一年間、ありがとうございました

P_20171229_114707.jpg 今日は大晦日。おおつごもり。

子供のころは、一家総出で大掃除をして、凜とした雰囲気で正月を迎えた記憶があるのだけれど、もう随分長いこと、そのようなけじめには縁のない生活をしている。
家も、昔のようでなくて、障子も1つしかない和室の4枚で、小さい子供も猫もいないから、変色はしても破れはない。襖も和室にはあるけれど、昔のタイプじゃないから、襖紙を貼り替えることもない。

窓ガラスぐらい拭けよ、といわれそうだが、これもいいかげん。
どこまでも自堕落に正月を迎えるのである。

それでも凛として咲く山茶花。
みなさま、よいお正月をお迎えください。



P_20171229_114707a.jpg P_20171229_114707b.jpg

関連記事
スポンサーサイト

シャンシャンで2題

完全にタイミングを逸したけれど、上野恩賜動物園のパンダの子供、シャンシャンをめぐって2つ。

Xiang_Xiang_spokesperson.jpg まず、シャンシャン(香香)と表記しているけれど、日本人が普通にShan Shanと発音したら、中国の人は「杉山」と聞こえるのだそうだ。香香は、アルファベット表記だと、Xiang Xiangで、中国の人には違う音と認識される。
という話がニュースになり、ネットにもたくさんのコメントが流れている。

中国政府の記者会見といえば、いつもこの報道官が出てくる。美人だけれど、笑わない。
冷徹に職務をこなし、記者の質問に対して毅然と答える。
でも笑うとこんなになるんだと、一気に親近感が高まるというもの。

 ◆

Tokyo_short_pants.jpg もう一つは、シャンシャンの公開に招待されたらしい小学生。

テレビのニュースを見て、小学生が半ズボン姿であることにびっくりした。

テレビではパンダ舎の前に群がる子供たちが映っていたのだけれど、そういうシーンの画像をネットでは見つけられなかったので、私がニュースで見たものとは違うけれど、半ズボン姿でパンダ舎へ向かう小学生の写真を拾ってアップ。


2c62c0e8f4f59ee4b63585a52efbec19.jpg このことだが、みなもと太郎氏が何かのエッセイで指摘していたことで、鉄人28号の正太郎君が真冬でも半ズボン姿であることについて、アリエナイことだがキャラクターイメージのためにそうしているのだろうと思っていたが、東京へ出て、それが虚構ではないということに気付いたとのこと。
京都の冬(氏は京都出身)に比べ、東京の冬は暖かいのである。
そして、なるほど、今回、それがはっきりと裏付けられたわけだ。

私も冬に何度も東京へ行っているけれど、小学生に巡り合うような場所には行っていないので、現認できなかった。


京都よりずっと暖かい大阪でも、冬の小学生は長ズボンだと思う。
そういえば「名探偵コナン」もいつも半ズボンではないだろうか。

関連記事

恒例化した小納会

P_20171228_115621.jpg 昨日は、仕事納め。
私の職場でも、お昼休みに小納会、恒例化したピザ・パーティ。

去年と日取りも趣向も相変わらず。

私が今の職場で迎える年末は4回目、そしてこの小納会ピザ・パーティも4回目。
私が言いだしっぺでもなければ、私の着任との関連もないのだけれど、そういうめぐりあわせ。

今年は、12名に対してピザ10枚。
持ち帰りの場合、1枚買うともう1枚無料になるので、5枚分の料金。

企画した職員は、食べれば食べるほどトクという計算をするようだ。


P_20171228_120207.jpg そして、今年はそれに加えて、別職員がマクドナルドへも走り、ポテトとチキンナゲットを買い込んできた。
それぞれ5個ずつ(もちろんサイズはL)だったと思う。

食べ始めて、15分ほどで、今年は無理ちゃうかの声。
去年から大食いメンバーが減ったからとか、責任者なんとかしろとか、ぐずぐずと、そしてだらだらと会話を続けながら、ひたすら消化に努める。
これは罰ゲームか。

とかなんとか言いながらも、午後の勤務時間開始直前には完食。
「ドミノピザに負けるわけにはいかん」と。

きっと懲りずに(というか学習せずに)、来年もまた同じことを繰り返すに違いない。

私は、今年はピザ屋のすぐ傍に、たこ焼き屋が開店したので、たこ焼き100個とかどうと提案したのだけれど。


関連記事

新しいタブレット(その5)

Screenshot_20171221-202430r.png 新しいタブレットMediaPad M3 Lite 10 wpでは、ベゼルには指紋センサーが付いているけれど、普通のアンドロイドにはある、[戻る|ホーム|メニュー]のナビゲーションキーはベゼルにない。

出荷時の状態では、これらのキーは、画面の一番下(縦でも横でも)に表示されるようになっている(仮想ナビゲーションバー)。

多くのスマホでは、ベゼルにこれらのキーが配置されていて、画面が横でも縦でも、同じ場所を同じようにタッチして使うわけだが、このMediaPadの場合は、スクリーンの一番下になる。
そして、これらのキーは、本来のスクリーン表示と重なって表示される。

これがやや微妙。なんとなく見にくい。
画面を広々と使いたいのに、なんとなく邪魔。

そう思っていたら、この機種では、ベゼルにある指紋センサーをナビゲーションキーとして使えるのである。

この機能を有効にしなかったら、しつこく試してみろとメッセージが出るので、いやでも気がつく。


Screenshot_20171221-202328.png [設定]-[ナビゲーションキー]で、「画面外ナビゲーションボタン」を選択すれば、スクリーンからナビゲーションキーが消える。
そして、指紋センサー部分をタッチすることで、
  • [戻る]=センサー部分をタップ
  • [ホーム]=同じく長押し
  • [実行中タスク表示]=センサーの長手方向にスライド
というナビゲーション動作をさせることができる。

画面外が良いのか、画面内が使いやすいのか、微妙なところである。スマホなどはハード的にベゼルにボタンがあるから悩まないが。
スマホに合せるといっても、仮想バーは画面の向きで場所が変わるから同じにはならない。

暫く使って慣れるしかないのだけれど、タブレットは画面が大きい分、たとえば多用する「戻る」や「ホーム」の操作をするのに、指を大きく動かす必要があるわけだが、タブレットを使う場合は、ベゼルを掴んでいるのが普通で、どちらかの親指(縦長で使う場合、指紋センサーが左にくるか右にくるかによる)は、指紋センサーの近くにあるので、素早く操作できる。

Screenshot_20171220-164237-crop.png Screenshot_20171221-202233-crop.png Screenshot_20171220-164307-crop.png

タップと長押しの操作を取り違えることもあるが、とりあえず画面外ナビゲーションの方を使ってみることにした。

関連記事

押し詰まって忘年会

P_20171226_184531.jpg 昨夜は、職場の忘年会。
所属の小さな室ではなくて、部全体なので大人数。

場所は、大阪上本町(34°39'57.7"N 135°31'04.4"E)。
職場から、K鉄電車で行くところ。

それにしても開宴19:00って遅すぎないか。
勤務時間の終了は17:15だから、18:00開宴でも十分。
遅くても18:30開宴が妥当なところじゃないだろうか。


いつもとは趣の異なるビストロでの宴会。
少人数で静かにたのしむ店だと思うのだけれど、25名のやかましい連中が、ほぼ店を占拠。
先に来ていた客は早々に退散。それでも、別のグループが来店して、群衆をかきわけて奥の席についていた。

P_20171226_190653-crop.jpg P_20171226_190952-crop.jpg P_20171226_191230.jpg
左から、乾杯のスパークリングワイン、野菜サラダ、オードブル(鯛のカルパッチョ、ビアソーセージ、生ハム、サーモン、鴨のロースト)


P_20171226_191700-crop.jpg P_20171226_193611.jpg
ここのビールはとても上手に注がれていて、泡がきめ細かでクリーミー。
ワインは、よくわからないけれど、「ラ・マンチャ」と表示されていたもの。ドン・キホーテを思い出して。


P_20171226_202037-crop.jpg 店の入口のメニューには牡蠣が大きく表示されていたが、宴会のコースには入っていなかった。
せっかくだから、私が別途、追加注文したもの。

料理は、他にローストビーフのシーザーサラダ、フィッシュ・アンド・チップス、ビーフステーキ、パエリア(?)。
なんだかヨーロッパ各国料理という状態。(どれも悪くなかった)



二次会はすぐそばのカラオケ・バー。(写真なし)
半数以上がこちらへなだれこんだ模様。

関連記事

新しいタブレット(その4)~MuseScore Songbook

2017-12-18_144439.jpg MuseScore及びその追加機能のMuseScore Songbookについて。

新しいタブレットの購入目的は、実はこのアプリを使って見たかったから。
前のF-01D(Android4.0)ではインストール自体ができなかったもの。

楽器練習時にはマイナスワン(カラオケ)音源があると、少しは楽しい。
その音源の作成について、随分以前に、MIDIでマイナス1という記事を書いている。

記事では、ネットで拾ったMIDIファイルをPC(Windows)のMuseScoreで開いて、それを使ってワンパートの音を消したオーディオファイル(mp3など)を作成すると書いた。
そのオーディオファイルをタブレットにコピーして、タブレットのNeutron music playerで、速度・ピッチを調整して、マイナスワン音源として利用するわけだ。

ところが、スマホ/タブレット用のMuseScore & Songbookを使うと、このオーディオファイルの作成が省ける上に、各パートの音量調整、移調、速度変更が、動的に行えるようになる。

このアプリについては少し前に気づいていて、スマホ(Zenfone3)にはインストール済だったのだが、楽譜表示も使える程度のものにしたいので、新しい10インチ・タブレットが欲しくなったわけだ。
つまり、このアプリを使いたいがためにタブレットを新調したようなものである。

Screenshot_20171217-222012.png 手順は極めて簡単。はじめはPCを使って、ネットで適当なMIDIファイルを探して、それをダウンロードする。それをPC上のMuseScoreで開くと、ただちにMIDIデータから楽譜を作成・表示してくれる。
続いて(特に何もせずに)ファイルに新規保存する(msczという拡張子のMuseScore独自の形式のファイル)。
このmsczファイルをタブレットにコピーする。
このファイルをMuseScore Songbookで開くだけである。

この状態で、MIDIファイルとして演奏できるのはもちろん、演奏速度の変更、キーの変更(移調)、各パート及びメトロノームの音量調整ができる。移調の場合は、表示楽譜そのものも移調される。
今まではオーディオファイルを作って、それをNeutronで再生していたわけだが、手数としては大幅に減るというわけではないかもしれないが、なんといっても、ダイナミックに演奏方法が変えられるのがすばらしい。精神衛生上、大変よろしい。

先日、タブレットに楽譜を表示させて演奏するということも書いたけれど、Songbookの楽譜でももちろん同じである。デジタルデータから楽譜を作っている分、印刷楽譜のイメージ表示よりも、こちらの方がくっきりとしている。

P_20171216_175307s.jpg しかし、MIDIから作った楽譜というのはいろいろ問題がある。
まず、MIDIデータはアーティキュレーションが反映されるようには作られていない。つまりレガート記号がない。また、データ作成者がスタッカートで打ち込んでいたら、それは音符と休符で表現される(見にくい)。
装飾音やトリルが、演奏どおりの楽譜になっている(見にくい)。
臨時記号が、C#がD♭になっているなど、勘が狂う。

このあたり、将来はAI技術で良くなることを期待したい。(無料のMIDI音源を拾おうという貧乏根性に問題があるのだろうけど。)

各パートを全部表示するのか、特定パートを抑止するのかも指定できる。この楽譜を見ながら演奏するのなら自分のパートだけ表示すれば良さそうに思うけれど、やってみると他のパートも表示しておくほうが拍を合せやすい。

なお、練習用だから、MIDIデータは、オーケストラ曲であってもピアノ編曲版があればそちらを使うほうが良いだろう。(合奏はフルート・カルテットあたりが限界である)

素晴らしいアプリである。
しかし、機能追加を期待したいところもある。
一つは、タブレット上で各パートの楽器指定変更ができること。
そしてもう一つ、書き込みができること。出される音は今のままでよいけれど、演奏上の注意、ブレスやアーティキュレーション、その他、表現にかかるコメントなど、そうしたものが書き込めると、本当に、練習にはこのタブレット1台、とできるのだけれど。

関係リンク


関連記事

火あぶりにされたサンタクロース(続き)

muchiuchi-ojisan
鞭打ちおじさん
「火あぶりにされたサンタクロース」の続き。

昨日の記事で、論文の契機となった(と思われる)、ディジョンでのサンタクロース火刑事件について紹介したけれど、今日は、レヴィ=ストロースの考察について。(難解な論文なので、私の理解が違うかもしれないけれど)

著者は、まず、火刑となったサンタクロースは、第二次大戦後、アメリカの影響を受けて出てきたものと指摘する。教会がサンタクロースを火刑にしたのは、フランス・カトリックの伝統には存在しない、そして商業主義的な産物に、異教性を見たからなのだけれど、著者はそれだけでは済まさない。
商業主義に毒されたで済まさず、そもそもサンタクロースの来歴や受容態度の分析を行う。

まずは来歴としては、簡単に、サンタクロースが現れる前の「冬の祭り」について書かれ、クリスマスは、そうしたいろいろな習俗の断片を寄せ集めて成り立っていると説かれる。
また、およそクリスマスとは何の縁もないであろう、プエブロ・インディアンの「カチーナ」という儀礼との類似に注意を向ける。
Pere noel
ペール・ノエル
(クリスマスおじさん)

