過労死と電通「鬼十則」

s_ice_screenshot_20161107-110222.jpeg 電通社員の過労死(自殺)がクローズアップされている。
一言で言えば、酷い会社である。あまりにも前近代的で、労働生産性の低い、効率の悪い最低の企業である。
苛酷な労働というが、無駄に苛酷、つまり苛酷さが自己目的化していたのでは。言い換えれば、全社イジメ体質だったのでは。

この会社は、仕事の成果と投入する労働の関連について、何の分析・評価もせず、生産性の低さに問題意識を持っていなかったに違いない。
およそ、科学的経営ということを知らない田舎企業と言われてもしかたがない。
それを見直す機会は、いくらでもあったはずである。まして、この会社は二十数年前にも社員の過労死自殺を起している。
それをしなかったのは、仕事というのは厳しいものだという観念に凝り固まり、厳しいということに安住、自己満足していたからではないだろうか。

十数年前、私も所属課の人事担当を仰せつかったことがある。
課員の異動、勤怠管理、健康管理、セクハラ相談(だれも相談にこなかった)など。

人事担当になると、いろんな研修を受けさせられる。
健康管理、とくにメンタルヘルスや過労死問題もテーマになっていた。
過労死問題の研修では、当時でも既に、過労死認定があれば補償は1億円を超える時代になったということが解説されていて、その兆候に早く気付くことが人事担当には求められていた。
もちろん私がいた職場でも、残業の多い職員は結構いたけれど、過重労働という問題にまではなっていなかった(メンタル面でちょっとというのはあったけれど)。

こういう労働安全衛生について考える機会が与えられたなら、成果の上がる働き方を追求するのが真っ当な会社というものである。

 電通鬼十則
 一、仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
 二、仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
 三、大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
 四、難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
 五、取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
 六、周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
 七、計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
 八、自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
 九、頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
 十、摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。
ところで、この事件に関連して、有名な電通の「鬼十則」についても、厳しいルールだという取り上げ方がされている。この「鬼十則」は、私が前いた会社でも良く知られていて、ある人は厳しいルールだという評価をしていたけれど、また別の評価もあった。
たとえば、

  • 「仕事は自ら創る」というのは、押し付けられた仕事より、自分がやりたいことをやる方が楽しいと考える。
  • 「先手先手」というのは、守りに入るより、攻めるほうが、主導権を持てる分、負担が少ない、という意味。
  • 「周囲を引きずり回せ」というのは、何でも自分でやらず、他人の力をうまく使って成果を上げるという意味。

「鬼」とついているから厳しいように感じるけれど、こう考えれば、仕事を楽しく、少ない負担で成果をあげるという意味にもとれる。

そもそも、頭脳労働というか知識労働というのは、時間に縛られるようなものではない。若い頃、上司から、「24時間考えろ」と言われて、「それじゃ寝る時間ありませんよ」と抗弁したら、「夢の中でも考えるんや」と言われた覚えがある。
また、あるとき、六二郎さんはいったいいつ仕事をしてるんやと言われたこともある。職場では本を読んだり、馬鹿話をしたりしていて、普段、手を動かしている時間が少なかった(「雑用」もそれなりにあったけれど)。もちろん、要所要所の企画書や意思決定資料はきちんと用意したし、年度末などには報告書一冊をきちんと書き上げていたわけだけれど。

どんな仕事でもそうだというつもりはないけれど、たとえば、何か企画をまとめようというときは、手を動かす時間はそう多くない。企画書というのは簡潔・明瞭にまとめられているべきで、短いほうが良いものである。問題は、ビジョンをどう熟成させるかであり、時間をかければ、まして残業すれば出来るものではない。それに至るまでに、それを根拠づけたり、補強するための資料収集と、利害関係者の理解など、手順はいろいろあるけれど。

なにより、これらの作業こそ、チームでやるもの。私は書き手役が多くて、関係者を説得(強請)するのは上司にまかせたし、資料の収集や整理は周囲が気を利かせていた。

そして、ああでもない、こうでもないとぐるぐる頭の中を回っている間に、考えが練れてきて、ビジョンが固まる、そういうものではないだろうか。

資料作成では、ドラフトができるまでが勝負であって、それができたら、あとは頭脳労働というより、職人仕事になる。そして、これはある程度、時間でも測れる仕事になる。ここまでくれば、経験の浅い社員でも十分できるし、優秀な人材なら、ここに至るまでの過程からノウハウを身に付けることもできると思う。

この会社は、効率的に成果をあげるだけのノウハウを社内で共有できていないのか。
日本の時間あたり労働生産性は先進国中でも最低ランクである。これは同じ成果を出すのにかける労働時間数が多すぎるからだ。おそらく、一人当たりの産出は他国より多いぐらいなんだろうけど、それにかける労働時間が多すぎるのだ。

この社員は「きみの残業時間はすべて無駄」と言われていたという報道もあったけれど、ただ時間をかけても能率が上がらないから切り替えようとか、ビジョンを組み替えたり、ヒントを与えたり、そういう指導はできなかったのだろうか。まして経験の浅い社員相手である。
「鬼十則」を本当に深く考えたのだろうか。(私の読みが違うのかもしれないけれど)
同じ金言でも、適用する環境や社員の能力によって、読み方が真逆になってしまう、そういうことかもしれない。

上司・指導する側の能力不足だったんだろう、そんな奴がエラそうに言うな。
失われた命の重さをきちんと受け止めて、繰り返されないことを祈る。

米大統領選

2016-11-09_164316.jpg 米国大統領選挙で、おおかたの予想とは異なり、トランプ氏が勝利。
このニュースも記録のために記事にすることにした。

図は、おそらくウィスコンシンでトランプが勝利して、選挙人の過半数を押さえたときのもの。


正直、私もこの結果には驚いた。
今年は、"Brexit"でも、おおかたの予想に違う結果が出て、大騒ぎになった。なんだか、国際政治の曲がり角のような気がする。

米国民はとにかく、なんでも良いから、現状が変わってほしいと考える人が、今では多数派になったということだろう(日本でも、同じような状態にあると思う)。
冷静な政策議論なんてどこにもなくて、とにかく破壊したいという判断。民主主義の行き着くところ、ハーメルンの笛吹きについていくところになるのかも。

米国がどうなろうと知ったこっちゃない、というわけにはいかない。
「アメリカがくしゃみをすると、日本が風邪をひく」というのは、かつての日米関係で言われたことだけれど、グローバル化(アメリカ・スタンダード化)が進む世界では、アメリカがくしゃみをすると、世界が風邪になってもおかしくないように思う。

クリントン氏が大統領になった場合は、多くの政策がオバマ大統領時代を引き継ぐと考えられていたが、トランプ氏の場合はどうなるのかまったく予測がつかない。そのため、株・為替の動きがあやしくなっている。一日たって、ニューヨークは株高になっているようだが、ドル安は変わらないようだ。
どうなるかわからないなら、動かなければ良さそうなものだと思うのだけれど、やっぱり賭け事というのは、座が乱れたときに勝負をかける人が出てくるわけだ。

私のような年金受給者(減額されているけれど)にとっても、基金が株式などのリスク資産で運用される割合が拡大しているから、他人事とは思えない。

年金基金の莫大なお金を動かして、株式を買い支えてアベノミクスの予言を自己成就し、政府を支える政策。結果、投機筋のリスク、さらに実損も負担。


何より心配なのは、トランプ大統領は、日本は安全保障タダ乗りなどと言っているから、軍事・外交でも、どんなことになるやら。
そして、それに対する日本政府の対応能力を信用してよいものか。

期待もある。
トランプ氏は、アメリカの製造業を守るといっている。それならば、金融の世界で、「カジノ資本主義」をリードしてきたアメリカン・スタンダードを是正すべきだ。実体経済を大事にしてもらいたい。しかし、実体経済といっても、現在の世界では、Google、AmazonをはじめとするIT企業がアメリカを支えているわけだから、かつての保護主義をとろうとしても、それは無理な算段ではないだろうか。

ただ、「アメリカを偉大な国にする」という心情は、今まで以上に、アメリカン・スタンダードがグローバル・スタンダードだという、強い態度に繋がるかもしれない。

ところで、今回の選挙で選ばれたトランプ支持州の選挙人が、トランプ氏じゃなくて、クリントン氏に投票するなんてことはないんでしょうね。

こりゃたまげた

201611080021_000.jpg びっくりした。
多くのブロガーがとりあげるだろうけど、ブログは日記的要素もあるから、記録のために私もとりあげることにした。

昨日の朝、福岡市の駅前の大きな通りが、30m×30mにわたって陥没した。
地下鉄工事をしていて、そのトンネルに向けて、上部の土砂が崩れ落ちたということらしい。

テレビで地盤工学の専門家という人が説明していたが、福岡市のこのあたりは、地層が複雑で、地表面は平に見えても、岩盤は山あり谷ありになっていたり、曲がっていたりするのだそうだ。だから、岩盤部分を掘り進んでいるつもりでも、谷やクラックにあたればこういうことが起きるらしい。
福岡市の地下鉄工事では、過去にも同種の事故が起こっているというが、それも同じ状況だったのだろう。

専門家は、こうした地盤の状況は調査してもわからない可能性も高いとも説明していたが、この事故では、すでに小さいトンネルは通っていて、それを拡げる工事をしていたというから、素人考えかもしれないが、その小さいトンネル内から上部地層を調べるようなことはできなかったのだろうか。過去にも事故を起しているわけだから、通常以上の慎重さが要求されると思う。

山を削った造成地では、もともとの谷筋、水道があると、そこに土を入れても陥没してしまう危険があるという。なかなか難しいものだ。

復旧に向けて特殊なセメントを流し込むという話だけれど、またまた素人考えたけれど、せっかく地下に開いた孔である、いっそ地下利用でも考えてはどうだろう。地下の空洞って、今のはやりだし。

今回の事故は早朝であったこと、工事担当者が危険を察知して、すみやかに道路封鎖したので、停電で転んだ人がいたそうだがそれを除けば、けが人などは、なかったという。もちろん工事の人も避難したわけである。
迅速な判断はほめられて良いと思う。

韓国の政治スキャンダル

slide_506656_7085660_free.jpg 韓国で朴槿恵大統領が、国家機密情報を友人に提供していたということが、大きなスキャンダルになっている。
また、大統領との関係をバックに、傘下の財団や個人的に利益を受けていたとか、子供の不正入学というようなことも言われているようだ。

この後者についてはともかく、前者の情報「漏洩」については、そこまで大きな問題になるのかなという感じもする。

もちろん報道の、それもごく一部の上っ面だけで、詳しいことは全くわからないから、私の感覚が正しいというつもりはまったくない。
ただ、大統領が人生で頼りにしていた友人に、政治向きのことも相談するということは、あって不思議じゃないように思うだけだ。

日本でも、権力者が、自分の友人や、公職についていない有力者・有識者にいろいろ相談することは、十分ありそうで、その際、ある程度の内部事情をあかすことが全くないとも思えない。

朴槿恵大統領の場合は、友人が全くの民間人で公職についていないということが問題視されているのかもしれない。公職についていない以上、守秘義務で縛ることができないということかもしれない。
かといって、その友人を顧問だとか政策秘書だとかに着けようとしたら、縁故採用だと指弾されたかもしれないが。

トップがかわったら気心のしれた秘書や、自分の意見に沿う顧問やコンサルを使う。米国はそれが政治の常道で、スタッフ総入替もある。

公職採用で問題が起こるのは異性関係がからんだときぐらい(好色採用)ではなかろうか。
「妾を秘書にしたら問題だが、秘書を妾にして何が悪い」という話もある。
(やっぱりダメでしょう、後者でもパワー&セクシャル・ハラスメントだったら)


だけど、国家の秘密を他国に売るようなことを確信的に行うような人なら、守秘義務条項があるからといって、それを思いとどまるとも思えない。
実際のところ、どういう実害があったのか、そこは今のところ、わからない。
件の友人は「国民の皆さん、許して下さい。申し訳ありません。死に値する罪を犯しました」と言ったというのだけれど、どのぐらい悪いことをしたんだろうか。

朴槿恵大統領の場合、身近なところに信頼できるスタッフがいなかったのかもしれない。
今まで頼っていた友人を、つい頼りにしたくなっただけなのかもしれない。

もちろん、そんなことでは大統領失格だといわれてもしかたがないのだけれど。


韓国という国は、何か不正や不公正があると、国民は敏感に反応するようだ。
以前、韓国の人に「韓国の学生は反政府デモとか、激しいですね、日本では、学生にそういう政治意識そのものがないように思うので、そこは立派だと思うんですが」と言ったら、否定的な反応があったことを思い出すけれど。

いずれにせよ、大統領に対する韓国民の支持率はついに10%程度まで落ち込んだそうだ。

昔聞いた小咄を一つ。
ナチス政権下のドイツ、ヒトラーは狂っていると街頭演説をしている男がいた。
ゲシュタボがやってきて男は逮捕される。
 「容疑はなんだ! 総統侮辱罪か!」
 「静かにしろ、国家機密漏洩罪だ。」

核兵器禁止条約

K10010747411_1610280905_1610280906_01_03.jpg 核兵器の法的禁止措置に向けた交渉開始の決議が、国連の委員会で採択されたそうだ。

