博愛なき経済学者

前の「新自由主義の帰結」の稿で、

法には慈悲がなくてはならぬ。
ならば、経済学には博愛がなくてはならないだろう。

と書いた。

economist-with-mask.png 博愛精神のなさそうな経済学者というのは、どんな人か、先日、見るともなく見ていたバラエティ番組での経済学者の発言に、思わず聴き入った。

番組の中心テーマは、「下流老人」とか「格差」の問題だったけれど、件の経済学者は、日本の格差は小さい、縮小しているという。そのこと自体については、素人が口を挿むようなことではないかもしれないが、その学者は「失業率が下がっている」ことを論拠にしていた。
これには耳を疑った。

失業率という数字自体は評価が難しい要素を持っていて、これは仕事を探していたのに職に就けなかったという人の割合だというから、職探しをあきらめた人は分母に入ってこない。高齢だとか病気だとかでハナから職探しをしなかったという人は除かれると思う。昔から日本の雇用統計は失業率が低く出るという話も聞いたことがある。

ただ、ここで思うのは、失業率の評価のことではなくて、今、社会的に問題となっている格差とは、働いても得られる収入が少ない(サラリーマン年収300万円時代)とか、非正規雇用で給料が低く抑えられているというようなことではないのだろうか。
ならば、失業率が低いから格差が小さいとは言えないだろう。

不本意就労も含めた失業率という考え方もある。総務省調査では、非正規労働者2割(年代によっては4割)は不本意就労という。


habuyoshihar-pepper.jpg 経済学の難しい理論はわからないけれど、経済学者が、目の前の貧困の現実を認めない態度や、貧困を放置して良いという論理を展開するなら、博愛精神に欠けると言えるのでは。そういう経済学は信用してはいけないと、私は思う。
前に書いたことの繰り返しだけれど、理論の正当性を証明できないのなら、理論の結果に対して責任を負い、それによって評価するしかない。

というか経済学者によって真反対の経済分析、経済政策が唱えられること自体で、既に理論としての信憑性はガタガタだけど。
デフレについても、お金の値打ちが上がっているからお金を持っておこうと考えるのか、物が安くなったから値上がりする前に買っておこうと考えるのかだって、実はわからないんじゃないか。
均衡点の存在証明ができたとしても、それを具体的に求めることはできないという問題がつきまとう。
(実は均衡点は常に実現されているがそれは激しく揺れ動いている、つまり均衡とは何かの言い換えでしかないということかもしれない。)


2016-05-18_082348s.png 経済理論は、クロをシロと言いくるめるためではなく、クロだったらそれをどうやってシロに変えることができるのか、そのために使えてはじめて人類の知的財産になるだろう。
おかしいと思う感性、それが博愛精神というもので、すべての経済学者が持っているべきものだと思う。

奇しくも同じ日の夜、羽生義治と人工知能の対決を取り上げた番組(NHKスペシャル「天使か悪魔か 羽生善治人工知能を探る」)があった。
ソフトバンクのロボット"ペッパー"をベースにした「感情を持つ」という試作機が羽生名人と将棋を指すのだが、ペッパーは負け続ける。
2016-05-18_082000s.png おもしろかったのは、ペッパーの「感情」というのが表示されるのだけれど、ペッパーは初めは負けて悔しがるのだけれど、負け続けているうちに、負けても喜びの感情が大きくなったということ。
説明では、ペッパーは自分が負けると、周囲の観戦者が喜ぶ反応を学習して、自分が負けることが良いことなんだと判断したのではないかとのことである。

経済学者よりペッパーの方が、ずっと人間的である。
やっぱり人工知能で代替できない職業は、経済学者、エコノミストのようだ。

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