行政サービスゼロ地域

chihoushoumetsu896.jpg 2年ほど前、「地方消滅」が大きな話題になった。その後、「消滅する市町村」の推計そのもの、選択と集中(消滅する市町村を救うのではなく、中核都市への集約を進める)という施策方向、その他さまざまな観点から、賛否両論が湧き起こっている(特に村おこしを頑張る人からの拒否)。ただ、「消滅する」というショッキングな話が、地方のありかたについて真摯な議論の契機になったということは間違いない。

私は、かつては今より人口がずっと少なかったにもかかわらず、高山などを除く、殆ど至る所が耕作あるいは植林されていたという歴史的事実を重く受け止めたいと考えている。
もちろん、我が国の生産活動の主力が、第一次産業から、二次、三次へと移ってきたことが、現在の偏っていると見える(*)土地利用を生んだ主因だと思うし、さらにTPPによる農産物の自由化などが、それに拍車をかけるだろう。

(*)「偏っていると見える」としたのは、偏りは地価によって調整されるわけで、経済的価値からすれば偏りなど原理的に存在しないという見方も可能だからだ。ただ、こういう見方は経済の世界で正しいと言えるかもしれないが、人間が生きる世界を相手にしたときにも正しいかどうかは別問題である。
経済学は自分の土俵でしかものを語らない。


こういうことを考えていて、ふと思った。
地方消滅、消滅する市町村というのを逆手にとったら、おもしろい話が作れるのではないだろうか
消滅大いに結構、それなら日本国からは消滅した地域を作ってもらおう。そこには日本国の行政体系で言うところの行政機構はない。当然、行政サービスもない。その代わり税金もない。

「選択と集中」を主張する人たちは、消滅するような自治体を支援することは税金の無駄遣いであるという。ならば一銭の税金も投入せず、したがってそこからの収益も期待しない、それこそ「選択と集中」派の根本にある経済合理性に沿ったものなのではないか、そういう地域を「行政サービスゼロ地域」としたらどうなるんだろう、それを考えてみようということだ。

私には「選択と集中」には、多様性を認めない価値観、経済観がベースにあるように思える。それは先に述べたように、自分の土俵でしかものを判断しない単純な経済合理主義の陥穽である。しかし、ここでは思考実験のツールとして経済合理性を重視するほうがおもしろい話が作れそうだ。


ところで、日本国から完全に切り離して「吉里吉里国」(井上ひさし)のような独立国にすれば、事態は単純化できるかもしれないが、日本国政府がそれを容認するとは思えないし、やはり国民として保護される以上、所得税等の国税は負担しなければならないだろう。その代わり、その税金が投じられる国の保護、各種のサービス、補助を受ける資格はあるだろう。

これは案外重要なことである。たとえば教育サービスについて、公立学校が利用できないから私学を使うとしても、その私学には国庫補助が入っている。国税を納めていれば、他の普通の市町村の住民と同じように、その国庫補助を受けることを批判されないだろう。


国政との関連といえば、「代表なくして課税なし」という言葉があるように、国政への参画は保証されるべきだろうが、現在の選挙制度では、自治体への帰属が選挙区への帰属も決定する。行政サービスゼロ地域ではどうしたらよいだろう。
選挙に限らず、国政にかかることの多くが、自治体が国の機関として働く実態がある。これらは行政サービスゼロ地域に対するものも同じようにサービスすべきだろう。
どこがそうした国政由来の事務を担うかは、消滅市町村を創り出した日本国の責任として解決しなければならないと思うが、行政サービスゼロ地域でも、前述のように国税は納めているわけだから、それを担うところには、直接経費あるいは、委託先が市町村なら交付税や事務委託費などの形で国費を使えば良い。

と考えてみると、ただの妄想にしても、行政サービスゼロ地域は、地方行政の論点を浮き出させるのには、案外、良い作業仮説かもしれない。

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