「いろは順」

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 いろは順の採用は1942年、厚生年金の前身である「労働者年金保険法」が制定された時に始まり、現在まで引き継がれた。
 いろは順での整理は時代遅れになった。だが、データが膨大で五十音順に変更するのが難しいこともあり、すべての事務所で統一せず、バラバラになった。
ファイルに入っているのは、被保険者が納める保険料と将来の年金額の計算に使われる算定基礎届などで、現在の年金受給者には直接関係がない書類。いろは順によって書類を探すのにもたついたとしても、受給者に「迷惑をかけることはない」。
 「今では、いろは順が使われなくったのは事実です。新人の方には抵抗があるはずですし、面倒をかけます。私は事務所に入った時、慣れるまで数ヶ月かかりました」
 指導は、事務所ごとに任せている。いろは順が必要なところでは、紙を用意したり、ファイルボックスにインデックスを貼ったりして対応している。
 「統一すれば、職員の仕事のしやすさは確保できますが、今すぐに変えるのは難しいのが現実です。膨大なデータを変更するのは時間も費用もかかりますし、年金受給者に直接影響を与えない以上、優先順位が低いのです。お客様の対応改善や制度の改正に予算を投入するのが先です」
 「ですが、今回、河野議員から貴重な意見をいただきました。五十音順に統一できるかどうか、議論して検討したいと考えています」
少し前のこと、ネットにおもしろい記事が出ていた。

ファイルを「いろは順」で整理する日本年金機構 「あいうえお順」にできない理由とは


ネットニュースはいつ消えるかわからないので、要旨を掲載しておく。

この記事の元になったのは、河野太郎衆院議員のブログだというので、それへのリンク。
いろいろイロハな皆様へ



この記事では「いろは」とひらかな書きになっているが、本当は「イロハ」とカタカナ書きになっているのではなかろうか(河野議員のブログではカタカナ)。

「イロハ」順でも、「あいうえお」順でも、要は慣れの問題で、それも個人的慣れではなくて、社会的慣れ(文化)に従うべきだろう。ただし「あいうえお」(五十音表)というのは、日本語の音韻システムを反映している優れたものだから、単なる慣れだけの問題ではないけれど。

私の記憶では「あいうえお」が主流になったのはそんなに古いことではないと思う。
もちろん今でも慣用句として、「イロハのイ」というような言い方は残っていて、「アイウエオのア」という慣用句はない。

私が学齢児童だったときは、箇条書きをするときは、123・・・の下位は、イロハ・・・で項目を立てていた。
社会人になってからも、そういう教育を受けていたから、イロハ順で文書を書いたことがあったけれど、会社が定めている書式では、はっきりと箇条書きは「アイウエオ」とすることになっていた。

というか、学生時代までは箇条書きにイロハやアイウエオを使うという習慣はなくて、abcだったと思う。日本語のカナを使うこと自体に違和感を感じていた。日本語の中に記号的にカナを使うことに抵抗感があったのかもしれない。
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もっとも、英語の文章中の箇条書きにabcが立っていたりするが、こっちには違和感がないのはなぜだろう。


今でも「イロハ」なのは音楽。音名は「ハニホヘトイロハ」(CDEFGAB)が使われる。
「二十四の瞳」では、「ハニホ…」の前に「ヒフミヨイムシ」(1234567)の時代があったらしく、大石先生が怪我で休職したあと、男先生の音楽の授業では奇怪な歌が唄われ、子供たちが失笑するシーンが描かれていた。

それはそうとして、冒頭の年金機構の話に戻ると、ファイルがイロハ順というのは、実は解せない。
というのは、辞書類は結構古い時代から、アイウエオ順になっていると思うから。
分冊になっている百科事典などは、「第1巻 ア~カ」、「第2巻 キ~シ」などと、やはりアイウエオ順、ファイルを配列するなら、やはりこっちじゃないだろうか。

であるけれど、Wordの箇条書きには「イロハ」も用意されている。

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天気予報サイト

Screenshot_20170130-084801.jpgスマホの画面に、天気予報のウィジェットを貼り付けている人は多いと思う。
私もその一人である。家人も貼り付けている。

ところが、家人が「今日、午後は雨が降りそう」と言ったのに、私のスマホではそんな予報は出ていない。
で、実際、家人が使っている方の天気予報が的中したということがあった。

天気予報を出しているのは、気象庁はもちろんだけれど、気象庁の予報区は大きい(粗い)から、場所をピンポイントで指定できる民間の天気予報を使う人が多いと思うけれど、事業者によって、微妙に予報が異なっているようだ。

Yahoo天気予報などのネット予報は、自分たちで天気を計算しているとは思えない、それぞれ予報事業者と契約しているのだろうけど、そうした複数のルートで流れてくる予報が一致しているのは、同じ予報事業者と契約しているのだろう。
これは単なる想像だけれど、日本気象協会が出している予報を使っているところが多いのではないだろうか。
家人が使っている方の天気予報が特殊で、それが異なる予報を出しているのかもしれない。

日本では、テレビなどで流される予報は気象庁のものを使っていて、どれも同じ予報内容だと思うが、外国では予報事業者のものを流していて、メディアによって異なる予報が提供されているという話を聞いたことがある。
ネット天気予報はこういう状況のようだ。

天気予報を業として行うには、気象庁長官の許可が必要で、許可を受けた事業者のリストもホームページに掲載されている。なかには個人で登録されている人もいるようだ。

で、家人が使っているのはAccuWeatherというところのもの。ASUS ZenFone2 Laserにプリインストールされていた。これはアメリカの会社で、件の予報事業者リストには見当たらない(違う事業者名で登録されているのかもしれない)。

そして、Yahoo天気と、AccuWeatherの予報は微妙に(というか、天気予報自体が微妙なもの)違う。
今のところ、両方のウィジェットを貼り付けて様子を見ている。

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吼える前に

C1DyXDsUQAABNOO.jpg いささか古い話になったけれど、今年の正月、
ベビーカー自粛要請で大騒ぎ」という報道があった。

東京板橋区の乗蓮寺が「ベビーカーご利用自粛のお願い」の看板を出したとツイートされ、それに対し、寺を非難する意見がネット上にあふれた、とりわけ、乙武氏のような有名人や、東京都議が寺を非難する意見をツイートしたり、ブログに載せたりした。
ところが、寺がなぜこの看板を出したかを取材すると、この寺はもともとは「ベビーカー優先」だったのだけれど、それを逆手にとって、ベビーカー1台に十数人が付いて全員が優先参拝したり、はては小学校5年生の子供を無理やりベビーカーに乗せて優先参拝をしたりと、やりたい放題の参拝者が現れ、とうとう、ベビーカーとの接触で怪我人が出るまでに至ったという。

件の都議は、それを知ると潔く謝罪していた。その態度は立派だと思うけれど、そもそも十分な状況把握をせずに、軽々しくブログに非難記事を載せたことは、やはり思慮不足、都議という政治的人間ならば、もう少し慎重さがあってしかるべきだっただろう。

こういう、一見、ケシカランことと見えることでも、よくよく事情を聴くとなるほどというものは結構ある。

前にも書いたような気がするけれど、街路樹の枝を切り落としている役所に対して、せっかく育って、夏の日差しを防ぎ、眼を楽しませているのに、酷い、そのうえ税金の無駄遣いだと抗議したところ、枝が張り出して信号機が見えなくなっているので、安全上必要なので剪定しているという説明を受けて、それなら当然と納得したという。
この例は、昔の話で、当事者に抗議して、理由を聞いて納得しているわけだけれど、この頃だと、こういうことをネットに流してフレームアップする輩がいるわけだ。

都市伝説かもしれないが、某ハンバーガーチェーンでは、出来上がってから一定の時間が経過したハンバーガーは廃棄にするという。これが本当なら、実に勿体ない話である。世界には飢餓に苦しむ人もいるのに。半額で良いから売ったら良いじゃないかと思うわけだが、もしそんなことをしたら、それを目当てに、ちょうど夕暮れのスーパーで値引き札が貼られるのを待つように、並ぶ人が出てきて収拾が付かなくなるだろう。(あるいは注文時に半額を前払いして、もし取りに来なかったら、他の人に半額で売るというようなルールを作るかな)。

かつて企業の社員採用で、指定校というのがあった。特定の大学を卒業したものしか入社試験を受けさせないというもので、あちこちから不公平と指弾されたものである。ただ、こういう制度にした理由というのはちゃんとあったそうだ。縁故採用をしない・断る言い訳に使っていたのだという。
企業側としては、指定校以外の優秀な人材を採用できない損失と、縁故で採用せざるを得ないできの悪い学生を採用する損失を天秤にかけたわけだ。指定校だけから採るつもりなら、みんな試験を受けさせて、指定校以外を不合格にしても良いわけだが、そうすると縁故採用の防波堤にはならない(縁故者を試験で落とすことは難しい)。だから「制度として」というガードを必要としたということである。
いわば「別件逮捕」のようなもので、類例としては、駐車場の「外車お断り」(暴力団排除が目的)とか、いろいろあるようだ。

こうした事例は探し出したらキリがない。
徒然草第十段には、

後徳大寺大臣の寝殿に鳶ゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心、さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にもいかなる故か侍りけん。

という話がある(高校の古文の教科書に載っていたので覚えている)。

そうかと思うと逆手にとった話もある。

茶店で買われている猫の餌用の皿が大変な値打ち物、これに気づいた目利きが、猫を売ってくれと言い商談成立。猫が使い慣れた皿も一緒にというと、主「いやこれは値打ちものの皿なので渡せません」。どうして値打ち物を猫の皿にしているのかと問えば、主「こうしておくと猫が売れますのや」(「猫の皿」)


現代に戻る。
携帯電話の解約は、店舗か電話受付になっている。店舗は客が多くて順番待ち、電話はなかなかつながらない。IT企業なんだから、Webで解約手続きを受け付けるぐらいお茶の子、そうしてくれたら顧客は便利だし、事務処理も効率化されて良いと思うのだけれど、これにもちゃんと事情がある。
簡単に手続きができると解約者が増えるおそれがある。来店や、電話をかけさせることで、まず解約者に心理的機制がかかり、なかなかつながらないことであきらめさせるように仕向け、いざ電話がつながれば解約は思い直すように説得する(応対マニュアルがあるらしい)。
どうだろう、そういう事情が解ってしまえば、面倒な手続きも納得できるのではないだろうか。できるかっ!