核のない世界をめざすという大統領をいただく米国はもちろん反対。
世界でただ一つの核兵器被爆国である日本も反対。
いろいろ理屈はあるようだけれど、米国の核の傘の下で、米国には反対できないからだと、多くの人がそう見ている。

国連総会委、核禁止条約の交渉開始決議=日本は反対―保有国抜きで来年開催
時事通信 10/28(金) 7:16配信


【ニューヨーク時事】国連総会第1委員会(軍縮)は27日、核兵器禁止条約など核兵器の法的禁止措置について交渉する国連会議をニューヨークで来年開くとした決議を123カ国の賛成を得て採択した。
 日本や核兵器保有国の米ロ英仏など38カ国が反対し、中国など16カ国が棄権した。核開発を進める北朝鮮は賛成した。
 決議はメキシコやオーストリアなどが主導し、55カ国以上が共同提案した。年内に総会本会議で採択され、正式な決議となる見通しだ。核兵器を法的に禁止する枠組みについて、国連で初めて本格的な議論が行われることになる。
 決議は「国連総会は核兵器全廃に向け、核兵器を禁じる法的拘束力のある措置を交渉するため、2017年に国連会議を招集することを決定する」と明記。来年3月27~31日、6月15日~7月7日を会期とし、国連の全加盟国に参加を促している。
 しかし、核保有国側は交渉には参加しない構えで、核軍縮をめぐる国際社会の分裂が一層鮮明になった。
 日本の佐野利男軍縮大使は採決後、記者団に対し、「実効的な核軍縮は核保有国と非保有国の協力の下で進める必要がある」と強調。反対した理由について「意思決定のあり方に国際社会の総意を反映させてほしいと主張してきたが、(決議案には)反映されていなかった」と説明した。
 決議は会議について、多数決による議決が可能な国連総会の手続き規則を用いるとしている。日本は、全会一致(コンセンサス)による意思決定とするよう提案国側に働き掛けていた。
 日本外務省関係者は「安全保障を考慮しながら核軍縮を進めていくという記述が(決議案には)ない」とも指摘した。
 日本と同様、米国から「核の傘」の提供を受ける北大西洋条約機構(NATO)加盟国など欧州諸国も軒並み決議に反対した。 
とはいうものの、核の廃止に対して、日本政府はずっと反対というか、その動きを止める方向で活動してきているから、今回の反対についても予想されたことではある。(⇒「日本外交は奇々怪々」

北朝鮮も賛成していて、もし核兵器が禁止されて、行儀の良い国がそれを遵守すれば、北朝鮮だけが核保有国で残れるとでも考えたか。


私は政府の肩をもつつもりはないけれど、たしかに現実的かどうか、半信半疑である。条約の内容を知らないから論評できないけれど、一斉にや~めたとなっても、それこそ守らない国があったらぶち壊しだと思う。

以前、「人類の敵」条約というのはどうだろうと書いたけれど、核保有はしかたがなくて、やはりその使用に規制を加える、使ったら「人類の敵」というような内容なら、反対するのは難しいのではないかと愚考する。

それに、核兵器といえども人類の科学の成果ではある。
よくマッド・サイエンティストとかが破滅的兵器を開発して、正義の味方がそれを阻止するというSFがあるけれど、私が思うには、そういう破滅的技術が開発されたなら、それを封印することはまず不可能、必ずそれを追開発する別の技術者、あるいはそれをさせる権力者が現れるに違いないと考えてしまう。できるとわかったら、すぐにマネする人が出てくる。

大変なものを発明してしまったが、それとどう付き合っていくか、後戻りはできない。

どっちもどっち、ではない

沖縄での機動隊員の発言については、さまざまに報道されている。
沖縄県東村の米軍北部訓練場ヘリパッド移設工事の警備中、抗議する人たちに「土人」「シナ人」などと発言した大阪府警の2人の男性機動隊員について、府警は21日、「軽率で不適切な発言で、警察の信用を失墜させた」として共に戒告の懲戒処分にし、発表した。府警が不適切発言で懲戒処分にしたのは初めて。
監察室によると、男性巡査部長(29)は18日午前9~10時、「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」と発言。男性巡査長(26)がほぼ同時刻、近くで「黙れ、こら、シナ人」などと言ったという。巡査部長は10日、巡査長は11日から現地で警備にあたっていた。
巡査部長は「(抗議する人が)体に泥をつけているのを見たことがあり、とっさに口をついて出た」、巡査長は「過去に(抗議する人に対して)『シナ人』と発言する人がいて、つい使ってしまった」と説明。2人とも「侮蔑的な意味があるとは知らなかった」と話した、としている。
府警は同日付で2人を監督していた男性警部(41)も所属長口頭注意とした。
高木久監察室長は「誠に遺憾。今後このようなことがないよう指導を徹底する」との談話を発表した。

(朝日新聞デジタル 2016年10月21日17時57分)

記録のために、右に一記事を転載しておく。

私は別に、これが差別的暴言で許せないという意見に与するものではない。
ただ「どっちもどっち」ということではないと思う。

反対派は、沖縄を蔑視する差別的発言とし、当該警察官に根強い差別意識があると指弾し、そして、その発言のベースとして、当局の意識に問題があるとして、批判の矛先を向ける。

私は、機動隊員の発言は、差別的というより、侮蔑的であって、これはケンカをしている相手に対して、怒りの感情をぶつけたものだと思う。弁明しているように、差別意識があったというより、この言葉が相手を侮辱するものだからこそ、この言葉が口をついたということだろう。

大阪府知事は、相手も酷い言葉を使っている(週刊誌ではそうした報道もされている)、機動隊員だけが批判されるのはおかしいというような趣旨のことを言っているようだけれど、弁護したい気持ちはわかるけれど、状況の改善にはならない(実際、この発言にも批判が起こった)。

機動隊は対等のケンカをしているわけではない。
軍事用語でいえば、asymmetric(非対称)という状況なのである。

そして、何より、こういう反体制派にとっては、「剥きだしの暴権力」とか「人権意識の欠如」というものは、恰好の攻撃材料になる。こういうことがあると、どちらに理があるという問題から、権力は酷いことをするという批判にすりかわってしまう。
そして、反体制派はそのことが良くわかっているから、体制側から暴言や暴力を引き出そうとする。

話は違うけれど、乱暴な客が来たときには、相手が暴力をふるってくれれば、直ちに制圧し、警察を呼んで対応することができる。だから、それを待っているというような話もある。
上司に口答えして怒らせ、手を出させようとした人もいた。相手が手を出せばこっちのもの、人事当局に告発して配置換えだ(少なくともどちらかは)ということが狙いだったらしい。


この事件をふまえ、今後、指導を徹底するそうだが、どういう指導をするのだろう。思うに、

こういう言葉を使うと、相手に攻め口を与えることになる。
そのことを肝に銘じ、隊や国の不利益になるような行動は、絶対にするな。
つまり、挑発に載るな、何を言われても聞きながせ。

というあたりではないだろうか。

「領収書」法

receipt_form.jpg参議院予算委員会での質疑で、白紙領収書のことが追求されていた。
呆れることに、答弁に立つ閣僚が「問題ない」と。

政治資金規正法上は問題がないという理屈があるのかもしれないけれど、そもそも領収書って、支払の事実を証明するもので、双方の名前、日付、金額などが記載されたもので、一度っきりしか出されないものではなかったの?
前に小咄を紹介したけれど、これこそ「なんで領収書なの」である。

そして白紙の「領収書」を受け取った人が、これに記入したら、文書偽造罪になるはずである。
また、白紙の「領収書」を渡したら、その使われ方によって、たとえば税法違反の幇助罪になるはずである。
閣僚の「問題ない」発言は、いったい何を言いたいんだろう。
これで、閣僚には遵法精神が欠けていることがはっきりした。

追求する側も違法性の認識が甘すぎるのでは。


AS20161006004376_comm.jpg 個人で会社を経営している人などと飲食をすると、誰が支払ったかはともかく、領収書をその人に渡すということがあるらしい。会社としては必要経費として控除してもらうというご利益があるわけだ。
企業が政治家のパーティー代を出していたかもしれない。それはどう処理したんだろう。(まとめて払うだろうから、というか税務調査があるから、ちゃんとした領収書を用意していただろう。)

答弁のなかには、政治資金規正法には領収書の要件などは定めがないという変な理屈を言う人もいたようだ。

領収書の発行側の作成方法についての規定はございません。法律上、ございません。」(高市総務大臣)


それなら、領収書の要件を定義するとともに、特に定めが無い限り「領収書」の語が使われているすべての法令についてこれを適用するという“「領収書」法”とでもいうものを作ったらどうか。

政治資金規正法は「特に定める」の方になるかもしれないが。
(というか「本法制定前の法令には適用しない」と但し書きか)


この際、領収書には、総務大臣お得意のマイナンバーを記入させたらどうでしょう。

正義の味方

先日の記事で、

正義の拳は、振り回し過ぎないようにしてもらいたい。
自分に正義があると思っている人ほど残酷になれるものだから。

などと、訳知り顔で書いたけれど、随分昔から「正義」というものには疑念を持っていた。

マイケル・サンデルのように正義とは何か、と問うようなスタンスではなくて、正義の効果というものが何となく怖いという感覚である。

志賀直哉「正義派」あらすじ
路面電車が飛び出して来た子供を轢いて死なせる事故が起こり、その軌道の保線作業をしていた3人の工夫が目撃していた。
運転手は突然のことでブレーキが間に合わなかったと主張するが、工夫は直ぐに急ブレーキを掛けていれば事故は防げたと警察で話すが、会社側からは証言を止められる。
その後、3人は飲みに行き、あの事故の目撃者は俺たちだと聞こえよがしに喋る。
高校のとき、国語の授業で配られた短編のプリントがあった。志賀直哉「正義派」。

作者・作品名は全く忘れていたが、あらすじを頼りに検索すると、これで間違いないようだ。

授業で扱われたから、同じ教室で他の生徒の感想も聞いた覚えがある。
正義を実行して、代償を期待するかのような態度は情けないという意見があったと思う。
会社の態度を批判する意見もあったと思う。
ネットにもこの短編の解説や鑑賞の記事が散見される。


複雑なテーマで、どういう読みが正しいのかはわからない。私の読み方は浅いのかもしれない。
ただ、私の記憶として残っているのは、自分に正義があると感じると、人はいたずらに昂奮してしまうということ。何となく正義が持つ恐ろしさみたいなものを感じたわけだ。

24812_original-crop.jpg この授業より前のことだと思う、やはり高校のときに考えたことがある。
正義の味方になってはいけない、正義の味方とは物事の善悪の判断が停止した状態ではないかと。

子供向けのドラマやまんがには、正義の味方が登場する。
彼らは圧倒的なパワーを持っている。もし、私があのようなパワーを持っていたら、その使い方で悩むに違いない。
そして、そのパワーの「正しい」使い方として、安直に正義に頼ってしまうだろう。(中にはデビルマンのように、正義に頼らないヒーローもいるけれど。彼は正義ではなく、恋人のために戦う。)

今日は、高校時代の青臭い話も思い出して書いたけれど、やっぱり今でも思う。「これが正義だ」という正義はやはり何か違う。
正義は、正義を常に疑ってこその正義じゃないだろうか。

そう思っているとおもしろい報道が目に入った。

人間と動物、暴走車がひかざるを得ないとしたらどちら?


