デマクラシー(demagogue+-cracy)

img_08d2ef3a41ac950e70c8d05ac1fd8f14203665.jpg 昨日、トランプ氏の大統領就任式が行われた。

就任演説では、結束を掲げたけれど、ワシントンでは反トランプの人たちが暴徒化して、多くの逮捕者が出たと伝えられる。
「アメリカの製品を買い、アメリカ人を雇う」というときのアメリカ人に、WASP以外の人も含まれるのだろうか。

ある調査によると、支持率は40%、不支持率は52%だという。
これで大統領に選ばれるのだから、選挙制度に疑問を持つ人がいるというのも不思議ではない。

テニスで、1セットをタイブレークのすえ
6-7で落としたとする。
 獲ったゲームは、ラブゲーム(+4pt)
 失ったゲームは、最小得点差(-2pt)
とすると、セット計のポイント差は、
 4×6 + (-2)×7=10pt
10ポイント多くとってもセットを失う

5セットマッチを2-3で負けたとき、
 獲得セットは1ポイントも落とさず、
 失ったセットは前述のとおりとすると、
   24×2 + 10×3=78pt
78ポイント多く獲っても負けになる
米国は連邦制で州単位での意思表示という考え方が基調にあるという。
日本も小選挙区制をとっているから支持率が50%未満でも国会では過半数を持てる。

テニスでポイントを多く獲った方が負けることもある理屈である。


ただこれは選挙制度だけの問題ではない。

前に「多数決を疑う」という記事を書いた。

集団の合意形成の方法としての多数決を、集団のメンバーの意思を集計する函数(集計函数)の一種とし、その他の各種の可能な集計函数との比較や、集計函数に望まれる性質について書かれた本(社会的選択理論)についてである。


その記事にも書いたけれど、論理的・科学的に決定できる命題を多数決で真偽判定するのは間違っていると思うのだけれど、それだけではない。
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こんなところに多数決が出しゃばったら、昔の地球は平たくて、今の地球は丸くなったことになるし、
昔は魔女が多かったが、みんな退治したから今は居なくなったって話になる。


多数決などの集計函数では、通常、集団のメンバーは独立した個人であることが前提されているが、実際の社会では、個人の意思は周囲の意見に大きく左右される。

「多数決を疑う」では、独裁は1人のメンバーの意思のみを反映する集計函数として扱われているが、多数決の場合でも、メンバーの意思にバイアスがかかっていれば程度の差はあっても同様の状態になるだろう。
これは「見かけ上の多数決」と言うべきものではないだろうか。

ポピュリズムはエリート専制よりましといっている元O府知事・O府市長がいるけれど、ポピュリズムは大衆に迎合するだけではなくて、見かけ上の多数決を正当性の根拠とし、そしてその見かけ上の多数を創り出す政治手法だろう。
その意味では見かけが違ってもエリート専制もポピュリズムも実態は同じじゃないだろうか。
古代ローマの人も言った:「アテネは民主政をとることで、ペリクレスの独裁が強力に行われている。」


demonstration_march.jpg 大塚久雄氏が何かで書いていた話だが、デモ行進の群衆の中の個人は、自分では動く方向を決められないが、その行進の推進力になっている。
これは経済活動のたとえだと思うけれど、集団の意思と力というものも同じじゃないだろうか。

さらに進むと、集団極性化(group polarization)という現象も起こる。いわゆる群集心理。
また、パニック状態では、デマ情報で群衆がより危険な方向へ誘導されることがあるという。
魔女狩りが起こる!

デモクラシー(democracy)ならぬデマクラシー(demagogue+-cracy)に陥らなければ良いと思う。

チェンジ、オバマ

今日1月20日(日本時間では明日)、米国大統領就任式が行われる。

反対デモも計画されているとかで、ものものしい警備がしかれるようだ。

"Change"、"Yes, we can"で迎えられたオバマ氏も、"Change, Obama!"と退場を命じられた。

トランプといえば、ジョーカーが連想されるけれど、これはジョークではない。

"Make America great again"というけれど、
"Make America threat again"となっちゃうのか。
世界の警察官はやらないというが、すでに脅威にはなっている。

自分の主張と異なる相手は恫喝。
米国大企業は唯々諾々のようだが、トヨタはタイミングが悪かったみたい。

その一方で中小企業やプア・ホワイトの人気はかなり高いらしい。
今のところ主張は一貫しているようだ。個々の問題に対して、うまく気を惹く言葉が受けていると思う。

しかし政策に一貫性、あるいはバランスというものがあるのか、それはわからない。

とりあえずトランプ景気とやらで、アメリカは景気が良いという。その余得がこちらにもきてくれるうちはいいけれど。
所詮、裏付けがあって、実物経済が良くて、というわけではない。

はじめは良いけれど、そのうち風向きが変わることになるのではと心配である。
日本でも、アベノミクスが景気をあげたのははじめのうちだけ。それも株価という指標以外にはこれといってなく、実感できるようなことはない。

ブレグジット・ショック、トランプ・ショック、まだまだショックが続くのでは。

今日は文章はどうでもよくて、久しぶりのモーフィングで遊ぶのが趣旨。


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豊洲市場、落としどころが見えなくなったかな

関西人としてはそれほど関心は強くない東京都豊洲市場問題。
だけども、前に、「豊洲市場、落としどころが見えてきたかな」なんていう記事を書いたから、フォローしておこう。

周知のとおり、先日公表された汚染調査結果で、落としどころが全く見えなくなってしまった
市場のホームページは、汚染が全体に広がっているわけではないなど、安全性を強調するような書き方がされていたけれど、これも書き換えられるのかな。

そういえば、以前、市場のホームページに、全体に盛り土をしているとあったのが、盛り土がされていない場所が発覚して、ホームページが調整中になったことがあった。


読売新聞に、汚染場所のマップがアップされていたので、再掲しておく。
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fukushima_osen_img_3.jpg 見た通り、結構、広範囲に拡がっているようだ。
今までは、たまたま高濃度汚染の場所があったが、封じ込め可能という雰囲気だったように思う。

多くの場所でデータがとれたわけだから、汚染物質の濃度のコンターとか作って公表してくれないかな。

コンター図のイメージとして、福島の放射性物質汚染マップを掲げたけれど、ネットに適当なサンプルが見当たらなかっただけで、他意はまったくありません。


「進むも地獄、退くも地獄」という状況。
誰が地獄を作ったんだと、さぞかし市場の利用者や都民が恨んでいることだろう。

政党復活枠

PK2016112602100052_size0.jpg 年が明けると、多くの都道府県では予算の復活折衝がはじまるそうだ。

12月頃に財政担当の査定が行われ、財政担当が決めかねた事業(査定では予算を認めなかったもの)について、知事の判断を仰ぎ(復活折衝)、それを受けて、2月頃からはじまる議会へ提出する予算案が作成されるという手順だという。

当然、知事が復活するためには、相当する財源が用意されているはずで(でないと、既に担当査定でOKのものを削らないと収支がバランスしないが、それをするのは相当の剛腕の知事でないと難しいだろう)、いわばこの額が知事の裁量の範囲ということになるわけだ。


その復活折衝にあたって、東京都の予算編成では「政党復活枠」というのがあるのだそうだ。
200億円と伝えられているその枠は、政党の要望によって復活する分として、とりわけられているという。
小池都知事はこの枠を廃止するという。

都知事の説明では、全国道府県で同種のやりかたをしているところはないという。
本来、予算編成は知事の権限である。議会は知事が提出した予算案に修正を加えることはできるが、予算案として提出することはない。

某自治体では議会が認めなかった事業について、歳出予算を減額したことがある。歳出の減額であれば、歳入側は予備費に充当するなどして予算の体裁はとれるだろうけれど、歳出増だったら大変である。(というか、税収見積もりがあまいと指摘されて、歳入減額されても大変だろう)


予め議会用にとりおいたとしても、各政党の要望に応じて予算に組み入れるのは知事側が最終決定するだろうから、形式的には問題ないというのが議会側の意見のようだ。

この慣習がいつ頃からできたのか知らないけれど、おそらく知事と議会の関係を円滑にするためにできてきたものだろう。

議会:こんなことをしてもらいたい。
知事:議会用の枠の内でしたら要望にお応えできます。

(子:おもちゃ買ってぇ~
 親:おこづかいがあるでしょう)


americano_kinkenseiji.jpg というわけで、知事側は、議会の際限ない要求を抑える言い訳として利用し、議会側は、自分たちの要望によって実現した成果であると誇る。

米国には「イヤーマーク(ear mark)」という言葉があるそうだ(軽部 謙介「ドキュメント アメリカの金権政治」)。
議員の要望で実現した事業については、印(イヤーマーク)を付けておく。そうすると、議員が自分の要望がどう取り入れられたか確認でき、成果を誇ることができるのだという。

昔、聞いた話だけれど、ある自治体では事業担当者がなんとかして予算を付けてもらいたいときに、議員にネタを持ち込んで、議会質疑などで事業の推進を要望させ、それを根拠に財政担当に予算を付けるよう圧力をかけるやりかたがあるそうだ。

財政側は、予算編成権の侵害であると憤るのが普通。仮に要望が通って予算がついても、後年度でしっぺ返しをしたりするらしい。


ホントかウソか知らないが、交通量の多い幹線道路にたくさん歩道橋が設置されるのは、地元議員が子供の安全のためにと自治体に要望して、それが実現することが多いのだそうだ。歩道橋というのは目に見える成果としてわかりやすい。近隣住民は「○○先生の橋」と呼ぶのだとか。

歩道橋の設置はそう高額ではないのかもしれない。なぜなら、近くに信号のある交差点があれば、どこともつながらない単独の歩道橋が使われることはあまりなく、それに高い税金を投入することはしないだろうから。


議会制民主主義には、選挙以外にもいろいろコストがかかるものらしい。

議会: 議会軽視だ!
行政: いえ、議会経費です。
都民: こちとら江戸っ子でぇ、シとヒの区別はつかねぇや。


山田雄司「忍者の歴史」

yamada_ninjanorekishi.jpg 「真田丸」完結。
伝えられているように、「手柄とせよ」と首をさしだして討たれることもなく、しかし、晴れやかに、そして画面もホワイトアウトして、最期のシーンをうまく処理したと思う(ちょっと肩透かしをくった感じだけど)。

歳をきかれた佐助が「五十五歳です」と答えて、わ、歳とらんな(本人は腰が痛いとか言ってたが)というか、信繁より年上やないかと、不思議な連帯感を醸し出していた感じがする。

「真田丸」はそれぐらいにして、今日はネタに困ったときの「書評」。無理やり佐助を持ち出したが、とりあげるのは、山田雄司「忍者の歴史」

「忍者の実像」というわけだけれど、それは「第一章 戦国時代の忍び」の部分で概ね尽くされている。
「第二章 兵法から忍術へ」「第三章 忍術書の世界」あたりになると、忍者の実像というより、忍術というものがどのように書かれてきたのかが中心になり、「忍者の実像」というより、「忍術書の実像」という感じ。

もちろん、私は忍者について良く知っているわけではないのだけれど、そう思うのは、二章以下は、江戸時代に編纂された「忍術書」の内容紹介が中心になっていて、荒唐無稽と思えるようなことでも、それ自体に批判を加えずに紹介しているようだから。
忍者が活躍する場面がどれだけあったのか怪しい江戸時代にまとめられた「忍術書」というのは、奇書の類かもしれないし、本書でも偽書としているものもある。

著者は、決して「忍術書」を鵜呑みにして、これが忍術だというわけではない。超人的な忍者像は間違いで、基本的に諜報活動を行う専門家としてとらえ、当時の記録からも読み取れる、体力より知力が求められるという、誰が聴いても納得できる説明をしてくれる。
たとえば、忍者は手裏剣などの武器は持ち歩かない、何故なら、諜報が主活動だから、そうしたものを携行していれば、当然、怪しい奴となるからだと、本書は指摘する。その一方、火術(爆薬)などの扱いに習熟していなければならないという記述もある。

だとしたら、忍者というのは、やはりいろんなタイプがいて、一括りに考えてはいけないのかもしれない。

sanadamaru3355.jpg 「真田丸」に出てくる最高の「忍者」は、佐助でも、出浦昌相でもなく、なんといっても厨の爺さんであろう。おそらく、視聴者の96%以上(私も)が、許しがたい奴と憎んだに違いない。
徳川に通じたのは、個人的怨恨からだったにせよ、諜報活動はするわ、偽情報で攪乱するわ、最後は城に火までかける。そしてそれがすべて効果的で、戦の勝敗に直結したと描かれている。
まさに忍者として、最高の働きである。
しかも、この人は実在だったらしい。
 [⇒Wikipedia 大角与左衛門]
息の根を止めなかった信繁の手ぬるさが悔やまれる。
こいつ(与左衛門)がおらんかったら勝ってたかもしれんやん!