まぁ、瞬間湯沸かし器的に吼える前に、何か事情があるのだろうかと考えることが肝要だろう。
とくに権力のある人は。

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コンビニ人間

9784163906188_2.jpg 「コンビニエンスストアは、音で満ちている。」
で、いきなり始まって面食らい、おもわずページを戻したが、「コンビニ人間」という扉だけである。

序文や「はじめに」があり、章節が設けられるなど論理構成が明確で目次がある、そうした本ばかり読んでいる身としては、小説というのは、なんとも奇態なものである。

ブログで書評を書くとき、目次を掲載して記事を増量するのだが、この手は使えない。


芥川賞を受賞した小説を、まだ新作と言える時に読んだと言えば、高校生のときに、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」以来だ。
社会人になってからは、小説というものは、何か別の本(それは小説ではない)や、誰かが推薦・紹介しているようなものしか読まないことにしていて、そうすると歴史小説かSFということになる。

私とコンビニといえば、タバコを買うか、事情があって一人暮らしをしたときに弁当やドーナツなどを買うかで、あんまり縁がない。QUOカードなんかをもらったときも使いようがない。
であるけれど、コンビニの経営や裏事情など、情報サイト(川乃もりや「コンビニ探偵!」など)の記事は興味深く読んでいる。社会勉強である。

読み始めてまず驚くのは、「私(古倉恵子)」が、「コンビニ人間として生まれる前」にしていた突拍子もない行動である。

小鳥の死骸を拾って、食べようと考えること。

周囲は可哀そうだからお墓をつくってあげようというのだけれど、私なら、病気で死んだかもしれないから、食べると病気になるかもしれないと言うと思うけど。

同級生の喧嘩を止めるのに、スコップで頭を叩くこと。

暴力を嫌悪する心情ができていない、あるいは、スコップの凶器性を学習していない。

女教師のスカートとパンツを引き下ろすこと。

羞恥心が未成熟。


この恵子の行動の異常性には、はっとするが、それを発想する作者も突拍子もない。

こうした行動を心理的に規制するメカニズムは、子供のうちに育つのが普通だと思う。
他人に暴力をふるう行為は、かなり心理的なバリアがあり、子供の喧嘩といえども、かなり身構えなければできるものではないと思う。
また、人間の道徳性は、ある程度、先天的に備わっていることを示す実験がある。

5ヶ月から1歳未満の幼児にある道徳劇を見せる。3人の登場人物(人形)がいてボール遊びをしているが、うち1人がボールを相手に返さず持って逃げる(非道徳的な行動)。その後、それぞれの人物の前におやつを置いて、被験者(幼児)に、そのどれかからおやつをとらせると、ボールを持って逃げた人物からおやつをとる。非道徳的なことをした人を咎める行動と解される。


恵子は、この行動・心理を客観的に観察している。
一昔前のイメージかもしれないが、人工知能が語っているようである。 いわゆる情動というようなものは描かれず、自分自身を客観的に観察し、そして同様の眼で他人を観察し、その行動を意志的に模倣することもできる。
本当にいたら、化け物である。

話が急展開するのは、ダメ人間の白羽を家に住まわせることから。
そのことにより引き起こされる、コンビニの店員という均質性・部品性が、ヒトのオス・メスがむき出しになる状況への変化。

そして、白羽が居所としている風呂から出てくる気配の描写があり、空白がおかれる。

多くの読者は、この空白は性行為の暗示と受け取ったのではないだろうか。
もし、セックスをしても、そして感じたとしても(恵子は決してセックスを忌避・嫌悪しないと思う)、「今、感じている私がいる、性の快楽を体験している」と客観的に説明するにちがいない。
そう期待して読み進むのではないだろうか。

だけど、そうはならなかった。

そして、白羽に促されるまま、就活をするなか、最後にコンビニ人間としての自覚が、前向きな形をとって、再確認される。

読者としては、それまでの恵子の、醒めていること自体を理解しようとしてきた読者としては、このエンディングは、吹っ切れすぎていて、拍子抜けの感があるる。
アルバイトのオールドミス、しかも処女という、世間的には負け組という評価が変わるわけではないかもしれないが、それを自らの生き方としてしまうことで、恵子の内部と外部が折り合いをつけてしまう
それまでは、恵子は、外部と折り合いをつけることを演じていたわけだが、心理的にも折り合いをつけてしまったようだ。

それに実社会では、これほどできる店員なら、優秀なトレーナーとして本部がほっておかないだろう。


私は、この作品の値打ちは、やはり前半にあると思う。
人間の部品性が前面に描かれ、そしてヒトの肉性を描く仕掛けとして白羽の存在があった、それは理解できるけれど、折角、部品性と肉性を見事に裏返して描いたのだから、恵子が積極的に生きるような形、それは部品と肉の幸福な両立で決着させず、そうではなくて、ずっと対立したまま、あるいはさらに対立を尖鋭化させてもらいたかった。

恵子は、ドロドロの底辺へ落ち込んでいくが、人類社会を相対化する眼がさらに鋭くなる。
白羽は、恵子を強姦し(荒々しくではないにしても)、ダメ人間からクズ人間に進化、「強姦されている」という口癖との折り合いをつけようともがく。


そうすると、何とも落としどころのない読後感になったにちがいないが。

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ヨアンネスの261回目の誕生日

今日は、ヨアンネスの261回目の誕生日。

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前にも書いたように、この日は誕生からの年数に一致するケッヘル番号の作品を聴くことにしている。
ということで、今日は、ヴァイオリンのためのアダージョ ホ長調 KV261を聴く。

(クリックで、冒頭部再生ページへ)

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オーケストラと独奏ヴァイオリンのための曲で、KV219のイ長調の協奏曲の第2楽章の代替として作られたという。

楽曲解説は、いつも便利に使わせていただいているMozart con graziaにおまかせしよう。


KV261は、演奏時間が7分に満たない短い曲なので、今日は、作曲目的に合わせて、KV219の第2楽章として聴くことにする。
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去年買った"Mozart225"のCD、ちょうど昨日、全200CDのリッピングも終わったところなので、それを聴こうかと思ったけれど、Mozart225の演奏は、
  • K261: Simon Standage, Christopher Hogwood/The Academy of Ancient Music
  • K219: Giuliano Carmignola, Claudio Abbado/Orchestra Mozart
と別の演奏者になっている。
あまり音が変わるのも変だろうから、同じ演奏者でつなぐことができるように、KV261も収録されている全集、
  • Julia Fischer, Yakov Kreizberg/Netherlands Chamber Orchestra
で聴くことにする。

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高齢運転者

高齢者シリーズも5回目になったけれど、今日は高齢者の自動車事故問題。

nenreibetsujikoritsu.png このところ高齢者が運転ミスなどで起こす自動車事故の報道が頻繁である。
それも死亡事故などの重大な事故が多い。
で、多くの人が大問題だと喧しい。

少し前に、ネットに「安全運転の高齢者は増えている」という記事があった。今はもうネットからは消されているけれど、それによると、高齢運転者1人当たりでみると、昔より今の方が若干安全だという。ただ、高齢ドライバーの数が急増しているために、絶対数では事故が増えているのだという。

とくに、大昔は女性ドライバーが少なくて、その人達が高齢になっても運転はしないという状態だったのが、時代が下ると女性のドライバーも増え、その人たちが今、高齢化といわれる年齢層になってきたため、以前に増して、高齢ドライバーの増加が著しいという。

こういうことを言うと女性蔑視と言われそうだけれど、「一姫、二虎、三ダンプ」といわれ、一番怖いのは女性ドライバーと言われた時代があった。それがさらに高齢化して恐ろしさも倍増というところ。


とはいうものの、やはり高齢者問題とは、高齢者の絶対数が多いという問題であって、今までは率が高くても全体からみれば少数派の高齢者だから大きな問題ではなかったものが、率は変わらない、あるいは下がったとしても、対象者数が増大したことで、問題は大きい。

一方、子供の数が減り、しかも車に関心を持たない子供も多いことから、若年ドライバーは、高齢者より事故率は高いが、絶対数が減っているかもしれない(ただし、起こす事故はあまりに理不尽な暴走的なものが多いけれど)。


テレビ番組で、高齢者が起こす事故や異常な運転の様子のビデオが紹介されていた。
優先妨害、信号見落とし、接近車見落としなど、こっちが巻き込まれそうな運転ミスがある。一方通行の逆走というのも高齢者に多いらしい。
アクセルとブレーキの踏み間違い(本人は間違っていると思わないで踏んでいる)というのは、コンビニや病院などで重大事故を起している。

私は免許を取るのが遅かったから、自分は運転が上手いと思ったことはない。
私の車(プリウス)には、レーダークルーズと自動ブレーキを付けている。できる限り運転負担を下げたいし、安全支援機構は是非欲しい。

最近、車を買い替えた知人(私より年上)はやはり自動ブレーキは付けたそうだ。


運転していて気持ちよく感じるのは、渋滞がなく、路面がなめらかで振動せず、カーブを回るのも適度な遠心力を感じる程度というときで、けっしてぶっ飛ばすときではない。
しかし、巻き込まれる事故に対しては、こちらが安全運転していても避けられないことも起こりそうだ。

なんてこと言ってるけれど、暴走的な車やマナーを守らない車にいちいち腹を立てていたら、なかなか平安な気持ちで運転できない。こちらも荒っぽくなったりする。


自動運転が実現されれば高齢者でも安全になるだろうか。
しかし、完全自動運転はまだまだ先というけれど、中途半端な運転支援というのは逆に怖い気もする。
過信はいけないというが、人間が介入したらせっかくの安全装備が無効化されて無意味になったり。

0106prius_koureisha6.jpg 今乗っているプリウスで怖いと思うことがある。
昔の車はシフトレバーが物理的にリアの位置に来たけれど、プリウスは、リアに入れる操作をしても、レバー自体はホームポジションに戻ってしまう。そして、ときどきレバー操作が中途半端なのか、リアに入れたつもりなのに、入っていないことがある。
これは切り返しのときなどに慌てさせる。インパネのポジション表示を確認せよということかもしれないが、安全設計としてはいかがなものだろう。

これならステアリングにシフトボタンを付け、ボタンにLEDを付けてポジションを確認できるようにした方が良いと思う(シフトレバーを完全に取り払えば、スペース的にも有利だろうし)。

ふと思った。アクセルは踏むのでなく、横におしつけるような設計にしてあれば、踏み間違いは起きないのじゃないだろうか。

自動運転の前に、操作ミスが起きにくいデザインというのもあると思う。

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定年後の再雇用

「高齢者」シリーズを書いてきたら、以前の報道を思い出した。
「定年後再雇用」の賃下げめぐる控訴審、
従業員が逆転敗訴「賃金差別、納得いかない」
定年後に嘱託職員として再雇用されたトラック運転手3人が、「正社員と同じ仕事なのに賃金格差があるのは不当だ」と訴えた裁判の控訴審判決が11月2日、東京高裁であった。杉原則彦裁判長は、原告の訴えを認めた1審判決を取り消し、請求を棄却した。原告側は上告の意向を示している。
判決文などによると、原告3人は横浜市にある運送会社「長澤運輸」に正社員として勤務。2014年にそれぞれ定年退職した後、同社に有期雇用の嘱託社員として再雇用された。正社員と同じ仕事内容にもかかわらず、賃金を3割近く引き下げられたとして、同年提訴した。
1審の東京地裁は今年5月、「仕事の内容は正社員と同一と認められる。特別な理由もなく、賃金格差があるのは違法だ」として、会社側に対して、正社員と同じ賃金を支払うよう命じた。
2審の東京高裁は、期間の定めがあることによる不合理な労働条件を禁じた「労働契約法20条」が、定年後の再雇用にも適用されると判断。一方で、今回のケースについては、定年前と比較して、一定程度賃金が減額されることは一般的で、社会的にも容認されていると考えられるなどとして、「不合理であるとは言えない」と原告の請求を棄却した。
弁護士ドットコム 11/2(水)

定年後再雇用で、以前と同じ仕事をしているのに、給料が大幅に減ることの是非である。
一審の原告勝訴の報道を目にしたとき、裁判所の判断の是非はともかく、雇用主側は大変だなぁと思った。これが前例になったら、好意で定年後再雇用をしているところは困るだろうなぁと。

「同一労働・同一賃金」という理念もあるから、雇用主は同じ仕事をさせて、同じ給料を払うのをためらうかもしれない。
かといって、慣れた仕事をしてもらうほうが生産性も高いし、雇われる側も、普通はそのほうが嬉しいことが多いだろう。
なんとかして差をつけるとすれば、責任の所在とか、後輩の指導といった、曖昧な職務をはずして、なんとか体裁をつくろって、安い給料で雇おうとするかもしれない。

