「右傾化する日本政治」

nakano_ukeikasurunihonseiji.jpg 言葉で書くと遠く隔たっているけれど、ある種の心理的メカニズムが働いて実は通じている、そういうことがある。
「小さい政府」と「巨大な権力を持つ政府」がそれである。

言葉の上では、この2つは対極にあるように見えるのだけど、我が国で起こっていることは、小さい政府を標榜して規制緩和を推進した勢力は、立憲主義さえも葬ろうとするほど巨大な権力をふるっている、そういう状況のように見える。

おそらく「小さい政府」のビジョンには、その言葉を使う人の間でも大きな隔たりがあったのだろう。
それは、リベラルの精神でのそれなのか、権力意識の延長に過ぎないのかということではないだろうか。

なお、上記とは異なり、巨大な官僚機構に喧嘩を売って、政治主導を進め、結果、統治能力そのものを喪失し、政治の主導力のなさを露呈する結果となった例もあるけれど、これはリベラル云々以前のビジョンなき権力志向の産物だろう。


リベラルな心性というのは自然に育つものではないようだ。
私は、リベラルに近いと自分でも思うけれど、これは権力者が否定に躍起となっている戦後民主教育の影響だと思う。
ただ、ことっておくが、戦後民主教育には、戦前教育の残滓というか習慣も残っていて、日の丸、君が代はアタリマエだったし、卒業式は「仰げば尊し」であった。
外国、たとえばアメリカでは教室に星条旗が置かれているのがアタリマエであると教えられ、日の丸に敬意を払うのは当然であると教えられてもいる。

つまり、日の丸を大事にすることと、リベラルであることは、何ら矛盾しないのだけれど(それはリベラルな米国人が星条旗を敬うのと同じ)、どうも昨今は、リベラル=非国民と断罪されるような風潮を感じ、私などは肩身が狭い。かつて言われていた「逆コース」である。
そういうわけでか、今や我が国の政界では、リベラルは死に絶えた観がある。

ただし、この国の権力を持っていて、リベラルを否定する風潮を作っている人たちは、完全な米国追従外交を推進されているようなのがおもしろい。
米国も、非民主国家でも、非人権国家でも、国益のために必要なら同盟関係は維持すると思う(これらの非をならすのは、攻撃の口実になるとき、つまり攻撃したいとき)。


さて、中野晃一「右傾化する日本政治」(岩波新書 2015年7月)についての感想はとても私の能力に余る。
前述のようなことは、この本を読みながらふと思ったことである。

タイトルに興味を持たれて訪れてくださった方のために、本書の一部を抜き書きしておく。
  • 冷戦の終結とともに五五年体制の保革対立が解凍されると、政党システムの流動化を経て小選挙区制の作用により二大政党制が登場し、有権者による政権選択を通じて、新右派転換が強化した国家権力に対するチェック・アンド・バランス機能が行われると謳われた。しかしオルタナティブとして育ったはずの民主党の崩壊により、戦後かつてないまでに政治システムがバランスを失い、首相官邸に集中した巨大な権力だけが抑制の利かないかたちで新右派統治エリートの手に残り、今それがさらに憲法の保証する個人の自由や権利を蝕む反自由の政治へと転化し、またその度外れの歴史修正主義で日本の国際的孤立を招きつつあるのである。これが右傾化する日本の政治の現実ではないか。だとするならば、対抗勢力を欠いたままでは、安倍政権の後も小休止をはさんで、さらにとめどなく右傾化が進んでいくことになる。
  • 開かれた公共財としての政党の構築をおろそかにしてきたことにより、脆弱な民衆的基盤しか持たなかった民主党は、……
    ……政局ひいては政界再編という名の次なる「個人商店」の離合集散が画策される事態に至ってしまった。
昨年7月に出た本だけれど、この絶望感に満ちた予測どおりというか、それよりさらに深刻かもしれない。
民主党がついに無くなった。民進党というのになったそうだ。近年はリベラルを標榜するに値しない政党になっていたようだから、これで良かったのかもしれない、政党としては。
被害者は、ついに選択肢を失った国民ということになるのだろう。

関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

Gallery
検索フォーム

⇒記事一覧

プロフィール

六二郎。六二郎。


定年退職
苦しい家計の足しに再就職
=いつクビになってもええねん
 言うたもん勝ちや!のブログ
リンク
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
アーカイブ
カテゴリ
タグ

書評 ITガジェット Audio/Visual マイナンバー 

現在の閲覧者数
聞いたもん