国勢調査のネット回答

censuskun.jpg新聞に、国勢調査の調査票の回収をネットでやることになったと報道されていた。
不勉強で知らなかったが、既に前回の国調では東京都で試験実施されていたそうだ。

やりかたは、IDと初期パスワードを配って、それでユーザー登録をする。このときパスワードは本人が変更する。
あらためて調査票入力画面に、必要事項を記入していく。
もちろん、必須入力項目など、記入漏れのチェックなどは当然行われる。
所定の期間にネットからの回答がなければ、紙の調査票をその世帯に配布する。

通常のネット・アンケートなどと違うのは、1世帯1ユーザーで登録し、同じユーザーが2度入力しないようにする点。
また、ネット入力の有無で、調査票の配布が決まるということは、配布先を特定しておく必要もあること。

ちょっと気になるのは、ID/初期パスワード配布時に既に個人(世帯)と紐付けされているのか、それとも、とりあえずIDをばらまいてユーザー登録時にどの世帯(住戸)かを自己申告してもらうのか、どちらだろう。
国調はホームレスも含め、住民票を移動していない学生なども調べるから、住民登録ベースではない。それだけ手間がかかる。おそらく、人が住んでいる(いそうな)住戸を全部洗いだして、そこへ調査票を配布していると思うが、この手順を変えないなら、事前に住戸単位に紐付けということになる。しかし、この場合、ID配布先を間違えると所期の目的が達成できない。
対して、IDをばらまいて登録時に住所などを入れてもらう場合は、住所のマッチングが結構めんどうそうだ。

何故、こんな細かいことを気にするかというと、個人情報がどのように守られるか確認したいから。
とくに住民登録を使用するかしないかは、結構センシティブな問題になる。役所のやることだから住民登録データは使い放題なんだろうと思っている人もいるかもしれない。調査対象をどうやって設定・把握したかがきちんと広報されれば、誤解をなくせるのではないだろうか。

技術の説明は良くみかけるのだけれど、どういうポリシーでセキュリティを守ろうとしているのかがはっきりしないのがこの国の傾向。理解していない技術の説明をいくらされても、それだけではごまかされているような気になる。昨日の鍵の話でも書いたように、すごい技術だとしても、システム全体として説明されなければ信用できない(私がひねくれているだけかもしれないが)。

セキュリティの強度は、そのシステムの一番弱いところの強度によって制約される。思いっきり端折った説明をすると、セキュリティ強度は、モジュールが並列になっている場合を除き、それぞれの掛け算になるからだ。

また、大量のデータを扱うので十分余裕があるシステムとすべきという話もあるようだが、ポリシーがしっかりしていれば、クラウド・コンピューティングを使えば良いとも思う。クラウド事業者にすれば、1億人なんてちっぽけなサイズだろう。

私は若い頃、国調の集計をしたことがある。
大型計算機の時代である。国調の個票データは、磁気テープ1巻(2400ft, 6250bpi)に約50万人分が記録されていて、全部で17巻、全体で3GB程度だったと思う。普通は磁気テープのデータは一旦磁気ディスクにコピーしてから集計するのだが、ディスクに余裕がないため(システム全体でも2GBなかった)、テープから直接集計することにした(全部をディスクに入れれば簡単で5年後の担当者はそうした。今ならPCで余裕で集計できる)。

集計表は200種を超えていたから、1本のプログラムで1表を集計するようでは、200×17=3400回もテープを掛け替えなければならない。そんな馬鹿なことはできないので、1本のプログラムで200種の表すべてを集計することにした。表ごとにプログラムを書くなどは面倒だし、間違うリスクも高くなるから、項目とそのストラタスの定義、そのどれとどれをクロスするかを指定する制御データを作って、それに従ってクロス表を生成する。クロスの次元はいろいろあるし(性別・年齢別・世帯の種類別・所得階級別・就業状態別・…)、メモリーも限られているから、集計域は1つの大きなスペースにして、どの表がどの位置にあるか、そしてサンプルをどこにカウントするかなどのアドレス計算も、自分でコードした。だからプログラムは極めて短い。
また、トラブルも想定して、集計はテープ単位に中間結果を吐き出して、17巻そろったところで総合計するようにした。


ネット回答の採用という時代からは隔世の感がある。
せっかくだから、ネットで回答したら直ちに「現在の集計状況」に反映させて、すぐ見えるようにしたらどうだろう。
リアルタイムで集計が進むと、国民の関心も高くなる
ような気がするが。

ところで、国調に協力しなかったら罰せられることもあるなんてこと、普通の国民は知りません。統計局のホームページではその点も説明されているけれど。
統計法

(報告義務)
第十三条 行政機関の長は、第九条第一項の承認に基づいて基幹統計調査を行う場合には、基幹
  統計の作成のために必要な事項について、個人又は法人その他の団体に対し報告を求めること
  ができる。
2 前項の規定により報告を求められた者は、これを拒み、又は虚偽の報告をしてはならない。
3 第一項の規定により報告を求められた者が、未成年者(営業に関し成年者と同一の行為能力
  を有する者を除く。)又は成年被後見人である場合においては、その法定代理人が本人に代
  わって報告する義務を負う。
 :

第六十一条 次の各号のいずれかに該当する者は、五十万円以下の罰金に処する。
  一 第十三条の規定に違反して、基幹統計調査の報告を拒み、又は虚偽の報告をした者
 :
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ネットで合鍵

テレビのバラエティ(?)番組の中で、恐ろしい話を聞いた。
番組では、花田虎上(若乃花)自慢のセキュリティ設備をととのえた氏の自宅への侵入を試み、いとも簡単に玄関から堂々と入る。

種明かしは、事前に花田邸を訪れ自慢の鍵を見せてもらい、花田氏が席をはずしたときにその鍵の写真を撮る。
次に、この写真を合鍵屋に送って、合鍵を作ってもらう。
あとは、この鍵で玄関を開ける、たったそれだけ。
鍵にはナンバーが振られていて、このナンバーで鍵を特定できるのだそうだ。

番組では専門家が、こういうネット合鍵屋はいくつかあるが(下の写真はその1社のHPから)、本人確認をきちんとしている、ただし、中にはそういう手順を踏まないところもあるので、自分の鍵を人に見られないようにすることが肝要とのことだった。
orenoaikagi.png

職場の机の引き出しやロッカーなどは、鍵穴の横に番号が彫ってあるのが多い。職場の什器類は、人事異動で使う人がしょっちゅう変わるから、すぐに鍵が紛れてしまい、この番号を見て鍵合わせをしたりするが、もし、什器類の合鍵もすぐ作れるなら、機密書類をこういうものに保管するのは危ないということになる。

また、ネット合鍵屋には、どの家がどの鍵を使っているか丸わかりというわけだから、悪意の人がいたらどうなるんだろう。
こういう心配をすると、他人には合鍵を作れないよう、自分でセットできる番号錠(機械的な4桁とかでなくて電子的な番号錠)や生体認証のほうがよさそうに思える。(それでもバックドアが付いてるかもしれないが)

花田氏は、自宅の鍵を絶対に破られない、頑丈な鍵だと誇らしげに言っていたのだが、似たような話を思い出さずにはいられない。
ICカードや、電子証明書、その他、IT関連のセキュリティのことである。
「ID/パスワードに比べてはるかにセキュリティにすぐれる」と誇らしげに言う人が多い。
昔、公的個人認証制度(JPKI)ができたとき、こういう説明だった。

電子証明書はICカード(住基カード)に入れ、秘密鍵はICカードからの取り出しは不可能、キーペア生成は、独立したキーペア生成装置を使って住民自身が入力するランダム数列をもとに生成するので、システムのどこにも秘密鍵は記録されず、推定もされない。


私はこれを聴いたときすぐに思った。たしかに錠は頑丈だが、これを開ける鍵は簡単に手に入るのではないか、と。ICカードとPINを他人に渡した時点でセキュリティは終わってしまう。

一般に、最大のセキュリティ・ホールはそれを使う人自身である。

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ガリレオ判決

saninikenhanketsu.jpgまもなく衆議院総選挙だが、その陰で、というか結構大きく報道されていたが、去年の7月の参院選での1票の格差が違憲状態であると最高裁が判断した。

「ガリレオ判決」というのは、この裁判の原告グループが、判決後に最高裁前に掲げたもの。曰く、ガリレオになぞらえて不条理な判決であることを意味しているそうだ。

これはかなり無理がある。ガリレオは宗教裁判では自分の主張を曲げることで異端追及を免れたわけで、判決が不条理だったわけではない。
あるいは、「それでも選挙は有効だ」というのを「それでも地球は動く」になぞらえたのだろうか。もっとも、これでは天地(主客)逆転だけれど。


それはともかく、私は実は、小学校で「良識の府」と教えられている参議院でについては、1票の重みなどは問題にしなくて良いのではないかと思っている。

前にもブログに書いた覚えがあるが、多数決は正解が判らないときの最終的な決定方法であるべきで、科学的・論理的判断は多数決によるものではない。
そして、科学的・論理的判断に寄与するのが参議院(つまり「良識の府」の役割であるべきと思う。
だから、何人の国民を代表するかが問われるのではなく、どういう知見を代表するかが問われるべきだと思う。選挙区選出というのは、地域の知見を代表するという意義で考えるべきで、大都市の利益を通しやすくする定数にする必要はないのではないか。

とはいうものの、現実は「良識の府」とは程遠い。衆議院と同様、数の論理の場であれば、存在価値が問われるのは必然である。
うろ覚えで恐縮だが、フランス大革命のとき、それまでの三部会を廃して、国民議会が創られるわけだが、このとき二院制をとるかがやはり議論になった。二院制を主張したのはおそらく穏健派で、急進派は一院制を主張したのだと思うが、その趣旨は「上院が下院に反対するなら邪魔だし、賛成するなら不要である」というものだった。

実際は、上院は貴族階級を、下院は民衆の利益を代表すると想定されるので、対立するのが当然であり、二院制否定は、貴族階級の発言権を奪うためだったのだと思う。
とすると現代の二院制否定論者は「良識」に出てこられたらこまるのか?


