FLACファイルのヘッダー修復

2017-04-21_212830m.png ビデオファイル(mp4)から、音声だけ取り出して、VLC playerの[メディア]-[変換/保存]機能を使って、Audio:flacのフォーマットで変換したところ、なぜかflacファイルのヘッダーがおかしい。演奏時間が入っていないのである。

foobar2000では何の問題もなく再生してくれるので、演奏時間が入ってなくても良さそうなものだけれど、やはり気持ち悪い。
そこで、flacファイルのヘッダー修復をしてくれるソフトがないかネットを渉猟したけれど、見当たらない。

mp3に変換したら演奏時間ぐらいはきちんと入ったデータができるんじゃないかと思って、freacで変換しようとしたのだけれど、ヘッダーがおかしいせいか、freacが動作しない。

2017-04-21_213032m.png それならということで、foobar2000では再生できているわけだから、foobar2000で変換しようと考えた。
それも、flacからflacである。

変換前後で同じフォーマットでも動作するのか、ちょっと不安だったけれど、そういう意地悪な仕様にはなっていない。
それよりも、同じフォーマットだと、変換したフリをして、そのまま出力するのではということが心配。

2017-04-21_212900m.png で、flacからflacへの変換を実行して、出力ファイルをMediainfoで確認すると、ちゃんと演奏時間がセットされている。
正常なflacファイルができた、めでたしめでたし。

foobar2000の変換は、元ファイルをとにかくデコードして、そのデータをエンコーダ(この場合はflac)に送り込むという律儀な動作をしているのかもしれない。


大したことではないけれど、ネットにはflacデータの修復についての情報が見当たらなかったので、私と同じようなことで困った人がいるかもしれないと思って、記事にして公開することにした。

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古代ギリシア展

P_20170311_103531_vHDR_Auto.jpg 昨日は、古代ギリシア展を見に神戸へ。

アップするのはパンフレットなどの写真だけれど、会場内は写真撮影禁止なのでご容赦。

それに図録や額絵などのほうが綺麗な写真がある。それは旅先の風景などもしかり。なので、私はブログに載せようというつもりがなければ、まめに写真を撮ったりはしない。


充実した展覧会である。
会場の最初の展示はアルテミス像。
少し小ぶりだけれど、美しく、整った作品。チラシに印刷されている。

アルテミス像だというけれど、なぜアルテミスだと判断したのか、見たところ鹿はいないのは仕方がないとして、箙をしょっているわけでもない。他にアルテミスのアトリビュートってあったっけ。


大きな彫像としては、チラシに大きく印刷されている男女のもの。神殿に奉納されたものらしい。
しっかりした構成で迫力がある。男女とも、張りのある丸いお尻が印象的。

Ancient_Greece_IMG_0001-crops.jpg 古代ギリシアといえば、ミロのビーナスとか、サモトラケのニケなどをイメージして、私もそういうものを期待して行ったのだけれど、この展覧会は、そういう彫像よりも、ギリシア文明が遺物で説明されていることに注目すべきだろう。これは、大変充実していると思う。

最初期のキュケラデス文明から、時間を追って、ローマに吸収されるまで、8つの時代に区分して紹介されている。その時代の微妙な違いがわかるようにしっかり展示されていると思う。

それにしても、ネックレスなどの装身具の細工の精緻なことには感嘆する。数千年も前のもののわけだけれど、熟練した職人が丁寧に仕事をすれば、21世紀と比べて劣るということはない。
メノウが嵌め込まれているネックレスもあったけれど、メノウがきれいに磨かれ、揃えられている。

行くときは、短焦点の単眼鏡か双眼鏡を携行することをおすすめする。私は、今回は双眼鏡を持って行った。


ただし、コインについては、これは量産が求められるものだからだろう、現代のように高等な機械でプレスして寸分たがわぬ、そして角が立ったようなものは難しいだろう。

また、ギンバイカ(銀梅花、銀盃花、学名:Myrtus communis 古代ギリシアでは豊穣の女神デーメーテールと愛と美と性の女神アプロディーテーに捧げる花とされたという)を模した金製の冠は、葉はなんだかくしゃくしゃしていて、細工としてはどうなんだろうと思うけれど、金の色が鮮やかなのに驚かされる。
ミダス王の伝説を思い出す。

あと見もの、というか、見られて良かったと思うもの。
一つは、この時代の医療器具。メスやピンセットなど4点が展示されていた。
ギリシア医学といえば、言わずと知れたヒポクラテス。この時代にも簡単な外科的処置がされていたのだろう。

もう一つは、オストラコン(陶片)。
世界史の教科書などで写真は見ているが、現物は多分はじめて。
これが結構くっきりとしたものである。教科書の写真はそもそも質が悪かったので、いかにも土中から掘り出された感があったけれど、どうしてどうして、鮮やかなものである。
展示されていたものには、有名なテミストクレスの名前が刻まれたものもあった。

他、火山灰に埋もれていた壁画も展示されていた。
ポンペイの壁画が有名だけれど、時代の差は感じない出来である。フレスコ画という説明だったが、フレスコ画の技法というのは、こんな昔からあったのだろうか。

墓碑が何点か展示されていた。自分で墓碑を彫ってみたくなった。

ところで「暗黒時代」というのは、何も展示がないのだけれど、だから暗黒時代なのだろうけど、いまだに暗黒時代なのだろうか。

Ancient_Greece_IMGs.jpg P_20170311_103546_vHDR_Auto.jpg
Ancient_Greece_MG_0001h.jpg

ヨアンネスの261回目の誕生日

今日は、ヨアンネスの261回目の誕生日。

2017-01-18_154855.jpg


前にも書いたように、この日は誕生からの年数に一致するケッヘル番号の作品を聴くことにしている。
ということで、今日は、ヴァイオリンのためのアダージョ ホ長調 KV261を聴く。

(クリックで、冒頭部再生ページへ)

K261_50491000-crop.png

オーケストラと独奏ヴァイオリンのための曲で、KV219のイ長調の協奏曲の第2楽章の代替として作られたという。

楽曲解説は、いつも便利に使わせていただいているMozart con graziaにおまかせしよう。


KV261は、演奏時間が7分に満たない短い曲なので、今日は、作曲目的に合わせて、KV219の第2楽章として聴くことにする。
51Hd9xlLrOL.jpg
去年買った"Mozart225"のCD、ちょうど昨日、全200CDのリッピングも終わったところなので、それを聴こうかと思ったけれど、Mozart225の演奏は、
  • K261: Simon Standage, Christopher Hogwood/The Academy of Ancient Music
  • K219: Giuliano Carmignola, Claudio Abbado/Orchestra Mozart
と別の演奏者になっている。
あまり音が変わるのも変だろうから、同じ演奏者でつなぐことができるように、KV261も収録されている全集、
  • Julia Fischer, Yakov Kreizberg/Netherlands Chamber Orchestra
で聴くことにする。

ニューイヤーオペラコンサート2017(その3)

時事の話題を優先させたので、少し間があいたけれど、ニューイヤーオペラコンサートをとりあげる3回目。

2017-01-03_213752s.png 毎年のようにニューイヤーオペラコンサートを見ているわけだが、私はオペラファンというわけではなくて(DeAgostiniのオペラDVDは買ったけれど、それは舞台を見に行くことは、そうないだろうから)、モーツァルトのオペラ(このジャンルを完成した、そしてこの後のオペラは、モーツァルトがやったことを模倣し、脚本を替えてやってるように思う)のファンで、オペラならなんでも良いというわけではない(ワーグナーは通して見たいと思わないし)。

今年は「イドメネオ」、「魔笛」、「ドン・ジョヴァンニ」がとりあげられたが、基本、短調の曲を選曲しているとのこと。

2017-01-03_213901s.png 「イドメネオ」は、なかなか通して聴く機会のないものだけれど、完全なモーツァルトになる手前という感じだけれど、後世のイタリア・オペラ以上の水準にはなっている(贔屓か)。エレクトラ(森谷真理 )は熱演。

パミーナ(砂川涼子 )は、この歌手に良くあったアリア。もちろん魔笛のストーリー自体に難がある(アリエンやろという設定)わけで、ちょっとタミーノが口をきかないぐらいで、狂っちゃうか? なのだけれど、その狂気がモーツァルトの手にかかると真実になってしまう。

昔、突然、口をきくのをやめたガールフレンドがいた。別にきらいになったわけじゃない、ただ、このままでいいのかと反省する時が欲しかっただけなのだ。そしてそれは永遠に失われた時になってしまった。重い思い。


2017-01-03_214008s.png 劇的に演じられたのは、当然だがドン・ジョヴァンニ。
ドン・ジョヴァンニ(黒田博)、なかなかはまり役。レポレッロ(久保和範)、騎士長(ジョン・ハオ)も良かった。

楽しんでいて、ふと目にとまったのは、舞台と照明。
円形の床を客席に向かって傾斜させている。そこにエレクトラのときは炎、パミーナのときは凍れる心、そしてドン・ジョヴァンニでは冷気と炎が、照明で表現される。そしてドン・ジョヴァンニが地獄へ落ちるシーンのためのエレベーターが装備されていた。

傾斜した舞台というのはオペラではときどき見かける仕掛けで、ホールのステージより目線が下になる客からでも奥まで見えるようになっていると思うが、それ以外に奥行きの深さを表す視覚効果もあるだろう。
左右にも壁を立てて、客からハの字になるようにしてあるのを見たことがある。ここまでやれば、一種のホーンのような音響効果も出るのかもしれない。NHKホールという音が抜けるようなホールではとくに有効かもしれない。

いつのことだか忘れたけど、大阪フェスティバル・ホールのオペラ公演のときは、ハの字に壁を立てると、袖に近い席だと壁が文字通り壁になって、舞台奥が見えなくなる。その席は販売していなかったようだった(満席だが、左右のその席は空席だった)。


もちろん、この円い舞台は、モーツァルトだけで使っていたわけではない。ファルスタッフのときには「世間」をイメージさせる動画(渋谷の交差点?で人々が行きかうもの)を写すスクリーンにもなっていた。

舞台転換に時間をかけられないこの演奏会では、なかなか良い工夫だと思う。

新春コンサート

P_20170107_131336_vHDR_Auto-crop.jpg 昨日は「新春コンサート」というのを聴きに行った。

はるばる箕面市。
お昼は早めに家でとって、箕面駅からすぐのミスドで時間調整。
ドーナッツ1個とほっと・コーヒー。
スタバより、ミスドのコーヒーのほうがおいしいと思うのは私だけ?

店内で気が付いたのだが、ミスドの1番店は、箕面だという。
入った店がそれだったのか定かではないが、1番店開業時の写真が店内に掲示されていた。


開演30分前に、会場に到着。
このホールに来るのは初めて。
図書館、生涯学習センターが併設されている施設。

P_20170107_133116_vHDR_Auto.jpg P_20170107_133208_vHDR_Auto.jpg

この日の演目は、オール・モーツァルト。
ディヴェルティメント、ファゴット・コンチェルト、セレナード、ファゴットとチェロの二重奏、そしてオペラ・アリア4曲。

オペラ・アリア4曲はすべてテノールで、同じ歌手(小餅谷哲男)が歌った。
少しバリトン的なテノールで、声量豊か、しっかりした歌で、気持ちよく聴かせてもらった。

最初のフェランドのアリアは、生で聴いたのは40年以上前、学生時代にベルリン国立歌劇場来日公演。そのときはペーター・シュライアー、さすがにシュライアーの甘美なのに大声量という奇跡のような声には及ばないにしても、今回のテノールは十分聴かせてくれた。だから、驚いた。

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shinshun_concert2017.jpg オール・モーツァルトということだったが、アンコールに「モーツァルトの子守歌」。これはモーツァルト作じゃない。去年、テレビドラマ「漱石の妻」で、良く使われていた「夕べの想い」とかにしたほうが良かったのでは。

オーケストラは急ごしらえだと思うが、大フィルの各パートのトップが中心になっていて、気心もしれているのだろう、アンサンブルもしっかりしている。

とくに、KV239では、ヴァイオリン2本、ヴィオラ、コントラバスの4人が、ステージ前面に立って演奏し、アドリブを効かせる趣向。
やっちゃえ、というところかな。

ということで演奏者も楽しくやってるみたいだし、聴いている方も楽しい。2000円(前売り)の値打ちは十分ある。
これで演奏者がギャラをいっぱいもらえてたら、みんなハッピーということ。

なかなか気持ちの良いコンサートだった。
(もちろん、その最大の功労者は、モーツァルトだと思うけど)


ニューイヤーオペラコンサート2017(その2)

2017-01-03_214410s.png 今年のオペラコンサートでも、バロック・オペラがとりあげられた。

昨年は、グルック「オルフェオとエウリディーチェ」、ただしフルート曲"精霊の踊り"。
一昨年はヘンデル「リナルド」がとりあげられて、ヘンデルはオラトリオだけじゃないんだと再認識。

もっとも凡人が聴くのは「メサイア」ばっかりだけど。


2017-01-03_214506s.png そして、今年のバロックは、ヘンデルである。
伴奏は、鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン。息子の鈴木優人さんがチェンバロをひいていた。

思うに、世界的に、といって世界の状況を知ってるわけではないけれど、日本のニューイヤーオペラコンサートが世界に発信できるとしたら、多分、このヘンデルをフィーチャーしたことではないだろうか。

これはまったく私の独断というか、偏見なのだけれど、19世紀のオペラは、日本人が演じるとなんだか、ちょっと無理してるような、違和感を感じることがある。
なぜなのか理由は良くわからないのだけれど、19世紀のオペラは、ヨーロッパ文化というか、スノビズムが強くて、そんなところに無理して入って行かなくても、というような感じである。

だから日本人にはモーツァルトまでが良く似合うと思う(それに、モーツァルトだけできれば十分だし)。


それに対して、バロック・オペラだと、ヨーロッパ人にとってもきっと隔絶した時代で、当時をどう理解、再現するのかという点において、日本人もなんら臆することなくできる、ヨーロッパの「伝統」にある意味対等に対抗できる、そういうことではないだろうか。
金持ちの道楽といっても、18世紀までの王侯趣味と、19世紀のブルジョア趣味は全然違う、そういうこともあるかもしれない。

2017-01-03_214609s.png そして鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパンというのも、見事な演奏、生き生きとした演奏をしていて、バロックが決して古色蒼然たる音楽ではないことがわかる。もちろんピリオド楽器が使われていて、ヴァイオリンの弓も丸いやつ。全く黴臭くない。

ヘンデルから、3曲とりあげられたが、森麻季さんは、この分野でも見事な歌唱、芸域の広さを印象付けた。

衣装は、エジプト女王然とした装飾品をつけて、防備を固めなくても良いように思う。
シーザーの恋人なのだから、女体の柔らかさを感じさせるような、ローマ風の衣装が良い。


ニューイヤーオペラコンサート2017

2017-01-03_213213s.png 恒例のNHKニューイヤーオペラコンサート、今年は60回目だそうだ。
60回といえばそれは盛大にやって不思議はない。

私の贔屓の幸田浩子さんが、今年も出てない!
忙しいのか、それとも何か事情があるのだろうか?