兵馬俑を見てきた

IMG_20160930_115057.jpg 昨日、残っている夏期休暇をとって、国立国際美術館で開催している「始皇帝と大兵馬俑」という展覧会を見に行った。
会期終了間近であり、土日は大混雑だろうと思って、平日、早いうちにという目論見である。

10:10頃に入場したが、すでにかなりの混雑である。そして時が経つにつれて混雑は激しくなり、11:40頃に会場を後にするときには、入場口に長蛇の列ができていた。


メインは始皇帝陵から出土の兵馬俑と、銅車馬の展示だが、タイトル通り、秦が小国から成り上がる歴史を追っている。
あらためて、兵馬俑が突然出現したのではなくて、それ以前からの習俗として、いろんな俑が副葬品になっていたことも説明され、始皇帝以前の俑も多く展示されていた。
そのほか、度量衡の統一にかかるものや、貨幣など、歴史上有名な始皇帝の業績をあらわす展示。

IMG_20160930_103658.jpg 兵馬俑といえば、大阪城築城400年を記念する「大阪城博覧会」でも展示されていた。残念ことに、一体が倒されて損傷するという事件があった。(どうでも良いけど昨年は大阪城落城400年だった。)

というわけで、兵馬俑を見るのは2回目だが、大阪城博のときは、数体を置いているだけ、いわば要素展示にすぎなかったけれど、今回は、きちんとストーリーが組み立てられていた。

また、出口の手前には、兵馬俑の複製を並べて、自由に写真を撮れるコーナーが設けられていた(写真)。これはなかなか良いアイデアだと思う。

私は、入場してまっすぐ兵馬俑⇒銅車馬を見て、出口のこのコーナーに気付いたから、まだ人が少ない状態で写真が撮れた。
その後、それ以外の展示を見て、再度出口へ来ると、もう雑踏である。


今回は、いつもの単眼鏡でなく、少し前に購入した、合焦距離の短い双眼鏡を持って行った。これはなかなかの威力。展示物のいくつかには文字が刻まれているが、これが良く見える。今回は、対象が立体だからとくに双眼鏡の値打ちが出たと思う。(また、人混みがきつくて、遠くからしか見られない場合にも有効。)

ところで、客のほとんどは老人(私も他人のことは言えないが)だけれど、小学生が授業の一環だろう、手にスケッチ用のボードを持っておおぜいが入場していた。そういえば、美術館に着いたとき、隣の科学館前にも小学生の団体が並んでいた。こちらは科学館で授業かな。

政治家の言葉

abe_shoshinhyoumei.jpg 国会がはじまり、安倍首相の所信表明演説が行われた。
ネットなどでは「未来」という言葉がやたら多かったと評されている。

私もニュースで一部を聴いたが、「未来への投資」という。
やっぱり、突っ込みたくなるのよね、「未来へのつけまわし」という意味ですよねと。
経済学では、投資=貯蓄だから、未来への投資=未来への貯蓄、つまり未来に債権を渡すということ。

もう一つ突っ込みたくなったのは、憲法改正について。
安倍首相はこう行った、「与党も野党も立場を越えて」と。
党が立場を越えて議論するというなら、党議拘束を外して議論すべきということでしょうか。
自民党議員にも、憲法改正に慎重な方は多いと思う。自由に意見が言える環境を整えるのでしょうね。

政治家ではないけれど、先日、日銀総裁が金融政策の方針について記者会見を行ったけれど、インフレターゲットは続けるそうだ。やはり思うよね、2%のインフレ率って、消費税を増税すれば達成できるやんか。(インフレ率の計算では変動の大きな生鮮食料品ははずらしいから、食料品対象の複数税率が行われても影響は小さい。)

政治家の言葉は、力強い修飾語でできている。(内容は、修飾語が規定するわけではない。)

キリシタン―「宗教で読む戦国時代」(その2)

KB252160.jpg 一昨日、神田千里「宗教で読む戦国時代」をとりあげたけれど、今日は関連して思ったこと。
一昨日は、キリシタン、一神教になると、神の観念が変わるようだと書いたが、そういう神の観念自体が一神教特有のものなんだろう。

本書では、一向一揆は信仰をめぐるものではない、つまり信仰を賭けて戦ったものではない、弾圧者から、棄教を迫られるというような面はなかったと説明されているが、昨日書いたように、私はこの著者の説はやや怪しいと思っている。

絶対的な信仰を持つと人は変わるのである。そしてそれはキリスト教では顕著な姿になるようだ。
一昨日も書いたように、天道思想はキリスト教受容の下地になったと著者は指摘するのだが、仮にそうだとしても、キリシタンになったとたんに、日本の天道思想とは相容れないものになったのではないだろうか。

島原の乱は、キリスト教を棄教すれば許すという点、信仰のかかったものである。

もちろん叛乱者の団結を切り崩すという意図があっただろう。無理やりキリスト教徒にさせられた人たちもいて、それなりの効果もあったらしい。いずれにせよ、信仰が乱の大きな要素である。


一神教というのは、たくさんの神のうち一つを選んで信じるのではない。
神は一つのみ存在し、そしてその神のみをすべての人が信じなければならないということである。
 ∃1xy [ y は x を信じる ]   ([ ワイクルスを信じる ] と読んでください)

※ x と y の順番を入れ替える (∀y∃1x [ y は x を信じる ] ) と弱い命題=寛容な一神教になる

従って、他の神はすべて否定される。

同じ1つの神を信じるとしても――ユダヤ教の神、キリスト教の神、イスラム教の神は同じ神だと聞いているわけだけれど、この3宗教の対立は一体どうしたことか。同じ神を信じるものとしての連帯ではなく、お互いを異端(異教)視する。

対して、日本には八百万の神が居る。アニミズム的信仰の対象となるものは別として、主要な神や、各種の仏教教派があっても、これらは同じ神が違う姿で顕れたもの(本地垂迹)として、丸く収める知恵があるのに。

他宗を否定する教義の場合は、これがあてはまらない。


キリシタンは、弾圧された被害者のような扱いというか、学校の歴史の授業ではそういうイメージで教えられた覚えがある。しかし、既存宗教を否定し、信仰のためなら乱暴狼藉を働く一面があったことが、本書では紹介されている。
キリシタン大名の領国では、多数の寺社が破壊され、僧侶が殺されたという。島原の乱にあっても、多くの寺社が破壊されたそうだ。(昨日稿に書いた仏教教団間の暴力闘争があったことも、キリシタンの暴力行使への抵抗感を下げていただろうと思う。)

こういうキリシタンの乱暴狼藉の話を読むと、「ローマ人の物語」(塩野七生)や「背教者ユリアヌス」(辻邦夫)が重ねあわされてくる。これらを読んでいると、キリスト教というのが、どれほどイヤラシく、卑劣で、粗野なものなのか、「あのガリラヤ人どもめ」と罵りたくなる。現代の我々が賛美してやまない、ミロのビーナスやサモトラケのニケのような美術品が、キリスト教徒によって無残にも木端微塵にされてしまったのだ。

偶像崇拝を禁止するイスラム教(本来、キリスト教もだけど)では、過激派は異教の偶像を破壊する。タリバンやISの美術品破壊行為を批判する資格が、キリスト教徒にあるのだろうか。


eikyuji_map16.jpg それは古代ローマの話じゃないか、その後キリスト教は洗練され、すばらしい芸術も生み出したという意見もあるだろう。しかし、日本ではわずか400年ほど前、すでにプロテスタントも出現している時代に、キリシタンが神社仏閣を、仏像・神像を破壊しまくったわけである。

もっとも、明治の廃仏毀釈の嵐も同様のことをしているわけだ。私が生まれ育った市には、内山永久寺という壮麗な寺院があったらしいが、廃寺となった。

西洋に学ぶということは、キリスト教の不寛容という精神を学ぶということだったのかもしれない。
一神腐乱である。

天道思想―「宗教で読む戦国時代」(その1)

KB252160.jpg 日本人は無宗教だという言説がある。

日曜日に教会に行くこともないし、一日のはじまりが神への祈りで始まる人というのはそう多くない。
そのくせ、初詣に行き、お盆やお彼岸の行事はやる。結婚式は神式が多く、最近はキリスト教式が増え、葬式は多くが仏式である。
外国人からは、日本人には信じる神はいないのかというように見えるというわけだ。

「家の宗旨は○○です」という言い方はしても、「私は○○の信者です」という言い方は稀である。


何という本だったか忘れたけれど、日本人に宗教心がないというのは、特定の教派・教会という組織への帰属のことにすぎず、ちゃんと神を敬う気持ちはもっているという反論を読んだことがある。

神田千里「宗教で読む戦国時代」は、この根深い日本人の宗教心というのが、既に戦国時代からあったという。
著者はそれを「天道」思想と表現している。

子供の頃、「お天道様が見てるよ」と言われて育った人は多いと思う。脈々と流れている神を畏敬する気持ちであろう。


信長ですら天道思想の持ち主であったとする。
信長と宗教といえば、叡山の焼き討ち、長島一向一揆の皆殺し、石山本願寺との長い闘いが思い起こされるけれど、信長は宗教を否定しているわけではない。信仰も布教も禁止はしていないという。僧にあるまじき富や権力への執着、そのための敵対勢力との共闘、そういったものを攻撃したにすぎない。

また、日本の仏教諸派間の諍いは信仰上のものではなく、もっぱら教派指導者の権力争いだと分析する。
一向一揆(この言葉も江戸時代に真宗側が自らの功績を誇るために使いだしたものだという)は、宗教のための戦いではなくて、その地の時の権力者の争いに加わったもので、加賀が門徒で持つ国というのは、宗教国家を作ったのではなく、守護をめぐる戦いの結果として、寺が地域支配をしたものという見方。

しかし疑問もある。当時、激烈な宗派間闘争があったことをどう理解するのか。
天文法華の乱(1536年)。

僧兵と宗徒、近江の大名・六角定頼の援軍が加わって、延暦寺は総計約6万人を動員して京都市中に押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる人々を殺害した(天文法難)。
さらに延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。

(Wikipedia)

本書では、この乱については全く触れられていない。
なお、この事件の前に起こった山科本願寺焼き打ち(法華宗側と浄土真宗の諍い、浄土真宗の京都での勢力拡大に法華宗が対抗)については本書でも触れられてはいるが、著者は当時の公家の日記に「今日一時に滅亡、しかしながら天道なり」(鷲尾隆康『二水記』天文元年8月24日条)とあることをもって、天道思想が一般的であったことを傍証するものという扱いとなっている。

しかし、これはやはり無理があるように思う。
天文法華の乱の引鉄となったのは、法華宗が延暦寺に宗教問答をふっかけ、法華宗の一門徒が叡山の僧を論破してしまったこととされている。これを根にもった延暦寺側が、上述の暴挙に出たというわけだ。
著者がいうように、俗世の権力争いがからんでいたかもしれないが、発端は信仰の違いと考えるべきだと思う。

天道思想をもちだすなら、一部宗派は天道思想を受け入れていない、そしてその宗派の門徒以外は天道思想を持っているから、当該宗派を受け入れない、と解することが自然だと私は思う。

私の知り合いで教誨師をされていて、あちこちの刑務所を回っておられた方がいたが、その方は「創価学会の人が講和をすると他宗を否定するので受刑者が騒いでしまう」という話をされていた。


それはそうとして、著者は、天道思想がキリスト教受容の下地になった可能性を指摘する。
キリスト教の宣教師も、そのことに気づいていて、天道思想とキリスト教の教えを照応させて、布教につとめていたという。

2016-09-13_094714-index.jpg しかしながら、一旦キリシタン、というか一神教になると、神の観念は変化するようだ。

豊洲市場、落としどころが見えてきたかな

toyosu_ichiba_tokyo.jpg マスコミで連日、東京都の築地市場の豊洲移転問題が伝えられているけれど、責任追及はともかく、市場自体については、そろそろ落としどころが見えてきたように思う。

小池知事が立ち上げると言った「専門家会議」、ここでは豊洲の問題点を点検し、有毒物質等の環境問題、盛土がないことの影響、竣工済みの建物の安全性などを「明らかに」して、市場としての利用については、軽微な問題点を指摘して、豊洲移転を適正と判断することになるだろう。
前の専門家会議の提言は否定されるわけではなくて、既成の工事は、本来なら当初から選択肢になっていてもおかしくない程度の妥当性があったという総括をすると思う。

もちろん、意思決定過程や、前の専門家会議の提言を無視した都の独断については、不適正であったとし、引き続き調査、必要なら処分が検討されることになるだろう。

ということで、どうしてこんなことになったのだろう。「天の声」があったにしろ、なかったにしろ、都の職員の計画及びその実行力が弱かったということではないだろうか。

天の声があれば、それにそうように周到に計画しなければならないし、天の声がないのなら、天に責任を負わせるぐらいの内部の意思形成過程を整えなければならない。


建築も環境も素人の私の推測だから、間違っているかもしれないが、都の土木建築系の職員は、東京ガスが既に土地の改良工事もしているはずだから、盛土までしなくても問題ないと判断したのでは。ただ、それなら専門家会議に対して、その方向で誘導するのが役人の知恵というもので、専門家会議において、盛土なしでも安全性が保てるという意見を対決させるという仕掛けをしなかったのが、役人としてはデキが悪い。

それと、報道などによると、新市場は使いにくいと言われている。
衛生面の要請から、入居者が使えるスペースが区切られて、そのため使える面積も、間口も小さくなったという。また、海産物を洗うのに、築地では海水が使われているのに、新市場では真水でないとならず、これでは魚の傷みがはげしくなるという話もある。塩水に耐えられる仕様になっていないのだという。

こういう点については、移転に疑問を持っている業者を、反対者と切って捨てて、その意見を汲み上げなかった結果のように思う。良いものを作ろうという意思に欠けていたのではないか。この面においても、都の職員のデキの悪さを感じる。

都の職員はエリートなんだろうけれど、エリートの悪いところ、傲慢さが顕れたと言えるのかもしれない。

「専門家会議の先生方より、俺たちの方が偉い」、「市場の業者より、俺たちの方が偉い」


某府の前知事は「収入に見合った支出」と言っていたけれど、東京都の場合は同じようなことだけど、言葉を変えて「入るにまかせて使い放題」だったのかもしれない。

同様の事業でも、東京都は他府県に比べて数倍の経費をかけてる例もあるやに聞く。
大阪本社の大手電気メーカーが、新宿新庁舎の建設時に東京都から「うちは地元優先ですから」と言われたという話も聞いたことがある。


石原元知事が「伏魔殿」と言ったそうだが、それにしてはレベルが低いのでは。

「介護」って造語なの? 商標登録されてるんだって

時々チェックしているビジネス情報サイトに、
『えっ、「介護」って造語なの? 市場をつくった“生みの親”に聞く』という記事があった。

footmark_header-logo.png 記事を読んでいると、造語というのはともかく、なんと「介護」は登録商標(1984年登録)なのだそうだ。
登録したのは、この記事で紹介されているフットマーク株式会社というところ。
同社が、大人が使えるおむつカバーを商品化したときに、「介助」と「看護」から1字ずつとって作った造語を商品名にしたという。

