司馬遼太郎が描かなかった幕末

ichisakataro_shibaryo.jpg 一坂太郎「司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰・龍馬・晋作の実像」という本を読んだ。
国民的作家の影響力について警鐘を鳴らした、というものである。

司馬遼太郎の小説に盛り込まれている話には、事実とは異なるものがあるという指摘は、以前にも何かの本で読んだ覚えがある。もちろんそれはストーリー全体の流れでは大したものではなかったと思う。
この本のタイトル「描かなかった」というのは、史実からはこういう解釈ができるというスタンスで書いているのかと思ったのだが、もっと手厳しい。

自分に都合の良いストーリーを組み立てる上で、不都合な真実は隠蔽するというのは良くやられる方法である。作家に限らず、政策立案者というのもだいたいがそうではないだろうか。

だからこそ、有能な野党は、そうやって隠蔽されている事実を提示して、ストーリーを破壊しなければならない。ところが、そうした情報収集・分析能力を欠いて、ポーズだけで、口先の反論や揚げ足取りをしているようでは、野党の仕事を果たしているとは言えない。


本書で糾弾の対象となっているのは、次の2作品。
  • 吉田松陰、高杉晋作を描く『世に棲む日日』
  • 坂本龍馬を描く『竜馬がゆく』
本書では、司馬作品には、事実の隠蔽(小説を書いた当時には知られていなかった史実というのもある)だけでなくて、史実とは異なるものが散見されるという。
こうした細工は、おそらく主人公を英雄として描くためのものなのだろうという。

そして、司馬作品の問題は、小説の流れを一旦止めて解説風に挿入したりするから、読者は史実と創作の区別がつかなくなるという点にあるとする。中には「史料」の引用を装った書き方がされているものも指摘されている。
一坂氏は、司馬遼太郎(いわゆる司馬史観)を全否定しているわけではないとことわっているが、実際に主人公たちと同じ時代を生きた人達が、正当に扱われていないということには憤り(個人的なものもあるかもしれないが、歴史理解を妨げることとしてだろう)を持っているようだ。

大物政治家が尊敬する人物に龍馬をあげたりするのは、ほとんど「竜馬がゆく」の影響だろうという。
また、学校の社会科よりNHKの大河ドラマの方が教育に良いなどと暴言を吐いた大臣がいたが、これも同様だろう。


私としては、興醒めかもしれないが、小説として面白くするための史実の変更については、作家がはっきりとその旨を表明するべきだろうと思う。以前、永井路子氏が「草燃える」の頼朝による政子の略奪シーンを、史実は違うけれど、おもしろくするためにそうしたとお断りしていた話を書いたけれど、歴史小説(時代小説ではなく)なら、そういうやりかたをしたほうが良いように思う。

たとえば、高杉晋作は奇兵隊に農民なども加えたことから、民主的で非差別主義者のように評価されがちだが、実際は、民主的思想を背景に農民を加えたわけでもないことは、隊内の差別的待遇が示しているとする。

だからといって高杉を否定する必要もない。仮に兵力確保のためとはいえ、農民を隊に加えるという発想自体が時の常識を打ち破るものであったし、そもそも民主化が目的ではなく、長州を守ることが目的であったはずだから、その行動は評価されてしかるべきだと思う。また、現代の価値基準で単純に評価することは、歴史を理解する上では邪魔になるだろう。

龍馬についても「船中八策」はなかったとするほか、有名な事蹟についても、そのとき龍馬はこの場にはいなかったという史実をつきつけてくる。

と、本書の評を書いてきたけれど、実は、私は司馬遼太郎作品をあまり読んでいない。随筆・評論の類はともかく、小説となると「坂の上の雲」ぐらいである。
若い頃はSF、ついで純文学ばかり読んでいた。社会人になってからは小説は遠ざけるようになった。


司馬遼太郎は惚れっぽいのだろう。
歴史に名を残すような人物には、やはりそれぞれ見どころがあるに違いない。でないと龍馬と新撰組のどちらにも肩入れできようはずはない。

司馬作品の幕末ものといえば『燃えよ剣』もある。このときは土方に肩入れしていた?


ただ、こうも思う。
史料というものも人間が書いたもので、その時点で既に何らかの価値基準で書かれているだろう、自分が目撃したことだって、実際はどうだったか、結構あやしいものもあるだろう。
その事件の当事者のどちらに肩入れするのか、既に存在した流言飛語を事実として記載するのか。
そういう意味で、司馬が伝説を作ったとしても、それが「史実」として語り継がれる状況と本質的には同じなのかもしれない。
幕末~明治で、史料が比較的残っているからこそ、こういう本が成り立っているわけで、遥か昔の話となると、もうどうしようもないだろう。

作家は、小説と、史実あるいは異説というものをきちんと区別して情報提供してもらいたい。あるいは作家自身がやらなくても、編集者が、注を加えても良いと思う。
2016-07-19_104641.jpg 先日のNHK大河「真田丸」では、秀次の娘たかが信繁の側室になってルソンへ逃れるという話になっていた。

あのやさしい秀次の一族が皆殺しにあうのをどう描くのか、この娘も殺されてしまうんだなぁと思ってドラマを見ていたのだけれど、皆殺しのシーンそのものは描かれず、娘は助かったわけだ。

その回のドラマの後の解説(「真田丸 紀行」)では、秀次の娘(隆清院)は信繁の側室になり、女子(田)もなしていることがとりあげられていた。たかの話とは違うわけだけれど、こうやって本編ストーリーと異なることをきちんと解説することは良いことだと思う。
ストーリーと異なる解説を聞いて、話が違うと怒るのは「狂信者」と言って良い。

もちろん史実とされてきたことが覆ることもたびたびあるという留保も忘れてはいけないが。


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