技術を盗まれる心配は~リオ・オリンピック・シリーズ

リオ・オリンピックの最後の最後に、驚くべきことが起こった。
400mリレーで日本チームが銀メダル。

北京で銅メダルをとったときは、たしかアメリカが準決勝で失格していたと思う。
今回は、アメリカを抑えて(ただしアメリカは結局は失格)の銀メダルだから、文句なしである。

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なんといっても、4人の選手の誰一人として、100mを10秒以下で走る選手がいないのに、37.6秒という記録である。リレーゾーンをいっぱいに使って、助走してトップスピードでバトンを受ける、理屈はそうなのだけれど。

日本のバトンパスは世界一です
選手はそう胸を張ったし、優勝したジャマイカのボルト選手も賞賛していた。

でも気になる、この言葉。これには「今は」と付くんじゃないか。

テレビの解説によると、リレーのバトンパスにはオーバーハンドパスとアンダーハンドパスがあって、アンダーハンドのほうがスピードが落ちないが、ミスが起きやすいのだそうだ。
多くのチームは安全サイドのオーバーハンドパスを選択するが、日本は練習を繰り返すことでミスを防げると考えて、アンダーハンドパスを行うのだという。

つまり技術の勝利というのだけれど、この技術は日本以外の国の選手にはまねできないものだろうか。

日本は技術で勝利しても、その技術がまねされて勝てなくなる歴史を繰り返してきたように思う。
あるいは、まねできないような技術だったら、ルールを変えてその技術をルール違反にされてしまう。
  • バレーボールでは日本があみだしたクイックや時間差攻撃などのプレーはすぐに真似られた。それだけでなく、以前はブロックも1ストロークと数えていたのが、ブロックはストロークに数えなくなった。この結果、ブロックで有利になる身長の高い海外チームは、1ストロークの余裕をもってパワーのあるスパイクが打てるようになった。
  • スキージャンプでは、身長に対するスキー板の長さ制限で、身長の低い日本選手には不利なルール改正が行われた。
  • 古くは、平泳ぎでの潜水泳法。日本選手が得意としたこの泳ぎ方は禁止された。
  • 卓球でも、サービスのときに指先の器用な日本人がボールに指で回転を加えて返しにくいサーブを打つので、今のように掌にのせてトスするようにルールが変わったと聞いたことがある。
陸上のリレーでは、海外のチームもアンダーハンドパスができるように技術の向上をめざしてもらいたい。
でないと、アンダーハンドパスそのものが禁止されかねない。

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卓球とバドミントン~リオ・オリンピック・シリーズ

リオ・オリンピックで一番入れ込んでライブ中継を見たのは、先日書いたとおりバドミントン。
何と言っても金メダルの期待があったし、中継のある時間帯が日本にいる我々にも見やすいこともあった(決勝はちょっと遅めで、寝不足になったけれど)。

ishikawa_vs_fen.jpg そしてバドミントンに劣らず気を入れてみたのが卓球である。
時間帯があわなくて、なかなかライブでは見られなかったし、あの石川のシングルス初戦敗退は、やっぱりだめかと思わせられ、気をそがれた。

そんななか、福原愛選手のおかげで、俄然、卓球の試合観戦に入れ込むこととなった。
「泣き虫愛ちゃん」なんて言ったら怒られると思うけれど、やっぱりあのひたむきにプレイする姿が、応援しようという情動になる。NHKに寄せられた選手への応援メッセージで、一番多かったのが、やはり福原選手へのものだったそうだ。
20160816-00000107-dal-000-view.jpg あと一歩で銅メダルにはとどかなかったが、その思いが団体戦の銅メダルに結実したということだろう。

さて、感動については書かない方針なので、このぐらいにして、バドミントンと卓球の試合を見ていて思ったこと。

二人または二組のプレイヤーがネット越しに相手コートにラケットで打ち合う競技」といったら、テニス、バドミントン、卓球のいずれもあてはまる。

テニスでも錦織選手が銅メダルをとっているから、この3競技で、金1、銀1、銅2のメダルをとったわけだ。


言葉にしたら似たようなことになるのだけれど、テニスと、他の2つの競技は、試合の印象が全然違う。
選手や競技に詳しい人にとってはアタリマエのことかもしれないが、バドミントンや卓球では、駆け引き、予測、作戦というものが、テニスよりずっと重たいような気がする。
一つ一つのショットやサーブの質よりも、どこへ打つか、それも1本のショットではなく、シリーズとして考えて打つ。

卓球の場合は、回転のかけかたによってエースになるようだが、それも慣れと読みで効かなくなるみたいだ。

テニスでは、もちろんそういう作戦も重要だけれど、実際に打つショットの力がかなり大きいのではないだろうか。私も遊びでテニスをしていたことがあるが、たまたまネット際でボレーを決めれば、少々上手な人でも、まず返せないと思う。
それに対し、バドミントンや卓球だと、そういうシーンを素人が作れるとは思えない。

素人考えだけれど、やはりコートの大きさが物を言うのではないだろうか。打たれたショットに対応する時間の長短というものがあって、それはコートの大きさに依存するだろうから、テニスと他の2つの競技のゲームの運ばれ方が違うのではないかと思う。

こんな風にごちゃごちゃ素人が言ってるけれど、要するに、バドミントンも卓球も、あの最高峰の試合を見ていると、なぜあんなことができるんだろうと、ただただ感心しているわけです。

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「チャレンジ」というルール~リオ・オリンピック・シリーズ

badminton_drible.png 昨日書いたとおり、バドミントン女子ダブルス決勝、日本の高松・松友ペアvsデンマーク・ペアの試合は大変な熱戦で、食い入るように中継を見せてもらった。結果は周知のとおり。

この試合中、デンマーク選手のドリブル(二度打ち)があった。
これについてはネットに「大誤審」として取り上げているページがある。このページには、スロービデオも掲載されている。

私もライブ中継を見ていて、問題のポイントで、松友選手が審判に抗議するのを見た。放送でもスロービデオを流して、たしかに二度打ちになっていた。解説者も2回当たってますね、と言っていた。

上で紹介したスロービデオを見ると、二度打ちどころか、三度打ちのように見える。
二度打ちといっても、ラケットヘッドとストリングド・エリアで、1回のストロークで連続して打たれるのは「フォルト」ではないそうで、ネットの意見でも、セーフというものがある。しかし、私には、最初の二度打ちはそのルールが適用されてセーフだけれど、さらにもう1タッチしていて、これならフォールトのように見える。

今ここで、蒸し返す気はない(勝ったからだけれど)。
しかし、中継中にも思ったけれど、「チャレンジ」は、シャトルのイン/アウト判定にしか使えないのだろうか?
この試合でも何度かあったチャレンジでは、コンピュータが画像解析してシャトルが落下した影を映し出していたが、ダブルタッチの判定はもちろんこのシステムは使えない。だからといって、ビデオを肉眼で見たら、少なくとも判断の材料にはなるのではないだろうか。

「チャレンジ」というルールを初めて知ったのは、テニスの試合中継でだったと思う。あまりに高速だからイン/アウトが判定しきれない。テニスでは、その前はセンサーが音を出す仕掛けを採用していたようだが、レフェリーは参考程度にしていたように思う。

その後、チャレンジが定着してきて、バレーボールでも採用されているようだし、野球でも米大リーグでは既に採用されている。
このオリンピックで知ったのだが、レスリングにもチャレンジ・ルールがあって、こちらはチャレンジに失敗すると、相手にポイントが与えられるそうだ。
チャレンジの乱発はもちろんゲームの進行を妨げるから、どの競技でもチャレンジの回数制限や、レスリングのようなペナルティなどが規程されている。

審判は間違ってはいけない、というのは、ビデオや機械判定に対抗心を燃やすことではなくて、それを審判の道具として使って正しい判定をするということだと思う。ましてや、ビデオが真実を捉えていて誤審があからさまになると困るから、ビデオそのものを否定するというのは本末転倒、まるでラッダイト運動のようだ。

ところで、このオリンピックでは、風の影響でアウトになりましたというシーンが何度もあった。
昔、体育館関係者から聞いていたところでは、バドミントンのときは空調を止めるというのだけれど。


【追記】

より見やすくするために、前記のビデオを、拡大して再生速度を落とした動画を作成した。

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バドミントンなんか見なくて良い~リオ・オリンピック・シリーズ

20160816-00000020-reut-000-view.jpg このオリンピックで、一番熱心に、ライブ中継を見たのがバドミントンのタカ・マツの試合。

普段、バドミントンの試合中継なんて見ることはない。やはり、オリンピックの威力。そして、マイナーと言われる競技でも、メダル候補となれば国民の注目を浴びる。

ネットのおかげで、あまり知らない競技のルールも簡単に調べられる。バドミントンもその一つ。
サイド、エンド(この用語も知らなかった)のラインが二重になっていて、シングルスとダブルスでインコートが違うというのもネットのルール解説で知った。

それまでは、今のは入ってるんじゃないか、と思ったりした。


そういうマイナーな競技だから、テレビ局も軽く扱ったのに違いない。
タカ・マツの準々決勝。
ゲームカウント1-1で、中継終了。画面は、NHK-BSでも放送している陸上予選に切り替わった。

Yahooニュースのこの試合結果の記事には、大量のコメントが付されていた。
もちろん私もそのコメントに激しく同意。
「日テレ(関西なので読売TV)のアホ、ボケ、カス!」

怒りのコメントを読んでいて、NHKのアプリだと中継されていたらしい。
知らんかった。


プロ野球中継で「試合の途中ですがまもなく放送を打ち切らせていただきます」の仕打ちをうらめしく思っていた人から絶大な支持を受けたサンテレビの完全中継というのもある(もっとも野球はメジャー・スポーツだけれど)。
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野球は攻守交替のときにCMを入れられるから問題ないけれど、サッカーやラグビーなど、CMを入れるタイミングがとりにくい競技は民放では放送しにくいと思う。
というか、私にも複数回経験がある。

CMの間にゴールが決まりました」とか、「CMの間にトライがありました
そしてこのCMのスポンサーの商品は絶対に買わないぞ、と誓うことが。


それでも決勝戦は、最後まで放送してくれた。
おかげで、あの奇跡の大逆転、16-19からの5ポイント連取を見せていただいた。

おかげでえらい睡眠不足や。さっさと中継打ち切ってくれたらあきらめついたのに。


右の写真は見事ですな。
「タカマツ」ペアはしぐさでも息ぴったり
(森田達也撮影)(写真:産経新聞)

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ラグビーは何人がおもしろい~リオ・オリンピック・シリーズ