普通に使われている言葉が商標登録されることはないと思うから、登録以前にはこの言葉は通用していなかったと推定できる。
介護保険法、育児・介護休業法、介護労働者法など、法律に介護の語が使われている。役所には、介護保険課というような組織がある。もちろん民間でも介護保険や介護用品など、完全に1ジャンルを形成している。

登録した会社は、介護という言葉が人口に膾炙してきて、保険会社から「介護」の語を使いたいと相談を受けたときに、どうぞご自由にということで、別に使用料とかもとらずに認めたそうである。
『当社だけが「介護」という言葉を使っていたら、介護に関係する商品やサービスが広がっていなかったかもしれません』とのことである。

もっとも商標登録には、商品区分という考え方があって、同類でなければ他者が使用することができるらしい。
「介護」が「第24類 織物及び家庭用の織物製カバー」での登録だったとしたら、保険商品(「第36類 金融、保険及び不動産の取引」)は、同類とはみなされないのではないだろうか。


kaigo_yd_mark1.jpg 記事ではこれ以上のつっこみはなく、私の憶測にすぎないけれど、同社の商品である「介護おむつカバー」の後発類似品が「介護」の語を使うことは、少なくとも粗悪品に対しては、認めないのではないだろうか。でないと、商標権には維持費が発生するから、同社が維持費を払って商標権を確保する意義はないと思う。
その一方、競合することのない保険会社や行政が「介護」の語を広めてくれれば、この商品の認知度も高くなるだろう。

これを意図していたなら、見事である。
しかし、会社の会長へのインタビューで構成されている記事を読んでいると、この会長さんは計算ずくでやっているようには全然思えない。
「正直の頭に神宿る」といった雰囲気だ。

この記事が載っているビジネス情報サイトは、多くの人が愛読していることだろう。
今頃、日本のあちこちで、「『介護』って登録商標なんだぞ」という話題がひとしきり語られていることだろう。

そうそう、学校の水泳帽子というのも、この会社が開拓したものだそうだ。

『なぜ学校のプールで「水泳帽子」をかぶるのか 知られざる下町企業のチカラ』


失政は選んだ国民の責任

gempatsu_cost_tenka.jpg 眼を疑うようなニュースが流れている。
原発コスト新電力も負担、政府調整 料金に上乗せ

原発の是非については措くとして、原発を推進してきた理屈はいろいろ言われるけれど、つきつめれば経済性だったはずで、それが正しければ原発を持つ電力会社は十分儲けてきたはずだろう。
それを、廃炉が見えてくるようになると、その廃炉のコストは新電力会社、つまりそれを通じて国民が負担しろという。

原発にも耐用年数があるはずだから、減価償却や廃炉引き当てをしているだろう、税制上の優遇も受けただろう。


なるほど福島第一原発事故は「想定外」で、このような天変地異にあっては、福島県民だけでなく、全国民が負担を分かち合うべきだという言い方もできるだろう。
こうした「災害」を免れたことで、自分だけが無事で申し訳ないと感じる他県民としては拒否もしにくい。

電力自由化の理念から考えるとどうだろう。
自由競争の論理のもと、より効率的に電力を供給できる電力会社が競争に勝ち、低廉な電気料金が実現されるという説明を聞いてきた。そして原発に反対という人が多くなれば、再生可能エネルギーだけを使う電力会社が選択され、原発は競争に負けて、原発反対者にとっても満足な結果になるという説明もあったと思う。

そういう電力会社を選んだとしても、原発のコストを負担しなければならないというのは腑に落ちないことだ。
けれども、どの電力会社を選んでも全国民が等しく原発廃止コストを負担するのであれば、電力会社の選択に対してはニュートラルになる。「公正な」競争条件を確保したというわけだ。言い換えれば、旧来の電力会社が持っているお荷物は、リセットしないと勝負にならないということだ。

もちろん新電力のシェアは今のところごく僅かだろうから、直接的な被害者はそう多くないだろう。それに、私は旧来の電力会社のままであるから、負担を新電力が分担するというなら、私の電気代は下がりこそすれ、上がる理屈はないのだけれど。
新電力のシェアが大きくなって、うるさい人が少ない今のうちに制度化してしまおうという手回しの良さなら唖然とする。

新自由主義の帰結で書いた通りの状況がここにもある。

強者が利益を独占し、それがうまくゆかなくなると、強者が倒れたらみんなが困るから、みんなで助けなければならない。それに、危機が来るまでは、危機は存在しない(想定外)からそんなことは考える必要がないのだし。


どうやら、株式会社の失敗なら株主は出資の範囲での有限責任を負えば良いが、政府の失敗には、国民が無限責任を負うというしかけになっているらしい。

要するに実質増税である。
この国の為政者は、失敗しても、国民から搾り取れば誤魔化せると思ってるようだ。なめられたもんだ。

大阪メトロ

osaka_metro_train.jpg 大阪市の地下鉄が民営化されることになるようだ。
ネットの解説記事2018年「大阪メトロ」誕生へ、東京メトロの成功例を実現できるかに、民営化のねらいや課題について、丁寧に解説されている。

そもそも地下鉄民営化は、橋下市長時代から言われていたと思う。
ただ、民営=善、公営=悪と決めてかかっている風だったし、民営化すればいくらでも市外に延伸できるというような絵空事を言うから、信用できないという感じがしていた。

前述の解説記事では、民営化で良くなることとして、
  1. 付帯事業が自由にやれる
  2. 入札せずに随意契約で発注先を決められる
  3. 議会が承認した予算の裏付けがなくても臨機応変に事業ができる
  4. 人事異動が臨機応変にできる
といったことがあげられている。

まず1だけれど、多くの公営事業では本体ではできない事業を、関連会社を作ることで独占的利益を上げる方法をとってきたところが多い。ところがそれをすると身内企業優遇で、儲けを子会社にプールして本体の利益を低くしているという批判や、公共物なんだから、一般民間企業にも甘い汁を吸わせてくれという要望が出てくる。
民営化すれば、そういう迂回した事業や公共性への配慮(交通機関としての公共性は残る)をする必要はなくなるから、よりストレートに利益を上げることができる。

次に2についてだが、入札は受注希望者間で価格競争させることで効率的かつ公正な契約を結ぶという風に理解されているが、実は応札者が限られていて、他所から乱入することがなければ、必ずしも競争は発生しない。入札は面倒でかつ価格効果も限られているというわけである。
また、一般に民間企業は、コア事業以外については、特定のパートナーを選定して末永い協力関係を築く。これは、そうすることで実行コストはもちろん、その事務の管理コストまで下げることができるからと考えられる。

3についてはこの通りだろう。議会は普通、追認機関にすぎないわけだが、そのくせ説明責任を求める。議会を通じての市民への説明責任は、株主への説明責任にかわるから、事務コストはかなり下がる。
また、議員は地元への利益誘導を優先するから、不採算路線の新設などを求めてくる(地下鉄のない区をなくそう)から、これを防げれば経営上の利益は大きい。

4つめだが、これはやや微妙である。解雇は公務員身分でなくなってもそう簡単にはできないと考えられる。公務員給与はまだ年功序列が強いようだから、同様の仕事をしていても高齢者の方が高い給与をもらっていると推測されるから、このあたりの改革を進めるのだろう。当然、給料が下がる人が増えるから、そういう人達のモチベーションを保つことが重要になるだろう。

かつて、近鉄が奈良電を吸収したとき、奈良電社員と近鉄社員の待遇に一切差をつけず、奈良電社員の不安を一掃したという話がある。大阪メトロは民鉄との合併ではなく、自立民営化だから事情は違うけれど、大手民鉄との横並びあたりだろうか。
なお、公務員だから職業倫理が低いというようなイメージを持つ人もいるようだが、この点に関してはそうとは言い切れない。ある大学が大阪市内の自動車の運転マナーの調査をしたところ、民営バスは総じて運転マナーが良かったが、大阪市バスはかなり強引なマナーの悪い運転が目立ったという。強引な運転をしてもダイヤ通り運行しようという職業意識が高いようだ。


そして、何よりのメリットは、民営化すれば株式売却益が得られるということである。
あるいは、相互乗り入れしている路線、堺筋線(阪急)、中央線(近鉄)は、切り離して阪急、近鉄に売り払うなんてこともできそう(御堂筋線を北急に売ることはないと思う、逆に北急を吸収するほうがありそう)。

解説記事では懸念材料として、赤字の市バス事業をあげていた。
普通、民営化といえば、儲かるところだけ民営化して、お荷物は役所に残すのが常套手段のようだけれど、さすがにあからさまに市バスを切り捨てることはできない。

公営住宅の管理を民間委託している例が増えているが、普段の修繕や入居者サービスはするけれど、焦げ付いた家賃の回収のような面倒な仕事は委託範囲に含まれていないことが多いようだ。もちろん公的債権だから、これを放棄するためには議会の承認が必要だから、法制上委託範囲にはならないらしいが。

当面、事業を縮小しながら、いつつぶれてもよいように事業設計をしていくことになるだろう。

もう一つ気になるのが、現在は大阪地下鉄は167億円の黒字だが、一般会計からの補助金が104億円あるので、実質黒字は63億円ということである。ところが、民営化されれば固定資産税も発生する。軌道そのものは鉄道の公共性から減免されると考えられるが、それ以外の資産は課税対象となる。一説によればこれが50億円ぐらいになるという。

以前、ある地方自治体が公共施設の民営化を検討したとき、ある程度収支の見込みが立つような施設でも、固定資産税が賦課されるとどうも立ち行かないという話を聞いたことがある。


いずれにせよ、大阪市も儲かるし、関連事業も起ちあがる。利用者サービスも良くはなっても悪くなる要素は見当たらない。誰も反対する理屈はない。
反対するとしたら、新たな競争の場で勝ち組になれそうにない人か、今まで税金を納めて、投資や赤字を支えてきた過去の納税者だけだろう。

「無私の日本人」

2016-08-22_101814-crop.jpg 映画「殿、利息でござる」のテレビCMを見て、面白そうだなと思った。そして、原作というかタネ本が、磯田道史「無私の日本人」であると知って、「武士の家計簿」同様、これは期待できる作品だろうと思った。

映画はいずれテレビでも放送されるだろうけれど、何より、磯田先生の本なら面白いだろう、そう思って、すぐに電子書籍を購入した。

語り口、まさにそういう表現がピッタリである。カタイ歴史解説書のような、史料・解釈という体裁をとらない。まるで司馬遼太郎か吉川栄治を読んでいるみたいな感覚である。旅の道中、タブレットで一気に読んでしまった。

なんでも著者を「平成の司馬遼太郎」という人もいるらしい。


「無私の日本人」には3つの話がとりあげられている。穀田屋十三郎、中根東里、大田垣蓮月である。

598e97e9f7401b5a1cd68fed2266ba26.jpg 映画のもとになったのは、穀田屋十三郎の部分である。
私は映画は見ていないが、テレビCMから受ける印象はコメディ。だから本書を読み始めるときも、してやったりという領民の姿が描かれるのかと思ったが、そうではない。

藩側の役人、代官の橋本権右衛門、出入司(実質的な財政トップ)の萱場杢の2人が重要である。代官橋本は領民の思いを受け止め、領民の企てが成就することを助けるわけだが、出入司の萱場は領民の足下を見てさらに搾り取るわけだが、それでも実務官僚らしく、領民の知恵に興味を持つ懐の深さもあるようだ。

江戸時代の役人の仕事(不作為)ぶり、つまり先例主義、盥回し、そして相手の足下を見るには長けた様子が、縷々書かれていて、読んでいる側にも悔しさが湧いてくる。

中根東里については、本書を読むまで存在も知らなかった(もちろん穀田屋十三郎も知らなかった)。
儒者というより仁者と言うべきか。

rengetu01.jpg そして大田垣蓮月、この名前はどこかで聞いた覚えはあった。
本書によると今の京都大学構内に居住し、焼き物の工房跡が発見されている。今、その場所から西、御所方面へ行くには今でも今出川か荒神口、丸太町の橋を渡るわけだけれど、丸太町の橋を最初に架けたのは蓮月さんだという。しかも橋を架けるために貯めていたお金は飢饉のときにはすべて拠出したこともあるという。

また、江戸無血開城は、西郷と勝の会談の成果とか、天璋院や静寛院宮による両陣営への嘆願などといわれているけれど、本書によれば、西郷を動かしたのは蓮月の西郷への直訴だろうという。

あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば


以前、珍之助さまのブログへのコメントに、蓮月は「傍目にはどうみても不幸続き。自ら眉を抜き、歯を抜き、自分が美人であることをどれほど呪ったことか」と書いた。これも本書で知ったことである。

aa6dba62c7420895d1615f54e490e9c0.png 美貌で文武に優れ、血筋も高貴、そして無私無欲で慈愛に満ちた人。

中根東里と蓮月には仁慈の人として、通ずるものがあるように思う。
二人とも、傍目には恵まれない境遇を生きたように見えて、本人たちは至高の人生を全うしたようだ。

この記事を書くために蓮月をネットで見ていたら、「無私の歌人」という、本書のタイトルを採ったと思われる展覧会(既に終了)の案内チラシが見つかった。

あちこちに刺激を与えている本だ。
(残念ながら私は電子書籍で読んだので、お貸しすることができない。あしからず。)