616HYN2RboL.jpg さて、問題は忍術の方。忍者の活動がどうあれ、子供の頃、少年マガジンなどで紹介されていたような忍術、それらは忍術書に根拠があったのだということはわかるんだけれど、平和ボケして、忍者が忍者らしい活躍をすることがほとんどなくなった時代、机上で考えた「忍術」なのではないだろうかと思う。

それでも、子供の心をおどらせるのは、超人的な術。
蟇に化けるとか、何メートルもジャンプするというような自然法則を無視した荒唐無稽は別として、鍛えられた体というのは本当らしい。テレビで、忍術家が関節をはずす様子を見たことがあるけれど、こういう荒技は、忍術書にも書かれているそうだ。

忍者の本当の姿、というような言説が、何を根拠にかたられるのか、そういう眼で読むと、この本は基礎知識としておさえておくのには、文献学的には良いのかもしれない。

しかし、普通の読者としては、文献学などはどうでもよくて、忍術書に書かれていることの、どれが本当で、どれは脚色あるいは虚構なのか、怪しげな忍術のほうをこそ、はっきりしてもらいたいと期待したいわけだ。

プレミアム・フライデー

20161212001-a.jpg 今日は金曜日、月末じゃないけれど。
そう、報道によると月末の金曜日に“プレミアム・フライデー”というのをやるんだそうだ。

「プレミアムフライデーの実施方針・ロゴマークが決定しました」(経済産業省)


毎月、月末の金曜日は午後3時に仕事を終えて、リフレッシュ(消費活動)に精を出しましょう、商店やアミューズメント施設は、それに合わせてイベントを行いましょうという、これは「呼びかけ」である。

実施は再来年2月からだという。
もちろん、そういう法律ができるとかではなくて、単に各企業に趣旨を理解して協力してくださいということらしい。

報道では、実施の障害になることとして、未だ時間年休という制度をもっていない企業があると指摘していた。

そもそも、時間年休制度というのは、有給休暇のうち、年間最大5日分(つまり5×8時間)を時間単位で与えることができるという制度。ただし、本来、有給休暇は労働者のリフレッシュが目的で1日単位が基本だから、労使協定で定めておく必要がある。
プレミアム・フライデーは午後3時からとのことだが、毎月実施なら 5×8/12=3時間20分、時間単位で3時間が限界ということからの逆算か。(私の今の職場は17:15が終業時刻だから、14:15から休むということになるのだろうか。)


ニュースへの反応としては、
  • その前に定時退社だろう
  • その分、他の日にしわ寄せがくるだけだ
  • 時給にプレミアムを付けてもらいたい
など。

こういう心配や希望はあるとして、プレミアム・フライデーの取り組み自体は悪いことではないと思う。
消費の刺激だけでなく、これに併せて、無駄な仕事を整理して、プレミアム・フライデーが実現できるように改革したら良いのではないか。
日本の生産性が先進国中最低レベルなのは、生産額が低いのではなくて、投入労働時間が長いからだと私は思っている。

プレミアム・フライデーとは関係ないけど、チームで仕事というスタイルが、チームの合意が得られるまで我慢比べの時間になったりしてないか。チームの責任として、一人一人が責任を回避する体質になっていないか。マネージャーが見るべきところはたくさんあると思う。


高校か大学のとき、テレビで、ドイツの航空会社のCMを見た覚えがある。週休4日だといってたように思う。
日本では未だ週休二日制にもなっていないときである。(私も就職したときはまだ日曜だけ休みで、土曜日半ドンの時代)

バートランド・ラッセルは、労働は一日の大半を考えずに済むというメリットがあると言った。どういう文脈で言ったのか、私は高校の英語の参考書でラッセルの論考の一部を取り出したものしか読んでいないから、氏の真意はわからない。単なる諧謔だったのかもしれないし、自ら目標を定めて考えることの難しさを強調するためだったのかもわからない。

プレミアム・フライデーです、好きなことをしてください、突然言われても困る人は多いかもしれない。

私はその頃には毎日が日曜日になってそうだ。困ったことだ。


大統領の弾劾

n-PARK-GEUN-HYE-large570.jpg 韓国の朴槿恵大統領に対する弾劾決議が韓国国会で可決された。

前に、「韓国の政治スキャンダル」では、そんなに大きな問題なのかなぁ、と書いた。自分の不明を恥じるしかない。

その後、このスキャンダルはどんどん大きくなって、まさに燎原の火の如し。

ある説では、北朝鮮の謀略が働いて騒ぎを大きくしているというような説もあった。
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週刊誌なども、さまざまな方向から、この事件をとりあげていた。
ある記事によると、そもそも韓国では、偉くなった人が、親戚・友人を優遇するのはアタリマエというか、それをしないと人間失格ぐらいに評価されてしまうのだとか。
だから歴代大統領がそろって退任後に、悲惨な末路を遂げたり、親族の悪事が追及されるのだという。

それにしても、この大統領をクビにしようという国民の怒りはどうだろう。
そしてこの怒りの先にあるものは。

大統領弾劾という結果は何も生産的なものはない。
ここからのビジョン、そんなものは何にもなさそうだ。
ただ、一つだけ確かなことがある。
外に敵をつくって、それを攻撃して怒りの矛先を変えることだ。

IR法案、ひょっとしてカジノ依存症?

casino_Las_vegas.jpg 統合リゾート(IR)法案が昨日衆議院を通過。
カジノの設置も可能にする、というかそれがあるので賛否が分かれる法案である。

私はカジノが悪だと思っているわけではないし、カジノが必要だと思っているわけでもない。
ただ国会審議がちょっと乱暴だと思っているだけだ。

論点に全く触れず、一方的にお経を唱えたり、俳句を披露したりする「質問」というのも審議時間のうちだというのだろうか。


それはともかく、反対者が一番心配しているのは、ギャンブル依存症が増えるということみたいで、というかこればかりが強調されている。
たしかに、ギャンブル依存症の悲惨な実態を伝える情報番組も見たことがあるし、若い頃住んでいたマンションの近所に競輪場があって、自治会長を拝命したときに、競輪ですった人が金を借りにくるような事件があったことを聞かされた。一方で、地元協力金なるものも自治会としていただいていた。

賭け事で莫大な借金を抱えたくせに、純愛だとか偉そうにいう奴の話もある(「戦争と平和」)。


だけれど、統合リゾートができたからといって、もちろん依存症は減りはしないだろうけど、法案でイメージされているような高級なカジノだったら、私のような貧乏人には縁はなさそうな気もする。

現金100万円以上持ってないと入れてもらえないとかだったら到底無理、10万円でもアブナイ。
時代劇でも良くある、貧乏人が賭場へ行ったら「金は持ってんのか、帰れ、帰れ」と叩き出されるシーンが。


le-joueur-blu-ray.jpg その貧乏人だから、かえって、若干の憧れはある。
ドストエフスキーに「賭博者」という小説がある。ジェラール・フィリップ主演の映画もテレビで放送されたことがある。
金持ちのお付きで華やかなカジノに来た青年が、賭け事にのめりこむ姿が生々しく描かれている。
007シリーズには、たびたびカジノのシーンがある。きれいな姐ちゃんがいっぱいいるんだ。


なけなしの金を注ぎ込むから悲惨さが際立つので、大金持ちがどれだけ損をしたってそう酷いことにはならないという感じもある。大金持ちとかは、何十億円もするヨットや別荘を賭けたりするんだそうだし。

以前、どこかの大会社の二代目ぼっちゃん社長とかがギャンブルで会社の金までつぎ込んだということがあって、従業員にも迷惑がかかってたら酷い話だけれど。


じゃあ賛成かといわれたら、それはそれで微妙。
単純にカジノ解禁であるなら、カジノ収益に高額の税をかけ、カジノ主催者が、ギャンブル依存症になりそうな人をきちんと指導する義務を負って、健全に運営されるのならアリかなとも思う。

ラスベガスなどでは、客の動きを監視し、イカサマ師のチェックはもちろん、負けがこんでいる人は賭場から引き離すなどもやっているという。返せない借金を背負わないようにして、ここですっからかんになったら、稼いでからまたおいでということなのかもしれない。身ぐるみ剥ぐことが目的なのではなく、「健全」に儲けを継続的に出せば良いのだから。


fc547aa1267421d5307e729bb42b1ede.jpg 気になるのは、シンガポールその他を引き合いにだして、カジノがないと国際的なリゾートが成り立たないという論の方。
もしリゾートを成り立たせるのにカジノの収益を使うと言うなら、収益はみんなリゾート内に落ちちゃうんではないだろうか。少しでも外部におこぼれがあるんだろうか。
この国の公共事業の様子では、むしろ逆にリゾートを成功させるために税金を投入しそうな気がしてくる。

先日のテレビ番組では、カジノは既に過当競争になっているという報道もあった。米国のアトランティック・シティはさびれてしまったという。

ちなみに米国ではネイティブの居留地にはカジノが開かれているところが多い。ネイティブの本来の経済活動はとっくにできなくなっているし、他の産業といってこれというものがない。てっとり早いのがカジノであるらしい。そしてこの許認可権限が政府に握られていて、この利権が地域支配のカードとなっている、そういう話も読んだことがある(軽部 謙介「ドキュメント アメリカの金権政治」 (岩波新書))。
こっちは「カジノ依存症」といっていい。


また、カジノは何と言っても、古来、犯罪の温床になっていたのは事実だろう。

賭場で莫大な借金を作って、借金のカタに娘を女郎にし、果ては金欲しさに強盗をはたらいて……、とか、
賭場の利権をめぐってヤクザが抗争を繰り広げる、そのとばっちりで罪もない庶民が殺される……

というわけで、健全な経営とはどのようなものであるべきか、リゾートとしてどれほど収益、特に一般国民にどれだけ還元されるのか、そうした面を審議するには、あまりにも短い時間だったのではないだろうか。

今の国会情勢からすれば、法案は通るだろうけれど、せめて健全なカジノ経営にかかる政令を工夫していただきたいものだ。
で、金持ちから巻き上げて、貧乏人に分配、そして景気が良くなる、なら、悪くはないのかもしれないけど。

全然話はかわるが、天皇陛下の生前譲位のことも、いずれ国会で議論されるらしい。
おいおい、国会なんかで決めて良いのか。

「ヌーハラ」って知ってる?

yd_kubota2_nuhara.jpg このところ、メディア不信について何度か書いたけれど、ときどきチェックするビジネス情報サイトに興味深い記事があったので紹介する。

「ヌーハラ報道」に、目くじらを立てる理由という記事。

「ヌーハラ」という言葉は初めて聞いたから、何のことだろうと思って読んでみた。
「ヌードル・ハラスメント」を縮めて「ヌーハラ」というのだそうだ。麺類を食べるときの音がうるさいということらしい。
落語では麺類をすする音は重要である。そばとうどんは微妙に演じ分ける(ラーメンをすする音というのは未だ聞いたことがないけれど)、というような奥深い日本文化が、外国人に理解されないことだろうかと思ったけれど、そういう話ではなかった。

この記事は、そもそも「ヌーハラ」などというものは、少なくとも社会問題としては存在しないとし、これを面白おかしくとりあげて拡散しているマス・メディアの姿勢を批判するものだ。
「ヌーハラ」などは笑い話で、いつしか終息するだろうけれど、この記事では、デマが人の生命を奪う罪深い事例が紹介されている。