現実には、参議院に「良識の府」を求めるのは到底無理なようだが、それで参議院廃止は正当化されるだろうか。
ロベスピエールの信奉者かどうか知らないが「衆参ねじれ国会」を問題視する意見がある。そういう人は民意は時とともに動くものだということを忘れている。
衆議院の平均任期は1007.6日=約2年9ヶ月である。参議院は3年毎に半数改選である。つまり、1.5年に1回の割合で国政選挙がある計算になる。

1.5年は世論を変えるに十分な時間だと思う。アベノミクスが大歓迎を受けて1年であるが、今や「三本の矢」は、消費税増税の矢、円安による物価高騰の矢、年金減額の矢(これはアベノミクスではないと思うが)という矢であって、国民を射抜いているという感覚もある。


「ねじれ国会」は、民意の変化を反映するものと評価すべきというのが論理的帰結である。

たいていの政治家が多数をとってるのが民意だと言ってるじゃないか。それならねじれは民意の変化であって、以前の多数派が否定されたと解釈すべきでは。ねじれは調整過程と理解するべきだろう。

「前回はだまされたが、今度はだまされないぞ」が、1.5年に1回できるわけだ。これって案外良いんでは?
制度の趣旨目的には違うかもしれないが、二院制があって、その選挙時期が微妙にずれるということは、案外、国政のビルトインスタビライザーになっているのかもしれない(スタビライザーであるから、当然、過剰な動きを抑える方向で働くのだが)。

ところで、以前から何度も国会の定数については違憲状態とする判決が繰り返されているが、「国権の最高機関たる国会が決めることに裁判所が口をはさむな」という議員がいた。
また「憲法解釈に責任を持つのは内閣だ」と言って通る現状もある。
しかし、「憲法の番人」は、国会でも内閣でもない、私はそう学校で習った。
私は、決してナイーブに三権分立を信じているわけではない。とりわけ立法と行政は、政党政治である以上、分立はありえないのが論理的帰結である。しかし、だからこそ、「二極」に期待したい。

がんばれ裁判所、でないと国民審査で不信任するぞ。


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羽生強行出場、競技運営の改善は

hanyujiko.jpgフィギュア・スケートNHK杯が今週末28日(金)から開催される。グランプリ・シリーズのうちの1大会でもあり、グランプリ・ファイナルへの出場権もかかっている。
昨日のNHKのニュースによると、羽生弓弦選手は強行出場すると伝えられている。

今期は、大変意欲的な演技構成だと前評判が高かったから、見たい人は多いと思うが、まだ若く、これから何年も世界チャンピオンを維持してもらうことを期待するから、もし今後の選手生命にかかわるようなおそれがあるなら、今年は無理しなくて良いとも思う。
高橋大輔選手も足の大きな故障で、再起不能といわれてから、復活した。1年棒に振っても何ほどのことか、少しでも不安があるなら、将来のために自重するという選択をしても、誰も責めないと思う。
ただ、練習では4回転も決めていたそうだから、かなり体調も戻っていて、心配することはないのかもしれないが。

それはそうとして、この事故を契機として、競技運営の変更は検討されているのだろうか。
本番前の練習のことである。

gridcollision.jpgちょっと考えてみた。
1人で滑っていて、他の選手と衝突することはない。
各選手が、ランダムに滑っているものとして、2人が衝突する確率が p とすると、
3人だと、おおよそ 3C2×p=3p となる。
 (3人以上の衝突の確率はp×p×…で十分小さいから無視できると考えられる)
一般に、n人が滑っていれば、nC2×p=n!/2(n-2)!×p となる。
大会では、1グループ6人のようだから、6C2×p=15p

つまり、従来の競技運営のように、6人が一斉練習する場合と比較して、
3人ずつに分けてそれぞれ半分の時間練習する場合の衝突確率は1/5 となる。

以上は、選手がランダムに滑っている場合で、実際は、選手は他の選手の位置・動きを確認・予測して衝突回避行動をとる。同時に滑っている人数が少ないほど、他の選手の位置・動きを確認・予測しやすいだろう。5人の動きを同時に確認するのは難しくても、2人であればほぼ完璧に把握できるのではないだろうか。であれば、衝突が起きる確率はかなり低くなると思う。

各選手ごとに、本番直前に練習時間を与えれば1人滑走だから衝突は起きないが、短い時間では技のチェックなどはできないかもしれない。間をとって、グループを半分に、練習時間も半分としたらどうか、と思ったわけ。
(競技運営としては、練習時間が長くなるのは避けたいだろうから、総練習時間は同じという制約があるとして)

以前から不思議に思っていたのだが、6人が一斉練習して、最初の滑走者はその直後に滑るわけだが、最終滑走者は自分の出番まで30~40分待つ。こんなに差があって条件が同じと言えるのかということ。
練習後すぐ滑りたいという選手もいるだろうし、少し落ち着いてからという選手もいるだろうから、一概には言えないが、選手の意見を聴いて、早く、不安(選手、観客の)を取り除いてもらいたい。


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うどんキャラメル

jingiskancaramel.jpeg「ジンギスカン・キャラメル」というロングセラーがある。
テレビの情報番組でも紹介されたことがあるし、ネットで調べればさまざまな評価、というより、同じ評価が、さまざまな言葉で語られている。
不味さを、これほど雄弁に語れる日本語と、それを使いこなす日本語人に感心する。

前置きはこのぐらいにして、タイトルの「うどん風味キャラメル」である。
昨日、四国・香川について投稿したが、その旅先で買い求めたもの。
いつもは車で行くので、みやげものは、うどんほか、定番のものがあるのだけれど、今回は鉄道だったので、KIOSKで軽く嵩張らないものを買ってみた。

以前、北海道旅行をしたとき、ジンギスカン・キャラメルも体験しており、この手の「キャラメル」がどういうものかは想像がつくが、話題性ということで敢えて購入。

udoncaramel.jpgさて、「うどん風味キャラメル」の評価である。
口に入れた直後は特段どうということもない、普通のキャラメルで、香・味は、むしろ薄目に感じるのだが、しばらく噛んでいると、「うどんダシ入り」という添え書き通り、キャラメルには似つかわしくない出汁の味が融けだしてくる。
この違和感に耐えられるかどうかが、評価の個人差となる。

私が職場の同僚(とりあえず7名)に感想を聞いたところ、私が「ジンギスカン・キャラメルほどではないが……」と前口上をしたことが先入観になったかもしれないが、3名はそんなに悪くないです、という評価であり、他もまぁ、食べられるという評価であった。
「うどんをそのまま食べてる感じがする」という者もいて、開発者の力量の一端を感じさせるところもあるようだ。
口に含んだとたん吐き出したくなるジンギスカン・キャラメルとは違って、個人差の範囲にあると考えられる。

私の感想も言うと、繰り返しになるが、とにかく違和感のかたまり。
出汁(でじると読みたくなる)が、水気を失って固まったような、身近にあるものにたとえれば、固形ブイヨンを齧ったような感じと言えば解ってもらえるのではないだろうか。
それと、この出汁は鰹だしがベースのように思うが、讃岐のうどん出汁のベースは、いりこである(讃岐うどんの王道はぶっかけだと思うが、かけにする場合は、いりこベース)。
讃岐としては、いりこにこだわるべきではないだろうか(魚臭くなるかもしれないが、味には誰も期待していないだろうから)。

参考までに、ジンギスカン・キャラメルに対する私の評価は、ジンギスカン鍋をしたあと、鍋に残った有象無象の混ざった汁を固めた味、である。上で「出汁(でじると読みたくなる)」と書いたが、そういうイメージ。生ごみからしみ出してくる水分の印象に近い。(安部公房が、「ごみが不快なのはいろいろなものが混ざって分析不能になっているから」と言っていたが、そういう分析不能感がジンギスカン・キャラメルにはあると思う。やはり横綱はジンギスカン・キャラメル。)

ということで、職場でひとしきり話題を提供したうどんキャラメルであるが、ネットで調べると、ジンギスカン・キャラメルの登場以来、二匹目、三匹目のどじょうを狙ったと思しき商品がたくさんあるようだ。
とりわけ、ジンギスカン・キャラメル発祥の地、北海道では、スープカレーキャラメル、味噌ラーメン味キャラメル、函館塩ラーメンキャラメル、甘酒キャラメル、サッポロビールキャラメル、北の譽キャラメル、年輪赤ワインキャラメル、りんごわいんキャラメル、とオンパレードである。
キャラメル以外に目を向けると、長崎のちゃんぽん風ドロップ、マヨネーズドロップ、たこ焼き味キャンディーなど。
ちなみに、ジンギスカン・キャラメルは、改良して味を良くしたら、売れ行きが半減したという。

最後に、職場のみなさんの評価には個人差があったわけだが、一点では一致していた。
もう一度食べたいとは思わない。

日本の、いや世界の人口以上には売れないということか。
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四国・香川県というところ

kobodaishi.jpgもともと四国とは縁も因もなかったのだけれど、ちょっとした人生のイタズラで四国にリンクされるようになった。

四国の英雄と言えば、弘法大師(長宗我部は土佐だけだろう)。
何といっても、四国に人を集める最大のポイントは八十八か所巡りであり、これはひとえに弘法大師の功績である。
最近は「年明けうどん」でも有名になりつつある善通寺など、四国の大寺も結局は弘法大師に帰せられる。

私の前の職場の人も、思うところがあって早期退職して八十八か所巡りをされていたし、やはり前の職場の近所の煙草屋さんのご主人も、とっくになくなられているそうだが、八十八か所巡りをされたという。
意外に身近なところに、そういう信仰の方がいる。

この三連休は法事のため、四国香川へ行っていた。
で、件の法事も真言宗。
そのお墓があるお寺が写真、真言宗大覚寺派総寺院。境内には当然のごとく、弘法大師像も複数おかれている。
sojiin.jpg
四国といっても真言宗だけではないのだけれど、おそらく他地域に比べ、真言宗の割合が高いのではないだろうか。

前記のお寺は、八十八か所の六十八番、六十九番の2つのお寺(同じ境内にある)の麓にある。こちらも真言宗大覚寺派である。

そして、以前テレビドラマ「銭形平次」のタイトルバックで使われていた砂地に掘られた大きな銭形の傍でもある。
ここには、遠浅の海がひろがっている。



kotohikihama1.jpgkotohikihama2.jpg

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総選挙、そして…

osakadouble.jpg衆議院解散が決まった。前の「解散総選挙」で、O府、O市の首長選が気になると書いたけれど、どうやら二人とも立候補を見送るようだ。
(写真は前回、H知事辞職→市長へ鞍替えによるダブル選)

もし市長、知事を辞職したら、あきれかえる人が多くいただろうし、そういう市民、府民の反応を歓迎する人も多くいただろうと思う。(「デテクレ、デテクレ、デテイッテクレ」という声が聞こえる。)

不出馬の理由は、O都構想推進の正念場、来春の統一地方選への注力という。
府議会・市議会とも都構想推進派が過半数をとれないで膠着状態にあるわけだが、今のままでは来春の統一選で過半数を確保できる見込みも高くはない。
府議会で維新が過半数を割ったのは、泉北高速問題で造反議員が出たからだが、地元の民意を受けての判断だと思うが、今の状況では、この傾向が続くのでは。

じり貧の都構想陣営としては、都構想一本を争点にして、一気に知事・市長、府議・市議を統一選でとるという一か八かをやるのでは、というのが前稿でも触れた私の知人の予想。
M知事が国政へ、H市長が知事へという噂だったが、国政のタイミングがズレて、さあどうするだろう。

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キラキラネーム

市の広報誌に、新生児の名前が載っていた。4人だけだったが、そのうち3人は全く読めない、残り1人は読めることは読めるがちょっと無理があるなぁと思った。
下の写真はネットに公開されている、ある地方都市(人口4.3万人)の広報誌(2014年4月)の部分。
        dqnibusuki2.jpg

そう、近頃、読めない名前が増えている。

人名用漢字というのがあって、常用漢字に含まれない文字も600余の文字が含まれるそうだ。
戸籍法第50条では、子の名には常用平易な文字を用いなければならない、とされていて、その範囲が常用漢字+人名用漢字ということのようだ。

ところが、戸籍では名前の読みには規定がない。
そこでキラキラネームとかDQNネームといわれるものが登場する。
ネットで検索すると、これでもかという名前が沢山出てくる。

キラキラネームは、良く言えば、万葉仮名のノリに近いものがある。
字音を一つ一つ当てるもの、戯訓(蜂音=ぶ、八十一=くく)を思わせる判じ物である。
「地球」(テラ)とか、「月」(ルナ)とか、外国語をあてる読みもあるらしい。

