理不尽な進化

rifujinnashinka.png かなり前のことだが、北村雄一「謎の絶滅動物たち」という本について書いたけれど、「絶滅」というキーワードに関して、吉川浩満「理不尽な進化」という本が、生物種の絶滅を取り扱っているらしいので、読んでみた。
その感想というわけだけれど、「謎の絶滅動物たち」のことを書いたのは4月23日だったから、その関連というには日が経ちすぎているが、その理由は、この本を読むのに大変時間がかかった、そして、ほとんど頭に入らなかったからだ。

たしかに、本書は絶滅からはじまる。表紙(右図)にもあるように、

99.9%の生物種が消える?
「絶滅」から生命の歴史を眺める!
この世は公平な場所ではない?

しかし、この本は絶滅を説明してくれるわけではない。
「謎の絶滅動物たち」では、どれも人間が直接・間接に滅ぼしたというわけだけれど、この本は個々の生物種の絶滅のメカニズムを説明するわけではなく、絶滅は進化という現象の一つの側面であると一括する。

著者は生物学者、進化生物学者とかではない。
そして、「進化」ではなくて、「進化論」を考えるという、一段階層が高いというか、括弧に括った話をする。
進化という現象に新しい知見を加えたり、批判したりするわけではなく、進化という現象の解釈をしてみせる。すなわち、

「進化は適者生存の論理で説明されるが、99.9%の種が絶滅したということは、これらの種がみんな劣っていたからか」と問題提起し、競争のルール変更が絶滅の主犯である

とする。

著者の主張は、著者自身も言っているように、進化論においては常識的解釈で、同じようにセンセーショナルな題名が選ばれている本、たとえば吉村仁「強いものは生き残れない」という本でも、適応≒環境適応であって、同様の結論が説明されている(こちらは生物学の本で、生物学上の観察・推察にもとづいて進化を考える本である)。なので、どうしてこんなに力が入ってるのだろう?
生物種の絶滅の原因とかメカニズムを、生物学的に知りたいと思って読むと期待はずれとなる。

真実は一つだが、その見方・表現の仕方で印象が変わる、ということは良くある。

酒がボトルの半分になったときに、「もう半分しかない」と言うか、「まだ半分残っている」は同じことだし、
「前に進めば狼に会い、後ろに行けば虎に会う」は、「前に進めば虎に会わない、後ろに行けば狼に会わない」と言い換えることができる。

「99.9%が絶滅」、「0.1%がルール変更に耐えて生き残る」も同様だと思う。
その「真実」をどう解釈し、感じるかは人によるかもしれないが、「真実」そのものは誰にとっても同じだろう(もちろんそんなものは存在しないという立場もあるけれど)。
科学として進歩するというのは、その「真実」の方を追求するもので、言葉の言い換えではないと思う。

ただし、<「真実」とそのインパクト>を一括りに考察するのであれば、それは別の次元の話になる。


この本に書かれていることが間違っているというわけではなく、著者は、進化論の表層の言葉だけ借りて、いい加減な経営論や運命論みたいなものに結びつける浅薄な進化論理解を戒めている。

これは同感。「縮む世界でどう生き延びるか?」の稿で書いたけれど、生物学者が経営を語るのは良いが、経営コンサルが生物学を騙るな、である。

以上は、おおむね第一章までを読んだ感想であり、これだけなら特にどうということはないようにも思う。
そして、これだけなら文字数を大量に費やすこともないと思う。本書の文体はやけに冗長だし、同じ話題が繰り返し出てきて、構造が整理されていないように思う。

なぜ文章が冗長で繰り返しが多いのか、それはこの本の成り立ちが原因のようだ。
この本は、「朝日出版社 第二編集部ブログ」というものの連載記事が本になったのだそうである。
⇒「理不尽な進化 まえがき」)
2011年から2013年にわたって書き続けられたブログということなのだが、ブログをそのまま本にするとこうなるのではないだろうか。(私のこのブログもご覧のとおり、文章はくどいし、過去の記事とダブったことを書くことも多い。)


で、第一章を読んだところでもうやめようかと思ったのだけれど、読み進むと、第二章以下が著者の本領発揮のようだ。
著者は、進化論に対する素人の浅薄な理解を戒めるだけでなく、それが実は、専門家の間でも生物進化を理解する姿勢のようなものに関連する深い部分を抱えているとする。
その本質的な部分らしきものを考える上で、グールドとドーキンスの論争が良い題材になるとして、これに解説を加える。(この解説も同じことが何度も繰り返されるのでいささか疲れる。)
私なりに要約するとこういうことのようだ:

ドーキンスが正しく、グールドが間違っている、それはそのとおりであるが、なぜグ-ルドが間違ったのか、そこに進化・適応主義に対するグールドの深い思考があるためだ。

「ようだ」というのは、私には、残念ながら、このあたりの微妙な言葉は、そういう見方、語り方もあるのかもしれないけれど、何を言ってるのかもう一つピンとこないから。
これは内容について批判しているわけではなくて、(それは完全に私の頭を素通りした)、私がこうした言葉で構築された文章、こうした言葉の組み合わせの裏にあるイメージがとれないと、解った気にはなれないからだ。


なんとなく似たような構造を感じるのは、正しいことがわかっている恒等式でも、その理解・解釈は多様であるということだ。
前にも書いたことだけれど、A+B=C という正しい数式があったとして、
  • AやBが大きくなったらCが大きくなると考えるのか、
  • A+BはCで抑えられているからAとBは競合すると考えるべきなのか。
これは数式が語るわけではない。取り扱っている事象を良く見ないとどちらの解釈が正しいかは判定できない。
また、これが次への展開に向けてインスピレーションを与えることになるかもしれない。

とにかく難しい本だった。(でも理解できなくても実害はなさそうだ。)

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夢のあと

「大阪都構想」の頓挫を受けて、二重行政の解消や大型開発に関する調整業務を担当する「府市連携局」を設置することが考えられているそうだ。
設置については、なお紆余曲折もあって、設置議案が議会を通過しないこともありえるそうだ。

ただ、大阪都構想めがけて突っ走ってきた府市大都市局の方向が真逆になる可能性もあり、大阪市は自分の税源を保持し、府に支援を求める構図になるかもしれないという。

私は、大阪都構想というのは、グロスで言えば、大阪市の富を大阪府全体で分け合おうというものと理解しているから、連携局がこうした雰囲気になれば、真逆というしかない。


今までも、大阪市営地下鉄が市外延伸する場合は府が支援してきたというような話もあるらしいが、市が描いた絵に沿って府が金を出さされるという構図はあった。一方、関空会社の設立時は大阪市も出資したという事実もあって、府・市の関係は一方的なものではなかったわけだが、維新都構想の否決によって、そうした取引がかえってやりにくくなったのではないだろうか。

維新都構想が出していたビジョン、とりわけ交通などの都市インフラについては、ずっと府・市が取り組んできたものと実際は同じものだが、これを推進するなら、大阪都市圏整備事業体のようなものを作る方が現実的だと思う。前にもそう書いた。

大阪都構想は「このままだと大阪市を解体するぞ、それがいやなら大阪の発展という共通の利益のために、大阪市も一肌脱いで、その富を大阪府域で使うフレームを考えようじゃないか」というように使うべきだったのだ。

そもそも二重行政かどうかも異論があるものを解消しようとか、「調整」業務とかを行う連携局は、結局は、敗戦処理しかできないのではないだろうか。
それよりも、大都市整備なら大都市整備としてターゲットを絞って、それを実現する事業体を作ることに集中してはどうか。区に分割しないことで浮いてくる財源があるはずだし。
sansannonera.gif
私が心配してたのはこういうことなのだ。維新都構想が通ったら杜撰な構想であちこち襤褸が出てきてそれはそれで困ることだれど、否決されたら、せっかくの府市共同取組という狙い目が、手順の悪さで潰れてしまうということなのだ。

囲碁に「三々の狙い」というのがあるという。隅で活きる手筋で大抵の場合はうまくいく。しかし手順を間違うとすべての石が死んでしまう。
これを「味消し」というのだが、維新都構想はそれだ。

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京都市歩道工事 悪夢の大渋滞

shijohodokoujis.jpg 京都の四条通の歩道拡幅=車道縮小工事で、四条通で大渋滞が発生していると報道されていた。

今までの4車線(片側2車線)を2車線にして、車道を歩道に変えるというものだが、以前、このことを聞いたときに、十分な交通予測はされたのだろうかと訝しく思ったのを覚えている。
もちろん、単純に車線を減らしたら渋滞が減るはずはないから、四条通はバス等の専用にするとか、あるいはその逆にする(東西交通は迂回させる)とか、何かセットのアイデアがあって、それを織り込んでシミュレーションするだろうと。
ところが、市民や議会の苦情・追及に対して、当局の回答は、当初の交通量の試算は「拡幅工事でも大きな影響はない、予測はずれ」というものだったという。

私は、この工事着工後に四条通を歩いたことはないのだが、タクシーで四条通を横切ったことがある。
河原町通は休日は意外に空いているというけれど、四条河原町の交差点では、百貨店の駐車場の出入りの車が錯綜し、四条通へ左折する車が動けないという状態で、ここだけはごちゃごちゃしていた。

完成図がどうなのか知らないが、歩道拡幅は良いとして、停車中のバスの脇を一般車両が抜けられるぐらいの余裕は確保しないといけないように思うが、完成したら渋滞は解消されるのだろうか。また、四条通は観光というより、飲食・アミューズメント・土産の街のように思うのだけれど、東西交通は人が歩くよりは速いという程度でも良いようにも思う。案外、歩車分離せず、全面タイル舗装とかにして、車が気を使いながら走るというのでも良いかもしれない。


京都市には、都市計画局歩くまち京都推進室というのがあるらしくて、「歩くまち・京都」のキャッチフレーズを掲げているそうだが、インターネットでは「歩かせるまち京都」と揶揄されているそうだ。

soutoukakkasijodori.png また、この工事を批判する秀逸な動画が配信されている(YouTubeへリンク)。

京都市の工事だけではなく、同じ手法でさまざまなものがとりあげられている。「総統閣下」シリーズというようだ。どれもなかなか面白い。
⇒別テーマの動画へリンク(5月17日までに見たかった。このテーマでは5本あるようだ。)