そんなことを考えていたら、二審では逆転し、再雇用の給料が下がるのはアタリマエ(一般的)と容認してしまった。

現状容認が法理になるなら、裁判所の役割って何だろう。ホンネが社会的影響への配慮で、それで逆転判決を出すにしても、もうちょっと理屈を考えるべきじゃないだろうか。


「同一労働・同一賃金」という理念があるけれど、この理念は必ずしも現実世界で通用するとは思えない。

もちろん性差別や人種差別など、社会的差別を撤廃させるための理論としての意義は否定しない。

まず、日本の労働慣行では、年功序列賃金のところが多くて、若い頃は安い給料で働いて、同じような仕事をしていても、年功で給料が上がる。とすれば、当然、定年退職前には、しかるべき給料より高い給料をもらっていることになるかもしれない。若いものから搾取して、年寄りがその分を受け取っているという構造である。

もちろん会社側は、単純に「年功」とは言わない。経験を積めば、仕事に習熟して生産性が上がる。さらに経験を積めば若手を指導する仕事もする、という理由づけをすると思う。そして、管理職ともなれば、責任も重くなるから給料が上がるのは当然である。しかし再雇用では管理職から外せば、管理職分は給料を下げることもできる。(高裁もそう言ったらよかったのでは)


それと「同一労働」というのは、なかなか難しい。
同じ時間働いても、成果の出るやつ、出ないやつがいる。営業などで相手が違うというような場合ならともかく、デスクワークで、まったく同じこと(たとえば文書整理とか)をやっていても、てきぱきやる人もいれば、もたもたする人もいる。
もっと難しい仕事、企画書を作るというようなことになると、その差は歴然とする。管理職だって邪魔になるだけの管理職なんていっぱいいるだろうし。
何をもって同一労働と言えるのだろう。

会社には儲ける側(経営側)と搾取される側があって、正社員は経営側にいて、それ以外の人は搾取される側にいるということになってきたのかもしれない。

利害が対立する労働者は団結しない。
昔、共産主義では、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」って言ってたんだけどなぁ。

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昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか

mukashibanashiwa_naze_hikari.jpg 「高齢者」シリーズの3回目。
今日は、大塚ひかり「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」という本について。

実は、昨日・一昨日の記事に書いた、律令による官人の定年は70歳というのは、この本に書かれていたこと。

前の記事では、致仕についてWikipediaへリンクをはっていることでわかるように、そうした問題意識でネットを調べたら情報を見つけることはできる。しかし、そもそもその問題意識をどう持つのか。このことが現在の教育では重視されつつあると思うが、わかりやすく言えば、自らの経験、読書、そうしたものがあって、問題意識も生まれ、方向性も示されるのだと思う。
辞書・事典は、本の代わりにはならないのである。

そして、人間の記憶力はたいしたもので、本に書かれていることを完全には覚えていなくても、「こんなことが書かれていたような気がする」を糸口に、ネットで調べれば、たいていのことについて何らかの情報は得られる(もちろんその真偽など吟味が必要であるけれど)。


閑話休題。
大塚ひかりという人の本は、読んでいてとてもおもしろい。下ネタ満載である。
本書以外では、「竹取物語」、「本当はひどかった昔の日本」、「源氏の男はみんなサイテー」を読んだことがあるが、他にも、「本当はエロかった昔の日本」、「日本の古典はエロが9割」、「愛とまぐはひの古事記」、「カラダで感じる源氏物語」、「快楽でよみとく古典文学」など、エロいタイトルの著書が並ぶ。
どれも読んでみたいけれど、おそらく、内容にはかなり重複したところがありそうなので、購入は思いとどまっているけれど。

図書館に置かれているものもあるが、女性司書を赤面させてはいけないという気配りで、エロいタイトルの本は今まで借りたことがない。どうして図書館には「成人図書コーナー」がないのだろう。(Y図書館はセルフ・レジ。そっちで借りようか)


さて、他の本についてはまたあらためて記事にすることもあるかもしれないが、今日は「昔話はなぜ……」について。
大塚ひかり本は、かなり著者の思い入れ(独善)が入っていそうで、おもしろおかしく読める、あるいはそういう読みもあると、軽いエッセイとして読むのが普通かもしれないが、冒頭の「官人は70歳以上で致仕を聴す」が本書で知ったように、この本は、しかるべき根拠資料にもとづいて書かれているようだ。

古典からは、官人の定年意外に、律令における高齢者にかかる規定などがひかれている。役人の定年のことも含めて抜き書きすると、

  • "凡そ官人年七十以上にして、致仕(ちじ)聴す"(「選叙令」)
  • 八十歳になる者と"篤疾"(難病、狂気、両足が使えない、両目が見えないのたぐい)には、"侍"(介護役)を一人与えよ。九十歳の者には二人。百歳の者には五人。まず子や孫を当てよ。もし子や孫がなければ、近親者を取ることを許せ。近親者もなければ、"白丁"を取れ」(戸令)
  • 「天下の老人の八十歳以上のものに位一階を授ける」
    「百歳以上のものには、絁三疋、綿三屯、布四端、粟二石」とあって、九十以上、八十以上の人にも、それより少なめの絁や綿などが天皇の詔によって授けられることになりました(『続日本紀』巻第七 養老元年(717)年十一月)
  • "凡そ年七十以上・十六以下、及び廃疾(中程度の身障者)"は、流罪に相当する罪を犯した場合、配流の代わりに"贖"(ぞく)を取ることが許されていました。"贖"とは、銅や布・稲・土地・人身などで罪を贖うこと。さらに、
    "八十以上・十歳以下、及び篤疾(重度の身障者)"は、反逆・殺人といった死罪になるべき罪を犯した場合、"上請"(じょうしょう)が許されていました。"上請"とは、天皇に上奏して判断を仰ぐこと。酌量の余地が生じるわけです。これらの人が窃盗や傷害を犯した場合は、"贖"を取ることが許されました。そして、
    "九十以上・七歳以下"は死罪があっても、刑罰を加えない、とあります。
    また罪を犯した時点では、こうした高齢者や身障者に当てはまらなくても、罪が発覚した時、高齢者や身障者になっていれば、右のような規定によって裁けといいます。(以上「名例律」)

そして、高齢化白書や「人口から読む日本の歴史」(鬼頭宏)、警察庁の犯罪統計などなど、本書のトピックスに応じて、多彩な文献が参照・引用されている。

古典からの引用はこの人の専門だろうけど、専門外の犯罪白書などにもあたっているのは、本書のテーマにあわせて調べた結果なんだろうけれど、きちんと裏をとる姿勢は(ネタ探し、文字数増量という面もあるだろうけど)、評価できる。

もっとも、ネット社会では、こうした情報に簡単にアクセスできるようになっていて、昔のように大きな図書館へ行って調べなくてもネタが簡単に手に入るわけだけれど。
書きたいことがあって、それを根拠づける、あるいは補強する情報を探す。そして文章力。
純文学でもなく、学術作品でもない、こうした作品群はネット社会の発達に支えられて、これからも成長するだろう。


目次を下に掲げておくけれど、年寄りは元気でエロいとか、奈良時代から福祉政策があったというような、明るい話もあれば、姥捨て伝説のような暗い話もある。

先日、旅行代理店で宿・列車の予約をしていたら、パンフレットに「シニア限定」というのがあった。
おもわず、「姥捨て行き、片道、シニア限定」と口をついて出てしまった。


で、本書の評価?
おもしろかった。

大塚ひかり「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」
 昔の老人の人生昔話と古典文学が伝える貧しさや孤独という「現実」
1 昔話の老人は、なぜ働き者なのか「爺は山で柴刈り、婆は川で洗濯」の背景
2 昔話の老人は、なぜ「子がいない」のか「わらしべ長者」のルーツを探る
3 家族の中の老人の孤独「姥捨て山」説話と「舌切り雀」の真実
4 古典文学の中の「婚活じじい」と「零落ばばあ」平安・鎌倉期の結婚事情
5 昔話に隠された性「浦島太郎」が竜宮城に行った本当の理由
6 古典文学の老いらくの恋と性『万葉集』から『東海道中膝栗毛』まで
7 古典文学の中の「同性愛」の老人たち爺と稚児、婆と美女の物語
8 昔話は犯罪だらけ老人たちの被害と加害
9 自殺や自傷行為で「極楽往生」?昔話の往生話と平安老人たちの「終活」
10 老いは醜い昔話の「姥皮」と大古典の老人観
11 閉塞状況を打開する老人パワー古典文学の名脇役たちと、棄老伝説
12 「社会のお荷物」が力を発揮する時昔話はなぜ老人が主役なのか
13 昔話ではなぜ「良い爺」の隣に「悪い爺」がいるのか老人の二面性と物語性
14 昔話はなぜ語り継がれるのか『源氏物語』の明石の入道・尼君夫妻が子孫に伝えたこと
15 昔話と古典文学にみる「アンチエイジング」若返りの目的はさまざま
16 実在したイカす老人成尋阿闍梨母、乙前、世阿弥、上田秋成、四世鶴屋南北、葛飾北斎、阿栄

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「高齢者」は数の問題かな

昨日とりあげた提言は「65~74歳には元気な人が多いから高齢者というのは時代にあわない」とのことだけれど、それだけなら提言の必要はないだろう。
本当の問題の所在は、65歳以上が多くなったから、従来の高齢者施策が成り立たなくなることだろう。

元気な高齢者は、ずっと頑張ってもらえば良い。
昨日も書いたが、天海僧正107歳、北斎90歳とか、元気な年寄りは昔からいる。
奈良時代だと、天平11(739)年、出雲国には、90歳が2人、80歳が5人という記録が残っているそうだし、律令では「70歳から致仕を聴す」とあるものの、元気な人はいつまでも働いたらしい。藤原頼通は76歳まで関白を務めている(83歳で没)。


survival_curve_comp.jpg 昔は平均寿命が短かったといわれるけれど、それは、みんなが若死にしたという意味ではない。
平均寿命が短かく計算されるのは、
  • 乳幼児の死亡率が高かった
  • 出産時(産前産後を含む)の女性の死亡率が高かった
という状況を反映している。

乳幼児の死亡率が高かったことが平均寿命を下げているということは良く知られている。

モーツァルトは6人の子供をもうけたが、成年に達したのは2人にすぎない(もったいない!)。

もう一つの出産時の女性の死亡率が高かったことは、中宮定子や葵の上など、歴史や物語的に印象づけられているわけだが、実際、第1回完全生命表(1891~1898年)を見ると、30歳超あたりで、女性の生存率が男性より低い年齢が見られる。出産にかかる死亡が影響しているものと推測される。

hitowakoushitefuetekita.jpg 大塚柳太郎「ひとはこうして増えてきた」という本に、旧石器時代の生存曲線が掲載されていたので、近現代のものと比べてみようと思った。

利用する元データは統計局のページにある完全生命表

生命表は男女別になっているので、旧石器時代の生存曲線と比較するために、出生性比を105.1として全人口に対する生存曲線を計算している。


こうして、各時代の生存曲線を並べて見ると、2010年になると本当に生存率が上がっていることがわかる。図には示していないけれど、ここ十数年は同じような曲線になっている。明治時代は、まだまだ乳幼児の死亡率が高かったことが良くわかる。

ところで、大塚氏の本は、人類史を俯瞰できて、なかなか良い本だと思った。
同書では、人類史を4つのフェーズに分け、さらに各地域に分けて分析されている。

人類誕生のフェーズ(20万年前=5000人?)、出アフリカして世界に「移住」するフェーズ(7万年前=50万人?)、定住生活をはじめ、農耕・牧畜を発明するフェーズ(1万2000年前=500万人、5500年前=1000万人)、産業革命と人口転換(多産多死から少産少死へ転換する)フェーズ(265年前=7億2000万人)。そして現代(2015年=72億人)である。

ふと思う、本当に地球はどれだけの人口を養えるんだろうか。
このことにも触れられている。根拠は曖昧なようだが、120億人。これが国連人口部の最大予測値だそうである。


