるし、
昔は魔女が多かったが、みんな退治したから今は居なくなったって話になる。


多数決などの集計函数では、通常、集団のメンバーは独立した個人であることが前提されているが、実際の社会では、個人の意思は周囲の意見に大きく左右される。

「多数決を疑う」では、独裁は1人のメンバーの意思のみを反映する集計函数として扱われているが、多数決の場合でも、メンバーの意思にバイアスがかかっていれば程度の差はあっても同様の状態になるだろう。
これは「見かけ上の多数決」と言うべきものではないだろうか。

ポピュリズムはエリート専制よりましといっている元O府知事・O府市長がいるけれど、ポピュリズムは大衆に迎合するだけではなくて、見かけ上の多数決を正当性の根拠とし、そしてその見かけ上の多数を創り出す政治手法だろう。
その意味では見かけが違ってもエリート専制もポピュリズムも実態は同じじゃないだろうか。
古代ローマの人も言った:「アテネは民主政をとることで、ペリクレスの独裁が強力に行われている。」


demonstration_march.jpg 大塚久雄氏が何かで書いていた話だが、デモ行進の群衆の中の個人は、自分では動く方向を決められないが、その行進の推進力になっている。
これは経済活動のたとえだと思うけれど、集団の意思と力というものも同じじゃないだろうか。

さらに進むと、集団極性化(group polarization)という現象も起こる。いわゆる群集心理。
また、パニック状態では、デマ情報で群衆がより危険な方向へ誘導されることがあるという。
魔女狩りが起こる!

デモクラシー(democracy)ならぬデマクラシー(demagogue+-cracy)に陥らなければ良いと思う。

チェンジ、オバマ

今日1月20日(日本時間では明日)、米国大統領就任式が行われる。

反対デモも計画されているとかで、ものものしい警備がしかれるようだ。

"Change"、"Yes, we can"で迎えられたオバマ氏も、"Change, Obama!"と退場を命じられた。

トランプといえば、ジョーカーが連想されるけれど、これはジョークではない。

"Make America great again"というけれど、
"Make America threat again"となっちゃうのか。
世界の警察官はやらないというが、すでに脅威にはなっている。

自分の主張と異なる相手は恫喝。
米国大企業は唯々諾々のようだが、トヨタはタイミングが悪かったみたい。

その一方で中小企業やプア・ホワイトの人気はかなり高いらしい。
今のところ主張は一貫しているようだ。個々の問題に対して、うまく気を惹く言葉が受けていると思う。

しかし政策に一貫性、あるいはバランスというものがあるのか、それはわからない。

とりあえずトランプ景気とやらで、アメリカは景気が良いという。その余得がこちらにもきてくれるうちはいいけれど。
所詮、裏付けがあって、実物経済が良くて、というわけではない。

はじめは良いけれど、そのうち風向きが変わることになるのではと心配である。
日本でも、アベノミクスが景気をあげたのははじめのうちだけ。それも株価という指標以外にはこれといってなく、実感できるようなことはない。

ブレグジット・ショック、トランプ・ショック、まだまだショックが続くのでは。

今日は文章はどうでもよくて、久しぶりのモーフィングで遊ぶのが趣旨。


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豊洲市場、落としどころが見えなくなったかな

関西人としてはそれほど関心は強くない東京都豊洲市場問題。
だけども、前に、「豊洲市場、落としどころが見えてきたかな」なんていう記事を書いたから、フォローしておこう。

周知のとおり、先日公表された汚染調査結果で、落としどころが全く見えなくなってしまった
市場のホームページは、汚染が全体に広がっているわけではないなど、安全性を強調するような書き方がされていたけれど、これも書き換えられるのかな。

そういえば、以前、市場のホームページに、全体に盛り土をしているとあったのが、盛り土がされていない場所が発覚して、ホームページが調整中になったことがあった。


読売新聞に、汚染場所のマップがアップされていたので、再掲しておく。
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fukushima_osen_img_3.jpg 見た通り、結構、広範囲に拡がっているようだ。
今までは、たまたま高濃度汚染の場所があったが、封じ込め可能という雰囲気だったように思う。

多くの場所でデータがとれたわけだから、汚染物質の濃度のコンターとか作って公表してくれないかな。

コンター図のイメージとして、福島の放射性物質汚染マップを掲げたけれど、ネットに適当なサンプルが見当たらなかっただけで、他意はまったくありません。


「進むも地獄、退くも地獄」という状況。
誰が地獄を作ったんだと、さぞかし市場の利用者や都民が恨んでいることだろう。

政党復活枠

PK2016112602100052_size0.jpg 年が明けると、多くの都道府県では予算の復活折衝がはじまるそうだ。

12月頃に財政担当の査定が行われ、財政担当が決めかねた事業(査定では予算を認めなかったもの)について、知事の判断を仰ぎ(復活折衝)、それを受けて、2月頃からはじまる議会へ提出する予算案が作成されるという手順だという。

当然、知事が復活するためには、相当する財源が用意されているはずで(でないと、既に担当査定でOKのものを削らないと収支がバランスしないが、それをするのは相当の剛腕の知事でないと難しいだろう)、いわばこの額が知事の裁量の範囲ということになるわけだ。


その復活折衝にあたって、東京都の予算編成では「政党復活枠」というのがあるのだそうだ。
200億円と伝えられているその枠は、政党の要望によって復活する分として、とりわけられているという。
小池都知事はこの枠を廃止するという。

都知事の説明では、全国道府県で同種のやりかたをしているところはないという。
本来、予算編成は知事の権限である。議会は知事が提出した予算案に修正を加えることはできるが、予算案として提出することはない。

某自治体では議会が認めなかった事業について、歳出予算を減額したことがある。歳出の減額であれば、歳入側は予備費に充当するなどして予算の体裁はとれるだろうけれど、歳出増だったら大変である。(というか、税収見積もりがあまいと指摘されて、歳入減額されても大変だろう)


予め議会用にとりおいたとしても、各政党の要望に応じて予算に組み入れるのは知事側が最終決定するだろうから、形式的には問題ないというのが議会側の意見のようだ。

この慣習がいつ頃からできたのか知らないけれど、おそらく知事と議会の関係を円滑にするためにできてきたものだろう。

議会:こんなことをしてもらいたい。
知事:議会用の枠の内でしたら要望にお応えできます。

(子:おもちゃ買ってぇ~
 親:おこづかいがあるでしょう)


americano_kinkenseiji.jpg というわけで、知事側は、議会の際限ない要求を抑える言い訳として利用し、議会側は、自分たちの要望によって実現した成果であると誇る。