私が大学に入ったときにはもう走っていなかったが、昔、四条通は市電が走っていた。それが邪魔だということなのか車優先になったわけだ。

私が大学に入ったときは未だ東大路、河原町は走っていて、通学には七条通-東大路の路線か、河原町通-今出川通の路線を使っていたが、しばらくしてこれも廃止になったのでバスを使うようになった。


平安京の昔は、四条大路の道幅は24mだったという。そのままならゆうゆう8車線とれて、外側2車線を歩道にしたとしても4車線が車道にできていた。
ところが、前にも書いたけれど、平安時代末には大路が畑になる。(高橋昌明「京都〈千年の都〉の歴史」)
平安末には、町を管理していた役人が承認して通りが畑になっていくことになった。朝廷にもはや都を維持する(経済)力は失われ、現代流に言えば「指定管理者」に委ね、道路利用から上がる収益でもって道路を維持するようになり(あわせて私腹も肥やした?)、それが私有地化するというような流れだろうか。

ところで、昔、京都の女子大学の教授もしていた某市の助役さんが話していたことを思い出した。曰く、学生にどんなまちづくりをしたいか聞いたら、「人と人が触れ合うまちです」と答えた学生がいたとかで、それなら歩道を狭くしたらええんや、と言ってやったとか。


【追記】(2016.10.11)

案外、この歩道拡幅は成功だったかもしれない(⇒記事へ)。
ゆとりの空間が生まれ、渋滞をきらってか、意外にも車の数も減っているように見えた。


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新銀行東京

shinginkotokyo.jpg 新銀行東京が地銀グループと経営統合する方向だと報道されていた。

新銀行東京といえば、石原慎太郎知事のときに、1000億円を出資して創立された銀行で、その後、都議会でも再三、経営状態が悪いの、実績があがっていないのと批判されてきたわけだけど、このところどうなっているのか、私は知らなかった。
そこへ今回の報道である。

自治体による銀行の設立とは、一見、無茶なことをしたとも見えるのだけれど、創立の頃は、各銀行の不良債権問題もあって、中小企業等への貸し渋り、貸し剥しが問題になっていて、これによって詰まり気味の金融に、流れを取り戻そうという設立趣旨には納得できるものもあった。
ただ、こうした目的であれば、経営状態と実績を両立させるのは難しいことのように思う。

どこの地方自治体も、中小企業やベンチャー育成の低利貸付制度を持っていると思うが、貸付が焦げ付くことも多いと聞く。自治体が貸し付ける額は百万円のオーダーの下の方で、けっして高くはない(投資を実行するには小さい)ようだが、貸付額が低くても、自治体の審査を通ったということで、銀行からの融資が受けやすくなるという効果もあるらしい。

しかし、そもそもベンチャーはリスクがあるからベンチャーなので、債権が回収できないことは本来織り込み済みであるべき。良くいわれるように、貸したと思うな、あげたと思えというようなものではないだろうか。

ひるがえって新銀行東京だけれど、銀行業として成立するためには、不良債権を持つわけにはいかなかっただろうし、経営状態が悪いと批判されても困るだろう。資本金を食いつぶして中小企業への貸付を続けるというのも、企業としては厳しいのではないだろうか(失敗した3セクというのは、出資金を食いつぶして終りというのが多いらしい)。
都の直接融資でなくて、新銀行を通しての「迂回融資」というやりかたが、非常にコントロールの難しいものだったのではないだろうか。

報道によれば、新銀行東京は6年連続で黒字を確保していて、総資産4300億円余という(銀行の資産っていうのは大きければ良いわけではないだろうけど)。普通の銀行として地銀グループ傘下に入るのはタイミングとして悪くなく、無理のないことのようにも思える。

勿論、新銀行東京に助けられた会社もあるに違いないし、今回の解決方法も、設立目的を横へおけば、これで問題はないと言うこともできるだろうけど、さて、東京都の手には何が残ったのだろうか。

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Androidのここが何とか

Screenshot_2015-05-25-14-44-20.png 私のスマホ、タブレットのOSはAndroidである。もっともこの種の情報機器で最初に買ったのはiPod touchだから、iOSを先に経験している。その他、Windows mobileも、Microsoftからお試しでしばらく使わせてもらったこともある。

前から書いているように、私はiOSは嫌いである。アプリケーションとデータの関係が融通が効かなすぎる。仕事でも私生活でも、WindowsPCをベースにしていて、そのデータをスマホ、タブレットでも開くという使い方をしていると、iOSは頑なである。
ランチャー(ホームアプリ)が選べないらしいのも気に入らない。

しかし、Androidには困った点もある。
良く言われるのは、Google play storeは審査が甘く、怪しげなアプリでも配信されている、対してApple storeは、審査が厳しいから相対的に安全である、ということ。
(私はESETファミリーセキュリティという、1ライセンスで5台までインストールできる激安ウィルス対策ソフトを使っていて、スマホ、タブレットにもインストールしている、気安めかもしれないが。)

そして、アプリによってはAndroid版がないものがある。
そういうアプリを配信しているメーカーに、なぜAndroid版を出さないのか聞いたことがある。その答えは、Androidはハードウェアがいろいろあって、動作確認・動作保証が難しいからだという。

また、Androidのバージョンアップはとてもテンポが速い。私が持っているスマホ(今年1月に更新)はAndroid4.4であり、タブレット(一昨年10月に購入)はAndroid4.2である。
Screenshot_2015-05-25-14-42-01.pngそして新しいバージョンのOSが出たとき、持っている端末をバージョンアップしようとしても、ハードメーカーが対応していないのが普通である。Windowsでも新バージョンに対応できないハードウェアもあるが、多くは十分な性能が得られないというような問題のようだ。
iOSの場合は、ハードが1種類しかない(世代はあっても)から、OSのバージョンアップは通常、端末に反映される(もっともそれが問題を起こす場合もあるようだし、私のiPod touchは古すぎて、最新バージョンのiOSを載せることはできない)。

Windowsの場合は、ハードウェアは多くのメーカーから出ていることはAndroidに似た状況であるけれど、OSのバージョンアップのサイクルはAndroidほど短くない。そして、同一バージョンでも、次々にアップデートされる。特に、次々に発表されるセキュリティ・ホールとそれへの対策というのが多い。

ところが、Androidでは、Windowsのようなセキュリティ・パッチが出されるということは聞かない。どうも、機能拡張や新しいハードウェアへの対応を優先しているように見える。Androidはサーバーとして運用されるものではないから、セキュリティ上の重大問題は端末のデータが盗まれたり、通信を盗聴して、ID/パスワードなどが漏洩することが大きな問題だろうと思うが、OS側は使う人が気を付けろというような感じだろうか。

以前、現在位置データなどを送信するアプリを他人の端末に仕込むという事例が問題になったことがあるが、これもOSの問題ではないということだろう。OSはアプリが端末のどのデータ、どの機能を利用するか警告しているから、アプリのインストールは使用者責任だということなのかもしれない。


前から思っているのだが、スマートフォンやタブレットというのは、2年ぐらいしか持たないような気がする。
PCでもそうだが、買った最初はサクサク動くのだけれど、使っているうちにだんだん遅くなってくる。PCの場合はそれでも5年ぐらいは大丈夫のようだが、スマートフォンなどは2年だろうか。
確かに、前に使っていたスマートフォンを初期化すればやはり最初の速さに戻るような気がして、使えないわけではない。実際、前のスマートフォンはそうやって、モバイル通信は使わず、音楽専用(マイナス1伴奏、チューナーなど)で使っている。しかし、この世界の進歩に合わせて、いろんなアプリを入れたりするとどうも具合が悪い。

クラウド全盛の観があるこの頃だが、案外、ハードウェアも定額で常に最新機種というサービスが出てくるかもしれない。

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教頭になりたくない

kiboukoukaku.jpg 先日、大阪市教育委員会が、教頭を志望する先生が少ないので、校長の推薦制を実施すると報道されていた。
副校長や教頭があまりに業務多忙なため、昇任試験の志願者が少ないので、各校長に部下の中から教頭候補者を推薦させ、受験させる異例の策という。

でも、希望者がいないから、無理やり指名するっていうのはどうなんだろう。
それに、教頭になりたくないのは、単に多忙だからというだけではないと思う。「生涯一教師」として子供に向き合いたいという先生も多いのではないだろうか。
また、それまでの人生で経験のない事務的な仕事を突然やらなければならなくなるなら、不安感も大きいだろうし、要領が分からなくて不要に時間がとられたりもするだろう。

大阪市は公募校長問題(歩留まりが悪すぎる)があるからだという意見も眼にするが、実はこの傾向は全国的なものといわれている。
以前、東京都教育委員会はこうした問題意識を背景として、学校の校務をどう改善するかについて調査したことがあると聞いた。(⇒東京都教育委員会「小中学校の校務改善の方向性について」
教頭の多忙感が何によるものか、教頭職の業務の多くを占める校務の実態を調査したものらしい。学校経営という視点から、それにあった組織とはどんなものか、ITによる支援のありかたなど、幅広く調査しているようだ。
教頭の激務を教頭だけに押し付けず、組織的に支えられるようになれば、状況の改善が見込めると考えているのだろう。

犠牲者を選ぶ制度ではなく、犠牲者が出ない制度を作るべきだと思う。
(東京都だからできる、大阪も都になればできる、なんて言わないよね)

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あれから一週間

ippowofumidasanai.png 前に「運命の日」と書いた、大阪都構想の住民投票が、市民の支持が得られないという結果で終わって一週間。

マスコミやネットでは、さまざまな都構想の敗因分析をしている。また、これで決着がついて、わだかまりが解けるどころか、まだまだ大阪市政がごたごたしている、住民に対立・しこりがあるなど、フォロー記事を書き続けている。

あれだけの不毛な、というのは知恵を出し合って良い施策をという態度がどちらにもないからだが、ただただ対立を際立たせるようにアジテーションを繰り返したような戦いだから仕方がない。
これが橋下流といわれる政治手法、従来の日本語では、喧嘩腰というやつの帰趨であろう。

反対派は話し合いがないこと自体を問題として訴えていたようだけれど、この主張だけでは対等な喧嘩ができない。殴りかかってくる人に「話せばわかる」と言っているわけだから。