ほとんどすべての人間集団において、子供たちは、入念に管理されたあの種の神秘についての知識を知らされていないことによって、あるいはつくり話が張りめぐらす幻想のヴェールに阻まれて、男性の集団から排除され、分離されている。男性集団は、さまざまな工夫によって、自分が独占管理する神秘を、しかるべき時期がくるまで子供や女性に秘密にしておき、時期が来ればそれを若者たちに教え、それによって彼らを大人の集団に迎え入れるのである。
子供達に見破られないよう、大人たちが仮面をかぶり見事に変装し「カチーナ」神は出現する。サンタクロースはこの「カチーナ」と同じ種族に属している、という。

さらに、カチーナなどの儀礼では、神は実は子供である、そして実はそれは死者でもあるとする。
サンタクロースにまつわる儀礼や信仰が、イニシエーションに関係する社会学的範疇に属するものである限り(その点は全く明白だ)、これらの儀礼と信仰は、子供対大人という構図を越えて、死者と生者という、より根源的な対立の構造をあらわにしているのである。

私にはレヴィ=ストロースのような深い理解はちょっとついていけないところがある。
本当に、そうした文化の記憶が、現代のクリスマスのばか騒ぎにもあるんだろうか。

Goya,_Saturno_devorando_a_su_hijo そして、次に引き出されるのが古代ギリシア・ローマから中世にいたる「サトゥルヌス祭」である。ゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』で有名なサトゥルヌスだけれど、宗教史学者や民俗学者の研究は、フランスのサンタクロースである「ペール・ノエル」の遠い起源が、中世の「喜びの司祭」や「サチュルヌス司祭」などにあることを認めているという。

サトゥルヌス祭は「怨霊」の祭りだ。すなわち、暴力によって横死した者たちの霊や、墓もなく放置されたままの死者の霊を祀るもので、その祭りの主催者であるサトゥルヌスの神は、いっぽうではわが子をむさぼり食らう老人として描かれるが、じつはその恐ろしい姿の背後には、それとまったく対照をなすように、子供たちに優しい「クリスマスおじさん」や、子供たちに贈り物をもってくる角の生えた地下界の悪魔である、スカンジナヴィアの「ユルボック」や、死んだ子供たちを蘇らせ山のようなプレゼントでつつんでくれたという聖ニコラウスや、夭折してしまった子供の霊そのものであるカチーナ神などが、しっかりとひかえているのである。

以前から、クリスマスというのは、もとは冬至の祭りであって、太陽が再び力を得る、死と再生の祭りがもとで、それをキリスト教会が、降誕祭につくりかえ、ガリアやゲルマンを教化する手段としたという説明がなされることがある。これについてもレヴィ=ストロースは深く洞察する。
そして、サトゥルヌス祭から引き続くクリスマスの狂気は、クリスマスの夜に行われるキャバレーのばか騒ぎが痕跡をとどめている。しかし、重要なのは、子供である。贈り物を強要する子供たちについては、中沢新一氏の論文「幸福の贈与」に詳しいかもしれない。

そして、論文は次のようにしめくくられる。
こうして見ると、ディジョンにおいておこなわれた異端者火刑は、はからずも、サトゥルヌス祭の王のあらゆる特徴を備えた、新たなヒーローを復活させてしまったのである。ディジョンの教会関係者たちは、サンタクロース信仰に、終止符を打とうとして、この火刑をおこなった。だが、皮肉にも、それによって、数千年にわたる消滅の後、ひとつの儀礼的形像を、まったき完全さのもとに、蘇らせてしまうという結果を、つくりだしたのだ。ディジョンのクリスマスにおこった、この奇妙な事件は、けっして小さなパラドックスに終わるものではない。カトリック教会は、儀礼を破壊しようとして、かえって、この儀礼の永遠性を証明する手助けをしたのだ。

American Santa
アメリカのサンタ
いかがだろう、とても難解で、私には消化しきれないので、適切な紹介にはならなかったと思う。

キリスト教徒がどのようにサンタクロースに向き合うのか、とても真摯な態度が見て取れるのだけれど、日本では、キリスト教徒でもないものが、クリスマスと騒ぎ、サンタクロースをありがたがると揶揄されたりする。サンタクロースを異教徒として火あぶりにしたフランスとはずいぶん異なる状況だ。

日本人は、サンタクロースも八百万の神の一つとして受容しているということだろうか、それとも商業主義に「純化」された(信仰を削ぎ落とされた)サンタクロースだけがやって来ているということだろうか。

ところで、中沢新一氏の論文、これはレヴィ=ストロース以上に難解なので、とても紹介できないが、中にもおもしろい言葉があったのでそれだけ紹介しておこう。

「商業はロゴス、贈与はエロス」

だそうだ。

関連記事

火あぶりにされたサンタクロース

IMG_20171223_141012s.jpg 世間はクリスマスなので、
「サンタクロースの秘密」
について。

地元の図書館では、ときどき利用者の気を惹くためか、便宜のためか、テーマを決めて展示棚に、蔵書を陳列することがある。

夏休みだと学校の課題図書が並べられたりするが、大人向けには郷土の歴史にかかるものとか、戦争・戦史にかかるものなどがテーマになっていたりした。

そして、先日図書館へ行ったら、クリスマス特集で、絵本・おはなし本などが集められていた。

31YAF09JZ4L.jpg その中にこの本、クロード・レヴィ=ストロース/中沢新一「サンタクロースの秘密」が混じっていた。

レヴィ=ストロース(Levi=Strauss)といえば、ジーンズのメーカー(Levi's)ではないかという人もいるかもしれないけれど、私たちの年代だと、なんといっても「構造人類学」を打ち出した大学者である。
その著作が、子供向けの絵本の間にはさまっている。
なんと場違いな、子供が読んだらショックを受けるに違いない。

本書に、収録されているのは「火あぶりにされたサンタクロース」という論文(1952年)。
他、訳者でもある中沢新一氏の「幸福の贈与」が収録されていて、この論文を解釈・解説してくれている。

1951年、フランスのディジョンにおいて、サンタクロースが火刑に処せられた事件から説き起こし、人類学者らしく、サンタクロースの来歴の解説のみならず、人類学の観点から、「祭り」の意味や、社会における役割、人々の受容態度などが、分析されている。

まずは、レヴィ=ストロースの論文が引用している新聞記事を転載しておこう。

サンタクロース火刑に処せらる

      教区若者組の子供たちの見守るなか
      ディジョン大聖堂前の広場において

ディジョン、十二月二四日(フランス·ソワール現地支局)


 サンタクロースが、昨日午後、ディジョン大聖堂の鉄格子に吊るされたあと、大聖堂前の広場において、人々の見守るなか火刑に処せられた。この派手な処刑は、教区若者組に所属する多数の子供たちの面前で、おこなわれたのである。この刑の執行は、サンタクロースを教会の横領者にして異端者として<有罪>の判決を下した、聖職者の同意のもとに、決定された。サンタクロースは、キリストの降誕祭を異教化し、鳩のようにおとなしそうな顔をしながら,教会のなかに居すわって、ますよす大きな顔をするようになったとして、非難されたのである。
 とりわけ、サンタクロースの慣習が、各地の公共学校のなかに入り込みつつあることは、大きな非難の的となった。サンタクロースが登場してきたおかげで、学校でいままでおこなわれてきた『クレッシュ』の伝統(キリスト降誕の場面の模型をつくる風習)が、まったくおこなわれなくなりはじめているという。
 日曜日の午後三時に、白い髭のこの哀れな人物は、火刑に処せられた。過去には、多くの罪のない人々が、刑の執行を拍手を送りながら見物する人々の過ちを償うために、この人物と同じように、炎に包まれていったものである。炎は、この男の髭をなめつくし、まもなく男は煙のなかで、意識を失っていった模様である。
 刑の執行がすむと、ひとつのコミュニケが、読み上げられた。
 概要は次のとおり。「虚偽と闘うことを望む、教区内のすべてのクリスチャン家庭を代表して、二五○名の子供たちが、ディジョン大聖堂の正門前に集まり、サンタクロースを火あぶりにした」。
 ここでおこなわれたことは,たんなる見世物ではない。これは立派な象徴的示威行為なのである。サンタクロースは、ホロコーストの犠牲者となったのだ。たしかに、虚偽が子供の心に宗教的な感情を目覚めさせることなどありえない。ましてや、いかなる意味においても、それを教育に用いてはならない。しかし、多くの人々が書き、また語っているように、人々がサンタクロースに望んでいるのは、この人物が、悪い子供にお仕置きをするためにあらわれたという、あのただ怖いだけの『鞭打ちじいさん』の向こうを張って、子供たちのための優しく気前いい教育者としてふるまってほしい、ということなのである。
 私たちはクリスチャンであり、それゆえクリスマスはあくまでも、救世主の生誕を祝う祭りの日であってほしい、と望んでいる。
 大聖堂前広場における、このサンタクロース火あぶりの刑の執行は、人々の話題の種となり、カトリック教徒の間でも、盛んな討論を引き起こしている。
 突然のこの示威行為は、その計画者たちでさえ予想していなかった、大きな波紋をつくりだしそうな気配である。
    ・・・・・・・・・・・・
 この事件についての、町の人々の意見はまったく二分されている。
 ディジョンでは、大聖堂前広場で昨日殺されたサンタクロースの復活が、待ち望まれているところである。サンタクロースは、今夜の六時に、市役所において復活する予定になっている。公式発表によれば、例年どおり今年も、サンタクロースはディジョンの子供たちを自由広場に集合させ、スポットライトを浴びながら市庁舎の屋根の上を歩き回り、子供たちに話かけることになっている。
 なお国会議員でディジョン市長のキール氏(司教座聖堂参事会員)は、この微妙な問題については、コメントを避けている模様である。

いやはや、昨今はやりのフェイク・ニュースか、「虚構新聞」みたいだけれど、まぎれもない事実なのである。
この事件、サンタクロースについてのレヴィ=ストロースの考察は(難解なので)、あらためて。

関連記事

新しいタブレットを購入(その3)

新しいタブレットHUAWEI MediaPad M3 lite 10 wpの続き。

このタブレットの購入動機、つまり主用途は、はっきりしている。
同じ10インチ・タブレットとして、今までF-01Dを使っていたのを、より快適に引き継ぐことである。
F-01Dは、楽器練習用(マイナスワン=カラオケの伴奏演奏)と目覚まし時計として使っていた。
しかし、能力が低くて、その伴奏の演奏で、しばしば問題を起す。

Screenshot_20171218-143203.jpg 伴奏の演奏では、演奏速度・ピッチを変更することがあるわけだが、それができるプレイヤーとして、Neutron music playerを使っているが、このアプリはかなり負荷が高く、とりわけ速度変更などをしていると、F-01Dには荷が重く、動作がもっさりするだけでなく、ときどき演奏が途切れたりする。

そしてもう一つの動機が、MuseScore、MuseScore Songbookというアプリのインストール。
F-01D(Android 4.0)にはインストール自体ができない。

このアプリについては、別記事で報告予定。

そして、新しいMediaPadは、このニーズに十分答えてくれた。
さらに、先日も書いたように、音量が大きいので、伴奏と合わせるのもラクになった。

音が小さいと、自分の出す音で伴奏が聴き取りにくいことがある。特に、練習中の習熟していない楽曲の場合は、拍を合わせられないから、音がごちゃごちゃになって、何が何だかわからなくなる。


また、今回、10インチという大画面を選んだ理由だけれど、これはあわよくば、楽譜をタブレット画面に表示して演奏できたら良いなぁということ。

実は、たまに家に来る娘が、iPadに楽譜を表示してピアノを弾いたりするので、なるほど、これなら、楽譜を持ち歩かなくて良いから助かるだろうと思っていた。


年寄りで小さい文字が読みにくくなっているので、楽譜はなおさら読みにくい。
できれば14インチぐらいの画面が欲しいところだが、そういう選択肢は事実上、存在しない。(ないわけではないが、Windowsだったりする。それに、そうなると機械が重くなるから、譜面台に載せるのは剣呑である)

P_20171216_175215.jpg やってみると、10インチでもフルハイビジョンの画面だと、意外に読める。前のF-01Dは解像度が低いので、かなり読みにくかったけれど、それよりはだいぶましになった。
さすがに初見はきついけれど、慣れた曲であれば実用になる。

楽器練習では、両手がふさがっているから、自動、あるいは足踏みなどでページ送りができたら良いと思う。

ネットを検索すると、視線検知でページ替えなどができて、ギターの練習で利用できるというデモ情報がある。
視線でPCやタブレットを操作可能な「The Eye Tribe Tracker」

MuseScoreだと、演奏の進行に合せて楽譜もページ送りされるから、そういう気遣いはいらない。

関連記事

新しいタブレットを購入(その2)

新しく購入したHUAWEI MediaPad M3 lite 10 wpの感想の続き。

この端末の売りは、防水、高音質オーディオ、フルセグの地上デジタル放送受信ということである。
このうちテレビ受信以外は、実はあまり興味がない。

P_20171218_185801-crops.jpg ところが、このテレビだが、我が家は電波環境があまり良くない。自宅はケーブルテレビ(地域の協定で地上波のアンテナを立てることが禁止されている)だから問題ないが、こうしたポータブルの受信機にとってはつらい。まぁ、この端末でテレビを見るのは、外出時だろうから、家で映らなくても別にかまわないのだけれど。

SH-08Eはフルセグ受信、F-01Dもワンセグ受信できる機種なのだが、どちらも我が家では大変映りが悪い。

ということで、何か良い方法はないかネットで調べて、スマートフォン用ロッドアンテナなるものを購入したのだけれど、劇的に改善されるというわけではない。

写真は自宅内での受信状態。ワンセグなら視聴可能だが、フルセグはダメ。
それでも、タブレット添付の短いアンテナでは、全く映らなかったから効果はあったといえよう。

なお、購入直後は、テレビを起動するとエラーメッセージが表示された。1週間後ぐらいにソフトウェア更新があって、これを実行したらエラーメッセージは消えた。発売前にチェックしてないのか?