米国あたりには、超常現象や怪しげな事件を専門に取り上げる「新聞」があると聞いたことがある。まともなアメリカ人は、その新聞全体を一種のジョークとして楽しむのだそうだが、この記事を取り上げて、米国の新聞でも報道されていますと、まことしやかに増幅する日本のメディアがあったりする。

大した問題でもないことを、さも重大なことのように取り上げたり、ネットの怪しげな風説を興味本位に取り上げる。
裏をとる取材も、科学的な追求もしない。

政府などの報道発表はそのまま転載する。
官僚の間では、「マスコミの脳は『小鳥の脳』だから、これくらいの情報を食わせておけばいい」と言われているそうだ。
官僚側はそれで良いかもしれないが、国民としては、これがさえずるから始末が悪い。

決定版 江戸散歩

2016-11-03_085202-crop.png 東京の人が大阪へ来て、展望台から街を見ると「何だこの街は、緑が全然ないじゃないか」と言うらしい。
ほっといてくれ、という気持ちもないわけではないけれど、実際そうなのだから困ったものだ。

たしかに東京タワー(未だスカイツリーに行ったことがない、建設中の姿は良く見たのだけれど)などの展望台から、都内を眺望すると、あちこちに緑地が散在している。
某テレビ局は敷地にある「毛利庭園」からたびたび中継画像を流している。

けれども、こういう姿は、別に東京人が偉いとか、政府や東京都がしっかりしているからだとは言えまい。すべては江戸幕府の遺産といって良い。
もし大阪が首都になっていたなら、こういう景色にはならなかったに違いない。
理由は簡単である。武士の街だったから。

山本博文「決定版 江戸散歩」は、その事情を具体的に教えてくれる。
KADOKAWAの電子書籍が割引販売されていたときに、何かないか見ていて、この著者なら間違いないだろうと思って買ったもの。

フォーマットがイメージだったので、テキストを自由に拡大(つまり文字サイズにあわせて改行改頁)できないので、スマホの画面で見るのは困難。PCか大画面のタブレットで読む。
もっともイメージ収録というのもしかたがない、とりあげられた各所の写真が数多く収録され、レイアウトされているのだから。


2016-11-03_085328-crop.png 歴史上のエピソードを紹介しながら、尾張屋版江戸切絵図と現在の地図を重ね、往時の様子と今の姿を、解説してくれる本で、江戸の観光ガイドになっている。
東京の公園というのは、その多くが、将軍家や大名の屋敷跡なのだそうだ。

地方にある名園の多くが大名庭園だったのと同じ。
日本三名園とされる金沢兼六園、岡山後楽園、水戸偕楽園、いずれもそう。家人の郷里の香川県には栗林公園、中津万象園がある。
地方に分散しているのと同じくらい、江戸に集結していたのかもしれない。

これらの大名屋敷は、庭園が公園になったり、公共施設になったり、中には民間宅地になったものもあるようだが、それだけのゆとりある空間を都心に保持していたから、ど真ん中に政府機関や公共施設が立地できた。
(やはり大阪や京都では近代日本の首都にはなれなかっただろう)
もっとも江戸の総面積の1/6に、半分の人口=50万人が住んでいた町人地の方にはゆとりがあったはずはないけれど。

それはともかく、オールコック「大君の都」では、

将軍の都は心を奪われるほど美しい。……
ヨーロッパには、江戸のように沢山の素晴らしい特質を備えている都はない。また、町のたたずまいと周囲の風景のこのような美しさを誇れる都もない。……

とある。
そのなれの果ての東京だけれど、そのゆとりがあったから今があり、そして、やはり、ところどころにはその面影が残っているというわけだ。

そして、この本で紹介される数々の名所のほとんどに行ったことがないことにも思い至った。

現役の頃は頻繁に東京に行ってたけれど、たいてい日帰り、とんぼ返りだった。
かといって、用事もないのに東京なんて行くかなぁ。


福岡市で陥没現場がまた沈下

2016-11-26_220118.png 先日、大きく陥没した福岡市の道路が、また沈下したと大々的に報道されていた。
この陥没事故は、わずか1週間で復旧したことが、海外では高く評価されているそうだ。そこが、また凹んだということである。

私は、なんといいかげんな復旧工事をしたのかと責めるつもりではない。
沈下したということを聴いてまず思ったのは、そりゃ沈下するだろうよ、よほど密なもので隙間なく埋め、完璧に均一に整地しないかぎり、沈下するのは当然だろうということ。
関空などは、何年、何十年で沈下することを想定して、建物にはジャッキが備え付けられている。

それに報道では、市側ではある程度の沈下(80mm程度。今回は70mmぐらいの沈下)は想定内だという。
市側は、監視カメラをたくさん設置していたというし、沈下を検知してからすぐに、道路を封鎖して安全確認に念を入れている。
思うに、今回については、市側はできる限りのことをしていたように思う。
もし責めるとすれば、沈下がおさまるまで数十年間、道路を封鎖しつづけなかったということだろう。

それより気になったのは、これが重大事件であるかのように、全国放送(たとえばNHKの午後7時のニュース)のトップ記事として、長時間放送されたということ。
これって、それほど重大なことなんだろうか。

報道するなというつもりはもちろんないけれど、市側の説明と土木の専門家の意見、過去の事例などなど、きちんと調べて、どの程度の重大性があるのか評価してるのだろうか。
それに、今後の沈下についての情報提供はなかったようにも思う。最初ある程度沈下すれば、その後はあまり沈下しないと思うけれど。

メディアは、責める側にまわって煽り立てることが正義だと勘違いしてないか。
この姿勢は、ポピュリズム政治家と同じだと思う。
マスメディアが、ポピュリズム政治を生み出しているのではないか。

この国のメディアは、所詮、イエロージャーナリズムだったのか。
メディア不信だ。

給食中止の撤回

2016-11-15_152853.jpg

三重県鈴鹿市の給食中止で市長が方針表明

 三重県鈴鹿市が、野菜価格の高騰を理由に、市立の幼稚園と小学校の給食を2日間中止にするとし、その後撤回した問題で、市は、15日、中止を回避する分を防災訓練の炊き出しなどで、対応する方針を示しました。
 「2回削減した給食のうち、1回分は実施することとし、もう1回は、災害時の訓練を兼ねた炊き出しを行い、備蓄食と合わせて給食の替わりとして提供します」(鈴鹿市  玉川登美男教育長)
 鈴鹿市の末松則子市長は、15日、給食中止の回避策として、1日分を防災訓練での炊き出しなどを行い、もう1日分は献立を変更し、食材費を抑えることで対応する方針を示しました。
 市の教育委員会は、先月、野菜価格の高騰を理由に、市立の全ての小学校と幼稚園で、来月20日と来年1月12日の2日間給食の中止を決めましたが、市長がすぐに撤回を表明しました。
 防災訓練は、来年3月10日に実施し、費用は公費で負担する考えで、市は、今月中に結論を出したいとしています。

CBCテレビ

■発端の記事
 【野菜高騰で給食中止 鈴鹿市、今冬に2日間(中日新聞)】
食材の値上がりで学校給食が提供できないという問題、市の教育委員会が中止を決定し、即座に市長が撤回するとしていたが、このほど、その対応方法が発表された。

もともと2日分の中止を予定していたところ、1日は献立を変更して食材費を抑え、もう1日分は防災訓練の炊き出し(備蓄?)で対応するのだそうだ。
とりあえず、これで学校給食の中止は回避されたわけだ。

このところ野菜が高騰しているようで、家人が行っているグループ購入の注文書には、「価格が高騰していて注文時の価格で納品できない場合は、注文に応じられない場合がある」という但し書きが入っているそうだ。

それはそうとして、最初に給食中止の報に接した時に、そんなことができるんだろうか、と疑問に思った。
学校給食というのは、市から補助も出ているだろうけれど、保護者も給食費として負担していると思う。

そうなら、給食というのは、学校、というか教育委員会と保護者の間の契約、一定の負担をすれば期間中の給食が提供されるという契約なんじゃないだろうか。それが、原材料費高騰により、提供できませんで理屈が通るんだろうか。

先日、地元の文化祭のことを記事にしたけれど、このとき地元農家の協力でナスを無料配布する予定になっていたのだけれど、天候不順ということでそれができなくなった。しかしナスの引換券は既に各戸に配布してしまっているから、何も出さないというわけにはいかない。しかたがないので、自治会予算(自治会費は毎年度繰越金が出るぐらい余裕がある)でタマネギ、ジャガイモを購入して、ナスの代わりに配布することにした。

こんな話も思い出した。
ある事業所では、学生対象のイベントを実施、プログラムでは合宿も予定されていたが、台風接近のため合宿を中止した。相当する内容は別途実施したが、予定していた飯盒炊爨は中止となった。合宿施設は食材は用意済なのでその分のキャンセル料が発生する。

さて、一方の参加者側は、予定通りのプログラムを受けていない。本社では「一旦納入された参加料は返金しない」という一文があるし、キャンセル料に充当し、返金する必要はないと言う。
営業所側は、その一文は参加者都合というのが当然の前提で、主催者都合の場合にはあてはまらないと判断、本社の指示には従わなかった。本社は、キャンセル料は持ち出しになるから、監査で不適正支出と指摘されても責任は負わないと言うので、問題になったら所長・次長が私費で弁済すると押しきった。

監査で問題になるより、返金しなかったときのクレームのほうが大きな問題になるだろうし、まともな監査人なら、実費徴収しておきながら、サービスを提供せず相当額を返金しないことが不適正と判断すると思うのだけれど、読者諸賢のお考えは如何。


子供たちがかわいそうとか、親の負担が、とか、そういう意見があったことは想像に難くないけれど、そもそも法的に問題がないのかという議論はあったのだろうか。
今回は市長の決断で丸くおさまったようで、これはこれで良かったと思うけれど。

この記事を書いていて、アップせずに寝かしていたところ、フォロー記事があった。
市会議員の問題意識は私とは違うようだが、行政ではそれがアタリマエなんだろうか。

過労死と電通「鬼十則」

s_ice_screenshot_20161107-110222.jpeg 電通社員の過労死(自殺)がクローズアップされている。
一言で言えば、酷い会社である。あまりにも前近代的で、労働生産性の低い、効率の悪い最低の企業である。
苛酷な労働というが、無駄に苛酷、つまり苛酷さが自己目的化していたのでは。言い換えれば、全社イジメ体質だったのでは。

この会社は、仕事の成果と投入する労働の関連について、何の分析・評価もせず、生産性の低さに問題意識を持っていなかったに違いない。
およそ、科学的経営ということを知らない田舎企業と言われてもしかたがない。
それを見直す機会は、いくらでもあったはずである。まして、この会社は二十数年前にも社員の過労死自殺を起している。
それをしなかったのは、仕事というのは厳しいものだという観念に凝り固まり、厳しいということに安住、自己満足していたからではないだろうか。

十数年前、私も所属課の人事担当を仰せつかったことがある。
課員の異動、勤怠管理、健康管理、セクハラ相談(だれも相談にこなかった)など。

人事担当になると、いろんな研修を受けさせられる。
健康管理、とくにメンタルヘルスや過労死問題もテーマになっていた。
過労死問題の研修では、当時でも既に、過労死認定があれば補償は1億円を超える時代になったということが解説されていて、その兆候に早く気付くことが人事担当には求められていた。
もちろん私がいた職場でも、残業の多い職員は結構いたけれど、過重労働という問題にまではなっていなかった(メンタル面でちょっとというのはあったけれど)。

こういう労働安全衛生について考える機会が与えられたなら、成果の上がる働き方を追求するのが真っ当な会社というものである。

 電通鬼十則
 一、仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
 二、仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
 三、大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
 四、難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
 五、取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
 六、周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
 七、計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
 八、自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
 九、頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
 十、摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。
ところで、この事件に関連して、有名な電通の「鬼十則」についても、厳しいルールだという取り上げ方がされている。この「鬼十則」は、私が前いた会社でも良く知られていて、ある人は厳しいルールだという評価をしていたけれど、また別の評価もあった。
たとえば、

