新鮮卵・熟成卵~卵の賞味期限

Gatten-tamago-expdate.jpg 昨日に続いて賞味期限の話題。
NHK「ためしてガッテン」で、卵の賞味期限の真実なるものが解説されていたのを思い出した。

卵の賞味期限は採卵から2~3週間とされているのだそうだ。ただ、賞味期限が切れても食べられるようだし、前にも卵は意外に長持ちすると聞いたことがある。ただ、あたると怖いということで、その重大な結果との掛け算で、安全サイドで早く食べてしまおうとしていた。

なのだが、「ガッテン」によると、実際には常温で2ヶ月、冷蔵庫で4ヶ月は十分持つのだという。
そして、それなのに賞味期限を2~3週間としているのは、30,000個に1個ぐらいの割合で、初めから悪い菌が入っている卵があるからだという。

で、思った。
初めから菌が入っている卵だったら、どのぐらいで食べられなくなるのだろう?
もし、それが1ヶ月ということだったら、1ヶ月経っても問題なければ、2ヶ月は問題がないということになるのではないだろうか。まずは1ヶ月置いておいて、様子を見て大丈夫なら、そこからさらに1ヶ月(冷蔵庫なら3ヶ月)はおいしく食べられることになる

そうなら、採卵の1ヶ月後に、非破壊検査(たとえば光や音波透視など)を行ってOKだったら、その1ヶ月後を消費期限として表示することもできるのでは。
新鮮な状態で食べないのがもったいないなら、賞味期限が切れたら(つまり、採卵から2~3週間たったら)回収して、さらに1~2週間おいて、検査して再出荷するというのはどうだろう。

採卵後すぐに出荷販売するのが「新鮮卵」、前述の手順で検査後出荷するのが「熟成卵」と、きちんと表示を分ければ、消費者は迷わないし、資源の無駄にもならないのでは。

番組では、卵の白身は、初めは「ひよこのベッド」(弾力があってひよこを保護する)、時間が経つと「ひよこのミルク」(吸収しやすい状態)という喩えを使っていたが、古い卵のほうがゆでたまごに向くとか、フランスのパティシエは古い卵を使うとか、古い卵の効用がいろいろ紹介されていた。
卵を原料とする食品加工業はそうした卵の特性、それに応じた使用時期を心得ているわけだ。
「熟成卵」が悪ければ、「ひね卵」とか、「ミルキー卵」、「お菓子用」とか用途表示にする方法もありそうだ。


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こんなものが腐る?

SoftSanTear.jpg 歳をとって眼がかすんだり、花粉症が発症して目が痒くなったりするようになってから、目薬を常用している。
しかし、いろいろ使っていると、はじめは悪くないと思った目薬も、何だか合わないような気がして、この頃、ソフトサンティアという、人工涙液と表示されているものを使っている。

商品説明では、「防腐剤を使用していないため、開栓後10日以上すぎたら使用しないこと」とある。一応、医薬品でもあることだし、その指示を守って使っているのだけれど、やっぱり疑問である。

成分は、塩化カリウム0.1%、塩化ナトリウム0.4%、添加物:ホウ酸、pH調節剤とある。pH調節剤というのはちょっと微妙だけれど、それを無視したら、腐るようなものは入っていないんじゃないだろうか。
防腐剤無添加というけれど、そもそも腐敗するものはないのでは。

以前、テレビで何かの情報番組で食品類の消費期限あるいは賞味期限の表示をとりあげていたけれど、表示の意義を解説する一方、おバカな(と番組では言ってないが)人が塩に賞味期限も消費期限も書いてないと文句を言っているという話が紹介されていた。

塩が腐るか!?

腐るというのは腐敗菌によって化学変化が起こることをいうだろうけど、 KCl も NaCl もどちらも水に溶けてイオンになっていて、エネルギーも低く、これを利用して生きる微生物がいるはずはない。そういうものが紛れ込んだとしても、光合成生物でもない限り、中で繁殖できるとは思えない。
もっと拡大して、たとえば空気中の酸素で酸化されるなどの化学変化も含むとしたとしても、 KCl や NaCl が「腐る」とは思えない。空気中の酸素や二酸化炭素が溶け込むとか、溶媒の水が蒸発するとかならわからなくもないけれど、よほどひどい(なめたら塩辛いぐらいになる)ことがなければ、目に悪さをするとは思えない。

繰り返しになるけれど、腐るものがあるから防腐剤を入れるんであって、食塩に防腐剤を入れるなんて話は聞いたこともない。
昔、カール・セーガンがやっていた宇宙に関するテレビ番組の冒頭で、カール・セーガンが水を飲んで「私は今、130億年前の水を飲みました」と言っていた。水素原子、そして酸素原子ができた宇宙のはじまりの話である。

とはいうものの、使用上の注意を守って使っているけれど、もし問題が起こったときに誰も責任をとらないということに対抗しなければならないから。

もっとも問題が起こったらメーカーはきっとこう言うだろう。「おかしいですね、成分には腐るものも、化学作用を起こすものも何にも入っていないので、薬剤との因果関係はありません」と。


結局、薬剤の問題ではなくて、点眼するときなどに、人体からでた有機物などが薬剤に入り込んで、微生物の培地になることがあるかもしれない、それを心配しているのだろう。
以上、素人考えなので、記事に重大な間違いがあれば、コメントをお願いします。

なお、この薬に不満はありません、念のため。


昨日に続いて「賞味期限」に関する話になったが、ネット情報では、製造日から賞味期限までの期間を1.5倍したあたりまでは十分賞味できるという話もある。
それが本当なら、賞味期限っていったい何?

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iPhoneの寿命は3年?

apple_announcement_env.jpg 少し前のことだけど、ニュースサイトを見ていたら、iPhoneの寿命は3年 アップルが公式ページで発表という記事が目にとまった。

出所を確認しようと思って、他の記事にもあたると、"Apple Expects You To Stop Using Your iPhone In Three Years"というタイトルの記事なども見つけることができる。

そうした記事によると、Appleの"Environmental policy's QnA section"にその元の情報があるというので確認した。

How does Apple conduct its Product Greenhouse Gas Life Cycle Assessment? 2.To model customer use, we measure the power consumed by a product while it is running in a simulated scenario. Daily usage patterns are specific to each product and are a mixture of actual and modeled customer use data. Years of use, which are based on first owners, are assumed to be four years for OS X and tvOS devices and three years for iOS and watchOS devices. More information on our product energy use is provided in our Product Environmental Reports.

素直に読む限り、寿命が3年と明確に言っているわけでも、3年経ったら買い替えろと言っているわけでもないように思う。顧客の実際、あるいはモデル的利用年数がiPhoneは3年としているだけに読める。このセクション全体が環境負荷に対するAppleの考え方を説明しているわけで、製品の廃棄等の環境負荷を考える上での「寿命」というに過ぎないように思う。
センセーショナルにとりあげられているようだが、別に3年経ったらサポートが切れるとかいうわけではない。こういう記事で右往左往しないよう、Appleもきちんと説明したらどうかと思う。

それはそれとして、実感として、スマホやタブレットの類は2年ぐらいで買い替えたくなる、というか買い替えないと使えない感じがする。バッテリーの劣化ということも言われるが、何よりアプリがどんどん高度化していて、CPUやメモリー負荷が大きくなっているように思う。
それに、多くのアプリは、古いバージョンや他のアプリを踏襲して作成されているのではないかと思うが、そうすると古いコードがうず高く積み上がって、効率の悪いものになっていやしないか。
アプリのバージョンアップでは、機能・UIは踏襲して、コードは書き直して、溜った膿を出し切ってもらいたいと思う。
コードの書き方で2、3桁のパーフォーマンスは変わるとも言うじゃないか。

私はiOSのようにユーザーに使い方を強制してくるようなOSは気に入らないから、iPhoneは使っていないけれど、Androidでも、というかハードウェアがさまざまなメーカーから出てくるAndroidのほうが、さらに端末の実質的な寿命は短いと思う。

「もうこのあたりで進歩にキャッチアップすることはあきらめて、今まで通りのことができれば十分です」というユーザーにもやさしいものが出来るべきだと思う。
そういう製品をこそ「ガラケー」(ガランティード・ケイタイ=guaranteed mobile phone)と呼んでもらいたい。

ところで、最近、Apple株は下がったり、iPhoneの販売台数が減少したなど、iPhoneはもう盛りを過ぎたという見方をする人もいるらしい。販売台数が減ったのは中国での販売が著しく落ち込んだと分析されていて、株安もそうした材料からではないかと思うが、本記事でとりあげた「iPhoneの寿命は3年」は、そうした傾向に対するAppleの危惧の表れかもしれない。

しかし、MicrosoftがOSやOfficeのソフトウェアから、クラウド・サービスへと軸足を移しているように(Windowsは10で終わりだともいう)、Appleもそちらへ向いていくのだろう。既に、iCloudや、iTunesなど、Appleにおまかせくださいのサービスは以前から方向性としてある。