2016-08-12_100244.jpg オリンピックの7人制ラグビー(男子)では、3位決定戦で南アフリカに負け、日本が惜しくもメダルを逃した。

本大会では、ニュージーランドに勝って奇跡の再現と報道されたけれど、ワールドカップの奇跡(南アに勝利)の再現はならなかった。

高校ぐらいのときから、セヴンスという競技があることは知っていたけれど、そして得点シーンなどのダイジェストは見たこともあったけれど、1試合を通して見たことは今までなかった。

めまぐるしい動き、ぶつかり合う迫力が、視ている側にいやおうない興奮を催す。
あの屈強な、大きな体と我が身を比べると実に情けない、同じ男に分類されるのがおこがましいとしか言えないし、とても自分がプレイする自信はないけれど(女子セブンスに混じる自信も、もちろんない)、観ている分には大変おもしろい。

しかし南アに何度も抜かれてたやすくトライをあげられるシーンを見ていて、これは鬼ごっこか、とも思った。
もちろんタッチしたら終わりという普通の鬼ごっこではなく、肉弾相打つ白兵戦なのだけれど、ディフェンスをかわして走り抜けると、もう止めようがない。
ボールを持って走るのと、持たずに走るのではスピードに違いが出る。だから同じ速力の選手だったら、追いつくチャンスはあるわけだが、カウンター気味に抜かれると、反転して追い始めるときに既に相当の差がついてしまっている。

15人制の普通のラグビーではこういうシーンは、完全にそろったライン攻撃中にインターセプトでも起こらない限り、まず見られない。そして、そんなことはめったにあるものではない。

で、考えた。日本があっさり負けたから言うわけじゃないけれど、
ラグビーは何人でやるのが一番おもしろいんだろう?

7人制から考えると、ああいう鬼ごっこ的な、そして追いかける方があきらめてしまうようなシーンを減らすには、15人制のようにFB(フルバック)を1人置けばどうなるんだろう。
もちろん1人増えてお、その1人がFB的ポジショニングをとるかどうかはわからない。単純にラインを長くするのに使う方が有利かもしれない。実際、15人制でも、FBがライン参加することはたびたび見られる。

野球が発明されたとき、最初は遊撃手というのはいなかったと聞いたことがある。内野手は1,2,3の各塁についていて、野手の間を抜けるヒットがたくさん出たという。ゲームの興を落とさないため、遊撃手を置くルールに変わったのだという。


7人制の7にはどれほどの意味があるのだろうか。
もちろんいろんな人数でやってみて、7人制に落ち着いたのかもしれないが、7+1、つまり8人制にしたら、ゲームはどのように変わるだろうか。9人だったら? 10人だったら?

メダルは逃したけれど、日本の善戦、とりわけニュージーランドに勝ったことは、世界に衝撃を与えたらしい。
日本人は「チビのピカチュウ」だけではない。

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重量挙げ~リオ・オリンピック・シリーズ

リオ・オリンピックが閉幕してまもなく1週間、日本は、金12、銀8、銅21、合計41のメダルを獲得した。

前に「知識のアップデート」の稿で、オリンピックはネタの宝庫と書いた。

記事にできそうなことをメモしていて、10本ぐらいは書けそうなのだけれど、その後アップしたのは「リオ・オリンピックの謎」(南半球の季節は冬なのに、何故Summer gameというんだろう)だけだった。

もはや時季外れと言われると思うけれど、ネタを腐らせるのも勿体ないので、蔵出しすることにした。と言っても、オリンピックの感動をストレートに記事にするのは、恥ずかしくてできない。ということで、偏屈な記事ばかりをシリーズで。


RIOEC8700YHCP_768x432.jpg 今日は、重量挙げをとりあげる。

感動そのものは書かないと述べたけれど、女子48kg級の三宅宏実選手の銅メダルは感動的であった。
何が何でも挙げるという形相と、挙がったときの満足そうな顔、そして試技を終えてディスクに頬ずりする姿、そのどれをとってもぐっとくるものがある。

東京1964でもそうだったと思うけれど、オリンピックでは開会後すぐに重量挙げがあるようで、東京のときは、開会の翌日にバンタム級で一ノ関史郎選手が銅メダル、そしてその翌日、三宅宏実選手の伯父さん三宅義信選手がフェザー級で金メダルだった。


それで思い出したのが北杜夫「怪盗ジバコ」(1967年)。

重量挙げなんて単純なスポーツだ、何が面白いんだ、馬鹿じゃなかろかと考えていたが、東京オリンピックのテレビ中継を見て夢中になり、自分が選手になった妄想を抱き、世界一の力持ちになったつもり……
……なのだが家人に、瓶の蓋を開けてと頼まれて果たせず、夢からさめると同時に自信喪失に陥る、
そして、もう使い物にならなくなってしまう……

こんなオリンピック後遺症が部下、とりわけ東京の部下の間に蔓延したため、やむなくジバコ親分みずからメキシコ・オリンピックに出場する、という話が「怪盗ジバコ」の中にある。

射撃のような勝ってアタリマエの競技で金メダルをとってもしかたがないし、各国にいる部下にも配慮して、小国の代表としてマラソンに出場する。はじめからぶっちぎりのトップを快走、給水所ではつぎつぎに御馳走を食べる。しかし最後にビーフ・ステーキを賞味して腹にこたえ、とうとうアベベに追い上げられながらも、今一歩でかわして優勝する、という筋書きだったと思う。

インタビューに答えるジバコ。
あっしは、追っかけられてつかまったことはないのでさぁ


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モーツァルト亡きあと~「モーツァルトと女性たち」(その5)

Mozart-Lange.jpg 前々章「モーツァルトのもうひとつの家族」では、コンスタンツェがモーツァルトに愛されたという事実だけで、もう十分良妻であったと言って良いと書いた。
この章では、そうした情緒的な評価にとどまらず、コンスタンツェの復権を目指したのではと思われる記述が続く。

モーツァルトの伝記というと、聖マルクス墓地に葬られた、というところで終わってしまう。しかし、「伝記」というのは、これから書き始められるのである。

本章では、伝記がどのように成立したのかということに多くの注意が払われている。
コンスタンツェとナンネルの、おそらくは不仲が伝記にどう影響したか、ということも含め、コンスタンツェが非協力的だったために協力を求められたナンネルが、まともにとりあわずに話したことが伝記に採用されること、そしてそれを知ったコンスタンツェが「本当の」モーツァルト伝(後の夫ニッセンによる)を望んだことなど、経緯が描かれる。

Sofie_Weber.jpg そして、モーツァルトに不用意に「子供」のイメージがまとわりつくこと、金銭感覚が夫婦ともになかったとされることなど、モーツァルト死亡直後のナンネルの不用意な発言が影響を与えたのではないかとする。
そしてコンスタンツェは、自分が関わらないところで出されたモーツァルト伝を、出版された本の買い占めも含め、正しいものにしようと努力することになる。

最後までモーツァルトの世話をしたコンスタンツェの妹ゾフィー(右図)の証言が今なお伝えられるのは、こうした努力のおかげでもある。

コンスタンツェ悪妻説では、モーツァルトの遺稿を二束三文で売り払ったというような話を聞かされてきたが、実際には、売り払ったことは事実としても、それはモーツァルトの作品を出版したいということであり、それを商行為としてできるかぎり安く買いたたこうという出版社との間での駆け引きの中での話である。
コンスタンツェとしては、モーツァルトの名誉・評価を最大限に高めることが、自分が生きていくためにも必要なことだったはずである。

そして、その活動の過程で、ナンネルとも往き来するようになる。
著者の一環した、コンスタンツェ、ナンネルへの好意的な眼差しが、ようやく報われることになる。

Franz_Xaver_Mozart_(Wolfgang_Jr)_1825.jpg ところで、モーツァルトには2人の生き残った息子がいる。上の子(カール)はイタリアで官吏として生き、下の子(クサバー=モーツァルトⅡ)は、音楽で身を立てている。
コンスタンツェは下の子の方が音楽の才能があると考えて、カールには音楽の道をあきらめさせ(本人は音楽もやりたかったらしい)、クサバーはモーツァルトⅡ世として売り出そうと考えたらしい。
しかし、モーツァルトⅡ世は、それだけで演奏会に客を呼ぶことはできるけれど、残念ながらそれ以上にはなれなかった。おそらく本人は、大変な重荷と、自己否定感覚にまとわりつづけたことだろう。

モーツァルトⅡ世の曲を聴いたことがある(ピアノ四重奏曲)。
日本で歌われている「タンタンタヌキの……」にそっくりのモティーフが現れる曲だった。


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「無私の日本人」

2016-08-22_101814-crop.jpg 映画「殿、利息でござる」のテレビCMを見て、面白そうだなと思った。そして、原作というかタネ本が、磯田道史「無私の日本人」であると知って、「武士の家計簿」同様、これは期待できる作品だろうと思った。

映画はいずれテレビでも放送されるだろうけれど、何より、磯田先生の本なら面白いだろう、そう思って、すぐに電子書籍を購入した。

語り口、まさにそういう表現がピッタリである。カタイ歴史解説書のような、史料・解釈という体裁をとらない。まるで司馬遼太郎か吉川栄治を読んでいるみたいな感覚である。旅の道中、タブレットで一気に読んでしまった。

なんでも著者を「平成の司馬遼太郎」という人もいるらしい。


「無私の日本人」には3つの話がとりあげられている。穀田屋十三郎、中根東里、大田垣蓮月である。

598e97e9f7401b5a1cd68fed2266ba26.jpg 映画のもとになったのは、穀田屋十三郎の部分である。
私は映画は見ていないが、テレビCMから受ける印象はコメディ。だから本書を読み始めるときも、してやったりという領民の姿が描かれるのかと思ったが、そうではない。

藩側の役人、代官の橋本権右衛門、出入司(実質的な財政トップ)の萱場杢の2人が重要である。代官橋本は領民の思いを受け止め、領民の企てが成就することを助けるわけだが、出入司の萱場は領民の足下を見てさらに搾り取るわけだが、それでも実務官僚らしく、領民の知恵に興味を持つ懐の深さもあるようだ。

江戸時代の役人の仕事(不作為)ぶり、つまり先例主義、盥回し、そして相手の足下を見るには長けた様子が、縷々書かれていて、読んでいる側にも悔しさが湧いてくる。

中根東里については、本書を読むまで存在も知らなかった(もちろん穀田屋十三郎も知らなかった)。
儒者というより仁者と言うべきか。

rengetu01.jpg そして大田垣蓮月、この名前はどこかで聞いた覚えはあった。
本書によると今の京都大学構内に居住し、焼き物の工房跡が発見されている。今、その場所から西、御所方面へ行くには今でも今出川か荒神口、丸太町の橋を渡るわけだけれど、丸太町の橋を最初に架けたのは蓮月さんだという。しかも橋を架けるために貯めていたお金は飢饉のときにはすべて拠出したこともあるという。