  • 「仕事は自ら創る」というのは、押し付けられた仕事より、自分がやりたいことをやる方が楽しいと考える。
  • 「先手先手」というのは、守りに入るより、攻めるほうが、主導権を持てる分、負担が少ない、という意味。
  • 「周囲を引きずり回せ」というのは、何でも自分でやらず、他人の力をうまく使って成果を上げるという意味。

「鬼」とついているから厳しいように感じるけれど、こう考えれば、仕事を楽しく、少ない負担で成果をあげるという意味にもとれる。

そもそも、頭脳労働というか知識労働というのは、時間に縛られるようなものではない。若い頃、上司から、「24時間考えろ」と言われて、「それじゃ寝る時間ありませんよ」と抗弁したら、「夢の中でも考えるんや」と言われた覚えがある。
また、あるとき、六二郎さんはいったいいつ仕事をしてるんやと言われたこともある。職場では本を読んだり、馬鹿話をしたりしていて、普段、手を動かしている時間が少なかった(「雑用」もそれなりにあったけれど)。もちろん、要所要所の企画書や意思決定資料はきちんと用意したし、年度末などには報告書一冊をきちんと書き上げていたわけだけれど。

どんな仕事でもそうだというつもりはないけれど、たとえば、何か企画をまとめようというときは、手を動かす時間はそう多くない。企画書というのは簡潔・明瞭にまとめられているべきで、短いほうが良いものである。問題は、ビジョンをどう熟成させるかであり、時間をかければ、まして残業すれば出来るものではない。それに至るまでに、それを根拠づけたり、補強するための資料収集と、利害関係者の理解など、手順はいろいろあるけれど。

なにより、これらの作業こそ、チームでやるもの。私は書き手役が多くて、関係者を説得(強請)するのは上司にまかせたし、資料の収集や整理は周囲が気を利かせていた。

そして、ああでもない、こうでもないとぐるぐる頭の中を回っている間に、考えが練れてきて、ビジョンが固まる、そういうものではないだろうか。

資料作成では、ドラフトができるまでが勝負であって、それができたら、あとは頭脳労働というより、職人仕事になる。そして、これはある程度、時間でも測れる仕事になる。ここまでくれば、経験の浅い社員でも十分できるし、優秀な人材なら、ここに至るまでの過程からノウハウを身に付けることもできると思う。

この会社は、効率的に成果をあげるだけのノウハウを社内で共有できていないのか。
日本の時間あたり労働生産性は先進国中でも最低ランクである。これは同じ成果を出すのにかける労働時間数が多すぎるからだ。おそらく、一人当たりの産出は他国より多いぐらいなんだろうけど、それにかける労働時間が多すぎるのだ。

この社員は「きみの残業時間はすべて無駄」と言われていたという報道もあったけれど、ただ時間をかけても能率が上がらないから切り替えようとか、ビジョンを組み替えたり、ヒントを与えたり、そういう指導はできなかったのだろうか。まして経験の浅い社員相手である。
「鬼十則」を本当に深く考えたのだろうか。(私の読みが違うのかもしれないけれど)
同じ金言でも、適用する環境や社員の能力によって、読み方が真逆になってしまう、そういうことかもしれない。

上司・指導する側の能力不足だったんだろう、そんな奴がエラそうに言うな。
失われた命の重さをきちんと受け止めて、繰り返されないことを祈る。

米大統領選

2016-11-09_164316.jpg 米国大統領選挙で、おおかたの予想とは異なり、トランプ氏が勝利。
このニュースも記録のために記事にすることにした。

図は、おそらくウィスコンシンでトランプが勝利して、選挙人の過半数を押さえたときのもの。


正直、私もこの結果には驚いた。
今年は、"Brexit"でも、おおかたの予想に違う結果が出て、大騒ぎになった。なんだか、国際政治の曲がり角のような気がする。

米国民はとにかく、なんでも良いから、現状が変わってほしいと考える人が、今では多数派になったということだろう(日本でも、同じような状態にあると思う)。
冷静な政策議論なんてどこにもなくて、とにかく破壊したいという判断。民主主義の行き着くところ、ハーメルンの笛吹きについていくところになるのかも。

米国がどうなろうと知ったこっちゃない、というわけにはいかない。
「アメリカがくしゃみをすると、日本が風邪をひく」というのは、かつての日米関係で言われたことだけれど、グローバル化(アメリカ・スタンダード化)が進む世界では、アメリカがくしゃみをすると、世界が風邪になってもおかしくないように思う。

クリントン氏が大統領になった場合は、多くの政策がオバマ大統領時代を引き継ぐと考えられていたが、トランプ氏の場合はどうなるのかまったく予測がつかない。そのため、株・為替の動きがあやしくなっている。一日たって、ニューヨークは株高になっているようだが、ドル安は変わらないようだ。
どうなるかわからないなら、動かなければ良さそうなものだと思うのだけれど、やっぱり賭け事というのは、座が乱れたときに勝負をかける人が出てくるわけだ。

私のような年金受給者(減額されているけれど)にとっても、基金が株式などのリスク資産で運用される割合が拡大しているから、他人事とは思えない。

年金基金の莫大なお金を動かして、株式を買い支えてアベノミクスの予言を自己成就し、政府を支える政策。結果、投機筋のリスク、さらに実損も負担。


何より心配なのは、トランプ大統領は、日本は安全保障タダ乗りなどと言っているから、軍事・外交でも、どんなことになるやら。
そして、それに対する日本政府の対応能力を信用してよいものか。

期待もある。
トランプ氏は、アメリカの製造業を守るといっている。それならば、金融の世界で、「カジノ資本主義」をリードしてきたアメリカン・スタンダードを是正すべきだ。実体経済を大事にしてもらいたい。しかし、実体経済といっても、現在の世界では、Google、AmazonをはじめとするIT企業がアメリカを支えているわけだから、かつての保護主義をとろうとしても、それは無理な算段ではないだろうか。

ただ、「アメリカを偉大な国にする」という心情は、今まで以上に、アメリカン・スタンダードがグローバル・スタンダードだという、強い態度に繋がるかもしれない。

ところで、今回の選挙で選ばれたトランプ支持州の選挙人が、トランプ氏じゃなくて、クリントン氏に投票するなんてことはないんでしょうね。

こりゃたまげた

201611080021_000.jpg びっくりした。
多くのブロガーがとりあげるだろうけど、ブログは日記的要素もあるから、記録のために私もとりあげることにした。

昨日の朝、福岡市の駅前の大きな通りが、30m×30mにわたって陥没した。
地下鉄工事をしていて、そのトンネルに向けて、上部の土砂が崩れ落ちたということらしい。

テレビで地盤工学の専門家という人が説明していたが、福岡市のこのあたりは、地層が複雑で、地表面は平に見えても、岩盤は山あり谷ありになっていたり、曲がっていたりするのだそうだ。だから、岩盤部分を掘り進んでいるつもりでも、谷やクラックにあたればこういうことが起きるらしい。
福岡市の地下鉄工事では、過去にも同種の事故が起こっているというが、それも同じ状況だったのだろう。

専門家は、こうした地盤の状況は調査してもわからない可能性も高いとも説明していたが、この事故では、すでに小さいトンネルは通っていて、それを拡げる工事をしていたというから、素人考えかもしれないが、その小さいトンネル内から上部地層を調べるようなことはできなかったのだろうか。過去にも事故を起しているわけだから、通常以上の慎重さが要求されると思う。

山を削った造成地では、もともとの谷筋、水道があると、そこに土を入れても陥没してしまう危険があるという。なかなか難しいものだ。

復旧に向けて特殊なセメントを流し込むという話だけれど、またまた素人考えたけれど、せっかく地下に開いた孔である、いっそ地下利用でも考えてはどうだろう。地下の空洞って、今のはやりだし。

今回の事故は早朝であったこと、工事担当者が危険を察知して、すみやかに道路封鎖したので、停電で転んだ人がいたそうだがそれを除けば、けが人などは、なかったという。もちろん工事の人も避難したわけである。
迅速な判断はほめられて良いと思う。

韓国の政治スキャンダル

slide_506656_7085660_free.jpg 韓国で朴槿恵大統領が、国家機密情報を友人に提供していたということが、大きなスキャンダルになっている。
また、大統領との関係をバックに、傘下の財団や個人的に利益を受けていたとか、子供の不正入学というようなことも言われているようだ。

この後者についてはともかく、前者の情報「漏洩」については、そこまで大きな問題になるのかなという感じもする。

もちろん報道の、それもごく一部の上っ面だけで、詳しいことは全くわからないから、私の感覚が正しいというつもりはまったくない。
ただ、大統領が人生で頼りにしていた友人に、政治向きのことも相談するということは、あって不思議じゃないように思うだけだ。

日本でも、権力者が、自分の友人や、公職についていない有力者・有識者にいろいろ相談することは、十分ありそうで、その際、ある程度の内部事情をあかすことが全くないとも思えない。

朴槿恵大統領の場合は、友人が全くの民間人で公職についていないということが問題視されているのかもしれない。公職についていない以上、守秘義務で縛ることができないということかもしれない。
かといって、その友人を顧問だとか政策秘書だとかに着けようとしたら、縁故採用だと指弾されたかもしれないが。

トップがかわったら気心のしれた秘書や、自分の意見に沿う顧問やコンサルを使う。米国はそれが政治の常道で、スタッフ総入替もある。

公職採用で問題が起こるのは異性関係がからんだときぐらい(好色採用)ではなかろうか。
「妾を秘書にしたら問題だが、秘書を妾にして何が悪い」という話もある。
(やっぱりダメでしょう、後者でもパワー&セクシャル・ハラスメントだったら)


だけど、国家の秘密を他国に売るようなことを確信的に行うような人なら、守秘義務条項があるからといって、それを思いとどまるとも思えない。
実際のところ、どういう実害があったのか、そこは今のところ、わからない。
件の友人は「国民の皆さん、許して下さい。申し訳ありません。死に値する罪を犯しました」と言ったというのだけれど、どのぐらい悪いことをしたんだろうか。

朴槿恵大統領の場合、身近なところに信頼できるスタッフがいなかったのかもしれない。
今まで頼っていた友人を、つい頼りにしたくなっただけなのかもしれない。

もちろん、そんなことでは大統領失格だといわれてもしかたがないのだけれど。


韓国という国は、何か不正や不公正があると、国民は敏感に反応するようだ。
以前、韓国の人に「韓国の学生は反政府デモとか、激しいですね、日本では、学生にそういう政治意識そのものがないように思うので、そこは立派だと思うんですが」と言ったら、否定的な反応があったことを思い出すけれど。

いずれにせよ、大統領に対する韓国民の支持率はついに10%程度まで落ち込んだそうだ。

昔聞いた小咄を一つ。
ナチス政権下のドイツ、ヒトラーは狂っていると街頭演説をしている男がいた。
ゲシュタボがやってきて男は逮捕される。
 「容疑はなんだ! 総統侮辱罪か!」
 「静かにしろ、国家機密漏洩罪だ。」

核兵器禁止条約

K10010747411_1610280905_1610280906_01_03.jpg 核兵器の法的禁止措置に向けた交渉開始の決議が、国連の委員会で採択されたそうだ。

核のない世界をめざすという大統領をいただく米国はもちろん反対。
世界でただ一つの核兵器被爆国である日本も反対。
いろいろ理屈はあるようだけれど、米国の核の傘の下で、米国には反対できないからだと、多くの人がそう見ている。