米国には「イヤーマーク(ear mark)」という言葉があるそうだ(軽部 謙介「ドキュメント アメリカの金権政治」)。
議員の要望で実現した事業については、印(イヤーマーク)を付けておく。そうすると、議員が自分の要望がどう取り入れられたか確認でき、成果を誇ることができるのだという。

昔、聞いた話だけれど、ある自治体では事業担当者がなんとかして予算を付けてもらいたいときに、議員にネタを持ち込んで、議会質疑などで事業の推進を要望させ、それを根拠に財政担当に予算を付けるよう圧力をかけるやりかたがあるそうだ。

財政側は、予算編成権の侵害であると憤るのが普通。仮に要望が通って予算がついても、後年度でしっぺ返しをしたりするらしい。


ホントかウソか知らないが、交通量の多い幹線道路にたくさん歩道橋が設置されるのは、地元議員が子供の安全のためにと自治体に要望して、それが実現することが多いのだそうだ。歩道橋というのは目に見える成果としてわかりやすい。近隣住民は「○○先生の橋」と呼ぶのだとか。

歩道橋の設置はそう高額ではないのかもしれない。なぜなら、近くに信号のある交差点があれば、どこともつながらない単独の歩道橋が使われることはあまりなく、それに高い税金を投入することはしないだろうから。


議会制民主主義には、選挙以外にもいろいろコストがかかるものらしい。

議会: 議会軽視だ!
行政: いえ、議会経費です。
都民: こちとら江戸っ子でぇ、シとヒの区別はつかねぇや。


山田雄司「忍者の歴史」

yamada_ninjanorekishi.jpg 「真田丸」完結。
伝えられているように、「手柄とせよ」と首をさしだして討たれることもなく、しかし、晴れやかに、そして画面もホワイトアウトして、最期のシーンをうまく処理したと思う(ちょっと肩透かしをくった感じだけど)。

歳をきかれた佐助が「五十五歳です」と答えて、わ、歳とらんな(本人は腰が痛いとか言ってたが)というか、信繁より年上やないかと、不思議な連帯感を醸し出していた感じがする。

「真田丸」はそれぐらいにして、今日はネタに困ったときの「書評」。無理やり佐助を持ち出したが、とりあげるのは、山田雄司「忍者の歴史」

「忍者の実像」というわけだけれど、それは「第一章 戦国時代の忍び」の部分で概ね尽くされている。
「第二章 兵法から忍術へ」「第三章 忍術書の世界」あたりになると、忍者の実像というより、忍術というものがどのように書かれてきたのかが中心になり、「忍者の実像」というより、「忍術書の実像」という感じ。

もちろん、私は忍者について良く知っているわけではないのだけれど、そう思うのは、二章以下は、江戸時代に編纂された「忍術書」の内容紹介が中心になっていて、荒唐無稽と思えるようなことでも、それ自体に批判を加えずに紹介しているようだから。
忍者が活躍する場面がどれだけあったのか怪しい江戸時代にまとめられた「忍術書」というのは、奇書の類かもしれないし、本書でも偽書としているものもある。

著者は、決して「忍術書」を鵜呑みにして、これが忍術だというわけではない。超人的な忍者像は間違いで、基本的に諜報活動を行う専門家としてとらえ、当時の記録からも読み取れる、体力より知力が求められるという、誰が聴いても納得できる説明をしてくれる。
たとえば、忍者は手裏剣などの武器は持ち歩かない、何故なら、諜報が主活動だから、そうしたものを携行していれば、当然、怪しい奴となるからだと、本書は指摘する。その一方、火術(爆薬)などの扱いに習熟していなければならないという記述もある。

だとしたら、忍者というのは、やはりいろんなタイプがいて、一括りに考えてはいけないのかもしれない。

sanadamaru3355.jpg 「真田丸」に出てくる最高の「忍者」は、佐助でも、出浦昌相でもなく、なんといっても厨の爺さんであろう。おそらく、視聴者の96%以上(私も)が、許しがたい奴と憎んだに違いない。
徳川に通じたのは、個人的怨恨からだったにせよ、諜報活動はするわ、偽情報で攪乱するわ、最後は城に火までかける。そしてそれがすべて効果的で、戦の勝敗に直結したと描かれている。
まさに忍者として、最高の働きである。
しかも、この人は実在だったらしい。
 [⇒Wikipedia 大角与左衛門]
息の根を止めなかった信繁の手ぬるさが悔やまれる。
こいつ(与左衛門)がおらんかったら勝ってたかもしれんやん!

616HYN2RboL.jpg さて、問題は忍術の方。忍者の活動がどうあれ、子供の頃、少年マガジンなどで紹介されていたような忍術、それらは忍術書に根拠があったのだということはわかるんだけれど、平和ボケして、忍者が忍者らしい活躍をすることがほとんどなくなった時代、机上で考えた「忍術」なのではないだろうかと思う。

それでも、子供の心をおどらせるのは、超人的な術。
蟇に化けるとか、何メートルもジャンプするというような自然法則を無視した荒唐無稽は別として、鍛えられた体というのは本当らしい。テレビで、忍術家が関節をはずす様子を見たことがあるけれど、こういう荒技は、忍術書にも書かれているそうだ。

忍者の本当の姿、というような言説が、何を根拠にかたられるのか、そういう眼で読むと、この本は基礎知識としておさえておくのには、文献学的には良いのかもしれない。

しかし、普通の読者としては、文献学などはどうでもよくて、忍術書に書かれていることの、どれが本当で、どれは脚色あるいは虚構なのか、怪しげな忍術のほうをこそ、はっきりしてもらいたいと期待したいわけだ。

プレミアム・フライデー

20161212001-a.jpg 今日は金曜日、月末じゃないけれど。
そう、報道によると月末の金曜日に“プレミアム・フライデー”というのをやるんだそうだ。

「プレミアムフライデーの実施方針・ロゴマークが決定しました」(経済産業省)


毎月、月末の金曜日は午後3時に仕事を終えて、リフレッシュ(消費活動)に精を出しましょう、商店やアミューズメント施設は、それに合わせてイベントを行いましょうという、これは「呼びかけ」である。

実施は再来年2月からだという。
もちろん、そういう法律ができるとかではなくて、単に各企業に趣旨を理解して協力してくださいということらしい。

報道では、実施の障害になることとして、未だ時間年休という制度をもっていない企業があると指摘していた。

そもそも、時間年休制度というのは、有給休暇のうち、年間最大5日分(つまり5×8時間)を時間単位で与えることができるという制度。ただし、本来、有給休暇は労働者のリフレッシュが目的で1日単位が基本だから、労使協定で定めておく必要がある。
プレミアム・フライデーは午後3時からとのことだが、毎月実施なら 5×8/12=3時間20分、時間単位で3時間が限界ということからの逆算か。(私の今の職場は17:15が終業時刻だから、14:15から休むということになるのだろうか。)