それはそうとして、今年は、ヴェルディ「ファルスタッフ」のタイトル・ロール、ファルスタッフ(折江忠道)が狂言回しのようなポジションを占めていた。
2017-01-03_213602s.png オープニングの出演者紹介は、歌唱順のようだったけれど、ファルスタッフは最後に紹介された。
そして、要所要所でファルスタッフが出てきて、最後、エンディングでもファルスタッフを中心にした「すべてこの世は冗談」である。

で、気がついた。
去年はシェイクスピア没後400年のメモリアル・イヤーだったわけで(コンサート中にもそのことに触れられている)、なぜ去年じゃなく今年に、この趣向にしたんだろう。

2017-01-03_214239s.png さらに追い打ち。
今年はモンテヴェルディのメモリアル・イヤー、生誕450年である。
そして今回の演目に、モンテヴェルディがない!

モンテヴェルディといえば、現存する上演可能な最古のオペラとされる「オルフェオ」や、悪女が主人公の「ポッペアの戴冠」、オペラの創始者と言っても良いぐらいの人じゃないだろうか。そして、オペラ関係者ならこの名前を知らない人はいないのでは(生誕450年ということを知らないとしても)。
2017-01-03_214805s.png

まさか、主催者が自分たちの60周年に浮かれて、モンテヴェルディのことを忘れちゃった?


それで気になった。来年2018年がメモリアル・イヤーになる、オペラに縁の深い作曲家は誰だろう。

  • グノー(1818~1893) 生誕200年
      「ファウスト」、「ロメオとジュリエット」
      去年のオペラコンサートで森麻紀さんが「ロメオとジュリエット」を歌った
  • バーンスタイン(1918~1990) 生誕100年
      オペラとは普通いわないかもしれないが「キャンディード」、「ウエストサイド物語」など
  • ロッシーニ(1792~1868) 没後150年
      「セヴィリアの理髪師」、「泥棒かささぎ」、「ウィリアム・テル」などなど
      なんといってもモーツァルト後、最初のオペラの巨匠。今年も「理髪師」がとりあげられた。
      ベートーヴェンと時代がほぼ同じ(当然、ベートーヴェンより人気がある)

    そしてもう一人、オペラは一曲しか作曲していないが、
  • ドビュッシー(1862~1918) 没後100年
      「ペレアスとメリザンド」、ワグナー嫌いの人のために是非

来年は誰かのメモリアル・イヤーを意識した企画がなされるだろうか。

もっとも、メモリアル・イヤーといっても十進法でキリのよい数字だから、コンピュータ(AI)が支配する時代になれば、メモリアル・イヤーも、64年、128年、256年、……というふうになるかもしれないが。


記録のために、今年とりあげられた演目を掲げておく。
レオンカヴァルロ 歌劇「道化師」から「ほら、急げ!」
ベッリーニ 歌劇「ノルマ」から「清らかな女神よ」 大村博美
プッチーニ 歌劇「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」 村上敏明
プッチーニ 歌劇「トゥーランドット」から「氷のような姫君の心も」 中村恵理
ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」から「私は町のなんでも屋」 上江隼人
ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」から「かげぐちはそよ風のように」 妻屋秀和
モーツァルト 歌劇「イドメネオ」から「心乱れ 怒りが込み上げる」 森谷真理
モーツァルト 歌劇「魔笛」から「愛の喜びは露と消え」 砂川涼子
モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」から「地獄落ち」 黒田博、久保和範、ジョン・ハオ
ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」から「この悪党め!」 折江忠道
ヘンデル 歌劇「タメルラーノ」から
「非道な者よ、お前に戦いを挑むために」
櫻田亮
ヘンデル 歌劇「ロデリンダ」から
「いとしい人よ あなたはどこに」
藤木大地
ヘンデル 歌劇「ジュリアス・シーザー」から
「戦闘のシンフォニア」~「嵐で木の船は砕け」
森麻季
ヨハン・シュトラウス 喜歌劇「ヴェネチアの一夜」から「ほろ酔いの歌」 中嶋彰子
カールマーン 喜歌劇「チャールダーシュの女王」から「踊りましょう」 中嶋彰子
ヨハン・シュトラウス 喜歌劇「こうもり」第2幕フィナーレから
ジツィンスキー ウィーンわが夢の街 中嶋彰子、西村悟
ヴェルディ 歌劇「ドン・カルロ」から友情の二重唱「われらの胸に友情を」 与儀巧、髙田智宏
ヴェルディ 歌劇「アイーダ」から
二重唱「すでに神官たちは待っています」
清水華澄、笛田博昭
ワーグナー 歌劇「ローエングリン」から「婚礼の合唱」
ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」から「イゾルデの愛の死」 池田香織
マスネ 歌劇「ウェルテル」から
オシアンの歌「春風よ、なぜ私を目ざますのか」
福井敬
チレーア 歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」から
「苦い喜び、甘い責め苦を」
藤村実穂子
ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」から「すべてこの世は冗談」

ニューイヤーコンサート2017(その2)

2017-01-03_142812s.png 今年のニューイヤーコンサートでは、合唱付きの曲が披露された。

合唱付きの曲というと変わった曲のように聞こえるけれど、なんのことはない歌劇の一部であるから、まったく不思議なことではない。
歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」から"月の出"、合唱はウィーン楽友協会合唱団(国立歌劇場合唱団とは別?)。

そういえば、以前のニューイヤーコンサートでは、よくウィーン少年合唱団が出演していた。

2017-01-03_144005.png 合唱付きというと、今年、初演150年を迎える(番組中で紹介されていた)「美しく青きドナウ」は、もともとは合唱曲(男声合唱)として作曲されていて、初演のときも合唱曲だったらしい。
しかし、合唱付きで演奏されることはむしろまれなようで(私もFM放送かなにかで1度しか聴いたことがない)、今回のニューイヤーコンサートでも、おきまりのアンコールで、楽友協会合唱団は出ていなかった(せっかくだから、出てもらったらよいのでは)。


話変わって、ニューイヤーコンサートのテレビ放送では、何曲かバレエの画像が入る。
昨日の記事でもスナップショットを載せたけれど、どこか別のところで踊られているもので、どうやって撮影しているのか、うまく演奏に合わせている。

昔から疑問に思っていた。今ならネットで調べたら何らかの情報はあるだろうけれど、敢えて調べずにいる。


そして、いつ頃からか、演奏会場にもダンサーが入って、その場で踊るという趣向も加えられるようになった。
正月気分を盛り上げる演出ということだろう。
そのスナップショットをオマケ。

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ニューイヤーコンサート2017

恒例のウィーンフィルのニューイヤーコンサート、今年の指揮者はグスターボ・ドゥダメル。

この指揮者については全く知らなかった。
ウィーンフィルの来日公演の指揮者もつとめたそうだけれど。

35歳というから、モーツァルトの歳までは既に生きてきたことになるが、ウィーンフィルの団員の多くは指揮者より年上だろう。
ニューイヤーコンサートでは、指揮者の違いってそんなにあるのかなとも思うけれど、ドゥダメル指揮だと、なんだかウィーンフィルが軽やかだけれど、しっかりアンサンブルしているように思った。

巨匠といわれる人達は、なんだけ結構、お祭り気分というか、ウィンナワルツなどは、自分が指図するより、オケに任せておく方が良いということなのか、あるいは、お遊びを入れていた昔のイメージがあるのか、どちらかというと、うきうきしているけれど、アンサンブルはあまいところがあるように思っていた。

例外は、小澤征爾が指揮をしたときで、この直前か直後にウィーン国立歌劇場の音楽監督になっていて、ウィーンフィルの団員にしてみれば、こいつがボスだという感じだったのか、それまでのニューイヤーコンサートとうってかわって、アンサンブルが精緻になったように思った。

ドゥダメルの指揮も、その小沢が振ったときに近い感じがしたが、ドゥダメルのほうが、団員のピリピリしたような緊張感は薄いかな。それがこの演奏会には好ましいと思うけど。

正月の晴れやかな気分と、音楽の快適性が両立した、素晴らしいニューイヤーコンサートだったと思う。

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アニメの鳥たち

昨日は「マンガの鳥たち」だったが、今日は「アニメの鳥たち」。

Coyote_RoadRunner.jpg アニメの鳥で、一番に思い出すのは、「ロード・ランナー&ワイリー・コヨーテ(Wile E. Coyote and The Road Runner)」

(YouTube検索:"Wile E. Coyote and The Road Runner")


子供の頃、テレビで放送されていた「バッグス・バニー・ショー」(ルーニー・テューンズ=Looney Tunes)に出てくるもの。
超高速で走り回るロード・ランナー(ミチバシリ)と、それを捕まえようとするコヨーテの話。

台詞はいっさいなし。ロードランナーがときどき"beep, beep"と鳴く(子供のころは「ミンッ、ミンッ」と聞こえていた覚えがある)のと効果音だけ。

何年か前、またテレビ放映されていたのだけれど、へんな台詞が付いていた。ぶち壊しだった。笑いのセンス、子供の理解のどちらもを知らないというか馬鹿にした所業だと思う。

コヨーテ(子供の頃はオオカミだと思ってた)は、いろいろロードランナーを捕まえる工夫をするのだけれど、ことごとく裏目にでる。そのワンパターンなのだけれど、どう裏目に出るのかを予想しては、笑い転げていた。

それにしても、ロードランナーって窮極の地鶏(走り回る)で、スープはとれそうだけれど、肉はあまりなくて、あってもめちゃくちゃ固そう。苦労して捕まえてもどうだろう。


「バッグス・バニー・ショー」には他にもいろんなキャラクターが出てくるけれど、ロードランナーは超然としていた(喋らないから特にそういう印象になる)。
そんなところも気に入っていた。

Tweety_Silvester.jpg また「バッグス・バニー・ショー」には、ツウィーティ(Tweety)というカナリア(?)も出てくる。こちらは、見た目は小さく、可愛い。一緒にいる猫に食べられそうになるが、そういうフリを飼い主に見せつけて、猫を折檻させるという悪辣なところもあるキャラクター。
こんなの子供向けではないでしょう。

アメリカのこの手のマンガ(カートゥーン)は、ディズニー・アニメとは異なり、悪辣な主人公や、妙にエロティックな場面が出てきたりすると思うのだけれど、マンガは子供のものと決めてかかったのか、子供に見せていた大人の感覚ってどうなんだろう。

ところで、ロードランナーでも出てくるが、西部の乾燥地帯を舞台とするマンガでは、草が丸まったものが風に吹かれてゴロゴロするシーンがある。
これも子供の頃は、一体これは何なんだろうと思っていたが、「タンブルウィード(Tumbleweed)」=回転草というものらしい。
こんなものも本当にあるんだなぁと感心。
そういえば、山水画に描かれる山も、シンボリックに誇張されたものだとずっと思っていた。この景色が桂林など実在するものと知ったのはずっと後のことだ。

米国アニメには、他にもたくさんの鳥たちがいる。
ヘッケル&ジャッケルとか、ウッドペッカーとか。

日本のアニメでは、こうした擬人化した鳥が活躍するようなものはあるのだろうか。
犬や猫を擬人化したものはあるようだが、鳥はどうだろう。

マンガの鳥たち

今年の干支にちなんで、鳥の話。
tezuka_hinotori.jpg マンガに出てくる鳥を集めてみた。

まずは、手塚治虫の「火の鳥」。
手塚自身がライフワークと言った作品。
ではあるけれど、一編ごとに見れば短編の味わいだと思う。
そしてどの話が一番印象深いかというと、大王の殉死者たちが、墳墓に埋められるとき、火の鳥の生き血を少しずつ分けて飲んで、地中から呻き続ける話だろうか。
あるいは、滅亡した地球で、生命の歴史を繰り返す話だろうか。
それとも、鳥から進化した知的生命体(鳥人)の星に流れ着いた地球人が、その星の鳥人を妻にしたものの、鶏の味が恋しくなって、その妻を殺して食べてしまう話だろうか。

otokooidon_last.jpg
鳥といえば松本零士の「トリさん」というのもあった。
松本零士というと「宇宙戦艦ヤマト」とか「銀河鉄道999」が代表作かもしれないけれど、私は「男おいどん」がこの人との出会い。
押入れのサルマタケと、同居(?)するトリさん。主人公がときどき「お~い、トリよ」と呼びかける。
「トリさん」は銀河鉄道や他の作品にも出てくるけれど、「男おいどん」で見たのが最初。

阪神タイガースの鳥谷も私は「お~い、トリ」と呼ぶ。

右図は、ネットで拾った「男おいどん」。最終回だそうだ。


tanioka_mujidori.jpg 次はむちゃくちゃな鳥。
谷岡ヤスジの「ムジドリ」。
rokujirorw.gif なんとも言いようがないキャラクター。
朝日に向かって「アサー」と鳴く(吠える?)、見様によっては正月っぽい。
「鼻血ブー」もこの人のアイデアではないだろうか。

休刊日などに、ときどき使う「六二郎アバター」もその趣向(画像クリックで登場)


おしまいに北斎に差し替える前に用意していた若冲の「鳳凰」。



Mozart: 225 The New Complete Edition(その4)