また、江戸無血開城は、西郷と勝の会談の成果とか、天璋院や静寛院宮による両陣営への嘆願などといわれているけれど、本書によれば、西郷を動かしたのは蓮月の西郷への直訴だろうという。

あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば


以前、珍之助さまのブログへのコメントに、蓮月は「傍目にはどうみても不幸続き。自ら眉を抜き、歯を抜き、自分が美人であることをどれほど呪ったことか」と書いた。これも本書で知ったことである。

aa6dba62c7420895d1615f54e490e9c0.png 美貌で文武に優れ、血筋も高貴、そして無私無欲で慈愛に満ちた人。

中根東里と蓮月には仁慈の人として、通ずるものがあるように思う。
二人とも、傍目には恵まれない境遇を生きたように見えて、本人たちは至高の人生を全うしたようだ。

この記事を書くために蓮月をネットで見ていたら、「無私の歌人」という、本書のタイトルを採ったと思われる展覧会(既に終了)の案内チラシが見つかった。

あちこちに刺激を与えている本だ。
(残念ながら私は電子書籍で読んだので、お貸しすることができない。あしからず。)

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モーツァルトとオペラの女性たち~「モーツァルトと女性たち」(その4)

AnnaGottliebColorDetail.jpg この章は見事なまでにオペラの楽曲解説で埋め尽くされる。

モーツァルトのオペラといえば、本書では"ラ・フィンタ・センプリッチェ"(KV51)を最初に取り上げている。同時期に"バスティアンとバスティエンヌ"(KV50)もあるが、これは習作のようで、上演公開をもくろんだ最初の作品として"ラ・フィンタ・センプリッチェ"をとりあげたのだろう。
私ももちろんどちらも録音を聴いたことはあるけれど、映画「アマデウス」でもモーツァルトの成功を印象付けるシーンに使われた"後宮からの誘拐"(KV384)以前のオペラについては、正直なところ、後の"フィガロの結婚"(KV492)や"ドン・ジョバンニ"(KV527)などのような興奮を覚えることはなかった。

初期のオペラというと、"恋の女庭師"(KV196)は、他愛ないストーリーだが、それなりにまとまっているように思う(ドイツ語版とイタリア語版があることからも再演されていたことがうかがわれる)。
また、"ルチオ・シルラ"(KV135)は素晴らしい序曲やアリアがあって、それぞれ単独の楽曲として楽しめるけれど、劇作品としての完成度はいかがなものかというのが正直な感想である。

ちなみにルチオ・シルラという人物は、塩野七生「ローマ人の物語」によれば、とんでもない実力者であり、反抗者に対しては苛酷な処置をした人という。モーツァルトの作品のストーリーとはちと違うような気がするが。

そして"後宮"の大成功が際立つのだけれど、本書では、その前にミュンヘンで上演された"イドメネオ"(KV366)が重要な作品として、そして素晴らしい作品として取り上げられている。

ただ情けないことに、著者は"イドメネオ"のアリアやレチタティーヴォについて、生き生きと語るのだけれど、私にはその音楽が聞こえてこない、序曲は強い印象を受ける名曲で、単独で演奏されることも多い(オペラとは別だが"イドメネオのための舞踊音楽"も)。しかし、このオペラを通して視たことがあまりなく、また、ビデオを通して視ても、やはり退屈なのである。


そして、なぜ"イドメネオ"が後期のオペラと比べて、やや貧相な感じを受けるのかがわかった。
モーツァルトは、歌手に合せて音楽を作った。

FabPlayer_[20160718-175156-463] 歌手の力量が低いと、それに合わせた音楽にせざるを得ないのである。
もちろん「やさしい」曲では効果が得られないというわけではなく、モーツァルトはやさしい曲でも立派な効果をあげること、それは歌手の歌だけでなく、伴奏オーケストラにも役割を持たせることでもなされる、というわけだが、やはり、歌手の力量に差があると、やはりバランス感は落ちるのではないだろうか。

それだけに、どこで演奏する予定だったのかがわからないいわゆる三大交響曲(KV543、KV550、KV551)の成立が謎なのだ。


今なら、曲に合わせて、プレイヤーが集められるのがアタリマエだけど、当時はプレイヤーに合せて曲が作られた。これはモーツァルトのことだけではない。

そして演奏したい曲に必要なプレイヤーが参加できなければ、編曲という手段がとられる。"メサイア"のモーツァルト編曲版(KV572)では、あろうことか、第三部の「ラッパが鳴り響いて」のトランペットがない(ホルン代用)。


"イドメネオ"の後は、いよいよ"後宮からの誘拐"(KV384)が取り上げられる。ようやく思ったような仕事ができたというわけである。

だからこそ、映画「アマデウス」でも一躍、ウィーンのトップとして認知されるモーツァルトを表現するものとして取り上げられたわけである。

"劇場支配人"(KV486)にちょっと触れて、オペラ作品としてはもちろん中途半端なものであるけれど、サリエリとの腕比べでもあって、モーツァルトは楽しんでやった仕事だろうという評である。

JosephaDuschek.jpg そしていよいよ、"フィガロの結婚"(KV492)、"ドン・ジョバンニ"(KV527)、"コシ・ファン・トゥッテ"(KV588)、"魔笛"(KV620)が順次とりあげられる。そして、著者の解説の言葉が、その各楽曲を頭の中で響かせる、それぐらい的確な描写がなされる。

ところで、この4曲については、どれが一番好きか、という問いがときどきあるのだけれど、私は「最後に聴いたのが一番好き」と答えることにしている。
それは、誰だったか忘れたが、スタンダールが好きな人が「"赤と黒"と"パルムの僧院"のどちらが好きですか」と聞かれたら、最後に読んだ方、と答えることにしているというのを、そのまま使わせてもらっている。

著者は、もちろんいずれも不朽の名作としながらも、この中では少し評価が低いと思われる"コシ・ファン・トゥッテ"をかなり持ち上げる。私にも異論はないけれど、そう思うのは、他の3作品は、台本の乱れみたいなものがあって、演奏によっては曲の順序の入れ替えなどもあるのだけれど、"コシ"にはそういう乱れは全くなく、作品としての完成度としては最も高いと言えるからだと思う。

"フィガロ"は有名なザルツブルク音楽祭でのポネル演出カラヤン指揮の演奏では、楽曲の順序を入れ替えていたと思う。また、"ドン・ジョバンニ"はそうした乱れはないけれど、アリアの追加や終曲のカットなどはある。"魔笛"はベルイマンの映画版では、曲の順序が入れ替えられていたと思う。

もっとも、著者は"コシ・ファン・トゥッッテ"は、伝統的秩序や道徳への挑戦(これは他の曲でもそう)だと言うのだけれど、私のような現代人にしてみると、とてもそういう難しい楽しみ方はできなくて、当時はそういう評価もあったのだろうかとは思うものの、モーツァルトはいろんな人間がいて、いろんなことを考えて、いろんな失敗をするんだということを、見事に描いてくれたというようにしか思えないのだけれど。

いずれにせよ、この章を読んでいる間、頭の中に、オペラの各節が鳴り響くこと請け合いである。

上でゴシック体にした作品のうち演奏機会の少ないものをYouTubeから拾ってみた。

La Finta Semplice  (KV51)
Idomeneo  (KV366)
Entführung aus dem Serail  (KV384)
Der Schauspieldirektor  (KV486)
(演奏機会が少ないとはいえ、後二者は舞台も見たことがある)


高音質・高画質というわけにはゆかないにしても、こうやっていつでも見られるというありがたい時代になったものだ。


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「真珠の耳飾りの少女」来る

P_20160818_195702.jpg 絵の良し悪しなどわからないが、「真珠の耳飾りの少女」は気に入っている。

「本物そっくりの複製」が欲しいと思っていたが、展覧会で売られている複製画には食指が動かなかった。なんといっても真物を見てすぐだから、複製画との落差が大きすぎる。

どこにでもあるA4判の写真を安物の額に入れて飾っていたのだけれど、少々高くても、小ましな複製画はないものかと、ネットで物色していた。
複製画には、複写技術(ジクレーなど)を使ったものと、複製画家の手描きのもの、それを組み合わせたものがある。
手描き複製画の多くは、「フェルメール・ブルーを再現するため、ラピスラズリで彩色しています」というような謳い文句で売られている。たしかにフェルメール・ブルーはものすごく印象的だから、大きなポイントではある。しかし、手描きはどうしても複製画家の個性が出てしまうのではないかと考えた。

そうやって長く経ったが、自分で自分の誕生日祝いのつもりで、手描きよりは随分値段は下がることもあって、デジタル印刷を使ったものを買ってみることにした。
デジタル印刷にハイタッチメディウム加工

ハイタッチメディウム加工による複製画は、高度な技術を駆使し、原画本来の立体感や光沢を忠実に再現したものです。
精巧なデジタル印刷を施した画面に、無色透明の特殊樹脂を熟練した画家が専用筆で全面に塗ることで、油絵特有の盛り上がりや立体感が生まれ、絶妙な質感と、原画の趣を醸し出しています。

税別9,800円

Meisje_met_de_parels.jpg 物が届いて、不安一杯で開けてみる。やはり真物とは随分違う。(右は本物の写真)
真物と並べて見ているわけではなく、真物の素晴らしい記憶と比べているわけだから、勝てるわけがない。

ちゃんとたしかめなかったのだけれど、原寸より少し小さいようだ。もっとも、ダイニングの壁にかけるには、原寸大はちょっと大きすぎるかもしれない。
おもしろかったのは、玄関などの花を変えても全く気がつかないと私を詰る家人が、この絵が変わったことに全然気づかなかったこと。


ただ、これを見て思った。フェルメール真筆に拘らず、作品としての出来として考えるなら、手描き複製画が良いのかもしれない。もちろんヘタクソな画家の模写で、それとわかるほどのくずれ、とりわけ表情が違ってたりしたら、もう論外だけれど。
デジタルで下絵を作ってなぞるという技法のものについても、輪郭は崩れないかもしれないが、筆の勢いのようなものはそがれるのではないかと思う。

そういえば、去年、「フェルメール光の王国」展という催しに行ったことがある。フェルメールの現存する37作品の「リ・クリエイト」の展示。作品は経年劣化しているから、制作当時を再現しようというコンセプトによるデジタル複製画を作っている。
この展覧会の複製はさすがに出来が良くて、本物かどうかは別として、これはこれで欲しいと思った。