曲江   杜甫
 朝囘日日典春衣
 毎日江頭盡醉歸
 酒債尋常行處有
 人生七十古來稀
 穿花蛺蝶深深見
 點水蜻蜓款款飛
 傳語風光共流轉
 暫時相賞莫相違
 勤め終えれば質屋に通い
 飲み屋に毎日入り浸る
 酒屋のつけも一杯あるが
 どうせはかない人生だもの
 花に群がる蝶々を眺め
 水面を滑るとんぼと遊ぶ
 光あふれる都の野辺に
 しばしの春を楽しまん
http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcwx505/Kanshipage/KanshiNo7/kanshi89.html

奈良時代に70歳以上は、それこそ古来稀なりだから、致仕年齢を、高齢者の数で決めたはずはない。

「古希」というのは、杜甫の「曲江」という漢詩から出たそうだが、その趣意は、70まで生きられるはずもないから、今日を楽しもう(酒屋のつけも払わない?)、ということらしい。


年齢だけで高齢者施策を考えるのではなく、年齢プラス所得や資産、健康状態などを考えあわせた施策が必要だということなら、それはそれでわかる。

それにしても、年金は75歳からというのは、つまり長生きできたら年金がもらえるというのは、次の世代以降にしてもらいたいものだ。

そして75歳以上だったら、遊ぶ金もたいしていらないだろうと減額したり、医療費の補填に使うという話が出てくるんだろうな。


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高齢者になるのは、もう少し先かな

昨年、選挙権が18歳以上まで引き下げられたが、年末のニュースを見ていると、いわゆる成年も18歳以上に引き下げることが検討されている。

もし実現したら、その年の成人式は、通常の3倍、3年分の成人を対象にするのかな。

そして、その一方、高齢者の年齢を引き上げることが提言されたという報道もあった。
提言したのは、「日本老年学会」と「日本老年医学会」というところ。

私は、従来の定義での高齢者までもう少しというところなのだけれど、
もしこの提言が採用されたら、一気に10年も高齢者の仲間入りが遠のくことになる。

koureisha_wariai_mainichi8.jpg 高齢者になることが嬉しいかと聞かれたら、もちろん、それを心待ちにしているということはない。
というか、65歳から高齢者と言われようと、75歳から高齢者と言われようと、そんなことは所詮、言葉の定義の問題であって、加齢によって、体力、知力、精神力がどの程度落ちているのかによって、高齢者と自認するかどうかが決まるだけのこと。

私が年老いたことを意識したのは、体力的には40歳頃で、鏡で見る肉の落ちた自分の姿に気がついたとき。知力のほうは、60歳ぐらいまでは知識は増えているように感じ(あくまで「感じ」であって、実際に増えているかというとアヤシイが、自覚ということなら「感じ」の問題で良いだろう)ていたが、最近は、精神力(集中力)の衰えに添うように、知力の増加も停止したと自覚するようになった。


AS20170105004044_comm.jpg というわけで、高齢者かどうかは自分が決めると思っているわけだが、社会から高齢者として遇されるかどうかは別の問題である。

報道によると、65歳以上を高齢者としたのは、そのための法的根拠があるわけではなく、統計上の高齢者は国際的に65歳以上とする例が多く、これに合せているという。高齢者を対象とする法令は、それぞれ個別の法においてその年齢が定められているらしい。


今回の提言は、65~74歳は「心身とも元気な人が多く、高齢者とするのは時代に合わない」ということが根拠だそうだ。
しかし、身体状況で高齢者を定義するというのは、社会性という面からはいかがなものだろう。この提言の発想からすれば、社会政策まで広く考えているとは考えにくい。

定年後再雇用が義務付けられるなど、高齢者の雇用環境は改善されていると思うけれど、それも65歳までで、75歳まで雇う?

奈良時代の役人の「定年」は70歳だったとか。(⇒Wikipedia "致仕"


元気な「高齢者」が多いといっても、65歳に達する前でも元気じゃない人だっている。
敬老祝金のようなものは別として、福祉施策は、それを必要とする人がいるなら、75歳に達していないからといって打ち切って良いものだろうか。
報道では、この提言を契機として、各種の高齢者施策が後退するのではと、心配するものが見られた。

それにしても「65~74歳を高齢者とするのは時代に合わない」というけど、時代の問題だろうか。
「真田丸」でおなじみの真田信之は93歳まで生きた。
天海僧正は107歳、北斎は90歳で、どちらもギリギリまで働いたらしい。

たしかに、時代が進むにつれて、元気な(脳卒中などの治療を受けていない)高齢者の割合は下がっているわけだけれど、そうではない(つまり多くの人が避けたい)元気でない高齢者もいる。
そうした元気でない高齢者の割合は下がってきたかもしれないが、絶対数は時代とともに増加しているのではないだろうか。こちらが高齢者の範疇からはずれてしまうということに、問題はないのだろうか。

はっきり言って、65歳を超えていれば、よほど特別な人以外、高齢者として遇されることはメリットが多いはずである。高齢を理由に就職を断られるといっても、そもそも65歳超だったら差別を受けたと思うだろうか。

自分では高齢者の自覚はないけれど、高齢者を優遇する制度はちゃっかり使う。
それが元気な高齢者の姿である。
私もそうなりたい。
今更、もう10年待ちなさいなんて。


と、こんなことを言うから、高齢者を75歳以上にしようと主張する為政者が出てくる。

元気なんだから、それだけで恵まれてるよ。何をしてもらいたいと言うんだ?
(そして病気になったら、「これだから高齢者は困るんだ、お荷物だな」と言うんだろう)
すみません、おめおめ長生きした私が悪うございました。


だけど、元気に生きてるご褒美という考え方があっても良いのでは。そしてそのご褒美が、高齢者の健康増進につながるものだとしたら。そしてその健康増進効果が65歳で最も高まるのだとしたら。たとえば、弱り切ってからスポーツをはじめるよりは、体力が下り坂になったときにそれを維持しようという方が簡単そうじゃないか。

ごちゃごちゃ書き散らしたけれど、提言では65~74歳は「准高齢者」とするとある。「高齢者・後期高齢者」という現在の呼び方を「准高齢者・高齢者」と、言葉上デフレ(デノミ?)するに過ぎないのかもしれないけれど。
要は、何が問題で、何をすれば良いのか、言葉遊びに惑わされなければ良いわけだ。

それにしてもなんで75歳なんだろう、70歳でもよさそうに思う。
70歳は、「古希」という言い方もあるし、「従心」という言い方もある。官人の定年のことを書いたが、「致仕」は70歳を指す言葉としても使われるそうだ。
75歳って、何か特別な呼び方ってあったっけ?

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デマクラシー(demagogue+-cracy)

img_08d2ef3a41ac950e70c8d05ac1fd8f14203665.jpg 昨日、トランプ氏の大統領就任式が行われた。

就任演説では、結束を掲げたけれど、ワシントンでは反トランプの人たちが暴徒化して、多くの逮捕者が出たと伝えられる。
「アメリカの製品を買い、アメリカ人を雇う」というときのアメリカ人に、WASP以外の人も含まれるのだろうか。

ある調査によると、支持率は40%、不支持率は52%だという。
これで大統領に選ばれるのだから、選挙制度に疑問を持つ人がいるというのも不思議ではない。

テニスで、1セットをタイブレークのすえ
6-7で落としたとする。
 獲ったゲームは、ラブゲーム(+4pt)
 失ったゲームは、最小得点差(-2pt)
とすると、セット計のポイント差は、
 4×6 + (-2)×7=10pt
10ポイント多くとってもセットを失う

5セットマッチを2-3で負けたとき、
 獲得セットは1ポイントも落とさず、
 失ったセットは前述のとおりとすると、
   24×2 + 10×3=78pt
78ポイント多く獲っても負けになる
米国は連邦制で州単位での意思表示という考え方が基調にあるという。
日本も小選挙区制をとっているから支持率が50%未満でも国会では過半数を持てる。

テニスでポイントを多く獲った方が負けることもある理屈である。


ただこれは選挙制度だけの問題ではない。

前に「多数決を疑う」という記事を書いた。

集団の合意形成の方法としての多数決を、集団のメンバーの意思を集計する函数(集計函数)の一種とし、その他の各種の可能な集計函数との比較や、集計函数に望まれる性質について書かれた本(社会的選択理論)についてである。


その記事にも書いたけれど、論理的・科学的に決定できる命題を多数決で真偽判定するのは間違っていると思うのだけれど、それだけではない。
majogari_waterboarding10.jpg

こんなところに多数決が出しゃばったら、昔の地球は平たくて、今の地球は丸くなったことになるし、
昔は魔女が多かったが、みんな退治したから今は居なくなったって話になる。


多数決などの集計函数では、通常、集団のメンバーは独立した個人であることが前提されているが、実際の社会では、個人の意思は周囲の意見に大きく左右される。

「多数決を疑う」では、独裁は1人のメンバーの意思のみを反映する集計函数として扱われているが、多数決の場合でも、メンバーの意思にバイアスがかかっていれば程度の差はあっても同様の状態になるだろう。
これは「見かけ上の多数決」と言うべきものではないだろうか。

ポピュリズムはエリート専制よりましといっている元O府知事・O府市長がいるけれど、ポピュリズムは大衆に迎合するだけではなくて、見かけ上の多数決を正当性の根拠とし、そしてその見かけ上の多数を創り出す政治手法だろう。
その意味では見かけが違ってもエリート専制もポピュリズムも実態は同じじゃないだろうか。
古代ローマの人も言った:「アテネは民主政をとることで、ペリクレスの独裁が強力に行われている。」


demonstration_march.jpg 大塚久雄氏が何かで書いていた話だが、デモ行進の群衆の中の個人は、自分では動く方向を決められないが、その行進の推進力になっている。
これは経済活動のたとえだと思うけれど、集団の意思と力というものも同じじゃないだろうか。

さらに進むと、集団極性化(group polarization)という現象も起こる。いわゆる群集心理。
また、パニック状態では、デマ情報で群衆がより危険な方向へ誘導されることがあるという。
魔女狩りが起こる!

