正義の味方

先日の記事で、

正義の拳は、振り回し過ぎないようにしてもらいたい。
自分に正義があると思っている人ほど残酷になれるものだから。

などと、訳知り顔で書いたけれど、随分昔から「正義」というものには疑念を持っていた。

マイケル・サンデルのように正義とは何か、と問うようなスタンスではなくて、正義の効果というものが何となく怖いという感覚である。

志賀直哉「正義派」あらすじ
路面電車が飛び出して来た子供を轢いて死なせる事故が起こり、その軌道の保線作業をしていた3人の工夫が目撃していた。
運転手は突然のことでブレーキが間に合わなかったと主張するが、工夫は直ぐに急ブレーキを掛けていれば事故は防げたと警察で話すが、会社側からは証言を止められる。
その後、3人は飲みに行き、あの事故の目撃者は俺たちだと聞こえよがしに喋る。
高校のとき、国語の授業で配られた短編のプリントがあった。志賀直哉「正義派」。

作者・作品名は全く忘れていたが、あらすじを頼りに検索すると、これで間違いないようだ。

授業で扱われたから、同じ教室で他の生徒の感想も聞いた覚えがある。
正義を実行して、代償を期待するかのような態度は情けないという意見があったと思う。
会社の態度を批判する意見もあったと思う。
ネットにもこの短編の解説や鑑賞の記事が散見される。


複雑なテーマで、どういう読みが正しいのかはわからない。私の読み方は浅いのかもしれない。
ただ、私の記憶として残っているのは、自分に正義があると感じると、人はいたずらに昂奮してしまうということ。何となく正義が持つ恐ろしさみたいなものを感じたわけだ。

24812_original-crop.jpg この授業より前のことだと思う、やはり高校のときに考えたことがある。
正義の味方になってはいけない、正義の味方とは物事の善悪の判断が停止した状態ではないかと。

子供向けのドラマやまんがには、正義の味方が登場する。
彼らは圧倒的なパワーを持っている。もし、私があのようなパワーを持っていたら、その使い方で悩むに違いない。
そして、そのパワーの「正しい」使い方として、安直に正義に頼ってしまうだろう。(中にはデビルマンのように、正義に頼らないヒーローもいるけれど。彼は正義ではなく、恋人のために戦う。)

今日は、高校時代の青臭い話も思い出して書いたけれど、やっぱり今でも思う。「これが正義だ」という正義はやはり何か違う。
正義は、正義を常に疑ってこその正義じゃないだろうか。

そう思っているとおもしろい報道が目に入った。

人間と動物、暴走車がひかざるを得ないとしたらどちら?


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