知識のアップデート

2016-08-06_134220.png リオ・オリンピックが始まっている。
オリンピックといえばブログのネタの宝庫のようにも思えるが、イチローの3000安打や天皇陛下のメッセージなど、時事の話題が多くて、後回しになってしまった。

というか、直前まであまり盛り上がりを感じていなかったのが本当のところだけれど、やはり開会し競技が始まり、連日のニュースを眼にすると、やはり力が入ることを避けられない。

今日は、開会式の中継を見ていて、オリンピックそのものとは関係ないけれど、ふと思ったこと。
といっても、実は開会式で行われたアトラクションの方は、中継では見ておらず、ニュースで少し見ただけである(NHKでは広島平和記念式典の中継があり、その後からオリンピックの開会式が中継された)。

Rio_parade_tricycle1.jpg つまり、実質的には各国選手団の入場行進から見たようなものであるが、これを見ていると、世界の国々についての知識がアップデートされる。
インドの人口が世界2位だということは常識として知っているが、今は12億人を超えているとは知らなかった。中国が13億人だと思っていたが、インドとの差が「わずか」1億人とは。

つまり、開会式の入場行進では、各国のことが紹介されるから、ずぼらな私が各国の知識を仕入れる良い機会を与えられるわけである。もちろん調べようとすればいつでも簡単に調べられることだけれど、あまり関心・知識のなかった国についても、こうやって情報をプッシュされる機会として貴重。

以前、フランス映画で「ザ・カンニング」(邦題)というのを見たことがある。バカロレア合格を目指す受験生の話だが、中にとっくに定年を過ぎたおじいさんが混じっていて、他の学生とは異なり、真面目で勉強熱心なのだけれど、いかんせん知識が古い。そもそも持っている教科書がそのおじいさんが高校にいたときのものらしく、いまだにプロシアが存在しているという具合。


若い頃はこういう大イベントについては冷笑的な態度をとったりもした。どいつもこいつも何がおもしろいんだ、というわけである。大阪万博も、かろうじて会場へ行っても、月の石なんか見てやるものか、というわけである。

けれど、今ではそうした態度については後悔する。やはり目の前で歴史に残る(であろう)イベントが繰り広げられているとき、その証人になっておくほうが、結局トクなように思える。
大群衆に辟易するとしても、この中に居たんだよと子供や孫に言えるほうが、カッコイイんじゃないだろうか。

そういえば、100kmの渋滞につかまったとか、1km進むのに1時間かかったという経験をすると、その後、何年もの間、これをネタにすることができるわけだ、「大変だった、大変だった」で。


陛下のお気持ち

Flag_of_the_Japanese_Emperor.png 昨日、天皇陛下のお気持ちの、「象徴としてのお務めについて」ということのようだが、ビデオメッセージが配信された。

天皇陛下』などと平気で書いているけれど、小学校の頃、敬語の練習で、「天皇陛下におかれましては」とやったら、親から注意された。
「『天皇陛下』などと直接指し示す言葉など使ってはいけません、『畏きところ』におかせられましてはと、陰に示すようにしなければなりません」と。また「おかれ」では敬意が足りず、「おかせられ」と二重敬語を使わなければならないとも。
昨今は、NHKですら敬語が乱れているようである。


以前、生前退位の意向が伝えられた時も本ブログでとりあげたけれど、私は、ご退位されても、それで国が乱れるというようなことはないと書いた。
世間には、摂政を置けば十分じゃないかとか言っていた人もいるけれど、今回のお言葉によれば、そういう問題ではないことが、はっきりと伝えられたと思う。

陛下は、後の準備をされようとしているのだ。そして、それが国民生活に大きな影響を与えることをご心配されているのだ。

おそれおおくも、私の前の記事でも、喪葬のことや、元号のことを考えると、計画的に譲位されるほうが、準備期間のことも含めて混乱が少ないだろうと書いたが、陛下も同じようなご心配をされているように思った。
もちろん、「計画的に」なんて畏れ多いことかもしれないが、崩御を今か今かと待つほうが畏れ多いのではないだろうか。

先帝のときには、みながXデーを心配していた。その日が来たときにはどう対応しなければならないか、対応マニュアルも作られていたことだろう。

kyoto_gosho_kunaicho.jpg 退位されたら国事行為をすることはなくなる。それだからといって、ただ飯食らいなどと言う輩がいるはずもない。内廷費がとりたてて増嵩することもないだろう。
いや、この際、内廷費を上げてもらって、上皇におなりの陛下には、京都御所にお住まいいただいたらどうだろう。
同志社の学生が、ボランティアで、北面の武士よろしく、お守りするでございましょう。

東京都知事選

yuriko_et_tocho.jpg 東京都知事選が終わった。おおかたの予想どおり小池百合子氏が選出された。

この人とは、東京のホテルでエレベーターに乗り合わせたことがある。趣味の良い(値段の高そうな)スーツを着こなされていたが、思っていたより背は低くて、重心がやや頭よりにあるようなプロポーションだった。


選挙結果は私の予想どおりではあるけれど、投票締め切りを期して、直ちに当選確実の報道がなされるとまでは想像していなかった。当確はもう少し遅くまでもつれるだろうと思っていたのだけれど。

それはともかく、この選挙、一部の週刊誌では「窮極の選択」として、誰を選んでも不幸みたいな書き方をしていた覚えがある。
米国大統領選挙では、史上最も不人気な大統領候補と言われているが、それに似た状況。
選挙運動期間中に「出たい人より出したい人」と言っていた某党幹部が居たけれど、これでは「出したくない人」になってしまう。

ところで、この「出たい人より出したい人」というのは、私も子供の頃聞いた覚えのあるスローガンだけれど、この言葉には暗い過去があるということを最近知った(これも某党幹部が不用意に使ってくれたおかげである)。

出たい人より出したい人」というのは、昭和17年の「翼賛選挙」において、「翼賛政治体制協議会」が推薦した候補者への投票を呼び掛けるスローガンとして、「大東亜築く力だ、この一票」とともに使われた言葉だという。この選挙では、翼協の推薦候補には、陸軍省の臨時軍事費から一人当たり五千円の選挙資金が配られる一方、非推薦候補者に対しては、官憲や地域団体が徹底的に選挙妨害を行ったといわれているという。(以上、「鹿児島近代社会運動史」久米雅章他より)

某党幹部はそういう深いことを考えるような人ではなくて、そのときの調子でしゃべったのだろうと思うけれど、そのときは、都連の推薦を受けられない「出たい人」に対して、われわれが「出したい人」という意味で使ったのだろうけれど、この言葉を聞いたときには反射的に「あんた(都連)が出したい人」でしょ、と思った。

とにかく、都民の判断は下ったわけで、これからの都政が円滑に進むように願うのみである。
それでちょっと都財政の指標を見てみたのだけれど、数年前、大変驚いたことを思い出した。
東京都の財政力指数が1を切っているのである。
財政力指数というのは、簡単に言えば収入と支出(普通ならこのぐらい)の比のことで、この指数が1を下回ると地方交付税が交付されるしかけらしい。

2015年度のデータだが、都道府県で1を上回るところは一つもない。東京都が一番高く0.92532、2位が愛知県の0.92083、次いで神奈川県の0.91658。大阪府は6位で0.73756である。
市町村では、全国1740市町村中、1以上は64団体しかない。

昔、今の場所へ引っ越してすぐの頃、居住市の合併に関するアンケートがあって、設問に「合併するとしたらどこが良いですか」という問いに対しては、久御山町と答えたことがある。近隣自治体ではここだけが財政力指数が1を超えていたからである。


で、東京都の財政指標を見ていると、ここ数年、つまり舛添さんが知事をしている間に、どんどん改善している。
財政力指数はH22年度の1.162から、H23:0.961、H24:0.864、H25:0.871、H26:0.925とV字回復である。
経常収支比率や実質公債費比率、将来負担比率など、他の指標でも同様の傾向である。

これは要するに、舛添さんは、自分の個人的な楽しみにはお金を使ったかもしれないが、大きな事業はいっさいやらなかった、そういうことなのかもしれない。

財政至上主義では東京オリンピックはやれまい。
知事が明示的にできることは、施策の優先順位づけと、動かせる財源(限られた)をどう貼り付けるかぐらいだが、東京都の経常収支比率は低く、将来負担も小さい。規模を考えれば相当な額を動かせるはずだから、いろんなことができる可能性はあると思う。
さて、新知事はどういう判断をするのだろうか。

選挙戦を見ていて、都庁職員を死ぬほど働かせてやるという雰囲気は感じられなかったのだけれど、行政をきちんと動かすためには、公務員の給料を下げるより、しっかり働かせることが大事だと思う。役人というのは、上の指示があれば、それにあったストーリーを書き(でっちあげ?)、実行するのが仕事なんだから。

なんといっても民主党政権、さらには党自体の崩壊の大きな原因は、官僚を使いこなせなかったことだと思う。官僚の言うことを頭から否定することが政治主導だという錯覚―そしてそれが国民に一時は受けたわけだが―その底の浅さが国政を混乱させ、支持を失う原因になったと私は考えている。

公務員は、仕事もせず、身分保障され、高給を得ている、という大衆に迎合するイメージを否定したら票がとれないという現実もあるから、選挙中は控えるのは仕方がないけれど、本当にそう思っているとしたら政治家としては失格(あのハシモトさんだって、府民向けには公務員を馬鹿よばわりした一方で、優秀な職員がたくさんいると持ち上げている)。
それに民間企業だったら、社員を役立たずよばわりする社長はロクな仕事はできない、部下を使えない馬鹿なリーダーと言われるだけである。


小池氏は、ちょっとこわもてだけれど、都職員を掌の上で遊ばせるぐらいの度量を発揮できるだろうか。

将門伝説の歴史

masakadodensetsu.jpg 歴史ものの書評が続くが、今日は、樋口州男「将門伝説の歴史」。

図書館の棚にあったので、特に思い入れもなく借りたものだし、けっこうな分量があって、かつ、カタイ内容なので、半分も頭に入っていないとお断りしたうえで。

将門伝説というのは、将門を英雄視する伝説のことだろうと思っていて、しかも、それは眉唾じゃないかとも思っていた。
というのは、この伝説を知ったのは、NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』(1976年)で将門がとりあげられたときに、ドラマの冒頭で語られたからである。
うろ覚えだが、東京大手町に将門首塚があり、関東一円に数多くの将門を祀る神社があるという話があり、皇位を覬覦した大逆人が、愛され尊ばれたことを意味するという解説がなされていたと思う。

もっとも関西人としては、将門所縁の神社や古跡には縁がない。


しかし待てよ、全国に天神社があるけれど、菅原道真が国民に愛されていたというわけではないだろう、道真の祟りを怖れ、怨霊を鎮めるために建てられたのが天満宮である。同様に、早良親王(祟道天皇)など、非業の死を遂げた人物怨霊を鎮めるために祀られてきた例は他にもある。
神社に祀るのは、祟りがおそろしいからというのが多く、その人に親近感があるからというわけではないだろう。非業の死をもたらした側(道真なら藤原氏)が祀る。あるいは疫病などをきっかけに、民衆が誰それの祟りとして祀る。その誰それは、祟ると恐ろしいと思われるぐらいの力のあった人でなければならない。

本書でも、こうした将門の祟りと神社の関係が解説されている。将門の祟りとされる天変地異や疫病の流行などが起こっており、それを怖れて神社を建てて祀ったようだ。
江戸鎮守の神田明神に、将門が祀られているのは、疫病を将門の祟りとしたことがきっかけだそうだ。そして、時は流れ、江戸時代には、将門は江戸の総鎮守と崇められることになる。

そのうち、そうした祟りを怖れるという由来はあったにとしても、将門を単純に否定せず、それなりに立派な武人であったというふうに顕彰する人達がいたわけで、そうした伝説は、将門の死後早いうちに作られてきたらしい。将門の縁者であることを自らの血統に取り入れ誇りとする例もあるという。たとえば、頼朝挙兵を支えた千葉氏などもそうだということである。
祟るからだけでは、関東一円に広く信仰されるということにはならなかった、何か別の心情もあったということらしい。

なお、将門伝説とくくっているなかには、将門を滅ぼした側、俵藤太などの調伏伝説も含まれるかもしれないが、本書では将門がどう思われていたかを補強する史料としての扱いのようだ。なお、将門を調伏した高僧が地獄に落ちたという伝説もあるそうで、こちらは将門贔屓ということになる。


本書では「将門記」が、ほぼ事件の実相を伝えているとしている。そして、「将門記」の筆致は、将門のしたことを悪としながらも、英雄として戦い、死んだと評価したうえで、なぜ事件が起こったのか、叛乱の動機・経緯へ目を向け、「誰か図らむ少過を糺さずして大害に及ぶとは」、つまりどうしてこんな大事件になってしまったのか、という「将門記」著者と問題意識を共有するとしている。

将門の伝記、軍事・政治史としては、ほぼこれで総括されていると思うのだけれど、これは最初の章「平将門の乱と『将門記』」に要領よくまとめられている。

後の章は、その後の将門伝説が紹介され、その系譜を追う。
ここからが本書の真骨頂だと思うけれど、将門に関連する能や歌舞伎など、芸能史の知識がない私としては、ひたすら文面を追うだけになってしまうが、一部を紹介しよう。