ただ、クラウドに傾斜すると、端末のローカルアプリはあんまりパワーがなくても良いように思うのだけれど。

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その手は桑名の焼き蛤

一昨日は、昔仲間の宴、その様子は珍之助さまの「蛤大尽」にアップされているので、私としてはそれを補う形で。

IMG_20160526_191123.jpg 蛤といえば、「その手は桑名の焼き蛤」の地口が有名。
私は桑名で焼き蛤を食べたことがない(そもそも桑名に行ったことがない)ので、地口は有名だが、「その手は喰わない」で意味的には完結していて、蛤には特に意味はないわけで、昔は桑名に焼き蛤を出す店があったという程度だろうと軽く考えていた。同じ三重県では、伊勢のサザエのつぼ焼きの方がずっと印象深い。

で、この店のテーブルシートを見ると、"当店のはまぐりは、「三重県桑名」より直送"とある。
あらためて、ネットで「桑名 焼き蛤」で検索すると、桑名商工会議所は、焼き蛤が食べられる店の紹介をしているし、そもそもこのあたりは良質の蛤が育つということらしい。ただ、量的には、熊本や千葉の方が多いらしい。

やっぱり蛤は桑名の名産ということで良いのかな。
真相はわからないのだけれど、蛤⇒桑名⇒蛤⇒…という、フィードフォワード効果により、桑名と蛤が両方とも生き残ってきたような感じがする。


さて、この店、料理のことだけれど、珍之助さまは大いに満足されているようだし、私も満足はしたのだけれど、2つほど惜しいことがあった。
ひとつは、「蛤のアヒージョ」を食べなかったこと。
焼き蛤、蛤鍋、蛤酒蒸しと、素材の旨味を堪能できる料理はもちろん良いのだけれど、どうしても味の傾向が同じものになる。ここは是非、アヒージョのような洋風も試してみたかった。それにアヒージョにはバケット(?)が付いていて、これに蛤を載せて食べるらしく、なんとなくその食感が素敵ではないかと想像している。
アヒージョでなくても、焼き蛤にガーリック味もあったので、そちらを試しても良かったかもしれない。

もうひとつは、刺身がないこと。
店としては、貝毒がこわいので生は出さないという。しかし、蛤専門店というなら、徹底した管理のもと、是非刺身に挑戦してもらいたい。

そうそう、蛤ラーメンだけれど、あさりうどん のように、あさりで麺が隠れるというインパクトはないけれど、なかなか上品なラーメンだった。

珍之助さまブログの写真は麺がかなり延びた状態で写っている。私は延びる時間的余裕を与えず、つまり写真を撮る前に食べてしまった。


IMG_20160526_194627.jpg   IMG_20160526_202919.jpg


珍之助さまのブログに充実した写真がアップされているので、かぶらないものを選んでアップ。
右写真のあまり見慣れないキノコは、同じ三重県鈴鹿の特産のハナビラタケだろうか。
この日はサミット開会日だったが、サミットのディナーは伊勢海老、鮑、松阪牛で、蛤はなかったようだ。


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「人類の敵」条約

hiroshima_eiwakinen.jpg 今回のサミットでは、首脳会議に劣らず注目されているのが、サミット後のオバマ大統領の広島訪問である。

「核のない世界」を主張するぐらいだから、プラハの前後に行っておけば良かったのだろうけど、これもレイムダックの強みというか開き直り?


南米では、既に核廃絶条約が結ばれているそうだ。
これを世界に広げることが核のない世界ということだろうと思うが、多くの核保有国は

「うちだけが核を廃棄して、○○が持っていたら安全保障はなりたたない」

ということで、核廃絶には消極的だそうだ。
核保有国でない日本も消極的である、というか核の傘がなくなっては困るからか、核廃絶にはむしろ反対してきたらしい。(「日本外交は奇々怪々」

核廃絶が無理だとしても、核使用廃絶なら合意できるのではないだろうか。
どこの国も核による先制攻撃は否定している。
ならば、もし核兵器を使用する国があれば、その国に対して全世界が制裁を加える、いわば

「人類の敵」条約

というようなものを締結したらどうだろう、前提がくずれなければ反対理由はないように思うが。
核による先制攻撃を行ったら同盟国といえどもそれを支持せず、制裁側に回るというわけだ。

やっぱり日本は反対しそうだな。


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伊勢志摩サミット開幕

今日から"G7 伊勢志摩サミット"が開幕ということだ。

「人口100人の島に、20,000人の警察官」という重々しい、観光客を締め出してあまりある警備陣である。

学生のとき、英国のエリザベスⅡ女王陛下が来日され、京都から伊勢まで近鉄を利用されたと記憶しているが、このときも、近鉄京都線全線にわたって、駅・沿線に警察官がずらっと並んでいたことを思い出す。


もちろん首脳・重要人物だけではなくて、マスコミその他、大量の人たちが来るだろうから、地元としては大歓迎だろうし、サミットが終わってからも、パーティに使われた会場や料理、誰それが居たとか喜んだといった「伝説」が、新たな地元の観光資源となるに違いない。

観光の成否は、ストーリーが作れるかどうかだと言う話もある。


この子、碧志摩(あおしま)メグもサミットを歓迎している。

aoshimameg_official.jpg


彼女については珍之助さまブログも参照のこと
公認取り消しとなっても、志摩市観光協会とともに観光PR活動に頑張る姿がいじらくもあり、たくましくもある。


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ChromeからFirefoxへ

chrome_icon.png 家のPCのデフォルト・ブラウザは、今まではChromeにしていたのだけれど、最近Firefoxに変更した。

変更した理由は、Chromeが頻繁に「応答なし」になり、ブラウザを再起動することが多くなったから。
例によって、ネットで情報を集めると、同様の現象で困ったという例はいろいろあって、対処法としては、再インストールや、クッキーなどのローカルストレージの消去などがあげられている。
もちろんそのどちらもやってみたが、やった直後はまだ良いとして、すぐに同様の現象が起こる。

firefox_icon.png 職場のPCのインターネット・ブラウザはFirefoxである。はじめ、UIの微妙な違いがイヤで、勝手にChromeに変えようかと思ったこともあるのだけれど、良識ある組織人としてIT部門に文句をいう事もなく、Firefoxを我慢して使ってきたので、FirefoxのUIにもかなり慣れてきた。

また、ネット・サービスによってはChromeで動作しないものもある。たとえば"Money Look"はChromeには対応していない(Firefoxも32bit版のみで64bit版では使えない)。

なので、Firefoxは自宅のPCにもインストールはしてあって、"Money Look"専用というような使い方をしていた。


PCはFirefoxをデフォルトにするとして、スマホやタブレットはどうしようかと悩んでいる。
こちらではChromeに動作不安定とか遅いというようなことは全然ない(さすがにAndroidもChromeも作っているGoogle)。
端末にあんまりいろんなブラウザを入れるの好きじゃないので、こういう事態になって初めてFirefoxをスマホにもインストールして試しているが、動作自体に不満はない。

ただ、スマホなどもFirefoxを使ったとして、syncを使うかどうかは微妙。
ブックマークや履歴、パスワードを共有するっていうのは、やっぱりMozillaにデータを預けているようで気色悪い(Googleにはメールやらなんやら、いっぱい預けてるわけだけど)。

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カロリーを気にしているんだか、いないんだか

IMG_20160523_120238.jpg スーパーで写真のようなカップ麺が売られていた。

「低糖質麺 カロリー50%オフ」だそうである。
私はカロリーを気にするような体型ではないから、単に安売りのようだったので買ってみただけで、カロリーオフについては購入後に気がついただけである。

「こってりなのに297kcal」とある。
こってりっていうのは普通はカロリーが高いことが含意されていると思うので、このコピーは不思議。こってりさを売り文句にして、同時にカロリーオフなんて。

そういえば、以前、大阪南港のATCに行ったとき、低カロリーを謳い文句にしているレストランがあった。
写真はネットで拾ったものだけれど、前に私がこの店を通りがかったとき、

カロリー半分、倍食べられます

というような貼り紙がしてあって、思わず笑ってしまったことがある。

ネットで写真を物色しても、そういう貼り紙の写真は見当たらなかった。真面目になっちゃった?


lowcalory-etsu.jpg


このカップ麺も似たノリかしら。

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ヒルデガルト・フォン・ビンゲン

Hildegard+von+Bingen+hildegardvonbingen.jpg 昨日のカッシアに引き続き、古い女性作曲家の話。
これもグッドール「音楽の進化史」で知った人である。

カッシアとは異なり、Wikipedia日本語版にも項目が立てられている。
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンまたはビンゲンのヒルデガルト

(独: Hildegard von Bingen, ユリウス暦1098年 - ユリウス暦1179年9月17日)は、中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であり神秘家、作曲家。


概説

神秘家であり、40歳頃に「生ける光の影」(umbra viventis lucis)の幻視体験(visio)をし、女預言者とみなされた。50歳頃、ビンゲンにて自分の女子修道院を作る。自己体験を書と絵に残した。
医学・薬草学に強く、ドイツ薬草学の祖とされる。彼女の薬草学の書は、20世紀の第二次世界大戦時にオーストリアの軍医ヘルツカ(Gottfried Hertzka)により再発見された。才能に恵まれ、神学者、説教者である他、宗教劇の作家、伝記作家、言語学者、詩人であり、また古代ローマ時代以降最初(ギリシア時代に数名が知られる)の女性作曲家とされ、近年グレゴリオ聖歌と並んで頻繁に演奏されCD化されている。神秘主義的な目的のために使われたリングア・イグノタという言語も考案した。中世ヨーロッパ最大の賢女とも言われる。
・・・

