人間・始皇帝

tsuruma_ningen-shikoutei.jpg 鶴間和幸「人間・始皇帝」について。

始皇帝にかかる伝説の多くは司馬遷の「史記」による。
いうまでもなく「史記」が書かれたのは、始皇帝の時代から150年も後のことで、同時代資料とは言えない。
近年、古代の遺物(出土資料)の発見により、「史記」の記述に反するものが揃ってきた。
本書は、それら出土資料から、秦始皇にかかる数々の伝説を書き換える。

私(というか多くの人)は、始皇帝の諱は「」と習ったと思う。
本書では、まずこれが正される。諱は「」であったと。
当時の竹簡などの直接証拠がある。
傍証もある。「正月」を記述するとき、「正」の字を避けて「端月」としたという。
司馬遷の記述では、正月に生まれたから「政」と名付けたとされるが、そうではなくて、正月に生まれたから「正」と名付けられ、後に皇帝になったために「正月」の方が皇帝に遠慮したという話である。
また秦代には「政」の字はまだ使われておらず、「政事」は「正事」と表記されていたともいう。

他にもある。
始皇帝は、趙に質子として送られていた子楚の子ではなく、趙姫と呂不韋の子であるという話は広く言われる。呂不韋の妾の趙姫を気に入った子楚がもらいうけたが、そのときには既に始皇帝を身ごもっていたという話である。
しかし、子楚のもとに行ってから、始皇帝が生まれるまで12ヶ月あり、潤色する理由もないことから、やはり始皇帝は子楚の子と考えるのが適当だという。

第1章趙正出生―生誕の秘密(一歳)
第2章秦王即位―帝王誕生の背景(一三歳)
第3章嫪毐の乱―彗星は語る(二二歳)
第4章暗殺未遂―刺客の人物像(三三歳)
第5章皇帝巡行―「統一」の実像(三九歳)
第6章中華の夢―長城と焚書坑儒(四七歳)
第7章帝王の死―遺言の真相(五〇歳)
第8章帝国の終焉―永遠の始皇帝
嫪毐事件も別の分析がされる。
この事件は、宦官を装って後宮に入った嫪毐が、淫乱な母親趙姫を巨根で喜ばせてたところ、それが発覚して、誅罰されるまえに叛乱を起したというものとされる。
ところが著者は、秦の時代、夫を失った女が別の男と関係を持つことを不倫とはとらえていなかったという時代であり、むしろ母を一旦は罰するが、母に対する不孝であるとして、咸陽宮に戻すということをとりあげる。
また、呂不韋が年老いて趙姫を満足させることができずにに嫪毐を後宮に送りこんだとされるが、呂不韋と趙姫の関係も嫪毐事件で暴露されているはずなのに、呂不韋は事件後、丞相の地位は失うが、爵位・領地は二年後までそのままであったという。

おやおやと思ったのは「五十歩百歩」のこと。
「戦場で五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を臆病者だと嘲笑したら、どう思うか」と問う孟子にたいし、梁の恵王が「逃げ出したことには変わりないのだから同じだ」という良く知られた話。
ところが、秦の軍律では、逃げた歩数によって、処罰に軽重がつけられていたのだそうだ。
結局、梁(後の魏)は秦に滅ぼされる。

教訓: 五十歩百歩を曖昧にするものは、軍規を緩ませ滅びに至る。


本書ではさらに、刺客荊軻の事件や、遺詔のことなど、今まで信じられてきたことの多くに疑問がなげかけられる。

去年、NHKで放送されたザ・ヤング始皇帝 少年が乗り越えた3つの試練」(歴史秘話ヒストリア)は、「史記」の記述にもとづいて制作されていた。

この番組は、結構、新発見を採りいれる番組だと思っていたが、これは違った。
番組ホームページには、参考文献に、本書もあげられているのだけれど。
兵馬俑展とリンクした番組だったようで、歴史批判の方には眼が向かなかったのかもしれない。


2000年も信じられてきたことが、新事実の発見でつぎつぎに書き換えられる。
なんともおもしろい時代に生まれたものだ。

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