また、複製画を探していると、キャノンとリコーが質感印刷技術を開発したというニュースがあった。
キャノンは「真珠の耳飾りの少女」をこの技術で再現したというが、残念ながら、その成果品は販売されていないようだ。
リコーの方は、この秋(2016年10月7日~1月21日)に、上野の森美術館で開催される「デトロイト美術館展」で、その技術を用いた立体複製画を販売するという(開催中の大阪展では販売されない)。残念ながらフェルメールはないようだが、この技術の成果品は是非手にとってみたい。

こうも考えられる。贋物というけれど、世界に1品しかないものの贋物というのは罪がないのではないだろうか。それに対し、偽札のように、たくさんあるものの贋物では、真贋が問題になるのじゃないだろうか。
プロの贋作師というのは「○○の未発見の作品」というように、作品をまねるのではなくて、作家をまねるのだろう。「おしゃれ泥棒(How to steal a million)」でもそうだったと思う。

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さて、家に飾った「真珠の耳飾りの少女」、開封して最初は落胆もしたけれど、しばらくすると、そして、やや遠目で目をやる限り、前のA4ペラペラよりはましかな、そう思えるようにはなった。少なくとも、どの方向から見ても、しっかりとこちらを見てくる少女の雰囲気は再現されていると思う。
もっとも、見つめたら、やっぱり違うと思ってしまうけれど(なんといっても、9,800円である)。

複製画を求める欲は、まだまだ続きそうだ。

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モーツァルトのもうひとつの家族~「モーツァルトと女性たち」(その3)

この章では、モーツァルト自身の家族、つまりコンスタンツェとの結婚生活のことが書かれる。
そしてこの章で最も意外だったのは、コンスタンツェが良き妻であったとされることである。

Wolfgang-Constance_choco.jpg ザルツブルクをはじめ、オーストリアの土産物店には、二人の肖像がならんだチョコレート類が各種売られている。
私は、ながらく「コンスタンツェ=悪妻」という通説を疑っていなかったから、一体、オーストリア人は何を考えてるんだと訝しく思い、コンスタンツェが並んでいないチョコレートを探し、そしてそちらを土産に購入した。

でも、本書によれば違うみたいである。

コンスタンツェが(客観的に)悪妻であったかどうかは別として、モーツァルトが愛していたという一点において、モーツァルトにとっては良妻であり、コンスタンツェが並んで描かれる権利はあると思うようになった。

今までの知識では、コンスタンツェを悪妻にするためだろう、モーツァルトがコンスタンツェの身持ちについて小言をいう手紙などがことさら紹介されていたと思うが、本書では、恋する女性に対する自然な思いでしかないと扱われる。

Costanze_Mozart_by_Lange_1782.jpg モーツァルトがコンスタンツェの身持ち、つまり不倫を心配する手紙を書いたのは、不倫の事実があるからではなくて、嫉妬心、愛が他者に向かう事への心配にすぎないとも解される。

「お金の使い方をしらない男と、お金を使うのが大好きな女が結婚したら、破滅することは当然である」みたいなことが"青島広志のこれだけ!西洋音楽史!!"というCDの解説(ナレーション)にあったように記憶するけれど、コンスタンツェの浪費については本書では、少なくともこんな無駄なことにお金を使った、という形では出てこない。もちろん妊娠や病気その他、必要な経費は多かったようだが、どうも一番の「浪費」にあたるのは身の丈に合わない住居を借りた(それは音楽家として仲間を集め、有利な就職を得る投資という面もあるのだけれど)ということのようだ。
そしてむしろ、経済的危機にあっては、少なくともモーツァルトよりはうまく切り抜ける知恵を持っていたようだ。

コンスタンツェ=悪妻説が論拠とするのは、葬式のときにお墓まで行かなかった、モーツァルトの骨の行方がわからなくなった、死別後になってようやく夫が天才だったとわかったが、そのときは自分の金儲けのために利用した、云々である。

これが適正な評価であったかどうかは、最終章「モーツァルト亡きあと」で詳細に点検される。

Aloysia_weber.jpg コンスタンツェだけでなく、ウェーバー家全体に対する評判も芳しくない。
いくつかの評伝では、モーツァルトはウェーバー家の巧妙な罠におちて、はじめはアロイジアに気を惹かれ、ついでコンスタンツェと結婚させられたという評価がなされる。

しかし、本書ではその説には与しない。
この説のよりどころとなるのは、ウェーバー家を警戒するレオポルトの態度なのだろうと思うけれど、レオポルトはウェーバー家と利害が対立しているのである。
ウェーバー家はモーツァルトから絞れるものを絞ろうとしている、つまり自分の懐に入るべきものが入らなくなるという怖れを持っている、そしてそのことにより、モーツァルトをウェーバー家から引き離そうとしているということである。

モーツァルトは、繰り返し、「ウェーバー家の人たちは気持ちの良い人たちで、音楽的にも素晴らしい人たちです」とレオポルトに手紙を書いているが、前半はともかく、後半については、音楽に関しては絶対に妥協しないモーツァルトが嘘を書くはずはないと私は思う。だからといって前半の記述も正しいということにはならないけれど、レオポルトが言うように、モーツァルトがだまされているという証拠にはならないだろう。

長姉ヨゼファも、アロイジアも、素晴らしいソプラノとして成功を収めている。おそらくモーツァルトよりも、安定した生活をしていたものと思う。また、何といっても、モーツァルトの最後の世話をしたのは、末妹のゾフィーである。
ウェーバー家が、家ぐるみモーツァルトを金づるとして取り込んだというのは、やはり無理があるように思う。


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上本町で一献

IMG_20160819_190903.jpg 昨夜は、また前の会社を退職した人と、上本町界隈で一献。

先日も退職者と飲んだけれど、これは別人。


今回は、年齢は私より下だけれど、かつての上司。いろいろお世話になったし、私のわがままな行動を支えてもらってもいた。
昨年の3月末で退職されて、本来ならすぐにでもお誘いすべきところ、お忙しそうなので(その様子はFacebookで伝わってくる)、ご無沙汰になっていた。

そのFacebookで私の誕生日が通知されるので、そのお祝いメッセージをいただいたので、暇なときに飲みに行きましょうということで、昨夜になったというわけ。

P_20160819_232028.jpg 久しぶりに、仕事上でも、生活上のことでも、いろいろ示唆に富んだ話が聴けて、和やかに旧交を温めることができたと思う。

勘定は割り勘のつもりだったけれど、それに私の方がビールも焼酎も多く飲んでいるのに、私は半額以下しか払っていない。
おまけに、なぜか手土産までいただいてしまった(写真の昆布)。

こういう呑み会なら、何度やっても良い。

勘定やお土産のことではありません。


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モーツァルトの家族~「モーツァルトと女性たち」(その2)

随分、日があいたけれど、グラヴァー「モーツァルトと女性たち」の各章についての感想を順に書くことにする。
同書の第1章は「モーツァルトの家族」である。

アインシュタイン「モーツァルト:その人間と作品」は、レオポルトがザルツブルクへ来るところあたりから書かれていたと思う。アウグスブルクやインゴルシュタット(あのフランケンシュタインが怪物を生み出した大学街)ではなく、ザルツブルクへ来るところからである。

Leopold_Mozart.jpg グラヴァー「モーツァルトと女性たち」では、それよりも一世代前、モーツァルトの祖父母から語られている。
それは父レオポルトや母アンナ・マリア(生地ザンクト・ギルゲン―後にナンネルもここで暮らす時期がある―にはこの縁による小さな記念館がある。ちょっとした土産物売り場もあって、リコーダーを買おうかと思ったけれどジャーマン式しかなかったのでやめた)がどういう人達であったのかを書くためである。

そして、レオポルトがその父とも喧嘩別れするような、かなり我儘な人間だったと推察されることが書かれる。

このことは、レオポルトは厳しい父であり、方針の違いからヴォルフガングと対立することになるが、厳しくても立派な父であったと思っていた私の思い込みとは微妙に違う。本書では頑固な独裁者という一面が浮き彫りにされる。

モーツァルトがウィーンへ行ってしまったことに対する怒りは、モーツァルトが親の忠告を聞かないことに対するものだけではなくて、また、親らしい気遣いからだけということでもなくて、ザルツブルクで経済的には不遇(結局、副楽長どまりに終わる)だったレオポルトにしてみれば、その頃、既にモーツァルト一家では、モーツァルトが収入面での大黒柱であったことが指摘され、そうした経済的理由からでもあったという。

ベートーヴェンの父親は、ベートーヴェンをモーツァルトのようにして、息子から搾取しようと考えていたという話があるけれど、レオポルトもそうした面があったわけだ。ただ、レオポルトは教育者としては素晴らしかったわけで、そこがベートーヴェンの父とは違い、「厳しいが立派な父」という評価を得ることになったのだろう。

anna_maria_mozart.jpg
アンナ・マリア(マリア・アンナと書いてる本もあるけど)のイメージも違っていた、というか今までは知らなかった。
母アンナ・マリアはパリで客死するわけだが、レオポルトの命令で、モーツァルトに付き合わされて、息子にはほっとかれ、寂しい思いをしながら、冷たい部屋で死んでしまった、かわいそうな母、そのように書いている本が多いと思う。
しかし、本書では、アンナ・マリアは、モーツァルトとの旅を楽しんでいた様子も描かれる。それはレオポルトから離れて羽根を伸ばしたという面もあるに違いない。

たしかに、モーツァルトは仕事を求め、旧交をあたため、また新しい人脈を築くため、母をほったらかしにしたこともあっただろう。アンナ・マリアは一人でさびしく食事をしたことも多かったかもしれない。それでも、うるさいレオポルトから離れ、モーツァルトと一緒にいることは楽しかったのだろう。
アンナ・マリアは大酒呑みだったというから、決してひよわな体質ではなかっただろう。死の数日前までは元気そうだったという。

マリア・アンナ(ナンネル)についても、他の伝記などでは、子供の頃の一瞬しかナンネルの姿は描かれないことが多いけれど、本書では、ナンネルの弟に対する感情の変遷、無邪気なパートナーから嫉妬の対象へ、そして評価・自慢の弟へと変わっていくことが示される。

モーツァルトとレオポルトのイタリア旅行には、最初の大旅行とは違い、アンナ・マリアもナンネルも同行していない。今まで、そのことについて不審に思ったことはない。モーツァルトの成長及び就職のためで、その期待を受けていないナンネルが一緒に行かないのは当然である。なにより、一番大きな理由は、旅にはお金がかかるということである。そしてその通りなのかもしれないが、著者は、残された母娘の気持ちに着目する。
その一方で、モーツァルトとナンネルの「暗号」通信、下ネタ満載の手紙から、二人の気持ちが通じ合っていたことも(モーツァルトの結婚までは)、丁寧に記述されている。