喧嘩のときはどちらも冷静さを失っているだろう。ようやく正しい情報、的確な予測、そういった真っ当な議論に戻れるのではないだろうか。大阪が今のままで良いと思っている人は少数派だろうから。

それにしても、対話より対立を重視する政治手法がどんなものか、大阪の人は学んだことと思う。

もう一つ学んだことは、役所・役人は、あっという間に首長の喧嘩の道具になるということ。
実際、都構想の資料は府市の役人を大量動員して作られているはずだ。直接担当者だけでなく、あらゆる行政部門に対して都構想にプラスになる材料、マイナスになる材料(反論を用意するため)をかき集めたにちがいない。

それでも都構想の効果額がずいぶんいい加減だったことが見えていたのだけど。

さらに市職員の反対意見の表明は職務命令として禁止された。さらに公式の説明会は、反対意見を聴く場ではなく、どうなるかの説明会であった。

対して反対派は、対抗できる資料を集めるのは至難の業であろう。もちろん役所へ資料請求すれば(議員なら簡単に、そうでなくても公開請求で)出てくるだろうけれど、組織としての動員力は全く違うだろう。

こういう圧倒的に賛成派が有利な状況でも反対が多かったということは、結果の数字だけで僅差というのは、敗れた賛成派はそういうかもしれないが、違うのではなないだろうか。

これからは従来の大阪のグランドデザインの焼き直しに「都構想」という冠をつけただけのものから、本当にグランドデザインの実現の議論がなされることを期待する。否定されたのは、橋下・維新の「都構想」にすぎないのだから。

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クロマツの植樹

kuromatsushokuju.jpg テレビのニュースで「東日本大震災で被害を受けた海岸林を再生しようと、宮城県名取市の海岸でボランティアなどがおよそ1万本のクロマツを植えました。」という報道を目にした。

報道では、さらに、将来は50万本を植えるという。また、植樹に参加した高校生の談として、自分たちが植えた木が少しでも津波の被害を防いでほしいと語ったということも紹介されていた。

ところが、このニュースを目にして、大丈夫なのか、逆効果ではないのかと不安になった。

isodatensai.jpg というのは、磯田道史「天災から日本史を読み直す」という本の中で、松林が津波被害を大きくしたと書かれていたからである。
マツが被害を大きくする理由としてあげられているのは、大きな津波ではマツが根こそぎ引き抜かれ、それが波とともに流れて家屋や人を直撃するからで、特にマツを問題視するのは、根が深く縦に伸びず、横に広がるという性質があり、波に耐えられないからだという。

それで気になったので、ネットで、〔マツ 津波被害〕でググるとたくさんの記事が見つかる。
マツが被害を大きくしたという記事もあれば、多少は防波効果があったという記事もある。
「森林科学」(2012.10)という雑誌は「津波と海岸林」という特集を組んでいる。この雑誌に収録されている論文では、津波で簡単に引き抜かれた「根上がり松」の状況を調査している。

素人には判断がつかないが、磯田氏が前掲書でも書いているが、ものはもっと深く考えたほうがいいらしい。

shinrinkagaku201410.png
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ライター型ビデオカメラ

IMG_20150522_103804-crop.jpg ちょっといかがわしいITガジェットを購入、ライター型ビデオカメラ LBK-01 という機器。

もちろん盗撮などという犯罪行為をするためではない。カメラを手に持って撮影できない場合に、ひたすらビデオだけでも撮っておこうという目的である。
よく、スキーやモータースポーツなどで、ヘルメットや車体にセットしたカメラで迫力あるビデオが撮られているけれど、そういうイメージ。私はスキーもバイクもやらないから、自転車ぐらいだし、ヘルメットをかぶることもないだろうから、車体や帽子に固定することになるだろう。
未だ実際にやってみたわけではないが、近々、それをやってみても良さそうな機会がありそうなので、使えそうなものを探して、この機種にたどりついた。Amazonで8900円。

(写真の箱に入れられていたが、箱に印刷の型番やスペックが全く別物、どうやら中身とは別のようだった。)


そういう意図で「超小型ビデオカメラ」というようなキーワードで検索すると、カメラと本体が分かれていて(ケーブル接続)高解像度で撮影できる高級品もあるが、前述のような目的だから、ケーブルは邪魔になりそうだし、そもそも状況からして高品質のビデオが撮れるはずもないから高額商品を買っても意味がない。スマホなどとWiFi接続して使うカメラもあるが、小さいものが見つからない。
これらとは別のジャンルに入るのが、ペン型とか腕時計型、そしてこのライター型という盗撮用(?)を狙った商品群。これが実にいろいろある。安すぎるものはオモチャみたいな画像しかとれなさそうなので、ネットの評価やサンプル動画を見てこのLBK-01という機種にした。
まとめると、手で持って操作できない場合に、

帽子や車体などに固定してビデオを撮り続けられる、それなりの解像度を持っている低額な商品

ということである。
また、カメラのmicroSDを抜いて、スマホなどに挿せば、すぐに動画を映せるのも良い。

機械が届いてすぐにテストしたが、説明書の通りに動かない。底部のボタンを長押しすれば振動で起動(レディ)すると説明があるのだが、このとおりにやると振動がずっと続いて止まらない。撮影開始は「ライターの着火ボタン」を押すのだが、これが押せない(後でわかったのだが、押し込めるものではない)。

この原因は、家にあった使っていない古いmicroSDHCカードを挿したためであった。カードが不良だと、カメラはずっとカードへのアクセスを試みて、その間ずっと振動するようだ。実際、後でこのカードをPCで読ませようとしても読めず、フォーマットもできなかった。完全な不良カードだったわけだ。

もう返品するしかないかと思っていたが、ものは試しと、microSDカードを別のものに取り換えてみたら、ちゃんと動作した。説明書に「microSDカードはTranscendかSandisk製を使え」とあったので、カードを選ぶのかもしれないと考えたのが良かったわけだ。もっともちゃんと動作したmicroSDはノーブランドのものだったけど。

vlcsnap-2015-05-22-13h13m56s196.png カメラは本体底部にある。着火部(普通のライターだとガス量調節レバーがついているあたり)にカメラがあるのだろうと勝手に思っていたのだけれど(そのほうが操作としては自然な格好になると思う)、そうではない。
このほうが、テープなどで車体に固定する場合はカメラを固定しやすくて良いと思うが、紐をつけて首からぶら下げるような使い方では、足元しか写らないということになる。
レンズはとても小さいからカメラを向けられても、それとはわからないだろう。口径が小さいのは盗撮目的ではなくて、ピンホールカメラのように、焦点深度が深くて、ピント合わせをしなくて良いという効果があると思うが、暗いシーンは撮れないだろう。

ネットにも先達が多くいるが、私もこのカメラで撮影したサンプル動画を上げておく。
撮影した動画はAVIファイルでmicroSDに保存されるが、そのフォーマットは次のとおりだった。

動画フォーマット:JPEG        オーディオフォーマット:PCM
コーデック:   MJPG        ビットレート:     CBR 352.8Kbps
ビットレート:  8351Kbps      チャンネル:      1チャンネル
解像度:     720×480      サンプルレート:    22.05KHz
フレームレート: 30fps        BitDepth/String:   16ビット
説明書では、1回のフル充電で80分動作、5GBで60分記録が目安(サンプル動画は18.467秒で14.3MiB)


私は盗撮が目的ではないから、ライターに偽装してもらう必要はない。だから、カメラがしっかり固定できて、できればレンズの方向が調整できるようなもの、LEDなどによる動作状態表示、バッテリー残量表示があっれば良いと思う。それにしても盗撮用かという怪しげな商品に負けない「健全な」商品が出ないのがおかしいと思う。

ところで、こういう目的だと、自動追尾機能付き、カメラ搭載ドローン「ZANO」がぴったりなのだけれど。

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旧交をあたためる懇親会

昨日は、旧交をあたためるというような趣旨の懇親会。

言いだしっぺは、この春に退職された同業他社のYさん、共通の課題解決に向けて共闘した人。Q州O県から来られる。そしてせっかく大阪に来るということで、近所の共通の知人の方々に声を掛けたということで、はじめは3,4人ぐらいの話だったようだが、結局9人になった。

予約の店へは私が一番乗り。開宴10分前。

20150521tayoshibefore.jpg


Yさんは7月から再就職とのこと、親会社が第二の人生にまで口を出すとブツブツいいながら、かつての仕事にもかなり気合が入った状態。といって、後輩がだらしないというような話ではない。常に前向きというタイプ。
この日も、マイナンバーと外字の問題など気合が入った議論。

私はマイナンバーが本来の役割を果たせるように制度設計・システム設計されていたら、外字問題は単なる個人の好みの問題に矮小化されるという意見であるが。


最後にせっかく集まったのだからと集合写真(ただし撮影者がここには入っていない)。

20150521tayoshis.jpg


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MVNOのLTEって遅くない?

downloadinprogress.png 長時間通勤者の車中の友は何といっても本である。
私の先輩のなかなかの知恵者と尊敬する方は「通勤時間の長い奴は文化人や」と言っていた(ご本人も長時間通勤者)。

もっとも最近は車中でスマホなどのゲームをする人が多い。私もゲーム(というよりパズル)はするけれど、中には夢中になっているのか、周囲への気配りを欠いていて、ラッシュ時の人の流れに乗っていない、つまり邪魔になっている人もいる。


電車中では新書版が一番具合が良いので、できる限りそうした判型の本を切らさないようにしているのだけれど、やはり時々切らしてしまう。こうしたときには、さすがに大判のハードカバー本は持ち歩きたくないので、電子書籍に頼ることになる。

ところが、この電子書籍も読み切ってしまうことがある。そうすると次の電子書籍を車中でダウンロードすることになるのだけれど、私が電子書籍リーダーとして使っているタブレットでは、ダウンロードが異様に遅い。今までに2、3回、そうした経験をしている。

今使っているタブレットにはMVNO(U-mobile)のSIMを挿しているのだけれど(⇒MVNOの利用(自分史))、
公称では「LTE対応、速度制限なし」となっているけれど、
せいぜい1~2Mbpsぐらいしか出ていないようだ。

Screenshot_2015-05-21-08-45-35.png   Screenshot_2015-05-21-08-46-20.png

同様のことをスマホ(SoftBank 4G)でやれば1~2分で完了するダウンロードが、MVNO/docomoLTEだと10分以上かかってしまう。(メールチェックやちょっとしたWeb閲覧なら気にならないが。)

MVNOのサービスは公称通りの性能が出ているのだろうか?
それともdocomoのLTEってこんなものなのだろうか?