HildegardVisionCD.jpg
カッシアからは約300年あとの人である。
この人のCDもグッドール本を読んですぐに通販で注文した。
こちらはAmazon、すぐ配達された。

実は、最初に買ったCDは、"Vision"というタイトルが付いている。
単純に、良く調べもせず、安いからこれでいいやと思ったのだけれど、このCDはヒルデガルト・フォン・ビンゲンの残した旋律をもとに、アレンジされたもの。リチャード・サウザーという人によるシンセサイザー伴奏で、やけに近代的な感じ。
これはこれでおもしろくて、中世の旋律も十分、現代に通用することが実感される。

しかし、やはり当時の音楽を再現しようしているものも聴いてみたいから、もう1つCD(こちらは8枚セット)を買うことにした。

Hildegard8CD.jpg カッシアからの300年、格別、進化したという感じはしない。
基本は単旋律で、未だ5度音程すら明確ではないみたいに思える。
やはり和声進行というものではなくて、重なる音はドローンと平行音程、オブリガートの類。

「ドローン」(持続低音)は"drone"、ハチなどのブンブンいう音の意。バグパイプの音を思い出せば雰囲気はわかる。
今はやりの無人機の「ドローン」も同じく"drone"で、こちらは雄のミツバチの意だという。辞書によっては別見出し語になっているけど、元は同じだろう。


グッドールの本によると、そもそもオクターヴの発見ということすらすごいこととされている。発見のストーリーとしては、大人の男声に混じって、歌唱隊を継続していくために子供の男声を加えたことからだという。
オクターヴ低い子供の声が混じっても、同じ音として聴こえるという現象の発見である。

ヒルデガルトは、作曲家というより、神秘家、哲学者という方が有名なようだ。
はじめのCDの"Vision"というのも、彼女の神秘的な幻視体験のことを指している。

昨日、"Kassia: Byzantine hymns of the first female composer of the Occident"となっていて、ビザンチンがオチデントか?と書いたけれど、ヒルデガルトは、これはまちがいなくオチデントでしょうな。


それにしても、ヒルデガルトをイメージ検索すると、美しい女性の肖像がヒットする(冒頭写真)。

"Vision"のジャケットもなかなかの美人だが、これは本人を描いたのだろうか?

カッシアは、美貌と知性に秀でた女性ということだったが、ヒルデガルトもそのようだ。

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カッシア~グッドール「音楽の進化史」から

グッドール「音楽の進化史」をとりあげてから、19音音階で遊んだりして、ずいぶん日が経ったけれど、今日はこの本で知ったカッシア=名前が知られる最古の女性作曲家のこと。

Wikipedia日本語版には項目が立てられていないが、英語版(EN)には項目があるので、一部を訳出してみた。
カッシア(805/810~865以前)

ビザンチンの女子修道院長、詩人、作曲家、および讃美歌作家。
最初の中世の作曲家の一人で、そのスコアは現存し、現代の学者・音楽家にも解釈可能である。
約50の讃美歌作品が現存し、うち23曲は東方教会の典礼書に収められている。
正確な数は、多くの賛美歌が異なる写本で異なる作者、しばしば匿名とされているように、評価困難。
また、非典礼詩の一部789も現存。多くは"gnomic verse(格言詩)"と呼ばれる警句や金言、たとえば「金持ちがあたかも貧民のようにうめくのを憎む」がある。
カッシアは、中世にその実名が記録されている2人のビザンチン女性の一人として知られている。もう一人はAnna Comnena。


Wikipedia ENには、さらに人生や作品など、かなりの分量の解説があるが、彼女はコンスタンティノープルの富裕な家に生まれ、類まれな美貌と知性を持った女性に成長し、まだ独身だったテオフィロス(東ローマ帝国第2代皇帝)にも見初められたが、彼女のあまりの才気に結婚をあきらめてテオドラと結婚したというような話も載っている。

Kassia_Byzantine.jpg Kassia(VocaMe).png それで、グッドール本でカッシアのことを知って、すぐCDを注文したのだけれど、結局、在庫なしで、入手できなかった。
しかし、YouTubeには、そのCDがそのまま(多分)アップロードされている(Kassia Byzantine hymns of the first female composer of the Occident)
ようなので、これを聴いてみた。

この演奏が当時を再現したものかどうかはわからないけれど、それを聴いた限りでは……。

グッドール本にあるように、未だ現代の我々が聞き慣れた合唱曲のような和声的なものではなくて、単旋律(ソプラノ)にドローンが下の方で鳴っているものが多い。

ドローンは、曲によっては、最初から最後までほぼ同じ音(複数音の場合もある)をひたすら伸ばしているものもあれば、平行音程で上下するものもある。
その他、撥弦楽器がポロロンといった感じで寄り添うものもあるが、なんだかソプラノとは別にというか、オブリガートに入っているような感じに聴こえる。擦弦楽器はドローン的に、ギーとまさに擦れる音で鳴っている、そういう曲もある。

ちょっと耳で聴いただけなので、これ以上細かいことは書けないけれど、旋律自体も後世の和声を感じさせるものではなくて、語りに近いものを感じる。とはいうものの、メロディとしては特別不自然ということでもなくて、案外、これを現代の映画音楽とかに採用しても、効果を上げることができる、そういうもののように思う。

そう思っていたら、先日の「題名のない音楽会」で、アニメの音楽には、安定感のありすぎる和声を嫌って、ドリア旋法を使っているという話があった。そういうものかもしれない。


それにしても、バロック以前はみんなそうみたいだけど、前述のように和声が確立する以前は旋律自体の進行も和声的ではないようで、絶対音感がない私などは、音程も19音音階で構成されていると言われたとしても、はぁそうですか、と思ってしまうだろう。

ところで、CDのタイトルに"of the Occident"とあるのだけれど、ビザンチンはオチデントなんだろうか?
オリエントのような気がするのだけれど(というか、ローマを中心に西か東ではないんだろうか)。


【おまけ】

CDが在庫なしで入手できなかったと書いたけれど、こういうCDは店頭にはまず出ていない(発売直後ならまだしも)。
当然、通販を使うことになるが、AmazonもH社も、どちらも在庫なしである。もう一つ大きなCDショップのT社のページでは在庫があるような表示になっていたから、今回初めてT社を使ったのだが、取り寄せ中が数週間続いたまま梨のつぶてで、結局、「当社規定によりキャンセルした」のメールが随分経ってから来た。
(H社の場合は、取り寄せに時間がかかる場合は、注文主にキャンセルするかどうか確認してくる)
こういう状態なのに、Yahooのページを開くたびに、件のCDがおすすめ表示されるのはいかがなものか。


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博愛なき経済学者

前の「新自由主義の帰結」の稿で、

法には慈悲がなくてはならぬ。
ならば、経済学には博愛がなくてはならないだろう。

と書いた。

economist-with-mask.png 博愛精神のなさそうな経済学者というのは、どんな人か、先日、見るともなく見ていたバラエティ番組での経済学者の発言に、思わず聴き入った。

番組の中心テーマは、「下流老人」とか「格差」の問題だったけれど、件の経済学者は、日本の格差は小さい、縮小しているという。そのこと自体については、素人が口を挿むようなことではないかもしれないが、その学者は「失業率が下がっている」ことを論拠にしていた。
これには耳を疑った。

失業率という数字自体は評価が難しい要素を持っていて、これは仕事を探していたのに職に就けなかったという人の割合だというから、職探しをあきらめた人は分母に入ってこない。高齢だとか病気だとかでハナから職探しをしなかったという人は除かれると思う。昔から日本の雇用統計は失業率が低く出るという話も聞いたことがある。

ただ、ここで思うのは、失業率の評価のことではなくて、今、社会的に問題となっている格差とは、働いても得られる収入が少ない(サラリーマン年収300万円時代)とか、非正規雇用で給料が低く抑えられているというようなことではないのだろうか。
ならば、失業率が低いから格差が小さいとは言えないだろう。

不本意就労も含めた失業率という考え方もある。総務省調査では、非正規労働者2割(年代によっては4割)は不本意就労という。


habuyoshihar-pepper.jpg 経済学の難しい理論はわからないけれど、経済学者が、目の前の貧困の現実を認めない態度や、貧困を放置して良いという論理を展開するなら、博愛精神に欠けると言えるのでは。そういう経済学は信用してはいけないと、私は思う。
前に書いたことの繰り返しだけれど、理論の正当性を証明できないのなら、理論の結果に対して責任を負い、それによって評価するしかない。

というか経済学者によって真反対の経済分析、経済政策が唱えられること自体で、既に理論としての信憑性はガタガタだけど。
デフレについても、お金の値打ちが上がっているからお金を持っておこうと考えるのか、物が安くなったから値上がりする前に買っておこうと考えるのかだって、実はわからないんじゃないか。
均衡点の存在証明ができたとしても、それを具体的に求めることはできないという問題がつきまとう。
(実は均衡点は常に実現されているがそれは激しく揺れ動いている、つまり均衡とは何かの言い換えでしかないということかもしれない。)


2016-05-18_082348s.png 経済理論は、クロをシロと言いくるめるためではなく、クロだったらそれをどうやってシロに変えることができるのか、そのために使えてはじめて人類の知的財産になるだろう。
おかしいと思う感性、それが博愛精神というもので、すべての経済学者が持っているべきものだと思う。

