南朝研究の最前線―ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで

日本史史料研究会監修・呉座勇一編
“南朝研究の最前線―ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで”
 について。

建武政権
天皇中心の新政策は、それまで武士社会につくられていた慣習を無視していたため、多くの武士の不満と抵抗を引きおこした。また、にわかづくりの政治機構と内部の複雑な人間的対立は、政務の停滞や社会の混乱をまねいて、人びとの信頼を急速に失っていった。

高校日本史教科書『詳説日本史 日本史B』(山川出版社、2012年)

nancho_kenkyu_saizennsen.jpg 本書の第2論稿でも引用されている建武政権に関する教科書の記述である。
混乱期であり、いろいろなことはあっただろうけれど、大略、そういうことなんだろう。私もそう思っていたし、実際、そう総括されてもしかたがないんだろう。

しかし、結果としてはそうだったかもしれないが、それは後醍醐天皇の意思だったのか、また後醍醐天皇を取り巻く人たちが無能な世間知らずだったということだったのか。
本書に収められている論稿を読むと、さまざまな制約を受けながらも、きちんと政治をしようとした姿が見える。

政権の実務的な体制及び陣容は、鎌倉幕府、建武政権、足利幕府を通じて、継続性があったという。
もちろん、後醍醐天皇に直接逆らった鎌倉幕府役人は、建武政権では用いられなかった(それは当然だろう。江戸から明治へのときに、小栗忠順が誅せられたのと同じである)。しかし、そうでない鎌倉役人は、主は変わっても、鎌倉と似た組織で、似た仕事についていた人が多いという。

ついで、建武政権が倒れ、足利幕府の世になると、やはり同じ役人が継続して行政にあたっている。なお、建武政権には入れられなかった人たちが、足利政権では返り咲いている例もある。

ロシア革命で、官僚を粛清しようとした革命政府の活動家に対し、そんなことをしたら革命は失敗するとレーニンが諭したらしいが、既存の秩序を利用しなければ、革命は失敗するものらしい。建武政権も、好むと好まざるにかかわらず、既存行政機構を温存したのだろう。

役人を、君側の奸とか不効率の元凶と決めつけて、彼らを遠ざけると政治は失敗する。役人の自己愛や愛国心につけこんで、言うことをきかせる度量と知恵が、為政者には求められる。政治主導とはそういうことなんだろう。政治家が役人を怒鳴りつけるのは、ただのパワハラである。


はじめに
 建武政権・南朝の実像を見極める
呉座勇一
 
第1部 建武政権とは何だったのか
1 【鎌倉時代後期の朝幕関係】
朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった!
中井裕子
2 【建武政権の評価】
「建武の新政」は、反動的なのか、進歩的なのか?
亀田俊和
3 【建武政権の官僚】
建武政権を支えた旧幕府の武家官僚たち
森 幸夫
4 【後醍醐と尊氏の関係】
足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?
細川重男
 
第2部 南朝に仕えた武将たち
5 【北条氏と南朝】
鎌倉幕府滅亡後も、戦いつづけた北条一族
鈴木由美
6 【新田氏と南朝】
新田義貞は、足利尊氏と並ぶ「源家嫡流」だったのか?
谷口雄太
7 【北畠氏と南朝】
北畠親房は、保守的な人物だったのか?
大薮 海
8 【楠木氏と南朝】
楠木正成は、本当に“異端の武士”だったのか?
生駒孝臣
 
第3部 建武政権・南朝の政策と人材
9 【建武政権・南朝の恩賞政策】
建武政権と南朝は、武士に冷淡だったのか?
花田卓司
10 【南朝に仕えた廷臣たち】
文書行政からみた“南朝の忠臣”は誰か?
杉山 巌
11 【中世の宗教と王権】
後醍醐は、本当に“異形”の天皇だったのか?
大塚紀弘
 
第4部 南朝のその後
12 【関東・奥羽情勢と南北朝内乱】
鎌倉府と「南朝方」の対立関係は、本当にあったのか?
石橋一展
13 【南朝と九州】
「征西将軍府」は、独立王国を目指していたのか?
三浦龍昭
14 【南北朝合一と、その後】
「後南朝」の再興運動を利用した勢力とは?
久保木圭一
15 【平泉澄と史学研究】
戦前の南北朝時代研究と皇国史観
生駒哲郎
 
