民族文化はその民族に排他的利用権があるか

日本人の我々が、海外の人が「日本風」と考えるものに違和感を持つことは少なくない。

日本特殊論を言いたいわけではなくて、これはどこの国でも同様で、「他国人が『○○風』とするものは○○人には違和感が感じられる」と一般化されるのではないだろうか。


Mehter_march.jpg さて、今回もまたグッドール「音楽の進化史」から。
ロマン派の終りぐらいから、国民楽派はもちろんのこと、民族音楽に題材をとった作品というのがたくさんでてくる。

もちろん異国情緒ということでは、そんな時代を待たなくても、モーツァルトにも「トルコ風」はあるわけだけれど、トルコには行ったことがないモーツァルトが当時の西洋で「トルコ風」と考えられていたスタイルを採りいれただけで民族音楽をもとに作ったわけではない。

「トルコ風」というのは、二拍子あるいは四拍子系で強拍が明確、それに打楽器(的響き)が伴うものと私は理解している。


バルトークのようにルーマニアで生まれ、ルーマニアの民謡を収集したというのは別にして、多くの作曲家が自身の出自とは直接関連しない民族音楽を使用することについて、グッドールは正当性があるのだろうかと自問自答している。

我々がハンガリーといって思い出すのは、ブラームスのハンガリー舞曲かもしれないが、ブラームスはハンガリー人ではないし、ハンガリー民謡の一部をとって舞曲にしたものを、ハンガリー舞曲と呼ぶことに躊躇いはないのか。
あるいはハンガリー狂詩曲は、作曲者リストはハンガリー生まれだけれど本人はコスモポリタンでしかなく、ハンガリー臭さはなかっただろう。
ドビュッシーは、パリ万博のときに、インドネシアの民族音楽ガムランを熱心に研究したという。もっともガムランの情趣がそのまま聞こえる曲は、私は知らないけれど。

300px-Virginia_Minstrels,_1843 アメリカの黒人から生まれたソウル・ミュージックを白人が演っても良いのか、という話にも通ずる。黒人の魂が白人にわかるはずがない、表現できるはずがない、である。

フォスターが白人だと知ってショックを受けたという黒人の話もあるけれど。


グッドールは、そのいずれも不当なこととは考えていないようだ。
民族文化はその民族に排他的利用権があるというわけではない。

民族音楽を「題材にとった」のであれば、それは外部者としてふるまっているわけで、なりすましたということにはならないと思うけれど、「そのもの」となると、抵抗があるかもしれない。

グッドールは指摘していないけれど、もう一つの重要な観点もあると思う。
Isramic_Azahn.jpg それはたとえば、イスラム教徒でないものが、アザーンを朗唱しても良いのだろうかということである。

思えば、キリスト教徒でもない日本人が、メサイアやミサ曲を歌う。もちろんそこには神を敬う気持ちが入っているだろうけれど。

「あんたゴリラ、ゴリラの子(And the glory, the glory of the Lord)」なんて歌ってはいけない。


それはそうとして、アザーンを純粋に音楽的に鑑賞するというようなものは知らない。
その宗教的意義をはずれたところで歌われても、それはアザーンではないということはそうだとして、そのこと自体が許容されているのだろうか。
YouTubeにはアザーンはたくさんアップされているから、聴くことに不自由はしないけれど、宗教的体験から離れて、音楽として鑑賞することに対して、イスラム信者はどう考えているのだろうか。

そういえば、東大寺のお水取りや、比叡山の声明のCDなんかも販売されている。
ネットで検索すると、「黛敏郎構成による東大寺お水取り」というのがあったりする。また、私はよく知らないのだけど、声明を題材にして構成した楽曲というのもあるだろうと思う。
天理教には、山田耕筰作曲「交響詩おやさま」というのがあり、宗教行事で使われる歌を採りいれて、オラトリオ風に作られている。(もっとも、そうした歌はそもそも奈良県の民謡をもとにしている)
これらは他の民族の文化というわけではなくて、音楽として鑑賞しても指弾されることはないと思うけれど。

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