国連総会委、核禁止条約の交渉開始決議=日本は反対―保有国抜きで来年開催
時事通信 10/28(金) 7:16配信


【ニューヨーク時事】国連総会第1委員会(軍縮)は27日、核兵器禁止条約など核兵器の法的禁止措置について交渉する国連会議をニューヨークで来年開くとした決議を123カ国の賛成を得て採択した。
 日本や核兵器保有国の米ロ英仏など38カ国が反対し、中国など16カ国が棄権した。核開発を進める北朝鮮は賛成した。
 決議はメキシコやオーストリアなどが主導し、55カ国以上が共同提案した。年内に総会本会議で採択され、正式な決議となる見通しだ。核兵器を法的に禁止する枠組みについて、国連で初めて本格的な議論が行われることになる。
 決議は「国連総会は核兵器全廃に向け、核兵器を禁じる法的拘束力のある措置を交渉するため、2017年に国連会議を招集することを決定する」と明記。来年3月27~31日、6月15日~7月7日を会期とし、国連の全加盟国に参加を促している。
 しかし、核保有国側は交渉には参加しない構えで、核軍縮をめぐる国際社会の分裂が一層鮮明になった。
 日本の佐野利男軍縮大使は採決後、記者団に対し、「実効的な核軍縮は核保有国と非保有国の協力の下で進める必要がある」と強調。反対した理由について「意思決定のあり方に国際社会の総意を反映させてほしいと主張してきたが、(決議案には)反映されていなかった」と説明した。
 決議は会議について、多数決による議決が可能な国連総会の手続き規則を用いるとしている。日本は、全会一致(コンセンサス)による意思決定とするよう提案国側に働き掛けていた。
 日本外務省関係者は「安全保障を考慮しながら核軍縮を進めていくという記述が(決議案には)ない」とも指摘した。
 日本と同様、米国から「核の傘」の提供を受ける北大西洋条約機構(NATO)加盟国など欧州諸国も軒並み決議に反対した。 
とはいうものの、核の廃止に対して、日本政府はずっと反対というか、その動きを止める方向で活動してきているから、今回の反対についても予想されたことではある。(⇒「日本外交は奇々怪々」

北朝鮮も賛成していて、もし核兵器が禁止されて、行儀の良い国がそれを遵守すれば、北朝鮮だけが核保有国で残れるとでも考えたか。


私は政府の肩をもつつもりはないけれど、たしかに現実的かどうか、半信半疑である。条約の内容を知らないから論評できないけれど、一斉にや~めたとなっても、それこそ守らない国があったらぶち壊しだと思う。

以前、「人類の敵」条約というのはどうだろうと書いたけれど、核保有はしかたがなくて、やはりその使用に規制を加える、使ったら「人類の敵」というような内容なら、反対するのは難しいのではないかと愚考する。

それに、核兵器といえども人類の科学の成果ではある。
よくマッド・サイエンティストとかが破滅的兵器を開発して、正義の味方がそれを阻止するというSFがあるけれど、私が思うには、そういう破滅的技術が開発されたなら、それを封印することはまず不可能、必ずそれを追開発する別の技術者、あるいはそれをさせる権力者が現れるに違いないと考えてしまう。できるとわかったら、すぐにマネする人が出てくる。

大変なものを発明してしまったが、それとどう付き合っていくか、後戻りはできない。

どっちもどっち、ではない

沖縄での機動隊員の発言については、さまざまに報道されている。
沖縄県東村の米軍北部訓練場ヘリパッド移設工事の警備中、抗議する人たちに「土人」「シナ人」などと発言した大阪府警の2人の男性機動隊員について、府警は21日、「軽率で不適切な発言で、警察の信用を失墜させた」として共に戒告の懲戒処分にし、発表した。府警が不適切発言で懲戒処分にしたのは初めて。
監察室によると、男性巡査部長(29)は18日午前9~10時、「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」と発言。男性巡査長(26)がほぼ同時刻、近くで「黙れ、こら、シナ人」などと言ったという。巡査部長は10日、巡査長は11日から現地で警備にあたっていた。
巡査部長は「(抗議する人が)体に泥をつけているのを見たことがあり、とっさに口をついて出た」、巡査長は「過去に(抗議する人に対して)『シナ人』と発言する人がいて、つい使ってしまった」と説明。2人とも「侮蔑的な意味があるとは知らなかった」と話した、としている。
府警は同日付で2人を監督していた男性警部(41)も所属長口頭注意とした。
高木久監察室長は「誠に遺憾。今後このようなことがないよう指導を徹底する」との談話を発表した。

(朝日新聞デジタル 2016年10月21日17時57分)

記録のために、右に一記事を転載しておく。

私は別に、これが差別的暴言で許せないという意見に与するものではない。
ただ「どっちもどっち」ということではないと思う。

反対派は、沖縄を蔑視する差別的発言とし、当該警察官に根強い差別意識があると指弾し、そして、その発言のベースとして、当局の意識に問題があるとして、批判の矛先を向ける。

私は、機動隊員の発言は、差別的というより、侮蔑的であって、これはケンカをしている相手に対して、怒りの感情をぶつけたものだと思う。弁明しているように、差別意識があったというより、この言葉が相手を侮辱するものだからこそ、この言葉が口をついたということだろう。

大阪府知事は、相手も酷い言葉を使っている(週刊誌ではそうした報道もされている)、機動隊員だけが批判されるのはおかしいというような趣旨のことを言っているようだけれど、弁護したい気持ちはわかるけれど、状況の改善にはならない(実際、この発言にも批判が起こった)。

機動隊は対等のケンカをしているわけではない。
軍事用語でいえば、asymmetric(非対称)という状況なのである。

そして、何より、こういう反体制派にとっては、「剥きだしの暴権力」とか「人権意識の欠如」というものは、恰好の攻撃材料になる。こういうことがあると、どちらに理があるという問題から、権力は酷いことをするという批判にすりかわってしまう。
そして、反体制派はそのことが良くわかっているから、体制側から暴言や暴力を引き出そうとする。

話は違うけれど、乱暴な客が来たときには、相手が暴力をふるってくれれば、直ちに制圧し、警察を呼んで対応することができる。だから、それを待っているというような話もある。
上司に口答えして怒らせ、手を出させようとした人もいた。相手が手を出せばこっちのもの、人事当局に告発して配置換えだ(少なくともどちらかは)ということが狙いだったらしい。


この事件をふまえ、今後、指導を徹底するそうだが、どういう指導をするのだろう。思うに、

こういう言葉を使うと、相手に攻め口を与えることになる。
そのことを肝に銘じ、隊や国の不利益になるような行動は、絶対にするな。
つまり、挑発に載るな、何を言われても聞きながせ。

というあたりではないだろうか。

「領収書」法

receipt_form.jpg参議院予算委員会での質疑で、白紙領収書のことが追求されていた。
呆れることに、答弁に立つ閣僚が「問題ない」と。

政治資金規正法上は問題がないという理屈があるのかもしれないけれど、そもそも領収書って、支払の事実を証明するもので、双方の名前、日付、金額などが記載されたもので、一度っきりしか出されないものではなかったの?
前に小咄を紹介したけれど、これこそ「なんで領収書なの」である。

そして白紙の「領収書」を受け取った人が、これに記入したら、文書偽造罪になるはずである。
また、白紙の「領収書」を渡したら、その使われ方によって、たとえば税法違反の幇助罪になるはずである。
閣僚の「問題ない」発言は、いったい何を言いたいんだろう。
これで、閣僚には遵法精神が欠けていることがはっきりした。

追求する側も違法性の認識が甘すぎるのでは。


AS20161006004376_comm.jpg 個人で会社を経営している人などと飲食をすると、誰が支払ったかはともかく、領収書をその人に渡すということがあるらしい。会社としては必要経費として控除してもらうというご利益があるわけだ。
企業が政治家のパーティー代を出していたかもしれない。それはどう処理したんだろう。(まとめて払うだろうから、というか税務調査があるから、ちゃんとした領収書を用意していただろう。)

答弁のなかには、政治資金規正法には領収書の要件などは定めがないという変な理屈を言う人もいたようだ。

領収書の発行側の作成方法についての規定はございません。法律上、ございません。」(高市総務大臣)


それなら、領収書の要件を定義するとともに、特に定めが無い限り「領収書」の語が使われているすべての法令についてこれを適用するという“「領収書」法”とでもいうものを作ったらどうか。

政治資金規正法は「特に定める」の方になるかもしれないが。
(というか「本法制定前の法令には適用しない」と但し書きか)


この際、領収書には、総務大臣お得意のマイナンバーを記入させたらどうでしょう。

正義の味方

先日の記事で、

正義の拳は、振り回し過ぎないようにしてもらいたい。
自分に正義があると思っている人ほど残酷になれるものだから。

などと、訳知り顔で書いたけれど、随分昔から「正義」というものには疑念を持っていた。

マイケル・サンデルのように正義とは何か、と問うようなスタンスではなくて、正義の効果というものが何となく怖いという感覚である。

志賀直哉「正義派」あらすじ
路面電車が飛び出して来た子供を轢いて死なせる事故が起こり、その軌道の保線作業をしていた3人の工夫が目撃していた。
運転手は突然のことでブレーキが間に合わなかったと主張するが、工夫は直ぐに急ブレーキを掛けていれば事故は防げたと警察で話すが、会社側からは証言を止められる。
その後、3人は飲みに行き、あの事故の目撃者は俺たちだと聞こえよがしに喋る。
高校のとき、国語の授業で配られた短編のプリントがあった。志賀直哉「正義派」。

作者・作品名は全く忘れていたが、あらすじを頼りに検索すると、これで間違いないようだ。

授業で扱われたから、同じ教室で他の生徒の感想も聞いた覚えがある。
正義を実行して、代償を期待するかのような態度は情けないという意見があったと思う。
会社の態度を批判する意見もあったと思う。
ネットにもこの短編の解説や鑑賞の記事が散見される。


複雑なテーマで、どういう読みが正しいのかはわからない。私の読み方は浅いのかもしれない。
ただ、私の記憶として残っているのは、自分に正義があると感じると、人はいたずらに昂奮してしまうということ。何となく正義が持つ恐ろしさみたいなものを感じたわけだ。

24812_original-crop.jpg この授業より前のことだと思う、やはり高校のときに考えたことがある。
正義の味方になってはいけない、正義の味方とは物事の善悪の判断が停止した状態ではないかと。

子供向けのドラマやまんがには、正義の味方が登場する。
彼らは圧倒的なパワーを持っている。もし、私があのようなパワーを持っていたら、その使い方で悩むに違いない。
そして、そのパワーの「正しい」使い方として、安直に正義に頼ってしまうだろう。(中にはデビルマンのように、正義に頼らないヒーローもいるけれど。彼は正義ではなく、恋人のために戦う。)

今日は、高校時代の青臭い話も思い出して書いたけれど、やっぱり今でも思う。「これが正義だ」という正義はやはり何か違う。
正義は、正義を常に疑ってこその正義じゃないだろうか。

そう思っているとおもしろい報道が目に入った。

人間と動物、暴走車がひかざるを得ないとしたらどちら?