タブレットは普段WiFiで使ってるから、モバイル通信量はそんなに多くないのだけれど、スピードテストの通信量が一番多いなんていうのは悲しい。


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懇親会

IMG_20150519_210359.jpg 昨日は、一昨日に続いて宴会。
社長人事も落ち着いて(と言っても続投なのだけれど)、複数部局の管理職が集まる大懇親会で、社長も出席。
去年も同じ趣旨の懇親会があって、場所も同じ。料理は前回とは趣を変えて、季節外れのカニ。

ということなのだけれど、この日の会議が長引いてちょっとごたごた。
会議が長引いた原因は、会議の議長の選任で、シャンシャンのはずが、メンバーの中に選任方法にクレームをつける人が居たとかで、何度も会議が中断、暫時休憩と相成り、結局、その問題については決着したのだけれど、他にもいろいろ会議に諮る案件があって、それらの承認という手続きが必要というルール。

それでその会議は21:30に再開されるということになったわけだけれど、そうすると、社長・副社長・部長といった面々は、それに出席しなければならないから、さすがに宴会に出てもお酒を飲むわけにはゆかないという悲惨なことになってしまった。

おかげで、前回のこの懇親会のときは、終了後、副社長に拉致されて、韓国バーに連れていかれたのだけれど、そういう心配は全くなくなった。

季節はずれと言ったけれど、結構、大振りで立派なカニである。
写真右、手前のワイシャツは社長。私が会場に着いた時は既に社長が来ていて、手招きされたのでしかたがないので隣の席。また、向こう側の女性は、今度副社長になる人。この業界で女性副社長は珍しい。女社長はちょくちょくいるのだけれど。

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IMG_20150519_201616.jpgあらかた食べた後で申し訳ないがカニ雑炊。社長が味付けをしたのだけれど、塩辛い。塩を入れるところを横で見ていたが、スパゲッティを茹でるのかというぐらい。ご本人も、ちょっと鹹かったな、と。

20:30頃には、社長以下、会議出席メンバーが退席、その後21:00までジャコ祭り。

次の飲み会は明後日。何故か今週に集中してしまった。







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歓送迎会

IMG_20150518_175409.jpg 昨日は職場の歓送迎会。

4月には定期異動が行われるから、普通は4月にやるものだけれど、今年は社長人事が4月下旬までどうなるかわからなかったこともあって、4月中はできなかった。

そのうえ、私の職場では転出者・転入者ともにゼロ。
「それで、なんで歓送迎会やねん」と言われても返す言葉もないが、まぁ、年中行事ということで、異動無し残念会ということで開催。
転入・転出はなかったが、他部局に兼務がかかった人1名、昇格1名の2名には一応、身分上の変化はあった。


K鉄Y駅のすぐ近く、二階の座敷である。

コースは刺身、寿司、めいめい鍋(鳥)、鳥なんこつなどの焼き物、と続く。特にとりたてて言うほどのものはない。
一品をメンバーそれぞれが勝手に追加。

酒は、純米吟醸を中心に。銘柄は忘れたが東京の地酒だった。

なぜか、ワインを取りそろえている店で、このカルボナーラ(写真右)に人気があるらしい。

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〆の魚飯。小食の私もめずらしくちゃんと食べた。

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明日はまた別の懇親会が予定されている。

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大阪市民の答え

大阪都構想の住民投票実施され、反対が賛成を上回る結果となった。

tokosokekka.jpg 開票が始まってから、出口調査の結果や開票速報の報道では、ずっと賛成が上回っていたが、22:35頃、NHKは反対多数が確実と報道した。

大阪都になればこんなに良いことがと喧伝された、交通体系などについては、従来から進められてきたことであるし、何より、直接市民生活に関係するわけでもなく、急いでやらなければならないというわけでもない。大阪都でなくてもできたことだろうから、これで大阪の都市政策ビジョンができなくなるわけではないと思う。

2015-05-18_001646s.png 対して、住民サービスについては、はっきりした住民のメリットが示されないなか、事務的なコスト増、移行一時コストの膨大さなどの不安要因が拭いきれなかったのだと思う。なにより市の財源が府へ吸い上げられるわけで、グロスではマイナスだし。
区分割というとすぐに話題になる議会であるが、協定書でも各区議員定数が示されているけれど、議員は行政ではなくて、日常の市民サービスにはすぐ影響するわけではないから、好きにやれば良いのだろうけど、市役所の5分割は大変だろうと思う。同じく協定書には職員配分のことも書かれているが、それで本当に区政が運営できるかどうかは未知数だっただろう。教育委員会だって分割しなければならないし。

推進派は小さな区(40万人の区が小さいとは言えないが)になれば、より住民の意思を反映できると主張していたけれど、現実的なサービスについては歯切れが悪い。それも当然で、分区のメリットを出そうとすると、豊かな区がそうでない区を切り離さないと無理なんじゃないだろうか。また、報道では地下鉄の無料パスなど高齢者サービスを直撃する都構想には高齢者の反対が多いということなので、高齢者が多い区は反対が多いだろう。実際、区別の投票結果は、そういう推測を裏付けているように思う。
それに豊かな区でも、二重行政としてやり玉になった図書館も、大阪市立中央図書館は大阪府立中央よりも蔵書数の大きい巨大図書館で、区が運営できるのか、その維持管理コスト、電気代だってばかにならない。誇れる施設も重荷になるおそれがあった。

まぁ、しかし、大阪市民みんながそんなに冷静・論理的に判断したわけでもないだろう。
長期的にはメリットがあるとしても(ただし都構想との関連は実際には曖昧)、曖昧な期待であるのに対し、短期的には市民にとってはマイナスはほぼ見えているから、冷静に考えれば反対多数になると思うのだが、閉塞感のある世相だから、どんな変化でも良いから変わることが良いという人がどのくらいいるかによる。
ただ、そういう変化を求めるということでも、テレビのインタビューでは、「(橋下さんは)はじめは良いと思ったけれど、あまりに急すぎてこわい」というような意見を言う人がいたが、これが案外、賛成が伸びなかった原因ではないだろうか。

それにしても、都構想が実現したら、名刺や、企業の名刺、封筒、パンフレットなど、ものすごい特需が生まれただろうに、残念でしたね、印刷屋さん。

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運命の日

ippofumidasou.png いよいよ今日、大阪都構想の住民投票が実施される。
投票権がない私だけれど、この結果は気になる。

先日、「大阪都って良いの悪いの」で書いたように、私としては大阪都という考え方はアリだと思っているけれど、推進派の論理には承服できない。
敵か味方かの二分法のような問題の突きつけ方で、お互いにヒートアップしてしまったような感じだ。

可決された場合、大阪維新の会の勢いは倍加し、肩で風切る集団の勢いにブレーキが効かなくなるだろう。そして、この人たちの今までの言動からすれば、反対派を圧殺するのではないかと不安。
否決された場合、大阪都市圏の発展に、大阪経済、大阪府、府内市(区)町村の力を結集するということも遠のくだろうと残念な気がする。

この調子でしこりが残るようでは、「運命の日」と言うけれど、どっちに転んでもろくな未来は開けていなさそうだ。
せっかくの好手筋を、詰めの強引さで、詰め切れず味消しにしてしまったようなものだ。

ということで、
可決されたら、2年後の区設置に向けて隙のない準備をしてもらうのは当然として、大阪都市圏の問題については、国交省も参加して、あらためて本格的な実施計画として練り直してもらいたい。
否決されたら、大阪市の「うっとこは」を禁句として、衛星都市が発展しなければ大阪市の発展もないことを再確認して、新たな大都市問題検討体制を構築して真っ当な議論からやり直してもらいたい。

要するに、住民投票の結果を勝ち負けとすることなく、賛成派も、反対派も、「大人の対応」をしてもらいたい。
(これが、最近の大阪人には期待できないのだけれど。)

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葛飾応為

昨日、杉浦日向子「百日紅」をとりあげたが、北斎の娘で、北斎のそばにいて、なかなかの腕前の絵師がいたという話はもちろん知ってはいた。(もっとも「応為」という画号は調べるまで知らなかったのだけど。)
このたび「百日紅」を読んで、あらためて葛飾応為のことをネットで調べてみた。

なかなかの腕前どころか、ものによっては北斎以上と評価する人もいるらしい。

ouiyoshiwara.jpg

上は、応為『吉原夜景図』。
素人目だけれど、線より面による構成、そして何より光が描かれているのが私には珍しく(それで本稿ではこの画像を取り上げた)、普通に江戸浮世絵としてイメージするものとは随分違うように見える。幕末も近く、この頃には、西洋画の影響もかなり受けているのだろうか。

hokusaikatakuzu.jpg 北斎の仕事風景らしい、北斎と応為を一緒に描いた「北斎仮宅之図」(露木 為一筆)というのが国会図書館にあるというので、それをネットで検索してみた。デジタル・ライブラリーで公開されている(右画像)。

この図に「娘 ゑひ」と書かれている女性が応為だと思われる。
応為という名前は、北斎がお栄を呼ぶときに「オーイ」と言ってたからだという説があるようだが、北斎はお栄を「アゴ」と呼んでいたという話があって、「百日紅」中でもその説がとられている。
西洋画のような写実とはちがう、日本的な線画だけれど、アゴが大きく描かれているのがわかる。

「百日紅」の中では、応為の女性画は女を美しく描くとされていたが、応為本人がこの絵のようだとしたら、やっぱり描く側にはなっても、描かれる側にはなれそうにない。
「北斎仮宅之図」ではお栄は眉を剃っているように見えるが、「百日紅」では太い眉で書かれている。蛾眉から程遠いということで、不美人を象徴するエレメントなのかもしれない。

お栄が、年老いた北斎と暮らして絵を描いているというのは、出戻ったあとのことだと思っていた。その証拠でもある「北斎仮宅之図」は、北斎83歳、お栄40歳頃だという。しかし、応為は、まだ10代ぐらいのころから描いているという話もある。
「百日紅」では、「そんなだからお栄が嫁にいけねぇんだ」というような扱いがされているから、出戻る前のまだ若いお栄を描いているわけだ(第一、絵柄から見ればやっぱりまだ若い女性だし。そういえばアニメ映画の英語タイトルは、"Miss Hokusai" だから出戻りではなくて、正真正銘未婚ということだ)。

