同盟国を選ぶ基準

20150727_0047.jpg いわゆる「安保法案」が参議院で27日、審議入りした。
国民の理解を得るため、審議ではしっかりとした質疑をするという話である。

一方、法案の反対運動も引き続き活発である。
しかし反対運動のトーンとして、戦争はイヤ、子供を戦場に送るな、というだけでは論理的な強さを感じない。
かたや、「法的安定性は関係ない。わが国を守るために必要かどうかが基準だ」という発言が出て、また冷静な議論から外れていく。
相変わらず、このあたりの議論は非平衡(「平和主義とは何か」)なようだ。

当然だけれど、外国が理不尽にも日本に攻めてきたら戦争状態になるが、それでも戦争はだめというのかと言われたらどうか。
もちろん戦争絶対反対論者であっても、そうした事態にあって抵抗することを否定はしないに違いない(絶対無抵抗主義の一部宗教は別として)。ただ彼らはそれを戦争とは呼ばないというだけの話であろう。ここにも言葉のすれ違いがあるようだ。

前の戦争については、日本はやむをえず戦争をしたのだという人達がいる。
こういう人達は、満州、台湾、朝鮮を失ったら日本は生きていけないと言っただろうけれど、このすべてを失っても日本は高度成長を実現し、世界有数の経済大国になった。もちろん人口も戦前をはるかに上回った。
つまり、「やむをえず戦争をした」というが、やむをえないと思っただけで、実際は別の道もあったと推測するに十分な証拠である。
安易に「やむをえないから戦争」という判断をしない、つまり国家の手を縛っておくというのが平和憲法の意義だろう。平和憲法も実力で侵略されるようなことがあったら実力で対抗することは否定しない。

それはそれとして、日本に対するアメリカをはじめとする諸外国の世界の安全保障に協力せよという圧力も看過できない。
以前、集団的自衛権と集団安全保障は、似ているけれど別の枠組みであるという論を紹介した
しかしそういう視点は、このところの報道などでは全く見受けられない。私は集団安全保障に参加する上で、集団的自衛権を否定できないのであれば、その範囲、つまり制約条件付きでの権限行使を規定すれば良いと考えているのだけれど、それでは安倍首相の思いは実現できないのだろうか。

集団安全保障、実状としては国連へ安全保障を委ね、それに協力することが不十分だという論拠はもちろんある。湾岸戦争でもそうであったように、国連軍ではなくて多国籍軍というトリッキーな作戦行動への参加である(湾岸戦争の正当性はちょっと措いて)。

で、反対論者は言う、「アメリカの戦争に巻き込まれる」と。
集団的自衛権というのは、それを認めたら、無限定に同盟国に協力しなければならないのか? そうではないだろう。集団安全保障への参加については、特定の同盟国の意思に従うわけではないから、平和主義的なメカニズムが組み込まれると思うが、特定国との同盟でも、同様の平和主義的な規定を持ち込めないのだろうか。

集団的自衛権⇒同盟国の戦争に巻き込まれる、という論理はちょっと短絡的すぎると思う。
そういう「原理主義」的な主張だけでは、現実的な着地点なんか見つけようもないだろう。そして、国会ですらそんな議論―大人の議論とは思えないをやっているなら、ただの税金の無駄遣いだ。(そして最後は強行採決か)

集団的自衛権が日本にあるかないかと言えば、それは、各国が持つ権利と同様という意味で、日本にもあるだろう。ただ、日本はその行使を自ら平和憲法によって制限している(これをアメリカの押し付けという論は措いておく)。しからば、集団的自衛権の有無そのものを問うより、どういう限定の元でならその権利が行使できるのか、という論議を行うのがまともな話だろう。

集団的自衛権を、{認める・認めない}
集団的自衛権を認めた場合、{無限定に行使する・制約の下に行使する}
集団的自衛権を制約の下に行使する場合、どういう法秩序を用意するべきか


反対者が言うような「同盟国の戦争に巻き込まれる」に対し、そんなことにはならないというなら、それを明確にすることが反対者への回答になるだろう。つまり、同盟国が勝手に起こした侵略戦争には付き合わないという停止条件を付ける工夫が、安定した安全保障体制になるのではないか。「そんなことにはならない」と口先で言うのだけでなく、それを同盟関係の中でどういう約束として明文化するかを検討するべきだろう。それを曖昧にしていたら、現実的な「合意」あるいは「着地点」は見つけられず、多数決というあやまった意思決定を強行することになる。