ニュースへの反応としては、
  • その前に定時退社だろう
  • その分、他の日にしわ寄せがくるだけだ
  • 時給にプレミアムを付けてもらいたい
など。

こういう心配や希望はあるとして、プレミアム・フライデーの取り組み自体は悪いことではないと思う。
消費の刺激だけでなく、これに併せて、無駄な仕事を整理して、プレミアム・フライデーが実現できるように改革したら良いのではないか。
日本の生産性が先進国中最低レベルなのは、生産額が低いのではなくて、投入労働時間が長いからだと私は思っている。

プレミアム・フライデーとは関係ないけど、チームで仕事というスタイルが、チームの合意が得られるまで我慢比べの時間になったりしてないか。チームの責任として、一人一人が責任を回避する体質になっていないか。マネージャーが見るべきところはたくさんあると思う。


高校か大学のとき、テレビで、ドイツの航空会社のCMを見た覚えがある。週休4日だといってたように思う。
日本では未だ週休二日制にもなっていないときである。(私も就職したときはまだ日曜だけ休みで、土曜日半ドンの時代)

バートランド・ラッセルは、労働は一日の大半を考えずに済むというメリットがあると言った。どういう文脈で言ったのか、私は高校の英語の参考書でラッセルの論考の一部を取り出したものしか読んでいないから、氏の真意はわからない。単なる諧謔だったのかもしれないし、自ら目標を定めて考えることの難しさを強調するためだったのかもわからない。

プレミアム・フライデーです、好きなことをしてください、突然言われても困る人は多いかもしれない。

私はその頃には毎日が日曜日になってそうだ。困ったことだ。


大統領の弾劾

n-PARK-GEUN-HYE-large570.jpg 韓国の朴槿恵大統領に対する弾劾決議が韓国国会で可決された。

前に、「韓国の政治スキャンダル」では、そんなに大きな問題なのかなぁ、と書いた。自分の不明を恥じるしかない。

その後、このスキャンダルはどんどん大きくなって、まさに燎原の火の如し。

ある説では、北朝鮮の謀略が働いて騒ぎを大きくしているというような説もあった。
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週刊誌なども、さまざまな方向から、この事件をとりあげていた。
ある記事によると、そもそも韓国では、偉くなった人が、親戚・友人を優遇するのはアタリマエというか、それをしないと人間失格ぐらいに評価されてしまうのだとか。
だから歴代大統領がそろって退任後に、悲惨な末路を遂げたり、親族の悪事が追及されるのだという。

それにしても、この大統領をクビにしようという国民の怒りはどうだろう。
そしてこの怒りの先にあるものは。

大統領弾劾という結果は何も生産的なものはない。
ここからのビジョン、そんなものは何にもなさそうだ。
ただ、一つだけ確かなことがある。
外に敵をつくって、それを攻撃して怒りの矛先を変えることだ。

IR法案、ひょっとしてカジノ依存症?

casino_Las_vegas.jpg 統合リゾート(IR)法案が昨日衆議院を通過。
カジノの設置も可能にする、というかそれがあるので賛否が分かれる法案である。

私はカジノが悪だと思っているわけではないし、カジノが必要だと思っているわけでもない。
ただ国会審議がちょっと乱暴だと思っているだけだ。

論点に全く触れず、一方的にお経を唱えたり、俳句を披露したりする「質問」というのも審議時間のうちだというのだろうか。


それはともかく、反対者が一番心配しているのは、ギャンブル依存症が増えるということみたいで、というかこればかりが強調されている。
たしかに、ギャンブル依存症の悲惨な実態を伝える情報番組も見たことがあるし、若い頃住んでいたマンションの近所に競輪場があって、自治会長を拝命したときに、競輪ですった人が金を借りにくるような事件があったことを聞かされた。一方で、地元協力金なるものも自治会としていただいていた。

賭け事で莫大な借金を抱えたくせに、純愛だとか偉そうにいう奴の話もある(「戦争と平和」)。


だけれど、統合リゾートができたからといって、もちろん依存症は減りはしないだろうけど、法案でイメージされているような高級なカジノだったら、私のような貧乏人には縁はなさそうな気もする。

現金100万円以上持ってないと入れてもらえないとかだったら到底無理、10万円でもアブナイ。
時代劇でも良くある、貧乏人が賭場へ行ったら「金は持ってんのか、帰れ、帰れ」と叩き出されるシーンが。


le-joueur-blu-ray.jpg その貧乏人だから、かえって、若干の憧れはある。
ドストエフスキーに「賭博者」という小説がある。ジェラール・フィリップ主演の映画もテレビで放送されたことがある。
金持ちのお付きで華やかなカジノに来た青年が、賭け事にのめりこむ姿が生々しく描かれている。
007シリーズには、たびたびカジノのシーンがある。きれいな姐ちゃんがいっぱいいるんだ。


なけなしの金を注ぎ込むから悲惨さが際立つので、大金持ちがどれだけ損をしたってそう酷いことにはならないという感じもある。大金持ちとかは、何十億円もするヨットや別荘を賭けたりするんだそうだし。

以前、どこかの大会社の二代目ぼっちゃん社長とかがギャンブルで会社の金までつぎ込んだということがあって、従業員にも迷惑がかかってたら酷い話だけれど。


じゃあ賛成かといわれたら、それはそれで微妙。
単純にカジノ解禁であるなら、カジノ収益に高額の税をかけ、カジノ主催者が、ギャンブル依存症になりそうな人をきちんと指導する義務を負って、健全に運営されるのならアリかなとも思う。

ラスベガスなどでは、客の動きを監視し、イカサマ師のチェックはもちろん、負けがこんでいる人は賭場から引き離すなどもやっているという。返せない借金を背負わないようにして、ここですっからかんになったら、稼いでからまたおいでということなのかもしれない。身ぐるみ剥ぐことが目的なのではなく、「健全」に儲けを継続的に出せば良いのだから。


fc547aa1267421d5307e729bb42b1ede.jpg 気になるのは、シンガポールその他を引き合いにだして、カジノがないと国際的なリゾートが成り立たないという論の方。
もしリゾートを成り立たせるのにカジノの収益を使うと言うなら、収益はみんなリゾート内に落ちちゃうんではないだろうか。少しでも外部におこぼれがあるんだろうか。
この国の公共事業の様子では、むしろ逆にリゾートを成功させるために税金を投入しそうな気がしてくる。