まずおもしろいと思ったのは、馬琴の将門評である。馬琴は、そうした多くの伝説に語られる逸話について、自ら疑問を発し、そしてそれに自らが研究して得た解釈を提示しているそうだ(「昔語質屋庫」)。

明治政府は、神田神社(明神あらため)から、将門を祀ることをやめさせようとしたこともあるという。
この頃には、将門は既に江戸鎮守の神様として、庶民の崇敬を受けていたから、当然のごとく大反発したという。そして、さらに将門が末社に追いやられたときには、大祭礼の日に、大風・大雨で、祭の山車やら何やら、破壊しつくされ、これぞ将門の祟り・怒りであると、おもしろおかしく書き立てた新聞もあるそうだ。
将門の祟りというのは、昭和40年代になってもまだあって、いろいろな凶事が起こるたびに、お祓いが行われたという。

本書の冒頭では、将門の雪冤に努力した織田完之という人が紹介されている。この人は、将門の冤罪を晴らそうと裁判所に訴えたということである。もちろん、歴史上の人物は審理の対象にはならないということで裁判所は門前払いしたらしいが。
織田氏は、関東の庶民に広く、根強く将門信仰があることに強く惹かれて、将門の事績を調べ、復権を図る著作「平将門古蹟考」を残していて、本書のベースにもなっている。

将門は、はじめから関東の人々に愛され、敬われたわけではないのだろうと思う。しかし単純に祟りを怖れるだけで祀ったわけでもなく、やはりそこに力あるものへの畏怖というか期待があり、次第に信仰に高められたのではないだろうか。
伝奇小説の主人公として、まだまだ生き続けるだろう。

戦国の陣形

sengoku_no_jinkei.jpg 「司馬遼太郎が描かなかった幕末」に続いて、乃至政彦「戦国の陣形」を読んだ。

歴史ドキュメントや時代劇などで良く聞く「鶴翼の陣」とか「魚鱗の陣」というものが、精確にはどんなものなのか、それ以外にどのような陣形があるのか、基礎的な知識を得ようと思ったからである。

ところがである、この本には、そのようなものは漠然とした言葉があるだけで、陣形として運用されたことなどないというのが結論なのである。

曰く、
  • 「鶴翼の陣」とは広がった状態、「魚鱗の陣」とは固まった状態、という程度の意味しかない
  • かろうじて武田軍は、諸葛孔明の八陣なるものを、勝手に解釈して陣形らしきものを運用しようとした
    (これは山本勘助の提案だったが、信玄が勘助にどのようなものか聞いても勘助は本は読んだことがないので知らないと答えたという話である)
  • 陣形の基本とされる諸葛孔明の八陣というのも実はどんなものか全くわかっていない
  • 明治になって、西洋軍制が導入されるまで、我が国では陣形の運用はない
hachijin_jinkei.jpg なんとも身もふたもない結論なのであった。
文献には、鶴翼とか魚鱗とか、あるいは車懸りという語は出てくるが、これはその陣形をとったという積極的な運用としてではなくて、拡散していた、固まっていた、次々に交替した、という、戦闘の様子を事後的に表現しているものにすぎないというわけである。

陣形らしきものを運用して成功したのは、武田氏と戦った村上氏であると言う。ただ、これは窮鼠猫を噛むというようなところがあってとられたもののようで、これで痛い目にあった武田氏がその戦い方をとりいれたとも。
そういえば、長州奇兵隊のクーデターでは、奇兵隊は散兵戦(より正確にはゲリラ戦)で藩兵を打倒したような話である。こうしたものも戦国時代の記録では鶴翼の陣とされたのかもしれない。


「司馬遼太郎が書かなかった幕末」で、小説は、主人公を魅力的に書くために、事実の隠蔽、捏造などは当然行われるというわけだが、史実だと思われてきたことにも、存外、怪しいものもあるというわけである。

司馬遼太郎が描かなかった幕末

ichisakataro_shibaryo.jpg 一坂太郎「司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰・龍馬・晋作の実像」という本を読んだ。
国民的作家の影響力について警鐘を鳴らした、というものである。

司馬遼太郎の小説に盛り込まれている話には、事実とは異なるものがあるという指摘は、以前にも何かの本で読んだ覚えがある。もちろんそれはストーリー全体の流れでは大したものではなかったと思う。
この本のタイトル「描かなかった」というのは、史実からはこういう解釈ができるというスタンスで書いているのかと思ったのだが、もっと手厳しい。

自分に都合の良いストーリーを組み立てる上で、不都合な真実は隠蔽するというのは良くやられる方法である。作家に限らず、政策立案者というのもだいたいがそうではないだろうか。

だからこそ、有能な野党は、そうやって隠蔽されている事実を提示して、ストーリーを破壊しなければならない。ところが、そうした情報収集・分析能力を欠いて、ポーズだけで、口先の反論や揚げ足取りをしているようでは、野党の仕事を果たしているとは言えない。


本書で糾弾の対象となっているのは、次の2作品。
  • 吉田松陰、高杉晋作を描く『世に棲む日日』
  • 坂本龍馬を描く『竜馬がゆく』
本書では、司馬作品には、事実の隠蔽(小説を書いた当時には知られていなかった史実というのもある)だけでなくて、史実とは異なるものが散見されるという。
こうした細工は、おそらく主人公を英雄として描くためのものなのだろうという。

そして、司馬作品の問題は、小説の流れを一旦止めて解説風に挿入したりするから、読者は史実と創作の区別がつかなくなるという点にあるとする。中には「史料」の引用を装った書き方がされているものも指摘されている。
一坂氏は、司馬遼太郎(いわゆる司馬史観)を全否定しているわけではないとことわっているが、実際に主人公たちと同じ時代を生きた人達が、正当に扱われていないということには憤り(個人的なものもあるかもしれないが、歴史理解を妨げることとしてだろう)を持っているようだ。

大物政治家が尊敬する人物に龍馬をあげたりするのは、ほとんど「竜馬がゆく」の影響だろうという。
また、学校の社会科よりNHKの大河ドラマの方が教育に良いなどと暴言を吐いた大臣がいたが、これも同様だろう。


私としては、興醒めかもしれないが、小説として面白くするための史実の変更については、作家がはっきりとその旨を表明するべきだろうと思う。以前、永井路子氏が「草燃える」の頼朝による政子の略奪シーンを、史実は違うけれど、おもしろくするためにそうしたとお断りしていた話を書いたけれど、歴史小説(時代小説ではなく)なら、そういうやりかたをしたほうが良いように思う。

たとえば、高杉晋作は奇兵隊に農民なども加えたことから、民主的で非差別主義者のように評価されがちだが、実際は、民主的思想を背景に農民を加えたわけでもないことは、隊内の差別的待遇が示しているとする。

だからといって高杉を否定する必要もない。仮に兵力確保のためとはいえ、農民を隊に加えるという発想自体が時の常識を打ち破るものであったし、そもそも民主化が目的ではなく、長州を守ることが目的であったはずだから、その行動は評価されてしかるべきだと思う。また、現代の価値基準で単純に評価することは、歴史を理解する上では邪魔になるだろう。

龍馬についても「船中八策」はなかったとするほか、有名な事蹟についても、そのとき龍馬はこの場にはいなかったという史実をつきつけてくる。

と、本書の評を書いてきたけれど、実は、私は司馬遼太郎作品をあまり読んでいない。随筆・評論の類はともかく、小説となると「坂の上の雲」ぐらいである。
若い頃はSF、ついで純文学ばかり読んでいた。社会人になってからは小説は遠ざけるようになった。


司馬遼太郎は惚れっぽいのだろう。
歴史に名を残すような人物には、やはりそれぞれ見どころがあるに違いない。でないと龍馬と新撰組のどちらにも肩入れできようはずはない。

司馬作品の幕末ものといえば『燃えよ剣』もある。このときは土方に肩入れしていた?


ただ、こうも思う。
史料というものも人間が書いたもので、その時点で既に何らかの価値基準で書かれているだろう、自分が目撃したことだって、実際はどうだったか、結構あやしいものもあるだろう。
その事件の当事者のどちらに肩入れするのか、既に存在した流言飛語を事実として記載するのか。
そういう意味で、司馬が伝説を作ったとしても、それが「史実」として語り継がれる状況と本質的には同じなのかもしれない。
幕末~明治で、史料が比較的残っているからこそ、こういう本が成り立っているわけで、遥か昔の話となると、もうどうしようもないだろう。

作家は、小説と、史実あるいは異説というものをきちんと区別して情報提供してもらいたい。あるいは作家自身がやらなくても、編集者が、注を加えても良いと思う。
2016-07-19_104641.jpg 先日のNHK大河「真田丸」では、秀次の娘たかが信繁の側室になってルソンへ逃れるという話になっていた。

あのやさしい秀次の一族が皆殺しにあうのをどう描くのか、この娘も殺されてしまうんだなぁと思ってドラマを見ていたのだけれど、皆殺しのシーンそのものは描かれず、娘は助かったわけだ。

その回のドラマの後の解説(「真田丸 紀行」)では、秀次の娘(隆清院)は信繁の側室になり、女子(田)もなしていることがとりあげられていた。たかの話とは違うわけだけれど、こうやって本編ストーリーと異なることをきちんと解説することは良いことだと思う。
ストーリーと異なる解説を聞いて、話が違うと怒るのは「狂信者」と言って良い。

もちろん史実とされてきたことが覆ることもたびたびあるという留保も忘れてはいけないが。


イギリスの手羽先

o-LADYS-570.jpg EU離脱で大揺れのイギリスの首相が決まった。

テリーザ・メイ前内相。サッチャー以来の女性首相ということだ。

本人は残留派だったそうだが、これからは離脱へ向けて、ソフトランディング(テイクオフ?)を目指すことになるのだろう。
残留派からは、残留に向けた調整の期待もあったらしいが、離脱は既に決まったことであるというスタンスらしい。

組織で仕事をするという場合、上司の指示や、前任者までの仕事が、自分の判断とは異なるということは良くあると思う。
そこで上司と喧嘩したり、サボタージュを決め込むとかすれば、自身の評価は著しく下がってしまう。
メイ首相の場合、上司はいないけれど、国民投票でEU離脱が決められているということは、いわば前任者のお荷物を背負わされたようなものである。
slide_496278_6876554_free.jpg そこでメイ首相は、明確にEU離脱という自分の判断とは異なる政策の実現に向けて、向き合うということを打ち出したというわけである。

私も以前、そんな事業がうまくいくはずがないだろうと考えていたものが、やはりうまくいかず、その整理を担当することになったことがある。
当然、同じように失敗するだろうと考えていた関係者からは、整理担当者である私には厳しい言葉が投げつけられることもあるが、中には、おまえがやったことでもないのに整理だけさせられて大変だなと同情してくれる人もいる。

slide_496278_6876626_free.jpg というわけで、こういうケースは案外気楽なもので、何せ、自分が悪いわけではないのだからと開き直って対応することになるわけだ。
メイ首相が抱える問題は、そんなに軽いものではなく、無責任な開き直りでは済まないと思うけれど、離脱・残留の二分法の時期は既に過ぎ、これからは離脱のデメリットを最小限に、残留のメリットを最大にする微妙な政策調整という努力しがいのある仕事をされるのだろう。

ところで、タイトルの「イギリスの手羽先」であるが、メイ首相は、イギリス政界のファッション・リーダーとかファッション番長と言われているそうだ。とりわけ、靴のファッションが有名で、豹柄パンプスを良く履いているいるらしい。
ネットを探すとその写真を拾うことができる。

アップした写真2枚とも拾ったまま、トリミングしていません。
イギリスのカメラマンもこういう趣味の写真が好きなようだ。

珍之助さまの定義による「手羽先」では大腿部の露出が必要である。
手羽先の先」というべきだったかな。

天皇の生前退位

2016-07-14_132851.jpg 今上陛下が生前退位の意向ということで、各紙、大きな紙面を割いている。

皇室典範には、生前退位の規定がないということで、法改正が必要という話にもなっている。

昭和天皇のときにもご譲位のことが議論された覚えがある。
長い闘病期間があって、国民からも、いいかげんお可哀そう、ご譲位はできないのかという声があったと思う。
報道では、法制局は国民世論の動向も踏まえてという趣旨が書かれていたが、おそらく大半の国民は、高齢や疾病などで退位されることに反対はないと思う。

「ラクにしてあげれば」なんて言葉の使い方を間違ったら大変だけれど。


報道では「退位後の役割や尊称、時期などを議論する必要がある。元号も変わる」という記事もあるけれど、大した問題じゃないのでは。

まず、役割なんか特に当てなくて良いだろう、というかあてちゃいかんだろう。天皇の家族として、気が向いた時に行事に出ていただければ良い。宮中参賀などで、皇室ご家族が並んで出られるが、これって法的根拠なんてないだろう。ときどき元気な姿を見せていただければありがたい、そういうことではないだろうか。

尊称って、"上皇"で何か問題があるのだろうか。歴史的にも、たとえば白河天皇⇒白河上皇でなんの違和感もない。もちろん諡号だから、通常、平成上皇などとお呼びするわけにはゆかないが、上皇さまで良いのではないか。

