「戦争調査会 幻の政府文書を読み解く」(第二部)

51pjO5tH2DL.jpg 井上寿一「戦争調査会 幻の政府文書を読み解く」の2回目、今日は
第二部を中心に。

第二部は、戦争調査会が残した資料及びそれに対する当時の解説などから、なぜ戦争となったのかを検討している。

生資料はもちろんだけれど、解説も重要な資料である。当時の戦争調査会関係者などが付している解説というのは、ある意味では当時の証言でもあるのだろう。
もちろん調査の方向に一定の偏りを作ったかもしれないが、そうした偏りを認識することにもつながるのであれば、調査会の面々がどう考えていたのかを知ることも興味深いと思う。


昨日の記事に書いたように、調査会メンバーは「領土拡張で行かなくても経済的発展で十分補えた」、それは本当だろうか。これが資料を読み解く基本姿勢になる。

保護貿易と自由貿易
 最初に取り上げるのは、東京商科大学教授猪谷善一「世界貿易の新情勢と貿易学説の再吟味」(728号、1935年4月1日)である。この論稿は高橋財政の成功を数字で確認する。1931年度を100とすると、1934年度の輸出は189.4、輸入は184.7の驚異的な飛躍である。
 つぎにこの論稿は、世界恐慌下の貿易収縮に対する新しい動向として、「不況打開の道を政治的·経済的に従属関係に立つ国々を糾合したブロック経済」の台頭を指摘する。注目すべきはつぎの一節である。「かかるブロック間に於ける貿易は、ブロック以外の諸国に対する貿易に比し、貿易萎縮度が少いか或は増加さえ示している」。
 英帝国特恵関税ブロックに関して具体的な数字を引用する。1931年の輸入、対英帝国28.8%、対ブロック外地域71.2%がオタワ会議をはさんで、1933年はそれぞれ36.9%、63.1%パーセントになっている。輸出はそれぞれ41.1%、58.9%、41.8%、58.2%である。オタワ協定の前後で輸出に大きな変動はない。輸入はブロック内が増加傾向ではあっても、ブロック外からの方が多いことに変わりはなかった。
 プロック経済体制下であっても、ブロック内よりもブロック外との通商貿易関係の結びつきが強い。このようなブロック経済理解は1930年代をとおして、同時代の知識人に共有されていたと考えられる。
 たとえばのちの首相近衛文麿の助言者集団=昭和研究会は、1939年の報告書のなかで、つぎのように指摘している。第一に「世界の各経済ブロックは、自給自足が可能なだけの十分な資源をもっていない」。第二に「ブロック内での生産は、ブロック内で消費しきれないほど過剰である」。第三にしたがって自給自足圏は「空想」に近い。日本はプロック経済に依存することなく通商貿易の自由を求めなければならなかった。
まず、私自身の反省として、学校の授業でも教えられたように思うのだが、日本が戦争に踏み切ったのは世界恐慌後の先進諸国がブロック経済体制を構築し、日本経済がたちゆかなくなったというのが、通説であるかのように言われていて、私もそう信じていた。

その「通説」が前提となるから、戦争に追い込まれた(アメリカの陰謀)から仕方がなかったのか、それでも我慢して戦争は避けるべきだったのかということが論点になる。

負ける戦争と解ってもやらざるをえなかったのか、少しでも勝機があると考えたのかも問題ではある。
負けると解っていたというのは後知恵に過ぎないのか、戦争指導者たちは勝機がないことを理解したうえでデータを捏造して、国を戦争へ引っ張って行ったのか。


ところが、当時の統計(「当時の」は「当時、既に知られていた」である)によると、ブロック経済体制が構築されたといわれる期間において、日本の貿易は大きく伸びていて、決して閉鎖的な経済にはなっていなかったという。つまり、ブロック経済体制で直ちに日本が追い込まれたのではないという。

よく言われる、国内の人口圧力なるものも存在しなかったという。
満州・朝鮮が国内資源に乏しい日本の生命線であると喧伝されていたこと、戦後、満州から帰ってきた人の話はよくきくから、おおぜいの日本人がこれらの地域へ入殖したという印象が持たれているのが普通だと思う。

ところが、実際は日本からこれらの地域へ入殖した日本人より、朝鮮半島から日本へ来た人の方が多い。つまり、領土を広げて人口圧力を解消するどころか、広がった領土から日本への流入のほうが多い。(安い労働力として使ったという面もあるのかもしれないが。)
そして、これも前述のブロック経済体制の過大評価と同じく、当時の人たちにもわかっていたことのようだ。