先日のテレビ番組では、カジノは既に過当競争になっているという報道もあった。米国のアトランティック・シティはさびれてしまったという。

ちなみに米国ではネイティブの居留地にはカジノが開かれているところが多い。ネイティブの本来の経済活動はとっくにできなくなっているし、他の産業といってこれというものがない。てっとり早いのがカジノであるらしい。そしてこの許認可権限が政府に握られていて、この利権が地域支配のカードとなっている、そういう話も読んだことがある(軽部 謙介「ドキュメント アメリカの金権政治」 (岩波新書))。
こっちは「カジノ依存症」といっていい。


また、カジノは何と言っても、古来、犯罪の温床になっていたのは事実だろう。

賭場で莫大な借金を作って、借金のカタに娘を女郎にし、果ては金欲しさに強盗をはたらいて……、とか、
賭場の利権をめぐってヤクザが抗争を繰り広げる、そのとばっちりで罪もない庶民が殺される……

というわけで、健全な経営とはどのようなものであるべきか、リゾートとしてどれほど収益、特に一般国民にどれだけ還元されるのか、そうした面を審議するには、あまりにも短い時間だったのではないだろうか。

今の国会情勢からすれば、法案は通るだろうけれど、せめて健全なカジノ経営にかかる政令を工夫していただきたいものだ。
で、金持ちから巻き上げて、貧乏人に分配、そして景気が良くなる、なら、悪くはないのかもしれないけど。

全然話はかわるが、天皇陛下の生前譲位のことも、いずれ国会で議論されるらしい。
おいおい、国会なんかで決めて良いのか。

「ヌーハラ」って知ってる?

yd_kubota2_nuhara.jpg このところ、メディア不信について何度か書いたけれど、ときどきチェックするビジネス情報サイトに興味深い記事があったので紹介する。

「ヌーハラ報道」に、目くじらを立てる理由という記事。

「ヌーハラ」という言葉は初めて聞いたから、何のことだろうと思って読んでみた。
「ヌードル・ハラスメント」を縮めて「ヌーハラ」というのだそうだ。麺類を食べるときの音がうるさいということらしい。
落語では麺類をすする音は重要である。そばとうどんは微妙に演じ分ける(ラーメンをすする音というのは未だ聞いたことがないけれど)、というような奥深い日本文化が、外国人に理解されないことだろうかと思ったけれど、そういう話ではなかった。

この記事は、そもそも「ヌーハラ」などというものは、少なくとも社会問題としては存在しないとし、これを面白おかしくとりあげて拡散しているマス・メディアの姿勢を批判するものだ。
「ヌーハラ」などは笑い話で、いつしか終息するだろうけれど、この記事では、デマが人の生命を奪う罪深い事例が紹介されている。

米国あたりには、超常現象や怪しげな事件を専門に取り上げる「新聞」があると聞いたことがある。まともなアメリカ人は、その新聞全体を一種のジョークとして楽しむのだそうだが、この記事を取り上げて、米国の新聞でも報道されていますと、まことしやかに増幅する日本のメディアがあったりする。

大した問題でもないことを、さも重大なことのように取り上げたり、ネットの怪しげな風説を興味本位に取り上げる。
裏をとる取材も、科学的な追求もしない。

政府などの報道発表はそのまま転載する。
官僚の間では、「マスコミの脳は『小鳥の脳』だから、これくらいの情報を食わせておけばいい」と言われているそうだ。
官僚側はそれで良いかもしれないが、国民としては、これがさえずるから始末が悪い。

決定版 江戸散歩

2016-11-03_085202-crop.png 東京の人が大阪へ来て、展望台から街を見ると「何だこの街は、緑が全然ないじゃないか」と言うらしい。
ほっといてくれ、という気持ちもないわけではないけれど、実際そうなのだから困ったものだ。

たしかに東京タワー(未だスカイツリーに行ったことがない、建設中の姿は良く見たのだけれど)などの展望台から、都内を眺望すると、あちこちに緑地が散在している。
某テレビ局は敷地にある「毛利庭園」からたびたび中継画像を流している。

けれども、こういう姿は、別に東京人が偉いとか、政府や東京都がしっかりしているからだとは言えまい。すべては江戸幕府の遺産といって良い。
もし大阪が首都になっていたなら、こういう景色にはならなかったに違いない。
理由は簡単である。武士の街だったから。

山本博文「決定版 江戸散歩」は、その事情を具体的に教えてくれる。
KADOKAWAの電子書籍が割引販売されていたときに、何かないか見ていて、この著者なら間違いないだろうと思って買ったもの。

フォーマットがイメージだったので、テキストを自由に拡大(つまり文字サイズにあわせて改行改頁)できないので、スマホの画面で見るのは困難。PCか大画面のタブレットで読む。
もっともイメージ収録というのもしかたがない、とりあげられた各所の写真が数多く収録され、レイアウトされているのだから。


2016-11-03_085328-crop.png 歴史上のエピソードを紹介しながら、尾張屋版江戸切絵図と現在の地図を重ね、往時の様子と今の姿を、解説してくれる本で、江戸の観光ガイドになっている。
東京の公園というのは、その多くが、将軍家や大名の屋敷跡なのだそうだ。

地方にある名園の多くが大名庭園だったのと同じ。
日本三名園とされる金沢兼六園、岡山後楽園、水戸偕楽園、いずれもそう。家人の郷里の香川県には栗林公園、中津万象園がある。
地方に分散しているのと同じくらい、江戸に集結していたのかもしれない。

これらの大名屋敷は、庭園が公園になったり、公共施設になったり、中には民間宅地になったものもあるようだが、それだけのゆとりある空間を都心に保持していたから、ど真ん中に政府機関や公共施設が立地できた。
(やはり大阪や京都では近代日本の首都にはなれなかっただろう)
もっとも江戸の総面積の1/6に、半分の人口=50万人が住んでいた町人地の方にはゆとりがあったはずはないけれど。

それはともかく、オールコック「大君の都」では、

将軍の都は心を奪われるほど美しい。……
ヨーロッパには、江戸のように沢山の素晴らしい特質を備えている都はない。また、町のたたずまいと周囲の風景のこのような美しさを誇れる都もない。……

とある。
そのなれの果ての東京だけれど、そのゆとりがあったから今があり、そして、やはり、ところどころにはその面影が残っているというわけだ。

そして、この本で紹介される数々の名所のほとんどに行ったことがないことにも思い至った。

現役の頃は頻繁に東京に行ってたけれど、たいてい日帰り、とんぼ返りだった。
かといって、用事もないのに東京なんて行くかなぁ。


福岡市で陥没現場がまた沈下

2016-11-26_220118.png 先日、大きく陥没した福岡市の道路が、また沈下したと大々的に報道されていた。
この陥没事故は、わずか1週間で復旧したことが、海外では高く評価されているそうだ。そこが、また凹んだということである。