あとがき生駒哲郎
建武政権は、恩賞においても、役職においても、武士を重んじなかったという説についても、武士への恩賞はたしかに公家より遅くなったが、それは権利関係が複雑だったという事情があり、武士を低く見たからと断言することはできないという。また、その恩賞や、争論をおさめる行政機構には、前述のとおり、旧鎌倉幕府の役人も、倒幕の英雄、楠木正成なども参加している。それは、武士が入っていなければ、実務が滞るからだろう。

足利尊氏が、重んじられなかったので不満を持ったから叛乱を起したというのも違っていて、尊氏を多くの所領を得ているし、官位は、建武政権下で既に従二位になっている。

ではなぜ尊氏がそむいたのか。本書を読んでいると、結局、時の成り行きとしか言いようがないみたいだ。
歴史の流れは、天皇家・公家ではなく、武家の世へと進んでいる。その武家の棟梁が、たまたま尊氏だったにすぎなくて、尊氏が、重んじられなかったとか、他の武士や家臣のために立ったとか、というのは、尊氏の過大評価というか、成り行きと言ってしまうと無責任なようなので、何らかの必然性を主張したかったからではないだろうか。
実力を持つ武士階層が国を治める、その大きな歴史の流れで、成り行きだけれど、たまたま実力も血筋もふさわしかった人がいた。

楠木正成は、武家の棟梁たる位置にいなかった。
その楠木正成についても、本書の論稿では新しい知見が示されている。
楠木正成という武士は、「河内の悪党」という話で、せいぜいが土着の土豪で、悪事もやる、やくざみたいなものと理解していたのだけれど、どうも最近の研究では違うようだ。

くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝を切にと何の出るらん」(楠木の根っこは鎌倉に成っているのに、なぜわざわざその枝を切りに出かけるのだろう)と、千早城に籠もる正成の討伐に手こずる鎌倉幕府軍を揶揄した当時の歌があるそうだ。つまり、当時の人々は、正成は、元は鎌倉武士だと認識していたという。
本書では、推定と前置きしているが、楠木氏はもとは北条氏の被官であり、長崎氏の領地長崎州(静岡県)にある楠木村が名字の地であり、北条氏から河内の地へ遣わされたものという可能性が高いとする。

そして新田義貞も尊氏の家臣にすぎなかったとも。
新田が足利と並ぶ源家の名族というのは、尊氏を逆賊とする史観から出ているのではないか、そういうことである。

それに、南北朝が並び立ったということ自体、かなり南朝に肩入れした言い方なのではないか。

南朝を正統とする史観では、南北と並べることを嫌って、「吉野朝」ということがあるらしい。

あるときは直義が、次には尊氏が南朝をかつぐ。
北朝も尊氏の傀儡だけれど、南朝も結局、武士の勢力争いのなかで、いいように使われた存在でしかない、つまるところ、そういうことのようだ。

建武政権が崩壊し、南北朝に分かれて、戦闘がたびたび繰り返され、京都が南朝が押さえたとか、北朝が取り返したというわけだけれど、領地をめぐって全国が争ったという感じでもない。
南北朝時代に、南朝を支持する人は必ずしも「南」に居たわけではなくて、たとえば海運に携わる人は、同じ海で、北朝方、南朝方がいたようだ。
同じ寺でも、北に肩入れする勢力、南を支持する勢力が並んでいたところもあるという。
いわば、隣は北、うちは南なんてことがあったのでは。
両朝の勢力図といっても、劃然としたものではなく、かなり流動的で、モザイク状だったのではないか。

本書は、ある程度時代の劃期に沿ってまとめられているものの、さまざまな事実が結び付けられて、ストーリーとして語られているものではない。素人には、そうした通史みたいなものが欲しいところ。
とはいっても、歴史家という人は、推定なら書けるだろうけれど、想像では書かないだろう。
そこは小説家の出番なのかもしれない。

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