Screenshot_20171218-201311.png もう一つのウリの高音質オーディオだが、Harman Kardon社製で、4カ所にスピーカーを配置して、高音質な再生ができるという。また、イヤフォンの場合なのかもしれないが、「3D没入型音響効果」とやらをうたう。
たしかに、ぼやっとした音ではない(むしろシャリシャリしている)のだけれど、薄っぺらいタブレット筐体から出る音だから、音楽に浸ろうなどは、もとより期待していない。

これはどんなスマホ、タブレットでも同じだろう。ちゃんとしたオーディオセットを外部接続する以外に方法はない。それをするなら、スマホで再生などする必要はないわけだが。

であるけれど、クラシックをじっくり聴くというなどはもちろん論外にしても、Amazonプライムなどでしかるべき映画などを観ると、結構、音の拡がりが感じられる。良くできていると思う。

Screenshot_20171221-215227r.png それと、プレインストールされている音楽プレイヤーが、なんとDSD形式にも対応していることに驚いた。
数は少ないが、e-ONKYOでダウンロード購入したDSFファイルがある。スマホ(Zenfone3)でも使っているNeutron music playerをこのタブレットにもインストールして、DSD形式が再生できることを確認したあと、何気なくプレインストールのプレイヤーではどうだろうと試してみたら、何の問題もなく再生した。ネット情報ではDSD形式を再生できるプレイヤーというのはあまり多くなく、いずれも有料のようだから、まさかプレインストール・アプリで再生できるとは。

MX playerで再生すると、HWデコーディングでは再生可能、SWデコーディングでは「この音声形式はサポートされていません」になる。また、Zenfone3のGoogle playerなどではDSDは再生できないのだが、このタブレット上では再生できる。
おそらくデコーダーがハード的に内蔵されているのだろう。


【追記】

DSDは少なくとも5.6MHzまでは対応している。
記事を書いた時は手元にその音源がなかったのでテストできなかったが、試聴用のデータをe-ONKYOからダウンロードしたところ、5.6MHzのデータでも難なく再生した。(11.2MHzはさすがに無理だった。)


オーディオ性能で気に入ったことがもう一つ。それは、音量が大きいこと。スピーカーが4つあるせいだろうか。
これは本機購入目的(別途記事にする)にはかなっている。

値段の高い機種ではないけれど、当初の目的、Androidのバージョンが新しいこと、サクサク動くこと、これについては十分満足。そして、薄くて軽いという点は、期待以上。

あと、まだ新しいせいか、バッテリーのもちが非常に良い。
フル充電の状態で、1時間の音楽視聴後で、バッテリー表示は95%。単純計算で、20時間は音楽プレイヤーとして使える計算。

関連記事

新しいタブレットを購入

記事にするのが少し遅くなったけれど、新しいタブレットを購入した。
HUAWEI MediaPad M3 lite 10 wpという10インチAndroidタブレット。

P_20171210_104439-crops.jpg 通販で36,738円(税込、送料無料)。
12月8日に日本発売されたもので、その日の夜に注文し、10日の午前中に届いた。

発売日を待ち望んで注文したというわけでもないのだけれど、結果的には最新機種になった。
新発売機種で、予約も受け付けていたようだが、Amazonだと1ヶ月待ちとなっていたところ、NTT-Xでは1週間程度の待ちという注意があったにもかかわらず、ほぼ即時に商品が到着、しかもこっちのほうが安かった。


Androidタブレットは、7インチのSHARP SH-08Eと、10インチの富士通 F-01Dを持っているのだけれど、後者は5年半前に中古で購入したもので、Androidも4.0と古い。このため新しいアプリは入らないし、そもそも処理能力が低いので、ちょっとしたことでも反応が遅く、いらいらするので、そろそろ寿命と自分を納得させて、思い切って買い替えることにした。

家人は、新しいの買うなら古いのは処分しろというけれど、結局、F-01Dも家人の雑誌リーダー(dマガジン)として生き残った。


P_20171215_150814-crops.jpg タブレットを買う場合、悩みどころがいくつかある。
一つは、画面のサイズ。7インチだと軽くて良いけれど、5インチ画面のスマホと両方持ち歩くのはそうそうない。それに今回は10インチの買い替えだから、多少重くても10インチ以上の画面にすることにした。

もう一つは、モバイル回線が使えるかどうか。もちろん使えるに越したことはないのだけれど、今まで使っていたF-01DはdocomoのLTEモデルだったのだけれど、SIMカードを挿さず(7インチには挿している)、WiFiだけで使っていたから、必須というわけではない。その分、安い方が良いだろうということで、WiFiオンリーでも可とした。いざとなれば、スマホでテザリングすれば良いのだし。

そういう条件で価格.comを検索すると、今でも、2年ぐらい前に発売されたSONYのXperiaタブレットがジャストフィットするのだけれど、さすがに古いし、高価。結局、冒頭のHUAWEI MediaPad M3 lite 10 wpに落ち着いた。

電源を入れると、まずアカウント設定、そしてセキュリティ(指紋認証)設定。
指紋認証は結構便利である。というのは、画面がオフになったときに、指紋センサー(ホームボタン)を認証済みの指で触れば、画面が復活する。通常は右手の人差し指を登録するのだけれど、タブレットの場合、縦でも横でも使うわけだが、縦画面のとき、ホームボタンが右にくるか左にくるかもあるので、他に、右手・左手の親指も登録して、タブレットを握った状態でホームボタンを触れるようにした。

P_20171215_150621-crops.jpg 基本的に、新しいタブレットだからといって、新しい機能などは試さず、最小限のアプリのみインストール。

このタブレットの主用途は明確なので、余計なものはあまり入れない(後日、記事にする予定)。

ランチャーはNOVA。スマホや他のタブレットでも使っていて使い慣れているし、有料版も購入している。

しばらく使っていたら「NOVAランチャーに重大なエラー」というメッセージが出て、プレインストールのランチャーに戻ったりするようになった。Android7との相性かもしれないと、ネットを探ると、「設定→詳細設定→ユーザー補助→Nova Launcherをオンに」という情報があった。その通りして、エラーはでなくなった。


日本語入力は、ずっと使っている手書き入力のmazec(7notes with mazec)。
画面が大きいから、手書きも使いやすい。

ファイラー(Solid Explorer)やクラウド同期(OneSync)、パスワード管理ソフト(Keepassdroid)などを入れて、とにかく環境を整える。クラウド・ストレージやNASへのアクセス設定とか、クラウド同期の設定など、結構面倒。しかし、これをやっておかないと、自分のデータに自由にアクセスできないから、我慢してやるしかない。

初期設定時に、「他端末からの乗換」かどうか聴かれた。この頃は機種移行ツールというものがあるらしい。もちろん移行元からバックアップデータをとっておかないとダメだろうから、今回は使っていない。それにもし使ったら変なアプリも一緒にくっついてくるかもしれないと不安。実際のところはどうなんだろう。


他に入れたアプリは、辞書、電子書籍。
それに、プレイヤーソフト(ビデオ用のVLC、MXplayer、Kodi、音楽用のNeutron)。
この状態で、NAS上のビデオや音楽も再生できるようになり、エンターテイメント端末として立派に動ける状態になった。

関連記事

忘年会、それだけです

P_20171219_170050.jpg 昨夜は、旧知の人と二人忘年会。

どちらも時間的には融通がきくので、スタートは17:00。

右の写真がお店の入口。
酒樽が置いてあるけれど、それ以外、強くアピールするようなところはない。

連れが手配したのだが、それなりに評価の高い店らしい。


付き出しに、ナマコもあった。コリコリして美味。

P_20171219_170550.jpg

P_20171219_180343-crops.jpg あとは、刺身、サラダ、小鍋。
刺身はなかなか良かった。

P_20171219_175015.jpg
日本酒は40種類ぐらいの地酒を用意している。
最初は、大七の燗ではじめたが、あとは、次々に冷やで、あちこちの地酒を試す。
7~8種類ぐらいは飲んだように思うけれど、一々は覚えていない。





P_20171219_170044.jpg 店の隣は、地区の料理組合が入っている会館。

この店は、松島の入口にある。
この店の建物も、その種の料理店だったらしく、2階にはお風呂があるそうだ。

松島の入口で、しこたま飲んでしまうと、役に立たなくなる。
飲みすぎたと思ったら、次へ行く前に、臨戦態勢がとれるか確認したほうが良いだろう。

松島や ああ松島や 松島や

関連記事

直虎は死ななくても良かったのでは

00015m2ts_snapshot_2750]おんな城主 直虎」の放送が終了した。
放送された12月17日は来客があって、放送が見られなかった。ビデオに録っておいたものを、遅れて見たわけだ。

そして、直虎はこの最終回で、あっけなく死んでしまう。
先週まで、あれほど元気だったのに、急に咳き込み、そして床に就き、夢を見ながら逝ってしまう。

なんだか無理に「史実」に合せたような。

00015m2ts_snapshot_2810.jpg このドラマ、史実として残っていないところを大胆に補って、というか、こうだったら面白いだろうと創作して(もしそんなことがあったら必ず記録に残っているだろうと思うけれど)、ストーリーが作られている。

それなら、史実では40歳代で亡くなったとされる直虎だって、その記録の方を疑ってドラマ化しても良さそうに思う。

生かしておいたら、今後も直政に口出しなんぞして、ドラマの始末がつかないのかもしれないが、それなら、龍雲丸も、最終回であっけなく難破してはかなくなっていたようだが(直虎が死ぬときにも迎えに来ていた)、彼も死なせず、直虎と龍雲丸が船出してフィリピンあたりへ行って、後に呂宋助左衛門の商売を手伝ったりしたことにすれば良かったかも。

せっかく創作歴史ドラマとして支持されたのだから、最後まで創作でも、私は許せる。

関連記事

ハンドルは右か左か

IMG_20171202_122010.jpg 今まで意識したことがなかったのだけれど、列車の運転席は左側についている。
どこの列車でもそうなのか自信はないけれど、だいたいはそうなっているように思う。

日本では、道路同様、鉄道も左側通行になっている。

複線路線において列車の進行方向は、上から見て [↑↓] となっているという意味。

車の場合、日本向けなら右ハンドル(ステアリング・ホイールのこと)が普通なのに、鉄道はどうして左側に運転席があるんだろう。

鉄道の場合、複線だったら多くの駅は左側にプラットフォームが来ることが多くて、左側に運転席があるほうが、運転士が安全確認をしやすいという理屈かもしれない。

写真は複線区間だけれど、島式のプラットフォームなので、右側になっている。


P_20171126_150922_vHDR_Auto.jpg そうすると、今度は、車の右ハンドルというのがわからない。
今のところ、車には運転手が居るわけだが、運転手が乗り降りする場合、他車が通る右側から降りるというのは危険である。
これは助手席に乗る人にはやさしいのかもしれない。

周知のとおり、イギリス連邦系の国を除き、多くの国が右側通行となっている。
これは道路交通もそうだし、鉄道もそうだったと思う。
乗ったことはないが、フランス―イギリスをつないでいる鉄道(ドーヴァー海峡トンネル経由)の場合、フランス側は右側通行、イギリス側は左側通行になっているらしい。
米国に行ったとき、列車の進行方向に違和感を感じたことがある。

車の場合は、違和感以上の問題がある。
タクシーを止めようとして、手を挙げたのだけれど、日本での習慣があって、右から進んでくる車に注目してしまうのだが、そうした車はもちろん反対車線であるから、なかなかとまってくれない。止まったら止まったで、右側のドアから乗り込むことになる。

ekibasha2014082122361557d.jpg 以前、日本国内でも左ハンドル車のほうが、道路端に寄せやすいという話も何かで読んだことがある。
車の運転で一番気を使うのは右折だという話があるが、右折時には右ハンドルのほうが見やすいような気がするから、それを優先したのかもしれない。

馬車の場合、馭者は右手に鞭を持つから、左側通行で右寄りに座るほうが具合が良いという説もあるが、イギリスはそれで良いけれど、大陸はなぜ逆転したんだろうと訝しく思う。

米西部劇「駅馬車」でも、馭者は右側に座っている。
ちなみに、日本の牛車には馭者というのはいないようだ。


右・左、どっちがいいかについてディベートした例はないんだろうか。
ネットを探せば、もっともらしい答えが見つかるかもしれないが、今回は、敢えてそういうことはしなかった。
ちなみに馬は左回りも右回りもあるのに、人間の競争は左回りしかない。なんでだろう。

関連記事

牛車で行こう!

gissha_de_ikou.jpg 京樂真帆子「牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化」について。

「平安人の心で『源氏物語』を読む」など、平安時代(といっても貴族中心)の生活がどんなものであったかは、当時の文学作品を読む上で役にたつだろう。

この本の存在を知ったのは、ときどき読書の参考にするネットの書評でとりあげられていたから。

 牛車は、平安貴族の乗り物である。ぎっしゃと読む。
 なぜ牛だったのか。
 乗るなら馬車のほうが速いのでは?と思ってしまうが、本書によれば、牛車は乗り手が一定以上の身分であることを示すもので、それに乗っていること自体が重要だったという。急ぐときは男性ならやはり馬に乗ったようだ。
 牛の車は、今でも物の運搬に使っている国があったり、朝鮮半島では囚人の護送に使っていたそうだが、どういうわけか平安朝では高級車だった。身分によって乗れる車種が異なり、あえてランクの低い車に乗って身を隠したり、同車(同乗)したり貸し借りすることで政治的に利用されたりもしたらしい。
 本書には牛車の車種や利用作法だけでなく、そうした知略や駆け引きについても紹介されていて、当時のありようがよくわかる。
 室町期までにはすっかり廃れてしまったそうだが、言われてみれば奇妙な文化だ。気になる。