デモクラシー(democracy)ならぬデマクラシー(demagogue+-cracy)に陥らなければ良いと思う。

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チェンジ、オバマ

今日1月20日(日本時間では明日)、米国大統領就任式が行われる。

反対デモも計画されているとかで、ものものしい警備がしかれるようだ。

"Change"、"Yes, we can"で迎えられたオバマ氏も、"Change, Obama!"と退場を命じられた。

トランプといえば、ジョーカーが連想されるけれど、これはジョークではない。

"Make America great again"というけれど、
"Make America threat again"となっちゃうのか。
世界の警察官はやらないというが、すでに脅威にはなっている。

自分の主張と異なる相手は恫喝。
米国大企業は唯々諾々のようだが、トヨタはタイミングが悪かったみたい。

その一方で中小企業やプア・ホワイトの人気はかなり高いらしい。
今のところ主張は一貫しているようだ。個々の問題に対して、うまく気を惹く言葉が受けていると思う。

しかし政策に一貫性、あるいはバランスというものがあるのか、それはわからない。

とりあえずトランプ景気とやらで、アメリカは景気が良いという。その余得がこちらにもきてくれるうちはいいけれど。
所詮、裏付けがあって、実物経済が良くて、というわけではない。

はじめは良いけれど、そのうち風向きが変わることになるのではと心配である。
日本でも、アベノミクスが景気をあげたのははじめのうちだけ。それも株価という指標以外にはこれといってなく、実感できるようなことはない。

ブレグジット・ショック、トランプ・ショック、まだまだショックが続くのでは。

今日は文章はどうでもよくて、久しぶりのモーフィングで遊ぶのが趣旨。


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健康増進法が改正されるかも

飲食店内や駅構内は原則禁煙に…受動喫煙対策
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 非喫煙者もたばこの煙を吸い込む「受動喫煙」への対策を盛り込んだ健康増進法改正案の概要が16日、明らかになった。
 飲食店内は原則禁煙とするが、喫煙室の設置を認め、悪質な違反者には過料を科すことなどが柱になっている。政府は20日召集の通常国会に改正案を提出する方針だ。
 改正案では、医療機関や小中学校などは敷地内を全面禁煙とした。大学や官公庁は屋内を全面禁煙としたが、屋外での喫煙は容認した。飲食店や駅構内なども屋内原則禁煙としたが、喫煙室の設置を認めた。
 不特定多数の人が利用する官公庁や公共交通機関などの施設管理者に、〈1〉喫煙禁止場所であることを掲示する〈2〉喫煙が禁止されている場所に灰皿などを置かない〈3〉禁止場所で喫煙した人に中止を求めるよう努める――などの責務を課すことも明記する。違反した喫煙者や施設管理者には、都道府県知事などが勧告や命令などを出し、改善しない場合は過料を科す。
読売新聞 1/16(月) 15:13配信
昨日、豊洲のベンゼンとタバコのベンゼンについて書いたけれど、そういえば、かねてから噂の公的施設(不特定多数が集まる施設)の禁煙の強化(罰則つき)を盛り込んだ、健康増進法の改正案の概要が報道されていた。

いわゆる受動喫煙(passive smoking)、一部の禁煙運動家は強制喫煙(forced smoking)と言う、の防止が目指されている。

同様の法制化については、自治体の条例でも試みられている。記憶に新しいのは、神奈川県の受動喫煙防止条例で、問題になったのは、商売に影響しそうな、パチンコ屋などの遊戯施設や小規模の飲食店で義務付けるかどうかだった。
結局、神奈川県の条例では、これらの施設では努力義務とされたようだ。

今回の法改正でも、問題になるのはこうした施設の扱い。テレビの報道では、小さな喫茶店で分煙のための設備(オープン型)も設置したのに、それではだめで、喫煙をみとめるなら、別室にすることが求められているというような話だった。

法改正でも、修正案が出て、神奈川県条例のようになるのかもしれない。

それはそうとして、こういう法改正が行われると、嫌煙家はますます力を得る。
私など、家でタバコを吸おうものなら、DVと言われるのではないかと心配である。
物理的暴力、言葉の暴力につづいて、化学的暴力というわけだ。

私はタバコの害については、それなりに知っているし、もう数年ぐらいは勤務時間中や喫煙禁止場所では吸わない生活が続いているから、やめようと思えばやめられるかもしれないが、やめようという気持ちにならない。

禁煙運動家には「タバコを憎む人」と「タバコの害を憎む人」(害がなければ問題ないと考える人)がいるとかで、前者はヒステリックな感じというか、喫煙者を人格破綻者のように言うので、ええかげんにせえよという気持ちになって、かえって反発してしまう。

たとえば、昨日の記事でタバコに含まれる有害成分のデータを使ったけれど、そうしたキーワードで検索すると、何百・何千と化学物質が含まれていて、どれもこれも有害物質であるといった、情緒的な主張ばかりヒットして、量的データを見つけるのに苦労した。

WHOの事務局長は、「タバコは何本まで許されるか」という質問に対し、ゼロと回答したそうだ。
どういうやりとりの中で出た言葉かわからないけれど、1日1本でも害があるにしても、それがどの程度のものか知りたいという質問者が満足する答えではないと思う。
which_heavier_tobacco_coffee.png

有害物質でも量的な閾値というのがあるはずで、ゼロ=あってはならないというのは、気持ちとしてはわかるけれど、dose-response関係が立証されていないとしたら、少なくとも私が読んだ疫学の本では、因果関係を認めることは困難と書いてあったと記憶する。もちろんタバコと諸疾患の間には、dose-responseはあるとされているけれど。


吸わないことがベストだとしても、1本の快楽と1本の害毒を天秤にかけて考えるような余地はないのだろうか。

タバコの値段を上げれば良いという意見があるけれど、じゃあ、いくらにすれば良いのか。
タバコ1本吸う事と同等の満足を得られるのは、
コーピー1杯でしょうか、ビール1杯でしょうか、それともディナーコースでしょうか。

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豊洲のベンゼン

200px-Benzene-3D-vdW.png 昨日は豊洲市場をとりあげたけれど、汚染の程度がどういうものなのか、ちょっと考えてみた。

報道されているのはベンゼンが基準値の79倍ということなので、ベンゼンによる汚染の程度をわかりやすくしてみようということである。

今回の調査は、おそらく地下の水の調査だろうから、水質環境基準の0.01㎎/ℓ以下を参照したものと思う。ただ、水にどのぐらいのベンゼンがあっても、水中生物ではないわれわれとしては実感がわかない。

ということで、空気に置き換えて考えることにした。
ベンゼンは揮発性だから、空気中にベンゼンが揮発して、それを吸い込むものと考え、水質基準の上限値と、有害大気汚染物質に係る環境基準の上限値は、同等の効果があるものと、勝手に考えて、大気汚染の基準値 0.003㎎/㎥以下の方を基本にする。

さて、繰り返すがベンゼンが基準の79倍のところがあったと伝えられているから、大気汚染の方も基準値の79倍のところがあったということにしてみる。
つまり、0.003㎎/㎥×79=0.237mg/㎥ の濃度だったとする。

この汚染空気の中に居たとして、1回の呼吸で吸いこむベンゼンの量は、

0.237㎎/㎥×0.5ℓ=0.0001185㎎=0.1185μg となる。


さて、この濃度の空気を吸い込むというのがどういうことなのか、身近なこと、喫煙に換算してみる。
タバコに含まれるベンゼンはタバコの銘柄によって随分違うけれど、マイルドセブン(現行商品名:メビウス)の場合、1本あたり25.8μgのベンゼンが含まれている。

したがって、汚染空気を吸って、それがタバコ1本分になる呼吸回数は、

25.8μg/0.1185μg=217.72回 ということになる。


呼吸回数は1分に18回とすれば、

217.72/18=12.1分

つまり、この汚染空気中に12分居たら、タバコ1本分くらいのベンゼンを吸うことになる。
もちろん、タバコの有害物質はニコチン、タール、一酸化炭素だから、ベンゼンで比較しても意味はないのだけれど、ベンゼンの量ということだけなら、12分でタバコに含まれるベンゼンを吸い込むという話である。

部屋にいて吸い込むという状況を想定すれば、タバコの主流煙より、副流煙の方で考える方がイメージがとりやすいかもしれない。

副流煙の場合は、マイルドセブンで 294μg/本である。これが部屋中に拡散していると考える。

オーダーとしては今回調査の最大値237μg/㎥に近いから、何となくそれっぽい。


仮に、部屋が6畳相当(10㎡×2.5m=25㎥)の容積があるとすると、豊洲の汚染と同じ濃度になるのは、

237μg/㎥×25㎥=5,925μg のベンゼンが均一に拡散している場合で、

それは、5,925μg/294μg=20.15本のタバコを吸った状態に相当する。


uramahjong_stil.jpg 六畳間で、タバコを吸う人3人と、吸わない人1人でマージャンを半荘2局(1時間)やったとして、喫煙者が9分に1本ぐらいの割合でもうもうとタバコを吸っている。そんなイメージだろうか。

もちろん副流煙に含まれる有害物質はベンゼンだけではないから、本当にこんな状態だったら、豊洲よりははるかに酷い状態であろう。

ただ逆の立場で見ると、豊洲の汚染なんて、一昔前の雀荘よりはずっとましということなのかもしれないが。



数値出典:

・厚生労働省 平成11-12年度たばこ煙の成分分析について(概要)
・環境省 化学物質情報検索支援システム


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豊洲市場、落としどころが見えなくなったかな

関西人としてはそれほど関心は強くない東京都豊洲市場問題。
だけども、前に、「豊洲市場、落としどころが見えてきたかな」なんていう記事を書いたから、フォローしておこう。

周知のとおり、先日公表された汚染調査結果で、落としどころが全く見えなくなってしまった
市場のホームページは、汚染が全体に広がっているわけではないなど、安全性を強調するような書き方がされていたけれど、これも書き換えられるのかな。

そういえば、以前、市場のホームページに、全体に盛り土をしているとあったのが、盛り土がされていない場所が発覚して、ホームページが調整中になったことがあった。


読売新聞に、汚染場所のマップがアップされていたので、再掲しておく。
img_741f7f2d54ff75c4510fa26ef372257f72028.jpg
fukushima_osen_img_3.jpg 見た通り、結構、広範囲に拡がっているようだ。
今までは、たまたま高濃度汚染の場所があったが、封じ込め可能という雰囲気だったように思う。

多くの場所でデータがとれたわけだから、汚染物質の濃度のコンターとか作って公表してくれないかな。

コンター図のイメージとして、福島の放射性物質汚染マップを掲げたけれど、ネットに適当なサンプルが見当たらなかっただけで、他意はまったくありません。


「進むも地獄、退くも地獄」という状況。
誰が地獄を作ったんだと、さぞかし市場の利用者や都民が恨んでいることだろう。

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寒い!

P_20170116_070718_vHDR_Auto.jpg 今朝はかなり冷え込んだ。

昨日はかなり吹雪いた。
今朝もまだ少しちらついていたが、出勤の駅までの道路が、うっすらと白い。
気温が低いので、融けていないので、かえって滑りにくい。
車道もまだ融けてなくて、車もスピードを落として走っている。

昨日は京都市内もかなりの雪で、全国女子駅伝では、雪の中を、頭に雪を付け、それどころか胸のゼッケンにも雪が貼りついた状態で走っている選手の姿が、テレビ中継されていた。

今夜も予報では、雪がちらつき、一層冷え込むとのこと。

今日も、長袖のヒートテックの下着、ズボン下を着用。
冬はこれに限る。

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左義長

P_20170115_085451_vHDR_Auto.jpg 今日は、昨夜から降っていた雪が積もっていた。
朝、まだちらついている。







さて、昨日は、地元の左義長
地区の防犯推進委員にも協力が求められたので、私もおつきあい。

事前に主催者が誰なのか(地区の催しって、案外、みなさん誰が主催とか知らないことがある)、どういう段取りなのか、そして防犯推進委員の役割は何のか、なーんにも知らずに、朝8:00に会場の小学校へ。
P_20170114_080111_vHDR_Auto.jpg
防犯推進委員だから、会場警備でもするのかと思っていたが、先に来ていた人に聴いても、さぁ、何するんでしょうという。

青竹を組んで、藁を縛り付けてある大きな(10mぐらいある)左義長の組み物(櫓と呼んで良いのかな)が用意されている。

櫓をながめて、しばらくすると、小学校の先生らしき人が数人出てきて、子供の習字などを、大きな段ボール箱いっぱいに持ってきた。
そして、その習字作品を櫓にくくりつけはじめた。

P_20170114_082002_vHDR_Auto.jpg P_20170114_081209_vHDR_Auto.jpg 私も含め、その場にいた数人もその作業に加わる。
櫓はねかせてあって、てっぺん付近にも、習字作品をくくりつける。

焼くものがだいたいくくりつけられると、櫓を立てる。

この日は、風が強く、吹き倒されそうなので、軽トラックをそばに寄せて、縄をトラックに結びつけて倒れないようにする。

P_20170114_084423_vHDR_Auto.jpg 実は、この催しは、小学校の地域学習プログラムと位置付けられている。

点火は9:00とされていたが、8:30頃に子供たちがグラウンドへ出てくる。

児童会長らしき子供が開会宣言のようなことをして、校長先生が挨拶。

続いて、子供が左義長の意義などを説明。
そして、10人ぐらいの子供が、それぞれ今年の抱負をみんなの前で元気よく発表していた。

FabPlayer_[20170114-120245-257] P_20170114_085656_vHDR_Auto.jpg いよいよ点火。
点火するのも子供。