そうかと思うと、どうやってそう読むのか全く理解できないものもある。
奇跡(だいや)というのがあるらしいが、?である
歴史的には、蝦夷入鹿なんてのもDQNネームだろうか、敢えて猛々しい名前を名乗るという話もある。
織田信長も子供に変な名前を付けていた。信忠は奇妙丸信雄は茶筅丸だったという。

キラキラネームのはしりは森鴎外ではないかと思う。鴎外は子供の命名にあたって、欧米でも通用しやすい音を選んだという。於菟、茉莉、杏奴、不律、類である。そういえば、テニスの錦織も、外国で呼びやすいだろうという配慮でKeiとしたとか聞いた覚えがある。

子供の名前というと、「悪魔ちゃん事件」が思い出される。最終的には似た音の名前で落着したらしい。
小学校の授業のときに、上野という人が子供の名前に「公園」と付けようとしたという話を聞いたこともある。
(今はどうか知らないが、小学校で名前の由来をとりあげた授業があった。50年も前のことだが、くじ引きで決めたとか、名付け親がいてとかが多かった)

子供の名前には、親の思いが込められるわけだけれど、あんまり独りよがりの名前はどうかと思う。

名前を聞いても字がわからないし、字を見ても読み方がわからない。
この頃は、子供の名簿を見てすぐに読める子は半分に満たないことがある。
メールを出すなど、漢字を一字一字拾わないとならず面倒である。
子供が小学校へ上がると、自分の名前を恥ずかしいと思うようになる。


子供の名前には親の思いが込められるものだし、キラキラネームに分類されそうなものでも、なるほど、と思わせるものもある。世相・歴史とともに「普通」という感覚も変わるし(今や「太郎」「花子」の方が変わってるとも)、私も一概にキラキラネームと断罪するつもりはない。
しかし、「泡姫」(ありえる、あき)というのなどは、将来、間違いなく「ソープ嬢」と虐められるに違いない。
麻楽(まら)、亜成(あなる)にいたっては声に出して呼ぶことがはばかられる。

これから命名しようという人は、ネットでどんなキラキラネームがあるか調べてからにした方が良い。
「冗談だろ」、「親は一体何を考えてるんだ」という名前のオンパレードであるから。(その感覚があれば、変な名前はつけないか)

ところで、私の娘の名前は一見、ありふれたものだが、三十歳のときの子なので三十を意味する「世」を使う、女の子なので女手(平仮名)のもとになった漢字で構成するという、結構凝った説明ができる。「光子」(photon)、「量子」(quantum)とかも考えたけど、そうしなくて良かった。

命名の由来に物語(ストーリー)を持たせることは、子供にとっても良いことだと思う。一見ありふれた名前だが、そこに込められた思いが物語化されていれば、子供も名前に愛着を持てるのではないだろうか。薄汚い堂宇でもストーリーが付けば立派な旧跡となる。

一見ありふれた名前だが、それについて語ることができる由来や親子の秘密があるなんて、素敵ではないか。

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ヘンな看板

kamban2-crop.jpg街でみかけたヘンな看板のご紹介。
一体、何を、個別に、指導、するんだろう。

思い出したことがある。
多分、誤訳に関する本に書いてあったことだと思う。

某国際会議の場で、某国代表が演説中で、繰り返し、
「両国間の長期にわたる誤解 long standing fallacies」と言うのだが、
そのfallaciesが訛って、phallusiesと聞こえて、
場内が押し殺した笑いに満ちたという話を思い出した。

しかしだ、こっちの看板にあるファロスは pharosと綴るらしい。
アレクサンドリアの大灯台(Lighthouse of Alexandria)は、紀元前3世紀頃にエジプトのアレクサンドリア湾岸のファロス島に建造された灯台。ファロス島の大灯台、あるいはアレクサンドリアのファロスとも呼ばれる。
世界の七不思議のひとつ。(以上、Wikipedia)

Pha•ros (ˈfɛər ɒs)  n.

1. a small peninsula in N Egypt, near Alexandria: site of ancient lighthouse built during the reign of Ptolemy II.
2. the lighthouse on this peninsula.pharos - a tower with a light that gives warning of shoals to passing ships


この看板を見て、いちいちヘンと思う方がヘンなのだった。「世界の七不思議」を知らないほうが恥ずかしい。
l と r の違いが解らないほうがいけない。(けど、カタカナで書いてあるからしかたないやん)
(珍之助さま剥き向きの話題でした。)
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自動運転、社会的影響

automobile.jpg昨日に続いて、鶴原吉郎・仲森智博  監修:逢坂哲彌 「自動運転」(日経BP)。

昨日、この本のメインは、自動運転が開く新しい社会像の予測と書いた。
単にドライバーを支援するシステムとして自動運転を考えているのではなく、自動運転が社会システムを革新すると主張している。曰く、

・マイカーが自動運転車になるのではなく、マイカーが無くなるのである。
・従って各家庭の駐車場がなくなるのは当然であり、マイカーが停まるための各種施設の駐車場もなくなる
車は路上に停まっていても問題ない。


著者が考えている未来社会を簡単に言えば、車は(無人)タクシーしかない社会である。

・なぜ家に車がないか、それは呼べばすぐにタクシーが来るからである。
・各種施設に駐車場がないのはタクシーは施設まで客を送ればすぐに別の場所へ移動するからである。
・車が路上に停まっていても問題ないのは、次々呼び出されて移動するからであり、道路交通を妨げさえしなければ良いからである。


そしてこのタクシーには運転手がいない、したがって気兼ねすることもなく、プライバシーも守られる。

自転車の乗り捨て(実際にはステーションからステーションだが)モデルみたいだが、自転車は自分では動けないが自動車は自分で動くから、指令があればすぐそっちへ移動できる。自転車ではうまくいかないことが、自動車なら実現される。

今でもマイカーを持つより、必要なときにタクシーを呼ぶ方がコストが低いと言われているが、本書でも、そうしたコスト比較が説明される。
また、近年、まだまだ数は少ないものの、カーシェアリングが伸びているというデータも紹介される。ただしカーシェアやレンタカーは、車をとりにいかなければならないが、自動運転車は向こうから来てくれる、それが決定的に重要という。
さらに、Googleのような広告モデル・アフィリエイトを考えれば、食事に行くのに自動運転車を呼んだとき、車が提携しているレストランで食事をすれば車代が割り引かれるというようなサービスも出てくるだろう。

私なんかは、郊外型レストランでも、酒類の提供量がすごく増えるのではないかと想像してしまう。


本書では、続けて、このような社会の車は、何より燃費が重視され、EVが中心になるとし、そのもっとも重要な技術はバッテリーであり、EVやHybrid用バッテリーのシェアで日本は75%を持つ。日本の成長分野になると予測する。

uzawahirobumi-crop.jpgたしかに合理的な社会である。
自動車の費用について厳しい見方をする人は多い(宇沢弘文「自動車の社会的費用」)が、こういう社会になればその論理もまた変わってくるかもしれない。つまり、公共交通機関より、自動運転車システムの方がコストが低く、環境にも、歩行者にも、やさしいということになるのかもしれない。

いつごろそうなるだろう。
2045年、人類がコンピュータに屈服していたら、そうなっている可能性は高いだろう。

きっとこんなことになる。

「あの車を見て、人間が運転している!」
「危ないなぁ、なんでそんな無茶なことをするんだ。」


しかし、本当にこんな社会になるだろうか。
ならない理由も考えられる。今でも、車を持たない合理性が分かっていても、いろんな理由で車を持っている。
単なる所有欲もあるが、いざというときにないと困るという理由、運転自体が楽しいという理由、やっぱり他人と一緒はいや……
確かなことは、マイカーには恐ろしく高額な自動車税が賦課されるようになることだろう。

そういえば、自動車は自分で動く車、英語ではautomobile、やはり自分で動くだ。
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自動運転、その前に

GoogleTestCar.jpg車の自動運転といえば、Googleがずっと実験を続けている。
日本でも、遅ればせながら昨年末ごろから、公道での実験ができるようになっている。
あと5年もすれば高速道路では自動運転車が走るようになると思う。

YouTubeで自動運転実験の様子のビデオがいろいろ流されている。そのうちの一つは、視覚障害の人が、Googleのテスト・カーに乗り込んで、コンビニへ買物に行くというもの。私が車を買ったときの営業さんは、娘さんが視覚障害を持っておられるそうで、この話をすると初耳だったのか、おどろいて、そして嬉しそうだった。
(私がオプションのレーダークルーズコントロールを付けるというのを珍しがっていたのだけれど)

automobile.jpgさてその自動運転だが、鶴原吉郎・仲森智博  監修:逢坂哲彌 「自動運転」(日経BP)という本を読んだ。
“ライフスタイルから電気自動車まで、すべてを変える破壊的イノベーション”という副題がついているように、本書の真骨頂は、自動運転で社会が大変革するという主張。
第1章 眼前にある想定外の未来
第2章 自動運転が日本の産業界にもたらすこと
第3章 ここまできている自動運転技術
第4章 自動運転、普及のシナリオ

で、このメインの主張は第1章で語られ、第2章以下は技術の現状・予測、自動車産業・自動運転システムへの新規参入企業(たとえばGoogle)についての解説となっている。
今日は、本書の順番とは逆になるが、まず自動運転技術について感想を交えて。

前述のとおり、そして既に投稿したとおり、今、乗っているプリウスにはレーダークルーズコントロール(ミリ波レーダー式ACC=Adaptive Cruise Control)を付けている。これはプリクラッシュセーフティ(AEB=Autonomous Emergency Braking)とセットである。
前の稿の繰り返しになるが、面白がって使う段階から、実用的に使う段階へと使い慣れてきたので、やはり便利なもの・楽なものと評価している。
初めはどのぐらい接近したらブレーキがかかるのかとか、カーブでは大丈夫かとか、結構スリリングな使い方をしたわけだが、今は、高速に入って落ち着いたらオンにする。JCTで別路線に移るとき(カーブがきつい場合)などは軽くブレーキを踏んでクルーズを解除し、また落ち着いたらオンにするようにしている。急加速は足のアクセルで、ちょっと巡航速度を上げようというときはACCのスイッチで、という使い方をする。アクセルから足を離しても良いのはとても楽である。

ということで、ACCを付けて良かったと思うが、その後の技術進歩すごくて、TVコマーシャルでは、スバルのアイサイトはレーンキープ(LKS=もできるらしい。もう少し待ったら良かったかと、若干後悔している。
ちなみに、アイサイトは2台のカメラの視差で距離をとらえるようだが、これは調整が難しく、結果コストに反映するのだそうだ。そこで、最近は1台のカメラで距離を測るシステムも出ているらしい。

またテレビCMでどんどん流れているように、軽自動車でもAEBはあたりまえになりつつある。AEBが付いていないと買わない客もいるらしい。
なお、大型トラックについては、新型車については、既にこの11月からAEBが義務化されている。
もっとも、軽にも付くようになった低価格のAEB用のシステムはACCまで対応するようなものではないらしい(ということで単純にプリウスのACCが割高とはならないと一応納得)。また、AEBは通常、横滑り防止装置(ESC=Electronic Stability Control)が前提になるらしく、軽でもESCとAEBがセットとなるという。

