発見という行為

lif1610030031-p11.jpg 東工大 大隅良典栄誉教授がノーベル医学・生理学賞を受賞するというニュース。
オートファジー(Autophagy、細胞の自食作用)の解明が受賞理由。ノーベル賞の単独受賞というのはとても珍しい、それほどユニークで画期的な研究だと評価されたわけだ。

細胞内のこういうメカニズムについては、一般向けの生物学の教養書(たとえば、永田和宏「タンパク質の一生―生命活動の舞台裏」)などにも書かれているけれど、そして、精巧にできているんだなと圧倒されるけれど、これが大隅先生の研究から発展した領域だということまでは思い至らなかった。

前掲書では「最近日本の研究者が明らかにしたこと」という記述はあるけれど、大隅先生の名前は出ていなかったと思う。
この本は細胞生物学の最新の知見を整理・解説する教養書ということで、引用文献や、誰々の業績という書き方はしない方針のようだ。(この本を批判しているわけではありません、実に良くまとまった良書です。)


こういう発見を成し遂げる人の頭ってどうなってるんだろう?
こんなことを考えてみた。

普通に頭の良い人は、教えられている理論を身に付け、それによって現象を理解して満足する。効率的で頭の良いやりかたである。試験の成績も良いだろう。エリート・コースである。
そうではなく、いろんなことに疑問を持って、なかなか目的地(目的も実ははっきりしない)にたどり着かない。実に非効率である。

natural_secret_crop.png 簡単な図を書いてみた。
坂道を転がり落ちるボールがある。坂道の一部が隠れている。ボールがこの部分を通って出てくる。それだけの現象である。

頭の良い人は、落体の法則どおりだ、何も不思議なことはないと見切る。
ところが、隠れた部分をのぞいてみると、転がってきたボールと出てきたボールは別のものだった、ということもある。
猜疑心のかたまりの研究者は、理論値とのわずかなズレを不審に思い、本当に同じボールだろうかと疑問に思って、たとえばボールにマークを付けて転がしてみるなどの実験を案出する。

発見されてしまえばアタリマエのように思っても、そこに真理が隠れているということに気づくことは簡単ではない。偶然の発見だとしても、それは関連領域の深い知識と日々の努力があってこそのもの。セレンディピティは無から生まれるものではない。
同等の能力を持ち、日々努力している多勢の研究者がいて、たまたまそのうちの一人に偶然が微笑む、そういうことなのだろう。だから、その研究者だけが偉いわけではなくて、そうした多勢の研究者が偉く、そしてそれを支える社会が健全なのだと思う。

社会の役にたつエリートばかり求めていたら、そつなく見切っておしまいの、進歩も刺激もない社会になるのでは。(それに全員がエリートになるはずもない。義務教育でエリート教育を標準にできるわけがない。)
大学が社会の役にたつかどうかは結果でしかない。それを咎め、成果ばかり求めるような国は貧しく、不健全である。大学以外に、そんな研究者をたくさん飼っておける場所なんてないでしょう。

大隅先生の言葉が新聞に紹介されていた:人の役にたつ研究をしたいという学生ばかりでは困る。

日本人、とりわけ日本国内で研究している先生が、ノーベル賞を受賞するたびに、同じ趣旨の発言が繰り返されているように思う。


利益至上主義の経営の世界でも、実は同じようなことがある。
広告展開で大成功したデパート王のジョン・ワナメーカーはこう言っているそうだ。
「広告に費やす金の半分は無駄だ。ただ、どちらの半分が無駄なのかはわからない。」

関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

Gallery
検索フォーム

⇒記事一覧

プロフィール

六二郎。六二郎。


定年退職
苦しい家計の足しに再就職
=いつクビになってもええねん
 言うたもん勝ちや!のブログ
リンク
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
アーカイブ
カテゴリ
タグ

書評 ITガジェット マイナンバー Audio/Visual 

現在の閲覧者数
聞いたもん