奇しくも同じ日の夜、羽生義治と人工知能の対決を取り上げた番組(NHKスペシャル「天使か悪魔か 羽生善治人工知能を探る」)があった。
ソフトバンクのロボット"ペッパー"をベースにした「感情を持つ」という試作機が羽生名人と将棋を指すのだが、ペッパーは負け続ける。
2016-05-18_082000s.png おもしろかったのは、ペッパーの「感情」というのが表示されるのだけれど、ペッパーは初めは負けて悔しがるのだけれど、負け続けているうちに、負けても喜びの感情が大きくなったということ。
説明では、ペッパーは自分が負けると、周囲の観戦者が喜ぶ反応を学習して、自分が負けることが良いことなんだと判断したのではないかとのことである。

経済学者よりペッパーの方が、ずっと人間的である。
やっぱり人工知能で代替できない職業は、経済学者、エコノミストのようだ。

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防犯パトロール

IMG_20160518_200615.jpg 前に書いたように、防犯推進員を引き受けさせられたが、一昨日、その今年度最初のお仕事、防犯パトロールに参加した。

昨日書いたように、お昼は葬式があって、その余韻もあるし、酒も飲んでいたから、正直、めんどうなことだと思った。

20:00に、交番に集合して地元町内をぐるっと廻る。
御揃い(?)のコスチューム(帽子、ベスト、腕章)。

2班に分かれて、やや速足で45分のコース。
自分の住んでいる町だけれど、一度も通ったことのない路がたくさんある。
(というか、家と職場の往復ばかりで、町内にこれといって用事もないから、うろうろしたことはなかった)

一緒に回った人には、市会議員もいて、街の情報をいろいろ教えてくれるので、あらためて勉強になる。
開発が進み、隣町にコストコをはじめ、大きなショッピング・モールができたり、ここで商売して客が来るのかと思っていたスターバックスも、この時間には入場待ちの車の列ができていたり、交通事情は年々悪くなっているように思う。

とはいっても、パトロールはそうした場所ではなくて、住宅街の静かな街路。
新興住宅地で、落ち着いた街並みで、街路も広く、ゴミも落ちていないし、若者がたむろしているということもない。

夜の散歩という風情である。
昼は暑かったが、この季節の夜風は気持ち良い。

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幻の「獺祭 磨き二割三分」

昨日はお世話になった方の告別式。

dassai-23.jpg 故人は生前、お酒が好きで、かつ強かった。私も何度も飲みに連れて行ってもらった。
なので、告別式には「獺祭 磨き二割三分」の一合瓶を持って行って、御霊前に供えさせてもらった。

私も親族に連なる一人なので、骨上げまで見届ける。したがって式の後の食事も摂ることになる。
そう、供えた「獺祭 二割三分」を、酒好きの親族と少しずつだけれど、分けて飲んで、故人を偲ぼうというつもりである。

ところがである。
棺に花を入れ終わった頃、喪主が紙コップを持ってきて「これも入れてあげましょう、これが何よりでしょうから」と言う。
「獺祭 二割三分」である。
私がお供えさせてもらったものだから、喪主が私に言ってきたわけ。もちろん、喜んで棺に入れ、故人の唇をそれで湿してあげた。

で、見回したらと、紙コップが5つもある。
何のことはない、一瓶全部を注いで、全部、棺に入れることに。
さぞや満足して逝かれたに違いない。

ということで、「獺祭 二割三分」は幻となってしまった。

祭壇に供えたところを写真に撮ろうと思っていたが、そういうわけで撮りそびれ、上の写真はネットで拾ったもの。
どうやら、斎場の職員が気をきかせて、供え物はみんな棺に入れるように段取りをしたらしい。瓶のまま入れるわけにはいかないので、紙コップに注いだということらしい。


P_20160518_154540.jpg
斎場の近くで、駅のすぐ近くの一等地に墓地がある(故人が入るものではない、念のため)。


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また一人、世話になった人を送った

IMG_20160517_180841.jpg 昨日は、親戚筋でもあるけれど、世話になった方のお通夜。
一人、また一人と抜けていく。

最寄り駅にあるモスバーガーで軽く腹ごしらえ。
モスバーガーというのはもう10年以上も行ってない。てりやきバーガー、オニオンとポテトのフライ、コーラ、しめて800円(税込み)。
マクドよりおいしいという人が多いモスだけれど、私にはてりやきは甘くてあわなかった。オニオンとポテトのフライはオニオンは2つだけで、あとは全部ポテト、これならオニオンだけにすれば良かった。


IMG_20160517_183447.jpg 喪主(長男)の話では、亡くなった一昨日、意識も朦朧としてきたので病院へ入れようと段取りをとりつつあったところ、眠るように亡くなったそうだ。
前にがんにもなったが克服してきたけれど、最後はやはり薬もなかなか合わなかったようだけれど、看病・介護で家族を煩わせることもなく、病院へ行くと迷惑がかかると自ら判断して潔く逝かれたのではないかとも。

大往生と言って良い。
お顔はとてもやすらかだった。


IMG_20160517_183617.jpg 普通に訃報を回したりすると、会葬客が押し寄せそうなので、友人装・家族葬として、近親者だけで小規模にすることにしていたそうで、そういう訃報の回し方をしたとのことだが、それでも結構な会葬客が見えていた。

今日は告別式に行く予定。


式が終わってから、少しの間、お寿司をいただきながら、閑談。

モスバーガーに寄るんじゃなかった。

一人、また一人と抜けていく。集まった親戚の話もそういう話題に。私自身はまだもう少しあると思うけど。

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スミレ

P_20160515_105845.jpg 前に「ヤマボウシが咲いた、足元にスミレ」と書いた。

そのときは、数輪がつつましく咲いていたのだけれど、季節が進むにつれて、花の数が増えてきた。
右の写真は、スミレがどのぐらい拡がっているのかを示す証拠写真。

将来は狭い庭をスミレが被ってしまうかもしれない。

P_20160515_105907.jpg


最後に、クローズアップ。

  P_20160515_105907-crop.jpg


2016-05-16_092318.jpg 「すみれ」(Das Veilchen, K.476)は、モーツァルトの歌曲の中で人気の高い曲。そしてモーツァルトの歌曲中、ただ一つのゲーテの詩(最後にモーツァルトの追加あり)による作品。

You Tube検索


Ein Veilchen auf der Wiese stand, A violet in the meadow stood,
gebückt in sich und unbekannt; with humble brow, demure and good,
es war ein herzigs Veilchen. it was the sweetest violet.
Da kam ein' junge Schäferin There came along a shepherdess
mit leichtem Schritt und munterm Sinn with youthful step and happiness,
daher, daher, who sang, who sang
die Wiese her und sang. along the way this song.
Ach! denkt das Veilchen, wär' ich nur Oh! thought the violet, how I pine
die schönste Blume der Natur, for nature's beauty to be mine,
ach, nur ein kleines Weilchen, if only for a moment.
bis mich das Liebchen abgepflückt for then my love might notice me
und an dem Busen matt gedrückt, and on her bosom fasten me,
ach, nur, ach nur I wish, I wish
ein Viertelstündchen lang! if but a moment long.
Ach, aber ach! Das Mädchen kam But, cruel fate! The maiden came,
und nicht in acht das Veilchen nahm, without a glance or care for him,
ertrat das arme Veilchen. she trampled down the violet.
Es sank und starb, und freut' sich noch: He sank and died, but happily:
und sterb' ich denn, so sterb' ich doch and so I die then let me die
durch sie, durch sie, for her, for her,
zu ihren Füßen doch! beneath her darling feet.
Mozart added the following line to the end of his setting:
Das arme Veilchen! es war ein herzigs Veilchen. Poor little violet! It was the sweetest violet.
(from Wikipedia EN)
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「大河ドラマと日本人」(その2)

前稿は「通しての感想で、一作毎の評価については、ちょっと微妙なところもある」とした。
今回はその「微妙」なところ、つまり、私の作品評とは合わないところをピックアップして。

このお二人は揃って「獅子の時代」を(というか菅原文太を)高く評価しているのだけれど、私には、歴史を再解釈する醍醐味は「獅子の時代」では持てなかった。それに架空の主人公だとその人物の伝記があるわけでもないから、これを機に勉強するわけにもいかないし。

「獅子の時代」は視聴率はこの時代としては高くない。翌年の「おんな太閤記」のほうがずっと視聴率が高いのだけれど、著者お二人は、こちらは「サラリーマンの妻のホームドラマ」と手厳しい(と思う。それには同意するけれど)。

もっとも、そうした歴史性や教養主義的な評価をするのは、一昔前なら正統的な大河評かもしれないが、今のものにはなじまないともいう。

taigadrama_viewrate.gif

大河ドラマ視聴率(出典:http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3967.html



この本は二人の著者の対談が中心になっている。
対談という形式は、主と聞き手という組合せだと、主の知見・知識が絶妙に引き出されてわかりやすくなることや、読者の聴きたいことを代わりに聴いてくれるという効果があると思う。
しかし、対談にはこの他に、対立する二人が意見を戦わせるもの、二人がフィードフォワードし合うものがあって、本書はこの後者にあたる。フィードフォワード、言い換えれば、内輪で盛り上がっているようなもの。

