「戦国大名と読書」

昨日に続いて小和田哲男氏の本、今日は「戦国大名と読書」について。

4760143386.jpg 昨日の「戦国の城」という本は、あんまり力が入っていないような、著者というより監修者ではないかと評したけれど、こちらは丁寧に書かれている。

この本については、以前、新藤透「図書館と江戸時代の人びと」の記事中で言及したことがある。そのときから機会があれば読んでみようと思っていたところ、地元図書館にあることに気づいて借りて読んでみた。

小和田先生は、この頃は歴史研究者というより、解説者という雰囲気になられているようだけれど(昨日の本など)、この本は、他の多くの研究者の研究成果を眺め渡してまとめられている。それらの個々の論文等は素人の歴史好きにはそうそう目にとまるものではないと思うから、こうやって集成して本にするというのは、大御所の先生の独擅場と言えるかもしれない。歴史好きの興趣をかきたて、個々の研究者の評価にもなるというわけだ。

ただし、引用が丁寧で、漢文と読み下し文で収録されているので、私のような漢文苦手読者にはちょっと厳しい。素人向けには、読み下し文だけ、あるいは大意だけでも良さそうに思う。まぁこうした引用は著者の良識のなせるところとは思うけれど。


1 教育者としての禅僧の役割
2 どのような書物を読んでいたか
3 実践に応用された「武経七書」
4 戦国武将にとっての占筮術
5 幅広く読まれていた中国の典籍
6 『平家物語』と『太平記』
7 武将たちはなぜ王朝古典文学を読んだのか
8 漢詩・和歌と戦国武将
9 徳川家康の愛読書と印刷出版事業
もちろん本書で言うところの読書は、消費的・刹那的読書というわけではない。戦国武将としてのお勉強という実利的なものが中心である。

まず、武将の読書というものは、子供の頃には教育係が付いて行われる。それが、本書の第一章で示される。有名な戦国大名には、いずれも後世に名を残すような教師、その多くは禅僧がついて指導する。

「心頭滅却すれば火も亦た涼し」で有名な快川紹喜、その弟子で伊達正宗の師である虎哉宗乙は言うに及ばず、肖像画が残るような、いずれも名僧といわれる人たちが並ぶ。

大河ドラマでも、武将の子供時代から描くような場合、たとえば独眼竜正宗では虎哉禅師の存在感は大きかったけれど、武将の人生ではその一時期ということだろうから、そうそうドラマにはでしゃばってこないようだ。

武将と一生あるいは長期間寄り添うというわけでもないからかもしれない。こうした名僧というのは、引く手あまたらしく、地方と京をいったりきたりしているようだ。もっとも、今川義元もそうだが、世継ぎから遠かった場合は、京都で教育を受けた武将もいるわけだが。

義元といえば、太原雪斎のように、教育だけでなく、ひきつづき軍師・参謀のような役割で仕える人だと、でずっぱりで、大河ドラマの主人公あるいは準主役にもなれるかもしれない。(「直虎」では扱いはそう大きくなかったけれど)


前述の虎哉禅師などのイメージからは、子供の頃の教育ばかりのように見えるけれど、師とのつながりは長じてからもあり、そうした人脈も政治的に利用することもあったようだ。

たとえば、直江兼続は、関ヶ原の直前に藤原惺窩に教えを乞おうとしたという。藤原惺窩はおそらく敏感に危ういものを感じたのだろう、はじめは会おうともしなかったが、兼続が京を去るところを追いかけて面会をしたところ、兼続からは「倒れそうなものを助けるのはいかが」というような問を受け、やはり答えることはなかったという話が紹介されている。


ところで、禅僧というけれど、彼らは武将たちにお経を教えているわけではない。お経も教えただろうけれど、それよりも中国の古典、儒教関連や史書を教えていたらしい。
考えて見れば不思議な話、お寺で儒教や殺生(兵学)を教えるのだから。

寺は、奈良時代からの伝統を継ぐものであれば、研究教育機関、今の大学みたいなものだから、念仏をするわけではないのだろう。浄土系だと似合わないかもしれないが、禅寺だと学究的雰囲気が満ちていて、仏教も儒教も、あるいは古典研究も寺に似合うのかもしれない。また、禅宗と儒教には、なにか通ずるところがあるのかもしれない。


というわけで、武将たちは、治政のための儒学書、軍事のための兵書を読む。これは当然のことだろう。実際、多くの合戦で、孫子に則った戦い方がされたことを確認できるという。
また、本書によると、日本の本でも、平家物語や太平記も良く読まれていた。
徳川家康は、源平盛衰記、吾妻鏡が愛読書だったとのことである。

これらは武将としては当然だろうけれど、意外に思われるのは、源氏物語や伊勢物語などの王朝文学も読まれていたという。
本書によれば、これらの王朝文学は、連歌を行う上での必須の教養であるとする。そして連歌は、合戦前には一種の呪術・願かけとして行われ神社に奉納されることが多い。つまり、武将には連歌の嗜みが必要で、それには王朝文学への造詣が必要、という三段論法が成り立って、源氏物語や伊勢物語が読まれることになるという。
実際、武将たちがこれらの写本を精力的に収集・作成、校閲している。

ちなみに本書では明智光秀の「愛宕百韻」について、里村紹巴が付けた句は源氏物語を踏まえたものであるとし、平氏の信長を光秀の源氏方が討伐するという意味が隠されているという。


ということで、軍略、儀式、治政のための実用というのが戦国大名の読書というのがだいたいの傾向のようだけれど、そういう教養を身に付けると、やはり文人として、教養自体を楽しむ傾向が出てくるものと見える。

ここからは私の単なる想像だけれど、和歌や漢詩の嗜みというのは、また違う意味がありそうに思う。太田道灌と山吹の花の伝説も、軍略や治政というより、風流の範囲のように思う。
思うに、和歌や漢詩の嗜みは、部下たちに、うちのお館様は教養があるとか、京都ともつながった権威筋だと思わせる効果があったのかもしれない。

和歌というと軟弱な感じもするけれど、その点、漢詩だと部下たちも、ようわからんけれど、ありがたみが高かったかも。

その漢詩では、信玄、謙信、伊達正宗、直江兼続といった連中は漢詩もものした。

ただし小和田先生によると、謙信の有名な「九月十三夜 陣中の作」(霜満軍営秋気清…)があるが、謙信作というのはこの一つしか見当たらず、ひょっとしたらこれは謙信に仮託して作られたものではないかという。
その点、兼続の漢詩は数も多く、戦国から泰平の世への橋渡しとなったものと評価されている。


というわけで、戦国から泰平の世へ移行するにつれ、軍略という実利から、だんだんと風流・文雅へと重点が移っていく、というか、軍略のほうも畳水練というか、実戦から遠くなっていくように思える。
これにはやはり飛び抜けた読書人である家康という人が時代をリードし、範を垂れたのではないだろうか。

加えて、おもしろいのは、家康と直江兼続は、どちらもなかなかの蔵書家として交流があり、いくつかの本について、家康が兼続なら持っているのではと問い合わせたりしているという。
いうまでもなく、関ヶ原の契機となった「直江状」、その原告と被告の関係のこの二人である。こんなところにも家康の懐の深さ、兼続の人品を評価する態度が、うかがえるように思う。

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