朝日書評:[評者]宮田珠己(エッセイスト)、2017年08月27日


はじめに―ドライブ前の点検―
第一章 車を選ぼう
 車種と身分・階層
 牛車の身分規制
 偽装する車
(1)素性を隠す/(2)性を偽る―女車―
 車の所有・貸与・相続
 受領の牛車
第二章 牛車で行こう!
1 では、乗り込もう
牛車は後ろ乗り/牛車は四人乗り
2 車を走らせよう
牛車のスピード/車中の工夫/車を引く牛/移動の風景
3 車を停めて、降りて、片付けよう
その前に門をくぐる/車を停める一工夫/車から降りる/車を片付ける
第三章 歩くか、乗るか?
1 歩く貴族
寺社参詣は徒歩で/徒歩移動すべき空間/歩きたくない、歩けない
2 輦車宣旨と牛車宣旨
輦車と腰輿/中重の輦車宣旨/牛車宣旨
3 平安貴族と騎馬
騎馬での移動/騎馬の作法
第四章 ミヤコを走る檳榔毛車
1 檳榔毛車とは何か?
2 檳榔毛車の作法
乗車の身分規制/檳榔の入手
3 ミヤコのなかの檳榔毛車
行列を飾る/物語世界への反映
第五章 一緒に乗って出かけよう!
1 女房たちの同車
職務の中での同車/いやなやつと乗り合わせた場合/上座・下座
2 同車に表れる人間関係
同車する人々/演出される同車
3 そして一緒にどこへ行くのか?
右京へ/西山へ/東へ/南へ
第六章 廃れたからこその牛車
1 廃れる乗車文化
2 牛車研究の金字塔『輿車図考』
松平定信という文化人/『輿車図考』について
3 『源氏物語』の牛車
『源氏物語』にみえる車の種類/車の中の様子/「一つ車に乗る」人たち
あとがき
これでもう私ごときが書評を書く必要などはないと思うけれど、少し補足しておこう。
今まで、年中行事や通過儀礼などの話、建物や調度の話、そういうものは結構、作品解説などでも目にすることがあったけれど、牛車に的を絞ってというのは、とてもおもしろい着眼であると思う。

それも、牛車という道具の構造や運転といったことだけでなく、牛車に乗るとはどういうことかという考察がおもしろい。
たとえば、車種(唐庇車、檳榔毛車、糸毛車、網代車)によって、乗っている人物の地位がわかるとか、内裏内を牛車で通行できる許可(牛車宣旨)など。物語では、行列の様子を、牛車の種別・台数を細かく描写することで、その壮麗さが当時の読者には良くわかり、また、現代の読者にとっても、当時の感覚を共感できるというものだと思う。
また、寺社参詣には徒のほうがご利益があると考えるというのも、なかなか親しみがわく話。
とりわけ、同車(相乗り)というのが、当時の具体的な人間関係を推し量る材料になるというのは実に興味深い。
いついつ、どこへ、だれと同車した、という事実が当時の日記には多く記載されているらしい。

このブログでも、誰と飲んだとか具体的に名前を書けば良いのだろうけど、プライバシーに関わることなので書けない。人目にさらすのはいろいろ制約がある。

著者は、これらの同車の記録を分析すれば、当時の政治的な動きを追跡できると指摘されているが、未だその作業は十分には進んでいないようだ。

未だ「密室で何が行われたのか!?」といった週刊誌の記事のレベル。
同車というわけではないかもしれないが、次のような記述もある。

 車宿は車庫であるので、人目に付かない。それを利用したのが、敦道親王である。ある時、和泉式部と一緒に乗ってきた車を車宿に入れておいて、いったん自分は外に出て、人目をはぐらかした(『和泉式部日記』)。一人で乗ってきて、車宿に車を片付けたと見せかけるのである。夜になってから親王は車宿にやって来て、車の中に待たせていた和泉式部と車中で時を過ごした。

ギッシギッシ……

宿直の男たちの気配を感じながらの、スリリングな逢瀬である。

なお牛車には畳が敷かれているそうだ。


ところで、本書によれば、松平定信が「輿車図考」という本を残しているそうだ。これがなかなかのもので、本書もこれに多くを負っているという。また、各種の図版で使われている牛車の絵は、この輿車図考から、あるいはそれを参考にして描かれたものが多いという。

sadanobu_yoshazukou.jpg

輿車図考(国立国会図書館デジタルコレクション)から


定信といえば、あまり良い印象はもっていない。
田沼意次への反動からか、やたら厳しい倹約を求めたり、歌舞伎や浮世絵の統制、なにより経済の発展というものを理解しなかったこと。
吉宗の孫として生まれたにもかかわらず、白河藩へ放り出され、将軍になれなかった恨みやら何やらで、いじけて、自意識過剰で、暗くて歪んだ性格の持ち主。そんなイメージ。

このあたり、みなもと太郎「風雲児たち」での描き方に染まっているかも。

ではあるけれど、江戸時代に名代官が輩出した理由の一つは、定信が人事改革を行ったことがあるという。上から目線のきらいはあるのだろうが、それなりに道徳が身についていたのであろう。

その定信が政治的に失脚したあと、文化活動に打ち込んでいて、その一つが「輿車図考」だということである。
松平定信、ええ仕事するやないか。

関連記事

神戸牛でランチ

2017-12-15_110847s.jpg ボストン美術館展を見終わって、時間もちょうどお昼時、ランチをとることにした。

前にここへ来たときは、博物館裏口前にあるイタリアン・レストランに入ったけれど、時間が時間だけに、平日でも混んでいる。

悪い店じゃないけれど、客を待たせることに無頓着な感じである。おしゃれな神戸でイタリアンという雰囲気の店だから、どちらかといえば、私の趣味ではない。出されるものが悪いわけではないのだけれど。


KOBE_BEEF_LENTEMENT_ENT.jpg 三宮駅方面へ歩き出して、京町筋を超えてアーケードの商店街に入ったところで、神戸牛の看板が目に入った。
そういえば、何度も神戸へ来ているわりには、神戸牛というのは経験していない。
神戸牛といえば、かなり値が張るものだけれど、見ると、「ランチ 1,500~」という表示があるので、店の名前も確認せず、入ってみることにした。

後でネットで調べると、結構な有名店のようである。本来、きちんと予約していくところなのかもしれないが、飛び込みで行っても良いことが、今回、実証されたというものかもしれない。


店は地下。
お昼時だけれど、満席ということもない。特別設えに凝っているというわけではなくて、落ち着いた内装。

店員さん(落ち着いたスレンダーなアラフォー女性)が注文をとりにくる。
ルミナリエ・シーズンということで、特別のランチ・メニューがあるという。コースで4,500円から。
コースは要らないので、普段のランチ・メニューから選ぶ。

あれっ、1,500円というのがない。

いちばん安いステーキランチが2,500円になっている。
看板にあった1,500円というのは?と聴くと、肉が60gのもので用意できるとのこと。
それならメニューに書いておけばとも思うけれど、さすがに60gでは物足りないだろうと思って、80gの2,500円のランチを注文。
20gで1,000円アップ、100gで5,000円か。

そうすると店員さんが、肉のにぎり寿司をすすめてくる。
高級な神戸牛をにぎるとどうなるのか、興味が湧いたので、これも注文。一貫800円也。

さて、待つことしばし。
まず、にぎりが出てきた。
肉の部位は、「ひうち」というところで、一頭の牛から1、2kgしかとれない希少部位。
これを軽くあぶってある。
わさびとダシ醤油が付いている。

これは旨い。
やわらかくて、かるい。
少しあぶってあるのが、香りをひきだしている。
わさびもダシ醤油も、ほんの少し、端っこにかすらせるにとどめる。

しばらくして、ランチが運ばれてくる。
味付けは、お皿の上にあるオニオン・ソース、または塩(ヒマラヤの岩塩というピンク色のもの)、だし醤油。
どれも、一応は試したけれど、やはりシンプルに塩が一番良いと思う。

肉のうまみは間違いない。
しかし、少し硬い。店のおすすめの焼き加減はミディアム・レアなので、そうしたけれど、もう気持ち一つ火を入れた方が食べやすいかもしれない。
なんといっても、先に食べたひうちの寿司があまりに、柔らかく、軽やかだったので、比較するとそうなる。

店員さんが感想を聴くので、美味い、けれど、前のお寿司にくらべると……と答えると、それはしかたがないですねと。


食後のコーヒー(400円)はぬるめだけれど、マイルドな苦味で、これも悪くなかった。
けっきょく、ランチにほとんど4,000円。
神戸で軽くランチ、ではなかった。

P_20171214_130033-crop.jpg

ひうちを使ったあぶり寿司


P_20171214_131036-crops.jpg

ランチの赤身ステーキ、80g。一切れ食べた後


IMG_20171214_130005-crops.jpg

なんだか表象されている店らしい


P_20171214_131045-cropss.jpg

ランチの全貌。ステーキ、スープとライス

blankimage.png

関連記事

ボストン美術館の至宝展

P_20171214_104347-crops.jpg 昨日は、休暇をとって、「ボストン美術館の至宝展」へ。

昨日の記事「クリスマス・イリュミネーション」で、神戸ルミナリエのことに触れたけれど、今が、ルミナリエのシーズン。

写真は神戸市役所の傍の東公園のお昼の様子。

写真は撮らなかったが、このイリュミネーションの反対側には屋台のテントが並ぶ。


目的のボストン美術館の展覧会だけれど、よりすぐった名品とはいうものの、テーマというものははっきりしない。
美術館が幅広く、古今東西の美術品を集めているということのアピール。
古代エジプト、中国、日本、ヨーロッパ、アメリカと、つまみ食いしているような感じ。

P_20171214_105431-crops.jpg

印象に残ったものをいくつか。

まずは、陳容 《九龍図巻⦆

一頭(龍はどう数えるんだろう?)だけの龍だと、いかにも架空の神獣・神の姿なのだけれど、九頭がいろんな情景で描かれていると、なんだかすごく生き物的というか、人間的で、親しみを感じる。


次に、英一蝶の2作品。

『月次風俗図屏風』 ( 左隻  ・ 右隻
『涅槃図』
月次風俗図の方は、当時の風俗を描くもの。ただし、なんだか豊かな生活をしていて、あんまり庶民的には感じられない。
涅槃図の方は、二十数年間、展示されたことがないというもので、大変な大作。見飽きない。
英一蝶という絵師は、以前、テレビドラマで、片岡鶴太郎が演じていたと記憶する。ドラマが何だったのか、もう一つはっきりしないけれど、展示されていた2作品の絵師とはちょっと雰囲気が違っていて、ドラマではお上に逆らったという描き方だったと思う。


曽我蕭白《飲中八仙図》は、絵に感心したというより、八仙というのに、八人いなくて、七人しか数えられない。絵の中には他の人物も数人描かれているが、これは酔っ払っている賢人ではない。八人目はどこにいったのだろう。

この展覧会の目玉としてちらしなどに使われているは、ゴッホのルーラン夫妻それぞれを描いた2点
夫の方はなんとなく天真爛漫に描いているが、妻の方は描き方にかなり悩んだあとのように思える。

あと、印象に残ったのはルノワールの「陶製ポットに生けられた花」
すごくくっきりしている。単眼鏡でじっくり見ると、絵の具の盛り上がりが見て取れる。ルノアールでもこういう描き方をするんだ、という感覚。

現代に近くなると、ジョージア・オキーフとか、名前は知ってても今までナマで見る機会がなかった人も印象的。

今日は、それぞれの画像は上げないので、見たい人は会場へ。

(あるいはネットで検索を。上の各作品リンク先はボストン美術館がネットに公開しているもの)


Boston_Musium__0000.jpg   Boston_Musium__0001.jpg

Boston_Musium__0002.jpg   Boston_Musium__0003.jpg


関連記事

クリスマス・イリュミネーション

P_20171212_171952r.jpg 気づいたら、職場の近くのちょこっとした広場がイリュミネーションで飾られていた。
それなりにこの季節の雰囲気を醸し出していると思う。

この頃はいろんなところでイリュミネーションが行われている。

ちなみに、最も有名なイリュミネーションは、神戸のルミナリエだろう。これはクリスマスではなくて、阪神淡路大震災の鎮魂と復興への祈りのためにはじまったものだと思うけれど、この時期を選んだのは、やはりイリュミネーションが多い時期という、反射的な関係なんだろうか。


私の自宅付近の家々にも、この時期にはイリュミネーションで飾る家がある。だいたいは、子供が小さいところだと思うが、子供たちが巣立って行ったらどうするんだろう。

それで、12月ともなると、近所のコストコなども人出が増えるようだ。
プレゼントや飾り付けを買う人が多いのだろう。

コストコではロティサリー・チキンも売っている。これがメチャ安で人気があるらしい。もっとも、これが売れるのは、もっとクリスマスが近くなってからだろう。


ところで、クリスマスの飾りつけは、十二夜(1月6日)までと決まっているそうだ。
シェイクスピアの解説本を読んでいたら、「十二夜(Twelfth Night)」のところにそんなことが書いてあった。

Wikipediaによると、それどころか、クリスマスの飾り付けは十二夜を過ぎて片付けてはいけないという言い伝えがあるとか。

あんまりきちんと考える必要はないようだけれど、この習慣を守るとしたら、1月6日の間に片づけるんだろうか、それとも7日なんだろうか。

日本の習俗だったら、正月の飾り物は、小正月とかのとんど焼き(左義長)で焼くけれど、クリスマス・イリュミネーションは翌年も使っているようだ(毎年、買い足して豪華になる?)。