あるいは、杉浦日向子は、何年かたったら、お栄の結婚・離縁あたりを続編で出すつもりだったか。
しかし、このお栄だと、あんまりロマンティックな話や長いエピソードは作れそうにないだろう。
(このお栄なら旦那の絵をへたくそ呼ばわりして離縁されてもおかしくはない。)
杉浦日向子も、むしろどんな暮らしをしていたかわからない若い時代を選んだのかもしれない。

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百日紅

sarusuberi12.jpg 以前、兄弟ブログ「語り得ぬ世界」の「東下り芸術の春_27」のコメントに、杉浦日向子「百日紅」をこれから読んでみようと書いたけれど、ネット通販で手に入れたので、少し遅くなったけれど簡単な感想を。

まず、本体の下、「アニメ映画化」と印刷されているのは腰巻。映画化を機に増刷されていると推察される。(だから、簡単に手に入ったのだと思う。)

映画は、先日の5月9日から公開されている。
公式ホームページもあり、予告編も流されている。

映画を見に行くかどうかはまだ決めてない。というか、どんな話題作が上映されても、映画館まで足を運ぶということはあまりなくて、何年かたってからテレビで放送されると、そういえば結構話題になった映画だなぁと思い出して見るのが多い。
別にお金をケチっているわけではなくて、単に出不精なだけである。暗い閉鎖空間で、大画面・大音響で見るのは凄いことでテレビで見るのとは全く違う体験であることは十分承知しているのだけれど。


sarusuberi_sp_top_p1.jpg さて、本作の感想だけれど、先入観も事前知識もなく読み始めたのだけれど、全体を通ずるストーリーのようなものはないようだ。登場人物は、応為、北斎の二人は言うに及ばずだが、これに英泉、国直が加わって、大体この4人はいつものメンバーであるわけだが、だからといって彼・彼女が成長(頽廃)していくような連続性があるわけではない。

要するに散文的。日常のとりとめのないことを切り取って、その切り取られたシーンが繋がって、なんとなくそこに時間の流れを感じるという風情。
ただし、怪談チックな話などになってくると、さすがに起承転結がないと様にならないみたいで、ちゃんとオチが付くようになるみたいだ。

こうしたエピソードは何かタネ本・伝承があるのか、それとも作者の創作なのか、さっぱりわからないのだけれど、怪談ものはやはり何かネタがあるに違いない。江戸の怪談といえば、落語のネタにも当然なっていて通ずるものがあるようだし。

ということで淡々とした作品で、痛快とか、手に汗握るとか、血沸き肉躍るということもないけれど、江戸風俗というものを落ち着いて見せてくれる作品である。

で、問題はその江戸風俗、「風俗」の語のもう一つの用法の方が毎話のように描かれる。
江戸っていう場所・時代はそういうもので、本当にこんなふうに開放的だったのだろうか。もちろん主には遊郭の話だから、それを開放的というのはあたらないとも思う(かつてのヴェネツィアはあまりに開放的で、娼婦という職業が成り立たなかったという話もあるが)。強姦の話も本作にあるが、もちろんそれを肯定するわけではないが、一方、それにより被害者が精神的に追い込まれるという切羽詰まった描き方でもない。貞操に絶対的価値は置いていないと言えるだろうか。

通俗時代劇などでは、武家の妻女は貞操観念の固まりのように描かれることや、その裏返しで好色な悪代官というパターンが多いわけだけれど、それとは違う江戸である。

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大阪都って良いの悪いの

大阪都構想については、このブログでも何度かとりあげてきているが、読まれた方は、私は都構想に反対していると思ったに違いない。たしかにそうなのだけれど、実は、以前から思っているのだけれど、
大阪都という考え方そのものを否定しているわけではない

今までブログに書いてきたことをあらためて総括すると、
  • 二重行政はあってもごくわずかで二重とされるものも一方を廃止できるわけでもない
  • 都構想が掲げる都市像は従来から進められているもので、都でなくてもできる
  • 「大阪の酷い状況」なるものは「府市あわせ」以外に原因を求めるべきものが多い
ということなのだけれど、これは
推進派の論理には承服できないということでしかなく、大阪都を否定する理由には、実はなっていない。

panflet1.jpg 身近な住民サービスは市区町村が担い、広域行政を都道府県が担うという基本原理はその通りだと思う。

一方、政令市が増え、中核市・特例市ができるなど、地方自治法制はこうした原理についてどう考えているのか、もう一つ良くわからない。

昔から都道府県は「中二階」と言われているが、政令市があると、さらに一つ階層が多くなったり、そこだけ別というようになる。結果、都道府県は政令市には関与しない(できない)という行動になり、都市圏全体の行政という感覚が薄弱になる。富が集中する中心政令市の外側に重点を置くこととなる。

府と市が都市圏としての行政で連携・協力すれば良いのだが、中心政令市が独善的な行政(何で市外のことまで考えなあかんねん)をすれば都市圏のデザインができないのは当然だ。

今回問われる大阪都構想では、政令市をつぶせば都市圏行政が実現できると考えているわけだが(統合で強い行政機構ができて国と喧嘩できるぐらいになれば良いけどそういう話は聞かないなぁ)、府市を行政機構として統合しなくても、それぞれの事業に応じた共同体制(民間も含め)によってもできると思うが、そうした議論はされたのだろうか。

都構想ありきの府市統合本部には、そもそもそういう議論の場が用意できなかったのでは。それが言論封殺ととられただろうし、反対派を増やす原因になったのでは。


今回の住民投票で協定書が承認されたら、そうした議論はついに行われず、今まで以上に強引な組織運営になって無理を通す場面が多くなりそうで不安である。
かといって、もし否決されたなら、真っ当な議論や改革のチャンスは遠のいてしまうのではないだろうか。

橋下人気で賛成する人もいるだろうし、その強引なやりかたに対する反発で反対するという人もいると思うのだけど、橋下氏の人気投票をやっているようでは、大阪人、底が知れるというものだ。

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本日休刊日

月例の休刊日。

IMG_20150501_082409-crop.jpg tebasaki20150427sb.jpg
ashinuki20150427.jpg 20150501ashinuki.jpg

やっぱり脚だけ抜き出すより、スカートから出ている脚のほうが色気がありますな。
(領域抽出に使用したソフト:Picture Cutout Guide Lite ver3.2.8)


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バンビの名前は

bambiasahil.jpg 奈良公園で、今年初めての仔鹿が生まれたと報道されていた。

何とも愛らしい姿で、こんな仔鹿が奈良公園をチョコチョコ歩いていたら、さぞ人気を集めることだろう。


名前は報道されていなかった。

仔鹿といえばバンビが普通名詞のように使われるけれど、これはおそらくディズニー・アニメで有名になった「バンビ」の影響ではないだろうか。

そして「バンビ」はイタリア語で子供を意味する bambino からとられたと聞いた覚えがある。
bambimainichi.jpg

もっとも、ディズニーのバンビは、その後、成長して森の王者になる。いつまでもバンビと呼ぶのは似つかわしくないけれど。


以前、「奈良公園の鹿データベース」にも書いたけれど、奈良公園の鹿には名前は付いていないのだろうか。

仔動物の名前といえば、高崎山の仔ザルにシャーロットと命名して、「王室に不敬」などのクレームが多く寄せられた事件が、記憶に新しい。

さて、奈良公園の仔鹿に「シャーロット」と名付けたら、やはりクレームが来るだろうか。


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都構想と大阪のビジョン

昨日に続いて大阪都構想について。

昨日は、都構想の真の狙いは二重行政の解消ではないだろう、むしろ行政権力の集中によって、大阪のグランドデザインを書くために、富と権力の中心にある大阪市は解体することだろうとした。
それでは、都構想で示されているビジョンを簡単に見てみよう。

まず、税収総額が同じだとしたら、大阪市に入っていた税(具体的には固定資産税)のいくらかが、大阪都の収入になり、そして他の市町村への投資に振り向けられる。
実際、橋下氏は、大阪市の富は大阪市のためだけのものではない、と仰っている。

ただ、良く引き合いに出される東京都と大阪は、実は投資構造が全く違っている。
以前、東京と大阪の公共投資について聞いた話だが、東京は都市インフラに多額の国費が投入されているが、大阪はほとんど地元経済界の投資に頼っている。実際、東京圏の交通網はJRが充実していること、営団地下鉄は半分以上国の出資であること、空港も国の事業であることなど、多くが国策として行われている。
対して、大阪は最近でこそJRが自主努力で頑張っているものの私鉄の力が大きいし、地下鉄はもちろん市営、空港も欲しいのなら地元が応分の負担をしなければ、という調子である。
決して、大阪府・大阪市が並び立つから東京都と比べて都市インフラが見劣りしたわけではない。
大阪へ投資される国費は、大阪から上がる税収(国税)より少ないと言われている。

それはともかくとして、都構想がかかげている大阪のビジョン(らしきもの)も、交通政策が多い。淀川左岸線や大和川線などの道路整備などである。

10daihousha3kanjo.jpg とはいうものの、これらの事業は、都構想で新しく出たわけでも何でもない。事業主体も阪神高速株式会社で、都行政とは直接関係しない。現に、阪神高速道路株式会社には府・市肩を並べて14%を出資している(筆頭株主は国)。別に、大阪市が邪魔をしているからできていないわけではない。現に、着々と進んでもいる。
大阪モノレールの延伸も古くからある課題だが、これは大阪地下鉄の市外延伸同様、フィージビリティの問題であろう。東大阪市が出資するかどうかも大きいと思う。なお大阪市はモノレールへは出資していない。大阪市はそれこそ関係ない。

ところで、橋下氏は大阪国際空港は廃止すると言っていた。モノレールが黒字経営を続けているのは空港の需要が大きいと思うが、空港がなくなったら赤字転落はまちがいない。これに限らず、施策の一貫性が疑われることが(口ではグランド・デザインだと強調するのだけれど)、都構想推進派に対する不安である。