私は、なんといいかげんな復旧工事をしたのかと責めるつもりではない。
沈下したということを聴いてまず思ったのは、そりゃ沈下するだろうよ、よほど密なもので隙間なく埋め、完璧に均一に整地しないかぎり、沈下するのは当然だろうということ。
関空などは、何年、何十年で沈下することを想定して、建物にはジャッキが備え付けられている。

それに報道では、市側ではある程度の沈下(80mm程度。今回は70mmぐらいの沈下)は想定内だという。
市側は、監視カメラをたくさん設置していたというし、沈下を検知してからすぐに、道路を封鎖して安全確認に念を入れている。
思うに、今回については、市側はできる限りのことをしていたように思う。
もし責めるとすれば、沈下がおさまるまで数十年間、道路を封鎖しつづけなかったということだろう。

それより気になったのは、これが重大事件であるかのように、全国放送(たとえばNHKの午後7時のニュース)のトップ記事として、長時間放送されたということ。
これって、それほど重大なことなんだろうか。

報道するなというつもりはもちろんないけれど、市側の説明と土木の専門家の意見、過去の事例などなど、きちんと調べて、どの程度の重大性があるのか評価してるのだろうか。
それに、今後の沈下についての情報提供はなかったようにも思う。最初ある程度沈下すれば、その後はあまり沈下しないと思うけれど。

メディアは、責める側にまわって煽り立てることが正義だと勘違いしてないか。
この姿勢は、ポピュリズム政治家と同じだと思う。
マスメディアが、ポピュリズム政治を生み出しているのではないか。

この国のメディアは、所詮、イエロージャーナリズムだったのか。
メディア不信だ。

給食中止の撤回

2016-11-15_152853.jpg

三重県鈴鹿市の給食中止で市長が方針表明

 三重県鈴鹿市が、野菜価格の高騰を理由に、市立の幼稚園と小学校の給食を2日間中止にするとし、その後撤回した問題で、市は、15日、中止を回避する分を防災訓練の炊き出しなどで、対応する方針を示しました。
 「2回削減した給食のうち、1回分は実施することとし、もう1回は、災害時の訓練を兼ねた炊き出しを行い、備蓄食と合わせて給食の替わりとして提供します」(鈴鹿市  玉川登美男教育長)
 鈴鹿市の末松則子市長は、15日、給食中止の回避策として、1日分を防災訓練での炊き出しなどを行い、もう1日分は献立を変更し、食材費を抑えることで対応する方針を示しました。
 市の教育委員会は、先月、野菜価格の高騰を理由に、市立の全ての小学校と幼稚園で、来月20日と来年1月12日の2日間給食の中止を決めましたが、市長がすぐに撤回を表明しました。
 防災訓練は、来年3月10日に実施し、費用は公費で負担する考えで、市は、今月中に結論を出したいとしています。

CBCテレビ

■発端の記事
 【野菜高騰で給食中止 鈴鹿市、今冬に2日間(中日新聞)】
食材の値上がりで学校給食が提供できないという問題、市の教育委員会が中止を決定し、即座に市長が撤回するとしていたが、このほど、その対応方法が発表された。

もともと2日分の中止を予定していたところ、1日は献立を変更して食材費を抑え、もう1日分は防災訓練の炊き出し(備蓄?)で対応するのだそうだ。
とりあえず、これで学校給食の中止は回避されたわけだ。

このところ野菜が高騰しているようで、家人が行っているグループ購入の注文書には、「価格が高騰していて注文時の価格で納品できない場合は、注文に応じられない場合がある」という但し書きが入っているそうだ。

それはそうとして、最初に給食中止の報に接した時に、そんなことができるんだろうか、と疑問に思った。
学校給食というのは、市から補助も出ているだろうけれど、保護者も給食費として負担していると思う。

そうなら、給食というのは、学校、というか教育委員会と保護者の間の契約、一定の負担をすれば期間中の給食が提供されるという契約なんじゃないだろうか。それが、原材料費高騰により、提供できませんで理屈が通るんだろうか。

先日、地元の文化祭のことを記事にしたけれど、このとき地元農家の協力でナスを無料配布する予定になっていたのだけれど、天候不順ということでそれができなくなった。しかしナスの引換券は既に各戸に配布してしまっているから、何も出さないというわけにはいかない。しかたがないので、自治会予算(自治会費は毎年度繰越金が出るぐらい余裕がある)でタマネギ、ジャガイモを購入して、ナスの代わりに配布することにした。

こんな話も思い出した。
ある事業所では、学生対象のイベントを実施、プログラムでは合宿も予定されていたが、台風接近のため合宿を中止した。相当する内容は別途実施したが、予定していた飯盒炊爨は中止となった。合宿施設は食材は用意済なのでその分のキャンセル料が発生する。

さて、一方の参加者側は、予定通りのプログラムを受けていない。本社では「一旦納入された参加料は返金しない」という一文があるし、キャンセル料に充当し、返金する必要はないと言う。
営業所側は、その一文は参加者都合というのが当然の前提で、主催者都合の場合にはあてはまらないと判断、本社の指示には従わなかった。本社は、キャンセル料は持ち出しになるから、監査で不適正支出と指摘されても責任は負わないと言うので、問題になったら所長・次長が私費で弁済すると押しきった。

監査で問題になるより、返金しなかったときのクレームのほうが大きな問題になるだろうし、まともな監査人なら、実費徴収しておきながら、サービスを提供せず相当額を返金しないことが不適正と判断すると思うのだけれど、読者諸賢のお考えは如何。


子供たちがかわいそうとか、親の負担が、とか、そういう意見があったことは想像に難くないけれど、そもそも法的に問題がないのかという議論はあったのだろうか。
今回は市長の決断で丸くおさまったようで、これはこれで良かったと思うけれど。

この記事を書いていて、アップせずに寝かしていたところ、フォロー記事があった。
市会議員の問題意識は私とは違うようだが、行政ではそれがアタリマエなんだろうか。

過労死と電通「鬼十則」

s_ice_screenshot_20161107-110222.jpeg 電通社員の過労死(自殺)がクローズアップされている。
一言で言えば、酷い会社である。あまりにも前近代的で、労働生産性の低い、効率の悪い最低の企業である。
苛酷な労働というが、無駄に苛酷、つまり苛酷さが自己目的化していたのでは。言い換えれば、全社イジメ体質だったのでは。