火は簡単に櫓全体に燃え移り、一気に拡がる。
櫓が焼け落ちるまで、その時間、3分ほど。

【動画】FabPlayer_[20170114-120245-257]


もう20年もこの催しを指導してきたというリーダー役の人の話では、櫓はリーダーが組んでいたけれど、学校の催しになってからは、先生方が組むようになって、ちょっと素人っぽいけれど、学校がやることに意義があるとのこと。

油などは使わない。
以前、ある学校で、小雨模様だったので油を使ったところ、櫓を組んだ人が腹を立てて、翌年からは協力しなくなったという話もある。

この小学校だけでなく、地域の小学校の多くがこの催しをやっているそうだ。
もともと、このあたりは竹林が多く、竹の商売をしている人も多い。

ただし、この日使った竹は、近所のゴルフ場から伐り出したものだそうだ。

そういえば、東大寺のお水取りの籠松明につかわれる竹は、この地域のもので、奈良まで竹を運ぶ「竹送り」という行事も行われる。
また、竹取物語かぐや姫の発祥の地であるとも

かぐや姫発祥の地は多くの自治体が名乗りをあげている(⇒Wikipedia 「竹取物語」)。

一休さんが街の代表的キャラクターだけれど、かぐや姫を使うという手もあったのでは(奈良県広陵町が既に使っている)。



P_20170114_092638_vHDR_Auto.jpg 後片付け。
倒れた櫓がくすぶって焚火になっているなか、長い青竹を鋸で切って、火にくべる。
たびたび竹が破裂する音がする。
グラウンドに散った燃えカスを集め、焚火にくべる。

しばらくして、先生らしき人が、アルミホイルにくるんだ芋をもってきて、焚火の中へ。(写真の銀色に光っているもの)

私は、芋が焼けるのを待たず撤収したけれど、うまく焼けてただろうか。

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ピロリ除菌

P_20170111_132413s.jpg 先日12日から、ヘリコバクター・ピロリ菌の除菌を開始した。

昨年12月に内視鏡検査を受けて、随分胃が荒れているということ、前に人間ドックでピロリ陽性の結果が出ていることから、医師がピロリ菌の確定診断のために組織を採っていたのだけれど、推測どおり、ピロリの存在が確認された。

12日に開始して、7日間、朝夕に除菌用の抗生物質などを連続服用する。
副作用として、下痢・軟便、発疹などが出ることがあるというが、今のところ、顕著な副作用はない。

強酸性の胃の中に、細菌が住んでいるということは、比較的新しい発見で、それが胃がんとも関連があると言われ出したのは、さらに新しい。その頃、多分10年ぐらいも前だろうか、知り合いの医師に、ピロリの除菌やりますかと言われたことがあったのだけれど、雑談の中での話で、あまり気にせず、そのままになっていた。

IMG_20170111_114757-crop.jpg 私は、20年ぐらい前に胃潰瘍をやったことがあるのと、その後も、ときどき胃が痛む感じがあるので、この際、ピロリとの関連もあるかもしれないと思って、ピロリ除菌をやることにした。

除菌が成功したかどうかは、2ヶ月後に検査をすることになっている。
前に精密検査を受けたときに、内視鏡またやりましょうと言われていたけれど、それは胃の荒れ方が少し酷いので、年一回の内視鏡検査をやるべきという趣旨で、2ヶ月後に内視鏡ということではないようだ(ちょっとほっとしている)。

医師から特に注意されたわけではないが、ネット情報などを見ると、深酒は除菌失敗につながるおそれがあるという。
一週間、おとなしくしていよう。

除菌に失敗すると、二次除菌ということで、別の薬を飲むことになるらしいが、そのときはアルコール禁止だそうだ。そんなことになってはたまらない。


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本日休刊日

20160702065200.jpg 本日、休刊日。

特にメドヴェデワのファンというわけではないけど
これは見たかったでゲス

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出典:実現!!メドのリアル♪♪セーラームーン♡♡…


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政党復活枠

PK2016112602100052_size0.jpg 年が明けると、多くの都道府県では予算の復活折衝がはじまるそうだ。

12月頃に財政担当の査定が行われ、財政担当が決めかねた事業(査定では予算を認めなかったもの)について、知事の判断を仰ぎ(復活折衝)、それを受けて、2月頃からはじまる議会へ提出する予算案が作成されるという手順だという。

当然、知事が復活するためには、相当する財源が用意されているはずで(でないと、既に担当査定でOKのものを削らないと収支がバランスしないが、それをするのは相当の剛腕の知事でないと難しいだろう)、いわばこの額が知事の裁量の範囲ということになるわけだ。


その復活折衝にあたって、東京都の予算編成では「政党復活枠」というのがあるのだそうだ。
200億円と伝えられているその枠は、政党の要望によって復活する分として、とりわけられているという。
小池都知事はこの枠を廃止するという。

都知事の説明では、全国道府県で同種のやりかたをしているところはないという。
本来、予算編成は知事の権限である。議会は知事が提出した予算案に修正を加えることはできるが、予算案として提出することはない。

某自治体では議会が認めなかった事業について、歳出予算を減額したことがある。歳出の減額であれば、歳入側は予備費に充当するなどして予算の体裁はとれるだろうけれど、歳出増だったら大変である。(というか、税収見積もりがあまいと指摘されて、歳入減額されても大変だろう)


予め議会用にとりおいたとしても、各政党の要望に応じて予算に組み入れるのは知事側が最終決定するだろうから、形式的には問題ないというのが議会側の意見のようだ。

この慣習がいつ頃からできたのか知らないけれど、おそらく知事と議会の関係を円滑にするためにできてきたものだろう。

議会:こんなことをしてもらいたい。
知事:議会用の枠の内でしたら要望にお応えできます。

(子:おもちゃ買ってぇ~
 親:おこづかいがあるでしょう)


americano_kinkenseiji.jpg というわけで、知事側は、議会の際限ない要求を抑える言い訳として利用し、議会側は、自分たちの要望によって実現した成果であると誇る。

米国には「イヤーマーク(ear mark)」という言葉があるそうだ(軽部 謙介「ドキュメント アメリカの金権政治」)。
議員の要望で実現した事業については、印(イヤーマーク)を付けておく。そうすると、議員が自分の要望がどう取り入れられたか確認でき、成果を誇ることができるのだという。

昔、聞いた話だけれど、ある自治体では事業担当者がなんとかして予算を付けてもらいたいときに、議員にネタを持ち込んで、議会質疑などで事業の推進を要望させ、それを根拠に財政担当に予算を付けるよう圧力をかけるやりかたがあるそうだ。

財政側は、予算編成権の侵害であると憤るのが普通。仮に要望が通って予算がついても、後年度でしっぺ返しをしたりするらしい。


ホントかウソか知らないが、交通量の多い幹線道路にたくさん歩道橋が設置されるのは、地元議員が子供の安全のためにと自治体に要望して、それが実現することが多いのだそうだ。歩道橋というのは目に見える成果としてわかりやすい。近隣住民は「○○先生の橋」と呼ぶのだとか。

歩道橋の設置はそう高額ではないのかもしれない。なぜなら、近くに信号のある交差点があれば、どこともつながらない単独の歩道橋が使われることはあまりなく、それに高い税金を投入することはしないだろうから。


議会制民主主義には、選挙以外にもいろいろコストがかかるものらしい。

議会: 議会軽視だ!
行政: いえ、議会経費です。
都民: こちとら江戸っ子でぇ、シとヒの区別はつかねぇや。


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ニューイヤーオペラコンサート2017(その3)

時事の話題を優先させたので、少し間があいたけれど、ニューイヤーオペラコンサートをとりあげる3回目。

2017-01-03_213752s.png 毎年のようにニューイヤーオペラコンサートを見ているわけだが、私はオペラファンというわけではなくて(DeAgostiniのオペラDVDは買ったけれど、それは舞台を見に行くことは、そうないだろうから)、モーツァルトのオペラ(このジャンルを完成した、そしてこの後のオペラは、モーツァルトがやったことを模倣し、脚本を替えてやってるように思う)のファンで、オペラならなんでも良いというわけではない(ワーグナーは通して見たいと思わないし)。

今年は「イドメネオ」、「魔笛」、「ドン・ジョヴァンニ」がとりあげられたが、基本、短調の曲を選曲しているとのこと。

2017-01-03_213901s.png 「イドメネオ」は、なかなか通して聴く機会のないものだけれど、完全なモーツァルトになる手前という感じだけれど、後世のイタリア・オペラ以上の水準にはなっている(贔屓か)。エレクトラ(森谷真理 )は熱演。

パミーナ(砂川涼子 )は、この歌手に良くあったアリア。もちろん魔笛のストーリー自体に難がある(アリエンやろという設定)わけで、ちょっとタミーノが口をきかないぐらいで、狂っちゃうか? なのだけれど、その狂気がモーツァルトの手にかかると真実になってしまう。

昔、突然、口をきくのをやめたガールフレンドがいた。別にきらいになったわけじゃない、ただ、このままでいいのかと反省する時が欲しかっただけなのだ。そしてそれは永遠に失われた時になってしまった。重い思い。


2017-01-03_214008s.png 劇的に演じられたのは、当然だがドン・ジョヴァンニ。
ドン・ジョヴァンニ(黒田博)、なかなかはまり役。レポレッロ(久保和範)、騎士長(ジョン・ハオ)も良かった。

楽しんでいて、ふと目にとまったのは、舞台と照明。
円形の床を客席に向かって傾斜させている。そこにエレクトラのときは炎、パミーナのときは凍れる心、そしてドン・ジョヴァンニでは冷気と炎が、照明で表現される。そしてドン・ジョヴァンニが地獄へ落ちるシーンのためのエレベーターが装備されていた。

傾斜した舞台というのはオペラではときどき見かける仕掛けで、ホールのステージより目線が下になる客からでも奥まで見えるようになっていると思うが、それ以外に奥行きの深さを表す視覚効果もあるだろう。
左右にも壁を立てて、客からハの字になるようにしてあるのを見たことがある。ここまでやれば、一種のホーンのような音響効果も出るのかもしれない。NHKホールという音が抜けるようなホールではとくに有効かもしれない。

いつのことだか忘れたけど、大阪フェスティバル・ホールのオペラ公演のときは、ハの字に壁を立てると、袖に近い席だと壁が文字通り壁になって、舞台奥が見えなくなる。その席は販売していなかったようだった(満席だが、左右のその席は空席だった)。


もちろん、この円い舞台は、モーツァルトだけで使っていたわけではない。ファルスタッフのときには「世間」をイメージさせる動画(渋谷の交差点?で人々が行きかうもの)を写すスクリーンにもなっていた。

舞台転換に時間をかけられないこの演奏会では、なかなか良い工夫だと思う。

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110番の日

110call_guidance.jpg 今日は「110番の日」。
というわけで、一昨日、それにあわせて、地域の防犯啓発活動が行われ、防犯推進委員を拝命している私も参加。

このネタは昨日の記事にしようかと思ったけれど、井伊直虎のほうをすみやかに記事にするほうが喜ばれそう(誰に?)なので、劣後させることにした。それに、「110番の日」は今日だし。