Googleが開発しているということで、GPSとGoogleマップを連想してしまうのだが、GPSはトンネルとかでは使えない。Googleマップも3D化しないとだめらしい。もちろん周囲の様子や突然の飛び出しに対応するためのシステムが自動運転に不可欠ということは当然として、ベースになる地図もさらに高度化が必要なようだ。

あと、自動運転で早い実用化が期待されるのは自動駐車だそうだ。既にホンダがスマートパーキングアシスト・システムというのを開発して、販売されている。うちの車もバックモニター(全周囲モニター)を付けてあるが、この画面を見ながらの駐車には未だ慣れない。
もっと本格的にホテルやショッピングモールなどの目的施設の入り口で車を降り、あとは勝手に車が空きスペースを探して駐車する、帰りは入り口でリモコンを使って自動運転で迎えに来させる、というシステムが期待されているというが、米国のような広い駐車場ならいざしらず、日本のタワー型駐車場では難しいとも。それに、人が運転する車も混じっていると駐車場内で人も歩いているはずなのでそれも気になる。

私がACCで高速を走っていると、同乗者が機械任せにするなと文句を言ってたのだが、この頃はちょっと変わってきて、100km/h設定にしていると「もっと速くしたら」と言ってくる。(設定は110kmまで可能だけど)

本書のメインの主張だろう社会変革の部分については次に。
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単眼鏡のこだわり

鳥獣戯画展でも活躍した単眼鏡、美術展の記事を書くといつも言及する単眼鏡について。

monoclar.png今、主に使っているものはVixen(ビクセン)のマルチモノキュラー6×16という製品。

諸元は次のとおり
倍率:6倍 対物レンズ有効径:16mm 
実視界:9.3°(1000m先視界:157m) 見掛視界:55.8° 
ひとみ径:2.7mm 明るさ:7.3 アイレリーフ:12.0mm 
至近距離:約25.0cm サイズ:7.0×3.1×3.5cm 重さ:65g 

以前は、8~20倍ズームの単眼鏡を使っていたのだが、今はもっぱらこちらを愛用している。
はじめはズーム・高倍率に惹かれたのだが(初心者が犯しやすい間違い)、使っているうちに不満になった。

・高倍率だとフォーカスが合わせにくい
・視野が狭い
・上記2点により、覗きながら目標物を捕捉するのが難しい
・暗い
・ズームは遠景を見るならともかく、美術鑑賞ではまず使わない
・少し重い


とにかく明るく、広視野というのが一番重要で、倍率は当然それと逆比例する。
6倍ではどうかと思ったが、使ってみると十分。5倍でも良いだろうと思う。
(同じメーカーのシリーズで、8×20もあるが、長さが10cmとあって少し嵩張る)
もう一つのこだわりは至近距離である。離れていないとフォーカスが合わないのでは展覧会で使う意味もない。本機の25cmというのは美術鑑賞には十分である。
軽いことも重要。上着のポケットに無造作に放り込んでおける重さである。
片手で持って、指でフォーカスリングが回せるのも使い勝手が良い。

オペラ鑑賞などでは、双眼鏡を持ってくる人もいる(私も持って行ったことがある)が、オペラグラス程度のおもちゃなら大して役にたたないし、本格的な双眼鏡だと武骨である。ずっとレンズを通して見続けることもなく、アリアを歌う歌手の表情を大きく見たいときぐらいなわけで、単眼鏡はずっとエレガントである。何より邪魔にならない。

lytro-main.jpgある仏像展で、単眼鏡で細部を見ていたら(仏像はそばに寄れない状況だった)、隣に立っているおじさんが「モラルのない奴がいる」と聞こえよがしに言う。
写真を撮っていると思ったらしい。
「単眼鏡ですよ」と見せたら、うろたえて、連れのおばさんから「何もわからんくせに偉そうに言うからや」とたしなめられていた。

それにしても、どうしたらカメラに見えるんだろう。Lytroカメラ(欲しい!)なら形状は近いけど。

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本物の再現はできるか

鳥獣戯画展で本物を見て、予想を超えてくっきりした筆跡に驚いたわけだが、本物の再現というのは可能なのか、あらためて考えてみた。

下は、鳥獣戯画甲巻の左から2枚目あたり、展覧会場で買った絵ハガキからスキャンしたもの。アップするために解像度を落としてある。
k21s-crop.jpg

この絵の中から、現物を見たときにもっとも筆の毛が目立った猿の顔の部分を取り出してみる。
k21-crop.jpgk21-crop-q.jpg

上のイメージは512×380ピクセル、下のイメージは192×142ピクセルである。
下のイメージは、小さい分、細かいところを気にせず見るのだが、上のイメージはなんともボケた感じに見えてしまう。
PCの画面のピッチなんてたかが知れているから、どうしてもこうなってしまう。

それでは精細度を上げていけば、本物にどんどん近づくのだろうか。
人間の眼の解像度は5億7600万画素という説があるが、そこまでいけば本物になるのだろうか。

多分、そうはならないと思う。なぜそう思うかというと、その根拠は先日引用した山口晃画伯の解説にある。
本物は精細度だけの問題ではない。

本物を見て、筆の毛一本の跡が見えるというのは、描かれている紙の繊維の凹凸も含めてのことだと思う。
カメラ(スキャナ)でいくら精細度を上げても、それは絵の射影であって、立体ではない。
再び山口晃氏に登場してもらうと、鑑賞者の眼は、1mm、2mmで常に動いているわけで、この微妙な動きは、絵の凹凸が返してくる光も変えるに違いない。(生理学的にも眼はつねに細かく動いているという)
さらに、山口晃氏が言うように、透明度の再現は、いわば顔料の層を再現するものになるはずだから、これも眼の動きによって、反射・透過してくる光に影響を及ぼすに違いない。
となると、物理的に紙、顔料、その層を再現しなければ本物に近づけることは困難ということになる。
(神秘主義者なら、それらに加えて画家や作品にまつわる人々の思い・怨念がこもっていると言うかもしれない)

しかし、こうも言える。絵を見るのはあくまで眼であるから、眼に入る光線さえコントロールできるなら、本物の再現ができてもおかしくない。しからば3Dカメラのようなもので、両眼視の画像を、それも鑑賞者の眼の動きを追いかけながら撮影すれば、その鑑賞者の視覚を再現するという形で、本物の視覚像を再現できるかもしれない。

3Dは飛び出す画像という虚仮威しの技術ではなくて、本物の再現の技術であると思う。

音楽再生で、ステレオが普及しはじめたとき、はじめは左のスピーカーからとか、右のスピーカーからとか、いかにも立体音響だというデモがあったがし、4チャンネル・ステレオのときも、飛び出す音とか、体を包む音とか。しかし、本来のステレオ再生は、左右の耳に入る音を再現することにより、臨場感のある音場を形成することである。音波は体でも感じる(骨伝導で耳に入る振動も含め)し、不要振動はいろんなところから出てくるから、案外、光の方がコントロールしやすいのでは。


3Dの技術を、いかにも立体的な被写体の再生ばかりでなく、そういう本物の再現に使うという方向で開発してもらいたいものだ(きっと誰かが取り組んでいると思うが)。

と、こう考えてきてふと思った。普通にハイビジョン動画(できれば4K)で撮影したらどうだろう。
山口晃氏が言うように、1mm、2mmの眼の動き、自分でもそれと意識しない動きが、見え方に反映しているのなら、静止画ではなく、動画として撮れば良いのではないだろうか、片眼で見ることにはなるけれど。
そういえば、静止しているものを動画で撮った場合、動画として見る場合と、1フレームを静止させて見る場合では、何となく空気感のようなものが違うように思うことがある。これって、商品にならないかな。

「山口晃理論にもとづくハイビジョン名画集(4Kビデオ)」

(動かない絵を、ひたすら動画で、パンすることもなく撮り続けただけのもの)
収録作品:鳥獣戯画、フェルメール「真珠の耳飾りの少女」他

売れませんかね。


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鳥獣戯画展へ行って(3)

鳥獣戯画展の投稿の3回目だが、前2つは「行った」、今回は「行って」としたように、展示とは無関係の反省。

鳥獣戯画展のサイトで待ち時間を確認すると、9:00開館なのに、土日など、その時点で既に2時間待ちとかになっている。開館前から大勢の人が並んでいるというわけだ。3時間を超えることもあるようだ。

chojugigakaijo.jpg私の場合で90分待ち、メイン展示45分待ちだったわけだが、そんなに待つのなら、整理券というわけにはいかないのだろうか。
以前、同じ京都国立博物館で開かれた展覧会(たぶんレンブラント展)では、整理券を出していた。その時は、その間に食事をとったりもしたのだが、今回のように、寒くて暗い中で待つのはつらい。
特に今回は、新館の「平成知新館」のお披露目もある。並んでいる時間にこちらを見ることができれば良かったのではないか。(近隣の食堂・喫茶にも良いのでは。もっともこの時期の京都である、これ以上客が来られても困るかもしれないが)。
思えば、入場者のほとんどが、メイン展示でも並んでいる。いわば、追越禁止・一方通行の1レーン道路を走っているわけで、これを2レーン、3レーンに分けるという発想でなんとかできないものか。

ちょっと考えてみた:

鳥獣戯画の展示入口と、他の入口を分ける。さらに常設展(平成知新館)を加え、3つの入口とする。
このいずれもチケット半券で入場でき、再入場もできる。(鳥獣戯画の展示は現状でも迂回できたようだが)
混雑が集中する鳥獣戯画展では整理券を発行する。

できれば10分単位ぐらいにして、指定時刻の10分前に集合を求め、時刻を過ぎた整理券は無効にする
(そうすれば早い整理券を持ってる人が後の組に回ってそこで混むのを防げるのではないか)。
今回、1.5~2分に10人ずつ入場させていたわけだから、10分単位なら50人ぐらいだろう。
指定時刻の10分前に来て、その50人が入るというわけだ。

また、京博自体も半券と整理券の提示で再入場可能にすれば、外で飲食もできる。(半券だけだと無料入場者が出るおそれがある)


ただ、この方式の最大の問題点は、整理券通りに入場させたら、その日に入場できない人が大量に発生するおそれがあること。

もし、開館と同時に並んでいる客がみんな入場したとしたら、その後は、9:00から20:00までの11時間で10分毎に50人、つまり3300人分しか整理券を出せなくなってしまう計算になる。


主催者にはいろんなデータもあるだろうから、いろいろ考えてもらいたいと思う。
(圧倒的な量の前ではどんな知恵も無力になるかもしれないが)
せめて、待ってる間に平成知新館を回れるような手段を何とかしてほしい。

「語り得ぬ世界」の珍之助さまは、鳥獣戯画展をあきらめて、平成知新館をまわったそうだが、私は未だ知新館を見ていない、特別展の入場券でこっちも見られるのに。損した気分である。)


それと、自分のことは棚上げして言うのだけれど、どうしてそこまでして見たいのだろうか。
私は、昨日書いたように、山口晃画伯のせいでどうしても見たかったのだが、来場者みんながそうだとは思えない。
現物を見ながら感激にひたる時間はない、欠乏感を疲労感でごまかすしかない、そんな状況であるのに。