関連記事

休刊日

本日は月例の休刊日。

IMG_0489-crops.jpg

足尾駅/わたらせ渓谷鐡道


関連記事

モテる構造

Moteru_Kozo_Amazon.jpg 山田昌弘「モテる構造―男と女の社会学」について。

別にモテたいと思って読んだわけではない。
これは、ハウツー本ではない、念のため。


本書に、あたりまえのことがなぜかを探るのが社会学と書かれているとおり、とりあげられている事象の多くはあたりまえのことである。

著者が現代日本人だからで、異文化に育った人なら、また違う「あたりまえ」があるのだろうけど。


「女がズボンをはいてもおかしくないが、男がスカートをはいたらおかしい」というあたりまえのことが、どうしてあたりまえなのかを考える。

近世ヨーロッパの王侯貴族の家では、男の子は女装させて育てることがあるという。これは男の子のほうが悪魔などに狙われやすく、悪魔の眼を誤魔化すためという意味があったと、(あやふやだけど)聞いた覚えがある。


「男がやることを女がやって何がおかしい」は大きな声になるけれど、「女がやることを男がやって何がおかしい」はそうではない。

moteru_kouzou_zu-crop.jpg 本書では、こうした事例をいろいろ考えて、抽象化すれば「性の非対称性」とまとめている。

「非対称性」とは、特定の尺度での軽重を問うものではなく、論理的あるいは論理操作上の意味。


それに「できる|できない」ということと、「モテる|モテない」を組み合わせて、非対称性が発生する理由を説明する。
私の理解では、「できる|できない」は男女にかかわらず集団内での順位づけ、「モテる|モテない」は異性から見た順位づけということになると思う。

本書のもう一つの指摘であるが、マズローの欲求段階でいう社会的欲求(帰属欲求)の基本に、性への所属欲求があり、これが人間の社会生活から性(ジェンダー)を排除できない理由である。
そしてジェンダーには「らしさ規範」がつきまとう。「男らしさ」、「女らしさ」である。

この、らしさ規範に男女の非対称性がある。
多くの社会の「らしさ規範」では、女はそのまま女になるが、男は努力して男にならなければならない。男も女も通常は女(母)に育てられ、女の子はいつまでも女でいられるけれど、男の子はどこかで女からわかれなければならない。

そして、その規範にのっとった行動が、らしさ規範を守る男女を再生産する。だから、男女が社会的に異なる扱われ方をする構造は維持されつづける。

本書に、3つ以上の性がある社会のことについても言及されている。残念ながら私はその典拠については知らないのだけれど、そういう社会が存在するということだけでも、社会的性という概念が虚構でないことがわかる。


「ガラスの天井」は、それをなくせと言うだけでは問題の解決にはならないだろう。

「ガラスの天井」が女性の社会的地位の制限という意味なら、簡単に壊せる。なぜなら女性が高い地位に上がることは、忌避されるようなものではないから。ただし、現状では、家事をこなす「女らしさ」がバランスをとらなければ受け入れられにくいという問題がある(サッチャーが家事をする姿をことさらアピールした)。


ところで、著者が学生時代に、誰から聞いたのか、出典はなになのかわからないが、耳に残っている話があると、本書冒頭で紹介されていた。それは、
男にとって男は 
男にとって女は 
女にとって男は 
女にとって女は 

のクリックで答えを表示


自分が育ってきた文化的背景について無意識・無批判に、「女がやることを男がやって何がいけない」と言っているようでは、コトの本質は見えてこない。
相対化、客観化し、俯瞰する社会学の視点。好きだ。

関連記事

日本の近代とは何であったか

Nihon_no_kindai_towa_nannde.jpg 三谷太一郎「日本の近代とは何であったか―問題史的考察」について。

異なる著者による歴史の本を読むと、いつも何かしら新しい発見とか気づきということがある。
それは、もともと自分が持っていた疑問に答えるものである場合もあるし、疑問に思っていなかったけれど問題視すべきだという場合もある。
本書は、各章のタイトルでわかるように、そうした「なぜ」を正面から提示したものと読める。
近代日本がどうやって生まれたのか、それが東アジアでなぜ日本だけだったのか。

タイトルを拾い読みしただけで、やたら重たい本ということがわかる。その中から、特に私に気づきを与えてくれた部分を拾ってみよう。

序 章 日本がモデルとしたヨーロッパ近代とは何であったか
 
第一章 なぜ日本に政党政治が成立したのか
 1 政党政治成立をめぐる問い
 2 幕藩体制の権力抑制均衡メカニズム
 3 「文芸的公共性」の成立――森鷗外の「史伝」の意味
 4 幕末の危機下の権力分立論と議会制論
 5 明治憲法下の権力分立制と議会制の政治的帰結
 6 体制統合の主体としての藩閥と政党
 7 アメリカと対比して見た日本の政党政治
 8 政党政治の終わりと「立憲的独裁」
 
第二章 なぜ日本に資本主義が形成されたのか
 1 自立的資本主義化への道
 2 自立的資本主義の四つの条件
 3 自立的資本主義の財政路線
 4 日清戦争と自立的資本主義からの転換
 5 日露戦争と国際的資本主義への決定的転化
 6 国際的資本主義のリーダーの登場
 7 国際的資本主義の没落
 
第三章 日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか
 1 植民地帝国へ踏み出す日本
 2 日本はなぜ植民地帝国となったか
 3 日本はいかに植民地帝国を形成したのか
 4 新しい国際秩序イデオロギーとしての「地域主義」
 
第四章 日本の近代にとって天皇制とは何であったか
 1 日本の近代を貫く機能主義的思考様式
 2 キリスト教の機能的等価物としての天皇制
 3 ドイツ皇帝と大日本帝国天皇
 4 「教育勅語」はいかに作られたのか
 5 多数者の論理と少数者の論理
 
終 章 近代の歩みから考える日本の将来
 1 日本の近代の何を問題としたのか
 2 日本の近代はどこに至ったのか
 3 多国間秩序の遺産をいかに生かすか
 
あとがき
私がかねてから疑問に思っていたのは、今の日本は、植民地などないにもかかわらず、豊かで繁栄している国になっている、なのに、どうして戦前の指導者たちは、満州を生命線と呼び、植民地を確保しなければ日本の繁栄はないと判断したのだろうかということ。
同じことだけれど、当時、列強は植民地は持っているけれど、東アジアにおいては「自由貿易帝国主義」(この言葉も本書より)というスタイルをとって、植民地帝国路線はとらなかったのに、何故、日本はそれら先進国に倣うことをしなかったのか。
現代日本の姿である、貿易立国、技術立国のビジョンが当時の政府に持てなかったとしても、そもそも戦争しても勝てっこないなんてわかりきったことじゃないか。どうして列強との摩擦必至の大東亜共栄圏(これも開戦後に慌てて作った概念らしいが)になるんだろう、馬鹿じゃないなら。

こうした疑問に対して、本書はかなり丁寧に当時の状況を解いてみせる。


もう一つ挙げよう。
私はあまり意識してなかったが、天皇が神であるとはどういうことか、という問題がある。
天皇は、おそらく自分が神だなどとは思っていないだろう。そもそも皇室祭祀といわれるものには、明治になってから整備されたものも少なくないという。
そうした自意識や環境の中で、天皇を神格化するとはどういうことなんだろう。
戦後の「人間宣言」というのがある。はじめ天皇は、もともと自分に神格があると思っていない、ないものをないと言う必要があるのかと言ったそうである。しかし、この宣言は占領政策には大変効果があったという。
そして続いて「象徴天皇制」を編み出したのは、もともとの天皇神格化の効果を、かなりの程度、戦後にも引き継ぐ妙案だったということになるようだ。そういう意味では、天皇とは、まさに政治的存在と言えるかもしれない。

このあたりは本書のあとがきに簡潔にまとめられているから引用しよう。
第四章は、近代天皇制への問いであります。これはもちろんバジョットが提示したようなヨーロッパの「近代」概念を前提とした問いではありません。しかしそれは明治国家の設計者たちが「近代化」を「ヨーロッパ化」として行おうとした際に、ヨーロッパの原点に「神」があると認識したことを前提とした問いであります。彼らは、日本をヨーロッパ的国家としてつくり上げるためには、天皇はヨーロッパの「神」に相当する役割を果たさなければならないと考えたのです。もちろん現実の天皇は「神」に代替することはできません。そこで明治国家の設計者たちは、天皇を単なる立憲君主に止めず、「皇祖皇宗」と一体化した道徳の立法者として擁立したのです。
日本の近代は一面では極めて高い目的合理性をもっていましたが、他面では同じく極めて強い自己目的化したフィクションに基づく非合理性をもっていました。過去の戦争などにおいては、両者が直接に結びつく場合もありました。今日でも政治状況の変化によっては、そのような日本近代の歴史的先例が繰り返されないとは限りません。

「何故、あんな馬鹿な戦争をしたんだ」というだけでは、歴史を学んだことにはならない。一部の人からは自虐史観だといわれなき非難を浴びるかもしれない。
その時代がどういうものだったのか、内外の諸情勢を踏まえて、評価しなければならないことは当然だろう。
しかし、やはり思う。
台湾や朝鮮半島を植民地化するのではなく、ロシアや中国へのバッファーをかねて、「友好国」にできなかったんだろうか。

関連記事

大世界史―現代を生きぬく最強の教科書

716QO7gFFAL.jpg 池上彰・佐藤優「大世界史―現代を生きぬく最強の教科書」について。

佐藤優氏の対談本をとりあげるのは2回目(前回は、半藤一利・佐藤優「21世紀の戦争論 昭和史から考える」


分量の少ない新書にもかかわらず、ものすごいタイトルである、ひょっとして「大日本史」を意識した?(偏狭な自尊史観に対するアンチテーゼ?)
これについては「あとがき」で次のように説明されている。
 本書の「大世界史』というタイトルには二つの意味がある。第一は、世界史と日本史を融合した大世界史ということだ。日本の視座から世界を見、また世界各地の視座から日本を見、さらに歴史全体を鳥瞰することにつとめた。第二は、歴史だけでなく、哲学、思想、文化、政治、軍事、科学技術、宗教などを含めた体系知、包括知としての大世界史ということだ。

(あとがき―佐藤)


二人の対談から飛び出してくる現代社会への考察―それが歴史に裏打ちされているものは、歴史の読み方について、考えさせられる。

1 なぜ、いま、大世界史か
2 中東こそ大転換の震源地
3 オスマン帝国の逆襲
4 習近平の中国は明王朝
5 ドイツ帝国の復活が問題だ
6 「アメリカvs.ロシア」の地政学
7 「右」も「左」も沖縄を知らない
8 「イスラム国」が核をもつ日
9 ウェストファリア条約から始まる
10 ビリギャルの世界史的意義
11 最強の世界史勉強法
逆に、真っ当な判断力の涵養には、歴史をどう教えるかという問題がついてまわるだろう。
本書によれば、韓国の歴史教科書は、日本の天皇・皇室へテロをはたらこうとした人は軒並み最高の英雄扱いするという(安重根はテロに成功したけれど伊藤博文は皇族じゃないので、やや落ちるとか)。
最近では、インドの歴史教科書ではイスラム支配のあたりを削除しているという。歴史の改変である。タージ・マハルもイスラムの遺産なので、観光ガイドから削除されたりしているという。

自国に都合の良い歴史教科書を使っていては、各国の相互理解はもちろんのこと、自国の政策自体を誤る原因になるのではないだろうか。国を動かすエリートだけが「正しい」歴史理解をすれば良いというのでは、民主主義にはならないだろう。

論理階層的にレベルの高い話は措いて、本書の指摘で気づかされたことをいくつか抜き出してみよう。

まず、ギリシアは人造国家ということ。
ギリシア人は古くから地中海各地に植民していて、オスマントルコの支配下の土地のあちこちにギリシア人の社会が続いていた。そのオスマン帝国を西欧列強がうちやぶることで、ギリシアの土地にギリシア人たちを「復帰」させている。つまり、ギリシアという国は、そこに存在することに意義があるという指摘である。
ギリシアが経済的に破綻しようが、西欧としてはつぶすわけにはいかない、ということである。

この話で、あらためてギリシアの歴史を見ると、そもそも、古代ギリシアは都市国家の集まりで、ギリシアという国があったわけではない。そしてギリシアの地(ペロポネソス半島その他)は、古代ローマ→ビザンティン帝国、ヴェネツィア、オスマン帝国と、支配者が移り変わり、ギリシア国はない。
ギリシアが今のように一つの国としてできるのは、1821年のことであり、弱体化したオスマン帝国に対する西欧列強諸国の思惑によるという。1896年には第1回の近代オリンピックがアテネで開かれたわけだが、1893年にギリシアは国家破産を宣言していて、1897年のオスマン帝国との戦争に敗北、列強の管理下に置かれたという。

このあたりの事情をたとえていうと、

あんたらのご先祖は偉い人やったんで、もっとしっかりせんとあかんがな。わしらが面倒みたるから、ちゃんと家を構えてんか。ほんま頼りないなぁ。
金がのうて、このままではやってけへん、もう家つぶそかやて? そういわんと、あんたがちゃんと家もってそこに居ってもらわんと、こっちもこのシマに出入りする理由のうなって困るんや。しゃあないなぁ、ほなら金貸したるけど、ほんましっかりしてや。

というところだという。

次に、ドイツ人は質素倹約ということ。
これは内需が期待できないことを意味する。ならばロシアがパートナーになりうる。米国がメルケルを盗聴したのは、メルケル(旧東独出身)に対する疑心があると。

ところで、本書では諸事情をトータルで見る必要性がいわれ、「陰謀論」はダメだというけれど、本書の「実は……」というところ、陰謀論のように聞こえるのだけれど、実際のところどうなんだろう。
たとえば、次のような話も、なるほどと思う一方、そこまでやるか、そこまで考えていたのか、という感じがする。