これがいつも悪いわけではないのだけれど、第三者たる読者が、その評価はちょっと違うぞと思ってしまうと、一緒に盛り上がれなくて、斜に構えることになる。

この本が出たのは昨年で「花燃ゆ」がさんざんな評価を受けていたとき。本書の著者の一人の一坂氏の 「吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち」は、私も前にこのブログでとりあげていて、同書は「花燃ゆ」放送前だから、ドラマへの批評はなかったが、本書ではやはり否定的な評価でお二人が一致している。
私もドラマ評は否定的だけれど、お二人が違うだろうという松陰(伊勢谷友介)については、私は良い配役だったと思う。松陰についての著書もある一坂氏だから、私の感じ方がおかしいのかもしれないが。

「信長」の緒形直人もこの二人は不評だけれど、私は、はじめは大丈夫かと思ったのは事実だけれど、見ているうちに信長の静かな狂気(それが信長の真実かどうかは別として)が表現されていて、好演だと思う。

また、本書ではとりあげられなかった作品もたくさんある。
視聴率は悪かったけれど、私はおもしろく見たものもいろいろある。たとえば、数年前の「平清盛」もそうした作品の一つ(前の「新・平家物語」もよかった)。

こうした本が出るように、やっぱり大河ドラマはネタの宝庫である。

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「大河ドラマと日本人」(その1)

taigadrama_and_nihonjin.jpg 星亮一、一坂太郎「大河ドラマと日本人」について。
タイトルを見て、「赤穂浪士」以来の大河ドラマファンとしては読まない手はないと思って、図書館で借り出した。

著者はメディア関係者でもあったから、私の知らない大河ドラマの裏話みたいなものや、ドラマのテーマと当時の社会状況などの鋭い指摘があって、どちらかというと漫然とドラマを見てきた私には、そうだったのかと思わせることも多い。

そして、この本を通しておもしろいと思ったのは、NHK(というか制作者)の大河ドラマに対する姿勢についての評価である。
記念すべき最初の作品「花の生涯」(はじめはシリーズ化する予定はなくて、視聴率が良かったから結果としてシリーズになったという。「大河ドラマ」という言い方もこの頃はない)だけれど、維新以来、ずっと悪役だった井伊直弼を主人公にした。NHKとしては、戦後になってもはや薩長に遠慮しなくても良いだろうという判断があったのではという。はじめは視聴者の常識を覆してやろうという挑戦だという。原作(舟橋聖一)がベストセラーだったということが後押ししたのだろうとも。

小学校のとき、足利尊氏は天皇に逆らった悪者とされているから、テレビや映画の主人公にはならないという話を聴いていたが、ちゃんと「太平記」もできた(昭和が終わったからできたとも)。


翌年はお話としては定番中の定番「忠臣蔵」で、今度は着実な成功を狙ったのだとか。ただし、1年かけて描くという大河ドラマならではの描き方に挑戦したわけだ。

その翌年の「太閤記」は緒形拳の抜擢は冒険である一方、なじみ深い太閤記をとりあげることでストーリー的には安定指向とも見える。しかし太閤記は、それまで劇や映画にすることはできなかった素材で、これも大河だからこそできたという意味では一つの挑戦と言えるのかもしれない。

そしてこの頃は、大河に限らずだが、テレビと映画の戦いという問題が重なる。

大河スタート時は「映画ではやれないものをやれ」という指示があったという。

一流の役者のテレビ出演への気概などのエピソードもとりあげられている。

つまり大河ドラマでは、ストーリー(主人公)やドラマ作り、役者起用など、いろんな面での挑戦と安定の揺れ、視聴者への訴えか阿世か。そういうものがNHKでは毎年繰り返されてきたわけだ。

それが、2000年代に入ってくると、挑戦的な姿勢はだんだん薄れてくる。ベースとなる素材に枯渇してきたとか、役者で視聴率をかせごうとか、もう一つ元気がない。
一方で、地域振興とやらで、NHK大河ドラマの地方誘致合戦が繰り広げられる(舞台となった地域では200億円以上の経済効果があるとも言われる)。そのはしりが「独眼竜政宗」であり、近年の成功例としては「八重の桜」だとのこと。

「八重の桜」では、綾瀬はるかが、役者人生の転機はこの作品だと公言し、その後も東北の復興活動を継続しているなど、役者に目を開かせ、育てたという面もあるのだそうだ。

こうなると、時の政権に阿っているのではないかと言われる(たとえば「花燃ゆ」。制作決定が異様に遅かったことなどから)。

通しての感想はこうしたところだけれど、一作毎の評価については、ちょっと微妙なところもある。
それは次稿で。

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旧辻元家住宅

P024118492_480.jpg 昨夜は、今年度の歓送迎会第4弾。

部の管理職の歓送迎会なのだが、私は所属室全体が部を換った関係で転出扱いで、本来7,000円の負担をすべきところ、3,000円の負担で良いという。なんだか申し訳ないと思った、ということで罪の意識を軽く相殺。

場所は、はじめてのというか、全然知らなかった店、「がんこ平野郷屋敷」。
「がんこ」といえば、テレビCMで何度も眼にするあのキャラクターが思い出されるわけだが、この店はタイトルのとおり「旧辻本家住宅」を「がんこ」が店として使っている。
main-hirano.jpg 旧辻元家住宅(きゅうつじもとけじゅうたく) は平野郷鞍作(現・大阪市平野区加美鞍作)の豪農辻元家の本宅として江戸時代初期に建設された近世和風建築である。通称は平野郷屋敷。約1100坪の敷地に、主屋をはじめ長屋門、蔵5棟、茶室が建っており、床面積合計は約804坪に及ぶ。敷地の多くを占める日本庭園は、大阪万博の日本庭園を手がけた木戸雅光による作庭である。
1990年からレストラン「がんこ平野郷屋敷」の施設となり、また1993年からは「平野町ぐるみ博物館」を構成する施設となって、屋敷内に「くらしの博物館」が設けられた。

(Wikipedia)


宴会の案内をもらったとき、「がんこ」のイメージとはえらく違うなぁと思ったのだけど、そういえば以前、京都の二条の「がんこ」に行ったことを思い出した。そのときは連れが「がんこ」でお昼を食べようというので、なんで京都でわざわざ「がんこ」と思った覚えがある。
そこは角倉了以の別邸で、江戸時代初期に小堀遠州により作られた茶庭が現存するというところだった。

2016-05-13_130436.jpg

「がんこフードサービス」のホームページを見ると、同社は、あちこちにこうした「お屋敷」を利用した店を展開しているようだ。⇒お屋敷(がんこフードサービス)
前に行った京都の「高瀬川二条苑」もたしかに案内されている。

IMG_20160513_181720.jpg 文化財の保存にはいろいろ問題があると言われる。特に、未だ使われている古民家などは、住んでいる人にも負担が大きいらしい。「がんこ」のこうした事業は、人を集めることができて、維持費も稼げるというわけで、一石二鳥のように思うけれど、実際のところはどうなんだろう。

今回の店は禁煙ではなかったが、現状保存にこだわれば喫煙を認めるのは難しいだろうし、どんな事故が起こって損傷するかもわからない。(以前、母が彦根の「八景亭」に行ったときの話をしてくれたが、かなり気をつかう雰囲気だったそうだ。)


さて、行く前に調べていたのだけれど、ここは衣装蔵を「くらしの博物館」として公開している。そして、なんと伊藤若冲の「水鳥」という作品が展示されている。
宴会前の数分だけだからじっくりと見ることはできなかったが、急いで撮った写真を紹介しておこう。

そのほかの作品については、Wikipediaの「旧辻元家住宅」を見れば作者・題名が確認できるだろう。


IMG_20160513_181738.jpg IMG_20160513_181731.jpg IMG_20160513_181727.jpg IMG_20160513_181747.jpg

そうそう、料理の写真。
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休刊日

本日は月例の休刊日。 P_20160511_082827bs.jpg
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リンク集に"Javascript小技集"を追加

前に、Javascriptで作った小技を紹介したことがある。

自分でもたまに使いたくなることがあるので、このブログのリンク集に"Javascript小技集"としてまとめることにした。
そうしようと思ったきっかけは、19平均律などで、結構凝ったscriptを書いたので、記事に埋もれさせておくのも惜しい気がしたから。

「小技集」を開くと、右の画面(インライン・フレーム使用)になる。
これは、前に「自分用のリンク集」でも紹介したページの造りで、Google検索窓や、URLをクッキーに記憶させる機能も付いている。

普段使ってるページの使い回し(手抜き)。


「小技集」で開くのは、私が常用しているリンク集ではなくて、その一つのページの体裁だけれど、検索窓や、URLのクッキー記憶などが試せるはず。

最上行にある検索窓は、とあるのは普通のGoogle検索、はイメージ検索、はwikipediaドメイン限定検索である。はGoogleではなくてWeblio(辞書)を検索する。
これらの下のボタンはその横のテキスト欄に指定したドメインでの限定検索。検索に使ったドメインはクッキーに保存される。