2016-12-26_111108.jpg Mozart225の200枚のCDは、ボックスにギッシリ詰まっていてコンパクトではあるけれど、取り出すのはかなり面倒である。これでは気軽に聴こうという気にならない。

私は購入したCDはたいていリッピングしてNASに置いているので、面倒だけれどMozart225もそうするつもり。
リッピングに使用するのは"foobar2000"、形式はFLACである。

ところがfoobar2000が引いてくれるCDDBは"FreeDB"で、どうやらMozart225のCDはヒットしない。曲名もわからない"01.Track01"のようなファイル名では大いに困る。
幸い、Mozart225のサイトは、コンテンツデータをPDFで配布しているから、これをもとに、タグ付を自分ですることにした。

配布されているPDFは、画像だけでなく埋め込みテキスト情報も入っているようなので、PDFヴューアーからテキストを取り出すことができた。200枚のCDについて、該当箇所を選択して、エディタに貼り付けるのはちょっと面倒(5~6時間かかったように思う)。


タグ編集には"mp3tag"を使っている。CD1枚分とかだと手作業で直接入力しても良いけれど、200枚ものCDとなると、いくら気長にやるにしても大変である。そこで、一旦別のファイルにタグ情報を用意して、取り込むことにした。そうするほうが、編集しやすいし、間違いも少ないだろう。何より、既存データを取り込む自由度も高くなるだろう。

Mozart225が配布しているコンテンツデータは、トラック単位ではなくて、たとえば交響曲でも、楽章単位のデータはなく、"1-4 Symphony xx"という形になっている。
なので、手元にある楽曲目録とマッチングしないとわかりにくい。

一番困るのはオペラなどで、演奏によってトラックの切り方が違うから、既存のカタログと単純にマッチしない。ただし、全く同じ演奏が収録されているCDがあれば、これのタグ情報を利用できることがある。前のCD全集からも初期オペラ(ハーガー/モーツァルテウムなど、録音が少ない)は利用できた。

同じ演奏を収録しているなんてムダなんだけれど、タグ情報の取り出しはラクである。というか、同じ演奏が既にNASにあるから、これを再度リッピングする必要もないわけだけど。


その他、オペラについてはバラ売りもあるだろうから、CDDB(FreeDB)にマッチするものがあるかもしれない。これはリッピングしてみないとわからない。

というような苦労を重ねて、タグ情報の元になるExcelファイルを作成した。
使用するタグは、disc number, track, title, artist, album, album artist, comment の7つ。
私と同じようなことで苦労されている人がいるかもしれないので、現時点で出来上がっているExcelファイルをアップロードしておく。

2016-12-26_202835.png

なお、メディアへのタグ情報の書き込みは、前述のように"mp3tag"を使うのが便利である。
使用するソフトは、"mp3tag"、Excel、適当なテキストエディタの3つ。

  1. mp3tagで読めるタグ情報ファイルの作成
    1. 前記のタグ情報Excelファイルを開く
    2. 取り込むタグ情報の部分を選択して、クリップボードへコピー(右クリックコピー)する
    3. テキストエディタを開いて、クリップボードの内容をペーストする
    4. 一旦、適当な名前でテキストファイルを保存する(タブ区切り形式になってる)

  2. mp3tagでのタグ情報の取り込み
    1. mp3tagでタグを書き込むメディアファイルを選択する
    2. [変換]―[テキストファイル―タグ」のメニューを開く
      2016-12-26_105045m.jpg(ファイルとフォーマットを指定するダイアログが表示される)
    3. ファイルに先に保存したテキストファイルを指定、フォーマット指定は次のようにする。
      %discnumber% %track% %title% %artist% %albumartist% %album% %comment%

      ここで、区切り記号はタブになっているが、mp3tagのダイアログではタブ文字を直接入力する方法がないので、テキストファイル中のタブ文字を[ctrl-C]でコピーし、ダイヤログ側に[ctrl-V]でペーストする。

    4. [OK]で実行

このようにタグ情報を準備しているのだけれど、肝心のリッピングの方は全く進まない。
いったい、いつになったら気楽に聴けるようになるだろう。

というか、ラトルのベートーヴェン交響曲全集のようにダウンロード販売してくれたら良かったのに!



【追記】

年明けに、根性を入れてリッピング・タグ編集しようと思って、foobar2000でCDをリッピングしたら、MusicBrainzからタグ情報を検索してきた。
前に同じことをしてヒットしなかったCDも、あらためてMusicBrainzを引きに行ったら、ちゃんとヒットした。
どうやらMusicBrainzが、この間にタグ情報を収録してくれたようだ。
ただ、artistがどれも、"Mozart"になってるみたい。
演奏者名を入れたいと思うので、気が向いたら、上述のデータを使って、artistタグを書き換えようか。
  (Mp3tagの上の手順で、artistの列のデータだけ使う)


Mozart: 225 The New Complete Edition (その3)

昨日は、Mozart225の楽曲(CD)の配列について感想を述べた。
今日は収録演奏について。

前に書いたように、この全集のウリの一つが、"70% of recordings different from 1991 Philips Mozart Edition"で、実際、私が持っている演奏とまるごと、つまりそのジャンル全体がぶつかるものは一部の例外を除いてない。同じ演奏でも家にあるのはLPだったりするわけで、全く同じものが揃うということでもない。
Trevor_Pinnoch_English_concert.jpg

例外というのは、舞曲と行進曲で、これは、もともと「舞曲と行進曲全集」としてLPのボックスを買っていたものと同じ上、同じ演奏が、後のLPでの全集、前のCDでの全集、そしてMozart225にも収録されているから、私は4つめになる。演奏者ボスコフスキー/ウィーン・モーツァルト合奏団(実態はウィーン・フィル団員)だけが、録音を出していて、全集に納めようとすれば、この演奏になるわけだ。
同じようなものは、メサイアの編曲(KV572)もそうで、これも同じ理由でまともに衝突する。
単体としては、内田光子のピアノ協奏曲とか、ピリスのピアノソナタとか、重なるものもチラホラあるけれど、この全集は1枚300円もしないわけで、10枚ぐらいダブっても3000円程度、割安だから許容できる。

こうなったのは、Mozart225は、近年の風潮であるピリオド楽器による演奏を積極的にとりあげていて、新しい録音が多いからだと思う。
academy-of-ancient-music-in-derbyshire-1379601052-view-0.jpg 実際、交響曲は、
  • 初期交響曲は、ピノック/イングリッシュ・コンサート、ところどころ(主に番号のついてない交響曲)ホグウッド/エンシェントの演奏、
  • 中期のものは、ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、
  • 後期交響曲は、ピノック/イングリッシュ・コンサートとブリュッヘン/18世紀オーケストラ
の演奏が収録されている。いずれもピリオド楽器が使用されるものである。前の全集だと演奏者は、録音がないという事情がなければ、同じ演奏者で揃えていたけれど。

Gardiner_Baloque_soloists2.jpg 全く同じ演奏が、既に持っているものとダブるのは比較的限られていたわけだけれど、なんと、Mozart225は、同一曲について複数の演奏が収録されている。
前からもっている2種類の全集もそうだけれど、全集というのは、同じ曲を重複して収録しないと思う。あったとしても、編曲などバージョンが複数ある場合である。(前のCD全集は、全巻購入者には、フィガロがもう1つの演奏が付いてきたが、これはオマケとして。)
しかし、Mozart225では、いわゆる有名曲は、いくつかの演奏が収録されている。

Bruggen_18th_century.jpg 40番KV550は、なんと4種類もの演奏が収録されている。それも全曲だから、KV550だけで2時間あるわけだ。
  • Orchestra of the 18th Century/Frans Brüggen
  • Les Musiciens du Louvre/Marc Minkowski
  • Camerata Academica des Mozarteums Salzburg/Sándor Végh
  • London Symphony Orchestra/Benjamin Britten
このうち2番目のMinkowskiの演奏は、モーツァルト自身による編曲版(クラリネット版)による。

メインに位置づけられているのはブリュッヘン/18世紀の演奏で、これ以前の39番まではピノック/イングリッシュ・コンサートをおしのけて収録されたような観がある。(実は、ブリュッヘン/18世紀は別に持ってるから、ピノック/イングリッシュ・コンサートがあるなら、そっちを収録してもらいたかった)
他の演奏は、"Supplementary performances"、"Classical performances"という小カテゴリーに入れられている。メインはピノックやブリュッヘンだけれど、昔から名盤とされている演奏も収録した、というわけである。

ちなみに41番KV551は2種類、39番KV543は3種類の演奏が収録されている。KV543は、ベーム/ベルリンという懐かしい(LPで交響曲全集を持っている)ものも収録されている。

特別な協奏曲KV595も4種類の演奏が収録されている。
  • Malcolm Bilson fortepiano, English Baroque Soloists/John Eliot Gardiner
  • Emil Gilels piano, Wiener Philharmoniker/Karl Böhm
  • Maria João Pires piano, Orchestra Mozart/Claudio Abbado
  • Clifford Curzon piano, English Chamber Orchestra/Benjamin Britten
Bilsonのは、fortepianoと記載されているように、古楽器が使われている。そしてこれがメインに位置づけられている。(このなかでは、ギレリス、ベーム/ウィーンはLPで持っている。ピリスは別のオケのものを持っている。)

自己保有のものとのダブりはともかく、有名曲はいろんな演奏が聴けるということは全然悪いことではない。
最も有名なピアニストだけどモーツァルトも弾いてたのかといホロヴィッツとか、家にあるのはLPばかりで最近聴かなくなったハスキルやヘブラー、骨董的演奏のブリテン、これはこれで楽しみである。

一方、すごいことになってるのが、歌曲(リート)。
歌曲もおおぜいの歌手が録音をしているわけだけれど、Mozart225は誰を選んだのだろう?

・An die Freude K53 Prey/Klee ・Das Lied der Trennung K519 Schreier/Schiff
・Oiseaux, si tous les ans K307 Bartoli/Thibaudet ・Als Luise die Briefe ihres ungetreuen Liebhabers verbrannte K520 Ameling/Baldwin
・Dans un bois solitaire K308 Ameling/Baldwin ・Abendempfindung an Laura K523 Brueggergosman/Zeyen
・Verdankt sei es dem Glanz der Großen K392 Ameling/Baldwin ・An Chloe K524 Holzmair/Cooper
・ [An die Einsamkeit] K391 Mathis/Klee ・Des kleinen Friedrichs Geburtstag K529 Mathis/Klee
・ [An die Hoffnung] K390 Schreier/Schiff ・Das Traumbild K530 Holzmair/Cooper
・Die Zufriedenheit K349 Ameling/Ludemann (mandolin) ・Die kleine Spinnerin K531 Ameling/Baldwin
・Komm, liebe Zither, komm K351 Ameling/Ludemann (mandolin) ・Beim Auszug in das Feld K552 Blochwitz/Jansen
・Ah! spiegarti, oh Dio, vorrei K178 Mathis/Klee ・Un moto di gioia K579 Stader/Demus
・Der Zauberer K472 Mathis/Klee ・Sehnsucht nach dem Frühling K596 Mathis/Klee
・Die Zufriedenheit K473 Prey/Klee ・Im Frühlingsanfang K597 Schreier/Schiff
・Die betrogene Welt K474 Holzmair/Cooper ・Das Kinderspiel K598 Mathis/Klee
・Das Veilchen K476 Battle/Levine ・Das Kinderspiel K598 Alternative performances with fortepiano Prey/Demus
・Lied der Freiheit K506 Schreier/Schiff ・An Chloe K524 Von Otter/Tan
・Die Alte K517 Mathis/Klee ・Das Veilchen K476 Baker/Leppard
・Die Verschweigung K518 Schreier/Schiff ・Abendempfindung an Laura K523 Baker/Leppard

なんと、12人の男女の歌手(伴奏違いを数えたら14組)が顔をそろえている。まるでカタログである。
もとの録音は、おそらく曲の順序も考えて行われたものだろうけれど。

Mozart225には、多数の演奏家が収録されている。
これも、Mozart225のサイトに掲載されている。

多くのモーツァルティアンは、たいていの曲は誰かの演奏で聴いているだろうから、こういう複数演奏家の録音を聴くことも一興と考えていると思う。そう思えば、この企画も納得できるものだ。

将来、「モーツァルト全録音」などというセットが出たりして。


Mozart: 225 The New Complete Edition (その2)

mozart225_content.png 昨日につづいて、
"Mozart: 225 The New Complete Edition"。

まず、この全集の編集の特徴。
収録演奏はmozart225.comに掲載されている(PDF)。
昨日言及した昔のLPの全集は年代順に収録されていたから、交響曲は第1番は第1巻に、41番は最終巻になっていた。また、CDの全集はジャンル別、交響曲、セレナード、……という順だった。

・室内楽作品("Chamber")1~49
・管弦楽作品("Orchestral")50~101
・劇場作品("Theater")102~152
・宗教作品("Sacred")153~170
・プライベート("Private")171~173
・断片("Fragments")174,175
・補作("Completions")176~178
・他の作曲家作品の編曲("Arrangement")179~187
・自作品の編曲("Self-arrangement")188~193
・疑作("Doubtful works")194~200
Mozart225は、カテゴリー別の年代順に配列されているようである。
最上位カテゴリーはかなり大きい(右表)。

で、"Orchestral"の中は確かに交響曲と他は分けてあるけれど、協奏曲については、普通はやらんだろう、という並びになっている。なんと、協奏曲をいっさいがっさい集めてる。つまり、同じCDに、ピアノ協奏曲も、ヴァイオリン協奏曲も、管楽器の協奏曲も入っているという構成である。室内楽でも、弦楽四重奏と五重奏が並んでいたりする。

演奏会のライブ録音とかでないなら、同じソリストの録音が収録されているのが普通だから、これはなかなか違和感がある。
この配列はなかなか難しいと思う。
他の人は知らないが、私などは、今日はピアノソナタかな、協奏曲かな、シンフォニーかな、というようにジャンルに注目して選曲することが多い。単純な年代順だと、あるジャンルの曲を聴きたいと思っても、そう簡単にCDを選べない。かといって、演奏会のように、はじめに軽いセレナード、そして協奏曲、最後にシンフォニーというようなプログラムで全曲を並べるなど無理。
自分に会うのはジャンル別だけれど、ヴァイオリン協奏曲の次にピアノ協奏曲というのは、ちょっと不思議な気がする。