ところで、長蛇の列の解決法としては、もっと簡単で、かつ経済合理性のある(そして最近人気を博している政治家が主張する)方法がある。
それは、たくさんお金を出した人を優先的に入場させるという方法である。
お金を渡して避妊手術をさせるのと、同じ考え方、同じ精神、同じ価値基準、同じ道徳観である。

(マイケル・サンデル 「それをお金で買いますか―市場主義の限界」
 "What money can't buy - The moral limits of markets" 参照のこと)

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鳥獣戯画展へ行った(2)

chojugigaken.jpg鳥獣戯画展、昨日の続き。
90分待ちでようやく入場した。

まず高山寺の所蔵品がたくさん展示されている。
明恵上人に関するものが多く展示されている。この方についてはあまり知識がなく、展示説明を読んだりしていたのだが、すぐに、鳥獣戯画が70分待ちということを思い出し、高山寺関連展示はじっと見ることはできず、中央展示室へ向かう。

なるほど、ぎっしり並んでいる。
ただ、70分待ちということはなく、45分ぐらいだったと思う。

鳥獣戯画へ至るつづれ折れの列が、あと1列というところになると、人の列の隙間からターゲットが垣間見える。
私は美術展やコンサートへ行く時はいつも単眼鏡を持っていくのだが、今回も当然持っているので、これで遠くからでも少しは見える。これは心の準備になった。なにせ、どんな風に見えるのだろうとワクワクしていたからだ。

そもそも、大変な評判で何時間も待つこと必至の、この展覧会に来たのは、「ヘンな日本美術史」で山口晃画伯が、鳥獣戯画を生で見ることの凄さを書いていたから。
 何と言っても黒が吃驚する程に綺麗なのです。墨で描かれているのだから単に黒一色だろうと云うのは大間違いで、ガラス絵を見ているような透明度と色の奥行きが感じられます。
 ザザッと岩を描いたような荒れた一筆。その墨の黒がスーッと吸い込まれるように、画面の上に定着されています。それがとにかく驚きでした。よほど粒子の細かい墨なのでしょう、黒と云うよりは青みがかって見えます。
 ですからこの感じは、印刷した図版では絶対に分かりません。印刷の技術ももちろん進歩していますが、今でも油絵における、表層に透明度のある材質がのっているような感じは出ないのです。
 やはり透明度と云うものは、定着した紙面では表現が難しいのかもしれません。たとえ静止して見ていたとしても、人間の目は絶えず一ミリ、二ミリといった具合に動いているものです。視点が移動すれば、画面に差し込む光の見え方もそれに応じて変化します。そのずれが透明感を生んでいるのですから、それを印刷ではなかなか出せないのでしょう。
 紙本、とくに墨で描かれたものは油絵などに比べて印刷でも再現しやすいかと思っていましたが、やはりそうした実物ならではの部分があると云うのは新鮮な発見で、恥ずかしながら最近になって気付いた訳です。

(山口晃「ヘンな日本美術史)


が、しかしである、満員の展示場で立ち止まるなと言われながら、ガラスケース越しに見ても、この山口画伯が言うような墨の感触は私には読み取れなかった。

しかし、はっきりとした違いは私にも解った。画集やネットの画像で見る鳥獣戯画とは全く違った。
くっきりしているのである。

これは修復の成果なのかもしれないが、長い年月を経た作品とは思えないほど、筆の毛が一本一本感じられる、そういう高精細のくっきり感がある。そこに薄墨で陰影がつけられている、その具合がまた、なんともよろしい。
そして、思い出しても凄いと思うのは、蛙にしろ、兎にしろ、猿にしろ、描線にためらいが全くない

漫画のルーツとも言われる鳥獣戯画だが、漫画の線は鳥獣戯画に比べれば潔さがないように思う、まるで何かトレースしたような線に感じる。これは毛筆とペンの違いなのかもしれないが(というより、そもそも漫画は印刷―しかも紙質の悪いものでしか目にしない)、とにかく鳥獣戯画には迷いもためらいもない。
そして、なぜか印刷物(図録と絵ハガキセットを買った)では、その線が出ていないように思う。

で、短い時間で、欠乏感を疲労でごまかして、鳥獣戯画甲巻を後にした。

鳥獣戯画は、乙巻、丙巻、丁巻と続くわけだが、乙巻の前でまた人の列。これはまあそう長くなくて、5分も待てばよさそうだったが、私が単眼鏡で後ろからのぞいていると、係の人が、最前列でなくてもよければ並ばずにご覧くださいというので、もう並ぶのはやめて、人の列の後ろから垣間見ることにした。

なので、ほとんどちゃんとは見てないわけだが、乙以下は甲巻とくらべると、なんとなくダレてるのではないだろうか(こっちがもう疲れきっているからかもしれない)。

chojugigazuroku.jpg結局、高山寺関連で10分余り、鳥獣戯画で5分余り、合わせても20分に満たない実鑑賞時間という、なんとも酷いことになってしまったわけだ(ミラノで見た「最後の晩餐」だってたっぷり20分はねばった)。

なので、今回は現物を見ながら、見入りながら、というのは難しい、先ほど「思い出しても凄い」と書いたように、見たものを言葉に変換するのは落ち着いてから、それを思い出しながらという状態になる(これから見に行く人はこのことを肝に銘じておくのが良い)。

それにしても、やはり本物を見るということは、音楽で生を聞くのと同様、時間で測ることはできないと、あらためて感じた。

売店で図録と絵ハガキをさっさと買って、20:00(本来の閉館時間)に出場すると、まだ数百人と思しき人の列。係員が「入場待ち70分です」と案内していた。

一体、何時に閉館するんだろう?
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鳥獣戯画展へ行った(1)

machi1.jpg京都国立博物館で開催されている「国宝 鳥獣戯画と高山寺展」を見に行って来た。

連日大盛況で、午前中は平日でも3時間待ち、夕方5時でも40~50分待ちと伝えられている。
金曜日は夜8:00まで開館ということなので、さらに遅くいけば少しはましだろうか、そう思って2時間ほど仕事を休んで京都へ向かったのだが……

甘かった。
同じように考える人、仕事帰りに行く人、そういう人がたくさんいるらしい。

17:15頃、京博到着。チケットは並ぶこともなく、すぐに自動券売機で購入。
入口に向かう……
……「入場80分待ち+鳥獣戯画の展示50分待ち」の看板がお迎え。

門のところは空いてるのになぁと思いながら入場すると、飛び込んでくる人の列。
machi2.jpg

machi3.jpg入場80分待ちというが、経験的にはこういう場合、長めに表示していることが多いから、
実際は60~70分だろうと覚悟を決めて並ぶ。

随分冷え込んできた京都、風も少しある。
暗いから、暇つぶしに本を読むのも困難。

夕方の空と、博物館を照らす夕日が美しい。





machi4.jpgようやく玄関前。ここまでで45分。
ここからが長い。1分半~2分毎に10人ぐらいずつ入場させている。machi5.jpg

結局、入場は18:45頃、90分待ち。案内より長く待たされた。
待っている間に、さらにおそろしい案内。
中央展示(鳥獣戯画)は70分待ちです。
こっちも表示より長なってる。
えぇ~、20:00閉館って言ってたやん、見る時間あるん?

ということで、今日の投稿はここまで。
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本日は振替休刊日

maria-theresia-mit-11.jpg休刊日は毎月13日にしていたのだけれど、昨日、急遽「解散総選挙?」を書いたので、
今日は振替の休刊日にします。

ということで、今日はこれだけ。
私のタブレットの壁紙にもしてます。
(ロリータ趣味ではないが少女時代の方)
mtr2meta.gif

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解散総選挙

20090721_695875.jpg今日は定例の休刊日なのだが、世間が騒がしいので、休刊を取りやめてコメント。

衆議院が年内に解散するようだ。
圧倒的多数を誇る与党が解散に踏み切るとしたら、これからもっと状況が悪くなるという予測があるからだとか、いろいろ分析記事が出ている。

それはそれとして、気になるのは、O市のH市長が、国政へ出るかもしれないという話。併せて、O府のM知事も国政へということも伝えられている。
この報道の真偽はともかく、H市長は、O府知事の任期を残してO市選へ転身、さらに、O市長になってからも記憶に新しい昨年、辞職・再選挙(野党は無視)という経緯がある。任期を全うしたことがないわけだ。

数ヶ月前ぐらいから、次の動きとして、M知事は国政へ、空いたO府知事へH市長(元O府知事)がまたまた市長から転身して立候補という噂が、複数の情報源から聞こえてくる。
この話を知人にすると、任期を待たず、来春の統一でやるならそれなりの合理性はある、同じ職で再当選では残任期間になるが、市長から知事への鞍替えなら4年の任期となる、一気に統一選で、府議会・市議会ともに過半数がとれない状況を打開するという意味があり、やるならそのタイミングだろう、という観測だった。

しかし、今回、国政選挙となれば、タイミングが向こうからやってくるわけで、M知事が国会議員になりたいとなればそちらへ、H市長がその後の知事へというのもありえる(逆はない。H市長が国会議員へ出て、その後にM知事は多分勝算がないだろうから)。伝えられるように、M知事、H市長ともに国政へということも考えられる。

ちなみにM知事が国政へ出る場合、地元ではなく、隣の選挙区といわれている(地元に同じ党の現職がいる。国会議員には住所要件はない)。

H市長やM知事が国政へいったとしても、彼らが政権の一角を占めない限り、大きく変わるとも思えないが、自治体首長の方は組織のトップだし、なんといっても府市統合という大問題があるから、むしろこっちが気になる。

一説では、総選挙は12月2日告示、14日投開票という日程ともいうが、この場合、知事選・市長選はどうなるのだろうか。やはり14日投開票となるのだろうか。
公職選挙法
 :
(総選挙)
第三十一条  衆議院議員の任期満了に因る総選挙は、議員の任期が終る日の前三十日以内に行う。
2  前項の規定により総選挙を行うべき期間が国会開会中又は国会閉会の日から二十三日以内にかかる場合においては、その総選挙は、国会閉会の日から二十四日以後三十日以内に行う。
3  衆議院の解散に因る衆議院議員の総選挙は、解散の日から四十日以内に行う。
4  総選挙の期日は、少なくとも十二日前に公示しなければならない。
 :

(地方公共団体の議会の議員及び長の再選挙、補欠選挙等)
第三十四条  地方公共団体の議会の議員及び長の再選挙、補欠選挙(第百十四条の規定による選挙を含む。)又は増員選挙若しくは第百十六条の規定による一般選挙は、これを行うべき事由が生じた日から五十日以内に行う。
 :
6  第一項の選挙の期日は、特別の定めがある場合を除くほか、次の各号の区分により、告示しなければならない。
一  都道府県知事の選挙にあつては、少なくとも十七日前に
二  指定都市の長の選挙にあつては、少なくとも十四日前に
 :

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懲役36年、セウォル号船長裁判

sewolcourt.jpgセウォル号船長の裁判で、一審の光州地裁は、死刑が求刑されていた船長に対して、殺人罪は認めず、遺棄致死罪などで法定最高刑の懲役36年としたと報道されている。

前の稿、「セウォル号船長に死刑求刑」でも書いたけれど、殺意が認められない状況だったと思うから、罪刑法定主義に立てば死刑は無理だろうと予想していたので、そのとおりとなったわけだ。