話としてはおもしろいから、敢えて引用しておく。

【佐藤】 戦場の経済学からすると、敵を殺さない方がむしろ効率的なんですよ。レーザーで相手の目だけを潰す。すると、その兵士を戦線から離脱させる分、余計に手間がかかるわけです。
【池上】 そうですね。だから、非殺傷兵器の研究はずいぶん進んでいます。たとえば対人地雷。これは基本的には殺すためのものではなく、兵士の足が吹き飛んで苦しむような状態にさせるのが狙いです。すると、周りの兵士が二人がかりで助ける。これで計三人、戦力から外すことができる。そのために、わざわざ威力を弱く調整しているのです。
【佐藤】 旧曰本軍がずっと三八式歩兵銃を使用し続けたのも、同じ理由ですよ。どうして日露戦争の銃を第二次大戦でも使ったのかという批判がありましたが、物量が足りなかっただけではなく、殺傷能力が弱いので、米軍に負傷者がたくさん出るからなんです。
とか、
■国家の言語への介入
【池上】 やはり教育は、必ずしも無色透明で中立的なものではなく、国家のあり方と深く関わっていますね。
【佐藤】 それは、良い悪いという問題以前に、まず教育を受ける側も、どこかで自覚しておいた方がよいことです。
【池上】 たとえば、オスマン帝国崩壊後のトルコの近代化においては、文字の表記を根本から改めたことは、先に述べました。
【佐藤】 表記法は、国家にとって非常に重要な問題です。
 たとえば、中国共産党はなぜ画数が少ない簡体字にしたのか。表向きは、この場合、識字率を上げるためですが、その本質は、国民からそれ以前の知識を遠ざけるためでした。簡体字教育が普及すると、それ以前に使われていた繁体字が読めなくなって、共産党支記以降に認められた言説だけが流通するようになる。歴史を断絶させ、情報統制を行なったのです。
 ロシア革命の後でも、ソ連はロシア語の表記を少し変えて、文字を四つ消してしまいます。ロシア革命前の宗教書や反共的な文書は図書館には収められていますが、特殊な訓練を受けた人しか読めなくなったのです。ナチスドイツがひげ文字のアルファベットではなく、英語と同じ読みやすいアルファベットを採用したのも同様です。
【池上】 なるほど。たしかに日本も、明治維新で複数の種類があった「変体がな」を今の表記に統一したために、ほとんどの現代人は明治以前の文書を読むことができない。
【佐藤】 戦後日本も危ないところでした。GHQが招いた教育使節団の勧告によって、漢字廃止、ローマ字表記にされてしまう可能性があったのです。少し前まで一般的に使われる漢字を「当用漢字」と言っていましたが、これはローマ字表記を採用するまで、当座の間だけ使っていい漢字です、という意味でした。
【池上】 それが「常用漢字」になったのは、一九八一年のことです。つまり、日本人はこれからも常に漢字を用いていきます、という意味で、実はこのとき歴史的な方針転換が行われていたのですね。
【佐藤】 明治期の言語改革によって、現代人が明治以前の文書を読むことができなくなったのは事実ですが、それでも全体として見れば、国民の教育水準は高まってきたことも確かです。
う~ん、当たっているような、しかし考え過ぎでは、という感じも。

ところで、最後に私も大いに賛成の意見が述べられていた。
それは、「社会で役に立つ」教育を要求する文科省への批判。
「すぐ役に立つものは、すぐ役にたたなくなる」という。誰かが勝手に「役に立つ」と決めた教科書的知識からは、独創性は生まれない。リベラル・アーツがエリートを育てる。実用的知識は応用がきかない。

なお、2年前の本だから、トランプ大統領は予測されていなかった。というか、共和党の候補にはなれたとしても、大統領にはなれないと予測している。

共和党の候補になるためには強さと保守性が要求されるが、大統領になるにはそれを緩和しなければならないというジレンマがある

とトランプ大統領はアリエナイ論が展開されている。なるほどそうだろうと思わせる。予測があたらなかったからといって、本書の値打ちが下がるというわけではないけれど。

関連記事

プレミアム・ゴールデン・ウィーク

takamikura_dentoubunka.jpg 今上陛下のご退位の日、次の天皇陛下のご即位の日が、それぞれ、2019年4月30日、5月1日とすることが、昨日、正式に閣議決定されたそうだ。

年末年始は皇室行事が多くて難しい、昭和天皇のご命日にかかる行事は今上陛下にしていただきたいということで、年末年始案は採用されなかったという。
また、年度変わりの3~4月は人の異動も多くて国民生活に大きな影響があるということで、これも見送られたという。

というわけで、4~5月としたのに積極的理由があるわけでもないようだが、この結果、カレンダー業者が大変だという報道にまじって、この年のゴールデン・ウィークがとんでもない連休になるという報道もある。

国民の祝日に関する法律
 
第二条 「国民の祝日」を次のように定める。
 :
天皇誕生日 十二月二十三日 天皇の誕生日を祝う。
 
第三条 「国民の祝日」は、休日とする。
2 「国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。
3 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。
というのは、ご即位の5月1日は、おそらく国民の祝日になるだろう、そうすると、祝日法第三条3項の定めでは、4月29日昭和の日と5月1日にはさまれた4月30日は休日になる、そして5月1日と5月3日にはさまれた5月2日も休日になる。

法的に4月29日から5月5日まで休日が続くのだが、カレンダーを見ると、5月27日が土曜日で、5月6日が5日の振替休日となって、結局、多くのサラリーマンは4月27日~5月6日までの10連休になる。

これって国民生活というか、国際的にも影響が大きいと思うけれど。

と大騒ぎだけれど、この頃には私は常勤勤務はしていないだろうから、直接関係はないと思う。


今のところ、閣議での決定を伝える報道では、祝日・休日の扱いについて決まったというようなものは見えない。
また、新天皇の誕生日(2月23日)は祝日になるだろうが、今上陛下の誕生日は何らかの祝日として残すのか、こちらも未定のようだ。

国民生活への影響も含め、いずれにせよ、法改正は必要である。


イギリスでは、現女王の実際の誕生日は4月21日だが、「国王の公式誕生日」は6月の土曜日から選ぶらしい。なんでも、1748年からの伝統で、当時の国王ジョージ2世は11月生まれだけれど、気候の良い6月に式典を行うようにしたからだという。
日本もそうしたらいかが。

ところで、5月1日は正確には「即位」ではなくて「践祚」というべきなのではないだろうか。
昨日の閣議では、大嘗祭を11月に行い、各国元首などを招待sての「即位の礼」はその前に行うことにしたようだ。
Wikipediaによると、今上陛下の場合、即位関連行事がすべて終わるまでに1年近くかかっている

ところで、しつこいけど、即位の礼はどこで行われるんだろう。
やっぱり、今上陛下同様、東京でやるのだろうけど、旧皇室典範(昭和22年廃止)「第11条 即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」の復活はないのだろうか。

関連記事

菊と刀

kiku_to_katana.jpg 今日は日米開戦の日。
ということで、ベネディクト「菊と刀」(角田安正訳)をとりあげる。

この本は、先の戦争で米国が対日戦を闘う上で、戦後の占領政策を実施する上で、日本人というものを理解しようという、軍事的な要請がベースにあること、そして、ベネディクトは、日本文化を理解するキーワードとして、「恥」と「恩」を抽出したことぐらいは知っている。

大変有名な本で、文化人類学に関心を持っている者なら、読んでいておかしくないはず。
だけど、私としては、関心はあるけれど、さすがにあまりに古い(1946年)本だから、今さら金を出して読むのもどうかなぁと、今まで読まずに来た。

そう思っていたら、Amazon prime readingの対象書籍となっていて無料で読めるので、この際、読んでみることにした。また、翻訳は新しいもので、ベネディクトの間違いなども注釈してある。

あらためて驚くのは、著者は、日本研究とか東洋研究を専門にしているというわけではないこと。さらに、日本を訪問したことがないということ。

目次
謝辞
第1章 研究課題──日本
第2章 戦時下の日本人
第3章 応分の場を占めること
第4章 明治維新
第5章 過去と世間に負い目がある者
第6章 万分の一の恩返し
第7章 義理ほどつらいものはない
第8章 汚名をすすぐ
第9章 「人間の楽しみ」の領域
第10章 徳目と徳目の板ばさみ
第11章 鍛練
第12章 子どもは学ぶ
第13章 敗戦後の日本人
解説 角田安正
年譜
訳者あとがき
「菊と刀」のベースになっているのは、軍の要請で作成された「日本人の行動パターン」という報告書ということだが、著者が日本研究に携わってから、わずか3ヶ月ぐらいで出されたらしい。そして、それを下敷きに、1946年には、一般向けとして、本書が出版されている。
著者が利用できたのは、軍が集めた資料―おそらく日本研究論文、旅行記、日本国内の出版物などだろう―、研究協力者の日系人からの情報だと思うが、この限られた情報から、日本人の行動のベースにある「構造」を抽出する。

この洞察力には感服する。もちろん、そのすべてが当たっているとは思わないが。

著者は学生に「菊と刀はあまり読まないように」と言ったと伝えられるが、それは、日本人なら明らかに間違いを指摘できるところが散見されるように、十分な時間をかけて吟味されたものではなく、勘違いすらもそのまま活字になったということを意味するのだと思う。


こうした日本研究が軍に必要とされたのは、米国人からは全く理解できない日本兵の行動を目の当たりにしたからである。
欧米基準でも賞賛される紳士的振舞いと、卑劣・残酷な振舞いの同居、徹底的に抵抗するかと思えば、驚くほど従順であること、などなど。
それをなんとか理解しようとするために、その行動の背後にある日本人の思考や認識方法、つまり文化の深層を分析したのである。

そして、それはかなりの点でうまく行った、実用的な意味でも。
多くの米国人が、日本進駐時には多大な抵抗、テロを心配したが、ベネディクトはそうはならないと考えていたようだ。進駐軍もはじめはその意見に半信半疑だったに違いないが、結局は占領政策に活かされたのだろう。たとえば、天皇を残し、政府を失ったドイツとは異なり、日本政府を通じての占領統治というやりかたを採用したことなど。

敗戦から五日もすると、まだ米軍が本土に上陸する前だというのに、東京の有力紙である毎日新聞は、敗戦とその結果もたらされる政治的帰結について論評し、次のように言ってのけた。「だが、それはすべて、究極的に日本を救うのに役立ったのだ」。その社説が力説したのは、全面的な敗北を喫したということを片時も忘れてはならない、ということである。露骨な軍事力にもとづいて日本を建設しようとする努力が完全に破綻した以上、今後は平和国家の道を歩まなければならない、というわけである。

  :

降伏の十日後、読売報知新聞は「新たな芸術と新たな文化の始まり」について論じ、次のように言ってのけた。「軍事的敗北は一国の文化の価値とは何の関係もない。そのような強い信念を胸に刻みつけておくべきである。軍事的敗北は原動力として役立てるべきである。(中略)敗戦を経験したればこそ、日本国民は本気で関心を世界に向け、物事をありのままに客観視することができるようになったのである。日本人の思考を歪めてきたあらゆる非合理性は、忌憚なく分析することによって取り除かなければならない。(中略)この敗戦を厳然たる事実として正視するには勇気が要る。(だが、私たちにはすべきことがある。それは)日本の明日の文化に信頼を置くことである」。日本人は一つの行動方針を試し、敗北を喫した。これからは平和的な処世術を試みよう、というわけである。日本の新聞の論説は次のように繰り返し唱えた。「日本は世界の国々の間で尊敬を勝ち得なければならない」。つまり、新たな基準にもとづいて尊敬に値する国になることが、日本人の義務であった。
本書を批判する人も多いらしい。
中には、上述のとおり、端々に見られる間違いを見つけて、日本を理解していないという批判がある。
しかし、本書で指摘されるまで、「恥」や「恩」というキーワードで日本人の精神構造を解いてみせるような視角、文化人類学的洞察力を、日本人は持っていたのだろうか。それらのキーワードが適切かどうかは措いて。
戦後、「タテ社会」、「甘えの構造」など、さまざまなキーワードを使って、日本人論が展開されるが、本書はそうした研究に刺激をあたえたに違いない。(だから、文化人類学の講義でも、本書は推薦図書になっていたのだろう)

Amazonのレビューには、日本人を見下しているというようなものもあるが、ベネディクトは文化相対主義者であり、本書でも、善悪、優劣などは全く論じていない。そうした分析では実用性は乏しいうえに、対日戦も占領政策も失敗したにちがいない。

批判的な意見に対して思うのだが、そういう人たちは、他所の人に見透かされることが気に入らないのではないだろうか。それが当たっていれば反発し、そして当たっていなければ立腹する。理解してほしいと言いながら、見透かされると腹を立てる。(このへんが恥の文化かもしれない。客観的には恥知らずの行為であるようにも思えるが。)

本書の最終章は「敗戦後の日本人」である。
ベネディクトと占領政策の関わりについてはわからないけれど、おおかたの米国人をびっくりさせる日本人の掌を返したような占領軍への対応―頑強な抵抗が心配されたが実際には従順に従い、むしろ解放軍扱いで歓迎された―についても、ベネディクトは解説してくれる。

日本国憲法を占領軍の押し付けだと言う人たちがいるが、ベネディクトの見方はそうではない。 占領軍によって、目標は与えられた―民主的で平和な国をめざせ―が、それにいそいそと努力したのが戦後の日本人の姿なのである。押し付けられて、いやいややらされたものでは決してない。

もちろん、その目標自体が誤りであったという人もいるわけだが。


西洋人は、原理原則としか考えようのないものがこのように切り替わるのを目の当たりにすると、それに疑いをかける。しかし日本では、処世と変わり身は切っても切れない関係にある。そのことは、人間関係と国際関係のいずれにも当てはまる。日本人は、目標の達成につながらない行動方針に乗り出したのは「失敗」だったということに気づいている。行動方針が失敗に終わると、日本人はそれを見込みのない大義として放棄する。