また、この全集では、こうした編集方針で配列されているもの以外に、"Supplementary performance"、"Classical performance"という小カテゴリーがあって、このCDは、それこそもっといろんなものが入る。


いろんな編集者が知恵をひねるのだろうけれど、私が一番慣れているのは、アインシュタインの「モーツァルト:人間と作品」で採用されているジャンル分けである。
  • 器楽曲
    • 弦楽器のための室内楽曲
    • ディヴェルティメント、カッサツィオーネ、セレナーデ
    • シンフォニー
    • ピアノ曲
    • ピアノを加えた室内楽曲
    • コンチェルト的なものとメカニックなもの
    • 綜合-ピアノ・コンチェルト
  • 声楽曲
    • 教会音楽
    • アリアとリート
    • オペラ、オペラ・セリア、オペラ・ブッファ、《ドイツ・オペラ》

CD全集は、順番はともかく、ジャンル分けはこれに近い。
  • 01 交響曲
  • 02 セレナードと喜遊曲
  • 03 管楽セレナード・舞曲と行進曲
  • 04 ピアノ協奏曲
  • 05 バイオリン(を含む)協奏曲・管楽器のための協奏曲と室内楽・室内楽の断章
  • 06 弦楽のための室内楽
  • 07 ピアノを含む室内楽・バイオリン・ソナタ
  • 08 ピアノ曲
  • 09 宗教音楽(~10)
  • 11 オペラ(~14)
  • 15 劇とバレエのための音楽・コンサートアリア・歌曲・カノン・初期チェンバロ作品
  • 16 別巻(編曲、父・子の作品、同時代の作曲家)

※数字は巻数。1巻CD約12枚


Mozart225のカテゴリーも、あまり違わないように見えるのだけれど、違和感がある。
なぜ違和感があるのか、それの一番大きな原因は、他のジャンル分けに見られる「ピアノを含む・含まない」という分類が持ち込まれていないことだと思う。

ピアノを含む・含まないで分けるのは、量的にもちょうどよく分けられるのだけれど、アインシュタインは、モーツァルトが自分の言葉として最もよく表現できる楽器としてのピアノに注目すべきというような趣旨のことを言っていたと思う。

まぁ、所詮、CDの配列の問題ではある。
それに、演奏家がまぜこぜになった配列というのは、これは結構手間ではないだろうか。
前からもっているCDの全集の場合、既に販売されているCDの構成のまま収録しているものが多く、CDDBを検索すれば、単独販売のCDがヒットしたりする。
逆に言うと、Mozart225のCDは、残念なことにCDDBからタグ情報を取得することが、どうやらできないらしい。

作る側も、買う側も、少々面倒なのである。
リッピングするなら、自分でタグを編集することになりそうだ。


自分へのクリスマス・プレゼント~Mozart: 225 The New Complete Edition (その1)

2016-12-19_104142.jpg Merry Christmas!
今日は全国的にクリスマス。

朝、目を覚ましたら素晴らしいクリスマス・プレゼントが枕元に、なんてことはない。
子供が小さかったときはクリスマス・プレゼントというのはあったけれど、それ以外、クリスマス・プレゼントを交換するなんて習慣はない。
けれども、今年は自分へのクリスマス・プレゼントと言い訳をして買ったものがある。

先だって、自分の誕生日祝いと言い訳して、フェルメールの複製画を買ったりして、常套手段化してるけど。


Mozart: 225 The New Complete Edition
(CD200枚=240時間)

Tower recordsの通販で、6万円弱(ポイント10%なので実質5.4万円)。注文後数日、12月17日に届いた。

音楽業界激震 2016年最も売れたCDはモーツァルト

 今年最もCDが売れたアーティストにかなり意外な名前があがった。ビルボードの発表によると、2016年米国で最もCDを売ったのはモーツァルトだ。
 モーツァルトの没後225年にちなみ、10月28日にリリースされたのが200枚組のボックスセットの「モーツァルト225」。このセットがこれまで合計で125万枚のCDセールスとなった。
 モーツァルトは今やドレイクやカニエ・ウェスト、ビヨンセよりも売れているアーティストということになる。ビルボードによると今年の米国のCD販売枚数は昨年から11.6%減少し過去最低の5,000万枚となった。対照的にストリーミングは急成長を遂げている。
 今回、モーツァルトが売上1位になった背景には次のような背景が考えられる。まず言えるのは、クラシックファンの間では依然としてCDを買い求める傾向が強いことだ。オーケストラの演奏を聴くメディアとしては、恐らくストリーミングよりもCDが適しているだろう。
 次に言えるのが、このボックスセットがギフトとして人気を獲得した点だ。ギフトとして贈る場合、形に残る物のほうが好まれる。ストリーミングは今後も普及を続けるだろうが、CDプレイヤーを捨てるのはまだ早いということだ。

http://forbesjapan.com/articles/detail/14568

モーツァルトの録音の全集といえば、中央公論社+フィリップス共同編集のLP版(182枚)、小学館のCD版(190枚)と、2揃い持っているのだけれど、またまた買ってしまった。
既に全集を持っている人にもささるメッセージがメーカー・サイト(www.mozart225.com)にある。

70% of recordings different from 1991 Philips Mozart Edition
(もっとも、私は注文してから、このサイトに気づいたのだけれど)。

それに、前の全集は、2~3十万円だったと思うので、それに比べたらずっと安い。

そもそも、この全集の存在を知ったのは、ネットに流れているニュースに、
今年一番CDが売れたアーティスト」とあったから(右に記事引用)。

計算上は、1日1枚で1年以内に全部聴けるわけだけれど、多分、そんなわけにはいかない。
というか、生きている間に全部聴けるかというと、それも疑問である。

モーツァルトを自分のそばに置きたいという気持ちに偽りはないけれど、これも偏執的な蒐集癖のなせることかもしれない。

ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち

P_20161207_115825_vHDR_Auto.jpg 一昨日、国立国際美術館で開催中の「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」を見に行った。

P_20161207_102619_vHDR_Auto.jpg

まず、軽く感動したのは、模写かと思うぐらいに、画面が綺麗な作品が多いこと。
特に、「黎明期」の作品は、板にテンペラで描かれているのだけれど、衣の襞や布地のメタリックな光が、数百年も前のものとは思えなかった。
後世の作品への影響も大きかったに違いない。
San_Salvador_Interno_-_Annunciazione_del_Signore_Tiziano-crops.jpg
そしてなんといってもルネサンスの作品である。
構図がしっかりしていて、中世の作品のような歪んだところは、どの作品にも見られない。

であるけれど、なんだか全体におとなしい感がある。
やはり、いずれも教会や、ヴェネツィア独特の集会場などに、実際に飾ることを目的として描かれたものだからだろうか。

そんな中で、一際、目立っていたのは、ティツィアーノ「受胎告知」。(画像はネットから)
サン・サルヴァドール聖堂からの特別出典ということだが、絵の大きさもさることながら、それにふさわしい大胆な筆致。

(印象派の先取りという解説も)


それに聖母の表情のとらえかた。
解説では、受胎を告知される直前、天使の姿におどろいた瞬間の聖母をとらえたものという。

「実際に飾ることを目的」としたとして、これは聖堂にふさわしい。まさに目的に合致した作品。
この作品だけは、一通り見終わってから、戻ってながめていた。

音声ガイドを借りたが、語りは石坂浩二。氏は絵も描くし、芸術に造詣が深いという。語りは、氏自身の言葉であるかもしれない。構図のことや、描かれる神や聖人のアトリビュートなど図像についても解説されていた。

この音声ガイドだが、「受胎告知」については、展示されている聖堂の紹介が動画で表示される。
小さな画面だから驚くようなものではないけれど、音声ガイドに画像表示が付いているのははじめて。


少し前、テレビで石坂浩二氏がヴェネツィアをめぐって、美術品を紹介する番組を見たおぼえがある。この展覧会の企画に合わせたものだろう。

P_20161207_141315.jpg 展示作品数は少ないけれど、10:30に入場して、11:50頃まで。
なにより、平日で閑散としていた。これはラクである。
眩暈がするほど圧倒される展覧会ではないのがかえって心地よい。

ただ、図録を見かえして、展示作品の多くを再確認しようという感じでもなかったので、図録は買わなかった。
ヴェネツィア美術については、通常の書籍にまとまったものがある(ミュージアム・ショップでも販売されている)。そちらのほうがコストパーフォーマンスは良さそうである。

会期は来年の1月15日まで。
これから行こうという人のために、展示作品リストを掲載しておく。
(クリックで拡大)

venetian_renaissance1.jpg venetian_renaissance2.jpg venetian_renaissance3.jpg venetian_renaissance4.jpg

昨日の余韻

昨夜は、例によって「レクイエム」、そして昨日稿で書いたKV595のピアノ協奏曲を聴かせていただいた。

KV364_midori_nobuko.jpg これに加えて、注文していた協奏交響曲 変ホ長調 KV364のCDが、昨日ちょうど届いたので、これも聴くことにした。

順番は、KV364→KV595→KV626の順だけど。やっぱり最後でしょう、レクイエムは。
(おやおや、♭が1コずつ減ってる)


さて、このCDだが、五嶋みどり、今井信子、エッシェンバッハ&北ドイツ放送響によるもので、何でこれを買ったかと言うと、ヴィオラが作曲者指定の半音高い変則調弦(scordatura)で演奏されているはずだから。

以前、「礒山氏の推薦盤」で書いたが、推薦盤自体は期待外れだったので、そのとき調べて、今井信子さんがこの調弦で演奏されていて、CDもあることを知って、いつか聴きたいと思っていたもの。
ネットでは一部が試聴できたので、これはイケると思って、迷わず発注した。

ヴィオラを聴きたくて買ったわけだが、ヴァイオリンも凄い。
まえに、五嶋龍さんが「姉は一音一音をきっちり弾いて、それが繋がってフレーズになる」と形容されていたけれど、なるほどと思う。

そしてお目当てのヴィオラ、強くて艶やか。
なるほど、半音高く調弦するとは、こういうことだったのね。

多くは書かない。私の推薦盤である。

一生に一度のこと

モーツァルトの作品群の中で、もっとも好きというか、よく聴くのはピアノ協奏曲。
前に、「永遠の伴侶への邂逅」で書いたとおり、「悪くない」から「特別」に変わる瞬間をもたらしたのは、ヘ長調 KV459、この出会いの曲もピアノ協奏曲だった。

そうしたピアノ協奏曲のなかでも、変ロ長調 KV595は特別。
死の年の1月に作曲された(1788年頃に構想されていたのではという説もある)、最後のピアノ協奏曲(第27番)で、アインシュタインが言うように、このジャンルがモーツァルトのジュンテーゼ(綜合)であるなら、これこそ「モーツァルトの白鳥の歌」と言える。

KV595mov1s.png 第一楽章。おずおずと始まって、断片のような音列や流れる旋律が、波のように、重なり、繰り返し、絡み合う。
モーツァルトのソナタ形式では展開部が長いものは少ないと思うけれど、この曲は比較的長い。

というかこの曲では展開部のはじまりも型どおりではなくて、ソナタ形式はフレームだけれど、フレーム通りでなくていいんだと思い知らされる一方、

展開部が進むにつれ、ピアノとオーケストラの絡み合いが異次元のものになっていく。
ここに至ると息が詰まる。

そして、再現部に入って落ち着きを取り戻す。

再現部に入るとやはりソナタ形式、その統一感というか、おさまりかたというか、

だけれど、あの瞬間の昂揚が消えていないので、どうしても後遺症(息が詰まり、汗が出る)として残り、噛みしめることになる。

実は、展開部のこの部分、初めて聞いた時には、ものすごく長く感じた、というか、これを聞ける幸せが長く続いてほしいと願った覚えがある。
だけれど、繰り返して聴くと、この部分はそんなに長くない、というかむしろ短い。わずか6小節(譜面参照)。
ここに永遠の時が封じ込められているのだけれど、やはり時の流れは止められない、終りのある世に戻ってくる。

一生に一度の経験かもしれない。
だからといって繰り返し聴くと値打ちが下がるわけでは、もちろんない。
なのだけれど、今までこの曲を聴いたことがない人、この曲を初めて聴ける人がうらやましいと思う。
そして、できるなら私も記憶を消し去って、もう一度「初めて」聴きたいと思う。

最近のことはどんどん忘れるくせに、昔のことはなかなか忘れない。

KV459との出会いが一生に一度のことであったように、この曲との出会いも一生に一度のことなのだ。

225回目の命日に。


松方コレクション展

P_20161112_124410.jpg 休刊日をはさんだのでアップが遅くなったが、一昨日の神戸行きの主目的は、神戸市立博物館で開催の「松方コレクション展」。

特に目当ての作品があるわけではなくて、これもやっぱり行き所のない老人の暇つぶしである。

そして、単刀直入に感想をいうと、特別感動する作品というのはなかった。

そのなかで、敢えてこれはというのを挙げると、モネの「ヴェトイユ」という、お城を中心にして、セーヌに面した小さな村を描いた作品(画像右下、ネットから)。
0001570003L.jpg 城に当たる光、水面に映る影、いかにも印象派というタッチというか、色づかい。さすがにモネである。色を決めて塗るようなことはしない。

さて、コレクションとしてである。
正直、何かを集めたというものではなくて、手あたり次第という感じがする。
音声ガイドでは、たびたび「松方コレクションは手あたり次第に買い集めたという評価がなされるが、先進的な作品を選んでもいる。そのことは作品が訴えている。」というようなことを言っていたが、やっぱり手当たり次第に買い集めた中に先進的な作品があったということでしかないかもしれない。

それが悪いと言っているのではない。
松方幸次郎の時代に、西洋文化をまるごと日本に持ってこようとしたなら、そうならざるを得ないと思う。ソファなどの家具も買い集めて博物館に展示するつもりだったという話もあり、それらも展示されていた。