Maria_Anna_Mozart_(Lorenzoni).jpg とりわけ、ナンネルについては、ピアニストとして当代一流の腕をもちながら、弟の陰に隠れていることに対し、はじめは悔しさもあったのだろうが、弟を凌駕できないことを自覚しながら、やはり自分の腕前は披露したかっただろうと、思う。
そして、レオポルトから最大の被害を受けたのは、ナンネルだったのかもしれない。

著者は、ナンネルへの思い入れを強く持っていると思う。
本書のカバーにナンネルの肖像が使われていることもその表れではないかと思う。
ナンネルは本書の最後の章「モーツァルト亡きあと」で再び大きな役割を果たすことになる。

モーツァルトが弟でなければ、彼女は素晴らしい音楽家として(レオポルトも彼女に多くを期待しただろう)歴史に名を遺したにちがいない。その肖像画を見れば、きりっとした美人であったことがうかがわれる。

だけれど、結局は「モーツァルトの姉」としてしか名を遺さなかったというわけである。

あと、モーツァルトの家族には、"ビンベルル"(または"ビンベス")と呼ばれていた一員がいる。
旅先からモーツァルトがナンネルに「太らないよう餌を与え過ぎないように」と注意していた、フォックステリアである。("His master's voice"の種類もフォックステリアのようである。この種類には音楽が似合うのかな。)

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【追記】

ザンクト・ギルゲンで撮った写真があったのを思い出したので載せることにした。
アンナ・マリアの像と、モーツァルトの記念館。


P1000906s.jpg

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夏休みのまとめ

kotohira_hongu.gif 昨日までの3日間の夏休み・旅が終了。

旅の間はスマートフォンからブログ記事をアップしていたけれど、都合によりアップしなかった写真をオマケ。

右の1枚は、金毘羅さんの本宮脇で撮ったもの。
一緒に上った知人による撮影。
顔出ししないように加工するため、リアルタイム投稿には入れなかった。

このときは本当に疲れていて、写真を撮る気がまったく起きなかった。
去年来たときは宿のチェックアウト時刻が気になって、馬のところでUターンしたわけだが、そのときは特に体に「異状」は感じなかった。それで、今回は本宮まで上ってもたいしたことはないだろうとタカをくくっていたわけだが、ペースが速かったのか、それとも単にこの1年で自分の体力が減退したのか、実にきびしかった。

汗だくで、シャツもビショビショ、汗が目に入って痛い。
御利益はいい、何か飲み物を今すぐくれ! という感じ。

飲み物はあるよ。平地で140円ぐらいのお茶が200円で。

帰り、つまり降りるときは、足がわらっていたので、上りより時間をかけて慎重に降りた。

そして今日、金毘羅さんから2日後、今、こうして原稿を書いているときも、まだ脚がいたい。
とくに、ふくらはぎが痛む、そして少し熱っぽい。
年寄りは翌日より、翌々日に痛みがでるという。そしてその翌日も残るという。
オリンピックで連日走り回っている選手たち、えらいなぁ。

(比べるほうが間違いの声が聞こえるけど。)


P_20160816_184520-crop.jpg

金毘羅さんから宿へ戻って、すぐにお風呂。
これが近所に宿をとる最大のメリット。なんといっても温泉宿だし。
汗だくになったシャツをそのままハンガーにかけて乾かした。宿には着替えを持ってきていなかったもので。

夜はコース料理。温泉旅館としては、まぁ普通。
鮎の塩焼きがついているコースを選んだのだけれど、できれば焼き立てのあつあつを出してもらいたい。

右の写真は、その夜の食事のときに注文した地ビール。
「空海」のほうはいかにも地ビールという感じで、発酵しきっていない麦の雰囲気が残るもの。
もうひとつの「さぬきケルシュ」は、それよりは洗練されて、つまり、普通のメジャーブランドのビールに近い。

ただ、この2本の後は飲みなれたプレミアム・モルツにしたけれど。
料理の写真はパス、というか撮り忘れ。写真を撮ると、ブログにでも載せるつもりかと言われるので。


ひたすら疲れる夏休み。
最後は、立ちっぱなしの新幹線で終了した次第。

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夏休み(3)

昨日は金比羅さん、今回は本宮まで上った。



去年来たときは、馬のところまでで、宿のチェックアウト時刻の関係で折り返したが、今回は宿泊日なので時間的には余裕があった。
余裕がなかったのは体の方。

去年は途中までとはいえ、特に体がきついということはなかったのだけど、今年は馬のところまででへとヘと。
それでも今年は本宮までと力をふりしぼって。

写真を撮る余裕もなく、上の写真はネットで拾ったもの。


宿はちょっと贅沢して、和室2、洋室(ダイニング)の広い部屋。







洋風のホテルならスイートという範疇に入るのかもしれない。
コーヒー・紅茶はラウンジで飲み放題。プライベ-ト浴場(露天)も使える。

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夏休み(2)

四国の2日目は墓参り。

目指す墓を守るお寺には戦没者墓地もある。


「殉国烈士 共同墓地」

奥に見えるのは、日露戦役戦没者霊。


こんなものも。



四国香川といえば。



この店ではこれも好評。



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夏休み(1)

今日から3日、夏休み。

家人の付きあいで久しぶりの四国。今日あたりUターンラッシュのピークらしいが、逆コースなので新幹線も在来線の特急も空席が多い。



予定外だったのは、お昼を食べるつもりだった岡山駅ホームのうどん屋が営業終了になってたこと。



車内販売の弁当でしのいだけど。



途中駅で特急が7分ぐらい停車。車内放送がホームに灰皿があると言うので、これは利用しないわけにはゆかない。
親切な車掌さん、ありがとう。

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リオ・オリンピックの謎

2016-08-12_113241.jpg 「謎」などと大袈裟だけれど、この南米はじめてのオリンピックでは、ちょっと首を傾げることがある。

まず、連日熱戦がライブで放送されるのは良いのだけれど、日本でのお昼前ぐらいに競技が行われている。
リオとは時差12時間、つまり真夜中である。

先日の女子バレーボールのブラジル戦は日本時間の朝10:35試合開始。こんな時間に始めたら日付が変わるんじゃないかと思ったのだけれど、結果はブラジルが3セット連取したので、日付が変わるまでに未だ10分ぐらい残していたように思う。


卓球の愛ちゃんは、準決勝を日本時間の22:00に開始して、3位決定戦を8:30に開始していた。現地では、朝にやって、その日の夜にやるというスケジュールだけれど、日本で観ているほうとしては、一晩寝て試合に臨んでいるような錯覚を覚えた。

ガセネタかもしれないが、以前、何かで読んだのだが、オリンピックの競技時刻は、メディアの意向(つまり多額の放映権料を支払うメディアが自国民が視聴するのに都合の良い時刻)で決まるというような話がある。


それはともかく、ブラジルの人たちは、普通、一体、いつ就寝するのだろう。
高緯度地方なら、夏は大変な宵っ張りになるというが、ここはブラジル、しかも冬である。

次に、これは夏の大会だということ。ブラジルは今は冬じゃないの?
IOCの公式ページでも、"the Rio 2016 Summer Games"と表示されている。

どうやら、夏とか冬とかいうのは、大会を開催する季節を指しているのではないらしい。IOCのページを見ると、"Summer Sports"と"Winter Sports"という区別がある。どうやら、この競技分類によって、夏か冬かを決めているらしい。

  Winter Sports  
  Alpine Skiing
  Biathlon
  Bobsleigh
  Cross Country Skiing
  Curling
  Figure skating
  Freestyle Skiing
  Ice Hockey
  Luge
  Nordic Combined
  Short Track Speed Skating
  Skeleton
  Ski Jumping
  Snowboard
  Speed skating
  
  Summer Sports  
  Archery   Fencing   Table Tennis
  Athletics   Football   Taekwondo
  Badminton   Golf   Tennis
  Basketball   Gymnastics Artistic   Trampoline
  Beach Volleyball   Gymnastics Rhythmic   Triathlon
  Boxing   Handball   Volleyball
  Canoe Slalom   Hockey   Water Polo
  Canoe Sprint   Judo   Weightlifting
  Cycling BMX   Modern Pentathlon   Wrestling Freestyle
  Cycling Mountain Bike   Rowing   Wrestling Greco-Roman
  Cycling Road   Rugby   
  Cycling Track   Sailing   
  Diving   Shooting   
  Equestrian/Dressage   Swimming   
  Equestrian/Eventing   Synchronized Swimming   
  Equestrian/Jumping      

それなら"Summer"という言葉に拘らず、東京2020は、前の東京五輪のように、10月に開催すれば良いのではないだろうか。
先日、東京都心が37℃を超えたという。これは気象観測場所での気温だから、日なたやアスファルトの上だと40℃を軽く突破し50℃にもなるだろう。
これでは、ジカ熱以上に嫌われるんじゃないだろうか。

この8月に開催するというのも、真偽のほどはわからないが、視聴しやすいバカンス時期にオリンピックをやってもらいたいというメディアの意向という説もある。


"Athletes first but …"

(but media)


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今年のタカサゴユリ(2)

P_20160812_184208.jpg タカサゴユリの開花は先日報告したけれど、その後、開花がさらに進んだのであらためてアップする。

前回アップしたときは1本だけ咲いていた。昨日は隣り合う3本がそろって咲いている(写真右)。

手前の2本を下から見上げたところ(写真下)。

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うちを向かいにするお宅のタカサゴユリも開花がはじまっている(写真右)。

P_20160810_183919-crop.jpg 去年も紹介した近所の空き地(地目山林)にも(写真左上)。
この空き地は9月から宅地化の工事が開始されるから、今年が見納めになる。ここにはカルガモ一家も住んで居るらしいけれど。
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私の住んでいる街では、あちこちでタカサゴユリを見かける。
そして、多くのお宅はそのまま放置しているようだ。

最後の写真(右)は、駅のそばの信用金庫の前の植栽。タカサゴユリを園芸店などで売っている様子はないから、やはり自然に生えてきたものと思う。会社がきちんと手入れをしているだろうから、野生の花も抜かずにそのまま楽しむ方針のようだ。

花はそれなりに美しいけれど、根が弱くて、倒れやすい。うちのタカサゴユリのように1.7mにもなると、見るからに不安定ではある。

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知識のアップデート

2016-08-06_134220.png リオ・オリンピックが始まっている。
オリンピックといえばブログのネタの宝庫のようにも思えるが、イチローの3000安打や天皇陛下のメッセージなど、時事の話題が多くて、後回しになってしまった。

というか、直前まであまり盛り上がりを感じていなかったのが本当のところだけれど、やはり開会し競技が始まり、連日のニュースを眼にすると、やはり力が入ることを避けられない。