そもそも「110番の日」というのがあることも知らなかったのだけれど、警察庁が定めたものだそうだ。

駅およびスーパーでチラシとポケットティッシュを配布。私は、スーパーの方へ。
チラシは110番(緊急通報)をするときの注意事項を啓発するもの。

そういえば、随分前のこと、知り合いの奥さんが、車を運転していて、間違って阪神高速に入ってしまい、すぐどこかで降りたけれど、途方に暮れて110番したんだそうな。

「道がわからなくなったんですけど」
「あんたねぇ、子供じゃないんだから、そんなことで110番しないでください」
「大阪府警って冷たいのね!」

大阪へ引っ越してきてすぐのことだったそうだが、いや、恐るべし。

IMG_20170108_095240.jpg 雨が降っていたので、スーパーの廂のあるところで、来店客めがけて、声をかける。
ほとんどの人が素直に受け取ってくれる。

朝10時から11時までの1時間の予定だったが、20分ちょっとでポケットティッシュがなくなって、終了。

配布している様子の写真は撮り忘れ。
警察官がたくさん写真を撮ってくれていたけれど。


ちなみに「119番の日」というのもあるらしい。
こちらは1月19日ではなくて、11月9日。
110は、11月0日というわけにはいかない、他に選択肢はなかったということ。

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「おんな城主 直虎」スタート

onnajoshu_naotora_titleshots.png 今年のNHK大河ドラマがはじまった。
前に書いたとおり、今年の主人公は
井伊直虎

周知のとおり、男子不在の井伊家の危機を救った女傑というのだが、つい最近、「直虎」を名乗ったのは女性ではなく、いとこにあたる別の男性だった可能性を示す史料が新たに確認されたという新説が発表された。
(⇒「おんな城主直虎」は男だった? 大河主人公に新史料

AS20161214004856_comm.jpg これを報道する記事(上のリンク先)によれば、NHKは「ドラマはあくまでもフィクション」という回答をしたと伝えられている。

もちろんフィクションということは見るほうも承知であるけれど、フィクションにもフレームワークというものがある。新説=真説ではないわけだけれど、やや困惑。
それに、もともと直虎の資料は少ないようなので、どちらの説が正しいか、そう簡単には決着しそうにない。

前に大河ドラマ「江」では、私が知る限りすべての時代劇がそうであるように、江は徳川家光の母という従来の説を踏襲していたわけだが、前に「大河ドラマの功罪」に書いたように、福田千鶴氏はこの説を否定されている。
なので、本当は家光の母じゃないらしいけれど、ドラマとしては従来の説に従っておくのが無難ということなんだろう、と自分を納得させていた。


ところで、前に書いた記事「再来年の大河ドラマは井伊直虎」へのコメントで、るりひめ様から、「胸のホクロがエロいです」と教えていただいた。

「戦国無双」というゲームのキャラクター。
昨年の「真田丸」では、信繁役の堺雅人さんも、このゲームを参考にしていたというもの。
では、柴咲コウさんも? ならば、付けボクロでも良いから、是非、胸にホクロをお願いしたい!

ということで、ネットで拾った画像(元画像出典:http://trend-news135.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4c3/trend-news135/cef543a6-s.jpg)に、「戦国無双」のキャラクターとほぼ同じ位置に、ホクロを付けてみた。(拡大しないとわかりにくいと思う=画像クリックで拡大)


cef543a6-s_spot.jpg sengokumuso_naotora.jpg

「真田丸」では、第1回から、子役を使うことなく、大人(実際は少年?)の信繁が登場したけれど、「おんな城主 直虎」は、第1回では、まだ直虎は成熟した女性という齢ではない(ホクロがあってもエロくない)。

ということで、まだドラマの出来を云々する段階ではないのだけれど、敢えて感想を言わせてもらうと、

子供たちが、あまりにも大人びた科白を言う。これはできすぎではないか。
中村梅雀のナレーションがなんとなく映像と合わない気がする。淡々としているほうが合うのでは。


去年の「真田丸」はちょっと変わったノリで成功したけれど、それは脚本、配役がはまったからできたこと。同じことをしようとしているわけではないようだが、去年の成功を意識しすぎてるのではないだろうか。
まして、NHKが、女性を主人公にしたら視聴率がとれると思ってたら論外である。

そのことは「花燃ゆ」で証明されている。
井上真央だったからダメで、柴咲コウなら成功するというようなものでは、大河はないと思う。


まぁ、始まったところだから、これからどうなっていくのか見守りたい。
(といって、結局、ずっと見るんだろうけど)

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新春コンサート

P_20170107_131336_vHDR_Auto-crop.jpg 昨日は「新春コンサート」というのを聴きに行った。

はるばる箕面市。
お昼は早めに家でとって、箕面駅からすぐのミスドで時間調整。
ドーナッツ1個とほっと・コーヒー。
スタバより、ミスドのコーヒーのほうがおいしいと思うのは私だけ?

店内で気が付いたのだが、ミスドの1番店は、箕面だという。
入った店がそれだったのか定かではないが、1番店開業時の写真が店内に掲示されていた。


開演30分前に、会場に到着。
このホールに来るのは初めて。
図書館、生涯学習センターが併設されている施設。

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この日の演目は、オール・モーツァルト。
ディヴェルティメント、ファゴット・コンチェルト、セレナード、ファゴットとチェロの二重奏、そしてオペラ・アリア4曲。

オペラ・アリア4曲はすべてテノールで、同じ歌手(小餅谷哲男)が歌った。
少しバリトン的なテノールで、声量豊か、しっかりした歌で、気持ちよく聴かせてもらった。

最初のフェランドのアリアは、生で聴いたのは40年以上前、学生時代にベルリン国立歌劇場来日公演。そのときはペーター・シュライアー、さすがにシュライアーの甘美なのに大声量という奇跡のような声には及ばないにしても、今回のテノールは十分聴かせてくれた。だから、驚いた。

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shinshun_concert2017.jpg オール・モーツァルトということだったが、アンコールに「モーツァルトの子守歌」。これはモーツァルト作じゃない。去年、テレビドラマ「漱石の妻」で、良く使われていた「夕べの想い」とかにしたほうが良かったのでは。

オーケストラは急ごしらえだと思うが、大フィルの各パートのトップが中心になっていて、気心もしれているのだろう、アンサンブルもしっかりしている。

とくに、KV239では、ヴァイオリン2本、ヴィオラ、コントラバスの4人が、ステージ前面に立って演奏し、アドリブを効かせる趣向。
やっちゃえ、というところかな。

ということで演奏者も楽しくやってるみたいだし、聴いている方も楽しい。2000円(前売り)の値打ちは十分ある。
これで演奏者がギャラをいっぱいもらえてたら、みんなハッピーということ。

なかなか気持ちの良いコンサートだった。
(もちろん、その最大の功労者は、モーツァルトだと思うけど)


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ニューイヤーオペラコンサート2017(その2)

2017-01-03_214410s.png 今年のオペラコンサートでも、バロック・オペラがとりあげられた。

昨年は、グルック「オルフェオとエウリディーチェ」、ただしフルート曲"精霊の踊り"。
一昨年はヘンデル「リナルド」がとりあげられて、ヘンデルはオラトリオだけじゃないんだと再認識。

もっとも凡人が聴くのは「メサイア」ばっかりだけど。


2017-01-03_214506s.png そして、今年のバロックは、ヘンデルである。
伴奏は、鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン。息子の鈴木優人さんがチェンバロをひいていた。

思うに、世界的に、といって世界の状況を知ってるわけではないけれど、日本のニューイヤーオペラコンサートが世界に発信できるとしたら、多分、このヘンデルをフィーチャーしたことではないだろうか。

これはまったく私の独断というか、偏見なのだけれど、19世紀のオペラは、日本人が演じるとなんだか、ちょっと無理してるような、違和感を感じることがある。
なぜなのか理由は良くわからないのだけれど、19世紀のオペラは、ヨーロッパ文化というか、スノビズムが強くて、そんなところに無理して入って行かなくても、というような感じである。

だから日本人にはモーツァルトまでが良く似合うと思う(それに、モーツァルトだけできれば十分だし)。


それに対して、バロック・オペラだと、ヨーロッパ人にとってもきっと隔絶した時代で、当時をどう理解、再現するのかという点において、日本人もなんら臆することなくできる、ヨーロッパの「伝統」にある意味対等に対抗できる、そういうことではないだろうか。
金持ちの道楽といっても、18世紀までの王侯趣味と、19世紀のブルジョア趣味は全然違う、そういうこともあるかもしれない。

2017-01-03_214609s.png そして鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパンというのも、見事な演奏、生き生きとした演奏をしていて、バロックが決して古色蒼然たる音楽ではないことがわかる。もちろんピリオド楽器が使われていて、ヴァイオリンの弓も丸いやつ。全く黴臭くない。

ヘンデルから、3曲とりあげられたが、森麻季さんは、この分野でも見事な歌唱、芸域の広さを印象付けた。

衣装は、エジプト女王然とした装飾品をつけて、防備を固めなくても良いように思う。
シーザーの恋人なのだから、女体の柔らかさを感じさせるような、ローマ風の衣装が良い。


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ニューイヤーオペラコンサート2017

2017-01-03_213213s.png 恒例のNHKニューイヤーオペラコンサート、今年は60回目だそうだ。
60回といえばそれは盛大にやって不思議はない。

私の贔屓の幸田浩子さんが、今年も出てない!
忙しいのか、それとも何か事情があるのだろうか?


それはそうとして、今年は、ヴェルディ「ファルスタッフ」のタイトル・ロール、ファルスタッフ(折江忠道)が狂言回しのようなポジションを占めていた。
2017-01-03_213602s.png オープニングの出演者紹介は、歌唱順のようだったけれど、ファルスタッフは最後に紹介された。
そして、要所要所でファルスタッフが出てきて、最後、エンディングでもファルスタッフを中心にした「すべてこの世は冗談」である。

で、気がついた。
去年はシェイクスピア没後400年のメモリアル・イヤーだったわけで(コンサート中にもそのことに触れられている)、なぜ去年じゃなく今年に、この趣向にしたんだろう。

2017-01-03_214239s.png さらに追い打ち。
今年はモンテヴェルディのメモリアル・イヤー、生誕450年である。
そして今回の演目に、モンテヴェルディがない!

モンテヴェルディといえば、現存する上演可能な最古のオペラとされる「オルフェオ」や、悪女が主人公の「ポッペアの戴冠」、オペラの創始者と言っても良いぐらいの人じゃないだろうか。そして、オペラ関係者ならこの名前を知らない人はいないのでは(生誕450年ということを知らないとしても)。
2017-01-03_214805s.png

まさか、主催者が自分たちの60周年に浮かれて、モンテヴェルディのことを忘れちゃった?