聞くところでは、蒐集家としても知られる某宗教団体のトップのN氏は、昭和のはじめ、帝大の学生として東京で暮らしていたときに、神田の古書店などで大量の古書・古筆を買い集めていた。それらは今では、その宗教団体が設立した図書館に集められていて、さまざまな研究や歴史番組などの資料として参照されている。
「もう少し選んで買ったらどうか」と意見した人がいたらしいが、N氏は「向こうも商売、良いものだけ選んで買ったのでは困るだろう。それに、そうやって買うから、滅多に出てこない貴重なものも手に入るというものだ」と答えたそうだ。ノブレス・オブリージュにも通ずるものである。

ちなみにN氏は、帝大の学友を教団の要職に引き入れて、教義・教団組織を整備しているという。人間も蒐集したわけだ、こちらはしっかり選んだものだろう。


倉敷の大原美術館に行くと、美術の教科書に載っている名品がたくさんある。
だが、これは名品を買い集めたというよりも、教科書に載せる作品の写真を撮るのに、国内にある美術館だと撮りやすかったからだと聞いたことがある。
教科書に載るような名品が大原美術館にあるということではなく、大原美術館に所蔵されている作品だから教科書に載った、そしてわれわれは、それを教科書にも載るほどの名作だと思うわけである。

そういえば百人一首も、歌人の代表歌となるものばかりが選ばれているのではなく、むしろ百人一首に含まれているから名歌とされているものもあるという。


コレクションというのはなかなか一筋縄でいかないものらしい。

マリー・ローランサン展

Laurencin_flyer2.jpg Laurencin_flyer1.jpg 昨日、京都での食事の後、特に予定もないので、ぶらっと駅の美術館へ。

マリー・ローランサン展
この画家については、特徴的な絵なので、名前は知っているものの、生で見たことはなかったように思うので、一度見てみようと思った。

客はあまり多くなく、ゆっくり見られた。多くの美術展では高齢者が多いように思うけれど、そういうこともない。
いつもこうだったらうれしいのだけれど。

Laurencin_work2.jpg Laurencin_work1.jpg これから行こうという人のために、チラシの表裏、展示作品リストをアップしておく。
(クリックで拡大画像)

傾向として、私が好きな絵というわけではない。ただ、この絵の影響を受けたのじゃないかというデザイナーはたくさんいそうである。

若い頃の絵は確かな腕を感じる。それが、個性を見出すまで、時間的にはそれなりにあったようだが、一旦、スタイルができると、そのスタイルで多く描いたのかなと思う。

さすがに、どの絵もリズムというか、バランスが良い。計算された作品のように思う。
色も、周知のとおり、淡い。それでいて、絵の具の重ね方などは、やはり油絵であって、不思議な深みを感じる。

それにしても、この眼は、子供なら怖いと思うかもしれない。

marie-laurencin-the-reader-1913-trivium-art-history.jpg そういう中で、一番自然に感じたのは、
「読書する女(La liseuse)」である。
右にアップした「読書する女」はネットで拾ったもの。
ネットで見つかる画像はどれもこんな感じだが、色調は本物とは全然違う。こんなに青くない。
この色調だと、女は神経質な感じにも見えるが、もう少し明るく暖かい色調の本物だと、そういう感じはしなかった。なお、原題"La liseuse"は読書灯である。

伏し目で本を読んでいる姿なので、ローランサンのあの黒目がちの眼の絵とは違って、自然な表情を感じたわけだ。
やっぱり、他の多くの絵の、あの眼はデザイン的で、すごく目立つし、印象的なのだけれど、眼としての訴求力、つまり「目は口程に物を言う」という点は薄いというか、意図的に殺しているのではないだろうか。

ところで、この美術館「えき」は、今回はじめて訪れたのだけれど、いつものことなのかどうかわからないが、ICOCAでチケットを買うと割引(1000円→800円)になる。
それなら、入口に自動改札機を置いたらおもしろいのでは。

星野道夫展

P_20161009_114224_vHDR_Auto 1 昨日は、京都のT島屋で開催されている「星野道夫展」。

写真展というのは、あんまり食指が動かなくて、この展覧会も新聞販売店がタダ券をくれていて、暇だから行ってみようかという程度で、あまり思い入れもなく見に行った。

しかし、行ってみるとやっぱり、料金をとって展示されるぐらいのものである。見事な写真が並んでいる。
まず凄いと思ったのはカリブーの群れを俯瞰する大画面。
どうやって撮ったのかと不思議に思った。(それは会場の終わりぐらいにビデオで説明されていた。空撮である。)

P_20161009_114132_vHDR_Auto.jpg 次に目が引き付けられたのは、カリブーが一頭、大地に佇んでいるのだが、地平線をバックに立っているように見えるのだけれど、うしろに台地と思しきものがずっと控えている。おそらく台地の下に霧が出て、そのためカリブーが地平線に立っているように見えているのだろう、本当はうしろは切り立った崖を持った台地なのだろう。でないと、合成写真だとしか思えない。

もう一つ、こんどはなんとなく微笑ましいもので、クマが急流を飛び上がってきたサケと睨みあっている一瞬をとらえたもの。サケの表情、具体的には眼がいかにもクマと見つめあっている風情。つくづく写真というのはシャッターチャンスが一番だと思った。

展覧会の出口で、絵ハガキなどを売っているわけだが、ここにこの写真のものはなかった。私としてはこれは人気が出るのじゃないかとおもったのだけれど。


その他、エスキモー(今はイヌイットというほうが普通だけれど、発表当時ハエスキモーだったのだろうか)や、アメリア原住民を撮ったものが印象的だった。
ネズミの巣からジャガイモを取り出して、そのお返しに乾燥肉を入れておくという原住民の習俗をとらえた写真は、写真としてより、その文化に魅入られる。

会場には、星野氏が生前使っていた道具も展示されていて、ブローニー版はほとんどこれで撮られたというPENTAX、カリブーの空撮で使われた35mmのニコンなどが置かれていた。

また、30点ぐらいだろうか、原版と思しきポジフィルムが展示されていた。大きく引き伸ばされた印刷(印画?)展示も良いが、なんといっても、このポジフィルムこそすべてのオリジナルである。
6×9だろうと思うので、上述のPENTAXではないと思うが、見事にクリアーな写真で、デジタル写真なんてこれに比べたらずっと粗いものではないかと思う。

写真をゆっくり鑑賞するというのも、悪くはない。

アップした写真は、会場外で自由に撮影できるもの。本文で紹介した写真もここに載せたかったのだけれど。


古楽器~礒山氏の推薦盤(続き)

礒山雅「モーツァルト」の最後に掲載されている推薦盤のうち、3つのCDを購入し、そのうち2つについては、昨日感想を書いた。今日は、その残り1枚について。

Les_rondos_Ogura.jpg ■輪舞(ロンド)~モーツァルトの輝き~
  ソナタ第8、9、11番、2つのロンド 小倉貴久子

作曲当時のA.ヴァルター1795年モデルの名器を使用したという演奏。
収録曲は、
  • クラヴィーア・ソナタ(第9番)ニ長調 K.311 (284c)
  • ロンド ニ長調 K.485
  • クラヴィーア・ソナタ(第8番)イ短調 K.310 (300d)
  • ロンド イ短調 K.511
  • クラヴィーア・ソナタ(第11番)イ長調 K.331 (300i)
    『トルコ行進曲付き』

礒山氏はKV310の短調のソナタの演奏に対する推薦盤とされていたけれど、素直に先頭から、つまり、KV311から聴きはじめた。
ピアノが古いというだけで普通の演奏、特に驚くこともなく、これも古楽器を使っていることをセールスポイントにしただけかと、ちょっと残念な気持ちになった。

古いピアノの音(CD)はいくつか聴いているけれど(たとえば、前にやはり古楽器で演奏された協奏曲)、なんだかガチャついた音で、音量が小さくても騒がしい質感がする。
このCD、つまりワルターのピアノもその例に漏れず、ガチャついた感じがする。とくに、無理にフォルテを出そうとすると、強い音ではなく、騒がしい音と感じる。

ところがどうだろう、KV310、礒山氏推薦のこの演奏を聴くと、がらりと印象が変わった
この曲については、やたら悲壮感を強調し、悲嘆にくれるというか、激情をぶつけるような演奏が多いと思うけれど、そういうものとはかけ離れている。
小倉氏は、随所に装飾音を加えていて、それが心地よい不意打ちで、また趣味の良いものである。そして、多くの演奏のような劇場にかられたようなフォルテではない。前に書いたように、ピアノの古楽器の場合、ガチャついた音で、フォルテは騒がしいと思うのだけれど、この演奏では、もちろんフォルテ/ピアノの交替は明確なのだけれど、全然騒がしくならない。

礒山氏は息をのむような演奏とおっしゃるのだけれど、その意味がわかる気がする。
(昨日、礒山氏は日本人演奏家のものを優先しているのではないかと書いたけれど、このCDの解説は礒山氏が書いているから、ひょっとしたら御本人にもなにがしかの実入りがあるのだろうか。)
私もこのCDは推薦盤としたいと思う。

whenpianobecamepiano.jpg 現代ピアノだと、こういう弾き方にはならないのじゃないだろうか。
良くいわれるようにストロークが深い現代ピアノでは、この演奏のような装飾音は、演奏可能ではあるだろうけれど、このような軽々とした音にはならないように思う(触ったことがないからわからないけれど)。
つまり、この演奏とこのピアノはマッチしていて、というか、このピアノに対してはこの演奏に必然性があるようにまで感じてしまう。

昨日とりあげたフラウト・トラヴェルソの演奏は、この楽器とは思えないキビキビした動きだと書いたけれど、音は若干ひなびた感じはするものの、やはりフルート族である。

フルートも管の材質で音が変わるが、メインは空気振動であり、管体の振動の影響は小さいから、材質が変わってもそう大きな違いではない。それに音の違いといっても、必ずしも優劣、安い材料だからチープな音というわけではないと思う(高い楽器が買えない貧乏人の科白)。


しかし、ピアノ(モーツァルトの時代ならクラヴィーア)となると、筐体も、アクションも、弦も、随分変わっている。
ピアノはいつピアノになったか」という本がある。これには、昔の復元ピアノによる演奏のCDも付録でついているけれど、音色というのはずいぶん違う。
初期のものは現代ピアノより、ハープシコードに近い音がすると思う。

これは筐体の差だと思う。初期のピアノは、現代ピアノのような鋳鉄製のフレームではなくて、ハープシコードの筐体に似たものだったのではないだろうか。それに弦も、現代ピアノの強い力で張られたコイル状の弦ではないだろう。
アタック時はともかく、その後は、弦自体と筐体の響きが問題になると思うから、ハープシコードに近い音になるのではないだろうか。


c0039487_22583929.jpg そして、たいていの曲は、現代ピアノの、深くて広い音のほうが気持ち良い。
こうも思うのだ。
もし、モーツァルトが現代のスタインウェイとかベーゼンドルファーと、あるいはヤマハのピアノを知ったら、モーツァルトは大いに気に入るのではないだろうか。モーツァルト自身は、足鍵盤付きのピアノを持っていて、低音補強をしていたらしく、豊かな音を好んだのではないだろうか。なにより、性能の高い新しい楽器―たとえばクラリネットを好んだということもある。新し物好きだったのでは。

礒山氏の推薦盤―礒山雅 「モーツァルト」(その3)

本書の最後では、15作品をとりあげて、推薦録音が紹介されている。

セレナード ト長調 KV525ゲヴァントハウスSQ+コントラバス、ユーロアーツ 2005年
ワルター/コロムビアSO、ソニー 1958年
モテット「エクスルターテ・ユビラーテ」 KV165バーバラ・ボニー、ピノック/イングリッシュ・コンサート
 アルヒーフ 1993年
フルート四重奏曲 ニ長調 KV285 菅きよみ、鈴木秀美他 アルテ・デラルコ 2011年
ピアノソナタ イ短調 KV310 小倉貴久子「輪舞」 ALM 2012年
ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 KV364 寺神戸亮、クイケン、ラ・プティト・バンド アリアーレ 1995年
弦楽四重奏曲第14番 ト長調「春」 KV387ゲヴァントハウスSQ 《アイネ・クライネ》 DVD
セレナード 変ロ長調 KV361
 「グラン・パルティータ」
ブリュッヘン/18世紀オーケストラ フィリップス 1988年 DVD
ピアノと木管のための五重奏曲 変ホ長調 KV452 シフ、ホリガー デッカ 1993年
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 KV466グルダ、ミュンヘン・フィル クラシカル 1985年
バレンボイム/ベルリンPO ワーナー 1988年
歌劇「フィガロの結婚」 KV492プライ、ポップ、ヴァイクr、ヴァルツァ、ヤノヴィッツ、
 ベーム/ウィーン国立歌劇場来日公演1980年
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」 KV527 ムーティ/ウィーン国立歌劇場 デノン 1999年
交響曲 第40番 ト短調 KV550アバド/モーツァルト管弦楽団 アルヒーフ 2009年
クラリネット五重奏曲 イ長調 KV581四戸世紀、トッパンホールアンサンブル TDK 2006年
ヴィトマン、アルカント・カルテット ハルモニアムンディ 2012年
歌劇「魔笛」 KV620 デイヴィス/コヴェント・ガーデン デノン 2003年 DVD
レクイエム ニ短調 KV626アバド/ルツェルン祝祭管弦楽団
 キング・インターナショナル 2012年 DVD

で、著者礒山氏の推薦盤というのは1つも持っていなかった。

本文中で紹介されている録音については、私も持っているものがいくつもあったけれど。

それで、とくに興味を惹かれたものを買うことにした。
フルート四重奏曲 二長調(KV285)、ピアノソナタ イ短調(KV310)、協奏交響曲 変ホ長調(KV364)の3CD。
このいずれもが古楽器を使用したものである。

flute_quartet_suga.jpg ■フルート四重奏曲全曲
 菅きよみ(Flauto traverso) 、
 若松夏美(Vn)、成田寛(Vla)、鈴木秀美(Vc)

これは驚いた。フラウト・トラヴェルソがこんなにきびきびと鳴るなんて。
もちろんモーツァルトの時代には、この楽器でこの曲を演奏していたはずだから、驚くようなことではないのかもしれないけれど。
モーツァルトはフルートが嫌いだったという説がある。しかし、磯山氏は、本当に嫌いだったら、魔笛のフルートの説明がつかないと仰っている。私もそう思う、というか思いたい。
モーツァルトが嫌いだと言ったのは、協奏曲の注文主の銭払いが悪かったからだろう(2曲注文されて、1曲はオーボエ協奏曲の編曲だから無理ないことだけれど)。