つまり、経済的には戦争は必然ではなかった。
そして、戦争を回避するチャンスは何度もあった。

Lytton_Commission_at_railway.jpg たとえば、リットン調査団のタイミング。
満州の権益がリットン調査団によって否定されたと当時の政府は考えたというが、調査団の報告を普通に読めば、満州国は否定されていないという。なぜ、この報告が満州国を認めないものと「誤解」したのか、そして国際連盟を脱退することに至ったのか。(本書以外でも、リットン調査団は満州国を否定していないという趣旨の記述を見たことがある。)

中国では、国民党と共産党が争っている。そして共産党はソ連の支援・指導を受けている。ここで国民党を対手とせずというのは、対ソが意識されたものというのが当時の状況ではあったという。しかし、ソ連を敵国とするのであれば、国民党をこそ支持すべきだった。
さらに、その過ちに気付いて、事態の収拾にかかっている矢先、なぜか近衛首相は、国民党を対手とせずと、誤った判断をさらに強固にする発言をして、完全に中国を敵に、そして国共合作を誘導してしまった。

Kougun_futsuin_shinchu.jpg そして仏印進駐。
日本を決定的に追い詰めた事件は、日本軍が仏印に進駐したことだという。
米国の石油禁輸に対して、南方資源の確保を目指したと説明する人がいるが、石油禁輸は仏印進駐の後のことである。
それより英米を刺激したのは、仏印への進駐は、英領インドシナ、米領フィリピンなどへ直接攻撃が可能な拠点を築くものと判断されるものだからとする。

今でいえば、南沙諸島海域における人工島建設のようなものをイメージすればよいのかも。


このように日本を後戻りできない場所までもっていった仏印進駐なのだが、これにいたる意思決定がまた摩訶不思議だという。
陸軍が北進、つまりソ連への侵攻を希んだときに、北はやめろ、そのかわり南進なら認めるというのが大本営筋の意見だったというのだが、どうしてそんな判断ができえたのか。
そして、これによって石油を断たれ、経済制裁をくらう。もう戻れない。

はじめに
 
第一部 戦争調査会とその時代
Ⅰ章 戦争調査会の始動
Ⅱ章 戦争調査会は何を調査するのか?
Ⅲ章 戦争回避の可能性を求めて
Ⅳ章 未完の国家プロジェクト
 
第二部 なぜ道を誤ったのか?
Ⅴ章 戦争の起源
Ⅵ章 戦争と平和のあいだ
Ⅶ章 日中戦争から日米開戦へ
Ⅷ章 戦争の現実
 
おわりに
 
参考文献
あとがき
以上まとめると、日本は、経済的に追い詰められて戦争に踏み切らざるをえなかったというよりも、東アジアにおいて列強は領土主義をとっていないにもかかわらず、日本のみが領土拡張主義をとりつづけたこと、それに対する帰結としての経済制裁が、日本を行き詰った状況にしたのだという。

前の戦争を正当化したい人たちは、開戦に追い込まれたと言いたいらしいのだが、そちらのほうが後知恵というか、失敗を糊塗しているだけのように思える。
戦争調査会の記録を追いかければ、英米に追い込まれたからではなく、自分たちがにっちもさっちもゆかなくなるまで、まともな意思決定をしなかったために、自分で自分を追い込んでしまった姿が浮かんでくる。
そして、最終的には、戦争を合理化するために、戦争に向けての既成事実を作り、全国民が「しようがない」とあきらめるところまでもっていった。

自己合理化行動である。政策を正当化するために既成事実を積み重ねるという倒錯した国家運営である。

現在の政治でもこの手法は多いようだ。


「負けるとわかった戦争」というのは、彼我の経済力・軍事力の差だけのことではない。意思決定の不透明さ、腰の据わったポリシーの欠如。弱いものは弾圧するが、強いもの同士は馴れ合いで無責任体制。これでは、経済力や軍事力が互角でも負ける。

こう見てくると戦争突入は、「予言の自己実現」だったのかもしれない。
それを飾るのが、データの捏造と反知性主義。
現代の政治にも、これらはフルセットで揃っている。

情勢を正しく理解する理性を持った人たちがたくさんいながら、意思決定にはそれらが役にたたない。このメカニズムはなんなんだろう。

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