「すみれ」の真実―礒山雅 「モーツァルト」(その1)

71mMblyTkfL.jpg 「モーツァルトと女性たち」では、「モーツァルトの伝記として絶対に外せない書であると思う」と書いた。
この本に触発されて、比較的最近のもので、評判の良い伝記も読んでみようと思って、「モーツァルトは貧乏じゃなかった」というコピーが付いた、この本、礒山雅「モーツァルト」を読むことにした。

モーツァルトについては、「神童」で片づけられてしまう風潮に多くの人が異義を唱えてきている。

もちろん神童でもある。しかも二十歳すぎてもただの人ではない。

モーツァルトは曲芸を仕込まれた犬ではないし、「赤い上着を着た子供」で終わるわけではない。
その作品を、「優美」や「美しい」で済ますわけにはいかないし、「疾走する哀しみ」や「デモーニッシュ」と言えば深いということにもならないと思う。

本書では、アタリマエのことだけれど、大変な霊感と真摯な作曲態度、さらに加えて洒落のめした遊びまで、幅広いモーツァルトが描かれる。
特に、この最後の洒落のめした遊びというのは、もちろん沢山の下品なカノンの類については前からモーツァルトの遊びとして理解してきたけれど、本書の「すみれ」KV476の解説には驚いた。そして、大いに納得した。

Das_Veilchen_KV476.jpg 「すみれ」は前にも記事にしたことがある。

庭に咲いた花をスミレだと思って書いたのだけれど、スミレではなさそうだ。


恥かしながら、この曲については、「すみれ」というイメージに引きずられて、あまり深く考えたことはない。
曲自体は、美しく、劇的である。
しかし、最後にモーツァルトが付け加えた「かわいそうなスミレ、本当に素敵なスミレだった」の歌詞で、モーツァルトがスミレに寄せる思いを「素直に」語ることで、「かわいいモーツァルト」という、あまりにもベタなところがあると思っていた。

実際、これをモーツァルトの優しさと解説するものは多く目にすることができる。

ところが磯山氏は、ここにモーツァルトの秘密(大袈裟だな)があると言う。

この曲を劇的にしているトリックの一つは、テーマがなんと7小節=4小節+3小節で構成されているという点にある(礒山氏の指摘でなるほどと思った)。
これにより、劇的で、ひっかかるような、躓いたような感じが生まれてくるように思う。
そして、これは一種の諧謔でもある。通常の作曲作法を知る人達にとっては。

そうしてみると(聴くと)、最後にモーツァルトが付け加えた部分:「かわいそうなすみれ、それは本当にかわいいすみれだった」の部分は、少女趣味ではなくて、これは、悲劇を喜劇に笑い飛ばすためのダメ押しなのだ。

秘かに美しい少女に思いを寄せ、そのことに気づかれることもなく、さらに、存在すら気づかれないまま、踏み潰されるというのは、悲喜劇以外の何だろう。そういう思いをした可哀そうな少年はたくさんいるに違いない。そして、それを傍から見ている他人。


美しいメロディが悲劇性をかきたてて、その悲劇を笑い飛ばすための変則な4+3小節があるわけだ。
礒山氏が書くように、モーツァルトは友人たちと、笑い転げていただろう。

P_20160922_162230.jpg シューベルトの歌曲の多くは、「シューベルティアーデ」と呼ばれる、作曲家と親しい人達の集まりで生まれたといわれている。
モーツァルトの歌曲もそうした私的な集まりで生まれたようだが、その雰囲気の違い、片や堅物、片や洒落、ということなのかもしれない。もちろん、これによって、作品の質が落ちるわけではないが、見様によっては、悪魔の所業である。

ベートーヴェンがモーツァルトを許さない理由の一つは、ここにあるのではないだろうか(それだけベートーヴェンは良い耳を持っていた?)。


こうしたことを踏まえて、氏は、劇的に歌うペーター・シュライアーの演奏を推薦されている。なるほど。
少々、大げさに、歌うのがこの曲の本来の姿なのかもしれない。

ペーター・シュライアーの「すみれ」。
(LPからデジタル化、レコード針のトラッキングが悪くて申し訳ない。
アップするにあたって、モノーラル・低音質化した。)


良く表現するには、表現しすぎないことです
超越的な表現者、モーツァルトの哄笑が聞こえてくる。

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