Baroque-Traversos.jpg 実は、知人が持っているフラウト・トラヴェルソを触らせてもらったことがある。
トラヴェルソは現代フルート(C管)と違い、管自体の調性はD管、つまりすべての穴を塞いだ管長が最も長い状態で出る基音はDである。そう考えれば、ある程度は納得できる運指ではある。

リコーダーはソプラノはC管、アルトはF管である。私はアルトを吹くときは、頭の中で移調してソプラノと同じ指使いにするのだけれど、人によってはアルトは別の楽器として、アルトの指使いを覚えるそうだ。
つまり、Fを鳴らすとき、私はそれをアルトのドと頭の中で移調して、ソプラノのド(C)の指使いで吹くけれど、人によってははじめからアルトのFは指孔を全部塞ぐ指使いと覚えているということ。正確にシフトされるわけではないだろうから、アルト用に指を覚えるほうが正しいのかもしれないけれど。

が、それ以上に奇々怪々な運指が要求されていて、とても尋常には演奏できない。トリルを吹くときに、バラバラの指を3,4本動かすなんて芸当は無理。私は小一時間ためして、あきらめた。

Symphony_concertante_K364.jpg ■協奏交響曲、ヴァイオリン協奏曲第3番
 寺神戸亮(Vn)、S.クイケン(Vla)&ラ・プティット・バンド

これはちょっと期待はずれ。
この曲の初演のとき、モーツァルトがヴィオラを担当し、ヴィオラを半音高く(つまり変ホ長調に)調弦したことは良く知られている。しかし、現代の演奏でそういうことをしている奏者は少ない。この演奏はそれを注実にやっているという。
ヴィオラの音に張りがある、そう思って聴けばそのとおりなのだけれど、いかんせん、ヴァイオリンの音が薄い。
この曲は、哀愁の強い(第2楽章)ところもあるので、もっと豊かな音が合うと思うのだけれど、どうもヴァイオリンがひぃーひぃー鳴きすぎる感じ。
あらためてヴィオラをモーツァルト指定の調弦にした演奏のCDを調べると、五嶋みどり・今井信子・北ドイツ管弦楽団の演奏、ヨセフ・スークのものなどがあるようだ。こちらも聴いてみたいと思う。


礒山氏は、日本人による良い演奏があれば、そちらを優先的にとりあげているような気がする。

もう1枚のCD、輪舞(ロンド)~ソナタ第8、9、11番、2つのロンド 小倉貴久子については、稿をあらためて。

ちょっと出入りがひどいけど―礒山雅 「モーツァルト」(その2)

時事の話題を優先させたので、日があいたけれど、礒山雅「モーツァルト」の感想の2回目。

71mMblyTkfL.jpg 本書では、モーツァルトの晩年の生活ぶりについても、通説(俗説)への批判が書かれている。
これも私のもっていた先入観をくつがえすのに十分なものだった。
私の、そして多くの人がもっている先入観とは、

モーツァルトは貧乏のあげく、体と頭脳を酷使しすぎて、早死してしまい、犬のように葬られた。

というものである。

恥かしながら、私も、モーツァルトは不遇な晩年を過ごしたとなんとなく思っていた。
なにしろ、最後の年は、KV595のピアノ協奏曲ではじまり、レクイエムで終わる。
ゴホゴホと咳き込みながら、寒い部屋で体に鞭を打ってレクイエムの作曲に臨む姿、そういうイメージ。

主要な曲は、快活さからは程遠いものが多いということがあるのかもしれない。
アヴェ・ヴェルム(KV617)は言うに及ばず、(バセット)クラリネット協奏曲(KV622)、魔笛(KV620)。

また、晩年は作品数が少ないという印象もある。
実際には少ないわけではない。30年間で600曲、つまり年間20曲のペースと考えれば通常通りと言って良いのだけれど、数から言えば、舞曲やフリーメーソン用などの小品が多くて、片手間仕事?の印象があり、名作がひしめきあう時期からすればさびしく感じるわけだ。
ところが、それも単なる目録のトリックにすぎない。オペラは2曲も書いている。とんでもなく労力がかかるものを2つも作っているわけだ。

ただ、「魔笛」はジングシュピールで、ブッファと違ってレチタティーヴォがないから、作曲量は少ないのかもしれない。「ティトゥス」は手抜きとも言うけれど(当時は人気だったらしいが)。

そして、本書では、この年、宮廷楽長として舞曲などの作曲を仕事としてこなしており、教会にも無給とはいえ居場所を得て、次の仕事に向けて準備を怠っていない姿が描かれる。

最晩年も、充実した仕事ぶりではないだろうか。

■モーツァルトの年収
年代収入(グルデン)
17811084~1284
17822174~3074
17831892~2408
17843720
17852950
17862604~3704
17873321
17881385~2060
17891483~2158
17901850~3255
17913672~5672
(メイナード・ソロモンによる推定)
もちろんモーツァルトは健康優良児ではない。無理がきく体ではなかったと思う。
しかし、長の患いで病の床についていたというわけではない、朝早くから仕事(作曲)をし、昼間はレッスンや付き合いで忙しくしていたのだ。

著者は、今までのモーツァルト研究の成果を引用して、モーツァルト窮乏説を否定している。
600フローリン(グルデン)あれば普通の生活ができたという。
収入はちゃんとあるわけだ、それも普通の音楽家以上に。
浪費、それはあっただろう。しかし、赤貧生活をしていたわけではない。
借金の申し込みの手紙がいくつも残っているけれど、食うに困っての借金ではないようだ。

死後に莫大な借金があったという噂もあるが、1桁ぐらい過大に宣伝されていたらしい。


この単純な事実からして、憐れむべき晩年を過ごしたモーツァルトというイメージは間違いだといえそうだ。
ちょっと出入りがひどい生活をしていたけれど、それができるということは、窮乏生活を強いられていたということではなさそうである。

「すみれ」の真実―礒山雅 「モーツァルト」(その1)

71mMblyTkfL.jpg 「モーツァルトと女性たち」では、「モーツァルトの伝記として絶対に外せない書であると思う」と書いた。
この本に触発されて、比較的最近のもので、評判の良い伝記も読んでみようと思って、「モーツァルトは貧乏じゃなかった」というコピーが付いた、この本、礒山雅「モーツァルト」を読むことにした。

モーツァルトについては、「神童」で片づけられてしまう風潮に多くの人が異義を唱えてきている。

もちろん神童でもある。しかも二十歳すぎてもただの人ではない。

モーツァルトは曲芸を仕込まれた犬ではないし、「赤い上着を着た子供」で終わるわけではない。
その作品を、「優美」や「美しい」で済ますわけにはいかないし、「疾走する哀しみ」や「デモーニッシュ」と言えば深いということにもならないと思う。

本書では、アタリマエのことだけれど、大変な霊感と真摯な作曲態度、さらに加えて洒落のめした遊びまで、幅広いモーツァルトが描かれる。
特に、この最後の洒落のめした遊びというのは、もちろん沢山の下品なカノンの類については前からモーツァルトの遊びとして理解してきたけれど、本書の「すみれ」KV476の解説には驚いた。そして、大いに納得した。

Das_Veilchen_KV476.jpg 「すみれ」は前にも記事にしたことがある。

庭に咲いた花をスミレだと思って書いたのだけれど、スミレではなさそうだ。


恥かしながら、この曲については、「すみれ」というイメージに引きずられて、あまり深く考えたことはない。
曲自体は、美しく、劇的である。
しかし、最後にモーツァルトが付け加えた「かわいそうなスミレ、本当に素敵なスミレだった」の歌詞で、モーツァルトがスミレに寄せる思いを「素直に」語ることで、「かわいいモーツァルト」という、あまりにもベタなところがあると思っていた。

実際、これをモーツァルトの優しさと解説するものは多く目にすることができる。

ところが磯山氏は、ここにモーツァルトの秘密(大袈裟だな)があると言う。

この曲を劇的にしているトリックの一つは、テーマがなんと7小節=4小節+3小節で構成されているという点にある(礒山氏の指摘でなるほどと思った)。
これにより、劇的で、ひっかかるような、躓いたような感じが生まれてくるように思う。
そして、これは一種の諧謔でもある。通常の作曲作法を知る人達にとっては。

そうしてみると(聴くと)、最後にモーツァルトが付け加えた部分:「かわいそうなすみれ、それは本当にかわいいすみれだった」の部分は、少女趣味ではなくて、これは、悲劇を喜劇に笑い飛ばすためのダメ押しなのだ。

秘かに美しい少女に思いを寄せ、そのことに気づかれることもなく、さらに、存在すら気づかれないまま、踏み潰されるというのは、悲喜劇以外の何だろう。そういう思いをした可哀そうな少年はたくさんいるに違いない。そして、それを傍から見ている他人。


美しいメロディが悲劇性をかきたてて、その悲劇を笑い飛ばすための変則な4+3小節があるわけだ。
礒山氏が書くように、モーツァルトは友人たちと、笑い転げていただろう。

P_20160922_162230.jpg シューベルトの歌曲の多くは、「シューベルティアーデ」と呼ばれる、作曲家と親しい人達の集まりで生まれたといわれている。
モーツァルトの歌曲もそうした私的な集まりで生まれたようだが、その雰囲気の違い、片や堅物、片や洒落、ということなのかもしれない。もちろん、これによって、作品の質が落ちるわけではないが、見様によっては、悪魔の所業である。

ベートーヴェンがモーツァルトを許さない理由の一つは、ここにあるのではないだろうか(それだけベートーヴェンは良い耳を持っていた?)。


こうしたことを踏まえて、氏は、劇的に歌うペーター・シュライアーの演奏を推薦されている。なるほど。
少々、大げさに、歌うのがこの曲の本来の姿なのかもしれない。

ペーター・シュライアーの「すみれ」。
(LPからデジタル化、レコード針のトラッキングが悪くて申し訳ない。
アップするにあたって、モノーラル・低音質化した。)


良く表現するには、表現しすぎないことです
超越的な表現者、モーツァルトの哄笑が聞こえてくる。

モーツァルト亡きあと~「モーツァルトと女性たち」(その5)

Mozart-Lange.jpg 前々章「モーツァルトのもうひとつの家族」では、コンスタンツェがモーツァルトに愛されたという事実だけで、もう十分良妻であったと言って良いと書いた。
この章では、そうした情緒的な評価にとどまらず、コンスタンツェの復権を目指したのではと思われる記述が続く。

モーツァルトの伝記というと、聖マルクス墓地に葬られた、というところで終わってしまう。しかし、「伝記」というのは、これから書き始められるのである。

本章では、伝記がどのように成立したのかということに多くの注意が払われている。
コンスタンツェとナンネルの、おそらくは不仲が伝記にどう影響したか、ということも含め、コンスタンツェが非協力的だったために協力を求められたナンネルが、まともにとりあわずに話したことが伝記に採用されること、そしてそれを知ったコンスタンツェが「本当の」モーツァルト伝(後の夫ニッセンによる)を望んだことなど、経緯が描かれる。

Sofie_Weber.jpg そして、モーツァルトに不用意に「子供」のイメージがまとわりつくこと、金銭感覚が夫婦ともになかったとされることなど、モーツァルト死亡直後のナンネルの不用意な発言が影響を与えたのではないかとする。
そしてコンスタンツェは、自分が関わらないところで出されたモーツァルト伝を、出版された本の買い占めも含め、正しいものにしようと努力することになる。

最後までモーツァルトの世話をしたコンスタンツェの妹ゾフィー(右図)の証言が今なお伝えられるのは、こうした努力のおかげでもある。

コンスタンツェ悪妻説では、モーツァルトの遺稿を二束三文で売り払ったというような話を聞かされてきたが、実際には、売り払ったことは事実としても、それはモーツァルトの作品を出版したいということであり、それを商行為としてできるかぎり安く買いたたこうという出版社との間での駆け引きの中での話である。
コンスタンツェとしては、モーツァルトの名誉・評価を最大限に高めることが、自分が生きていくためにも必要なことだったはずである。

そして、その活動の過程で、ナンネルとも往き来するようになる。
著者の一環した、コンスタンツェ、ナンネルへの好意的な眼差しが、ようやく報われることになる。

Franz_Xaver_Mozart_(Wolfgang_Jr)_1825.jpg ところで、モーツァルトには2人の生き残った息子がいる。上の子(カール)はイタリアで官吏として生き、下の子(クサバー=モーツァルトⅡ)は、音楽で身を立てている。
コンスタンツェは下の子の方が音楽の才能があると考えて、カールには音楽の道をあきらめさせ(本人は音楽もやりたかったらしい)、クサバーはモーツァルトⅡ世として売り出そうと考えたらしい。
しかし、モーツァルトⅡ世は、それだけで演奏会に客を呼ぶことはできるけれど、残念ながらそれ以上にはなれなかった。おそらく本人は、大変な重荷と、自己否定感覚にまとわりつづけたことだろう。

モーツァルトⅡ世の曲を聴いたことがある(ピアノ四重奏曲)。
日本で歌われている「タンタンタヌキの……」にそっくりのモティーフが現れる曲だった。


モーツァルトとオペラの女性たち~「モーツァルトと女性たち」(その4)

AnnaGottliebColorDetail.jpg この章は見事なまでにオペラの楽曲解説で埋め尽くされる。

モーツァルトのオペラといえば、本書では"ラ・フィンタ・センプリッチェ"(KV51)を最初に取り上げている。同時期に"バスティアンとバスティエンヌ"(KV50)もあるが、これは習作のようで、上演公開をもくろんだ最初の作品として"ラ・フィンタ・センプリッチェ"をとりあげたのだろう。
私ももちろんどちらも録音を聴いたことはあるけれど、映画「アマデウス」でもモーツァルトの成功を印象付けるシーンに使われた"後宮からの誘拐"(KV384)以前のオペラについては、正直なところ、後の"フィガロの結婚"(KV492)や"ドン・ジョバンニ"(KV527)などのような興奮を覚えることはなかった。