この会社は、仕事の成果と投入する労働の関連について、何の分析・評価もせず、生産性の低さに問題意識を持っていなかったに違いない。
およそ、科学的経営ということを知らない田舎企業と言われてもしかたがない。
それを見直す機会は、いくらでもあったはずである。まして、この会社は二十数年前にも社員の過労死自殺を起している。
それをしなかったのは、仕事というのは厳しいものだという観念に凝り固まり、厳しいということに安住、自己満足していたからではないだろうか。

十数年前、私も所属課の人事担当を仰せつかったことがある。
課員の異動、勤怠管理、健康管理、セクハラ相談(だれも相談にこなかった)など。

人事担当になると、いろんな研修を受けさせられる。
健康管理、とくにメンタルヘルスや過労死問題もテーマになっていた。
過労死問題の研修では、当時でも既に、過労死認定があれば補償は1億円を超える時代になったということが解説されていて、その兆候に早く気付くことが人事担当には求められていた。
もちろん私がいた職場でも、残業の多い職員は結構いたけれど、過重労働という問題にまではなっていなかった(メンタル面でちょっとというのはあったけれど)。

こういう労働安全衛生について考える機会が与えられたなら、成果の上がる働き方を追求するのが真っ当な会社というものである。

 電通鬼十則
 一、仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
 二、仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
 三、大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
 四、難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
 五、取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
 六、周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
 七、計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
 八、自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
 九、頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
 十、摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。
ところで、この事件に関連して、有名な電通の「鬼十則」についても、厳しいルールだという取り上げ方がされている。この「鬼十則」は、私が前いた会社でも良く知られていて、ある人は厳しいルールだという評価をしていたけれど、また別の評価もあった。
たとえば、

  • 「仕事は自ら創る」というのは、押し付けられた仕事より、自分がやりたいことをやる方が楽しいと考える。
  • 「先手先手」というのは、守りに入るより、攻めるほうが、主導権を持てる分、負担が少ない、という意味。
  • 「周囲を引きずり回せ」というのは、何でも自分でやらず、他人の力をうまく使って成果を上げるという意味。

「鬼」とついているから厳しいように感じるけれど、こう考えれば、仕事を楽しく、少ない負担で成果をあげるという意味にもとれる。

そもそも、頭脳労働というか知識労働というのは、時間に縛られるようなものではない。若い頃、上司から、「24時間考えろ」と言われて、「それじゃ寝る時間ありませんよ」と抗弁したら、「夢の中でも考えるんや」と言われた覚えがある。
また、あるとき、六二郎さんはいったいいつ仕事をしてるんやと言われたこともある。職場では本を読んだり、馬鹿話をしたりしていて、普段、手を動かしている時間が少なかった(「雑用」もそれなりにあったけれど)。もちろん、要所要所の企画書や意思決定資料はきちんと用意したし、年度末などには報告書一冊をきちんと書き上げていたわけだけれど。

どんな仕事でもそうだというつもりはないけれど、たとえば、何か企画をまとめようというときは、手を動かす時間はそう多くない。企画書というのは簡潔・明瞭にまとめられているべきで、短いほうが良いものである。問題は、ビジョンをどう熟成させるかであり、時間をかければ、まして残業すれば出来るものではない。それに至るまでに、それを根拠づけたり、補強するための資料収集と、利害関係者の理解など、手順はいろいろあるけれど。

なにより、これらの作業こそ、チームでやるもの。私は書き手役が多くて、関係者を説得(強請)するのは上司にまかせたし、資料の収集や整理は周囲が気を利かせていた。

そして、ああでもない、こうでもないとぐるぐる頭の中を回っている間に、考えが練れてきて、ビジョンが固まる、そういうものではないだろうか。

資料作成では、ドラフトができるまでが勝負であって、それができたら、あとは頭脳労働というより、職人仕事になる。そして、これはある程度、時間でも測れる仕事になる。ここまでくれば、経験の浅い社員でも十分できるし、優秀な人材なら、ここに至るまでの過程からノウハウを身に付けることもできると思う。

この会社は、効率的に成果をあげるだけのノウハウを社内で共有できていないのか。
日本の時間あたり労働生産性は先進国中でも最低ランクである。これは同じ成果を出すのにかける労働時間数が多すぎるからだ。おそらく、一人当たりの産出は他国より多いぐらいなんだろうけど、それにかける労働時間が多すぎるのだ。

この社員は「きみの残業時間はすべて無駄」と言われていたという報道もあったけれど、ただ時間をかけても能率が上がらないから切り替えようとか、ビジョンを組み替えたり、ヒントを与えたり、そういう指導はできなかったのだろうか。まして経験の浅い社員相手である。
「鬼十則」を本当に深く考えたのだろうか。(私の読みが違うのかもしれないけれど)
同じ金言でも、適用する環境や社員の能力によって、読み方が真逆になってしまう、そういうことかもしれない。

上司・指導する側の能力不足だったんだろう、そんな奴がエラそうに言うな。
失われた命の重さをきちんと受け止めて、繰り返されないことを祈る。

米大統領選

2016-11-09_164316.jpg 米国大統領選挙で、おおかたの予想とは異なり、トランプ氏が勝利。
このニュースも記録のために記事にすることにした。

図は、おそらくウィスコンシンでトランプが勝利して、選挙人の過半数を押さえたときのもの。


正直、私もこの結果には驚いた。
今年は、"Brexit"でも、おおかたの予想に違う結果が出て、大騒ぎになった。なんだか、国際政治の曲がり角のような気がする。

米国民はとにかく、なんでも良いから、現状が変わってほしいと考える人が、今では多数派になったということだろう(日本でも、同じような状態にあると思う)。
冷静な政策議論なんてどこにもなくて、とにかく破壊したいという判断。民主主義の行き着くところ、ハーメルンの笛吹きについていくところになるのかも。

米国がどうなろうと知ったこっちゃない、というわけにはいかない。
「アメリカがくしゃみをすると、日本が風邪をひく」というのは、かつての日米関係で言われたことだけれど、グローバル化(アメリカ・スタンダード化)が進む世界では、アメリカがくしゃみをすると、世界が風邪になってもおかしくないように思う。

クリントン氏が大統領になった場合は、多くの政策がオバマ大統領時代を引き継ぐと考えられていたが、トランプ氏の場合はどうなるのかまったく予測がつかない。そのため、株・為替の動きがあやしくなっている。一日たって、ニューヨークは株高になっているようだが、ドル安は変わらないようだ。
どうなるかわからないなら、動かなければ良さそうなものだと思うのだけれど、やっぱり賭け事というのは、座が乱れたときに勝負をかける人が出てくるわけだ。