こういうと、大阪市は自分の分だけ、という態度のようにも見えるのだけれど、実際は、関空へも出資した実績がある。お付き合いで税金を使うわけにはいかないだろうから、「空港のインパクト」という当時さかんに言われていた理屈で出資に応じたのに違いない。

osakakoutsukeikaku.jpg つまり、都構想が標榜する広域交通体系のような事業については、今までも特定の行政機構ではなくて、民間事業として実施されてきている。

都構想が実現すればできる、実現しなければできないという論理にも疑問がある。
レトリックで誤魔化されないために、論理学の基本をおさらいしておこう。

「 p ならば q 」という命題があるとき、q が真であるなら、この命題全体が真であることになるが、それによって p が真であるか偽であるかは決定されない。

つまり、都構想推進派が言う「大阪都が実現すれば、○○ができる」という言説において、「○○ができる」自体については、ほとんどの人がそれは良いことだと言うものがあげられているわけだが、問題はそのことによって「大阪都の実現」を論理的帰結とすることはできないということである。
前述のとおり、掲げられた「○○」は、それぞれ従来も現行の、国・府・市の体制のもとで、それぞれ事業主体が工夫されて進められているものであって、大阪都に権力を集中しなくてもできると考えられる。もちろん、権力の集中が事業の進捗を後押ししたりする効果はあるかもしれないが。

事業ごとに適切な事業主体・出資者により、是々非々で進めていくというのは、官民連携とか、民間活力の活用とか、役所のどんぶり勘定の排除とか、お役所仕事の不効率の排除とか、今まで良いことずくめのように、多くの政治家、維新の会も言ってきたはずなんだけど。

もっとも黒字の泉北高速の株を外資に売ろうとしたり、筆頭株主の言うことをきかないから電力株を売ろうとするのはどういう行動基準なのか。また無配なら株を売るというなら、三セクなど成立のしようもないが。


「今のままではできない、大阪都になればできる」という題目だけを繰り返すのでなく、なぜそうなのかを説明する責任があると思う。

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大阪都構想は二重行政のムダをなくすことが目的ではない、と思う

大阪都構想の住民投票までもう1週間。今までも何度か大阪都構想について素朴な疑問を書いてきた。
(「都」というだけでも法改正が必要なはずだと反対派の方には怒られそうだが)
二重行政のムダというけれど、具体的にどんなものがあるのか、そしてそれがムダだとして、大阪都になったらそれをどうするのか、と。

WTCビルとりんくうゲートタワービル
大阪市立図書館と大阪府立図書館
大阪市立大学と大阪府立大学

微妙にというか、本来的に異なる機能・役割を持っているし、それぞれのサービスがカニバリズムを起こしているとは思えない。
大阪都になってもこれらの施策が二重として一方を廃止するなんてことはない(WTC、りんくうGTBは両方とも既に潰れている)し、潰せっこないだろう。せいぜい「統合」(事務統合)でしかない。

furitsuchuoutoshokan.jpg  namihayadome.jpg


にもかかわらず、大阪維新の会は、大阪都で二重行政のムダがなくなると言い続けている。
そこで思った、維新の会の人たちは、そういうことは百も承知に違いない。大阪都ができて、これらのムダがせいぜい「統合」でお茶を濁すことしかできないことも御見通しだろう。つまり都構想は、二重行政のムダをなくすことが目的ではなくて、別のねらいがあるに違いない。
「二重行政のムダ」以上に、「5区分割行政のムダ」が出ることが分かりきっているのにやるのだから、単純なムダの問題ではない。

それは、ずばり言って、大阪市の解体、それによる行政権の集中であろう。
大阪市の力が強いこと自体が問題で、二重行政云々は、耳に心地よいキャッチフレーズとして使っているにすぎず、大阪市が都市集積をバックに独自の行政を行うことを否定することが目的だと思う。
二重行政というより、対立行政と言うほうが正しいと思う)

二重行政ということで言えば、大阪府は二重行政を避けることを施策の基本にしてきたようなところがある。
二重行政を避けるために、あるいは大阪市に投資することが気に入らないから、公共施設はできる限り郊外立地するようにしてきたフシがある。府立大学はもともとそうだけれど、比較的近年に整備されたものでは、図書館(東大阪)、体育館(門真)、いずれも集客という点では効率が悪いのではないだろうか。

二重行政を避けること自体がムダを生むという逆説に陥っているのが、今までの大阪府・市の問題という見方もできるかもしれない。

そうならば都構想の目的はなんだろうか。それは、大阪市に遠慮や配慮、およびその裏返しというものを一切断ち切って、大阪府域のビジョンを作り、それに向けて力を結集していくことだと思う。
大阪市がなくなったら反対者がいなくなってやりやすい、というような独善的な話ではおかしい。

府民・市民をミスリードし、また議論が噛み合うともおもえない「二重行政解消」のキャッチフレーズは措いて、本当にどんな大阪にしたいのか、その明確な将来像とそれへのロードマップの議論をすべきだと思う。
大阪都の是非は、第一義的にそれにかかっているはずだから。

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サルのシャーロット

charlotape.jpg 高崎山で生まれた子ザルを「シャーロット」と命名したことで、抗議が殺到しているという。

シャーロットと名付けても良いですかと英国大使館にお伺いをたてたとか、英王室は名づけは自由と答えたとかいうことも報道されている。
聞かれた方も迷惑だろうけど、答えるとしたら、関係ありません、という以外にはないだろう。
結局、大分市長は記者会見して、名前を変えるつもりはないと言ったそうだ。

悪意をもって名づける、たとえば憎い相手の名前をつけて、毎日そのサルを虐待するというようなことだったら論外だけれど、親しみをもってもらえる名前ということで選んでるはずだから、目くじらを立てるようなことではない、というのが私の感覚。
「皇室の名前をサルにつけられたらどう思いますか」というような抗議もあるらしいが、こういう人はサルは劣るもの・忌み嫌うべきものと思っているのに違いない。しかし、皇室につながるニニギノミコトが天孫降臨された時に、案内をかってでたのは猿田彦である。

もっとも子供は残酷なものだから、シャーロットというサルが有名になったら、逆にプリンセスをサルと同じ名前、と虐めかねないけれど。

charlottekatefox.jpg 昔、「ゾルゲ君事件」というのがあった。日本の小学校に通うドイツ系の子供にゾルゲ君がいて、当時、テレビ番組の悪役の名前が「ゾルゲ」だったためにからかわれた事件である。
この事件のもととなった悪役に「ゾルゲ」と命名した作者は、「ゾルゲ事件(ソ連スパイ事件)」のリヒャルト・ゾルゲの連想でこの音を選んだに違いないと思うのだが、実在の有名人の名前を使うといろいろ問題のもとになりかねない。

歴史上名高い悪人の名前を持ってる人の感覚はどうなんだろう。
「政子」や「富子」(最近は復権しているけれど)とか、「道鏡」(いるかな?)さんとかのお気持ちは?
ところで、シャーロットの話に戻ると、高崎山はいつから名前の募集をしていたのだろう?
時期によっては、シャーロットは、ひょっとしたら、英国のプリンセスではなくて、「マッさん」のエリー役のシャーロット・ケイト・フォックスさんにあやかろうということだったのかもしれない。

これで注目を浴びたから、「シャーロットってどの子?」ということで、高崎山を訪れる人が増えて、日本のサル学にも良い効果を与えてくれたら幸いである。

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平等院の藤

IMG_20150503_104632.jpg 連休最終日が結婚式、その前夜も親族宴会。それらの記事を優先して投稿したけれど、その前、5月3日に、ゴールデン・ウィークでただ一カ所、平等院だけ物見遊山に出かけたので、時間は逆転するがそのときのことを。

結婚式のため遠出の計画はもとより立てていなかったわけだが、お天気も良く、藤が咲いているというので平等院へ行くことにした。

朝9:00過ぎに家を出たが、例によって宇治橋に至る道が渋滞、10:30頃にようやく平等院前の駐車場に到着、そして満車。(行くなら 9:00に着くようにするべきじゃないだろうかと思っていたが、不安が的中。朝起きてから思い立ったのではやはり良くないと反省。)

近く(もない)別の駐車場へ行くように言われたが、近くといっても、JR宇治駅の北側。しかたがないので、言われた通り、そちら方面を目がけて移動。とにかくJR奈良線の北側へ出ないとどこも駐車場は満車状態。JRの北側に出ると、案内された駐車場ではなくて、フィットネス・クラブの駐車場が目に入ったのでそちらへ駐車。平等院まで歩いて10分。(ところが、帰りにここから同乗者を拾いに平等院南門へ行くのに車で50分。)

そして平等院の表参道へ。
人の数もいつもより多いなぁと思っていたら、なんと入場待ちが行列になっている。
写真は北門の前あたりから、並んでいる様子を撮影したもの。見てわかるとおり、列は敷地に入ったところで折り返し、二重になっている。
ちょうど門の前あたりに「最後尾」のプラカードを持った係員がいた。
南門の方は空いているようなので、歩いて5分ぐらいの南門へ回る。

二日後の5日、タクシーに乗ったら運転手が、3日はかなり人出があったという。特に、平等院が修復されてから、訪れる人が随分増えたのだそうだ。

IMG_20150503_104925-crop.jpg

北門から南門へ、平等院を右手に見ながら。散歩コースだと思えば悪くない。
道々、境内の鳳凰堂が垣間見える。写真撮影。


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目的の藤。ちょうど良い具合。


IMG_20150503_111740.jpg

そして、塗りなおされた鳳凰堂。境内のあちこちにツツジが咲いているが、池の睡蓮も2輪ばかり咲いていた。

平等院の修復では、創建時の色を再現するか、時代を経てくすんだ色とするか、侃侃諤諤の議論もあったが、こうしてみると、創建時の色で再現したのが失敗だとは思えない。(くすんだ色で修復したとしても失敗とは言えなかっただろうけど。)

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結婚式

IMG_20150506_091943.jpg 昨日は結婚式。
式場は、京都のフォーチュン・ガーデン京都というところ。

チャペルでキリスト教式。
本来、添い遂げることを神に誓うという意義があると思うのだが(実際、牧師さんのセリフにも、「神とみなさまに誓う」とある)、自分が信じてもない神に誓うのってどうなのか(縁起でもないですが)。
日本ではヤハウェもアクセサリーにすぎないわけだが、アッラーなんかを持ち出したら、大問題になるかもしれない。