初期のオペラというと、"恋の女庭師"(KV196)は、他愛ないストーリーだが、それなりにまとまっているように思う(ドイツ語版とイタリア語版があることからも再演されていたことがうかがわれる)。
また、"ルチオ・シルラ"(KV135)は素晴らしい序曲やアリアがあって、それぞれ単独の楽曲として楽しめるけれど、劇作品としての完成度はいかがなものかというのが正直な感想である。

ちなみにルチオ・シルラという人物は、塩野七生「ローマ人の物語」によれば、とんでもない実力者であり、反抗者に対しては苛酷な処置をした人という。モーツァルトの作品のストーリーとはちと違うような気がするが。

そして"後宮"の大成功が際立つのだけれど、本書では、その前にミュンヘンで上演された"イドメネオ"(KV366)が重要な作品として、そして素晴らしい作品として取り上げられている。

ただ情けないことに、著者は"イドメネオ"のアリアやレチタティーヴォについて、生き生きと語るのだけれど、私にはその音楽が聞こえてこない、序曲は強い印象を受ける名曲で、単独で演奏されることも多い(オペラとは別だが"イドメネオのための舞踊音楽"も)。しかし、このオペラを通して視たことがあまりなく、また、ビデオを通して視ても、やはり退屈なのである。


そして、なぜ"イドメネオ"が後期のオペラと比べて、やや貧相な感じを受けるのかがわかった。
モーツァルトは、歌手に合せて音楽を作った。

FabPlayer_[20160718-175156-463] 歌手の力量が低いと、それに合わせた音楽にせざるを得ないのである。
もちろん「やさしい」曲では効果が得られないというわけではなく、モーツァルトはやさしい曲でも立派な効果をあげること、それは歌手の歌だけでなく、伴奏オーケストラにも役割を持たせることでもなされる、というわけだが、やはり、歌手の力量に差があると、やはりバランス感は落ちるのではないだろうか。

それだけに、どこで演奏する予定だったのかがわからないいわゆる三大交響曲(KV543、KV550、KV551)の成立が謎なのだ。


今なら、曲に合わせて、プレイヤーが集められるのがアタリマエだけど、当時はプレイヤーに合せて曲が作られた。これはモーツァルトのことだけではない。

そして演奏したい曲に必要なプレイヤーが参加できなければ、編曲という手段がとられる。"メサイア"のモーツァルト編曲版(KV572)では、あろうことか、第三部の「ラッパが鳴り響いて」のトランペットがない(ホルン代用)。


"イドメネオ"の後は、いよいよ"後宮からの誘拐"(KV384)が取り上げられる。ようやく思ったような仕事ができたというわけである。

だからこそ、映画「アマデウス」でも一躍、ウィーンのトップとして認知されるモーツァルトを表現するものとして取り上げられたわけである。

"劇場支配人"(KV486)にちょっと触れて、オペラ作品としてはもちろん中途半端なものであるけれど、サリエリとの腕比べでもあって、モーツァルトは楽しんでやった仕事だろうという評である。

JosephaDuschek.jpg そしていよいよ、"フィガロの結婚"(KV492)、"ドン・ジョバンニ"(KV527)、"コシ・ファン・トゥッテ"(KV588)、"魔笛"(KV620)が順次とりあげられる。そして、著者の解説の言葉が、その各楽曲を頭の中で響かせる、それぐらい的確な描写がなされる。

ところで、この4曲については、どれが一番好きか、という問いがときどきあるのだけれど、私は「最後に聴いたのが一番好き」と答えることにしている。
それは、誰だったか忘れたが、スタンダールが好きな人が「"赤と黒"と"パルムの僧院"のどちらが好きですか」と聞かれたら、最後に読んだ方、と答えることにしているというのを、そのまま使わせてもらっている。

著者は、もちろんいずれも不朽の名作としながらも、この中では少し評価が低いと思われる"コシ・ファン・トゥッテ"をかなり持ち上げる。私にも異論はないけれど、そう思うのは、他の3作品は、台本の乱れみたいなものがあって、演奏によっては曲の順序の入れ替えなどもあるのだけれど、"コシ"にはそういう乱れは全くなく、作品としての完成度としては最も高いと言えるからだと思う。

"フィガロ"は有名なザルツブルク音楽祭でのポネル演出カラヤン指揮の演奏では、楽曲の順序を入れ替えていたと思う。また、"ドン・ジョバンニ"はそうした乱れはないけれど、アリアの追加や終曲のカットなどはある。"魔笛"はベルイマンの映画版では、曲の順序が入れ替えられていたと思う。

もっとも、著者は"コシ・ファン・トゥッッテ"は、伝統的秩序や道徳への挑戦(これは他の曲でもそう)だと言うのだけれど、私のような現代人にしてみると、とてもそういう難しい楽しみ方はできなくて、当時はそういう評価もあったのだろうかとは思うものの、モーツァルトはいろんな人間がいて、いろんなことを考えて、いろんな失敗をするんだということを、見事に描いてくれたというようにしか思えないのだけれど。

いずれにせよ、この章を読んでいる間、頭の中に、オペラの各節が鳴り響くこと請け合いである。

上でゴシック体にした作品のうち演奏機会の少ないものをYouTubeから拾ってみた。

La Finta Semplice  (KV51)
Idomeneo  (KV366)
Entführung aus dem Serail  (KV384)
Der Schauspieldirektor  (KV486)
(演奏機会が少ないとはいえ、後二者は舞台も見たことがある)


高音質・高画質というわけにはゆかないにしても、こうやっていつでも見られるというありがたい時代になったものだ。


「真珠の耳飾りの少女」来る

P_20160818_195702.jpg 絵の良し悪しなどわからないが、「真珠の耳飾りの少女」は気に入っている。

「本物そっくりの複製」が欲しいと思っていたが、展覧会で売られている複製画には食指が動かなかった。なんといっても真物を見てすぐだから、複製画との落差が大きすぎる。

どこにでもあるA4判の写真を安物の額に入れて飾っていたのだけれど、少々高くても、小ましな複製画はないものかと、ネットで物色していた。
複製画には、複写技術(ジクレーなど)を使ったものと、複製画家の手描きのもの、それを組み合わせたものがある。
手描き複製画の多くは、「フェルメール・ブルーを再現するため、ラピスラズリで彩色しています」というような謳い文句で売られている。たしかにフェルメール・ブルーはものすごく印象的だから、大きなポイントではある。しかし、手描きはどうしても複製画家の個性が出てしまうのではないかと考えた。

そうやって長く経ったが、自分で自分の誕生日祝いのつもりで、手描きよりは随分値段は下がることもあって、デジタル印刷を使ったものを買ってみることにした。
デジタル印刷にハイタッチメディウム加工

ハイタッチメディウム加工による複製画は、高度な技術を駆使し、原画本来の立体感や光沢を忠実に再現したものです。
精巧なデジタル印刷を施した画面に、無色透明の特殊樹脂を熟練した画家が専用筆で全面に塗ることで、油絵特有の盛り上がりや立体感が生まれ、絶妙な質感と、原画の趣を醸し出しています。

税別9,800円

Meisje_met_de_parels.jpg 物が届いて、不安一杯で開けてみる。やはり真物とは随分違う。(右は本物の写真)
真物と並べて見ているわけではなく、真物の素晴らしい記憶と比べているわけだから、勝てるわけがない。

ちゃんとたしかめなかったのだけれど、原寸より少し小さいようだ。もっとも、ダイニングの壁にかけるには、原寸大はちょっと大きすぎるかもしれない。
おもしろかったのは、玄関などの花を変えても全く気がつかないと私を詰る家人が、この絵が変わったことに全然気づかなかったこと。


ただ、これを見て思った。フェルメール真筆に拘らず、作品としての出来として考えるなら、手描き複製画が良いのかもしれない。もちろんヘタクソな画家の模写で、それとわかるほどのくずれ、とりわけ表情が違ってたりしたら、もう論外だけれど。
デジタルで下絵を作ってなぞるという技法のものについても、輪郭は崩れないかもしれないが、筆の勢いのようなものはそがれるのではないかと思う。

そういえば、去年、「フェルメール光の王国」展という催しに行ったことがある。フェルメールの現存する37作品の「リ・クリエイト」の展示。作品は経年劣化しているから、制作当時を再現しようというコンセプトによるデジタル複製画を作っている。
この展覧会の複製はさすがに出来が良くて、本物かどうかは別として、これはこれで欲しいと思った。

また、複製画を探していると、キャノンとリコーが質感印刷技術を開発したというニュースがあった。
キャノンは「真珠の耳飾りの少女」をこの技術で再現したというが、残念ながら、その成果品は販売されていないようだ。
リコーの方は、この秋(2016年10月7日~1月21日)に、上野の森美術館で開催される「デトロイト美術館展」で、その技術を用いた立体複製画を販売するという(開催中の大阪展では販売されない)。残念ながらフェルメールはないようだが、この技術の成果品は是非手にとってみたい。

こうも考えられる。贋物というけれど、世界に1品しかないものの贋物というのは罪がないのではないだろうか。それに対し、偽札のように、たくさんあるものの贋物では、真贋が問題になるのじゃないだろうか。
プロの贋作師というのは「○○の未発見の作品」というように、作品をまねるのではなくて、作家をまねるのだろう。「おしゃれ泥棒(How to steal a million)」でもそうだったと思う。

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さて、家に飾った「真珠の耳飾りの少女」、開封して最初は落胆もしたけれど、しばらくすると、そして、やや遠目で目をやる限り、前のA4ペラペラよりはましかな、そう思えるようにはなった。少なくとも、どの方向から見ても、しっかりとこちらを見てくる少女の雰囲気は再現されていると思う。
もっとも、見つめたら、やっぱり違うと思ってしまうけれど(なんといっても、9,800円である)。

複製画を求める欲は、まだまだ続きそうだ。

モーツァルトのもうひとつの家族~「モーツァルトと女性たち」(その3)

この章では、モーツァルト自身の家族、つまりコンスタンツェとの結婚生活のことが書かれる。
そしてこの章で最も意外だったのは、コンスタンツェが良き妻であったとされることである。

Wolfgang-Constance_choco.jpg ザルツブルクをはじめ、オーストリアの土産物店には、二人の肖像がならんだチョコレート類が各種売られている。
私は、ながらく「コンスタンツェ=悪妻」という通説を疑っていなかったから、一体、オーストリア人は何を考えてるんだと訝しく思い、コンスタンツェが並んでいないチョコレートを探し、そしてそちらを土産に購入した。

でも、本書によれば違うみたいである。

コンスタンツェが(客観的に)悪妻であったかどうかは別として、モーツァルトが愛していたという一点において、モーツァルトにとっては良妻であり、コンスタンツェが並んで描かれる権利はあると思うようになった。

今までの知識では、コンスタンツェを悪妻にするためだろう、モーツァルトがコンスタンツェの身持ちについて小言をいう手紙などがことさら紹介されていたと思うが、本書では、恋する女性に対する自然な思いでしかないと扱われる。

Costanze_Mozart_by_Lange_1782.jpg モーツァルトがコンスタンツェの身持ち、つまり不倫を心配する手紙を書いたのは、不倫の事実があるからではなくて、嫉妬心、愛が他者に向かう事への心配にすぎないとも解される。

「お金の使い方をしらない男と、お金を使うのが大好きな女が結婚したら、破滅することは当然である」みたいなことが"青島広志のこれだけ!西洋音楽史!!"というCDの解説(ナレーション)にあったように記憶するけれど、コンスタンツェの浪費については本書では、少なくともこんな無駄なことにお金を使った、という形では出てこない。もちろん妊娠や病気その他、必要な経費は多かったようだが、どうも一番の「浪費」にあたるのは身の丈に合わない住居を借りた(それは音楽家として仲間を集め、有利な就職を得る投資という面もあるのだけれど)ということのようだ。
そしてむしろ、経済的危機にあっては、少なくともモーツァルトよりはうまく切り抜ける知恵を持っていたようだ。

コンスタンツェ=悪妻説が論拠とするのは、葬式のときにお墓まで行かなかった、モーツァルトの骨の行方がわからなくなった、死別後になってようやく夫が天才だったとわかったが、そのときは自分の金儲けのために利用した、云々である。

これが適正な評価であったかどうかは、最終章「モーツァルト亡きあと」で詳細に点検される。

Aloysia_weber.jpg コンスタンツェだけでなく、ウェーバー家全体に対する評判も芳しくない。
いくつかの評伝では、モーツァルトはウェーバー家の巧妙な罠におちて、はじめはアロイジアに気を惹かれ、ついでコンスタンツェと結婚させられたという評価がなされる。

しかし、本書ではその説には与しない。
この説のよりどころとなるのは、ウェーバー家を警戒するレオポルトの態度なのだろうと思うけれど、レオポルトはウェーバー家と利害が対立しているのである。
ウェーバー家はモーツァルトから絞れるものを絞ろうとしている、つまり自分の懐に入るべきものが入らなくなるという怖れを持っている、そしてそのことにより、モーツァルトをウェーバー家から引き離そうとしているということである。

モーツァルトは、繰り返し、「ウェーバー家の人たちは気持ちの良い人たちで、音楽的にも素晴らしい人たちです」とレオポルトに手紙を書いているが、前半はともかく、後半については、音楽に関しては絶対に妥協しないモーツァルトが嘘を書くはずはないと私は思う。だからといって前半の記述も正しいということにはならないけれど、レオポルトが言うように、モーツァルトがだまされているという証拠にはならないだろう。

長姉ヨゼファも、アロイジアも、素晴らしいソプラノとして成功を収めている。おそらくモーツァルトよりも、安定した生活をしていたものと思う。また、何といっても、モーツァルトの最後の世話をしたのは、末妹のゾフィーである。
ウェーバー家が、家ぐるみモーツァルトを金づるとして取り込んだというのは、やはり無理があるように思う。


モーツァルトの家族~「モーツァルトと女性たち」(その2)