下の方にあるURLのクッキー記憶は、最初はエントリーが現れないので、右にあるボタンをクリックして行数を入力する。
各行の初期状態は上画像のように、空欄(名前欄)とボタンの行が並んだもの。各行に対し、名前とURL(表示されない)がクッキーに記憶される。
をクリックすれば、URLの入力プロンプトが表示され、"OK"で戻れば、名前とURLが記憶される(同時にボタンの色が変わる)。
プロンプトに対し"/"だけを入れるとURLが消去されるが、名前欄は消えない(名前欄も消すときは、の前に消しておく)。
URLが記憶されているとき、左端のボタンはとなっており、これをクリックすれば当該URLへリンクする。
名前だけが記憶されているときはとなっており、クリックすると名前でGoogle検索する。


私は、この造りのページを自分用のホームページ(誰でもアクセス可能だが、URL非公開)に置いていて、自宅のPCも、職場のPCも、それにスマートフォンのブラウザでも、開いた時の最初のページとして指定している。

なお、「小技集」とは関係ないが、同様にブログのリンクに載せている「モーツァルト作品目録」も少し手を加えて、生誕・死去からの日数計算が、現在日固定になっていたのを、基準日を指定可能にした(「今日」の部分をクリックすればプロンプトが出る)。

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あさりバターうどん

IMG_20160507_122225.jpg 前に「あさりうどん」がなかなかいけると書いた。
で、やっぱり気になったので、今度は「あさりバターうどん」に挑戦してみた。
並で、あさりうどんより30円アップの620円。

他の人のブログなどでは、バターが融けずにのっている写真が紹介されていたが、今回は既にできあがって時間が経ったのか、バターの固体は確認できなかった。

食べてみると、ほのかにバターの風味。
バター臭さというのはなくて、いわゆるあさりバターという感じではない。やはり出汁が効いているからだろう。
うどんにバターは合うのかという微妙な心配があったけれど、この程度のバターだとほとんど影響はない。

IMG_20160507_123055.jpg ということで、バターは、あさりの旨味を濃くするような効果があるようで、それでいて、うどんを邪魔しない。
30円アップがどうかというと、ほとんど無差別(30円ちょうどの効果)ではないかというのが私の評価。

今回はちゃんとあさりの粒数を数えた。
23個だった
ネット情報では、250gで20~30個という。23というのは中間より少ないわけだが、これを少ないと考えるのか、粒が大きいと考えるのか。
粒が大きいほうが、普通は値段が高いと思うがどうだろう。

5月中旬までということで、無事、両方を試せて満足だ。

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ヤマボウシが咲いた

P_20160508_124628.jpg 家の近く、私の通勤路には、ハナミズキの並木がある通称「ハナミズキ通り」というのがあって、4月中下旬は見事だった。

今は、ハナミズキの近縁であるヤマボウシの番である。
近所に、ヤマボウシを植えているお宅も少なくなく、散歩をすると、いずれも白い花(正確には総包片)が咲いていて、うらやましく思っていた。

我が家にもヤマボウシが植えてある。
前にイラガの餌食になったと書いた木である。

今まで、花に恵まれず、毎年(植えてから16年)、10を上回ることはなかったのだけれど、今年は、結構な数の花をつけた。
大した量ではないから、今までの例で、うちのヤマボウシは花をつけないなぁ、と思っていたのが、意外にも世間並みに近づいたので、少々、驚いた。

そんなに花にこだわっているわけではなくて、いかにもおいしそうな葉が、涼しげでもあり、それでもよかったのだけれど、花をつけるとやっぱり、本来の姿をとりもどした感があって、気持ちの良いものである。

P_20160508_093509r.jpg




足下には、スミレが咲いている。

これは、数年前、大阪の産業教育フェア(専門技術系の高校生の発表や作品展示がある)に行ったときに、園芸高校の生徒が売っていた苗を買って帰って鉢植えにしていたのが、種を散らしたものだと思う。




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歴史は「べき乗則」で動く

rekishiwabekijosokudeugoku.jpg 昨日は、ブキャナン「市場は物理法則で動く」をとりあげた。
同書を読んだあと、この著者の名前に見覚えがあると思ったら、以前に同じ著者の「歴史は『べき乗則』で動く―種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学」という本を読んでいた。「市場は…」よりかなり前に読んだので、ちょっと記憶はあやしいけれど、少し感想を書いてみる。

べき乗則というのは、砂粒を一つずつ落としていったとき、だんだん山になってくるが、あるときは砂粒が山の斜面を転がり落ち、またあるときは雪崩となって山が崩れたりする現象において、雪崩の規模と発生頻度の関係が、たとえば規模が2倍になると頻度が1/2になるというような関係が見られることを言う。このような現象は、たとえば砲弾が爆発したときの破片の大きさとその数でも観測されるし、地震の大きさとその頻度でも観測される。

この本の著者は、「臨界状態」にあるものについては普遍的にべき乗則が見られると主張し、生物の歴史において数度見られる大量絶滅は、彗星・隕石の衝突などの天変地異を持ち出す必要はなく、ちょうど破滅的な大地震同様、べき乗則に則る現象においては、特別な要因がなくても起こるものであると言う。

何より、この本の書き出しは、オーストリア皇太子暗殺事件から第一次世界大戦が始まったことについて、その小さな事件が原因ではなくて、「臨界状態」にあった国際情勢においては悲劇的な大惨事が起こることも不思議ではないという話から始まるのである。

著者は、べき乗則は普遍的だと言い、したがって地震予知はできないし、大恐慌も予知できない、恐竜絶滅の原因を求めても得られない、というような主張を展開するのだが、それで終わっては身もふたもない。
また、カウフマンの生物ゲームをとりあげて、複雑系というのは良いとしても、カウフマンの値打ちは自己組織化という考え方で生物の起源を提示したことだと思う(⇒スチュアート・カウフマン「自己組織化と進化の論理」)。

あんまりなんでも複雑系と言われると、なんだか、乱数列に一定の操作をすればべき乗則が得られると言ってるような話に聞こえてくる。(乱数に一定の操作をしたら正規分布が得られるだろう。)

複雑系というのがつまらない話なのではない。複雑系だと言って終りにしてはいけないと思う。
昨日の「市場は物理法則で動く」でも書いたけれど、複雑系の挙動を調べ、豊かな結果が得られている、それを自然現象や社会現象において、数学モデルをつくるときに活かせば良いということである。

ところで、べき乗則の一番きれいなところはスケール不変性だと思うのだけれど、こういう性質はフラクタルとかにも通じるわけだけれど、そこには何らかの再帰的な構造、フィードバック・ループがあるんじゃないかと感じる。
それが何なのか、やっぱり次のステップが欲しい。

bekikansu_form.jpg で、この本の感想だけど、複雑系のモデルがあてはまりそうな現象はたくさんある、それはよろしい。ただし「種の絶滅から戦争までを読み解く」というのは言い過ぎというか、実は読み解けてないのではないか。

「知の欺瞞」(アラン・ソーカル)と言っては言い過ぎだろうけど。


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「市場は物理法則で動く」

Buchanan_Forecast.jpg 昨日「新自由主義の帰結」の感想を書いたが、これは学派の異なる経済学者からの主流派(新自由主義)経済学者への批判であった。
こうした経済学者の世界からは異端どころか異教に属すると思われるのが「経済物理学」というジャンル。
このジャンルは経済学者というより、物理学などを修めた学者が、その方法論を経済学に適用してみたらというもののようで、近年注目されているようだ。

マーク・ブキャナン「市場は物理法則で動く―経済学は物理学によってどう生まれ変わるのか?」はそうした経済物理学の紹介本。
書名は「市場は物理法則で動く」だけれど、これは過剰な喩え。
原題は"Forecast - What Physics, Meteorology, and the Natural Sciences Can Teach Us About Economics"である。直訳すれば「予測-物理学、気象学、自然科学が、経済学について教えられること」だろう。
物理法則を経済学に当てはめるわけでは、勿論、ない。

そうではなくて、物理法則、とりわけ気象学の分野での天気予報や乱流の挙動と経済現象の類似性を指摘して、物理学や気象学の方法論が経済予測にも有効ではないかという話である。
気象学が未だに集中豪雨などを予測できないように、その方法論を使っても経済現象が予測可能になるわけではない。これらは複雑系といわれる系である。
だから無意味というわけではなくて、予測できないという現実を見据えることが、経済学にも求められるというアタリマエの事実に対して経済学者はあまりに無自覚であるという指摘である。

著者は、気象現象と経済現象は見掛けの類似性だけでなく、ポジティブ・フィードバックなど、双方に共通のメカニズムが見られると分析し、現在のような取引方法を放置すれば、まちがいなく乱流が発生し、制御できなくなると結論づける。

私もその通りだと思う。リーマン・ショックにしろ、ブラック・マンデーにしろ、あの程度で終わったことのほうが奇跡的で、いつなんどき奈落に落ちてしまうか、カジノ資本主義が続く限りその危険は続くのだろう。市場にビルトインされた安定性というのは伝統的(均衡分析的)経済学者の幻想にすぎない。

ただし以前から、仮に平衡状態が存在するとしても、それが常に保たれている、あるいは外れても元に戻るとは限らないという立場、宇沢弘文をはじめ、動的分析が必要と主張してきた経済学者は少なくない。というか、経済学の限界を感じた良心的経済学者はそういう傾向にあるような気がする。(予測の失敗を環境条件に帰する学者と、経済学自体の欠陥に求める学者の違い。)