それで気になった。来年2018年がメモリアル・イヤーになる、オペラに縁の深い作曲家は誰だろう。

  • グノー(1818~1893) 生誕200年
      「ファウスト」、「ロメオとジュリエット」
      去年のオペラコンサートで森麻紀さんが「ロメオとジュリエット」を歌った
  • バーンスタイン(1918~1990) 生誕100年
      オペラとは普通いわないかもしれないが「キャンディード」、「ウエストサイド物語」など
  • ロッシーニ(1792~1868) 没後150年
      「セヴィリアの理髪師」、「泥棒かささぎ」、「ウィリアム・テル」などなど
      なんといってもモーツァルト後、最初のオペラの巨匠。今年も「理髪師」がとりあげられた。
      ベートーヴェンと時代がほぼ同じ(当然、ベートーヴェンより人気がある)

    そしてもう一人、オペラは一曲しか作曲していないが、
  • ドビュッシー(1862~1918) 没後100年
      「ペレアスとメリザンド」、ワグナー嫌いの人のために是非

来年は誰かのメモリアル・イヤーを意識した企画がなされるだろうか。

もっとも、メモリアル・イヤーといっても十進法でキリのよい数字だから、コンピュータ(AI)が支配する時代になれば、メモリアル・イヤーも、64年、128年、256年、……というふうになるかもしれないが。


記録のために、今年とりあげられた演目を掲げておく。
レオンカヴァルロ 歌劇「道化師」から「ほら、急げ!」
ベッリーニ 歌劇「ノルマ」から「清らかな女神よ」 大村博美
プッチーニ 歌劇「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」 村上敏明
プッチーニ 歌劇「トゥーランドット」から「氷のような姫君の心も」 中村恵理
ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」から「私は町のなんでも屋」 上江隼人
ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」から「かげぐちはそよ風のように」 妻屋秀和
モーツァルト 歌劇「イドメネオ」から「心乱れ 怒りが込み上げる」 森谷真理
モーツァルト 歌劇「魔笛」から「愛の喜びは露と消え」 砂川涼子
モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」から「地獄落ち」 黒田博、久保和範、ジョン・ハオ
ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」から「この悪党め!」 折江忠道
ヘンデル 歌劇「タメルラーノ」から
「非道な者よ、お前に戦いを挑むために」
櫻田亮
ヘンデル 歌劇「ロデリンダ」から
「いとしい人よ あなたはどこに」
藤木大地
ヘンデル 歌劇「ジュリアス・シーザー」から
「戦闘のシンフォニア」~「嵐で木の船は砕け」
森麻季
ヨハン・シュトラウス 喜歌劇「ヴェネチアの一夜」から「ほろ酔いの歌」 中嶋彰子
カールマーン 喜歌劇「チャールダーシュの女王」から「踊りましょう」 中嶋彰子
ヨハン・シュトラウス 喜歌劇「こうもり」第2幕フィナーレから
ジツィンスキー ウィーンわが夢の街 中嶋彰子、西村悟
ヴェルディ 歌劇「ドン・カルロ」から友情の二重唱「われらの胸に友情を」 与儀巧、髙田智宏
ヴェルディ 歌劇「アイーダ」から
二重唱「すでに神官たちは待っています」
清水華澄、笛田博昭
ワーグナー 歌劇「ローエングリン」から「婚礼の合唱」
ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」から「イゾルデの愛の死」 池田香織
マスネ 歌劇「ウェルテル」から
オシアンの歌「春風よ、なぜ私を目ざますのか」
福井敬
チレーア 歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」から
「苦い喜び、甘い責め苦を」
藤村実穂子
ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」から「すべてこの世は冗談」

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ニューイヤーコンサート2017(その2)

2017-01-03_142812s.png 今年のニューイヤーコンサートでは、合唱付きの曲が披露された。

合唱付きの曲というと変わった曲のように聞こえるけれど、なんのことはない歌劇の一部であるから、まったく不思議なことではない。
歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」から"月の出"、合唱はウィーン楽友協会合唱団(国立歌劇場合唱団とは別?)。

そういえば、以前のニューイヤーコンサートでは、よくウィーン少年合唱団が出演していた。

2017-01-03_144005.png 合唱付きというと、今年、初演150年を迎える(番組中で紹介されていた)「美しく青きドナウ」は、もともとは合唱曲(男声合唱)として作曲されていて、初演のときも合唱曲だったらしい。
しかし、合唱付きで演奏されることはむしろまれなようで(私もFM放送かなにかで1度しか聴いたことがない)、今回のニューイヤーコンサートでも、おきまりのアンコールで、楽友協会合唱団は出ていなかった(せっかくだから、出てもらったらよいのでは)。


話変わって、ニューイヤーコンサートのテレビ放送では、何曲かバレエの画像が入る。
昨日の記事でもスナップショットを載せたけれど、どこか別のところで踊られているもので、どうやって撮影しているのか、うまく演奏に合わせている。

昔から疑問に思っていた。今ならネットで調べたら何らかの情報はあるだろうけれど、敢えて調べずにいる。


そして、いつ頃からか、演奏会場にもダンサーが入って、その場で踊るという趣向も加えられるようになった。
正月気分を盛り上げる演出ということだろう。
そのスナップショットをオマケ。

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ニューイヤーコンサート2017

恒例のウィーンフィルのニューイヤーコンサート、今年の指揮者はグスターボ・ドゥダメル。

この指揮者については全く知らなかった。
ウィーンフィルの来日公演の指揮者もつとめたそうだけれど。

35歳というから、モーツァルトの歳までは既に生きてきたことになるが、ウィーンフィルの団員の多くは指揮者より年上だろう。
ニューイヤーコンサートでは、指揮者の違いってそんなにあるのかなとも思うけれど、ドゥダメル指揮だと、なんだかウィーンフィルが軽やかだけれど、しっかりアンサンブルしているように思った。

巨匠といわれる人達は、なんだけ結構、お祭り気分というか、ウィンナワルツなどは、自分が指図するより、オケに任せておく方が良いということなのか、あるいは、お遊びを入れていた昔のイメージがあるのか、どちらかというと、うきうきしているけれど、アンサンブルはあまいところがあるように思っていた。

例外は、小澤征爾が指揮をしたときで、この直前か直後にウィーン国立歌劇場の音楽監督になっていて、ウィーンフィルの団員にしてみれば、こいつがボスだという感じだったのか、それまでのニューイヤーコンサートとうってかわって、アンサンブルが精緻になったように思った。

ドゥダメルの指揮も、その小沢が振ったときに近い感じがしたが、ドゥダメルのほうが、団員のピリピリしたような緊張感は薄いかな。それがこの演奏会には好ましいと思うけど。

正月の晴れやかな気分と、音楽の快適性が両立した、素晴らしいニューイヤーコンサートだったと思う。

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アニメの鳥たち

昨日は「マンガの鳥たち」だったが、今日は「アニメの鳥たち」。

Coyote_RoadRunner.jpg アニメの鳥で、一番に思い出すのは、「ロード・ランナー&ワイリー・コヨーテ(Wile E. Coyote and The Road Runner)」

(YouTube検索:"Wile E. Coyote and The Road Runner")


子供の頃、テレビで放送されていた「バッグス・バニー・ショー」(ルーニー・テューンズ=Looney Tunes)に出てくるもの。
超高速で走り回るロード・ランナー(ミチバシリ)と、それを捕まえようとするコヨーテの話。

台詞はいっさいなし。ロードランナーがときどき"beep, beep"と鳴く(子供のころは「ミンッ、ミンッ」と聞こえていた覚えがある)のと効果音だけ。

何年か前、またテレビ放映されていたのだけれど、へんな台詞が付いていた。ぶち壊しだった。笑いのセンス、子供の理解のどちらもを知らないというか馬鹿にした所業だと思う。

コヨーテ(子供の頃はオオカミだと思ってた)は、いろいろロードランナーを捕まえる工夫をするのだけれど、ことごとく裏目にでる。そのワンパターンなのだけれど、どう裏目に出るのかを予想しては、笑い転げていた。

それにしても、ロードランナーって窮極の地鶏(走り回る)で、スープはとれそうだけれど、肉はあまりなくて、あってもめちゃくちゃ固そう。苦労して捕まえてもどうだろう。


「バッグス・バニー・ショー」には他にもいろんなキャラクターが出てくるけれど、ロードランナーは超然としていた(喋らないから特にそういう印象になる)。
そんなところも気に入っていた。

Tweety_Silvester.jpg また「バッグス・バニー・ショー」には、ツウィーティ(Tweety)というカナリア(?)も出てくる。こちらは、見た目は小さく、可愛い。一緒にいる猫に食べられそうになるが、そういうフリを飼い主に見せつけて、猫を折檻させるという悪辣なところもあるキャラクター。
こんなの子供向けではないでしょう。

アメリカのこの手のマンガ(カートゥーン)は、ディズニー・アニメとは異なり、悪辣な主人公や、妙にエロティックな場面が出てきたりすると思うのだけれど、マンガは子供のものと決めてかかったのか、子供に見せていた大人の感覚ってどうなんだろう。

ところで、ロードランナーでも出てくるが、西部の乾燥地帯を舞台とするマンガでは、草が丸まったものが風に吹かれてゴロゴロするシーンがある。
これも子供の頃は、一体これは何なんだろうと思っていたが、「タンブルウィード(Tumbleweed)」=回転草というものらしい。
こんなものも本当にあるんだなぁと感心。
そういえば、山水画に描かれる山も、シンボリックに誇張されたものだとずっと思っていた。この景色が桂林など実在するものと知ったのはずっと後のことだ。

米国アニメには、他にもたくさんの鳥たちがいる。
ヘッケル&ジャッケルとか、ウッドペッカーとか。

日本のアニメでは、こうした擬人化した鳥が活躍するようなものはあるのだろうか。
犬や猫を擬人化したものはあるようだが、鳥はどうだろう。

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マンガの鳥たち

今年の干支にちなんで、鳥の話。
tezuka_hinotori.jpg マンガに出てくる鳥を集めてみた。

まずは、手塚治虫の「火の鳥」。
手塚自身がライフワークと言った作品。
ではあるけれど、一編ごとに見れば短編の味わいだと思う。
そしてどの話が一番印象深いかというと、大王の殉死者たちが、墳墓に埋められるとき、火の鳥の生き血を少しずつ分けて飲んで、地中から呻き続ける話だろうか。
あるいは、滅亡した地球で、生命の歴史を繰り返す話だろうか。
それとも、鳥から進化した知的生命体(鳥人)の星に流れ着いた地球人が、その星の鳥人を妻にしたものの、鶏の味が恋しくなって、その妻を殺して食べてしまう話だろうか。

otokooidon_last.jpg
鳥といえば松本零士の「トリさん」というのもあった。
松本零士というと「宇宙戦艦ヤマト」とか「銀河鉄道999」が代表作かもしれないけれど、私は「男おいどん」がこの人との出会い。
押入れのサルマタケと、同居(?)するトリさん。主人公がときどき「お~い、トリよ」と呼びかける。
「トリさん」は銀河鉄道や他の作品にも出てくるけれど、「男おいどん」で見たのが最初。

阪神タイガースの鳥谷も私は「お~い、トリ」と呼ぶ。

右図は、ネットで拾った「男おいどん」。最終回だそうだ。


tanioka_mujidori.jpg 次はむちゃくちゃな鳥。
谷岡ヤスジの「ムジドリ」。
rokujirorw.gif なんとも言いようがないキャラクター。
朝日に向かって「アサー」と鳴く(吠える?)、見様によっては正月っぽい。
「鼻血ブー」もこの人のアイデアではないだろうか。

休刊日などに、ときどき使う「六二郎アバター」もその趣向(画像クリックで登場)


おしまいに北斎に差し替える前に用意していた若冲の「鳳凰」。



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あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。


新聞には、正月用貯め原稿というのがあると聞いたことがある。
政治や経済など、正月には活動が少なくなり、取材もできない分野で、記者が正月休みをとりつつ、紙面はちゃんと埋まるという工夫だという。
政治家や経済人が正月に「大いに語る」のはこういう理由もあるらしい。

私もこの知恵に倣うことにした。つまり、この記事は正月用タメ原稿。
もっとも大いに語る気はなくて、正月休みをとりつつ、ブログに穴をあけないことだけが目的。

というか、今までも(そして、これからも)、結構、貯め原稿に頼ってるけれど。


今年の干支は丁酉。
右の画像は、北斎の肉筆画で、「鶏竹図」。

出典:Art & Bell by Tora

昨年、東京の美術商が、デンマークでの競売で落札したという。
日本では今まで、あまり知られていなかったものだそうだ。

はじめ、若冲の「鳳凰」を使おうと思っていたのだけれど、30日の新聞1面に、このニュースがあったので、こちらに差し替えた。


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