などと茶化しているけれど、キリスト教式の場合、花嫁の父は、花嫁をエスコートし、最後に新郎と新婦の手をとって、つなぎあわせ、新婦の腰あたりを押して、新郎の方へ送り出すという役割がある。
花嫁の父は良く涙するというのだが、こういう演出があるから、それも無理のないことである。

fatherofthebride2.jpg 式のあとの宴会は、オープン・キッチン形式のレストラン。
今回は親族のみの披露宴なので、実に小ぢんまりしたもの。
建物が元は島津製作所の本社だったとかいう由緒ある古い建物のため、音出しなどは制限されている。

で、イベントはケーキ・カットだけで、余興がない。
両家親族が懇談するといっても、いったい何を話せばよいのやら。
そういうことで重苦しい雰囲気になったらと心配したのだが、意外に両家親族の間で話が弾んで、和やかで賑やかなものになった。余計な余興のない落ち着いた宴で良かったのではないだろうか。
(前夜に、思いがけずホテルのバーで新郎・新婦の父が一緒になったというのが良かったのかもしれない。)

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前夜

今日は結婚式に出ることになっている。
前にちょっと書いたが、京都市内で式をあげるのだが、両家とも遠方から上洛して来る人が多く、そういう人達は前泊することになる。そういう機会はめったにないということで、前夜に食事会をすることになった。もちろん式の前であるから、両家は別々に、それぞれの親族などでやっている。

私の関係の方は、三条木屋町の「めなみ」という京料理(おばんざい)の老舗。
実は、どこか良い店は、と聞かれたので、木屋町の鶏水炊の老舗「新三浦」が良いのではないか、5月になれば鴨川の川床もはじまって、京都の風情も楽しめると思う、と言ったのだが、鶏一本勝負の店というのが気に入らないのか、私の案は却下されてしまった。

おばんざいなんて、家で食べるのと同様のものに高い金をかけるのか、だいたい味も想像の範囲(でないなら不味いだろう)と思う。「新三浦」の鶏スープは、主婦層はおそらく未経験だろうから、こういう機会でもないと、大袈裟だが、一生口にしないかもしれないのでは、と力説したが、無駄だった。

翌日の式に影響してはいけないとガミガミ言われて、お酒のほうもたらふく、というわけにはゆかなかった。
料理は、まぁ、悪くはないですけどね。

それでは写真をいくつかご覧いただこう。

まずは店の玄関。


ついで内。2階の座敷に通された。
いかにも親しみやすさを強調した一般家庭の座敷風のように思える。
IMG_20150505_180932-crop.jpg

燗酒は「鷹取」。二合徳利で。
20150505212802625.jpg

これが「おばんざい盛り合わせ」。おばんざいというより、普通の付き出しに見える。右の小さな容器に入っているのは「のれそれ」。


「ぐじの酒蒸し」。頭をせせって食べるのだが、よいお出汁で料理としては一番良かった。(刺身類は料理からは除く)



食事が終わって、ホテルのバーでゆっくりすることにした。

飲み物リストを見ると、最後にシガー・リストが付いている。知らなったが、ここはシガー・バーだったわけだ。
ならばシガーを頼まない手はない。
シガーに着火してもらっているところ。


これがそのシガー


IMG_20150505_204514.jpg

かくして至福の時が流れる。

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こどもの日

今日はこどもの日。
「国民の祝日に関する法律」では、このように「こども」とひらがなで表記し、第2条に
「こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。」とある。

「こども」の表記としては「子供」もある。しかしこの表記を否定する人もいる。「供」はお供、添物だから、こどもを一人の人格として認めていないと言う。そして「子ども」と書く。

Screenshot_2015-02-18-15-12-08.pngけれど、私は漢字かなまぜ書きというのはどうも好きになれない。ただ、そもそも「こども」は漢語ではないから、すべてかな書きが落ち着く。
漢字一字で「仔」というのもあるけれど、人偏がついているのに、この文字を使うのは動物の場合のようだ(右)。

漢字かなまぜ書きというと、「障がい」というのもある。害と書くと悪いことみたいだからかなにしたというが、これは昔は「障碍」と書いていたのを「碍」が常用漢字にないから「害」にしたとかである。こういう漢字制限のために本来の言葉を変えてしまうというのはいかがなものか。

「世論」(よろん)も以前は「輿論」と書いて、これは御輿の輿で、世の中の多くの人が担ぐ意見の意味だったのが、やはり漢字制限で輿が使えないので世で代えたという。その後、世論が定着したため、ニュアンスも変わり、(せろん)と読む人も出てきたという。

shirakawaskanji.jpg漢字制限論者は、漢字の数が多くて習得が負担になるからということを主張するのだけれど、漢字は偏と旁というように分解すれば素材はそんなに多くない。漢字の構成を教えずに、ただ数が多いと言うのは、十進数のメカニズムを教えずに、「11」というデザインを丸のみさせて、「9999」より多くの数を使ってはいけないというようなものではないだろうか。
英語でも26字だけを覚えて文章が読み書きできるわけではなかろう。語幹である要素の音・綴りの組み合わせとして理解されるから、効率的な読み書きができるのではないだろうか。

康熙字典には約200の部首があり、中国語の音は約400だから、600ぐらいは覚えないといけないのかもしれない。逆に言うと、600覚えたら200×400=60,000字を覚えるのはそう難しくないとも言えるのでは。
また、大抵の子供はこういう漢字の成り立ちに漠然と気づくと思うが、正しい知識を持つと当然、効率良く覚えられる。


白川静先生の出身地の福井県では、漢字の成り立ちやもともとの意味を解説した漢字解説本『白川静博士の漢字の世界へ』を小学校の授業で使っているそうだ。こうやって漢字を覚えた小学生は、文科省流の漢字制限論(程度問題だけど)に与することはないだろう。

ただし、私は漢字制限論者である。多少多くても(諸橋大漢和の5万字でも)よいから、「すべての漢字」をきちんと定義し、それ以外は一切認めない(字形が違うなら、公的文書においては、近しい文字に置き換えることを法定する)という意味でだが。

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みどりの日

今日は「みどりの日」、自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ日とされている。

ということで、近所の緑、花水木。
midori20150426.jpg

例年、ゴールデン・ウィークをはさむ10日間ぐらいが我が家のツツジの時期。

IMG_20150502_083342-crop.jpg

実は、年寄りには、今日が「みどりの日」で祝日という意識はあまりない。昔は、5月4日というと「憲法記念日」と「こどもの日」に挟まれて、飛び石連休ということも多かった。うちの近所の家も、祝日には日の丸を揚げているのだが、今日は、この記事を書いている時間には、未だ掲揚されていない。このお宅も私より年上だから、同じような感覚なのかもしれない。

「みどりの日」は、2007年の祝日法改正で制定され、これにより三連休が保証された。
この改正前は、4月29日が「みどりの日」だったのが、実はこれもあまり意識がない。私どもの世代には、これは「天皇誕生日」として親しんできたからだ。むしろ、今上陛下の誕生日はいつだったっけ?と不敬をやらかしてしまいかねない。
もちろん今の天皇誕生日は12月23日で、4月29日から移動したわけだけれど、代替わりしたらまた日が移動するのだろう。(皇太子殿下の誕生日は1960年2月23日。ただし、その日が来たとしても12月23日を「平成の日」にするとは思えない。)

さらに今年は5月6日も休日だが、これも2007年の祝日法改正―国民の祝日が日曜日のときはその後の最初の平日を振替休日にする―によるわけだが、振替が3日後になったことは今まであったのだろうか、あったかもしれないがあまり意識したことはなかった。


ところ替わって、英国王の「公式の」誕生日は、国王が何日に生まれたとは関係がないという。
(エリザベスⅡ世の誕生日は1926年4月21日)

Queen's Official Birthday

It has been celebrated in the United Kingdom since 1748. There, the Queen's Official Birthday is now celebrated on the first, second, or third Saturday in June, although it is rarely the third. Edward VII, who reigned from 1901 to 1910, and whose birthday was on 9 November, in autumn, after 1908 moved the ceremony to summer in the hope of good weather.

(Wikipedia)

女王の公式の誕生日は、連合王国では1748年から祝われており、現在は6月の第1または第2土曜日、稀に第3土曜日に祝われる。エドワード7世(在位 1901-1910)の誕生日は秋の11月9日だったが、1908年以後、好天を期待して夏に式典を移した。


天皇が代替わりするたびに祝日が移動するとカレンダー業者も困るだろうから、英国方式にしたらどうだろう。そして、5月1日を公式の天皇誕生日としたら良いのではないか。
2つの祝日に挟まれた平日は国民の休日になるから(今年9月の連休もこれの適用)、5月1日を祝日にしたら、

4/29―(4/30)[5/1](5/2)―5/3―5/4―5/5

と、7連休が確定するのだけれど。

土曜日も休みだと考えると、曜日のめぐりあわせでは10連休にもなる。
(4/27が土曜だと、28の日曜の後、29~5まで祝日・休日が続き、5日が日曜のため6日が振休)

51holiday.jpg


もっとも既に定年を過ぎて、近いうちに毎日が日曜日になるだろう私にはあまり関係ないのだけど。

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憲法記念日

atarashiikempo.png 今日からゴールデン・ウィーク後半の部。
といっても、今年は結婚式などがあって、旅行に出るなどは不可能。ゴールデン・ウィークの結婚式は考えもの。既に予定を立てていた招待客には迷惑な話だろう。まして京都市内で式というのだから、他の都市ならいざ知らず、京都は、お休みで静かという状態にはなりはしない。

それはさておき、今日は憲法記念日である。
この1~2年、憲法は既に我が国の最高法規としての役割は終えつつあるようだ。そう言って悪ければ、我が国の最高法規を解釈運用する責任は内閣総理大臣にある、言い換えれば憲法は内閣総理大臣の行動を規定せず、その正当化の根拠になるらしい。

jieitaino.jpg これからは日本軍(最近は軍と言う。実態が軍だから「自衛隊」は誤魔化しだと反省したらしい)が、世界中の陸、海、空、宇宙、どこにでも行けるらしい(戦前の帝国海軍はインド洋に出たことはないそうだ)。
空母(今でもすぐに転用可能なヘリ空母は保有・建造している)はもちろん、ICBMも保有できるようになるに違いない。