殺そうとしたわけでも、教唆したわけでもない。未必の故意というにも本人が逃げることに精いっぱいの状況ではどうだろう。
ただし、検察は、判決を不服として控訴する方針と伝えられている。

遺族の感情として死刑でないのは不服というのは解るのだけれど、そしてそれに応えようという検察の態度も理解できないわけではないが、国のありようとしてはどうしても無理がある。

日本だったら、国民は罪刑法定主義という論理は学校でも教えられているから、激昂して「殺せ」の大合唱はないと思うけれど、韓国ではどうなのだろう。

今度は国民の反応が注目される。
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日中首脳会談

日中首脳会談が開かれた。

習近平国家主席も安倍晋三首相も表情が硬い。
テレビ報道では、習首席の方が長く写っていたように見えたが、どことなく落ち着かないような、どう対応しようか、どこから攻めようか、こいつは何者か、とまごつき、視線を泳がせているような感じを受けた。
一緒にいるという状況に立たされた二頭のクマのように見えた。

    shuvsabe.jpg    kumavskuma.png

尖閣の問題、サンゴ密漁の問題、いろいろありすぎ。
中国国内も、香港はどうなってるのだろう、エボラ疑いが大勢いるらしいが、実態はどうなのだろう。
何より、中国国内にとどまらない環境汚染はどうしてくれるのだろうか。

     snh48.jpg
少し前のことだが、SNH48に熱狂する中国の若者の姿を伝えるテレビ番組を見た。

公的選挙は制限されたものしかない中国で、白熱した「総選挙」が行われているそうだ。
コンサートでは日本語のメッセージボードが数多く掲げられ、中国の若者が声をそろえて、日本語で声援している。
日本のAKB48のコンサートと同じだそうだ。
会場を出たファンへのインタビューでは、多くの若者が日本語で答えている。
「政府はいろいろ難しい関係があるけど、僕たちとは関係ないね」

ただ、中国が嫌いな日本人が90%を超え、日本を嫌いな中国人も90%近いという調査もあるという。
昔、あるテレビ番組で、電話投票をしていたが、
「中国が嫌いな人はAにダイヤルを、中国が大嫌いな人はBにダイヤルしてください」だと。
お遊びだから目くじら立てることはないのかもしれないが、そうやって「気分言語」を発するのも危うい。
大人の判断ができる人ばかりではないのだから。
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タブレット画面上での「署名」

signatureontab.jpg会津若松市では、諸証明の発行依頼をするときに、職員がタブレットを持って申請者に応対、画面上で申請書を作製、そして申請者がタブレット画面上で署名するサービス(「簡単ゆびナビ窓口システム」と言う)を実施しているそうだ。

タブレット画面上での署名が有効かどうか、市としても懸念したとのことだが、総務省は「法的に問題ないと整理するが、最終的には市町村判断」という見解とのことである。
そういえば、生命保険か何かの手続きだったと思うが、タブレットの大して大きくない画面上で「署名」をさせられたことがある。

住民票の交付申請ぐらいなら、裁判になるようなこともないだろうから、結果オーライだと思うのだけれど、一般化できるものだろうか、やはり不安である。不安を感じるのは、

・筆跡鑑定ができるのか
・「署名」が簡単に流用されないか

という2点。

まず、筆跡鑑定だが、タブレット画面上では思い通りに書けない感じで、書き癖とかが紙の上と同じになるのだろうか。何を使って書くのか、指と各種スタイラスペンで違うのではないか。タッチセンサーの性能や筆跡追跡のソフトによっても違ってくるのではないか。

最後の問題だが、タブレット画面をなぞることとそれが画面に表示されることとは直截結びついてはいない。紙にペンで書くのとは違う。普段、意識することはないが、PCのキーを押して画面にその文字が表示されるというのも直截的ではない。不正確の謗りを覚悟で解説すると、
  ①キーの押下→
    ②電気信号のプロセッサへの伝達→
    ③プロセッサの入力割込の発生→
    ④予め指定されたプログラムへ割込情報とともに制御を遷移→
    ⑤プログラム側で割込情報を解析して表示すべき文字を決定してOSへ出力依頼→
  ⑥OSが指定デバイスへ命令を発行

という一連の動作によって「キー押下→画面表示」ができる。つまり、キーを押すということと、画面にその文字が表示されるということは本来独立で、自然法則に則った原因・結果とは言えない。だからパスワードの表示抑制もできる。
このように多段の動作で構成されているから、そのどこに異常があっても正しい動作にはならない。画面上の表示と、センサーが追いかけた筆跡が同じという保証は、究極的には持てないかもしれない。わかりやすい例では、たいていの手書きメモアプリでは、線の太さとかも変更できる。軌跡を自動的に滑らかにするskitchなどのアプリもある。何をもって本人の筆跡かというのは案外難しい。


ただし、本人の筆跡を忠実に画像化していることが前提されるのであれば、タブレット上の署名でも書き癖などは判定でき、筆跡鑑定は可能という話もある。

次に署名が簡単に流用されないか、という不安である。他愛ない申し込み確認だと思って署名したら、実は裏で高額の契約書への署名だった、などという悪質なミミックがないだろうか。まして、一瞬にしてネット上に署名が流出する危険がないとは言えない。

結局のところ信頼関係としか言いようがないわけだが、署名を取り込んだ申請書を最終的にPDFなどに編集して、このPDFを確認するなどの手順があるなら、少しは安心感が増すかもしれない。
(信頼関係がある相手との契約だったら、署名も押印もいらないかもしれないが)

絶対に相手に否認されてはこまるような重要な契約などでは、タブレット画面上の署名では、本当に法廷で争ったときに証拠性があるのか不安である。
ネットで「タブレット上の署名 証拠性」でググっても、ヒットする記事はないようだ。まだ裁判実例はないのだろう。

やはり一般化するのは無理があるような気がする。
そして過度の一般化は、過度のセキュリティ対策、過度のコストと連鎖する。
制度設計ではこのことを忘れてはいけない。

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個人年金と税金

aflacnenkin2.jpg公的年金制度に不安があるから、個人年金に加入している人も多いと思う。
そして、いよいよ個人年金を受け取れるとなったときに驚く(ことわっておくが、これは私の話ではない)。
年金は雑所得として課税されるんだそうだ。

ネットで調べると、ややこしい計算の説明があるのだけれど、そういう計算のしかたはともかく、何故、課税されるのかで、素朴な疑問をもってしまった。

個人年金は、全額本人が保険会社等に払い込んだもの、いわば自分の金を預けているに過ぎない。それが自分に戻ってきたときに何故所得になるのだろう。もちろん、保険会社等が運用して利息が付いている分については課税しても良いかもしれない。現に預金利息は分離課税されているわけだが、課税対象は利息だけである。これに対し、年金の場合は所得に合算だから総額ということになる。
一見するとえらく損したような気になるが、掛け金は必要経費として控除されるから、実質は利息分のみが所得として計算されると考えてよいので、特に不利にはならないようだ。

さらに、所得税は総収入を合算するが、通常は、年金をもらうようになったときは、掛け金を払っているときより所得は減っているから、税率は低くなっている。そうすると、分離課税より所得に合算した方が税額が下がるケースもあるだろう。保険会社が源泉徴収していれば、確定申告すれば戻ってくるということになる。

ではあるけど、もともと自分のお金、その掛け金の原資についてはその時点で既に課税されている。
ただし、掛け金については控除制度がある。収入が多くて高い税率のときに控除してあげるから、収入が減って税率が低くなったときには課税させてね、ということなのかもしれないが、控除額には上限(けっこう低い)があるから、やや微妙な計算になる。(そもそも「保険料等の控除」と言わずに「保険料等の課税先送り」とでも言えば良いのでは)

結局、トータルでどうなのか、よくよく考えると、庶民に悪い計算にはならない場合が多いとは思うのだけど、自分の掛けた年金が所得だと言われると、何でやねん、と反発したくなるということである。

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「授乳」はヌードか

telegraphletter.jpg「授乳」はヌード写真なのか フェイスブックが写真削除で大騒ぎという記事を目にした。

そもそもどんな写真だったのか気になったので、ちょっと探してみた。右が見つけた記事

画像は記事をキャプチャしたもの。この写真の女性が削除騒ぎの発生源のようだ。ただし、削除された写真は別のもので、同じくこの記事の下の方に掲載されている。
(これを見て劣情を催す人って相当なものだと思う。)


ところで、最初に紹介した日本の記事では、ネット上の反応として「公共の場でおっぱい出して授乳していい社会じゃないんだから削除は当然」という意見を載せているのだが、一体、いつから日本はそんな社会になったんだろう。

私が子供の頃は、結構、胸をはだけて授乳しているお母さんを普通にいたと思う。
大学のとき、文化人類学の講義だったと思うが「この頃は電車の中で授乳しているお母さんを見なくなりましたね」という話があったけど、どうしてどうして、その講義を聴いてからそんなに日も経ってない頃、市電(まだ市電があった昔)の中で、授乳を始めるお母さんに遭遇した。

もっとも、電車の中で授乳するお母さんを撮影(盗撮)したりしたら、きっと捕まるのだろうけど。

一方、電車の中で化粧する女性はしょっちゅう見かける。こっちのほうがずっと恥ずかしい行為では。
いったいいつから、公共の場でぱたぱたファンデーションをはたいても許される社会になったんだ。
(口紅をさすのは許容するけど)

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人はなぜ恋に落ちるのか?

WhyWeLove.jpg書名がもっともらしいので読んでみた。
「人はなぜ恋に落ちるのか?―恋と愛情と性欲の脳科学("Why we love")」 ヘレン フィッシャー(著), 大野 晶子 (訳)

fMRIを使ったり、ホルモンを調べたり、恋を「心」の問題にとどめず、生理学的に考察する。
進化心理学的な解釈もところどころに挿さまれる。
あわせていろんな民族、いろんな時代の恋・失恋の文学を引用する。

Amazonの読者評は、日新しさがないとか、肝心のことが書かれてないとか、あまり高い評価ではないようだが、たしかにやや散漫だと思うが、この本には性急に結論を求めず、恋についての言説の集大成と考えればよいだろう。

ところが、思い返しても、この本に書かれているような劇的な恋も失恋も身に覚えがない。
落語にすらあるけど(「崇徳院」)、床に臥すような「恋わずらい」は経験がない。
失恋についても、本書に書かれているように、食事が喉を通らないとか、その人を思い出すと怒りが沸き起こるなどという事も記憶にない。逆に、思いを寄せてくれてたかもしれない人にそんな思いをさせていたとしたら、と考え込む。(いや、そんな人がいただろうかと考え込む。)

vonOtterSonntag.jpgそら、男であるから、大抵の女性は魅力的である。
その人の姿を見たり、考えたりすると震える思いをする、そういう経験もある。
ブラームスの歌曲なら「日曜日」(あの人を見ないで長い日が過ぎた・・・)だ。

「素晴らしい熟女」でおなじみのAnne Sofie von Otter「日曜日」(YouTube)
(しかし、やはり男声がいいなら Hermann Prey「日曜日」(YouTube)


しかし、この本のように、一日の90%をその人の事を思って過ごすなど、やはり大袈裟だと思ってしまう。
ドン・ジョヴァンニなら1日の99%は女のことを考えていたに違いないが、それは「私の心は広いから、何人の女でも入る」からだ。(ただし、著者はポリアモリーについては否定的)