元号も変わるというけれど、昭和から平成へ替わるとき、みんながやきもきしたのはXデーがいつかということだったのでは。そのことを思えば、計画的に元号を変更できるのだから、むしろ混乱が小さくなって良いのではないだろうか。
上皇となっても崩御の日にはいろいろあるだろうとは思うけれど、天皇崩御よりは軽い扱いができるようになって、経費節減にもなるのでは。

生前退位でなくても、摂政の規定(昭和天皇は大正天皇の摂政もされ、摂政の宮と呼ばれていたと聞く)を使えば、ご高齢の陛下をわずらわさないようにできるという意見もあるが、海外の儀礼に出席されるとき、国家元首の扱いを受けなくなると思うけれど、それでも良いのだろうか。

いずれにせよ、法改正は必至の情勢のようだけれど、ごく簡単なもので良いと思う。
やみくもな譲位で国が混乱しないようにしようと思っているのかもしれないが、そんなことをされるはずがないだろう。皇位をめぐって骨肉の争いが起こるなんてことも、反政府勢力が皇族の誰かを担いで権力を奪取するなんてこともアリエナイでしょ。

heisei_obuchi.jpg 皇室のこととなると、伝統がどうしたとかうるさいように言うけれど、その多くは明治以降のものともいう。
宮中儀礼も、昔のものを参考にしただろうけれど、明治以降に整えられたものが多いらしい。

その一方、平安以来の伝統を無視したことも行われる。
たとえば「平成」という元号だが、平治の乱以降、縁起が悪いとして「平」ではじまる元号は避けられてきた(保元の乱の「保」も)という説がある。
本当なら伝統を無視した悪行である(保元も平治も京都の話、東京は関係ないという意思の表れ?)。

なので次の元号は「保安」ではないだろうかと思ったが、既にあった(1120-1124)。

古には、周知のとおり、生前退位などあたりまえ。本人の意志(徳川将軍を困らせるためとか)や、無理に退位させられたとか、いろいろ理由はあるけれど。それどころか、重祚した天皇もいる(皇極=斉明、孝謙=称徳。どちらも女帝)。

あとは、女御・更衣あまたさぶらひたまひけるようにすれば皇嗣問題も解決


それより、旧皇室典範(昭和22年廃止)「第11条 即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」約束はどうして反故にしたんだ。

2016参議院選挙結果(比例区)

■2016年参議院比例区選挙結果         開票終了
党派 得票数 得票率 議席
自民党 20,114,788 35.91% 19
民進党 11,750,965 20.98% 11
公明党 7,572,962 13.52% 7
共産党 6,016,195 10.74% 5
おおさか維新の会 5,153,584 9.20% 4
社民党 1,536,238 2.74% 1
生活の党と山本太郎となかまたち 1,067,300 1.91% 1
日本のこころを大切にする党 734,024 1.31%
新党改革 580,653 1.04%
幸福実現党 366,815 0.65%
支持政党なし 647,071 1.16%
国民怒りの声 466,706 0.83%
昨日、参議院選挙が行われた。

注目していた「支持政党なし」は、残念ながら議席を獲得することはできなかった。
「支持政党なし」に票を入れる、つまりネット投票で議案の賛否を決めることに賛成するとは、何のことはない、もしネット投票が国民の賛否を反映したものになるなら、与党に従うというのと同じことだという見方をする人もいた。

また、その下に「国民怒りの声」も、「支持政党なし」よりも少ない得票しか得られなかった。
こちらも、安保法制違憲で、怒り心頭の小林先生の怒りが、残念ながら多くの票を集められなかったわけだ。

それにしても、世論調査では、憲法改正に賛成する人の割合、アベノミクスを評価する人の割合、いずれも、与党の獲得議席割合よりも少ない。今回、争点としてぶつかることを避けた与党の態度から、こうした個別の政策判断が、十分得票に反映しなかったのかもしれない。
あらためて複数政策の組合せを一体として問う代表選挙というものの特性を考えさせられる状態となった。

「支持政党なし」は、そういう問題意識をベースにしているとも言えるのだけれど。


代議制民主主義では、議員はすべての判断を任された存在と考えるか、公約(マニフェスト)に縛られた存在と考えるか、もう一つ所属政党に縛られるというのもあるが、理屈・是非はともかく、実態的には最初にあげたような存在として動く。
安倍首相は、選挙後のインタビューには、憲法改正は自民党結党以来の党是であるから、あえて宣伝する必要はないと言っていた。つまり争点にならなかったことと、公約違反とはリンクしないという論理を出していた。

ところで、今回、私の投票所ではNHKの出口調査が行われていた。これは初めての経験。
投票が終わってから、「NHKですが……」と寄ってきたのだけれど、パスさせてもらった。
それにしても、投票終了後、すぐに当確がやたらたくさん報じられたが、こういう人達の努力の成果である。
(開票のおもしろみがすぐに失われるのはさびしいが)

【追記】

はじめ開票率99.9%でアップしたものを、開票終了に差し換え。
それにしても、開票終了で得票数が減った政党が多いけれど、無効票があったということか。


「支持政党なし」

sangiin2016_tokyo.jpg いよいよ来週に投票日をひかえる参議院選挙、またまた出ている「支持政党なし」。

この政党を知ったのは前回の総選挙、そしてたぶん選挙に登場したのもこのときの北海道比例区が初めてだろう。
そのときは10万余票を集め、社会民主党の5万3千票よりも多く、一躍注目を集めた。私も記事にした

今回は、比例(全国)区だけでなく、北海道、東京、神奈川、大阪、熊本の5つの選挙区にも登場し、比例区2人、東京4人、他各1人で、合計10人の候補を立てている。
政党要件がないので、比例区に候補を立てるためには10人以上の候補が必要だからだけど、そうしたのは洒落や冗談ではなく、真面目に当選を目指しているのかもしれない。

■2013年参議院比例区選挙結果
党派 得票数 得票率 議席
自民党 18,460,335.20 34.68% 18
公明党 7,568,082.15 14.22% 7
民主党 7,134,215.04 13.40% 7
日本維新の会 6,355,299.50 11.94% 6
日本共産党 5,154,055.46 9.68% 5
みんなの党 4,755,160.81 8.93% 4
社会民主党 1,255,235.00 2.36% 1
生活の党 943,836.58 1.77% 0
緑の党グリーンズジャパン 457,862.08 0.86% 0
みどりの風 430,742.88 0.81% 0
新党大地 523,146.45 0.98% 0
幸福実現党 191,643.62 0.36% 0
NHKの6月の最新世論調査では、政党支持率は自民党が38.1%なのに対し、支持政党なしは36.7%で、堂々の第2党である。もちろんその票が入るわけではないけれど、前の北海道の結果からすると、2人当選してもおかしくはない。

東京では4人立候補しているから、ポスター掲示板にも4人分の枠があって、そこには全く同じポスター4枚が貼りだされていると伝えられている。

ポスターには証紙を貼るはずだが、証紙番号と掲示板の指定位置を取り違えたらどうなるんだろう。

上の写真はその東京選挙区をネットから拾ったもの。残念ながら、大阪選挙区では「支持政党なし」のポスターが掲示されているのは見ていない。見た(【追記】参照)

ネットでの評価は、ふざけているとか、「支持なし」と書かせて票を稼ぐセコイやりかたというものが結構多いようだけれど、重要論点を隠して選挙に臨む政党や、公約・マニフェストは選挙のときだけという政党のほうが、真面目なフリしてアクドイという言い方だって不可能ではない。

1名でも議席を獲得したら、これは結構面白いことになる。
そうすれば、国会の議決のときに、支持なしの動向が国民世論を映すことになっておもしろい。

Web投票をするというが、おそらく、同一人が何度も投票したりしてるのではないか、などとイチャモンがつくことは間違いない。なので、ここはマイナンバーカードを使った投票システムを開発してもらいたい。
マイナンバーカードに収録されている署名用電子証明書ではなくて、本人確認用の証明書の方を使うのなら、マイナンバー自体は使わないから問題ないだろう。

実際には証明書(公開鍵)で、同一人物の判定はできるだろうから、問題なしとはならないと思うけれど。


国会に開いた小さな小さな窓、ということになるわけだ。
で、「おまえはここに投票するのか?」ってきかれたら、「ハハハ」と言うしかないな。
P_20160704_121234-crop.jpg

【追記】

7月4日(月)に出勤したら、掲示板に「支持政党なし」のポスターも掲示されていた。東京選挙区の4枚並びのポスターとは異なり、候補者の写真がちゃんと掲載されている。
(おやおや、あらためて見ると、大阪選挙区は女性候補が4人もいる)
この休み中に掲示されたのか、それとも単に私が気付かなかったのかわからないけれど、証拠写真をアップしておく。

P_20160704_121234.jpg

「おもてなし」~アトキンソンの続き

アトキンソン「新・観光立国論」の続き。

昨日は、アトキンソン氏が言う観光立国のマクロ面を中心にしたけれど、本書で手厳しく批判されているのは「おもてなし」である。

takigawa_roku.gif 滝川クリステルのプレゼンテーションで有名になった「お・も・て・な・し」は、日本国内では絶賛され、流行語にもなったけれど、アトキンソン氏によると、欧米のメディアは否定的な反応だったのだそうだ。

アトキンソン氏が言うには、あのように音を区切って話されると、欧米人は馬鹿にされているように感じるのだそうだ。

氏は、ああいうプレゼンのしかたもスタッフの指示によるものだろうから、滝川クリステルを批判するつもりではないようだ。
rokujirorw 私は滝川クリステルのファンではないから、やっぱりお人形?と言いたくなるけれど。


氏の主張を簡単に言えば「おもてなし」は客寄せにはならない、日本人の自己満足の押し付け(「小さな親切大きなお世話」?)になっているかもしれない。

日本人が誇りに思う「おもてなし」=無料奉仕とは、チップ代が料金に含まれていることでしかなく、客にはサービスの良否を評価することが許されていない、そしてそれがフィードバックされないシステムでしかない。その証拠に、日本のホテルは型どおりのサービス以外は提供しないところがほとんどであると言う。

アトキンソン氏は事前に箸も使えることを和食レストランに伝えているにもかかわらず、店に行くとナイフとフォークが出されるのだそうだ。外国の方へのおもてなし・気遣いというのが店側の説明だそうだ。


それより重要なことは、成田に最終便が到着した頃には、成田エクスプレスは運転を終了していることとか、入国審査では外国人の窓口が少なく、日本人の窓口が手すきになってもそちらへ誘導するようなことはしないとか、観光スポットの案内がない、外国語表記がない、つまり、知ってるものだけが来たら良いと言わんばかりのインフラの状況をさして、客を客としてもてなす真心がなさすぎると糾弾している。
そして、こうした面での整備は、観光大国フランスや、観光振興を頑張ろうと言うイギリスでは既に達成されたことなのだそうだ。

もっとも数年前、イタリアでもドイツでも、電車に乗ろうと思っても、それぞれイタリア語、ドイツ語表示しかなくて苦労したけれど。


 高級ホテル一泊の宿泊費
 Hotel President Wilson, Switzerland   $65,000~80,000 
 Lagonissi Resort, Greece $47,000
 Four Seasons New York $45,000
 Raj Palace, Jaipur, India $40,000
世界にはとんでもなく高いホテルもあるそうだ
本書のAmazonレビューはおおむね高評価だが、中に低評価のものを見ると、観光客のために日本のやりかたを変える必要はないという趣旨の意見のようだ。そもそもアトキンソン氏は、観光立国を実現するために、やりかたを変えるべきと書いているわけで、そういう人は観光立国=外国人がたくさん来る国になってはいけないという主張をすべきであろう。

日本特殊論(本当に日本を解ってもらうことはできない)を持ち出す人も多いが、たいていの国・地域は、自国は特殊であるという自意識を持っているものであり、日本文化はユニークなものだけれど、他の文化も同様にユニークなのだということを理解しなければならない。

また、政府や自治体の観光政策はピンボケであるとも言う。
昨日書いたように、マクロ的な押さえもできず、マーケッティングもできない。
「日本の理解者を増やして来てもらう」などという、悪くはないがさほど効果を上げないものを「戦略」と勘違い。
だいたい、数が来れば良いのではなくて、日本にお金を落としてもらわなければならない。

「爆買」で観光客が増えた、沢山お金を落としてもらったと喜んでいるが、それで買われているのは実は中国、アジアで生産されたものが多いということには気づいているか。


郷に入っては郷に従え」というのは、郷に入る側の心得であって(したがってアトキンソン氏はそれに従っている)、郷に居て迎える側の心得ではない、それこそが正しい「おもてなし」の心得であろう。

外国人には日本のことはわからない、それならそれでも結構だが、外国人に日本に来てもらいたいなら、外国人による本当の日本の評価をちゃんと聞く耳をもちなさい、そういうことである。

「外国人」と一括するのもダメ。相手にあわせた「おもてなし」というか、接客が必要で、イギリスですら相手別の接客マニュアルが用意されているという。


「おもてなし」が悪いわけではないのだけれど、自分たちのやりかたが世界で一番だと過度に誇って、それを受け入れない外国人は間違っているというように考えていては、接客の基本である、相手に合わせる、相手の気持ちになる、ということからは最も遠い姿勢に陥る。

