儀礼的無関心

wst1507100003-p3.jpg 以前から、電車の中で化粧をする女性について、みっともないとか、揺れたら危ないなどの否定的な意見があり、一方で、迷惑かけてなければいいという意見もある。

私は、電車が揺れて化粧が変なことになったり、眼を傷つけたりしないかと心配になる方だけれど、みっともないという意見については、何故、それがみっともないと感じるのか、その心理というのはどういうものだろうとも考えていた。

そうすると、ネットの情報サイトに、「電車内での化粧を多くの人が嫌がる社会学的理由」という記事があって、これを読んで、なるほどと思った。

詳細はリンク先を読んでもらえば良いわけだが、タイトルにある「社会学的理由」というのが、「儀礼的無関心(civil inattention)」というキーワードで説明されている。なお、この言葉・概念は、ゴッフマンという米国の社会学者が提唱したそうだ(Wikipedia)。

記事の冒頭を引用すると、
閉ざされた電車内の空間では、見ず知らずの他人同士が比較的近い距離感で一定時間を過ごすことになる。そのため、乗り合わせた他人が、自分の存在に対して違和感を抱かせないよう最低限の配慮が必要になり、生まれたのが「儀礼的無関心」という礼儀作法なのだという。

こういうマナーというのはおもしろい。
満員電車に乗っていて、自分が降りる駅で人をかきわけて降りようとするとき、全く動こうとしない、邪魔な乗客がいると腹が立つものだけれど、実際にはあまり空間的余地に変わりがなくても、少し体を寄せたり傾けたりしてくれる人には、この邪魔者めという敵愾心はわかない。

これなども、私はあなたが電車を降りようとしていることを認め、それを承認し、それに協力します、という意思表示に感じるからだと思う。そしてそれをしないのは、認知・承認・協力のどれかが欠けている、マナー違反というか敵と感じるのだろう。

そもそも人は知り合いでもない他人と接近することは嫌う生き物だという。デズモンド・モリス「裸のサル」では、その距離は3mぐらいだとし、この距離に入ると身構えると書いてあったと思う。また、同書では、都会では見ず知らずの他人とその距離内に入ることは頻繁に起こるけれど、多くの人は接触を避けるように行動しているともあったと記憶する。
デズモンド・モリス「裸のサル」は、大学の人類学の授業で、ローレンツの「ソロモンの指環」とともに、是非読みなさいと推薦された本。
その頃「ボインはお父ちゃんのためにあるんやないんやで~、赤ちゃんのためにあるんやで~」というのが流行ったけれど、モリスによれば、人類のメスの乳房は授乳には不向きな形状をしており、これはオスを惹きつけるためのもの(尻のコピー)であるという。
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対して、それなら、なぜオスの鼻は突出しなかったのかという反論もある。
昨日の「語り得ぬ世界では、天狗の面の写真を掲載して、「この画像をブログに掲載すること自体、セクハラと指弾されても致し方ないかもしれません」などと書いてましたな。


話がそれたけれど、儀礼的無関心という言葉は、なかなか言い得て妙、なかなか便利な概念だと思う。
もっとも、近頃は、そういうマナーを身につけてない輩がやたら多いように思う。ゴッフマンが現在の日本で研究していたら、この概念は生まれなかったかもしれない。

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