日本の歌にも数多くの恋の歌がある。古今集以来の伝統か、歌の分類には、四季の他に「恋」を設ける。
涙するような多くの恋の歌がある。が、それらは歌会などで披露されたもの。
「フィガロの結婚」では恋に恋するケルビーノ、私がまだ高校生だったときに、「六二郎君は恋に恋している段階ね」と、人伝に言われたことがある。

「「「燃えるような恋」をしたいという心情」をテーマとした作品」は、いやほどある。それだけ、心というものは重層的なのだろう。(この「」の使い方が本質的。フロイトも言ってるではないか、心を剥いていくと新しい心が現れ、それもまた剥いていくと…)

みんながロメオ・ジュリエットになることはないと安心することにしよう。
(そのロメオだが、劇冒頭では他の娘に懸想してたのではなかったか。)
なれるなら広い心のドン・ジョヴァンニに。
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小笠原諸島

taifu20.jpg台風が繰り返し来襲した今年、多分、最後になるだろう20号が小笠原諸島に。

これのせいか、先日来、大挙してやってきていたサンゴ密漁漁船が、台風を逃れたらしく、いなくなっているという。
「神風がならず者を一掃」などと表現しては、未だに神国意識が抜けないのかと批判されるだろうし、所詮、一時的なことだろうから、こんなことで喜んでも解決にはならない。

テレビで、底引き網がちぎれるほど強引に引いて乱獲していると訴える漁師の姿が報道されていた。海底は酷いことになっていると想像されるとのこと。

日本近海は「生物多様性ホットスポット」でもある。珊瑚礁はその生態系を支える役割があるとも言う。
小笠原は世界自然遺産に登録されているけれど、陸地だけなのだろうか。

世界遺産って、危機に瀕している史跡や自然を守るというのが趣旨だったのでは。
このままでは「危機にさらされている世界遺産リスト」に入るのでは。
世界遺産条約には、罰則なんかはないのだろうけど。

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散髪

presto.jpg日曜日に散髪に行った。前に行ったのは8月上旬だったから、たっぷり二ヶ月半の間隔。
顔剃・シャンプー付きで2000円(税込)。消費税増税前も同じ。低価格床屋と言われる部類の店である。

そもそも髪型に気を使う方ではない。長くなって、もそもそして邪魔になってきたら切る、それだけ。

学生時代は年2回ぐらいのペースだった。
当時は長髪が流行りのファッションで、年2回でも長髪族の長さに達することはなく、周りから浮くこともなかった。
就職するとさすがにそういうわけにはゆかないので、年3回になり、年4回になり、そして現在の年6回(2ヶ月に1回)というペースにおちついた次第。

当然、床屋にもまったくこだわりはない。
M市に引っ越した時、街の様子を見がてら近所の床屋へ行った。客が他におらず、席は二つしかない。丁寧に1時間近くかかり、そして結構な値段。
職場が北浜にあったときは、同僚に頼まれてちょっと高め(というか普通)の店へ。何回か行くと1回タダになるので、いつしか常連客になっていた。
職場も変わって、しがらみもなくなったので、再び低価格床屋のお世話になるようになった。

とにかく、私のような髪型どうでもよい族にとっては、値段が安く、時間が短いのが良い。入念に仕上がりを確認するようなことは、私にとっては単なる時間の無駄。
その点、今、使っている地元の床屋は、20分ぐらいで終わる。安い、速い、みっともなくなければどんな仕上がりでもOK。
こんな言い方は床屋に失礼であるので、弁護しておくが、ちゃんと希望を注文すれば応じてくれる。

周りを見回しても、そんなに凝った髪型の人はいないように思うのだが、さりげない髪型にするために大金を投じているのか、それともそのまんまなのか。普通の床屋は4000円ぐらいらしいから、それでも生き残っているのは何故なんだろうか。(時間単価で考えれば低価格床屋の方が利益が上がるように思うのだけれど)

それにしても、11月初めに行ったわけで、次は正月過ぎか、それとも暮れのみんなが散髪に行くような時期か、微妙。

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大古事記展

daikojikiten2.jpgjinmuteizu.jpg正倉院展に続いて、奈良県立美術館の「大古事記展」を見てきた。
昨日書いたように、ここで意外な(というか想定していなかった)ものを見せてもらった。

それが、河鍋暁斎(きょうさい)の「神武帝図」(写真はネットから拾ったもの)。
河鍋暁斎については、兄弟ブログに暁斎記念美術館の訪問記事がある。
この神武帝図は、神話シリーズという作品群の一つだそうで、他にも、「天の岩戸」など、このシリーズのものが数枚展示されていた。
緻密で、かつ豊かな表情。
山口晃が「オールマイティ」と評した(「ヘンな日本美術史」)通りだと思った。

「七支刀」が目当てで見に来たわけで、古事記がカバーする推古朝までの遺物の展示だろうと思っていた私としては、こういうものが展示されていることは予想していなかった。

daikojikitencata.jpgで、大古事記展は、太安万侶像からはじまり、古事記(写本)とか、本居宣長の「古事記伝」などが展示されているわけだが、それだけではなくて、古事記が描いているものに関係した美術品などがテーマ毎に展示されている。

お目当ての七支刀だが(ここでの展示は11月24日までということなので、これから行く人は要注意)、石上神宮の神宝である。私が生まれ育った土地のものであり、普段は目にすることができないものだから、この機会に是非、見ておこうと思った。
また、隣に復元された七支刀も展示されていた。ただし、文字は刻まれていなかった。
昔、NHKで七支刀を復元する番組があったのを覚えている。何度も失敗していたと記憶しているが、この展示の説明でも、何回か(数が書いてあったのだが、失念した。多分5回か6回)失敗したとあったから、この復元だったのかもしれない。
残念なのはプラスティックケースに覆われているようで、光が鈍いこと。正倉院展で展示されていた刀剣や手鉾のほうが輝いていた。

この他、古事記に題材をとった著名な画家の作品が展示されている。
川鍋暁斎以外では、富岡鉄斎、安田靫彦などが目につく。

かわった展示では、Japanese Fairy Talesという英語の小さな絵本。「舌切雀」とか「花咲爺」などの昔話の絵本を取りそろえてある。昔話には古事記由来のもの(展示では3冊)あるということらしい。ほとんどは何の話かわかるが、なかにはこれって何の話?というのもあった。

展覧会のホームページを確認することもなく、単に知り合いから「七支刀出てるよ」の一言でこちらを回ってみたわけだが、事前にどういう展示なのか、きちんと調べてから行くべきだった。展示のテーマを紹介しておく。
展示フロアマップ
【第1・2展示室】 Ⅰ.古代の人々が紡いだ物語
絹谷幸二、堂本印象ら、著名画家が描く『古事記』の物語の世界をご覧いただきます。
【第3展示室】 Ⅱ.古事記の1300年
現存する日本最古の書物、『古事記』がいかにして伝えられてきたのかを貴重な資料とともにご紹介します。
【第4展示室】 Ⅲ.古事記に登場するアイテムたち
考古資料を通して、『古事記』の世界に思いを馳せていただきます。
【第5展示室】 Ⅳ.身近に今も息づく古事記
奈良県内の『古事記』ゆかりの古社に伝わる御神宝をご覧いただくことで、時空を超えた『古事記』の魅力を感じていただきます。
【第6展示室】 Ⅴ.未来へ語り継ぐ古事記
先人より営々と受け継がれてきた『古事記』を、今度は、現代を生きる私たちが未来の人々に伝えていく番です。
国内外で高い評価を受ける3人の現代アーティストが描く新しい『古事記』の世界をお楽しみ下さい。

私は参加しなかったが、会場に入るとすぐに、展示のこと(あるいは古事記のこと?)を解説する小教室があって、来館者に入室を呼びかけていた。
展示を見ていると、見学者を連れて解説をしている方が来たから、多分、その教室を受けた人を案内してきたのだろう。静かに美術品を鑑賞するというわけではないから、これはこれで良いと思う。

admissionfree.jpgそうそう、正倉院展を見てきた人は、正倉院展の半券を見せると、入場料が割引(△200円)になる。逆は知らないが、正倉院展に行かれるなら、大古事記展もお試しを。

ところで、美術館入り口の案内に、右写真のような掲示があった。
外国人観光客と留学生は無料なんだって。
海外の美術館で、外国人観光客として優遇された覚えはない。


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正倉院展

shosointen.jpg昨日、何年ぶりかで正倉院展に行った。

普通なら電車を乗り継いで行くのだが、同乗者もいるので車で行くことにした。朝早ければ大丈夫だろうと思って、登大路の県営駐車場に入れようと思ったが、8:50頃、既に登大路は満車。そこから裏へまわって民間の小さな駐車場に無事駐車。1回(1日)1500円。

道々、どうやら同じように会場の奈良国立博物館を目指す人が大勢いる。競って早く行こうということでもなく、会場へ。

いきなり並んでるやんか!

会場に到着したのは 9:05頃、入場は 9:50頃。60分待ちと案内されていたが、45分で済んだので宜しとしよう。チケットを持っていなかったので、まず当日券売り場に並んでからにしては、早く入場できたと思う。(コンビニでチケットを売ってたらしいので、先にそちらへ回ったら良かったかも)

写真のように、大変な行列で、おそらく1000人以上は並んでいたと思う。
並んでいる人々を見ていると、男女比では7~8割が女性、ただし若い女性(50代まで)は少ない。全体としても年齢構成は60代以上とおぼしき人が多い。勤めていない高齢者は平日にすれば良いのにと自分のことを棚に上げて考えた。
  narakokugyoretsu.jpg    narakoku.jpg

内容については、私ごときがコメントする必要はないと思うが、今回の呼び物はやっぱり、鳥毛立女屏風だろう。初展示のものもあるのだが、見てすごいというより、歴史的価値というのだろうか、木のベッドや崩れ落ちた畳など、御物でなければうっちゃられるものかもしれない。
その点、鳥毛立女屏風は、今までかなり修復されているのだろうが、それにしてもくすんだ色調ではない。顔や手など服の外に見える部分は、年を経たものと思えない鮮やかさである。

見に行くまで知らなかったのだが、鳥毛立女屏風は6枚(「扇」と数えるらしい)の絵からなっている。
そのうち第2、4、5、6の4扇が展示されていた(残り2枚は東京で展示中という断り書きが掲示されていた)。
いつも展覧会に持っていく単眼鏡で見てみたのだが、鳥毛は確認できなかった(後でWikipediaで調べると、第3扇にはわずかに鳥毛が残っているらしい)。
  shosoincata.jpg   treasure_photo01.jpg

実は、正倉院展にしようか、それとも京都国立の鳥獣戯画展にしようか迷ったのだが、期間が短い正倉院展にした。待っている間に鳥獣戯画展のほうをネットで見てみると、3時間待ちと案内されている。そっちは休暇をとって平日に行かないと大変かもしれない。

それなりに充実した時間を過ごし、最後にカタログを確認して、これ見てないやん、と戻って見に行ったりして(何せ入場待ちで解るように、場内は大変な混雑で、いつまでも展示物の前をどかない人や、とんちんかんな解説や妙に詳しい解説をしゃべる人達に遭遇してイライラもしながら)、正倉院展を出たのは11:15頃。トイレ休憩のつもりで、仏像館に入ったのだが、地下では正倉院展ポスター展をやっていた。

