アイヌと縄文─もうひとつの日本の歴史

ainu_to_joumon.jpg 瀬川拓郎「アイヌと縄文─もうひとつの日本の歴史」について。

日本は単一民族の国と言って、認識不足を咎められた政治家がいたように思う。
最近はどうだか知らないが、私が昔受けた学校教育では、アイヌのことはほんのわずかしか触れられなかったように記憶する。
学校教育でとりあげられるのは、中央政権と接触した「事件」、哀しいかな、コシャマインの戦いとかシャクシャインの戦いとか、戦争である。

もっとも、それはそれでしかたがないとも思う。
日本史を学ぶなら、日本とは接点のなかった世界がとりあげられないのは当然で、日本史という枠組みではなくて、人類史ということであれば、例えば古代ローマ史なんてのは日本とはおよそ接点がなくても、人類史を代表するような時代ということで興味深いわけだ。

それにアイヌには文字がない。ユカラは文字化されているけれど(知里幸恵「アイヌ神謡集」青空文庫にもある)、アイヌの歴史を語ってくれるわけではない。

と、言い訳ばかりしているが、「もうひとつの日本の歴史」については思い至ることもなくこの歳まで生きてきた。
この本を読んで、このすっぽり落ちている部分が、というか、その抜け落ちているということに気づかないでいた部分の存在に気づき、そして少し埋めてもらった。

第1章アイヌの原郷
―縄文時代
   アイヌと縄文文化
   アイヌと縄文人
   アイヌと縄文語
第2章流動化する世界
―続縄文時代(弥生・古墳時代)
   弥生文化の北上と揺れ動く社会
   古墳社会との交流
   オホーツク人の侵入と王権の介入
第3章商品化する世界
―擦文時代(奈良・平安時代)
   本州からの移民
   交易民としての成長
   同化されるオホーツク人
第4章グローバル化する世界
―ニブタニ時代(鎌倉時代以降)
   多様化するアイヌの世界
   チャシをめぐる日本と大陸
   ミイラと儒教
第5章アイヌの縄文思想
   なぜ中立地帯なのか?
   なぜ聖域で獣を解体するのか
本書は、アイヌを縄文人の正統な末裔とする。
縄文人は弥生人に包含されて居なくなったのではなくて、縄文ライフスタイルを選んだ人達が独自の歴史を築いてきたということが再構成される。

前述のように、アイヌには文字がないからアイヌ自身による歴史記述というのはないわけだけれど、伝承や考古学的資料、和人や大陸の側の記録などで、丁寧に説明される(史料が少ないから、著者の推測とことわっているものも多いけど)。
そしてその縄文的なものは、現代日本人にも引き継がれている。

関西人である私は、東日本は後進地域で、東京へ行くことは東下りと表現する。(負け惜しみか)
西国の方が早く文明化し、都は奈良・京都、不破関より東は文化果つるところで、貧しく、人口密度も低いという観念を持っていた。

しかし、鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」によると、なるほど都市としては平城京・平安京かもしれないが、地域として考えると、東北・関東の方が豊かで、人口支持力も高く、したがって人口密度も高かったらしい。

縄文時代といえば、縄文海進で知られるとおり、温暖な時期で、東北の縄文人が、何が不服で、鳥獣魚介に変えて米を喰わなきゃいけないのかという気もする。(気候が変わったのがライフスタイルの変更の一因というわけだが。)

そうした生活を基本に、弥生人に同化せずに、足りないものは弥生人との交易で手に入れるというのは、合理的で豊かな生き方だったろう。
そして、以前は、それぞれのライフスタイルは「それで宜し」とされていただろう。

ただし、文字がないというのはやっぱり損をしていると思ってしまうけど。


近代というものができて、それが圧倒的なパワーを持つようになると、相対主義はどこへやら、同じ土俵で競う公正な社会というものができて、その土俵で「勝てる」相手には容赦なく勝負を挑むようになったようだ。

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