兵馬俑を見てきた

IMG_20160930_115057.jpg 昨日、残っている夏期休暇をとって、国立国際美術館で開催している「始皇帝と大兵馬俑」という展覧会を見に行った。
会期終了間近であり、土日は大混雑だろうと思って、平日、早いうちにという目論見である。

10:10頃に入場したが、すでにかなりの混雑である。そして時が経つにつれて混雑は激しくなり、11:40頃に会場を後にするときには、入場口に長蛇の列ができていた。


メインは始皇帝陵から出土の兵馬俑と、銅車馬の展示だが、タイトル通り、秦が小国から成り上がる歴史を追っている。
あらためて、兵馬俑が突然出現したのではなくて、それ以前からの習俗として、いろんな俑が副葬品になっていたことも説明され、始皇帝以前の俑も多く展示されていた。
そのほか、度量衡の統一にかかるものや、貨幣など、歴史上有名な始皇帝の業績をあらわす展示。

IMG_20160930_103658.jpg 兵馬俑といえば、大阪城築城400年を記念する「大阪城博覧会」でも展示されていた。残念ことに、一体が倒されて損傷するという事件があった。(どうでも良いけど昨年は大阪城落城400年だった。)

というわけで、兵馬俑を見るのは2回目だが、大阪城博のときは、数体を置いているだけ、いわば要素展示にすぎなかったけれど、今回は、きちんとストーリーが組み立てられていた。

また、出口の手前には、兵馬俑の複製を並べて、自由に写真を撮れるコーナーが設けられていた(写真)。これはなかなか良いアイデアだと思う。

私は、入場してまっすぐ兵馬俑⇒銅車馬を見て、出口のこのコーナーに気付いたから、まだ人が少ない状態で写真が撮れた。
その後、それ以外の展示を見て、再度出口へ来ると、もう雑踏である。


今回は、いつもの単眼鏡でなく、少し前に購入した、合焦距離の短い双眼鏡を持って行った。これはなかなかの威力。展示物のいくつかには文字が刻まれているが、これが良く見える。今回は、対象が立体だからとくに双眼鏡の値打ちが出たと思う。(また、人混みがきつくて、遠くからしか見られない場合にも有効。)

ところで、客のほとんどは老人(私も他人のことは言えないが)だけれど、小学生が授業の一環だろう、手にスケッチ用のボードを持っておおぜいが入場していた。そういえば、美術館に着いたとき、隣の科学館前にも小学生の団体が並んでいた。こちらは科学館で授業かな。

政治家の言葉

abe_shoshinhyoumei.jpg 国会がはじまり、安倍首相の所信表明演説が行われた。
ネットなどでは「未来」という言葉がやたら多かったと評されている。

私もニュースで一部を聴いたが、「未来への投資」という。
やっぱり、突っ込みたくなるのよね、「未来へのつけまわし」という意味ですよねと。
経済学では、投資=貯蓄だから、未来への投資=未来への貯蓄、つまり未来に債権を渡すということ。

もう一つ突っ込みたくなったのは、憲法改正について。
安倍首相はこう行った、「与党も野党も立場を越えて」と。
党が立場を越えて議論するというなら、党議拘束を外して議論すべきということでしょうか。
自民党議員にも、憲法改正に慎重な方は多いと思う。自由に意見が言える環境を整えるのでしょうね。

政治家ではないけれど、先日、日銀総裁が金融政策の方針について記者会見を行ったけれど、インフレターゲットは続けるそうだ。やはり思うよね、2%のインフレ率って、消費税を増税すれば達成できるやんか。(インフレ率の計算では変動の大きな生鮮食料品ははずらしいから、食料品対象の複数税率が行われても影響は小さい。)

政治家の言葉は、力強い修飾語でできている。(内容は、修飾語が規定するわけではない。)

キリシタン―「宗教で読む戦国時代」(その2)

KB252160.jpg 一昨日、神田千里「宗教で読む戦国時代」をとりあげたけれど、今日は関連して思ったこと。
一昨日は、キリシタン、一神教になると、神の観念が変わるようだと書いたが、そういう神の観念自体が一神教特有のものなんだろう。

本書では、一向一揆は信仰をめぐるものではない、つまり信仰を賭けて戦ったものではない、弾圧者から、棄教を迫られるというような面はなかったと説明されているが、昨日書いたように、私はこの著者の説はやや怪しいと思っている。

絶対的な信仰を持つと人は変わるのである。そしてそれはキリスト教では顕著な姿になるようだ。
一昨日も書いたように、天道思想はキリスト教受容の下地になったと著者は指摘するのだが、仮にそうだとしても、キリシタンになったとたんに、日本の天道思想とは相容れないものになったのではないだろうか。

島原の乱は、キリスト教を棄教すれば許すという点、信仰のかかったものである。

もちろん叛乱者の団結を切り崩すという意図があっただろう。無理やりキリスト教徒にさせられた人たちもいて、それなりの効果もあったらしい。いずれにせよ、信仰が乱の大きな要素である。


一神教というのは、たくさんの神のうち一つを選んで信じるのではない。
神は一つのみ存在し、そしてその神のみをすべての人が信じなければならないということである。
 ∃1xy [ y は x を信じる ]   ([ ワイクルスを信じる ] と読んでください)

※ x と y の順番を入れ替える (∀y∃1x [ y は x を信じる ] ) と弱い命題=寛容な一神教になる

従って、他の神はすべて否定される。

同じ1つの神を信じるとしても――ユダヤ教の神、キリスト教の神、イスラム教の神は同じ神だと聞いているわけだけれど、この3宗教の対立は一体どうしたことか。同じ神を信じるものとしての連帯ではなく、お互いを異端(異教)視する。

対して、日本には八百万の神が居る。アニミズム的信仰の対象となるものは別として、主要な神や、各種の仏教教派があっても、これらは同じ神が違う姿で顕れたもの(本地垂迹)として、丸く収める知恵があるのに。

他宗を否定する教義の場合は、これがあてはまらない。


キリシタンは、弾圧された被害者のような扱いというか、学校の歴史の授業ではそういうイメージで教えられた覚えがある。しかし、既存宗教を否定し、信仰のためなら乱暴狼藉を働く一面があったことが、本書では紹介されている。
キリシタン大名の領国では、多数の寺社が破壊され、僧侶が殺されたという。島原の乱にあっても、多くの寺社が破壊されたそうだ。(昨日稿に書いた仏教教団間の暴力闘争があったことも、キリシタンの暴力行使への抵抗感を下げていただろうと思う。)

こういうキリシタンの乱暴狼藉の話を読むと、「ローマ人の物語」(塩野七生)や「背教者ユリアヌス」(辻邦夫)が重ねあわされてくる。これらを読んでいると、キリスト教というのが、どれほどイヤラシく、卑劣で、粗野なものなのか、「あのガリラヤ人どもめ」と罵りたくなる。現代の我々が賛美してやまない、ミロのビーナスやサモトラケのニケのような美術品が、キリスト教徒によって無残にも木端微塵にされてしまったのだ。

偶像崇拝を禁止するイスラム教(本来、キリスト教もだけど)では、過激派は異教の偶像を破壊する。タリバンやISの美術品破壊行為を批判する資格が、キリスト教徒にあるのだろうか。


eikyuji_map16.jpg それは古代ローマの話じゃないか、その後キリスト教は洗練され、すばらしい芸術も生み出したという意見もあるだろう。しかし、日本ではわずか400年ほど前、すでにプロテスタントも出現している時代に、キリシタンが神社仏閣を、仏像・神像を破壊しまくったわけである。

もっとも、明治の廃仏毀釈の嵐も同様のことをしているわけだ。私が生まれ育った市には、内山永久寺という壮麗な寺院があったらしいが、廃寺となった。

西洋に学ぶということは、キリスト教の不寛容という精神を学ぶということだったのかもしれない。
一神腐乱である。

天道思想―「宗教で読む戦国時代」(その1)

KB252160.jpg 日本人は無宗教だという言説がある。

日曜日に教会に行くこともないし、一日のはじまりが神への祈りで始まる人というのはそう多くない。
そのくせ、初詣に行き、お盆やお彼岸の行事はやる。結婚式は神式が多く、最近はキリスト教式が増え、葬式は多くが仏式である。
外国人からは、日本人には信じる神はいないのかというように見えるというわけだ。

「家の宗旨は○○です」という言い方はしても、「私は○○の信者です」という言い方は稀である。


何という本だったか忘れたけれど、日本人に宗教心がないというのは、特定の教派・教会という組織への帰属のことにすぎず、ちゃんと神を敬う気持ちはもっているという反論を読んだことがある。

神田千里「宗教で読む戦国時代」は、この根深い日本人の宗教心というのが、既に戦国時代からあったという。
著者はそれを「天道」思想と表現している。

子供の頃、「お天道様が見てるよ」と言われて育った人は多いと思う。脈々と流れている神を畏敬する気持ちであろう。


信長ですら天道思想の持ち主であったとする。
信長と宗教といえば、叡山の焼き討ち、長島一向一揆の皆殺し、石山本願寺との長い闘いが思い起こされるけれど、信長は宗教を否定しているわけではない。信仰も布教も禁止はしていないという。僧にあるまじき富や権力への執着、そのための敵対勢力との共闘、そういったものを攻撃したにすぎない。

また、日本の仏教諸派間の諍いは信仰上のものではなく、もっぱら教派指導者の権力争いだと分析する。
一向一揆(この言葉も江戸時代に真宗側が自らの功績を誇るために使いだしたものだという)は、宗教のための戦いではなくて、その地の時の権力者の争いに加わったもので、加賀が門徒で持つ国というのは、宗教国家を作ったのではなく、守護をめぐる戦いの結果として、寺が地域支配をしたものという見方。

しかし疑問もある。当時、激烈な宗派間闘争があったことをどう理解するのか。
天文法華の乱(1536年)。

僧兵と宗徒、近江の大名・六角定頼の援軍が加わって、延暦寺は総計約6万人を動員して京都市中に押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる人々を殺害した(天文法難)。
さらに延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。

(Wikipedia)

本書では、この乱については全く触れられていない。
なお、この事件の前に起こった山科本願寺焼き打ち(法華宗側と浄土真宗の諍い、浄土真宗の京都での勢力拡大に法華宗が対抗)については本書でも触れられてはいるが、著者は当時の公家の日記に「今日一時に滅亡、しかしながら天道なり」(鷲尾隆康『二水記』天文元年8月24日条)とあることをもって、天道思想が一般的であったことを傍証するものという扱いとなっている。

しかし、これはやはり無理があるように思う。
天文法華の乱の引鉄となったのは、法華宗が延暦寺に宗教問答をふっかけ、法華宗の一門徒が叡山の僧を論破してしまったこととされている。これを根にもった延暦寺側が、上述の暴挙に出たというわけだ。
著者がいうように、俗世の権力争いがからんでいたかもしれないが、発端は信仰の違いと考えるべきだと思う。

天道思想をもちだすなら、一部宗派は天道思想を受け入れていない、そしてその宗派の門徒以外は天道思想を持っているから、当該宗派を受け入れない、と解することが自然だと私は思う。

私の知り合いで教誨師をされていて、あちこちの刑務所を回っておられた方がいたが、その方は「創価学会の人が講和をすると他宗を否定するので受刑者が騒いでしまう」という話をされていた。


それはそうとして、著者は、天道思想がキリスト教受容の下地になった可能性を指摘する。
キリスト教の宣教師も、そのことに気づいていて、天道思想とキリスト教の教えを照応させて、布教につとめていたという。

2016-09-13_094714-index.jpg しかしながら、一旦キリシタン、というか一神教になると、神の観念は変化するようだ。

豊洲市場、落としどころが見えてきたかな

toyosu_ichiba_tokyo.jpg マスコミで連日、東京都の築地市場の豊洲移転問題が伝えられているけれど、責任追及はともかく、市場自体については、そろそろ落としどころが見えてきたように思う。

小池知事が立ち上げると言った「専門家会議」、ここでは豊洲の問題点を点検し、有毒物質等の環境問題、盛土がないことの影響、竣工済みの建物の安全性などを「明らかに」して、市場としての利用については、軽微な問題点を指摘して、豊洲移転を適正と判断することになるだろう。
前の専門家会議の提言は否定されるわけではなくて、既成の工事は、本来なら当初から選択肢になっていてもおかしくない程度の妥当性があったという総括をすると思う。

もちろん、意思決定過程や、前の専門家会議の提言を無視した都の独断については、不適正であったとし、引き続き調査、必要なら処分が検討されることになるだろう。

ということで、どうしてこんなことになったのだろう。「天の声」があったにしろ、なかったにしろ、都の職員の計画及びその実行力が弱かったということではないだろうか。

天の声があれば、それにそうように周到に計画しなければならないし、天の声がないのなら、天に責任を負わせるぐらいの内部の意思形成過程を整えなければならない。


建築も環境も素人の私の推測だから、間違っているかもしれないが、都の土木建築系の職員は、東京ガスが既に土地の改良工事もしているはずだから、盛土までしなくても問題ないと判断したのでは。ただ、それなら専門家会議に対して、その方向で誘導するのが役人の知恵というもので、専門家会議において、盛土なしでも安全性が保てるという意見を対決させるという仕掛けをしなかったのが、役人としてはデキが悪い。

それと、報道などによると、新市場は使いにくいと言われている。
衛生面の要請から、入居者が使えるスペースが区切られて、そのため使える面積も、間口も小さくなったという。また、海産物を洗うのに、築地では海水が使われているのに、新市場では真水でないとならず、これでは魚の傷みがはげしくなるという話もある。塩水に耐えられる仕様になっていないのだという。

こういう点については、移転に疑問を持っている業者を、反対者と切って捨てて、その意見を汲み上げなかった結果のように思う。良いものを作ろうという意思に欠けていたのではないか。この面においても、都の職員のデキの悪さを感じる。