こういう内容だから、元物理屋や数学屋がウォール街で働いているというのとも微妙に立ち位置が違う。これらのアナリストは最新の数学を使った金融工学などを駆使するというもので、数学はツールとして使うものだけれど、この本で紹介されているのはツールとして使うというのとは違う(アナリストはできない予測をやる仕事、そのためにもっともらしいツールが必要)。

複雑系についてちゃんと理解しているわけではないが、単に複雑系であるというだけでは、現象を予測できるとは思えない。複雑系だということで、それで何か現象の原因や因果関係が解るわけでもないだろう。
その先に進むことが科学的態度だろう。

複雑系の挙動について知識・経験を積んだうえで、数学モデルの構築などで分析するのだろうか。


そうそう、著者は複雑系のことだけでなく、ホモ・エコノミクス(合理的経済人)についても批判している。本書で紹介されている次の話の再引用で済ませることにしよう。

雑誌「エコノミスト」の年間購読料が、Web版59ドル、Web版と印刷物の両方が125ドルのとき、学生の68%が、Web版を選択した。しかし、これに、印刷物のみ125ドルという選択肢を加えると、Web版を選択した学生は16%となった。




なんだか、随分辛口の批評をしたみたいだけれど、この本は、既製経済学がいかにダメなものかを厳しく糾弾している。
そして、私はその糾弾は正しいと思う。
良心のある経済学者が、私の批評のようなものではなくて、また環境条件で予測がはずれることもあるなどという無責任な言い逃れをせず、これにちゃんと応えていただきたい。

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新自由主義の帰結

shinjiyushuginokiketsu.jpg 服部茂幸「新自由主義の帰結―なぜ世界経済は停滞するのか」の感想。

世界的な金融危機、経済停滞を分析し、新自由主義の理論がそれらを防止するどころか、促進してきたという主張である。こうした主張をする本は今までも読んでいて、新自由主義というのは信用できないものだという感じを持っているが、それがさらに強化される。

本書は要するに次のようなことが書いてある。

新自由主義とは、強者がルールを決めて競争する、そしてそれがうまくいかなくなると強者が滅びるのではなく、強者が滅んでは困るだろうという理屈で、政治、つまり弱者から搾り取った税金を投入して助けるという思想・行動規範である。
そしてこの思想・行動規範を正しいものとして言い続けているのが、主流派(新自由主義)経済学者である。
彼らの理論は「危機が来るまでは危機は来ない」という確実な真実に基づいている。


つまり、新自由主義の世界では、政治と経済は非対称なのである。
経済がうまくいっていれば政治が邪魔をするなと言い、うまくいかなくなれば政治が助けざるをえなくなるというのがこの世界の本質である。
そしてうまくいっているときは、1%の人に富を集中させ、それが他の人にも益をもたらす=トリクル・ダウンは起きることもなく(というか困っている人は後回しが前提ということ)、これが新自由主義の帰結である。

こうしたことが、大恐慌以来の長い歴史上のさまざまな経済・金融政策を反省・分析して論証される。
もちろん日本のバブル崩壊時の反省も、そして、欧米は日本のようにはならないと言い切っていたのに、全く同じ轍を踏んだことが解説される。

経済学には、さまざまな学説があり、何が正しいか理論的に判断することは難しい。経済学を専門とする人でさえそうだから、素人にはまったく理解できない。

そもそも経済学はできそこないで、科学ではない。科学としての体裁があるのかさえ疑わしい。
人工知能によってなくなる職業が話題になったが、エコノミストという職業はなくならないそうだ。そりゃそうだろう、知能の働く余地がない職業だから。


そして理論的に何が正しいかが判定できない以上、経済学そのものが存立する意義及び必要性、どの理論を採用すべきかの判定基準は、その理論に基づく施策の帰結が、国民が幸福に暮らせる社会に資するもの(経世済民)かどうかという、経済学の体系の外から評価されるべきものなのではないだろうか。それが学者の良心というものではないのだろうか。

破綻した銀行、しかも経営陣の報酬にも手を付けず救済するのは社会的に不公正だという意見が出るのなら、なぜそうせざるをえなくなる経済理論に正当性があると言えるのか。
危機が来るまで危機にはならない、その間は有効な理論というのではただの詐欺だろう。
結果的に間違った政策を指導したとしても、言い抜ける方法はいろいろあることも本書で触れられている。しかし、結果の成否はともかく、良心に照らして間違ったことをしていないという信念はあるのだろうか。


法には慈悲がなくてはならぬ。
ならば、経済学には博愛がなくてはならないだろう。

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ゆっくりした休み―その5 あさりうどん

地元の散策で歩き疲れて(といってもわずか3km程度)、時間も丁度良くなったので、お昼を食べることにした。

IMG_20160430_120346.jpg 向かった先は「丸亀製麺」。
行ってみると、季節限定の「あさりうどん」というのがあった。並590円。

今までこういううどんは食べたことがなかったので、興味津々でこれにした。

今月下旬には、珍之助さまのお世話で、貝尽くし(特に蛤)コースで宴会をする予定。そこでは蛤ラーメンが出るらしい。
その予行演習にもなるかもしれない。


丸亀製麺は店内でうどんを打ち、カットし、ゆで上げているところが見えるわけだが、あさりうどんは、ゆで上げたうどんを湯切りして丼に入れ、そこへあさり汁をかけているように見えた。

シンプルな料理である。というか、余計なことをしておらず、ストレートに貝の出汁が味わえる。
肝心のあさりも、スーパーで売っているあさりの1パックを全部入れてるんじゃないだろうかと思うほど、たっぷりである。
これは、なかなか良いものだと思う。個人的には青ネギをちらしてもらうとさらに良くなるのではないだろうか。
そういえば、少し高いが、あさりバターうどんというのもあった。うどんに合うか微妙な気がするが、勇気のある人はこれを試してみたらどうだろう。

以前、蕎麦屋で季節限定「若竹そば」というのを注文したことがあるが、旬の食材を期待したのに、どう見てもというか、味も香りも、冷凍の1年以上前の筍じゃないかと思った。このことがあってから、この店には足を向けなくなった。企画(思い付き)を優先して実体がともなわないと逆効果ですな。


さて蛤ラーメンはどうだろう?

蛤は何粒入ってるだろう。蛤だと数じゃなくて、大きさが問題だろうなぁ。


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ゆったりした休み―その4 薪神社

P_20160430_105710.jpg 一休寺から200mほど坂(一休坂という)を上がったところに薪神社がある。

薪はこのあたりの地名だが、京田辺市には薪ではじまる地名は50もある。
その中には「薪狼谷」とか「薪狐谷」、「薪泥々」という地名もあって、以前、狼谷の住民が、地名変更を求めていると聞いたことがあった(今でもこの地名があるということは、地名変更は認められていないのだろう)。
P_20160430_105756.jpg
さて、薪神社だが、なんともこぢんまりしたところなのだけれど、ここで異彩を放っているのが、「能楽発祥の地」という石碑。
こんなところが発祥の地?

ネットで調べると、能楽発祥の地というのは、奈良県もそういっている。より狭くは、田原本町や川西町あたりが、古くからの猿楽の座があったところで、そうしたところから能楽発祥の地ということのようだ。
奈良県には他にも、流派ごとの発祥の地があって、田原本町は金春流、川西町は観世流、桜井市は宝生流、斑鳩町は金剛流のそれぞれの発祥の地という。
前に紹介した「月読神社」も宝生流発祥の地となっているが)
奈良県は各派の発祥の地というわけだし、奈良市には能楽堂も整備され、行政が能の振興に力をいれている。薪能もやはり有名なのは奈良の興福寺のもの。
発祥の地だというだけでは、「それがどうした」となってしまう。
なお、京都の新熊野も能楽発祥の地と言っているが、京都は何でも、ええとこ取りできる土地柄だし、それでみんなが納得してしまう。

P_20160430_105723.jpg さて薪神社だけど、金春禅竹が、一休さんに能を見せた場所だとかで、あろうことか薪能というのは、この薪という地名から来ているという説もあるという。
(私は薪能は、奈良のものを一度見たのが最初で最後。)

そういえば、かぐや姫の伝承地としても、京田辺市と、奈良の広陵町とか、他にもいくつかの市町が争っている。

他にも、継体天皇の筒城宮が同志社大学のキャンパスの中にあったり、京田辺市には由緒のあるところが多い。
(訪れる人は少ないけれど。)


薪赤池 たきぎあかいけ
薪赤坂 たきぎあかさか
薪薊 たきぎあざみ
薪石ノ前 たきぎいしのまえ
薪井手 たきぎいで
薪狼谷 たきぎおおかみだに
薪大欠 たきぎおおがき
薪大崩 たきぎおおくずれ
薪大塚 たきぎおおつか
薪小欠 たきぎおがき
薪斧窪 たきぎおのくぼ
薪貝元 たきぎかいもと
薪加賀ノ辻 たきぎかがのつじ
薪甘南備山 たきぎかんなびやま
薪岸ノ下 たきぎきしのした
薪北町田 たきぎきたまちだ
薪狐谷 たきぎきつねだに
薪桑ノ木 たきぎくわのき
薪小山 たきぎこやま
薪里ノ内 たきぎさとのうち
薪四反田 たきぎしたんだ
薪城ケ前 たきぎしろがまえ
薪城ノ内 たきぎしろのうち
薪狭道 たきぎせばみち
薪高木 たきぎたかぎ
薪巽 たきぎたつみ
薪溜池 たきぎためいけ
薪大仏谷 たきぎだいぶつだに
薪茶屋前 たきぎちゃやまえ
薪天神堂 たきぎてんじんどう
薪外島 たきぎとじま
薪堂ノ後 たきぎどうのあと
薪泥々 たきぎどろどろ
薪中垣外 たきぎなかがいと
薪長尾谷 たきぎながおだに
薪名松 たきぎなまつ
薪西窪 たきぎにしくぼ
薪西沢 たきぎにしさわ
薪西浜 たきぎにしはま
薪西山 たきぎにしやま
薪畠 たきぎはた
薪東沢 たきぎひがしさわ
薪東浜 たきぎひがしはま
薪東向 たきぎひがしむかい
薪平田谷 たきぎひらただに
薪堀切谷 たきぎほりきりだに
薪舞ケ辻 たきぎまいがつじ
薪水取 たきぎみずとり
薪百々坂 たきぎももさか
薪山垣外 たきぎやまがいと