私のような年金受給者(減額されているけれど)にとっても、基金が株式などのリスク資産で運用される割合が拡大しているから、他人事とは思えない。

年金基金の莫大なお金を動かして、株式を買い支えてアベノミクスの予言を自己成就し、政府を支える政策。結果、投機筋のリスク、さらに実損も負担。


何より心配なのは、トランプ大統領は、日本は安全保障タダ乗りなどと言っているから、軍事・外交でも、どんなことになるやら。
そして、それに対する日本政府の対応能力を信用してよいものか。

期待もある。
トランプ氏は、アメリカの製造業を守るといっている。それならば、金融の世界で、「カジノ資本主義」をリードしてきたアメリカン・スタンダードを是正すべきだ。実体経済を大事にしてもらいたい。しかし、実体経済といっても、現在の世界では、Google、AmazonをはじめとするIT企業がアメリカを支えているわけだから、かつての保護主義をとろうとしても、それは無理な算段ではないだろうか。

ただ、「アメリカを偉大な国にする」という心情は、今まで以上に、アメリカン・スタンダードがグローバル・スタンダードだという、強い態度に繋がるかもしれない。

ところで、今回の選挙で選ばれたトランプ支持州の選挙人が、トランプ氏じゃなくて、クリントン氏に投票するなんてことはないんでしょうね。

こりゃたまげた

201611080021_000.jpg びっくりした。
多くのブロガーがとりあげるだろうけど、ブログは日記的要素もあるから、記録のために私もとりあげることにした。

昨日の朝、福岡市の駅前の大きな通りが、30m×30mにわたって陥没した。
地下鉄工事をしていて、そのトンネルに向けて、上部の土砂が崩れ落ちたということらしい。

テレビで地盤工学の専門家という人が説明していたが、福岡市のこのあたりは、地層が複雑で、地表面は平に見えても、岩盤は山あり谷ありになっていたり、曲がっていたりするのだそうだ。だから、岩盤部分を掘り進んでいるつもりでも、谷やクラックにあたればこういうことが起きるらしい。
福岡市の地下鉄工事では、過去にも同種の事故が起こっているというが、それも同じ状況だったのだろう。

専門家は、こうした地盤の状況は調査してもわからない可能性も高いとも説明していたが、この事故では、すでに小さいトンネルは通っていて、それを拡げる工事をしていたというから、素人考えかもしれないが、その小さいトンネル内から上部地層を調べるようなことはできなかったのだろうか。過去にも事故を起しているわけだから、通常以上の慎重さが要求されると思う。

山を削った造成地では、もともとの谷筋、水道があると、そこに土を入れても陥没してしまう危険があるという。なかなか難しいものだ。

復旧に向けて特殊なセメントを流し込むという話だけれど、またまた素人考えたけれど、せっかく地下に開いた孔である、いっそ地下利用でも考えてはどうだろう。地下の空洞って、今のはやりだし。

今回の事故は早朝であったこと、工事担当者が危険を察知して、すみやかに道路封鎖したので、停電で転んだ人がいたそうだがそれを除けば、けが人などは、なかったという。もちろん工事の人も避難したわけである。
迅速な判断はほめられて良いと思う。

韓国の政治スキャンダル

slide_506656_7085660_free.jpg 韓国で朴槿恵大統領が、国家機密情報を友人に提供していたということが、大きなスキャンダルになっている。
また、大統領との関係をバックに、傘下の財団や個人的に利益を受けていたとか、子供の不正入学というようなことも言われているようだ。

この後者についてはともかく、前者の情報「漏洩」については、そこまで大きな問題になるのかなという感じもする。

もちろん報道の、それもごく一部の上っ面だけで、詳しいことは全くわからないから、私の感覚が正しいというつもりはまったくない。
ただ、大統領が人生で頼りにしていた友人に、政治向きのことも相談するということは、あって不思議じゃないように思うだけだ。

日本でも、権力者が、自分の友人や、公職についていない有力者・有識者にいろいろ相談することは、十分ありそうで、その際、ある程度の内部事情をあかすことが全くないとも思えない。

朴槿恵大統領の場合は、友人が全くの民間人で公職についていないということが問題視されているのかもしれない。公職についていない以上、守秘義務で縛ることができないということかもしれない。
かといって、その友人を顧問だとか政策秘書だとかに着けようとしたら、縁故採用だと指弾されたかもしれないが。

トップがかわったら気心のしれた秘書や、自分の意見に沿う顧問やコンサルを使う。米国はそれが政治の常道で、スタッフ総入替もある。

公職採用で問題が起こるのは異性関係がからんだときぐらい(好色採用)ではなかろうか。
「妾を秘書にしたら問題だが、秘書を妾にして何が悪い」という話もある。
(やっぱりダメでしょう、後者でもパワー&セクシャル・ハラスメントだったら)


だけど、国家の秘密を他国に売るようなことを確信的に行うような人なら、守秘義務条項があるからといって、それを思いとどまるとも思えない。
実際のところ、どういう実害があったのか、そこは今のところ、わからない。
件の友人は「国民の皆さん、許して下さい。申し訳ありません。死に値する罪を犯しました」と言ったというのだけれど、どのぐらい悪いことをしたんだろうか。

朴槿恵大統領の場合、身近なところに信頼できるスタッフがいなかったのかもしれない。
今まで頼っていた友人を、つい頼りにしたくなっただけなのかもしれない。

もちろん、そんなことでは大統領失格だといわれてもしかたがないのだけれど。


韓国という国は、何か不正や不公正があると、国民は敏感に反応するようだ。
以前、韓国の人に「韓国の学生は反政府デモとか、激しいですね、日本では、学生にそういう政治意識そのものがないように思うので、そこは立派だと思うんですが」と言ったら、否定的な反応があったことを思い出すけれど。

いずれにせよ、大統領に対する韓国民の支持率はついに10%程度まで落ち込んだそうだ。

昔聞いた小咄を一つ。
ナチス政権下のドイツ、ヒトラーは狂っていると街頭演説をしている男がいた。
ゲシュタボがやってきて男は逮捕される。
 「容疑はなんだ! 総統侮辱罪か!」
 「静かにしろ、国家機密漏洩罪だ。」

核兵器禁止条約

K10010747411_1610280905_1610280906_01_03.jpg 核兵器の法的禁止措置に向けた交渉開始の決議が、国連の委員会で採択されたそうだ。

核のない世界をめざすという大統領をいただく米国はもちろん反対。
世界でただ一つの核兵器被爆国である日本も反対。
いろいろ理屈はあるようだけれど、米国の核の傘の下で、米国には反対できないからだと、多くの人がそう見ている。