攻撃されると思ったら攻撃を受ける前に攻撃する(先制防禦理論)こともできるようになるらしいから、テロリストの本拠地を計画的に叩くことも可能になる。

国家が危機的状況になったら武力行使もできるそうだから、石油を絶たれたら真珠湾ペルシア湾を攻撃しても良い。

そして、外国から文句が出たら、文句は米国に言ってくれ、ということで良いらしい。(もちろん、このための一連の立法時には未だこの科白は使えない。)

私には、これらが良いことなのか悪いことなのか、実は判断できない。「国益」に合致するのかどうかが真剣に吟味されたうえで、憲法を停止たのかどうか、そこがわからない。
子供がおもちゃの戦車や戦艦、戦闘機を並べて遊ぶのと同じような感覚で軍隊を動かしたいと思っているわけではないことを祈る。

軍事専門家のなかには、政府が出したさまざまな想定は現実味がないとか、対応行動の可能性・効果に疑問とか、そういう意見を言う人もいる。子供の戦争ごっこの域を出ていない思考だという批判である。


先年、日本国憲法第九条にノーベル平和賞を、という運動があった。なかなかおもしろい取り組みだったと思う。
しかし、もっと簡単に取れそうなものがある。
世界記憶遺産である。

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寅さんは尊王攘夷かい

昨日に引き続き、一阪太郎「吉田松陰とその家族」のこと。

この本の最後に、おもしろい話が紹介されている。
「男はつらいよ」の主人公、寅さん(車寅次郎)のモデルは吉田松陰であるという説があるという。
    futennotorasan.jpg
  • 松陰の通称の一つ(もっとも知られた)は「寅次郎」であるが、これは寅さんと同じ
  • 松陰には三人の妹がいるが、寅さんにも妹がいる
  • ときに寅さんは理屈っぽくて説教くさいが、松陰も同じ癖をもつ
  • 寅さんは意外に時事問題に関心を持つが、松陰はもちろんである
  • 寅さんは駄洒落を好むが、松陰もその傾向がある
  • 「男はつらいよ」のラストシーンは寅さんからの手紙が届くパターンが多いが、松陰も旅先から家によく手紙を出している
  • 寅さんは外国人が苦手で、友達から「寅さんは尊皇攘夷かい」とからかわれたりするが、松陰はいうまでもなく尊皇攘夷論者
  • 松陰も寅さんも日本中を歩き回る
  • 寅さんの近所の印刷屋社長「タコ社長」の本名は「桂梅太郎」、桂小五郎と杉梅太郎から作られたのではないか
以上は延広真治「『男はつらいよ』編知気論」の指摘にもつながるとある。さらに、
  • 寅さんの家は団子屋だが、松陰の生誕地は松本村の団子岩である
そして、山田洋次監督は大阪生まれ・満州育ちだが、引き揚げ後は山口県で、宇部中学、山口高校に進んでいて松陰に接する機会が多かっただろう、そしてそのうち人間臭い部分を嗅ぎ取って寅さんのキャラクターにしたとしたら面白い、ここまで表面を変えれば、松陰の狂信的崇拝者にも気づかれまい、と続ける。

fuunjitachishoin2.jpg 面白いので引用が長くなったが、この説を先に聴いていたら、松陰という人のイメージは随分違ったものになるだろう。
正直なところ、松陰という人物は、尊皇攘夷論に凝り固まった融通の利かない人物だというイメージがあったし(だから松陰伝の類は敢えて読もうとしなかったわけ)、好意的に評価しても、「清々しい眼をした狂人」というあたり。(画像右:みなもと太郎「風雲児たち」の松陰)
もっとも本書によれば、「志」を立てたものにとり、「狂」は崇高な境地なのだそうだ。

山縣狂介(有朋)は名乗りに「狂」を使っていることで有名だが、私は猛々しさを主張したものと思っていた。本書によれば、これは松陰の影響だという。高杉晋作は「東行狂生」「西海一狂生」、桂小五郎は「松菊狂生」という号を使ったこともあるそうだ。山縣はむしろ慎重居士であり「狂」を名乗ったのは、長州を吹き荒れた「狂」のエネルギーの凄まじさであるという。


また、尊皇攘夷にこだわるあまり、偏頗・偏狭な思想家という印象も強いが、西洋事情もそれなりに通じていて、民衆をバックにフランスを救ったナポレオンの行動を長州でとも考えたらしい(これは佐久間象山の影響か)。そもそも兵学者であるから、実学の重要性にも早くから気づいている。
ただ、「攘って後開国」と、実現可能性の吟味、そのリスク評価が甘く(久坂をたしなめるときは真っ当なのに)、攘夷を優先させたのはいかがなものか、テロリストの論理(恐怖で民意・政治を動かす手法)としか、やはり、言いようがない。

一方で、偉人という扱いを受けるのは、戦前の忠君愛国教育が大きい。本書にも紹介されているが、いろいろな形で松陰は顕彰されてきたし、学校の教科書にも松陰に関わる話が採用されている

もちろん、多くの罪を犯したこと、テロを企んだことなどは隠され、楠公に比すべき偉人としてである。そして、母・滝もこういう偉い人を産み育て、模範的な良妻賢母として教科書にとりあげられたそうだ。
小学校ぐらいだと素直に信じてしまうから怖い。特に偉人伝は、偉さを捏造、偉くないところは隠す、一つでも善行があれば強調する、失敗は成功の母にする、などなど。

我々の松陰イメージはこういう「教育」が形作ったところも多いのかもしれない。

松陰はたしかにもの凄い勉強量だったようだが、それが仇になり、「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」と思い込んでしまったのだろうか、あるいは幼いころから極端なエリート教育を受けるとこうなるのだろうか。

テロリスト、偉人、寅さんのような人柄、これらが同居していること自体が狂気、というか普通じゃないけど。

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兄を信じた妹たち

shouinandfamily.jpg 以前「大河ドラマの功罪」で、功の方として、関連書籍を読む動機づけになると書いたけれど、今年の大河ドラマ「花燃ゆ」では、関連書として一坂太郎 「吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち」を読んだ。

その感想を書く前に、周知のとおりNHK大河ドラマ「花燃ゆ」が低視聴率にあえいでいる。この水に落ちた犬を打つように、いろいろな悪口が言われている。

女性を主人公にすれば視聴率が稼げる
イケメンをたくさんだせば視聴率が稼げる―龍馬に福山を使え
ヒロインの知名度が低くても成功例はある(篤姫、八重)

要するに、NHKの安易な企画が失敗の原因であると分析されている。

私などは文に感情移入することなどないし、イケメンと言われても俳優の名前がわからないぐらい芸能オンチだから、基本的にストーリーと演技を楽しんでいるわけで、酷評されるほど酷いドラマだとは思っていない。
特に松陰の伊勢谷友介ははまり役と言ってよい。「八重の桜」のときは小栗旬が演じたが、端役にすぎず評価のしようもないが、松陰の狂人じみたところが出ておらず印象に残るものではなかった。

この本で、ケチをつけるところは書名、その副題である。
「兄を信じた妹たち」というのは、あまりにあざとい。「花燃ゆ」に阿ったネーミングまるだしである。
ただし、その副題のあざとさと、内容とは別の話。
松陰の家族、親戚が、松陰にどう関わり、松陰をどう支えたかを丁寧に追跡しているもので、内容については申し分のないものになっていると思う。もちろん、松陰の事蹟を通観していて、松陰伝といっても良いものに仕上がっていると思う。
松陰については幕末ものの本や歴史番組などで紹介される断片的な知識はあっても、まとまって松陰伝という形では読んだことがなかった。本書ではじめて知ったことが多いことは勿論だが、いろんな知識の断片がうまくつながったと思う。

ただし、ドラマのヒロイン文のことはあまり書かれない、というか書くべき内容が少ないのが実態らしい。
「あざとい副題」と言ったが、大河ドラマの文は四女(三女・艶は夭折している)であり、松陰とは13も歳が違う。本書によれば、松陰には2つ違いの妹で杉家長女の千代という人がいて、歳が近いこともあって、松陰は兄・梅太郎、妹・千代 の3人で一緒に遊び、また学んだという。
松陰についての身近な人たちの証言として重要かつ量も多いのは、この千代や、母・滝のものだという。

ドラマでは壇ふみ演じる滝だが、実際の滝も士の奥方として、母として立派であるだけでなく、ダジャレ好きだったという。松陰もユーモアあふれる人物だったらしいが、これは滝の影響かもしれない。

また、次女・寿、四女・文は、父・百合之助、兄・梅太郎が藩の役を与えられて経済的に豊かになる前のことは知らずに育ったという。

そうであれば、松陰を支えた妹というのは、文ではなく千代のほうが重要な気がするのだが、なぜか大河ドラマでは千代は全く出てこない。
これは一体どうしたことだろう?
文をクローズアップするために、邪魔な千代を歴史から消し去ったのであろうか。

また、大河ドラマ中では、次女の寿は、気が強く、小田村伊之助との間もそれがためか、もうひとつしっくりしないように描かれている。しかし、本書によれば、寿は女性としては規格外で、気丈だ(古風な女性観を持つ松陰はずっとそれを気にかけていた)が、二人の間は睦まじく、寿がいなければ小田村はただの書斎人で終わっただろうともされている。

本書によれば、伊之助は、寿が亡くなったとき、着ていた服の襟などについている垢さえも愛おしんで、このままではカビるから洗わなければならないが、それもつらい、と言ったと伝えられている。

寿を意地悪く、夫婦仲を冷たく描くのは、文をひきたてるためだろうか。

こういうのが大河ドラマの罪である。
ドラマ中で描くのが難しいのなら、せめて番組の後に放送されている「紀行」で、より歴史的事実に近い説明をつけてとりあげたらどうだろう。

「草燃える」では、時政に結婚を反対された政子の頼朝への逃避行が描かれるが、原作者の永井路子氏は、これは歴史的事実ではないと思うがドラマティックにするために作為したと解説されていた。

まぁ、大抵の場合、作家の貧弱な想像より、歴史事実のほうが遥かに意外性がある。作家がすべきことは、歴史解釈に基づいて登場人物の内面を推し量り、それを台詞・演技に込めて、生き生きと描くことであろう。

ところで、松陰亡きあと、これからは久坂・高杉を中心にドラマが進むのだろうが、文の出番はどう作るんだろう。

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