  :

日本人は、嘲笑されるとひどく憤慨するが、「当然の帰結」は甘受する。「当然の帰結」は、日本の降伏条件次第では非軍事化やさらには過酷な賠償金の取り立てまで含むにもかかわらず。
控え目に言って、誘導されたのかもしれないが、その誘導に従ったのは、当時の日本人の意思だ。その時代の気分が、現憲法を生み出したのだ。それが日本人的、日本人の本質というべきなのだ。
これは他の国の対応とは違う。他国では敗戦は自国の否定だが、日本ではそうではない。ただのリセットにすぎない。やりかたを変えようということにしかならない。
そう考える、そう考えてなんら後ろめたさを感じないところが、日本的なのである。
今更、押し付けられたとか、騙された(誘導された)と怒るのは、ちょっと違うだろう。

どこの国民も、自分たちの行動、そしてその背後にある精神構造について、客観的に見る目を持つべきだろう。
それらを変える必要性があるかどうかは別として、少なくともなぜ自分たちの行動が理解されないのか、理解しないほうが悪いのではなくて、どこに理解を妨げる原因があるのかを理解するために。そして、戦争に勝ちたいのならなおさら。

「菊と刀」はそのことを教えてくれる本だと思う。

関連記事

NHK受信料

0171206at55_p.jpg
NHK受信料「合憲」=「知る権利を充足」-テレビ設置時から義務-最高裁が初判断
 NHKの受信料制度をめぐり、テレビを持つ人に契約締結を義務付ける放送法の規定が憲法に反するかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は6日、「国民の知る権利を充足する」として、規定を合憲とする初判断を示した。
 大法廷は「テレビ設置時にさかのぼって受信料の支払い義務が生じる」とも判断した。判決は全国で900万世帯を超える未払いへの徴収を後押しする可能性があり、大きな影響を与えそうだ。
 放送法は、テレビなどの受信設備を置いた人は「NHKと受信契約をしなければならない」と規定している。この規定が憲法に違反しないかが最大の争点で、裁判で正面から合憲性が問われたのは、1950年のNHK設立以来初めてだった。
 大法廷は受信料制度について、「憲法の保障する国民の知る権利を実質的に充足する合理的な仕組み」と指摘。契約を強制する放送法の規定は「適正、公平な受信料徴収のために必要で憲法に違反しない」と判断した。裁判官15人中14人の多数意見。
 その上で、契約を拒んだ人に対し、NHKが承諾を求める裁判を起こし、勝訴が確定した時点で契約が成立すると判示。テレビの設置時にさかのぼって受信料の支払い義務が生じるとの初判断も示した。木内道祥裁判官は「設置時からの支払い義務はあり得ない」とする反対意見を述べた。
 裁判になったのは、2006年に自宅にテレビを設置した東京都内の男性。契約申込書を送っても応じないとしてNHKが11年に提訴した。
 男性側は、契約は視聴者の意思で結ぶべきで、規定は憲法が保障する「契約の自由」に反すると主張した。NHK側は受信料制度には十分な必要性と合理性があるとして合憲だと反論していた。
 大法廷は男性の上告を棄却。未払い分約20万円の支払いを命じた一、二審判決が確定した。
(時事通信 jiji.com 2017/12/06-18:15)
えらい判決が出たもんだ。
NHKの受信料をめぐっては、今までも多くの異論があり、裁判になったものもある。

私のあやふやな理解では、放送法は受信装置を持つ人は受信契約を結ぶ義務があるとしているが、そのことには罰則はなく、契約を結んでいなければ受信料の支払い義務は発生しない、そう思っていた。

ところが、最高裁の判決は、受信装置を持っていれば、NHKはその人に契約を申し出ることができ、それは拒否できないというようなものらしい。(間違った理解かもしれないけど)
そして、その最高裁の判断の理屈が、受信料制度は、憲法の保障する国民の知る権利を実質的に充足する合理的な仕組みだという。

ここでなぜ「国民の知る権利」が出てくるのか、もうひとつ釈然としない。政府の見解と異なる報道をするわけにはいかないとNHKのトップが表明したということは記憶に新しい。
ヘイトスピーチじみた発言をくりかえす経営委員もいる。

そうした状況が一方にありながら、国民の知る権利を持ち出してくる最高裁の姿勢は、一体何なんだろう。
穿った見方をすると、とにかく受信料支払い義務があるという結論にしなければ、ゴネドクを許すことになりかねない、それを認めてしまうと「社会正義」が貫徹できないから、何としても、どんな理屈をつけても、支払い義務があるという結論があったのではないだろうか。

しかし、その根拠として国民の知る権利の充足を持ち出してくるのは、いささか飛躍しているように思える。

私はきちんと受信料を払っている。
NHKの番組は、民放には決してマネできない上質のものが多い。
ネイチャー番組、歴史番組、生活についても科学的に分析する。そして、伝統芸能やクラシック音楽。橋下徹氏なら不要だと断ずるような番組が目白押しである。

しかし、今では、ケーブルテレビやBS放送、CS放送に、多くの有料の専門チャンネルがある。

かなしいことに、有料でもNHKの番組を凌駕できるものはそう多くない。ナショナル・ジオグラフィックやディスカバリー・チャンネル、あるいはBBCなどからの購入番組が多いと思う。

放送はタダで見るものという時代ではなくなっているのかもしれない。
無料で見られるものには、それを可能にするスポンサードや、広告媒体というビジネス・モデルがある。ネットでの視聴が拡大すれば、有料・無料のサービスがそれぞれ、さらに発展するのではないだろうか。

NHKは、公共性があるということで、地上波2、BS2、AMラジオ2、FM1という多くのチャンネル、つまり、電波割り当てで優遇されている。

公共の電波である。受信料支払い拒否の理屈には、勝手に電波を流しているんだから、それを傍受して何が悪い、というものもある。いやなら、契約していなければ視聴できない(現在のデジタル放送ならできるはず)ようにすれば良いだろう。そしてその一方で、電波利用料を課せば、国の収入になって、国の財政にも寄与するではないか。その代わり、選挙の政見放送などは放映料を国からとるということもあるだろうけど。

そう、NHKを完全民営化したら、そして受信契約がなければ視聴できないようにしたら、どうなるだろう。
私は、受信契約はある程度減少するとは思うけれど、視聴習慣という強い味方があるから、有料チャンネルとして再出発したとしても、一気に受信契約者が減るということはないだろう。まして、ネット配信もセットにしたなら、かなり売り上げを上げることもできるのではないかと思う。
NHKにとっても、完全民営化のほうがありがたいのではないだろうか。

ただし、NHKは、この裁判では、自分の主張が認められたと言っている。


民営化と規制緩和が正しいといっていた新古典主義者はどう考えているんだろう。
もっとも視聴率の高い番組しか放送しなくなったら、それはこの国の文化にとって、大きなマイナスになることは間違いない。

関連記事

昔の感動を思い出して

P_20171029_112657_vHDR_Auto-crops.jpg 前にCD通販サイトのポイントが切れそうなので、ドン・ジョバンニのブルーレイを購入したけれど、それでもなお1500ポイント余りが残っていたので、もうどうでもいいやと適当なCDをポイント購入した。

購入したCDは、オットマール・スゥィトナー/シュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)によるモーツァルト・オペラ序曲集。

40年以上前、学生時代に、スゥィトナー/ベルリン国立歌劇場の来日公演で、フィガロ、コシ・ファン・トゥッテ、ドン・ジョバンニを見て、本当に素晴らしい舞台で、今でも私が生で見たオペラでは、これが最高だったと思っている。
だから、前述のCDを見つけたときに、40年前の感動をもう一度と、反芻したいように思い、この指揮/オーケストラで、序曲だけでも聴いてみようと思った。それがポイントを使って実質タダ同然というわけだし。

演奏は、実にはきはきしたもので、いかにもオペラの序曲という、わくわくさせる演奏。40年前の感動が甦るというか、思い出される。もちろん、昔聴いた音を覚えているかというと、とてもこころもとない。それにオペラの序曲というのは、テンポが大きく違わない限り、そうそういろんな演奏があるとも思えないわけだが、それでも、なんとなくスウィトナ/ベルリン国立歌劇場っていうのはこんな感じだったかなと思う。
また、その昔の公演ではとりあげられなかったけれど、「後宮からの誘拐」の序曲は、このトルコ風(と当時信じられていた)の強弱交替が見事、また追加したスーパーツィーターの効果かトライアングルも素敵で、良いものを聴かせてもらったと大満足。

で、そんなに新しい録音ではないはずだけれど、古い録音にありがちなくぐもった音ではない。
見ると、「高音質CD UHQCD」と表示されている。
注文するときに、同じ演奏らしきCDに、普通のCDとUHQCDの2種類があったのだけれど、普通のCDの方は在庫なしになっていたので、特に考えることもなく在庫のあるUHQCDを選んだのだった。

高音質CDというのは、CDと同じ規格で、単に製版時の精度が良いというだけのものなので、音が違うというようなことは、原理的に考えにくい。
だから、意図的に高音質CDを選ぶというようなことはなかった。

これがアナログ・レコードだと、低速カッティングとか、材質の吟味とか、さまざまな工夫が行われ、それぞれ実際に音に影響していたに違いない。

なのだけど、このスゥィトナー/シュターツカペレ・ベルリンのCDの演奏は、なんだか音が違っているようにも思える。UHQCDだからなのか、普通のCDでも同じ音がするのか、さすがにわざわざもう1枚CDを買う気はない。

もし音が違うとしたら、CDプレイヤーがデジタル信号を読み間違えたり(致命的)、エラーリトライをしてそのためにCPU負荷が高くなって正確な再生が狂うとか、そういうことがあるのかもしれない。
もっとも、私はCDを直接再生などしていなくて、一旦PCでリッピングしたものを聴いているから、そんなことが起こるはずはないと思う。プレス時に少々ピットがつぶれていても、エラー修正されているはずだ。
デジタルデータで比較したらはっきりするだろうけれど。

関連記事

226周忌

2017-11-27_102552.jpg 今日はJoannessの226回目の命日。
恒例により、KV626を聴く。

もう40年以上も続けている個人的年中行事。
KV626は、それこそたくさんの名演奏があるわけだが、定番にしていたのは、リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団の演奏のもの。

LPでは、繰り返し聴くうちに、出だしの音が消えて、半拍休符が入ったようになってしまった。


であるけれど、今日聴くのは、昨年購入したCD全集(Mozart225)に収録されているものにした。

Requiem in d K626
(completed by Franz Xaver Süssmayr)
  Barbara Bonney(soprano)
  Anne Sofie von Otter(alto)
  Hans Peter Blochwitz(tenor)
  Willard White(bass)
  Monteverdi Choir
  English Baroque Soloists
  John Eliot Gardiner
ガーディナー指揮のレクイエムは、男声を除いて同様の顔ぶれの演奏が、YouTubeにも全曲がアップされている。

私のお気に入りのフォン・オッターが独唱アルトなので、以前にもこのYouTubeを聴いている。


今更、という感じもするけれど、リヒター同様、あまり重々しくはない演奏だが、しっかりと劇的である。

誰が演奏しても劇的な曲だけれど。

今日聴くのは、YouTubeとは、少し面子が違うわけだが、どうだろう。

誕生日には、その年数をケッヘル番号に持つ曲も聴くことにしている。それで、命日も同じようにしてみようと思ったのだけれど、KV226というのは欠けている。
良くお世話になるMozart con graziaによると、“KV226 = Anh.C10.02 カノン「妹よ、愛の女神を信じるな」”となっている。 手持ちのCD全集2セットでは、該当曲が見当たらない。

KV350:子守歌「眠れよい子よ」(ベルンハルト・フリース作) のように偽作だったら、あきらめもつこうというものだが。


ということで、今日は仕事も休んで(親の命日でも休まないのに)、ゆっくりと過ごすつもり。


考えたあげく、KV626と同じ調性のものを聴くことにした。
まず、KV421の弦楽四重奏曲(第15番)、胸をかきむしるニ短調。
次に、それよりは悲劇性は弱いが悪魔的といわれる、KV466のピアノ協奏曲(第20番)。

一休みして、気持ちを整えてKV626。

ああ、良い日だ。

関連記事

オンライン・チケット

Screenshot_20171117-152312m.jpg 一昨日の「メサイア」公演では、オンライン・チケットで入場した。
イープラス」というサービスの「スマチケ」というオンライン・チケットで、座席予約、クレジット決済、入場まで、すべてがスマホのアプリを使って行える。

美術展の入場でもオンライン・チケットを使っているが、そちらは、主催者が用意している(運営は委託だろう)もので、購入済のチケットを、スマホの画面表示、またはプリントアウトして使う。購入チケットは一つ一つにバーコードが付されていて、そのチケットが有効なものか、既に使用されたものかをオンラインでチェックできるようになっていると思われる。

「オンライン・チケット」というのは、オンラインで購入できるという意味なのか、オンラインで正当性がチェックできるという意味なのか。その両方なのだろう。


以前から、新幹線はEX-ICというサービスを使っていた。こちらは専用のICカードを使って改札を通るものだった。これもオンライン・チケットというわけだ。しかも指定席料金相当分が減額されるし、ポイントも貯まる(貯まるとグリーンに乗れる)。

現役の頃はたびたび利用したが、最近はとんと利用する機会がない。最近、普通のICOCAカードを登録すれば、同様の新幹線座席予約・改札ができる「スマートEX」というサービスが始まった。EX-ICはJRカードでの決済が条件だったと思うけれど、こちらはそれ以外の主要なクレジット・カードでも決済できるらしい。