都の職員はエリートなんだろうけれど、エリートの悪いところ、傲慢さが顕れたと言えるのかもしれない。

「専門家会議の先生方より、俺たちの方が偉い」、「市場の業者より、俺たちの方が偉い」


某府の前知事は「収入に見合った支出」と言っていたけれど、東京都の場合は同じようなことだけど、言葉を変えて「入るにまかせて使い放題」だったのかもしれない。

同様の事業でも、東京都は他府県に比べて数倍の経費をかけてる例もあるやに聞く。
大阪本社の大手電気メーカーが、新宿新庁舎の建設時に東京都から「うちは地元優先ですから」と言われたという話も聞いたことがある。


石原元知事が「伏魔殿」と言ったそうだが、それにしてはレベルが低いのでは。

「介護」って造語なの? 商標登録されてるんだって

時々チェックしているビジネス情報サイトに、
『えっ、「介護」って造語なの? 市場をつくった“生みの親”に聞く』という記事があった。

footmark_header-logo.png 記事を読んでいると、造語というのはともかく、なんと「介護」は登録商標(1984年登録)なのだそうだ。
登録したのは、この記事で紹介されているフットマーク株式会社というところ。
同社が、大人が使えるおむつカバーを商品化したときに、「介助」と「看護」から1字ずつとって作った造語を商品名にしたという。

普通に使われている言葉が商標登録されることはないと思うから、登録以前にはこの言葉は通用していなかったと推定できる。
介護保険法、育児・介護休業法、介護労働者法など、法律に介護の語が使われている。役所には、介護保険課というような組織がある。もちろん民間でも介護保険や介護用品など、完全に1ジャンルを形成している。

登録した会社は、介護という言葉が人口に膾炙してきて、保険会社から「介護」の語を使いたいと相談を受けたときに、どうぞご自由にということで、別に使用料とかもとらずに認めたそうである。
『当社だけが「介護」という言葉を使っていたら、介護に関係する商品やサービスが広がっていなかったかもしれません』とのことである。

もっとも商標登録には、商品区分という考え方があって、同類でなければ他者が使用することができるらしい。
「介護」が「第24類 織物及び家庭用の織物製カバー」での登録だったとしたら、保険商品(「第36類 金融、保険及び不動産の取引」)は、同類とはみなされないのではないだろうか。


kaigo_yd_mark1.jpg 記事ではこれ以上のつっこみはなく、私の憶測にすぎないけれど、同社の商品である「介護おむつカバー」の後発類似品が「介護」の語を使うことは、少なくとも粗悪品に対しては、認めないのではないだろうか。でないと、商標権には維持費が発生するから、同社が維持費を払って商標権を確保する意義はないと思う。
その一方、競合することのない保険会社や行政が「介護」の語を広めてくれれば、この商品の認知度も高くなるだろう。

これを意図していたなら、見事である。
しかし、会社の会長へのインタビューで構成されている記事を読んでいると、この会長さんは計算ずくでやっているようには全然思えない。
「正直の頭に神宿る」といった雰囲気だ。

この記事が載っているビジネス情報サイトは、多くの人が愛読していることだろう。
今頃、日本のあちこちで、「『介護』って登録商標なんだぞ」という話題がひとしきり語られていることだろう。

そうそう、学校の水泳帽子というのも、この会社が開拓したものだそうだ。

『なぜ学校のプールで「水泳帽子」をかぶるのか 知られざる下町企業のチカラ』


失政は選んだ国民の責任

gempatsu_cost_tenka.jpg 眼を疑うようなニュースが流れている。
原発コスト新電力も負担、政府調整 料金に上乗せ

原発の是非については措くとして、原発を推進してきた理屈はいろいろ言われるけれど、つきつめれば経済性だったはずで、それが正しければ原発を持つ電力会社は十分儲けてきたはずだろう。
それを、廃炉が見えてくるようになると、その廃炉のコストは新電力会社、つまりそれを通じて国民が負担しろという。

原発にも耐用年数があるはずだから、減価償却や廃炉引き当てをしているだろう、税制上の優遇も受けただろう。


なるほど福島第一原発事故は「想定外」で、このような天変地異にあっては、福島県民だけでなく、全国民が負担を分かち合うべきだという言い方もできるだろう。
こうした「災害」を免れたことで、自分だけが無事で申し訳ないと感じる他県民としては拒否もしにくい。

電力自由化の理念から考えるとどうだろう。
自由競争の論理のもと、より効率的に電力を供給できる電力会社が競争に勝ち、低廉な電気料金が実現されるという説明を聞いてきた。そして原発に反対という人が多くなれば、再生可能エネルギーだけを使う電力会社が選択され、原発は競争に負けて、原発反対者にとっても満足な結果になるという説明もあったと思う。

そういう電力会社を選んだとしても、原発のコストを負担しなければならないというのは腑に落ちないことだ。
けれども、どの電力会社を選んでも全国民が等しく原発廃止コストを負担するのであれば、電力会社の選択に対してはニュートラルになる。「公正な」競争条件を確保したというわけだ。言い換えれば、旧来の電力会社が持っているお荷物は、リセットしないと勝負にならないということだ。

もちろん新電力のシェアは今のところごく僅かだろうから、直接的な被害者はそう多くないだろう。それに、私は旧来の電力会社のままであるから、負担を新電力が分担するというなら、私の電気代は下がりこそすれ、上がる理屈はないのだけれど。
新電力のシェアが大きくなって、うるさい人が少ない今のうちに制度化してしまおうという手回しの良さなら唖然とする。

新自由主義の帰結で書いた通りの状況がここにもある。

強者が利益を独占し、それがうまくゆかなくなると、強者が倒れたらみんなが困るから、みんなで助けなければならない。それに、危機が来るまでは、危機は存在しない(想定外)からそんなことは考える必要がないのだし。


どうやら、株式会社の失敗なら株主は出資の範囲での有限責任を負えば良いが、政府の失敗には、国民が無限責任を負うというしかけになっているらしい。

要するに実質増税である。
この国の為政者は、失敗しても、国民から搾り取れば誤魔化せると思ってるようだ。なめられたもんだ。

大阪メトロ

osaka_metro_train.jpg 大阪市の地下鉄が民営化されることになるようだ。
ネットの解説記事2018年「大阪メトロ」誕生へ、東京メトロの成功例を実現できるかに、民営化のねらいや課題について、丁寧に解説されている。

そもそも地下鉄民営化は、橋下市長時代から言われていたと思う。
ただ、民営=善、公営=悪と決めてかかっている風だったし、民営化すればいくらでも市外に延伸できるというような絵空事を言うから、信用できないという感じがしていた。

前述の解説記事では、民営化で良くなることとして、
  1. 付帯事業が自由にやれる
  2. 入札せずに随意契約で発注先を決められる
  3. 議会が承認した予算の裏付けがなくても臨機応変に事業ができる
  4. 人事異動が臨機応変にできる
といったことがあげられている。

まず1だけれど、多くの公営事業では本体ではできない事業を、関連会社を作ることで独占的利益を上げる方法をとってきたところが多い。ところがそれをすると身内企業優遇で、儲けを子会社にプールして本体の利益を低くしているという批判や、公共物なんだから、一般民間企業にも甘い汁を吸わせてくれという要望が出てくる。
民営化すれば、そういう迂回した事業や公共性への配慮(交通機関としての公共性は残る)をする必要はなくなるから、よりストレートに利益を上げることができる。

次に2についてだが、入札は受注希望者間で価格競争させることで効率的かつ公正な契約を結ぶという風に理解されているが、実は応札者が限られていて、他所から乱入することがなければ、必ずしも競争は発生しない。入札は面倒でかつ価格効果も限られているというわけである。
また、一般に民間企業は、コア事業以外については、特定のパートナーを選定して末永い協力関係を築く。これは、そうすることで実行コストはもちろん、その事務の管理コストまで下げることができるからと考えられる。

3についてはこの通りだろう。議会は普通、追認機関にすぎないわけだが、そのくせ説明責任を求める。議会を通じての市民への説明責任は、株主への説明責任にかわるから、事務コストはかなり下がる。
また、議員は地元への利益誘導を優先するから、不採算路線の新設などを求めてくる(地下鉄のない区をなくそう)から、これを防げれば経営上の利益は大きい。

4つめだが、これはやや微妙である。解雇は公務員身分でなくなってもそう簡単にはできないと考えられる。公務員給与はまだ年功序列が強いようだから、同様の仕事をしていても高齢者の方が高い給与をもらっていると推測されるから、このあたりの改革を進めるのだろう。当然、給料が下がる人が増えるから、そういう人達のモチベーションを保つことが重要になるだろう。

かつて、近鉄が奈良電を吸収したとき、奈良電社員と近鉄社員の待遇に一切差をつけず、奈良電社員の不安を一掃したという話がある。大阪メトロは民鉄との合併ではなく、自立民営化だから事情は違うけれど、大手民鉄との横並びあたりだろうか。
なお、公務員だから職業倫理が低いというようなイメージを持つ人もいるようだが、この点に関してはそうとは言い切れない。ある大学が大阪市内の自動車の運転マナーの調査をしたところ、民営バスは総じて運転マナーが良かったが、大阪市バスはかなり強引なマナーの悪い運転が目立ったという。強引な運転をしてもダイヤ通り運行しようという職業意識が高いようだ。


そして、何よりのメリットは、民営化すれば株式売却益が得られるということである。
あるいは、相互乗り入れしている路線、堺筋線(阪急)、中央線(近鉄)は、切り離して阪急、近鉄に売り払うなんてこともできそう(御堂筋線を北急に売ることはないと思う、逆に北急を吸収するほうがありそう)。

解説記事では懸念材料として、赤字の市バス事業をあげていた。
普通、民営化といえば、儲かるところだけ民営化して、お荷物は役所に残すのが常套手段のようだけれど、さすがにあからさまに市バスを切り捨てることはできない。

公営住宅の管理を民間委託している例が増えているが、普段の修繕や入居者サービスはするけれど、焦げ付いた家賃の回収のような面倒な仕事は委託範囲に含まれていないことが多いようだ。もちろん公的債権だから、これを放棄するためには議会の承認が必要だから、法制上委託範囲にはならないらしいが。

当面、事業を縮小しながら、いつつぶれてもよいように事業設計をしていくことになるだろう。

もう一つ気になるのが、現在は大阪地下鉄は167億円の黒字だが、一般会計からの補助金が104億円あるので、実質黒字は63億円ということである。ところが、民営化されれば固定資産税も発生する。軌道そのものは鉄道の公共性から減免されると考えられるが、それ以外の資産は課税対象となる。一説によればこれが50億円ぐらいになるという。

以前、ある地方自治体が公共施設の民営化を検討したとき、ある程度収支の見込みが立つような施設でも、固定資産税が賦課されるとどうも立ち行かないという話を聞いたことがある。


いずれにせよ、大阪市も儲かるし、関連事業も起ちあがる。利用者サービスも良くはなっても悪くなる要素は見当たらない。誰も反対する理屈はない。
反対するとしたら、新たな競争の場で勝ち組になれそうにない人か、今まで税金を納めて、投資や赤字を支えてきた過去の納税者だけだろう。

「無私の日本人」

2016-08-22_101814-crop.jpg 映画「殿、利息でござる」のテレビCMを見て、面白そうだなと思った。そして、原作というかタネ本が、磯田道史「無私の日本人」であると知って、「武士の家計簿」同様、これは期待できる作品だろうと思った。

映画はいずれテレビでも放送されるだろうけれど、何より、磯田先生の本なら面白いだろう、そう思って、すぐに電子書籍を購入した。

語り口、まさにそういう表現がピッタリである。カタイ歴史解説書のような、史料・解釈という体裁をとらない。まるで司馬遼太郎か吉川栄治を読んでいるみたいな感覚である。旅の道中、タブレットで一気に読んでしまった。

なんでも著者を「平成の司馬遼太郎」という人もいるらしい。


「無私の日本人」には3つの話がとりあげられている。穀田屋十三郎、中根東里、大田垣蓮月である。

598e97e9f7401b5a1cd68fed2266ba26.jpg 映画のもとになったのは、穀田屋十三郎の部分である。
私は映画は見ていないが、テレビCMから受ける印象はコメディ。だから本書を読み始めるときも、してやったりという領民の姿が描かれるのかと思ったが、そうではない。