今日は、開会式の中継を見ていて、オリンピックそのものとは関係ないけれど、ふと思ったこと。
といっても、実は開会式で行われたアトラクションの方は、中継では見ておらず、ニュースで少し見ただけである(NHKでは広島平和記念式典の中継があり、その後からオリンピックの開会式が中継された)。

Rio_parade_tricycle1.jpg つまり、実質的には各国選手団の入場行進から見たようなものであるが、これを見ていると、世界の国々についての知識がアップデートされる。
インドの人口が世界2位だということは常識として知っているが、今は12億人を超えているとは知らなかった。中国が13億人だと思っていたが、インドとの差が「わずか」1億人とは。

つまり、開会式の入場行進では、各国のことが紹介されるから、ずぼらな私が各国の知識を仕入れる良い機会を与えられるわけである。もちろん調べようとすればいつでも簡単に調べられることだけれど、あまり関心・知識のなかった国についても、こうやって情報をプッシュされる機会として貴重。

以前、フランス映画で「ザ・カンニング」(邦題)というのを見たことがある。バカロレア合格を目指す受験生の話だが、中にとっくに定年を過ぎたおじいさんが混じっていて、他の学生とは異なり、真面目で勉強熱心なのだけれど、いかんせん知識が古い。そもそも持っている教科書がそのおじいさんが高校にいたときのものらしく、いまだにプロシアが存在しているという具合。


若い頃はこういう大イベントについては冷笑的な態度をとったりもした。どいつもこいつも何がおもしろいんだ、というわけである。大阪万博も、かろうじて会場へ行っても、月の石なんか見てやるものか、というわけである。

けれど、今ではそうした態度については後悔する。やはり目の前で歴史に残る(であろう)イベントが繰り広げられているとき、その証人になっておくほうが、結局トクなように思える。
大群衆に辟易するとしても、この中に居たんだよと子供や孫に言えるほうが、カッコイイんじゃないだろうか。

そういえば、100kmの渋滞につかまったとか、1km進むのに1時間かかったという経験をすると、その後、何年もの間、これをネタにすることができるわけだ、「大変だった、大変だった」で。


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山の日

fukei0146la70.jpg 今日は、史上初の「山の日」
祝日法では
山に親しむ機会を得て、
山の恩恵に感謝する
」とある。

実は7月ぐらいになって、夏休みの予定を考え始めるまで、8月11日が祝日だということを全く失念していた。
普段使っているOutlook予定表だと祝日が標準では入っていないようで、気がつかなかったのである。

それにしても由来がはっきりしない。「海の日」が先にできたから、「山の日」もということなのか。それなら、「川の日」があっても良い。「山」と言えば「川」が決まり事だし。もっとも、山岳会のような組織がないと、祝日制定運動自体が起きないだろうけど。
8月11日にしたことにも特段の意味はないらしい。ただ8月12日はあの日航機事故の日なので、この日を外したというような話を何かで読んだ覚えがある。

祝日の乱造は経済活動に悪影響という意見もある。「山の日」についても、そういう理由で反対した会派もあった。
ならば、オリンピックみたいに4年に1度の祝日とかやったらどうだろう。2月29日だってだいたい4年に1度だし。
今年は「山の日」だが、来年は「川の日」、再来年は「空の日」、そしてその次は「池の日」なんて。

それにしても、この祝日は誰が喜ぶのだろう?
学校は夏休みに入っているから、子供にとってはあんまり意味はなさそうである。
山の日ができたので、夏の特別休暇を1日減らした会社もあるらしい。

さあ次はまだ祝日のない6月。
「水の日」なんてどうだろう。

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今年のタカサゴユリ

P_20160809_184209s.jpg 今年もタカサゴユリが咲いた。

⇒去年のタカサゴユリ


去年、「来年も咲くだろうか」と書いたけれど、今年は昨年以上に成長した姿である。
草丈は、上の写真のように、高いものは1.7mぐらいある。
これほどの丈だから、花が咲く前に、2本倒れてしまっていた。

P_20160809_184218-crop.jpg














こちらは我が家を向かいにするお宅のタカサゴユリ。丈は低めだけれど、それがかえって良いバランス。

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陛下のお気持ち

Flag_of_the_Japanese_Emperor.png 昨日、天皇陛下のお気持ちの、「象徴としてのお務めについて」ということのようだが、ビデオメッセージが配信された。

天皇陛下』などと平気で書いているけれど、小学校の頃、敬語の練習で、「天皇陛下におかれましては」とやったら、親から注意された。
「『天皇陛下』などと直接指し示す言葉など使ってはいけません、『畏きところ』におかせられましてはと、陰に示すようにしなければなりません」と。また「おかれ」では敬意が足りず、「おかせられ」と二重敬語を使わなければならないとも。
昨今は、NHKですら敬語が乱れているようである。


以前、生前退位の意向が伝えられた時も本ブログでとりあげたけれど、私は、ご退位されても、それで国が乱れるというようなことはないと書いた。
世間には、摂政を置けば十分じゃないかとか言っていた人もいるけれど、今回のお言葉によれば、そういう問題ではないことが、はっきりと伝えられたと思う。

陛下は、後の準備をされようとしているのだ。そして、それが国民生活に大きな影響を与えることをご心配されているのだ。

おそれおおくも、私の前の記事でも、喪葬のことや、元号のことを考えると、計画的に譲位されるほうが、準備期間のことも含めて混乱が少ないだろうと書いたが、陛下も同じようなご心配をされているように思った。
もちろん、「計画的に」なんて畏れ多いことかもしれないが、崩御を今か今かと待つほうが畏れ多いのではないだろうか。

先帝のときには、みながXデーを心配していた。その日が来たときにはどう対応しなければならないか、対応マニュアルも作られていたことだろう。

kyoto_gosho_kunaicho.jpg 退位されたら国事行為をすることはなくなる。それだからといって、ただ飯食らいなどと言う輩がいるはずもない。内廷費がとりたてて増嵩することもないだろう。
いや、この際、内廷費を上げてもらって、上皇におなりの陛下には、京都御所にお住まいいただいたらどうだろう。
同志社の学生が、ボランティアで、北面の武士よろしく、お守りするでございましょう。

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イチロー3000安打

とうとうイチローがメジャー通算3000安打を記録した。
時間の問題とはわかっているものの、あと2本になってからなかなか1本が出ずやきもきした。

前に、日米通算でピート・ローズを超えたときにも取り上げたけれど、それまでのMLBの価値観自体を揺るがす記録だと思う。

何より、米国民がイチローを尊敬し、打席ごとにスタンディング・オベーションで迎えられるという姿が、印象的。
イチローは、その期待に応えようという気持ちが強すぎたことが、記録を目前にしての足踏みにつながった、さすがのイチローでも、そういうところがあったのではないだろうか。

とにかくおめでとう。
そして、素直に喜び、イチローに敬意をはらってくれる米国民にも感謝したい。


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淀川の花火

P_20160806_174053-crop.jpg 昨日は淀川の花火大会。「なにわ淀川花火大会」というそうだ。
第28回、平成元年から行われているそうだ。

で、知人の自宅が、その打ち上げ場所のすぐ前のマンションである。

以前、私が住んでいたマンションは「水都祭花火大会」の打ち上げ場所(豊里大橋)に近く、ベランダから見物したりした。隣のベランダも同様なので酒のあてを交換したりして盛り上がった覚えもある。この花火大会は、今は天神祭の花火と一緒になって、もう行われなくなったようだ。


というわけで、お招きいただいた知人の家で花火鑑賞。

P_20160806_175505-crop.jpg 相当の人出という話だが、まず家から電車に乗るとき、既に浴衣姿の人たちがいる。えっ、こんなに遠いところからでも(私もそうだけれど)淀川の花火に行くんだろうか?
そして環状線に乗り換えると浴衣姿の人がどんどん増える。この人たちも花火大会?

知人宅へ行く前に、デパ地下でお寿司とケーキを買ったが、ここも大変な人(ここは花火がなくても人が多いと思うが)。
タクシーを拾おうとしても長い列。あきらめて知人宅まで15分ぐらいの道のりを歩くことにしたが、ここもまた大量の人。警察官や誘導の警備員がたくさん出ていて、花火大会の方はこちらへと、大声をあげている。

P_20160806_194215.jpg 知人宅前までくると、スーパーの入口に数十人が並んでいる。何事かと思って見ると、「トイレを利用される方はこちらに並んでください」と掲示されている(2番目の写真)。

マンションの入り口では、管理人が行き先をチェックしていた。このマンションが絶好の見物場所となっているから、勝手に入る人がいないようにしているらしい。

というわけで、花火の見物客の数は並大抵ではない。知人の部屋から川岸の桟敷のほうを見ると、まだ打ち上げまで2時間もあるというのに、既に人でいっぱいのようである(一番上の写真)。

花火の様子は、ビデオでご確認いただきたいが、1時間にわたって、切れ目なく大量の花火が打ち上げられた。その轟音も大変な迫力であった。

⇒ビデオ。花火大会のフィナーレ部分(2分25秒)


P_20160806_204232.jpg このマンションの住人は、だいたいが川が見える廊下に出ている。そして、あちこちから拍手や歓声が上がる。
そして、どうやら私同様、住人に招かれてきている人も多いようだ。
(帰りのエレベーターも満員である)

大いに満足して知人宅を後にしたが、ここからがまた大変である。
見物を終えた人の波が全く途絶えない。私は新福島駅まで歩いたのだが、どこで見物していたのか、あちこちから人が湧いてくる。
そして、新福島から電車に乗るわけだが、おそらく海老江ですでに大勢が乗ったのだろう、大変な混雑である。
これは大変だ。
汗だくになりながら満員電車で帰宅。

まぁ、それでも良いものを見せてもらった。
来年は、もう少し余裕を持って、帰りもゆっくりめにして、人混みを避けるようにした方が良いかな。

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夏休み消化第一日

昨日まる1日、夏期特別休暇を取得。
今の職場は(前のところも)、お盆休みというような会社全体の休みはなくて、その代わり一定日数の特別休暇が与えられる。
IMG_20160805_151019.jpg
役所というのはだいたいがお盆休みというものはないようだが、昔、某県庁が、お盆に合せてほぼ全職員が休暇を取るという試みをしたことがあった。役所が休むには、条例で休日を決めないといけないから、開庁したままである。それでも、エアコンや照明を使わないから経費節減になるという話だった。
職員がいないのに開庁しているのも変なわけだが、そこはさすが役所、各部屋ごとに最低1名は休まない職員を用意していたらしい。
あまりに大胆な試みだったから、テレビ局がその様子を報道していた。かわいそうな出勤組の職員が、部屋でゆっくりテレビを見ているところをテレビカメラに写されて慌てる様子が流されていた。