国連総会委、核禁止条約の交渉開始決議=日本は反対―保有国抜きで来年開催
時事通信 10/28(金) 7:16配信


【ニューヨーク時事】国連総会第1委員会(軍縮)は27日、核兵器禁止条約など核兵器の法的禁止措置について交渉する国連会議をニューヨークで来年開くとした決議を123カ国の賛成を得て採択した。
 日本や核兵器保有国の米ロ英仏など38カ国が反対し、中国など16カ国が棄権した。核開発を進める北朝鮮は賛成した。
 決議はメキシコやオーストリアなどが主導し、55カ国以上が共同提案した。年内に総会本会議で採択され、正式な決議となる見通しだ。核兵器を法的に禁止する枠組みについて、国連で初めて本格的な議論が行われることになる。
 決議は「国連総会は核兵器全廃に向け、核兵器を禁じる法的拘束力のある措置を交渉するため、2017年に国連会議を招集することを決定する」と明記。来年3月27~31日、6月15日~7月7日を会期とし、国連の全加盟国に参加を促している。
 しかし、核保有国側は交渉には参加しない構えで、核軍縮をめぐる国際社会の分裂が一層鮮明になった。
 日本の佐野利男軍縮大使は採決後、記者団に対し、「実効的な核軍縮は核保有国と非保有国の協力の下で進める必要がある」と強調。反対した理由について「意思決定のあり方に国際社会の総意を反映させてほしいと主張してきたが、(決議案には)反映されていなかった」と説明した。
 決議は会議について、多数決による議決が可能な国連総会の手続き規則を用いるとしている。日本は、全会一致(コンセンサス)による意思決定とするよう提案国側に働き掛けていた。
 日本外務省関係者は「安全保障を考慮しながら核軍縮を進めていくという記述が(決議案には)ない」とも指摘した。
 日本と同様、米国から「核の傘」の提供を受ける北大西洋条約機構(NATO)加盟国など欧州諸国も軒並み決議に反対した。 
とはいうものの、核の廃止に対して、日本政府はずっと反対というか、その動きを止める方向で活動してきているから、今回の反対についても予想されたことではある。(⇒「日本外交は奇々怪々」

北朝鮮も賛成していて、もし核兵器が禁止されて、行儀の良い国がそれを遵守すれば、北朝鮮だけが核保有国で残れるとでも考えたか。


私は政府の肩をもつつもりはないけれど、たしかに現実的かどうか、半信半疑である。条約の内容を知らないから論評できないけれど、一斉にや~めたとなっても、それこそ守らない国があったらぶち壊しだと思う。

以前、「人類の敵」条約というのはどうだろうと書いたけれど、核保有はしかたがなくて、やはりその使用に規制を加える、使ったら「人類の敵」というような内容なら、反対するのは難しいのではないかと愚考する。

それに、核兵器といえども人類の科学の成果ではある。
よくマッド・サイエンティストとかが破滅的兵器を開発して、正義の味方がそれを阻止するというSFがあるけれど、私が思うには、そういう破滅的技術が開発されたなら、それを封印することはまず不可能、必ずそれを追開発する別の技術者、あるいはそれをさせる権力者が現れるに違いないと考えてしまう。できるとわかったら、すぐにマネする人が出てくる。

大変なものを発明してしまったが、それとどう付き合っていくか、後戻りはできない。

どっちもどっち、ではない

沖縄での機動隊員の発言については、さまざまに報道されている。
沖縄県東村の米軍北部訓練場ヘリパッド移設工事の警備中、抗議する人たちに「土人」「シナ人」などと発言した大阪府警の2人の男性機動隊員について、府警は21日、「軽率で不適切な発言で、警察の信用を失墜させた」として共に戒告の懲戒処分にし、発表した。府警が不適切発言で懲戒処分にしたのは初めて。
監察室によると、男性巡査部長(29)は18日午前9~10時、「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」と発言。男性巡査長(26)がほぼ同時刻、近くで「黙れ、こら、シナ人」などと言ったという。巡査部長は10日、巡査長は11日から現地で警備にあたっていた。
巡査部長は「(抗議する人が)体に泥をつけているのを見たことがあり、とっさに口をついて出た」、巡査長は「過去に(抗議する人に対して)『シナ人』と発言する人がいて、つい使ってしまった」と説明。2人とも「侮蔑的な意味があるとは知らなかった」と話した、としている。
府警は同日付で2人を監督していた男性警部(41)も所属長口頭注意とした。
高木久監察室長は「誠に遺憾。今後このようなことがないよう指導を徹底する」との談話を発表した。

(朝日新聞デジタル 2016年10月21日17時57分)

記録のために、右に一記事を転載しておく。

私は別に、これが差別的暴言で許せないという意見に与するものではない。
ただ「どっちもどっち」ということではないと思う。

反対派は、沖縄を蔑視する差別的発言とし、当該警察官に根強い差別意識があると指弾し、そして、その発言のベースとして、当局の意識に問題があるとして、批判の矛先を向ける。

私は、機動隊員の発言は、差別的というより、侮蔑的であって、これはケンカをしている相手に対して、怒りの感情をぶつけたものだと思う。弁明しているように、差別意識があったというより、この言葉が相手を侮辱するものだからこそ、この言葉が口をついたということだろう。

大阪府知事は、相手も酷い言葉を使っている(週刊誌ではそうした報道もされている)、機動隊員だけが批判されるのはおかしいというような趣旨のことを言っているようだけれど、弁護したい気持ちはわかるけれど、状況の改善にはならない(実際、この発言にも批判が起こった)。

機動隊は対等のケンカをしているわけではない。
軍事用語でいえば、asymmetric(非対称)という状況なのである。

そして、何より、こういう反体制派にとっては、「剥きだしの暴権力」とか「人権意識の欠如」というものは、恰好の攻撃材料になる。こういうことがあると、どちらに理があるという問題から、権力は酷いことをするという批判にすりかわってしまう。
そして、反体制派はそのことが良くわかっているから、体制側から暴言や暴力を引き出そうとする。

話は違うけれど、乱暴な客が来たときには、相手が暴力をふるってくれれば、直ちに制圧し、警察を呼んで対応することができる。だから、それを待っているというような話もある。
上司に口答えして怒らせ、手を出させようとした人もいた。相手が手を出せばこっちのもの、人事当局に告発して配置換えだ(少なくともどちらかは)ということが狙いだったらしい。


この事件をふまえ、今後、指導を徹底するそうだが、どういう指導をするのだろう。思うに、

こういう言葉を使うと、相手に攻め口を与えることになる。
そのことを肝に銘じ、隊や国の不利益になるような行動は、絶対にするな。
つまり、挑発に載るな、何を言われても聞きながせ。

というあたりではないだろうか。

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