天道思想―「宗教で読む戦国時代」(その1)

KB252160.jpg 日本人は無宗教だという言説がある。

日曜日に教会に行くこともないし、一日のはじまりが神への祈りで始まる人というのはそう多くない。
そのくせ、初詣に行き、お盆やお彼岸の行事はやる。結婚式は神式が多く、最近はキリスト教式が増え、葬式は多くが仏式である。
外国人からは、日本人には信じる神はいないのかというように見えるというわけだ。

「家の宗旨は○○です」という言い方はしても、「私は○○の信者です」という言い方は稀である。


何という本だったか忘れたけれど、日本人に宗教心がないというのは、特定の教派・教会という組織への帰属のことにすぎず、ちゃんと神を敬う気持ちはもっているという反論を読んだことがある。

神田千里「宗教で読む戦国時代」は、この根深い日本人の宗教心というのが、既に戦国時代からあったという。
著者はそれを「天道」思想と表現している。

子供の頃、「お天道様が見てるよ」と言われて育った人は多いと思う。脈々と流れている神を畏敬する気持ちであろう。


信長ですら天道思想の持ち主であったとする。
信長と宗教といえば、叡山の焼き討ち、長島一向一揆の皆殺し、石山本願寺との長い闘いが思い起こされるけれど、信長は宗教を否定しているわけではない。信仰も布教も禁止はしていないという。僧にあるまじき富や権力への執着、そのための敵対勢力との共闘、そういったものを攻撃したにすぎない。

また、日本の仏教諸派間の諍いは信仰上のものではなく、もっぱら教派指導者の権力争いだと分析する。
一向一揆(この言葉も江戸時代に真宗側が自らの功績を誇るために使いだしたものだという)は、宗教のための戦いではなくて、その地の時の権力者の争いに加わったもので、加賀が門徒で持つ国というのは、宗教国家を作ったのではなく、守護をめぐる戦いの結果として、寺が地域支配をしたものという見方。

しかし疑問もある。当時、激烈な宗派間闘争があったことをどう理解するのか。
天文法華の乱(1536年)。

僧兵と宗徒、近江の大名・六角定頼の援軍が加わって、延暦寺は総計約6万人を動員して京都市中に押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる人々を殺害した(天文法難)。
さらに延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。

(Wikipedia)

本書では、この乱については全く触れられていない。
なお、この事件の前に起こった山科本願寺焼き打ち(法華宗側と浄土真宗の諍い、浄土真宗の京都での勢力拡大に法華宗が対抗)については本書でも触れられてはいるが、著者は当時の公家の日記に「今日一時に滅亡、しかしながら天道なり」(鷲尾隆康『二水記』天文元年8月24日条)とあることをもって、天道思想が一般的であったことを傍証するものという扱いとなっている。

しかし、これはやはり無理があるように思う。
天文法華の乱の引鉄となったのは、法華宗が延暦寺に宗教問答をふっかけ、法華宗の一門徒が叡山の僧を論破してしまったこととされている。これを根にもった延暦寺側が、上述の暴挙に出たというわけだ。
著者がいうように、俗世の権力争いがからんでいたかもしれないが、発端は信仰の違いと考えるべきだと思う。

天道思想をもちだすなら、一部宗派は天道思想を受け入れていない、そしてその宗派の門徒以外は天道思想を持っているから、当該宗派を受け入れない、と解することが自然だと私は思う。

私の知り合いで教誨師をされていて、あちこちの刑務所を回っておられた方がいたが、その方は「創価学会の人が講和をすると他宗を否定するので受刑者が騒いでしまう」という話をされていた。


それはそうとして、著者は、天道思想がキリスト教受容の下地になった可能性を指摘する。
キリスト教の宣教師も、そのことに気づいていて、天道思想とキリスト教の教えを照応させて、布教につとめていたという。

2016-09-13_094714-index.jpg しかしながら、一旦キリシタン、というか一神教になると、神の観念は変化するようだ。

関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

Gallery
検索フォーム

⇒記事一覧

プロフィール

六二郎。六二郎。


定年退職
苦しい家計の足しに再就職
=いつクビになってもええねん
 言うたもん勝ちや!のブログ
リンク
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
アーカイブ
カテゴリ
タグ

書評 ITガジェット マイナンバー Audio/Visual 

現在の閲覧者数
聞いたもん