さて、私の夏休みだけれど、別に旅に出るわけでも、体を休めるわけでも、ましてや家の仕事をするわけでもない。昨年、家人が入院手術に至ることがあったが、その後の経過観察に付き合っただけ。
ただ、担当医が忙しく、1時間も待ってようやく診察。
重篤な所見はないということで、また3ヵ月後に。

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論理的思考には訓練が必要

論理学というのは、哲学科と数学科の両方にある。(数学は哲学の一分野だという説もあるけれど。)

それぞれ伝統的論理学、形式論理学が対応するけれど、形式論理学は1年はおろか半年の内容にも足りないと考えられているのか、アタリマエに習熟していると考えられているからか、数学科の講義にはそういうものはなかった。
対して、伝統的論理学の方は、教養の講義(論理学)にちゃんとあって、形式論理もこの講義の中で少し触れらていたと思うけれど、内容はギリシア哲学の思弁、詭弁についてであったと思う。

大学の講義は名前が同じでも、内容は教官の趣味で決まるから、これが一般的かと言われたら、他の講義は知らないから、何とも言えない。


で、どちらの論理も使いこなす、つまり論理的思考を行うには、訓練が必要だと思う。
形式論理の方から書くけれど、高校のときに関連書を読んで、演習問題で論理式の操作を練習したことがある。この勉強が役にたったと思ったのは、ε-δ論法の理解。

epsilon-delta.jpg ε-δ論法というのは、周知のとおり極限(無限)の概念を記述(定義)するものだけれど、これが極限の定義になるということを了解するのには、やはり形式論理、とりわけ限定命題に親しんで、その思考方法を身に付けていないと難しかったのではないかと思う。


そして、その思考方法・記述方法というのに慣れれば、前にも書いたけれど(限定記号の使用例)、それに代えられるツールはない。
限定命題の「強さ」もしっかり意識している人は必ずしも多くはないと思う(説明されれば納得するだろうけど)。

xy [P(x,y)] ⇒ ∃xy [P(x,y)] ⇒ ∀xy [P(x,y)] ⇒ ∃xy [P(x,y)]


Aristotle_Altemps.jpg 次に伝統的論理学の方だけれど、これが役に立つのは詭弁や詐欺への備えである。
冒頭にあげた大学の論理学の講義でも、アリストテレス論理学でいう「虚偽論」がおもしろかった。

Wikipediaの、「詭弁」や、「誤謬」にさまざまなタイプの虚偽論理が説明されている。

このブログでも、政治家の主張が非論理的ではないかと指摘してきている。

「集団的自衛権は主権国家には認められた権利(だから行使して当然)」(⇒憲法と安全保障
権利があるということとそれを行使することは別で、主体的な判断の問題。日本はその判断に基づいて行使しないとし、それを憲法解釈として対外的に説明してきたのである。そのことを議論すべきなのである。

関連して、耳を疑うような言説が耳に入った。
「憲法9条を改正しないと立憲主義が空洞化することになる」
一昨日就任の新防衛大臣の発言だという。

ちなみに以前防衛大臣を務め先日都知事になった人の都庁初仕事は、日本国憲法無効・大日本帝国憲法への復帰を唱える人を政務担当特別秘書に選任したことらしい。

空洞化している現実を肯定し、実態に憲法を合わせようという主張である。空洞化しているなら、その是非が議論されるべきだが、この言説には、その議論を詭弁によって退けようという意思が感じられる。

いずれも「論点先取の虚偽」と理解される詭弁である。はじめに結論(主張)があり、それを推論の結果であるかのように見せかける一種の循環論理である。
こうした言説は論理的には意味はないが、アジテーション効果が期待される。

「このものの後にある、ゆえにこのものゆえにある(post hoc ergo propter hoc)」(前後即因果の誤謬)=時間的順序関係を因果関係にすり替える手法=もよく政治家によって使われる。
政策の効果を、それを行った場合と行わなかった場合を比較して評価するのではなく、結果としてのみ評価する(効果がなかったら「道半ば」と言う)方法である。
また、以前、「わら人形論法」にも言及したことがある。論点をすりかえて相手を攻撃するテクニックである。

蛇足だけれど、私は結論の是非について主張するものではない。あくまで論理的陥穽に注意しているだけである。


形式論理という言葉は、論理学を知らない人からは「実体のともなわない空疎な理屈」という悪い意味で使われることがある。

「あなたの言ってることは形式論理だ。形式論理は完璧だ。」⇒「あなたの言ってることは完璧だ。」
多義語の誤謬

しかし、形式論理は論理性の最低条件である(数学基礎論的にはそんなにアキラカではないかもしれないが)。
そして詭弁を論駁する上では、形式論理の使用、つまり相手の陳述の言替え(トートロジー)を駆使することが有効になる場合もある。

【例】
「集団的自衛権は主権国家には認められた権利(だから行使して当然)」という命題を正しいとすると、集団的自衛権を行使しないと主権国家として認められない、つまり永世中立の孤立主義国は主権国家ではなくなる。それを詭弁というなら、集団的自衛権を保有していてもその行使は主体的に判断すれば良いという理屈になるはずだ。


前記の詭弁は、そうとわかって使っているなら悪人だし、論理的誤謬に気づいていないなら愚人だろう。

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「モーツァルトと女性たち」

51dDFs7H74L.jpg ジェイン・グラヴァー「モーツァルトと女性たち:家族、友人、音楽」(原題:"Mozart's Women")は、472ページの大著である。
グッドール「音楽の進化史」なみの分厚さである。

著者は女性。指揮者でもある。
この本を読むまで、この指揮者の存在は知らなかった、というか多分、今までにテレビの音楽番組などで絶対に見ている人だと思うけれど、指揮者として意識したことはなかった。

タイトルは「……と女性たち」とあるが、女性との関わりばかりが書かれているわけではない。というか、むしろサブタイトル「家族、友人、音楽」の方がピッタリであろう。「……と女性たち」としたのが目を惹くためというわけではないとは思うけれど。

タイトルから連想されるような、モーツァルトと女性のエピソードを集めたというものではない。
しっかりしたモーツァルトの伝記である。この内容なら、どんなタイトルが付いていてもかまわない。

私はモーツァルティアンを自任するくせに、まとまった伝記といえば、アインシュタイン「モーツァルト:その人間と作品」ぐらいしか読んでいないのだけれど、アインシュタインは楽曲ジャンルごとに、その曲が書かれた、あるいは演奏された時期といった形で伝記的な記述があるわけだし、普通の伝記なら年代記という形で年を追って書かれる。
この本は、人間関係をカテゴライズ、つまり、家族(レオポルト)、もう一つの家族(モーツァルト、つまりコンスタンツェと営んだ家族)、演奏家(オペラ歌手たち)というように分けて、それぞれの関係に沿って記述している。

前奏曲
モーツァルトの家族
モーツァルトのもうひとつの家族
モーツァルトとオペラの女性たち
モーツァルト亡きあと
後奏曲
目次は右のとおりだけれど、したがって、読者は少なくとも3回、年代に沿った記述を読むことになる(「モーツァルト亡きあと」だけは、当然だけど、対象年次が異なる)。
そして、それが無駄な努力ではないということは、読めばわかる。

というか、4つの章ごとに1書としても何らおかしくはない。
1書としたのは、前述のような書き方からわかるように、章をまたぐ引用があるから、それを別書の参照という煩わしさを防ぐという意味なのかもしれない。


もし難を言うとすれば、カテゴライズされている分、そこから漏れ落ちる人間関係というのもあっただろうから、そこの欠如感のようなものがあって、「完全な伝記」とはならないことだ。完全な年代記であればそういう感覚にはならないのだろうけれど、それは他書に期待すれば良い話であって、この独自のカテゴリーに沿った叙述は実に興味深い。

もう一つ、節の見出しなど一切ないこと。
分量からして、一気に読めるような代物ではないのに、どこまで読んだか見失ってしまいそう。

小説ならその世界に浸って、偽の体験として、偽の記憶として、その時間を生きれば良いから、見出しなどなくても問題ないのだろうけれど、これは研究成果物なんだから、少しは数段落ごとに内容を端的に表す見出しが欲しくなる。でないと、寝る前に読んでいて、今日はどこまで読もうかという、その区切りがつかないじゃないか。


P_20160731_105854.jpg モーツァルトの伝記的知識といえば、前述のアインシュタイン以外では、演奏会のパンフレットやレコードの解説(「モーツァルト全集」の膨大な解説もある)によるものが多い。また没後200年にNHKが1年間放送した「毎日モーツァルト」も相当な情報量である。

であるけれど、本書の各章には、私が今まで知らなかったというか、誤解していたことが次々にあらわれてくる。
図式的に言うと、周囲の人はモーツァルトに面するところだけが書かれていた感がするけれど、この本ではそうした人達を深堀りすることで、それを感じていただろうモーツァルトの心情にも反映されてくる。

もちろん今までにさんざん語られてきたことも多いのだけど、モーツァルトの祖父母からを読むと、どういうことかと言うと、周囲の人との関わりは伝記の大きな要素だけれど、モーツァルトに接するところだけを見ていたのでは、なぜその人がそのような関わり方をしたのかという理解には届かない。

モーツァルトの伝記として絶対に外せない書であると思う。

実は、はじめは図書館で見つけて借り出して読み始めたのだけれど、これがなかなか内容のあるものなので、気兼ねなく、落ち着いて読めるように、自分のものとして読むために、そして手元に置いておけるように、すぐにAmazonで購入した。

そして、ところどころ、関連楽曲をとりあげて賞賛する言葉がある。
これを読めば、やはりその曲を聴きたくなる。
本書を読みながら、そうした曲に聴き入る、そういうゆったりとした時間の過ごし方、これこそ贅沢というもの。

各章の感想については、順次、アップしていくつもり。

ところで今日はモーツァルトの結婚記念日(1782年8月4日)。
コンスタンツェとの結婚生活は、「モーツァルトのもうひとつの家族」の章で書かれる。
「悪妻コンスタンツェ」、その評価は見直さなければならなくなるのである。

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通勤電車の着席マナー

IMG_20160802_074307s.jpg 日々暑い日が続く。
通勤電車は場所によってやけに冷房が効いているところもあれば、混んでくるとあまり効かない場所もある。
そのくせ、ガラガラでやたら冷房が強いと、電車を降りてからのリバウンドで大量の汗をかいたりする。