随分、日があいたけれど、グラヴァー「モーツァルトと女性たち」の各章についての感想を順に書くことにする。
同書の第1章は「モーツァルトの家族」である。

アインシュタイン「モーツァルト:その人間と作品」は、レオポルトがザルツブルクへ来るところあたりから書かれていたと思う。アウグスブルクやインゴルシュタット(あのフランケンシュタインが怪物を生み出した大学街)ではなく、ザルツブルクへ来るところからである。

Leopold_Mozart.jpg グラヴァー「モーツァルトと女性たち」では、それよりも一世代前、モーツァルトの祖父母から語られている。
それは父レオポルトや母アンナ・マリア(生地ザンクト・ギルゲン―後にナンネルもここで暮らす時期がある―にはこの縁による小さな記念館がある。ちょっとした土産物売り場もあって、リコーダーを買おうかと思ったけれどジャーマン式しかなかったのでやめた)がどういう人達であったのかを書くためである。

そして、レオポルトがその父とも喧嘩別れするような、かなり我儘な人間だったと推察されることが書かれる。

このことは、レオポルトは厳しい父であり、方針の違いからヴォルフガングと対立することになるが、厳しくても立派な父であったと思っていた私の思い込みとは微妙に違う。本書では頑固な独裁者という一面が浮き彫りにされる。

モーツァルトがウィーンへ行ってしまったことに対する怒りは、モーツァルトが親の忠告を聞かないことに対するものだけではなくて、また、親らしい気遣いからだけということでもなくて、ザルツブルクで経済的には不遇(結局、副楽長どまりに終わる)だったレオポルトにしてみれば、その頃、既にモーツァルト一家では、モーツァルトが収入面での大黒柱であったことが指摘され、そうした経済的理由からでもあったという。

ベートーヴェンの父親は、ベートーヴェンをモーツァルトのようにして、息子から搾取しようと考えていたという話があるけれど、レオポルトもそうした面があったわけだ。ただ、レオポルトは教育者としては素晴らしかったわけで、そこがベートーヴェンの父とは違い、「厳しいが立派な父」という評価を得ることになったのだろう。

anna_maria_mozart.jpg
アンナ・マリア(マリア・アンナと書いてる本もあるけど)のイメージも違っていた、というか今までは知らなかった。
母アンナ・マリアはパリで客死するわけだが、レオポルトの命令で、モーツァルトに付き合わされて、息子にはほっとかれ、寂しい思いをしながら、冷たい部屋で死んでしまった、かわいそうな母、そのように書いている本が多いと思う。
しかし、本書では、アンナ・マリアは、モーツァルトとの旅を楽しんでいた様子も描かれる。それはレオポルトから離れて羽根を伸ばしたという面もあるに違いない。

たしかに、モーツァルトは仕事を求め、旧交をあたため、また新しい人脈を築くため、母をほったらかしにしたこともあっただろう。アンナ・マリアは一人でさびしく食事をしたことも多かったかもしれない。それでも、うるさいレオポルトから離れ、モーツァルトと一緒にいることは楽しかったのだろう。
アンナ・マリアは大酒呑みだったというから、決してひよわな体質ではなかっただろう。死の数日前までは元気そうだったという。

マリア・アンナ(ナンネル)についても、他の伝記などでは、子供の頃の一瞬しかナンネルの姿は描かれないことが多いけれど、本書では、ナンネルの弟に対する感情の変遷、無邪気なパートナーから嫉妬の対象へ、そして評価・自慢の弟へと変わっていくことが示される。

モーツァルトとレオポルトのイタリア旅行には、最初の大旅行とは違い、アンナ・マリアもナンネルも同行していない。今まで、そのことについて不審に思ったことはない。モーツァルトの成長及び就職のためで、その期待を受けていないナンネルが一緒に行かないのは当然である。なにより、一番大きな理由は、旅にはお金がかかるということである。そしてその通りなのかもしれないが、著者は、残された母娘の気持ちに着目する。
その一方で、モーツァルトとナンネルの「暗号」通信、下ネタ満載の手紙から、二人の気持ちが通じ合っていたことも(モーツァルトの結婚までは)、丁寧に記述されている。

Maria_Anna_Mozart_(Lorenzoni).jpg とりわけ、ナンネルについては、ピアニストとして当代一流の腕をもちながら、弟の陰に隠れていることに対し、はじめは悔しさもあったのだろうが、弟を凌駕できないことを自覚しながら、やはり自分の腕前は披露したかっただろうと、思う。
そして、レオポルトから最大の被害を受けたのは、ナンネルだったのかもしれない。

著者は、ナンネルへの思い入れを強く持っていると思う。
本書のカバーにナンネルの肖像が使われていることもその表れではないかと思う。
ナンネルは本書の最後の章「モーツァルト亡きあと」で再び大きな役割を果たすことになる。

モーツァルトが弟でなければ、彼女は素晴らしい音楽家として(レオポルトも彼女に多くを期待しただろう)歴史に名を遺したにちがいない。その肖像画を見れば、きりっとした美人であったことがうかがわれる。

だけれど、結局は「モーツァルトの姉」としてしか名を遺さなかったというわけである。

あと、モーツァルトの家族には、"ビンベルル"(または"ビンベス")と呼ばれていた一員がいる。
旅先からモーツァルトがナンネルに「太らないよう餌を与え過ぎないように」と注意していた、フォックステリアである。("His master's voice"の種類もフォックステリアのようである。この種類には音楽が似合うのかな。)

P1000905-crops.jpg
【追記】

ザンクト・ギルゲンで撮った写真があったのを思い出したので載せることにした。
アンナ・マリアの像と、モーツァルトの記念館。


P1000906s.jpg

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「モーツァルトと女性たち」

51dDFs7H74L.jpg ジェイン・グラヴァー「モーツァルトと女性たち:家族、友人、音楽」(原題:"Mozart's Women")は、472ページの大著である。
グッドール「音楽の進化史」なみの分厚さである。

著者は女性。指揮者でもある。
この本を読むまで、この指揮者の存在は知らなかった、というか多分、今までにテレビの音楽番組などで絶対に見ている人だと思うけれど、指揮者として意識したことはなかった。

タイトルは「……と女性たち」とあるが、女性との関わりばかりが書かれているわけではない。というか、むしろサブタイトル「家族、友人、音楽」の方がピッタリであろう。「……と女性たち」としたのが目を惹くためというわけではないとは思うけれど。

タイトルから連想されるような、モーツァルトと女性のエピソードを集めたというものではない。
しっかりしたモーツァルトの伝記である。この内容なら、どんなタイトルが付いていてもかまわない。

私はモーツァルティアンを自任するくせに、まとまった伝記といえば、アインシュタイン「モーツァルト:その人間と作品」ぐらいしか読んでいないのだけれど、アインシュタインは楽曲ジャンルごとに、その曲が書かれた、あるいは演奏された時期といった形で伝記的な記述があるわけだし、普通の伝記なら年代記という形で年を追って書かれる。
この本は、人間関係をカテゴライズ、つまり、家族(レオポルト)、もう一つの家族(モーツァルト、つまりコンスタンツェと営んだ家族)、演奏家(オペラ歌手たち)というように分けて、それぞれの関係に沿って記述している。

前奏曲
モーツァルトの家族
モーツァルトのもうひとつの家族
モーツァルトとオペラの女性たち
モーツァルト亡きあと
後奏曲
目次は右のとおりだけれど、したがって、読者は少なくとも3回、年代に沿った記述を読むことになる(「モーツァルト亡きあと」だけは、当然だけど、対象年次が異なる)。
そして、それが無駄な努力ではないということは、読めばわかる。

というか、4つの章ごとに1書としても何らおかしくはない。
1書としたのは、前述のような書き方からわかるように、章をまたぐ引用があるから、それを別書の参照という煩わしさを防ぐという意味なのかもしれない。


もし難を言うとすれば、カテゴライズされている分、そこから漏れ落ちる人間関係というのもあっただろうから、そこの欠如感のようなものがあって、「完全な伝記」とはならないことだ。完全な年代記であればそういう感覚にはならないのだろうけれど、それは他書に期待すれば良い話であって、この独自のカテゴリーに沿った叙述は実に興味深い。

もう一つ、節の見出しなど一切ないこと。
分量からして、一気に読めるような代物ではないのに、どこまで読んだか見失ってしまいそう。

小説ならその世界に浸って、偽の体験として、偽の記憶として、その時間を生きれば良いから、見出しなどなくても問題ないのだろうけれど、これは研究成果物なんだから、少しは数段落ごとに内容を端的に表す見出しが欲しくなる。でないと、寝る前に読んでいて、今日はどこまで読もうかという、その区切りがつかないじゃないか。


P_20160731_105854.jpg モーツァルトの伝記的知識といえば、前述のアインシュタイン以外では、演奏会のパンフレットやレコードの解説(「モーツァルト全集」の膨大な解説もある)によるものが多い。また没後200年にNHKが1年間放送した「毎日モーツァルト」も相当な情報量である。

であるけれど、本書の各章には、私が今まで知らなかったというか、誤解していたことが次々にあらわれてくる。
図式的に言うと、周囲の人はモーツァルトに面するところだけが書かれていた感がするけれど、この本ではそうした人達を深堀りすることで、それを感じていただろうモーツァルトの心情にも反映されてくる。

もちろん今までにさんざん語られてきたことも多いのだけど、モーツァルトの祖父母からを読むと、どういうことかと言うと、周囲の人との関わりは伝記の大きな要素だけれど、モーツァルトに接するところだけを見ていたのでは、なぜその人がそのような関わり方をしたのかという理解には届かない。

モーツァルトの伝記として絶対に外せない書であると思う。

実は、はじめは図書館で見つけて借り出して読み始めたのだけれど、これがなかなか内容のあるものなので、気兼ねなく、落ち着いて読めるように、自分のものとして読むために、そして手元に置いておけるように、すぐにAmazonで購入した。

そして、ところどころ、関連楽曲をとりあげて賞賛する言葉がある。
これを読めば、やはりその曲を聴きたくなる。
本書を読みながら、そうした曲に聴き入る、そういうゆったりとした時間の過ごし方、これこそ贅沢というもの。

各章の感想については、順次、アップしていくつもり。

ところで今日はモーツァルトの結婚記念日(1782年8月4日)。
コンスタンツェとの結婚生活は、「モーツァルトのもうひとつの家族」の章で書かれる。
「悪妻コンスタンツェ」、その評価は見直さなければならなくなるのである。

民族文化はその民族に排他的利用権があるか

日本人の我々が、海外の人が「日本風」と考えるものに違和感を持つことは少なくない。

日本特殊論を言いたいわけではなくて、これはどこの国でも同様で、「他国人が『○○風』とするものは○○人には違和感が感じられる」と一般化されるのではないだろうか。


Mehter_march.jpg さて、今回もまたグッドール「音楽の進化史」から。
ロマン派の終りぐらいから、国民楽派はもちろんのこと、民族音楽に題材をとった作品というのがたくさんでてくる。

もちろん異国情緒ということでは、そんな時代を待たなくても、モーツァルトにも「トルコ風」はあるわけだけれど、トルコには行ったことがないモーツァルトが当時の西洋で「トルコ風」と考えられていたスタイルを採りいれただけで民族音楽をもとに作ったわけではない。

「トルコ風」というのは、二拍子あるいは四拍子系で強拍が明確、それに打楽器(的響き)が伴うものと私は理解している。


バルトークのようにルーマニアで生まれ、ルーマニアの民謡を収集したというのは別にして、多くの作曲家が自身の出自とは直接関連しない民族音楽を使用することについて、グッドールは正当性があるのだろうかと自問自答している。

我々がハンガリーといって思い出すのは、ブラームスのハンガリー舞曲かもしれないが、ブラームスはハンガリー人ではないし、ハンガリー民謡の一部をとって舞曲にしたものを、ハンガリー舞曲と呼ぶことに躊躇いはないのか。
あるいはハンガリー狂詩曲は、作曲者リストはハンガリー生まれだけれど本人はコスモポリタンでしかなく、ハンガリー臭さはなかっただろう。
ドビュッシーは、パリ万博のときに、インドネシアの民族音楽ガムランを熱心に研究したという。もっともガムランの情趣がそのまま聞こえる曲は、私は知らないけれど。

300px-Virginia_Minstrels,_1843 アメリカの黒人から生まれたソウル・ミュージックを白人が演っても良いのか、という話にも通ずる。黒人の魂が白人にわかるはずがない、表現できるはずがない、である。

フォスターが白人だと知ってショックを受けたという黒人の話もあるけれど。


グッドールは、そのいずれも不当なこととは考えていないようだ。
民族文化はその民族に排他的利用権があるというわけではない。

民族音楽を「題材にとった」のであれば、それは外部者としてふるまっているわけで、なりすましたということにはならないと思うけれど、「そのもの」となると、抵抗があるかもしれない。

グッドールは指摘していないけれど、もう一つの重要な観点もあると思う。
Isramic_Azahn.jpg それはたとえば、イスラム教徒でないものが、アザーンを朗唱しても良いのだろうかということである。

思えば、キリスト教徒でもない日本人が、メサイアやミサ曲を歌う。もちろんそこには神を敬う気持ちが入っているだろうけれど。

「あんたゴリラ、ゴリラの子(And the glory, the glory of the Lord)」なんて歌ってはいけない。


それはそうとして、アザーンを純粋に音楽的に鑑賞するというようなものは知らない。
その宗教的意義をはずれたところで歌われても、それはアザーンではないということはそうだとして、そのこと自体が許容されているのだろうか。
YouTubeにはアザーンはたくさんアップされているから、聴くことに不自由はしないけれど、宗教的体験から離れて、音楽として鑑賞することに対して、イスラム信者はどう考えているのだろうか。

そういえば、東大寺のお水取りや、比叡山の声明のCDなんかも販売されている。
ネットで検索すると、「黛敏郎構成による東大寺お水取り」というのがあったりする。また、私はよく知らないのだけど、声明を題材にして構成した楽曲というのもあるだろうと思う。
天理教には、山田耕筰作曲「交響詩おやさま」というのがあり、宗教行事で使われる歌を採りいれて、オラトリオ風に作られている。(もっとも、そうした歌はそもそも奈良県の民謡をもとにしている)
これらは他の民族の文化というわけではなくて、音楽として鑑賞しても指弾されることはないと思うけれど。

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