正倉院展は昭和21年から始まっているらしい。戦後すぐである。この頃といえば、天皇の人間宣言、そして全国行幸。正倉院展も、皇室を国民に近づけるために行われたのだろうか。

まだまだ時間があるので、引き続き奈良県立美術館で開催中の「大古事記展」をまわることにした。
石上神宮の七支刀がめあてであるが、そこで意外なものを見ることになる。(続く)
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検証 長篠合戦 (その2)

nagashino.jpg昨日の続きで、平山優「検証 長篠合戦」から。

昨日は、本書のはじめに示される論点についてまとめてみたが、今日はその中で著者の中心的な主張を抜き出してみた。

著者は、信長と勝頼の決定的な差は物量とし、弾薬が貴重だった武田軍は射撃訓練もままならなかっただろう、対する信長軍は十分な訓練が可能であっただろうと推定し、長篠合戦において鉄砲の命中率に格段の差があったという記録からも、それが推察されるとする。訓練不足・弾薬不足の武田軍は、鉄砲を有効利用したくてもできなかったというわけである。(武田に限らず東国はそうで、村上義清の軍など鉄砲1挺に弾3発だったとか)

そして、当時の合戦は、鉄砲の打ち合い、矢いくさ、そして物打(近接戦)と進行すると論証し、長篠もこの流れであったろうと示唆する。つまり、三段撃ちがあろうと、なかろうと、通常の流れで信長軍が武田を圧倒しただろうということのようだ。
また、無謀な突撃というのも、当時の武者の行動パターンであって、ことさらに無謀ということではないらしい。むしろ武田軍にはかわいそうだが、多くの首は退却時・追撃戦で揚げられているともいう。

著者のまとめとしては、信長軍団が先進的とか信長の独創性が傑出しているとかではなく、武田をはじめとする他国が後進的という評価もあたらない。軍制においても戦術においても、本質的な差は認められない、勝敗を決したのは、物量・兵力の差である、ということである。
たまたま長篠で勝頼が惨敗したのは、信長軍の兵力・装備(物量)を読み誤った(信長は主力を武田軍から見えない位置に匿しておいたという)ところにポイントがある。(著者は書いてないが、正しく情報を掴んでいたなら早めに兵を退いたと思われる)

sentakunakano.jpgこのあたり、NHKの「英雄たちの選択―戦国合戦の謎「長篠の戦い 戦国最強・武田軍はなぜ敗れたか?」でも、新発見史料とともに紹介されていて、けっして「信長のワンサイドゲームではなかった」と結論づけられていた。
nhknagashino.jpg

長篠からははなれるが、本書で注目されるのは、兵農分離は、戦乱が終わった結果であって、信長が近代兵制をいちはやく実現したわけではない。信長軍の状況も武田その他の戦国武将も実は同様であった、という主張である。もちろん常備軍が出現していたことはまちがいないが、彼らの基盤はまだそれぞれの領地にあったと論証されていて、これは他国も同じというわけである。

著者もいうように、断片的な史料しかなく、しかもその史料の信憑性も怪しまれる。ある事実があったとして、著者もときおり、時間的には前後するが、と言い訳しているところもあるように、わずかな時間的・空間的なずれが、論理のずれにもつながる。
推理作家が歴史小説に手を出したくなる気持ちがわかるというものである。

話は変わるが、北条氏が秀吉に滅ぼされたのは、北条が愚かだったからではないという説も最近読んだ(森田善明「北条氏滅亡と秀吉の策謀」)。
勝った方が賢くて、負けた方が愚かであるというのは、ちょっと違うということのようだ。
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検証 長篠合戦 鉄砲三段撃ちはあったか

nagashinokassen.jpg前に「戦争の世界史」の中で、マウリッツの改革に触れ、信長の鉄砲三段撃ちが本当にあったら、マウリッツより早いと書いた
で、人口に膾炙した鉄砲三段撃ちが本当にあったのか、それにある程度答えてくれるだろうという期待をもって、平山優「検証 長篠合戦」を読んだ。

結論から言うと、鉄砲三段撃ちがあったのかなかったのか、やっぱりはっきりしない。
ちゃんとした歴史学の本だと、史料批判、多数の説の検討、著者の論が書かれるから、そもそも性急に結論を求めてはいけないと思うが、いつ出てくるかと思いながら読んで、結局、出てこなかった、そういう感じ。
状況的にはあってもおかしくないのだが、決定的史料はないということ。

しかし、この本がつまらないわけでは決してない。
著者は、はじめに通説・反論入り乱れる状況を次の通り整理している。

①鉄砲3000挺は本当か
②鉄砲三段撃ちはあったか
③武田軍に騎馬隊は本当に存在したか
④勝頼の作戦は無謀で自殺行為の突撃が繰り返されたがなぜか
⑤勝頼は諌める家臣を振り切って決戦を決断したのは事実か
⑥信長の鉄砲はどのように集められたか
⑦武田氏は鉄砲導入には消極的で長篠敗戦につながったのは事実か
⑧長篠古戦場には両軍陣城跡が歴然としてあり、これも合戦の帰趨に影響した
⑨馬防柵は信長の緻密な計画により建設されたのは事実か

という長篠合戦にかかる疑問あるいは通説・俗説を検証する。
これらの疑問はそれぞれ独立しているものではないこともあって、一つ一つに直接的に答えるような書き方はされていない。通勤の無聊を慰める読書だから、急ぐことはないのだけれど、やはり結論をまとめてほしいと思うのである。

で、私なりにまとめると、①については肯定的、②は前述のとおり有耶無耶、③は肯定的(日本馬が非力というのは当時の記録で否定される)、④は現象はそうだが自殺行為ではない、⑤はどちらかといえば否定的(やむなく突撃のような結果に)、⑥については疑問ですらない(日本の経済中心を抑えているから)、⑦は否定的(鉄砲特に弾薬の調達に苦労した結果)、⑧は陣城跡なるものが歴然とは言えない(ただし自然地形+手入れにより城攻めのような状態に陥った)、⑨材木を岐阜から運んだなどは証拠がないが、こうした防御設備を整えるのは常套手段である(信長の独創ではない)、というあたりだろう。

そもそも本書を手に取った最初の動機、鉄砲三段撃ちがあったのかについては、「信長さまは鉄砲をとりかえとりかえ撃たれた」といった記録があると指摘しながら、これは三段撃ちではなく、射手は信長で、鉄砲を替えて撃ったということにすぎないとして、戦術としての三段撃ちには、信頼できる決定的な史料の裏付けは、どうもないようだ。

上述の私なりのまとめについては、長くなるので稿をあらためて。
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SIMロック解除義務化、いよいよ

総務省が、「SIMロック解除に関するガイドライン」の改正案に対する意見募集を、今日=11月1日から開始した(12月1日まで)。

このガイドライン改正案を読むと、報道されているように、来年5月から発売される端末から対象になるとしている。で、その内容だが、
6 その他
SIMロック解除した端末はできる限り自由に利用できるようにすることが望ましいことから、事業者は端末に設定されたSIMロック以外の機能制限についても、SIMロックが解除された場合は併せて解除できるよう努めることが適当である
とあって、この最初の部分が述べている理念は素晴らしいのだが、その後が端末の機能制限のことで、通信サービスについては、その前の節にある次のような記述からは制限を許容しているようにも読める。
5 SIMロック解除に当たり留意すべき事項
(1)利用者への説明
a)端末の販売時

 <略>

b)SIMロック解除時

①SIMロック解除に関する条件及び手続
②他の事業者のSIMカードが差し込まれたときに、通信サービス、アプリケーション等の利用の全部又は一部が制限される可能性が存在すること
③SIMロック解除した端末の故障・修理等に関する問合せ窓口

c)役務契約の締結時

使用される端末によっては、自社の提供するSIMカードが差し込まれたときに、通信サービス、アプリケーション等の利用の全部又は一部が制限される可能性が存在すること


私は前に「SIMロック解除義務化」の稿で、大きな問題は
他社機器の差別的取扱いは禁止してくれるのか。
これはロック解除料金よりもずっと重要である。
Softbankホームページ「他社が販売する携帯電話機を利用する際のご注意事項」には次のように書かれている。
(3)SoftBank 4Gをご契約の場合は、パケット定額サービスの対象外となりますのでご注意ください。
また、アクセスインターネットプラスへの接続もご利用できません。
と書いたが、これ(他社端末の差別的取扱い禁止)が規定されなければ、実質的に他社端末を使うことはできないだろう。もちろん端末の機能によって結果的に制限を受ける(たとえばFDD-LTEには対応しているが、TD-LTEに対応していないなどは、そのサービスをしていないDocomo端末なら当然だろう)のは仕方がないし、インターネット・サービスで差別化する(今でもDocomo限定とかがある)のは、サービスを競う意味もあって悪くない。しかし、通信サービスというレベルではSoftBankのような制限が残るなら、他社端末はとても使えない。

ところで、マスコミ報道では、SIMロック解除でどこのキャリアでも使える分、端末価格が上がるのではないかと予測しているところがあるが、これについては、改正案中にも
端末の価格相当分が毎月の通信料から割り引かれることが一般的な状況においては、利用者にとって大きな問題にならないと考えられる
とあり、私もその通りだと思う。仮にすべての端末がSIMフリーだったとすると、キャリアを頻繁に渡り歩くことを抑制するために、2年継続利用ならその間、通信料金の割引で端末代を優遇するサービス(つまり現状の販売方式)がもっと早くから行われたのではないだろうか。

むしろ問題は、改正案中にもあるように、キャリアを変更する場合の異常な値引きが横行しており、私のようにキャリアを変更しない忠実なSoftBankユーザーからはすごく不公正な商売と感じること。長期継続顧客を優遇するのが本来の商売じゃないのか(有線インターネットのプロバイダはそういう料金制度にしているところがある)。実際、私の知り合いには、2年毎にキャリアと端末を更新している人がいる。番号ポータビリティで通話で困らないし、メールはGmailを使っているから問題ないそうだ。
商売敵の商品を解約したら優遇するというようなやりかたは、相手を潰すときにするもので、共存しつつ競争したいときにはどうかと思う。

1年11ヶ月前に今のスマホにしたとき、レスポンスは良いし、バッテリーは良くもつし、と大変満足したのだが、なぜかこの頃はすごくレスポンスが悪くなり、バッテリーのもちもだんだん悪くなっている。
知り合いにも、同じような感想を持っている人が多く、スマホの寿命は2年だなぁ、と妙に納得している。

前にも書いたし、改正案でも書かれているように、SIMロック解除がありがたいのは海外でプリペイドSIMを使う場合である。そうそう海外旅行をするわけではないけれど、旅行の時に海外で使えないスマホを持っていくのは馬鹿らしい(空港までは国内スマホを持っていくだろう)。
ということでキャリアを変える気はないのだが、SIMロック解除大歓迎である。ただ、キャリアの販売戦略はどうなるのだろう。

SIMsize.png5月以降も今と同じように売られるのか、それともマスコミの無責任な予測が正しくて値段が上がるのか、つまり、年季が開けたらすぐ機種変更するか、それともあと半年待つか、私にとっては結構悩ましいところなのだ。
(あるいは買い控えが出て、それまで端末価格が下がるとか。)
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