Screenshot_20171202-132343m.jpg さて、イープラスのスマチケだけれど、このサービスを使ったのは今回が初めて。
良いコンサートはないか探していて(関西クラシック音楽情報)、メサイア公演を見つけて詳細を見ていくと、「スマチケ」対応と表示されていた。
プレイガイドに行くのは面倒だし、チケットの郵送は手数料がかかる。
イープラスでもスマチケでなくて、予約だけしてコンビニで発券してもらう方法もあるようだが、その場合はやはり手数料がかかる。

というわけで、もう二度と使わないかもしれないが、一回だけ使うだけでも十分値打ちがあると考えて、新規にアプリをインストールし、ユーザー登録をした。

一回だけのつもりでユーザー登録することもままある。楽天カードも初めはそうだった。楽天市場で買い物をするときに、新しく入会すると多額のポイントがもらえることがある。私が楽天に登録したきっかけは「天上の虹」の全巻(その時発行されていたもの)セットの購入だった。その後、常用するようになったけれど。


思えば、昔は、各プレイガイドにチケット現物が配布されていて、あるところでは売り切れ、別のところでは売れ残りとなったり、店によってとれる席が違うということが起こっていた。(聴きたいけれど財布が厳しいとき、売り切れたらアキラメがつくという自己合理化などもやっていた)。

Kokuho_tickets.jpg その後、プレイガイドをネットワークして、チケットを売り捌くシステムが始まった。日本で最初にこれを行ったのが、ロングラン公演で、大量のチケットを販売する、劇団四季の「キャッツ」公演だと聞いたことがある。
このときはそれでもプレイガイドには行く必要があったわけだが、今ではそれも不要となったわけだ。

イープラスで予約(そしてスマチケが使える)公演は、まだまだ少ないようだ(というかクラシックの公演にはあまり適用がないようだ)。

田舎に住み、都心から外れたところで働いている人間にとっては、ありがたいサービスである。




関連記事

メサイア ライブ

20171202-jvcconcert-osaka.jpg
昨日は、ヘンデル「メサイア」のライブ。
12月にはCDなどで聴くことが多いけれど、全曲をライブで聴くのは、恥かしながら、今回が初めて。

この公演の会場は「いずみホール」。コンパクトで響きの良いホールである。バロック音楽が良く似合う(勝手な思い込み?)。
残響が心地よい。

メサイアっていうのは、クラシックをあまり聴かないという人でも、とても聴きやすい演目ではないだろうか。
歌詞も、古風だとはいえ英語だから、イタリア語やドイツ語よりは、日本人にもなじみやすいと思う。
昔、キリストの生涯を描いた映画で、全編、メサイアをバックに使っていたのがあったように思う。映画音楽だとしても十分の魅力をもっているといえる。

この公演のチケットを購入したあと、ふと思い立って、ミッション系の大学なら、メサイアをやるところがあるだろうと思って、「D志社、メサイア」でググったら、やっぱりありました。
来年はこっちにしてみようかな。


P_20171202_131741.jpg さて、公演の感想。

聴衆は、主催者(JVC=日本国際ボランティアセンター)の性格によるのか、高齢者が多い。
冒頭に、最初に世界で活動しているというJVCについて、日本語と英語で同内容、あわせて10分近い挨拶があった。
入場料の一部がこの活動への寄付になるらしい。クリスマスから年末は寄付の季節でもある。

まず驚いたのは、オーケストラはせいぜい二十数名なのに、合唱は100人ぐらいという構成。テレビやYouTubeで見る公演の倍ぐらいの人数じゃないだろうか。
それでも、合唱が強いという感じにはならなかった。オケと合唱では音が混ざらないということもあるのかもしれないが、合唱団がプロではなく、高齢者も多くて、その分一人一人の声量が小さいのかもしれない。
人数が多いのは、声量云々より、団員全部をステージあげようということなのかもしれない。

P_20171202_132413.jpg

ソリストはステージの隅に控えていて、それぞれの出番のときに前へ出てくる(靴の音が結構する)。
「ハレルヤ」ではその隅の席に座ったまま。アーメンコーラスではさすがに前へ出てきた。もし出てこなかったら曲が終わったあと、身の処し方に困るだろう。

コンチェルトのソリストも、ソロ楽譜に指定がなくても、楽曲の最後はオーケストラ・パートなどを演奏することがあるという。


P_20171202_151344.jpg
ロビーにはクリスマス・ツリー。
この日のメサイア用ではないだろう。
そのソリストだけれど、私が持っているCDなど、多くの演奏がアルトが歌うところが、カウンターテナーになって、男声3、女声はソプラノのみになっている。作曲当時はカウンターテナーだったのだろう。

アルトをカウンターテナーに代えるというのは考えにくい。

そのカウンターテナーだが、最初、少しガサついてるかと思ったのだけれど、聴いているうちに、変に女声っぽくなくて、エヴァンジェリスト風に聞こえて、良い感じ。
また、テナー、バスは日本人だけれど、いずれも良いでき。特にテナーが低めの音域でよく伸びる声で、聴きやすかった。ホールが小ぶりというのもあるかもしれない。
ソプラノは、写真でみるより美人(チラシの写真ではきつそうに見える)。艶のある声で、合唱に紛れない強い声だった。

「ハレルヤ」では、聴衆も立ち上がるというのがマナーともされている。欧米の公演(YouTubeなどで見る)だと、たしかに場内は総立ちになっていると思う。なので、わたしもハレルヤで起立しようとしたのだが、ほとんどの聴衆が立たないので、一旦立ち上がったものの、すぐに座った。ソリストも控え席で座ったままだったから。見回すと立っている人もちらほらいた。欧米系と思われる客はしっかり立っていた。

「メサイア」ではトランペットも注目される。"The trumpet shall sound"でのソロである。第三部が始まると、ソロ・トランペットに緊張が走るという話を聞いたことがあるが、この日の公演のトランペットは余裕たっぷり。そして、見事な演奏だった。

IMG_20171202_151158.jpg
喫煙室。館内(暖かい)にある。
ところで、入場時にプログラムと一緒に、歌詞が配布されていた。
どうも、演奏中にこれを見ている人がいて、ページをめくる音がする。これはちょっと考え物。
オペラ公演では、歌詞(あるいは大意)が会場内で電光掲示されることがあるが、そういうやりかたにしたほうが良いと思う。

メサイアの終了後、「キャロル」ということで、「きよしこの夜」が演奏された。
最初は、合唱団のみで。そして、聴衆も(私も)一緒に歌う。キャロルというのは、やはり集まった人たちが歌うものだろう。(プログラムに歌詞が掲載されていた。)

演奏会の間だけキリスト教徒になったようだ。
それにしても、メサイアは、演奏している方もきっとそうだと思うけれど、聴いている側も、達成感を感じる曲だと思う。

関連記事

日本は改ざん文化

日産の検査不正が報じられたときには、不正は違法行為だから責められて当然、ではあるけれど、国交省の求める時代に合わない検査より、会社の出荷検査のほうがより適切な検査をしているだろうから、実害はないのだろうと思った。

リコールなどが出たときに、国交省が求める完成検査をしていたら防げたなんていう話はなさそうだ。


国は、ずっと「規制緩和」と言って来てるんだから、こういうところの怠慢のほうが問題じゃないのかぐらいに思っていた。

そう思っていたら、神戸製鋼での不正検査が報道された。
こっちは日産より酷い話じゃないか、影響範囲も大きいだろうなぁと思った。

そのタイミングで、中国の新華社通信が「日本は改ざん文化」という記事を掲載したということがネットの情報サイトに載っていた。

中国に言われたくない、そうだろう。

しかし、中国が特許や意匠を窃用するとか、そもそも中国製品は品質が悪くて信頼できないとかいうのとは、ちょっと違うように思う。

中国製品は品質が悪いと言って貶めるとしても、それは値段に反映しているわけで、問題があったとしても購入者責任ということになるとも言える。承知の上で買っている。
しかし、日本製品は高品質であると虚言を弄して、信頼を逆手にとって、高く売りつけている、そっちのほうが悪質ということになるのではないか。

三十数年前、工業関係の試験研究機関の研究者の知り合いが言っていたのだが、「日本製品は品質の良さで定評があったのだけれど、電球(ブランド品)を買ったらソケットにきちんと収まらない、見ると口金が傾いてくっ付いている。以前はこんなことはなかった。これでは近いうちに日本製品への信頼が落ちるに違いない」と。

上に引用した情報サイトの記事は、ノルマの厳しさや、自画自賛が自縄自縛になる「日本の世界一病」という表現を使って考察していて、少し前の東芝のケースなども引き合いに、神戸製鋼だけでなく、同時多発していると指摘している。

そして、私も神戸製鋼はなんてことしてくれたんだと思っていたら、三菱マテリアルからも、東レからも、不正があった旨の報道が続いた。
信頼を得るには長い時間と努力が必要だけれど、失うのは一瞬だ、そう学んできたはずなのに。

関係者が責任を感じて首をつろうとしたら、ロープの品質が悪くて、切れてしまったなんてことになったら。笑えない。

Kobe_seiko_bend.jpg

中国メディアが指摘する「日本は改ざん文化」は本当か
 少し前、中国の新華社通信が「改ざん文化が恥の文化を超える」という日本をからかった記事を掲載して、愛国心溢れる方たちの間でちょっとした話題になった。
 記事を報じたレコードチャイナ(10月12日)によると、神戸製鋼所のデータ改ざん問題を導入に、日産の検査不正問題、三菱自動車とスズキの燃費データ不正、タカタのエアバッグ欠陥問題、東芝の不正会見など有名企業のスキャンダルが続発していることや、森友学園の交渉記録、南スーダンの日報問題まで引っ張り出して、ここ数年の日本社会は「恥の文化」よりも、「隠ぺい文化」「改ざん文化」が勝ってきており、「新たな伝統」になっているというのだ。
 そう聞くと、「パクリや隠ぺいが当たり前で、粗悪な製品ばかりをつくっている中国にだけは言われたくない!」と怒りで発狂寸前になる方も多いかもしれない。筆者もまったく同じ心境だ。が、その一方でぶっちゃけ、かなり痛いところも突かれているとも感じている。
 <以下略>
ITmedia ビジネスオンライン
2017年11月14日

Mitsubishi_material_bend.jpg

Toray_bending.jpg


関連記事

ここにも開閉ボタン

12月になった。寒さがいよいよ厳しくなる季節。
先日、電車を降りようと出入口で待っていたら、前に立っている人がドアを開けるのにまごついていた。

IMG_20170302_183306.jpg 私が通勤に利用しているJR GT線の電車にはドアの開閉ボタンが付いている。
都心に近い区間ではこのボタンは使われないのだけれど、私の家の最寄のMY駅から先の郊外区間では、乗降客が自分でこのボタンを押してドアを開閉する。もちろん安全のため乗務員がドア開閉を有効化していないと作動しない。走行中にドアを開けるなどはできない。

都会の電車ばっかり乗っている人は、駅に着いたらドアは開くものだと思い込んでいるから、MY駅に着いてもただ待っているという光景を目にすることになる。

そういう人は「ドアを自分で開けるなんて、なんて田舎なんだ」と言うのがお定まり。


ところが先日は少し状況が違っていて、ボタンの存在には気がついていて、ちゃんと押しているのだけれど、開かない。
閉める方のボタンを押していたのである。

以前、エレベーターのドアの開閉ボタンがわかりにくいと書いたことがあるけれど、この電車のドア開閉ボタンもまさにそれと同じである。

ドアの開閉を乗客がする運用は、車内保温(冷)のためということだ。
だから、私は降りるとき、続く乗客がいないときは、閉じるボタンを押すことにしているのだけれど、車両の外側は開けるボタンだけで、閉じるボタンがないから、半身になって車両内のボタンを押すことになる。これはこれで危険な気がする。

列車のドアといえば、小さい頃乗った電車では、完全手動の車両があった。
ドアの開閉に機械力が使われておらず、列車が駅に着くたびに駅員が飛び出してきて、車両外側からドアを開け、そしてまた閉めて回るのだ。遊園地のコースターのドアロックのようなものである。

言い訳をしておくけど、そういう列車はごく限られたもので、めったに出会うことはなかった。


もう少し後のこと、JR(当時は国鉄)のローカル線では、駅に着くと自分でドアを開ける列車もあった。知り合いから聞いた話だけれど、はじめてその列車に乗ったとき、開かないドアの前でまごついていたら、後ろのおばさんが押しのけて、ドアを開けてさっさと降りて行ったとか。
(さらに新しい話だが、ニューヨークでバスに乗ったとき、やはりバスのドアは自分で押して開けるものだった。)

列車から離れるけれど、ニューヨークで目にしたことだが、ビルの出入口で、日本人(観光客?)が後ろの人に全く気遣いをすることなくドアを開けて入り、続く人が閉まるドアに恐怖感を感じる様子だった。現地の人達は、後ろに人がいれば、ドアを一定時間保持するから、そういうことにはならない。
これは日本では、ほとんどのビルのドアが自動ドアになってしまっていて、ドアの開閉に気を遣うという習慣がないからのようだ。

それとエレベーターに乗るとき、欧米では、行先階ボタンの前に先に乗っている人がいると、"xx-th floor, please"とボタンを押すのを頼むのが普通だけれど、日本では、前に立っている人を押しのけて自分でボタンを押そうとする人が多いと思う。
この違い、何なんだろうな。

関連記事
Gallery
検索フォーム

 ⇒記事一覧

記事リスト
2017年12月の記事
最新コメント
カテゴリ
タグ

飲食 書評 Audio/Visual ITガジェット マイナンバー 

リンク
アーカイブ
飲食

書評 ITガジェット 飲食 マイナンバー Audio/Visual 

プロフィール

六二郎。六二郎。


定年退職
苦しい家計の足しに再就職
=いつクビになってもええねん
 言うたもん勝ちや!のブログ
現在の閲覧者数
聞いたもん