どうして私の気持ちを受け入れてくれないんだといって、ナイフでアイドルを刺すのに通じると言ったら言い過ぎか。

アトキンソン氏の批判を受け入れられないとしたら、そのことが批判されていることになる。
巧妙な論理である。

デービッド・アトキンソン「新・観光立国論」

以前、「魯山人の美」という記事中で、以下のようにデービッド・アトキンソンの紹介をしたことがある。
「新・観光立国論」で有名なデビッド・アトキンソン氏の意見もやはりもっともだと思う(原本は未だ読んでないが、同様の主張はネットのあちこちで紹介されている(下のリンク)。
日本は観光小国でしかない、「おもてなし」では外国人観光客は呼べない、というのも納得の主張。 外国人観光客に人気なのはラーメン屋という現実もある。

atkinson_shinkankorikkoku.jpg ここで紹介したリンク先記事は、それぞれかなりの分量があって、私としては「新・観光立国論」を読んだような気になったのだけれど、そして要点は確かにそのとおりなのだけれど、たまたま図書館に置いてあったので、きちんと読んでみることにした。

この本の要点は、前述のリンク先記事を見れば概ねわかると思うが、本書には、その主張の根拠となる数字があげられている。
具体的には、観光客数や観光収入の国際比較、日本を訪れる観光客のカテゴライズなどである。

とりわけ、日本が目指すべき観光客数は、観光立国といえる諸国におけるGDP比や観光収入と同程度を目標とするならば、現時点においても5600万人、世界的な観光の発展からすれば2030年には8200万人とし、政府の観光ビジョン懇談会の目標値(2016年3月:2020年で4000万人、2030年で6000万人、本書執筆時点ではさらに低い)に疑問を表明し、根拠なき目標設定と斬って捨てている。

そしてその目標に向かってなすべきことは、マーケッティングであり、そのためのターゲッティングであり、このどちらも確たるビジョンもフレームワークも持っていないように見えると批判している。

私はこの主張があたっているのかどうか判断できる情報は持っていないけれど、いろんな政策について、科学的と言えるような根拠を持たず、鉛筆をなめて目標設定をしているように見える我が国の政策立案者なら、さもありなんという感じはする。


氏は観光立国の基本条件は、「気候、自然、文化、食事」といい、日本はこの4つが揃う稀有の国であるという。フランスは4つを備えており観光大国としてトップにあるが、イギリスは気候、食事は落第なのに日本よりも観光で成功していると言う。
日本はその4つを活かしきれていないとし、それを活かすための投資が必要であると言う。

氏が言う「観光立国」とは、外国人観光客=「短期移民」とし、国内総消費を飛躍的に増やす経済活動であるから、それを実現する投資は当然のものである(歴史的建造物を大事にしない京都のみすぼらしい街並みは、外国人観光客を失望させている)。


ここは氏の意見に耳を傾けるべきだろう。

UK votes to LEAVE the EU

世界中の話題となったBrexit、昨日の国民投票で、離脱派が勝利した。

2016-06-24_150531.jpg ブログで2回とりあげるほど高い関心を持っていたわけではないけれど、予想が当たらなかったので言い訳がてら。

まずは、この日10時過ぎに、お金を預けてある銀行から電話。

「今、イギリスの国民投票が行われています。離脱が優勢という情報もありますが、まだまだ分からないと思います」

大金を預けているわけでもないのだけれど、ご丁寧にいろんな相場が下がったときの予防線だろうか。

そういえば少し前に、運用成績の報告で、

「イギリスのEU離脱がどうなるかが心配され、今は下がってますが、残留となればまた落ち着くと思います」

というような話をしてきて、さらに

「今が底で、EU離脱が片付いたら反転するでしょうから、今、株投資の好機です」

と営業トークを受けていた。

2016-06-24_150623.jpg 私としては、今は現金で持っておくのが安心、それに株や債券の価格に直結するというより、その変動が問題だろうから、上手に運用してもらえばと答えて、今回の勧誘にはのらなかった(ただ面倒くさいというのが本音)。
そういう話をしていたから、小口顧客でも気にして電話してきたのかもしれない。

さて、予想に反して離脱となったわけだけれど、私が思ったのはこういうこと:

EU離脱の影響はいろいろ言われているけれど、総合的に影響を予測することは難しいだろう。
そういう意味では必ずしも方向性がある判断とは言えない。
だから、とにかく「現状変更」を求める者が離脱賛成の中心だろう。
そうした人がイギリスの過半数ということもないだろう。


つまり、ある程度、日本のポピュリズム政党が人気を得るのと同じようなところがあるのではと考えていた。
だけど、直前のテレビ番組などを見ていると、守るべきものをもっていそうな経営者層ですら、EU離脱の方が良いと考えを変えているとのことだった。
であれば、これは、単なる人気投票や気の迷い投票ではなくて、ひょっとすると離脱派が勝つかもしれないと、半信半疑ながら考えていたところ。

2016-06-24_150705.jpg 結果は出た。ただ、前述のとおり、EU離脱の総合的な得失は案外難しく、離脱派といっても否定でまとまっているようなものだから、まだ離脱後のビジョンや政策運営方針が合意されているとも思えない。
この判断を受け入れて、離脱後のビジョンをきちんと示して行ってもらいたい。

キャメロンは10月には辞職すると表明しているが、国政運営に制約ははめられたものの、その制約下でどうイギリスを導いていくのか、先行きが見えないだけに、それまではトップリーダーを務めるべきではないだろうか。
ところで、ポンドの急落が開票途中でも伝えられていた。日本では円が下がると大喜びする人がいるのだけど、ポンドではどうなんだろう。(年金生活者にとっては、デフレの方が望ましいんですが)


地域別では、スコットランドは残留支持が強かった。
うろ覚えだけれど、スコットランド独立の国民投票のとき、独立したらスコットランド国内はポンドではなく、ユーロを使用するというような話も出ていたように思う。
イングランドとの対抗上、残留を支持したのかもしれない。

実際にイギリスがEUから離脱するまで、いろいろな調整や新しい条約その他、さまざまな手続きもあって、2年ぐらいはかかるという。そうしたことも踏まえ、パニックにならず、早く落ち着きますように。

真田丸の台詞じゃないけど、「乱世でなければ生きていけない者もいるのだ」なんて、やめてほしいな。


Brexit

Brexit_banner.jpg 今日(6月23日)、英国のEU離脱(Brexit)についての国民投票が行われる。

昨日は「代議制民主主義」をとりあげたけれど、Brexitは国民投票である、代議制ではない。

この重大な意思決定において、残留派、離脱派は拮抗していて、どちらになってもおかしくない。
英国は2年前にも、スコットランド独立についての国民投票が行われている。このときも、独立支持・不支持はきわどい結果であった。
brexit-800x500.jpg

重大だからこそ、正解が得られないからこそ、国民投票になっているわけだ。やむにやまれぬ気持でやっているのだろう。
自分の思い通りにしたいから国民を煽って国民投票に持ち込もうというようなものではない。


英国のEU離脱は、他のEU諸国はもちろん、米国も日本も好ましく思っていない。また、経済に関しては、すでに開放された市場となっている以上、英国にとってもEUにとってもマイナスの影響が強いと考えられているようだ。

Brexit_image1.jpg それでも離脱しようというのは、EUから「おしつけられるルール」に我慢がならないかららしい。これは情緒的な問題ではなくて、移民の受け入れ問題など、元々の英国民にとってマイナスと考えられているわけだ。

こういうロジックは、トランプ現象にも通ずるところがあるように思える。もちろん、英国民がトランプのような過激な言説を支持しているわけではないと思うし、国民の利益ということから考えて、外野の私にはどちらが良いのかなんて判断できないけれど、なんだか、昔のブロック経済のような状態に、世界の雰囲気が向いているような感じがする。

開放体制でも国によって損得は出るだろうし、閉鎖体制でも同じ。
力の強い方の損得で、開放か閉鎖かが決まる、それが気に入らない、という意見もあるだろう。

私の予想は残留。根拠はないが、リスクを抱えるのを避ける保守的心情が優るような気がする。


【追記】
2016-06-24_110716.jpg

EU referendum: Latest results - BBC News
(右図は、11:10頃の状態)





待鳥聡史「代議制民主主義―「民意」と「政治家」を問い直す」

machidori_daigiseiminshushugi.jpg 今日は参議院選挙の公示日(投票日は7月10日)である。

参議院というのは、巷では存在意義がどうのとかいろいろ批判もある。私は以前、参議院について意見を書いたことがある。その意見は今もそう変わっているわけではなくて、ねじれで何が悪い(それも民意)、一票の格差それがどうした(衆議院と同じ原理で選んでどうする)、やっぱり「良識の府」としての存在価値を発揮してもらいたい。

とはいうものの、例のフランス革命時に言われたという「上院が下院と同じ意見なら上院はいらない、上院が下院と異なる意見なら上院は邪魔だ」という論理があるから、二院制の意義をもう少し考えてみても良い。

歴史的には、二院制とは、貴族院と平民院の対立が前提となっていて、フランス革命時に二院制を否定=平民院(国民公会)を唯一の議決機関にすることは自然だったと思う。しかし、米国のように貴族がいない国をはじめ、二院制を採用している国は結構多い。

本書「代議制民主主義」では、どちらが良いかという問題に答えるわけではないけれど(いろんな政体を比較するのが本書のメインだろう)、米国の二院制の起源について説明があった。

米国は独立後まもない間は、まだ合「州」国ではなく、各独立植民地が「邦」として存在し、連盟規約はあったものの、それぞれ「邦」の利害が優先していて、一つの国としての結束は弱かったという。そして、この状態では、独立革命を成功させたことが水の泡になるおそれがあり、合衆国憲法が制定される必要があったという。
この時、「邦」の利害と「合衆国」の利害を調整できる体制として、大統領、上院、下院が考案されたということらしい。
大統領は任期4年で、間接選挙とはいうものの合衆国民の代表、上院は任期6年で州の代表、下院は任期2年で選挙区の代表という考え方で、それぞれ代表と想定されている集団(選出母体)が異なっている。また、上院は連邦の長期的政策を、下院は短期的問題解決を担うという、役割分担があって、それは選出方法の性格に沿ったものだという。

もちろん、現在の米国でこれがこの通りに運用され、機能しているわけではないだろうけれど、なぜ上下両院があるのかということについては、なんとなく腑に落ちる説明だと感じた。

inin_sekinin_chain.jpg もっとも、この本は読んでいて、とてもわかりにくい、というか何を主張しているのかピンとこない。
「序章」に、代議制民主主義の基本構造として「委任と責任の連鎖」という図解があって、基本にこれが押さえられているのだろうけど、というかそれを常に頭において読まなければならないのだろうけど、なかなか頭に入ってこない。
腰巻に書かれている「この国の政治はおかしいと思う、すべての人へ」には答えてない、少なくとも私には、本書に書かれている政体論とかに答えを見出すことはできなかった。

とくにわかりにくい印象をもったのは、著者は解りやすくしたつもりだと思うけれど、代議制は自由主義と民主主義の両方から異なる要請があるなかで生まれたという点。
著者が言う自由主義は、エリートの競争と相互抑制の下での意思決定メカニズムだという。たしかに歴史的には絶対権力からの自由、つまり王様に対する諸侯の自由から生まれたもののようで(それはマグナ・カルタの歴史)、片や民主主義は意思決定の原理だという。
言葉の定義だけの問題かもしれないが、私は議会の歴史としては首肯できるけれど、自由主義という言葉を使うことに違和感も感じる。

これだけでは理念的で、私にはイメージできないので、古代ローマの皇帝、元老院、市民の関係のようなものを思い浮かべていた。塩野七生氏が言う、ローマの主権者は元老院と市民であって(S.P.Q.R.)、皇帝はその両者の信任により成り立つ地位であるという話である。

政体が歴史的に形成されることは当然としても、歴史性で説明しても一般解としては納得できるものではないと思うがどうだろう。

本書ではいろいろな政体について考察されているのだけれど、政党政治が基底にあるのなら、どんな政体になろうと、決定される国家意思に違いが出てくるようには思えない。大統領であろうが、首相(議院内閣制)であろうが、政党が力を持っていたら同じ結果になるような気がする。著者は、中国のような一党独裁についてはどう考えているのだろう。
もっとも、近年は「支持政党なし」が最大のようだから、政党は一部謀略集団程度なのかもしれない。

だとするとますます参議院の意義は大きい?


本書の序章では、「熟議民主主義」という言葉も出てくる。著者は代議制に対するもののようにとらえているみたいだけれど、私にはこちらの方が未来を展望させるように思えてならない。

「熟議民主主義」についてはいろいろ本も出ているようだから、また読むことがあったら感想をアップしたいと思うけど、参議院について書いたことに近いように思う。


蛇足だが、著者は政治家はアマチュア、官僚はプロフェッショナルとしているけれど、日本の官僚は行政のプロだけれど、執行のプロではないと思う。本当に執行のプロだったら、ポリシーのかけらも感じられない、パーフォーマンスの悪い、でたらめな制度設計なんてしないだろう。

1000億円の予算があったら、10億円でできることでも1000億円かけるのが官僚というやつらしい。


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