さて、そういうイライラする通勤電車内でのマナー。
前に、乗降口に立って乗り降りの邪魔になる「狛犬」や、バックパックを背負って邪魔になっていることに無頓着なマナー知らずのことを書いた覚えがある。また、乗換駅で多くの乗客が降りるのに、一旦降りて通路を空ける気遣いが無い人(降りたら乗れなくなるとでも思っているのだろうか、電車に乗り慣れない田舎者の所業)のことなども。

そして、これも前から感じていることだけれど、着席マナーについて。
写真は、たまたま昨朝撮影したもの。
まずは、脚を組んで前へ伸ばしている輩。
写真でもわかるように、その前に立っている人は一歩引いている。この状態で電車が揺れたら、靴が立っている人にあたることもあるだろう。

IMG_20160802_074314.jpg 次に、やたら股を開いて座っている輩。
写真にあるように、前に立つ人が、その間に脚を入れている。

どちらも電車がガラガラで、座席にも余裕があるときなら大した問題ではないけれど、混んでいる電車でこれはないやろう。
そもそも座れたことに対して、座るための努力をしていたとしても、少しはありがたみを感じて、周囲に気を遣うという心情はないのだろうか。こういう姿を見ると、その逆で、座っている俺様は偉いんだとでもいうようである。

脚を組むのは私も良くやる。もちろんガラガラの時だけだけれど。だから脚を組む気持ちはわからないでもない。それでも人の動きを感じたら邪魔にならないように脚を引っ込める。
股を開いて座るというのは、痩せている私はあまりやらないけれど、こういう姿勢をとる人は一体何を誇示したいんだろう。

もっともどちらの姿勢も女性だと全く違う評価になるのだけれど(特に脚を組む姿は)。

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民族文化はその民族に排他的利用権があるか

日本人の我々が、海外の人が「日本風」と考えるものに違和感を持つことは少なくない。

日本特殊論を言いたいわけではなくて、これはどこの国でも同様で、「他国人が『○○風』とするものは○○人には違和感が感じられる」と一般化されるのではないだろうか。


Mehter_march.jpg さて、今回もまたグッドール「音楽の進化史」から。
ロマン派の終りぐらいから、国民楽派はもちろんのこと、民族音楽に題材をとった作品というのがたくさんでてくる。

もちろん異国情緒ということでは、そんな時代を待たなくても、モーツァルトにも「トルコ風」はあるわけだけれど、トルコには行ったことがないモーツァルトが当時の西洋で「トルコ風」と考えられていたスタイルを採りいれただけで民族音楽をもとに作ったわけではない。

「トルコ風」というのは、二拍子あるいは四拍子系で強拍が明確、それに打楽器(的響き)が伴うものと私は理解している。


バルトークのようにルーマニアで生まれ、ルーマニアの民謡を収集したというのは別にして、多くの作曲家が自身の出自とは直接関連しない民族音楽を使用することについて、グッドールは正当性があるのだろうかと自問自答している。

我々がハンガリーといって思い出すのは、ブラームスのハンガリー舞曲かもしれないが、ブラームスはハンガリー人ではないし、ハンガリー民謡の一部をとって舞曲にしたものを、ハンガリー舞曲と呼ぶことに躊躇いはないのか。
あるいはハンガリー狂詩曲は、作曲者リストはハンガリー生まれだけれど本人はコスモポリタンでしかなく、ハンガリー臭さはなかっただろう。
ドビュッシーは、パリ万博のときに、インドネシアの民族音楽ガムランを熱心に研究したという。もっともガムランの情趣がそのまま聞こえる曲は、私は知らないけれど。

300px-Virginia_Minstrels,_1843 アメリカの黒人から生まれたソウル・ミュージックを白人が演っても良いのか、という話にも通ずる。黒人の魂が白人にわかるはずがない、表現できるはずがない、である。

フォスターが白人だと知ってショックを受けたという黒人の話もあるけれど。


グッドールは、そのいずれも不当なこととは考えていないようだ。
民族文化はその民族に排他的利用権があるというわけではない。

民族音楽を「題材にとった」のであれば、それは外部者としてふるまっているわけで、なりすましたということにはならないと思うけれど、「そのもの」となると、抵抗があるかもしれない。

グッドールは指摘していないけれど、もう一つの重要な観点もあると思う。
Isramic_Azahn.jpg それはたとえば、イスラム教徒でないものが、アザーンを朗唱しても良いのだろうかということである。

思えば、キリスト教徒でもない日本人が、メサイアやミサ曲を歌う。もちろんそこには神を敬う気持ちが入っているだろうけれど。

「あんたゴリラ、ゴリラの子(And the glory, the glory of the Lord)」なんて歌ってはいけない。


それはそうとして、アザーンを純粋に音楽的に鑑賞するというようなものは知らない。
その宗教的意義をはずれたところで歌われても、それはアザーンではないということはそうだとして、そのこと自体が許容されているのだろうか。
YouTubeにはアザーンはたくさんアップされているから、聴くことに不自由はしないけれど、宗教的体験から離れて、音楽として鑑賞することに対して、イスラム信者はどう考えているのだろうか。

そういえば、東大寺のお水取りや、比叡山の声明のCDなんかも販売されている。
ネットで検索すると、「黛敏郎構成による東大寺お水取り」というのがあったりする。また、私はよく知らないのだけど、声明を題材にして構成した楽曲というのもあるだろうと思う。
天理教には、山田耕筰作曲「交響詩おやさま」というのがあり、宗教行事で使われる歌を採りいれて、オラトリオ風に作られている。(もっとも、そうした歌はそもそも奈良県の民謡をもとにしている)
これらは他の民族の文化というわけではなくて、音楽として鑑賞しても指弾されることはないと思うけれど。

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東京都知事選

yuriko_et_tocho.jpg 東京都知事選が終わった。おおかたの予想どおり小池百合子氏が選出された。

この人とは、東京のホテルでエレベーターに乗り合わせたことがある。趣味の良い(値段の高そうな)スーツを着こなされていたが、思っていたより背は低くて、重心がやや頭よりにあるようなプロポーションだった。


選挙結果は私の予想どおりではあるけれど、投票締め切りを期して、直ちに当選確実の報道がなされるとまでは想像していなかった。当確はもう少し遅くまでもつれるだろうと思っていたのだけれど。

それはともかく、この選挙、一部の週刊誌では「窮極の選択」として、誰を選んでも不幸みたいな書き方をしていた覚えがある。
米国大統領選挙では、史上最も不人気な大統領候補と言われているが、それに似た状況。
選挙運動期間中に「出たい人より出したい人」と言っていた某党幹部が居たけれど、これでは「出したくない人」になってしまう。

ところで、この「出たい人より出したい人」というのは、私も子供の頃聞いた覚えのあるスローガンだけれど、この言葉には暗い過去があるということを最近知った(これも某党幹部が不用意に使ってくれたおかげである)。

出たい人より出したい人」というのは、昭和17年の「翼賛選挙」において、「翼賛政治体制協議会」が推薦した候補者への投票を呼び掛けるスローガンとして、「大東亜築く力だ、この一票」とともに使われた言葉だという。この選挙では、翼協の推薦候補には、陸軍省の臨時軍事費から一人当たり五千円の選挙資金が配られる一方、非推薦候補者に対しては、官憲や地域団体が徹底的に選挙妨害を行ったといわれているという。(以上、「鹿児島近代社会運動史」久米雅章他より)

某党幹部はそういう深いことを考えるような人ではなくて、そのときの調子でしゃべったのだろうと思うけれど、そのときは、都連の推薦を受けられない「出たい人」に対して、われわれが「出したい人」という意味で使ったのだろうけれど、この言葉を聞いたときには反射的に「あんた(都連)が出したい人」でしょ、と思った。

とにかく、都民の判断は下ったわけで、これからの都政が円滑に進むように願うのみである。
それでちょっと都財政の指標を見てみたのだけれど、数年前、大変驚いたことを思い出した。
東京都の財政力指数が1を切っているのである。
財政力指数というのは、簡単に言えば収入と支出(普通ならこのぐらい)の比のことで、この指数が1を下回ると地方交付税が交付されるしかけらしい。

2015年度のデータだが、都道府県で1を上回るところは一つもない。東京都が一番高く0.92532、2位が愛知県の0.92083、次いで神奈川県の0.91658。大阪府は6位で0.73756である。
市町村では、全国1740市町村中、1以上は64団体しかない。

昔、今の場所へ引っ越してすぐの頃、居住市の合併に関するアンケートがあって、設問に「合併するとしたらどこが良いですか」という問いに対しては、久御山町と答えたことがある。近隣自治体ではここだけが財政力指数が1を超えていたからである。


で、東京都の財政指標を見ていると、ここ数年、つまり舛添さんが知事をしている間に、どんどん改善している。
財政力指数はH22年度の1.162から、H23:0.961、H24:0.864、H25:0.871、H26:0.925とV字回復である。
経常収支比率や実質公債費比率、将来負担比率など、他の指標でも同様の傾向である。

これは要するに、舛添さんは、自分の個人的な楽しみにはお金を使ったかもしれないが、大きな事業はいっさいやらなかった、そういうことなのかもしれない。

財政至上主義では東京オリンピックはやれまい。
知事が明示的にできることは、施策の優先順位づけと、動かせる財源(限られた)をどう貼り付けるかぐらいだが、東京都の経常収支比率は低く、将来負担も小さい。規模を考えれば相当な額を動かせるはずだから、いろんなことができる可能性はあると思う。
さて、新知事はどういう判断をするのだろうか。

選挙戦を見ていて、都庁職員を死ぬほど働かせてやるという雰囲気は感じられなかったのだけれど、行政をきちんと動かすためには、公務員の給料を下げるより、しっかり働かせることが大事だと思う。役人というのは、上の指示があれば、それにあったストーリーを書き(でっちあげ?)、実行するのが仕事なんだから。

なんといっても民主党政権、さらには党自体の崩壊の大きな原因は、官僚を使いこなせなかったことだと思う。官僚の言うことを頭から否定することが政治主導だという錯覚―そしてそれが国民に一時は受けたわけだが―その底の浅さが国政を混乱させ、支持を失う原因になったと私は考えている。

公務員は、仕事もせず、身分保障され、高給を得ている、という大衆に迎合するイメージを否定したら票がとれないという現実もあるから、選挙中は控えるのは仕方がないけれど、本当にそう思っているとしたら政治家としては失格(あのハシモトさんだって、府民向けには公務員を馬鹿よばわりした一方で、優秀な職員がたくさんいると持ち上げている)。
それに民間企業だったら、社員を役立たずよばわりする社長はロクな仕事はできない、部下を使えない馬鹿なリーダーと言われるだけである。


小池氏は、ちょっとこわもてだけれど、都職員を掌の上で遊ばせるぐらいの度量を発揮できるだろうか。

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