かつて日本がロシアと戦争をはじめたとき、日英同盟があったけれども、英国はロシアと直接戦闘行為はしなかった。もちろん日本の戦争遂行に協力もしたし、バルチック艦隊のスエズ運河通行を認めなかったとか、石炭供給も質・量を制限したなど、ロシアへの妨害は行ったけれど。
なぜ日英同盟は可能であったのか、同盟関係は無限定な運命共同体でなければならないという理屈ではない証左ではないだろうか。日英同盟の時代は戦争はもっと「普通の」国際関係の一つでしかなかったにもかかわらず。

現に日米安保は同盟だというが、それによって日本がアメリカの海外戦争に付き合う必要はないだろう。これは集団的自衛権は行使しないという従来の憲法解釈にも整合的だと思うのだけれど、なぜ日米安保を認めた砂川判決が集団的自衛権の根拠になるのか、良くわからない。


そしてそういう条件付きの同盟ならまっぴらだという国とは同盟する必要はない。むしろ、そういう国にとっては日本との同盟は、自らの行動を縛ることになるから、安易に日本とは同盟できないだろう。つまり、集団的自衛権の抑制的使用は、国際平和に貢献することになるかもしれない。
一緒に戦争してくれる国と同盟して、敵陣営を滅ぼそうなどということはできない理屈にもなる。
(第一次世界大戦で、日本は連合国側に入って、弱ったドイツを敵国として中国のドイツ租界を攻撃した、そういうやりかたは認めないということ)

つまり、同盟国は選ばなければならないのだ。そして選ぶ権利は日本にある。
同盟国は日本と同程度の平和主義国家でなければならないというのがその条件ではないだろうか。(侵略国家と同盟するなんて、口が裂けても言えないだろう)
また、同盟する場合は、それを逸脱した場合は、同盟の破棄または、逸脱行為には付き合わないことを明文規定すれば良いのだ。
同盟国には、ともに国際平和を追求するパートナーを選ぶべきだ。

ここまで同盟国と書いてきたけれど、要するにアメリカである。
となるといろいろ問題はある。前述のような日本と同等の平和主義国家ではない。先制防御理論(やられるまえにやれ)という国である。大量破壊兵器があるといって侵攻してはばからない国である。

そして、アメリカは、ISに対して宣戦布告をしているといっても良いだろうし、アルカイダについてもそう。
ということは、米国は既に戦争状態にあるわけで、これら勢力からの攻撃は、相手の立場で考えれば同盟国を攻撃する大義名分があることになりはしないか。
(もちろんテロを正当化するわけではなく、戦争状態にあるかないかの話)
議論上気をつけなければならないのは、まずISと武力で対峙する覚悟があるかないかを確認したうえでのことだけれど、アメリカと同盟したからといって自動的にISとの戦争をしなければならないわけではないということ。 無限定な同盟はもちろんそういう結果を招来するだろう、そうしたいのか、それともそうならない国際秩序を考えるのか、一体どっちだ?

また米国は世界中に基地を持っている。この基地への攻撃は米国への攻撃とみなせるのだろうが、日本は国外に基地はない、危険度も違い過ぎる。沖縄の米軍基地への攻撃は日本への攻撃か?

具体的に米国を相手とする場合、こうした疑問はたくさんでてくる。なのに「そうはならない」の一点張りでは本当の理解には至らないのではないか。そして反対論者も、こうした具体的な論点をぶつけてみてもらいたい。ただ、その前に、集団的自衛権をどのように自ら制限し、同盟国の戦争協力にはどのような制約を設けるのか、といった、見様によっては妥協的な議論を怖れてはならないと思う。

ところで、ホルムズ海峡が封鎖されて日本に石油が来なくなったらそれを実力排除する(つまり掃海する)ことを想定していると仰っていて、これって戦争を始めると言うことなのだけれど(これは前の戦争でアメリカに石油を止められた記憶だろうか)、集団的自衛権となんの関係があるの?

長い記事になって、整理されていないが、賛成論者には「最後は数で押し切れば良い」という姿勢が感じられるし、反対論者には原理主義的な「戦争は悪」という態度が感じられる。特に反対論者は、現実的な合意点を探ると戦争を肯定したとされ、支持を失うと思っているのかもしれない。しかし、それこそ、戦争への道かもしれない。
政治というのは、妥協の技術ではないのだろうか。

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