P_20160430_105821.jpg P_20160430_105850.jpg

P_20160430_105927-crop-crop.jpg 由緒だけの廃墟ではなくて、ちゃんと地元に重点をおいた営業活動もしっかりされている。








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ゆっくりした休み―その3 一休寺

P_20160430_104739.jpg 憲法記念日で一休みしたが、「ゆっくりした休み」の第3回、次の散策先は一休寺。
棚倉孫神社から歩いて10分程度。

しばらく行かないうちに、周りには住宅が建ち並ぶようになっているのはちょっと驚いた。
特に、新しい道ができてから、一休寺の案内板も目立つようになったし、車での移動が今までより便利になっているから、住宅開発も進んだようだ。

ここは何度も訪れている。何といってもK市では一番知られた名所である。
P_20160430_104946.jpg 今回は、歩くことが目的だったし、何度か入っているので、お寺には入らず、参道を少しだけ散策。

一休寺が一番にぎわうのはやはり紅葉の季節。
ライトアップしてテレビ(たしか「報道ステーション」)で生中継されたこともある。

紅葉(ここはカエデ)が美しいということは、実は新緑の季節も良いということ。みずみずしい青葉が心地よい。


P_20160430_105056.jpg ということで、参道の新緑を愛でて短時間の訪問。
長くない参道の脇の苔も美しい。
そして未だちらほらとしか咲いていないツツジ。
もう少ししたら、満開になるだろう。


訪れる人はあまり多くない。それでも、タクシーでここまでくる人も見かけた。
ゴールデンウィークでも、こういう静かな場所もある。


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憲法と安全保障

なんとも大げさなタイトルだけれど、今日は憲法記念日なので、やはりこの関係について。

昨年来、話題になった新しい安全保障関連法が、2016年(平成28年)3月29日午前0時から施行されている。
FabPlayer_[20160502-210441-085] 昨日、NHKの世論調査の結果が報道されていたが、一時憲法改正が必要という意見が優勢だったが、このところ不要という意見が逆転して優勢になっていて、最新の結果では、憲法改正必要が27%、必要ないが31%。
今日の朝日新聞では同社調査で、必要が37%、不要が55%という。
おそらく、これは安全保障関連法の影響だろう。
議論が進むと、反対意見、憲法擁護論が強くなるというのは、国の安保政策の説明が不十分ということかもしれない。

法施行時には、賛否の意見がいろんな報道番組で紹介されていたことも記憶に新しい。
そして思った、やっぱりこの国は論理的思考は苦手なんじゃないかと。

賛成意見は、国際情勢が緊迫しているから、新しい安保法制は適当あるいはしかたがないというもので、今回のNHKの世論調査でも改憲論の理由のトップとなっている。
反対意見は、平和憲法を守るべき、戦争に巻き込まれる国になりたくないというもの。

私は安保法制については賛否の判断を保留するけれど、議論の建て方が稚拙だということだけは言っておきたい。

○集団的自衛権は主権国家には認められた権利

こんなことをわざわざ言う感覚は不思議。戦争をする権利だって主権国家にはある。我が国は、自身の選択で、といって悪ければ憲法により、戦争を放棄したのだ。他の国に認められていても、自らその権利を放棄したのである。これが集団的自衛権の根拠になると考えているなら、論理的とはいえない。これは「論点先取の虚偽」にあたる。


○アメリカに押し付けられた憲法

そうかもしれない。しかし本音がどこにあったかは別として、戦争放棄を憲法に謳うことが戦後復興、国際社会への復帰への諸外国の理解と協力をひきだすのに有利だったはずで、押し付け憲法というのも実は怪しい(「戦争放棄」の明文化は日本側の希望という説もある)。むしろアメリカはその後、戦争放棄憲法があるために、日本を同盟国として自由に使うことができなくなるという読み違いをしたほうが当たっているのではないか(ならばアメリカに押し付けられた改憲という言い方もできるだろう)。
ただ、戦後復興・国際社会への復帰という目的は達したから改憲するというのなら筋は通っていると思う。


○米国の後方支援

後方支援はれっきとした戦争行為だろう。
以前、湾岸戦争で日本が艦船への給油活動をしたとき、戦闘艦には給油しないと言ってたが、そんな理屈が敵国に通るはずはない。他艦船に給油すれば、その分、友軍は戦闘艦への給油に回せるわけだから。
どうも安全保障法制の議論では、どんなことができるか(How)の議論が目立つ。しかし、後方支援がれっきとした戦争行為なら、どんなときに後方支援ができるのかという議論を抜きにしてはいけないだろう。後方だからいいんだということにはならない。
米国が戦争していれば後方支援するというのは無責任である。米国がどんな戦争をしているときに後方支援をするのかが明らかにされていなければならない。


○邦人保護

もちろん外地における邦人保護は現地政府の役割だけれど、邦人保護が必要になるのは、現地が戦争状態で、頼みになる政府が存在しないような状態だろうから、効果的に作戦を遂行するためには、大戦力の一気投入が必要な場合もあるだろう。そのためにも兵力限定以上に期間限定が重要だろう。
その次に来るのは邦人保護ではなく、平和維持活動ということになるだろうけれど、邦人保護→国益保全→兵力の居座りの歴史を繰り返さない歯止めはどう考えているのだろう。


○核武装

戦争する国だったら核武装も考えなければならないという意見がある。この意見を聴くと、何のために戦うのか(What)ということと、どういう手段で戦うか(How)という異なるレベルの議論が混ざっていることが自覚されていないと思う。ただし、いかなる国際情勢(たとえば、アメリカと戦ったり、中国と戦ったりするような情勢)にあってもパワーを発揮することを目的とするならば、つまり無方向性の絶対的パワーを持つこと自体が目的なら、核武装の必要性の論拠にはなるだろう。


必要な戦争はやるんだというなら、中国と戦うとき、米国と戦うとき、どんな戦略・戦術があるのか、勝ち目はどうやったら見えてくるのか、そこを教えてもらいたいものだ(もちろん戦争が避けられないことの説明も必要だが)。
「侵略戦争」を起こしたとか、同盟国としてそれに協力したと言われたあげく、戦争に敗けちゃ、前の戦争と同じになってしまう。

国土が蹂躙されるなら話は別だけど、敗ける戦はしちゃだめでしょう。

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ゆっくりした休み―その2 天井川

P_20160430_103254.jpg 棚倉孫神社は小高い丘の間にある。
その丘の上を小川が、道路をまたいで流れている。

小学校の社会科の授業で、天井川という言葉と、山城南部に多いということを教えてもらった覚えがある。
もっと大きな川では、大きな堤に沿った低地に、田畑や住宅があるところも多く、大雨などで堤防が決壊すれば大変なことになるわけだが、こんな小川でも天井川になるんだろうか?

古代ローマの水道かと思うような風景だけれど、おそらくもともと川が流れていて、丘のように見えるのはその堤で、これを切り開いて道路を通すときに、川を切るわけにもいかないので、コンクリートで水路を作ったのではないだろうか。

P_20160430_103455.jpg

その川を下から見たところ。










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ゆっくりした休み―その1 棚倉孫神社

P_20160430_101851.jpg 今年のゴールデンウィークは、三連休、出勤、三連休、出勤、二連休というめぐりあわせ。私はカレンダー通り。
連休の予定は、というと、ゆっくり家で休むというしっかりした計画がある。
1日目は自治会の仕事もあったが、昨日の土曜日は、地元の散策を少しばかり。

良く前を車で通りすぎる棚倉孫(たなくらひこ)神社。
はじめて訪れてみた。

入口は小丘を登ったところ。
境内は狭い。
はじめに目に入るのは、「式内 棚倉孫神社」の石碑。式内社というからには当然、延喜年間には存在していたわけで、由緒ある神社ということが示されている。
P_20160430_101918.jpg
P_20160430_102117.jpg


P_20160430_102235.jpg

瑞饋神輿というのが、大人用隔年、子供用毎年作られると説明書きにあったが、これがそれ。
P_20160430_102245s.jpg P_20160430_102318.jpg

P_20160430_102640.jpg 絵馬殿には、奉納された絵などが掲げられていた。古いものは寛政年間。
ときどき修復されているようだ。レプリカが作られてそれが掲げられているものもある。
P_20160430_102608.jpg

石の摩滅状況から、それなりの年を経たと思われる狛犬。



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