藩側の役人、代官の橋本権右衛門、出入司(実質的な財政トップ)の萱場杢の2人が重要である。代官橋本は領民の思いを受け止め、領民の企てが成就することを助けるわけだが、出入司の萱場は領民の足下を見てさらに搾り取るわけだが、それでも実務官僚らしく、領民の知恵に興味を持つ懐の深さもあるようだ。

江戸時代の役人の仕事(不作為)ぶり、つまり先例主義、盥回し、そして相手の足下を見るには長けた様子が、縷々書かれていて、読んでいる側にも悔しさが湧いてくる。

中根東里については、本書を読むまで存在も知らなかった(もちろん穀田屋十三郎も知らなかった)。
儒者というより仁者と言うべきか。

rengetu01.jpg そして大田垣蓮月、この名前はどこかで聞いた覚えはあった。
本書によると今の京都大学構内に居住し、焼き物の工房跡が発見されている。今、その場所から西、御所方面へ行くには今でも今出川か荒神口、丸太町の橋を渡るわけだけれど、丸太町の橋を最初に架けたのは蓮月さんだという。しかも橋を架けるために貯めていたお金は飢饉のときにはすべて拠出したこともあるという。

また、江戸無血開城は、西郷と勝の会談の成果とか、天璋院や静寛院宮による両陣営への嘆願などといわれているけれど、本書によれば、西郷を動かしたのは蓮月の西郷への直訴だろうという。

あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば


以前、珍之助さまのブログへのコメントに、蓮月は「傍目にはどうみても不幸続き。自ら眉を抜き、歯を抜き、自分が美人であることをどれほど呪ったことか」と書いた。これも本書で知ったことである。

aa6dba62c7420895d1615f54e490e9c0.png 美貌で文武に優れ、血筋も高貴、そして無私無欲で慈愛に満ちた人。

中根東里と蓮月には仁慈の人として、通ずるものがあるように思う。
二人とも、傍目には恵まれない境遇を生きたように見えて、本人たちは至高の人生を全うしたようだ。

この記事を書くために蓮月をネットで見ていたら、「無私の歌人」という、本書のタイトルを採ったと思われる展覧会(既に終了)の案内チラシが見つかった。

あちこちに刺激を与えている本だ。
(残念ながら私は電子書籍で読んだので、お貸しすることができない。あしからず。)

知識のアップデート

2016-08-06_134220.png リオ・オリンピックが始まっている。
オリンピックといえばブログのネタの宝庫のようにも思えるが、イチローの3000安打や天皇陛下のメッセージなど、時事の話題が多くて、後回しになってしまった。

というか、直前まであまり盛り上がりを感じていなかったのが本当のところだけれど、やはり開会し競技が始まり、連日のニュースを眼にすると、やはり力が入ることを避けられない。

今日は、開会式の中継を見ていて、オリンピックそのものとは関係ないけれど、ふと思ったこと。
といっても、実は開会式で行われたアトラクションの方は、中継では見ておらず、ニュースで少し見ただけである(NHKでは広島平和記念式典の中継があり、その後からオリンピックの開会式が中継された)。

Rio_parade_tricycle1.jpg つまり、実質的には各国選手団の入場行進から見たようなものであるが、これを見ていると、世界の国々についての知識がアップデートされる。
インドの人口が世界2位だということは常識として知っているが、今は12億人を超えているとは知らなかった。中国が13億人だと思っていたが、インドとの差が「わずか」1億人とは。

つまり、開会式の入場行進では、各国のことが紹介されるから、ずぼらな私が各国の知識を仕入れる良い機会を与えられるわけである。もちろん調べようとすればいつでも簡単に調べられることだけれど、あまり関心・知識のなかった国についても、こうやって情報をプッシュされる機会として貴重。

以前、フランス映画で「ザ・カンニング」(邦題)というのを見たことがある。バカロレア合格を目指す受験生の話だが、中にとっくに定年を過ぎたおじいさんが混じっていて、他の学生とは異なり、真面目で勉強熱心なのだけれど、いかんせん知識が古い。そもそも持っている教科書がそのおじいさんが高校にいたときのものらしく、いまだにプロシアが存在しているという具合。


若い頃はこういう大イベントについては冷笑的な態度をとったりもした。どいつもこいつも何がおもしろいんだ、というわけである。大阪万博も、かろうじて会場へ行っても、月の石なんか見てやるものか、というわけである。

けれど、今ではそうした態度については後悔する。やはり目の前で歴史に残る(であろう)イベントが繰り広げられているとき、その証人になっておくほうが、結局トクなように思える。
大群衆に辟易するとしても、この中に居たんだよと子供や孫に言えるほうが、カッコイイんじゃないだろうか。

そういえば、100kmの渋滞につかまったとか、1km進むのに1時間かかったという経験をすると、その後、何年もの間、これをネタにすることができるわけだ、「大変だった、大変だった」で。


陛下のお気持ち

Flag_of_the_Japanese_Emperor.png 昨日、天皇陛下のお気持ちの、「象徴としてのお務めについて」ということのようだが、ビデオメッセージが配信された。

天皇陛下』などと平気で書いているけれど、小学校の頃、敬語の練習で、「天皇陛下におかれましては」とやったら、親から注意された。
「『天皇陛下』などと直接指し示す言葉など使ってはいけません、『畏きところ』におかせられましてはと、陰に示すようにしなければなりません」と。また「おかれ」では敬意が足りず、「おかせられ」と二重敬語を使わなければならないとも。
昨今は、NHKですら敬語が乱れているようである。


以前、生前退位の意向が伝えられた時も本ブログでとりあげたけれど、私は、ご退位されても、それで国が乱れるというようなことはないと書いた。
世間には、摂政を置けば十分じゃないかとか言っていた人もいるけれど、今回のお言葉によれば、そういう問題ではないことが、はっきりと伝えられたと思う。

陛下は、後の準備をされようとしているのだ。そして、それが国民生活に大きな影響を与えることをご心配されているのだ。

おそれおおくも、私の前の記事でも、喪葬のことや、元号のことを考えると、計画的に譲位されるほうが、準備期間のことも含めて混乱が少ないだろうと書いたが、陛下も同じようなご心配をされているように思った。
もちろん、「計画的に」なんて畏れ多いことかもしれないが、崩御を今か今かと待つほうが畏れ多いのではないだろうか。

先帝のときには、みながXデーを心配していた。その日が来たときにはどう対応しなければならないか、対応マニュアルも作られていたことだろう。

kyoto_gosho_kunaicho.jpg 退位されたら国事行為をすることはなくなる。それだからといって、ただ飯食らいなどと言う輩がいるはずもない。内廷費がとりたてて増嵩することもないだろう。
いや、この際、内廷費を上げてもらって、上皇におなりの陛下には、京都御所にお住まいいただいたらどうだろう。
同志社の学生が、ボランティアで、北面の武士よろしく、お守りするでございましょう。

東京都知事選

yuriko_et_tocho.jpg 東京都知事選が終わった。おおかたの予想どおり小池百合子氏が選出された。

この人とは、東京のホテルでエレベーターに乗り合わせたことがある。趣味の良い(値段の高そうな)スーツを着こなされていたが、思っていたより背は低くて、重心がやや頭よりにあるようなプロポーションだった。


選挙結果は私の予想どおりではあるけれど、投票締め切りを期して、直ちに当選確実の報道がなされるとまでは想像していなかった。当確はもう少し遅くまでもつれるだろうと思っていたのだけれど。

それはともかく、この選挙、一部の週刊誌では「窮極の選択」として、誰を選んでも不幸みたいな書き方をしていた覚えがある。
米国大統領選挙では、史上最も不人気な大統領候補と言われているが、それに似た状況。
選挙運動期間中に「出たい人より出したい人」と言っていた某党幹部が居たけれど、これでは「出したくない人」になってしまう。

ところで、この「出たい人より出したい人」というのは、私も子供の頃聞いた覚えのあるスローガンだけれど、この言葉には暗い過去があるということを最近知った(これも某党幹部が不用意に使ってくれたおかげである)。

出たい人より出したい人」というのは、昭和17年の「翼賛選挙」において、「翼賛政治体制協議会」が推薦した候補者への投票を呼び掛けるスローガンとして、「大東亜築く力だ、この一票」とともに使われた言葉だという。この選挙では、翼協の推薦候補には、陸軍省の臨時軍事費から一人当たり五千円の選挙資金が配られる一方、非推薦候補者に対しては、官憲や地域団体が徹底的に選挙妨害を行ったといわれているという。(以上、「鹿児島近代社会運動史」久米雅章他より)

某党幹部はそういう深いことを考えるような人ではなくて、そのときの調子でしゃべったのだろうと思うけれど、そのときは、都連の推薦を受けられない「出たい人」に対して、われわれが「出したい人」という意味で使ったのだろうけれど、この言葉を聞いたときには反射的に「あんた(都連)が出したい人」でしょ、と思った。

とにかく、都民の判断は下ったわけで、これからの都政が円滑に進むように願うのみである。
それでちょっと都財政の指標を見てみたのだけれど、数年前、大変驚いたことを思い出した。
東京都の財政力指数が1を切っているのである。
財政力指数というのは、簡単に言えば収入と支出(普通ならこのぐらい)の比のことで、この指数が1を下回ると地方交付税が交付されるしかけらしい。

2015年度のデータだが、都道府県で1を上回るところは一つもない。東京都が一番高く0.92532、2位が愛知県の0.92083、次いで神奈川県の0.91658。大阪府は6位で0.73756である。
市町村では、全国1740市町村中、1以上は64団体しかない。

昔、今の場所へ引っ越してすぐの頃、居住市の合併に関するアンケートがあって、設問に「合併するとしたらどこが良いですか」という問いに対しては、久御山町と答えたことがある。近隣自治体ではここだけが財政力指数が1を超えていたからである。


で、東京都の財政指標を見ていると、ここ数年、つまり舛添さんが知事をしている間に、どんどん改善している。
財政力指数はH22年度の1.162から、H23:0.961、H24:0.864、H25:0.871、H26:0.925とV字回復である。
経常収支比率や実質公債費比率、将来負担比率など、他の指標でも同様の傾向である。

これは要するに、舛添さんは、自分の個人的な楽しみにはお金を使ったかもしれないが、大きな事業はいっさいやらなかった、そういうことなのかもしれない。

財政至上主義では東京オリンピックはやれまい。
知事が明示的にできることは、施策の優先順位づけと、動かせる財源(限られた)をどう貼り付けるかぐらいだが、東京都の経常収支比率は低く、将来負担も小さい。規模を考えれば相当な額を動かせるはずだから、いろんなことができる可能性はあると思う。
さて、新知事はどういう判断をするのだろうか。

選挙戦を見ていて、都庁職員を死ぬほど働かせてやるという雰囲気は感じられなかったのだけれど、行政をきちんと動かすためには、公務員の給料を下げるより、しっかり働かせることが大事だと思う。役人というのは、上の指示があれば、それにあったストーリーを書き(でっちあげ?)、実行するのが仕事なんだから。

なんといっても民主党政権、さらには党自体の崩壊の大きな原因は、官僚を使いこなせなかったことだと思う。官僚の言うことを頭から否定することが政治主導だという錯覚―そしてそれが国民に一時は受けたわけだが―その底の浅さが国政を混乱させ、支持を失う原因になったと私は考えている。

公務員は、仕事もせず、身分保障され、高給を得ている、という大衆に迎合するイメージを否定したら票がとれないという現実もあるから、選挙中は控えるのは仕方がないけれど、本当にそう思っているとしたら政治家としては失格(あのハシモトさんだって、府民向けには公務員を馬鹿よばわりした一方で、優秀な職員がたくさんいると持ち上げている)。
それに民間企業だったら、社員を役立たずよばわりする社長はロクな仕事はできない、部下を使えない馬鹿なリーダーと言われるだけである。


小池氏は、ちょっとこわもてだけれど、都職員を掌の上で遊ばせるぐらいの度量を発揮できるだろうか。

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