ピョンチャン・オリンピック開幕

pyongchang0180208fl04_p.jpg ピョンチャン・オリンピックが開幕する。

開会式は、今日の夜20:00から行われるから、どの報道でも「本日開幕」扱いだけれど、競技は既に昨日から始まっているらしい。

昨日は午前中から、カーリングのミックスダブルスという種目が行われていた。夜にはスキージャンプの男子ノーマルヒル予選が行われた。


46年前、札幌のときは、私はちょうど大学入試のときで、テレビを見るどころではなかったはずなのだけれど、なぜか日の丸飛行隊表彰台独占も、当時はまだ氷に図形を描くコンパルソリーがあったフィギュアスケートも、やたらオランダが強かったスピードスケートもしっかり憶えている。

日本では長野でもオリンピックが開かれた。このおかげで、雪質が評価されて、世界的なスキー観光地になったというが、ピョンチャンはどうだろう。

PK2018020702100186_size0.jpg ピョンチャンはとても寒いという。
オリンピック選手村の入村式では、日本選手団は、選手は一人も出ず、役員だけが参加したそうだ。なんでも、選手の体調管理を優先したからだという。なんだか、考え過ぎというか、過保護のような気がする。
世話をしてくれる村の人たちは、選手が来なくて寂しい思いをしたかもしれない。

自由参加だと言ったら、それなりの人数の選手が参加しただろうから、選手団として欠席することを決めたのかもしれない。


開会式はさすがに選手なしでの入場行進はできないだろう。
もちろん事の軽重ということがあるから、入村式と開会式を同列に扱うことはできないと思うけれど、時間的には入村式のほうが短かそうだし、なによりすぐそこに宿舎もあるわけだから、そんなに負担になるものだろうか。
20130206P1000377.jpg
5年前、やはり2月に韓国に行ったことがある。
ソウルとその近辺しか行っていないけれど、たしかに寒かったと思う。人通りのないところは一面雪が深々と積もっていた。ところが、現地の人は、久しぶりに暖かいという。-10℃が普通のところ、せいぜい-5℃程度で、異例に暖かいのだと。
ソウルの寒さは旅行に行く前にさんざん脅かされていたので、防寒には万全を期していた。耳を覆える帽子も必需品だと聞いたので、その旅のために買った覚えがある。

オリンピック選手団なんかは特別の装備があるはずだから、-10℃なんてどうってことはないようにも思う。冬のオリンピックといえば、北京はもっと寒いかもしれないし。

それより2020年の東京の夏の暑さのほうが心配だ。


葛西紀明【写真:Getty Images】
以前、カルガリーのオリンピックでは、内陸部で日較差が大きい上に、日によって天候が大きく変わっていて、スキーのジャンプ台に雪がなくなったり、見物客が半袖Tシャツ1枚だったり、不思議なシーンがあったことも記憶する。

この記事は、スキージャンプ男子ノーマルヒルの予選を見ながら書いている。
日本からは4選手が出場、4人とも決勝へ進んだ。
長い会期のはじまりだ。


関連記事

「ナメクジの言い分」

Adachi_Norio_Namekuji_no_iibun.jpg 足立則夫「ナメクジの言い分」について。

これも岩波科学ライブラリーの一冊。
であるけれど、ちょっと毛色が違い、科学書とは言いにくく、しかも科学者でない(けれど科学する)人が書いたエッセーというべき本(著者自身がそう書いている)。

ナメクジといえば普通は嫌われ者、殻があるカタツムリは愛嬌があって子供のおもちゃにもなるが(殻があるからナメクジのヌメヌメしたところを触らなくて良いからではないだろうか)、ナメクジ相手に遊ぶ子供というのはまず見ない。

私の家でも、庭にはたくさんのナメクジが棲息していて、家人が大事にしている花などは相当被害を受けている。したがってナメクジを誘引・退治する薬剤を置いたこともある(ああ、なんと罪深いことをしたのだろう)。


さて、著者は、生物学とか動物学とかの学者ではなくて、したがってナメクジで飯を食っているわけではない。ジャーナリスト、それも科学ジャーナリストではなくて、社会、経済といった分野のようである。

1 晩秋のナメクジ
季節外れによく出遭う/きっかけは娘のマニキュア/エスカルゴも同じ仲間/八〇年代に忽然と消えたキイロ/目撃情報からナメクジマップ/北海道は宝庫/東北にもチャコウラは進出/新しい外来種が侵入しつつある関東地方/皇居も小笠原もわが故郷青梅もチャコウラに占領された東京/神奈川も米軍施設周辺はチャコウラの天下/宙に浮くナメクジも,拝まれるナメクジもいる中部地方/近畿の海岸線はチャコウラの天下/中国・四国地方,瀬戸内の島にも進出するチャコウラ/チャコウラは九州・沖縄にも渡る/ヨーロピアンブラッグが世界各国を席巻する?
 
2 銀の筋は何なんだ
逃げ出したチャコウラ/「ゆっくりと」の警句の下で憤死/頼りになる米ソの文献/粘液には七つの機能/一つの足でなぜ動く/四本の角は視覚,嗅覚,味覚のセンサー/口には二万七〇〇〇枚もの鋭利な歯/便秘のナメクジがいてもおかしくない/喘息のナメクジはいない?/脈拍は人間と同じ/男性器も女性器も併せ持つ/超節電型の脳
 《コラム》平和な退治法
 
3 闇に包まれたライフスタイル
夜な夜な徘徊する/多くは菜食主義/天敵にはコウガイビルも/寒さの中で産卵,孵化する/広東住血線虫が寄生する/塩が苦手,砂糖は大丈夫
 
4 なぜ生き残ったのか
独立記念日はいつなのか/殻を捨てたのはなぜなのか/恐竜が絶滅したのはなぜなのか/ナメクジが生き延びたのはなぜなのか/ナメクジ史観とは何か
 
5 ナメクジに引かれた人たち
ナメクジに憑かれた研究者/文学大賞は内藤丈草と中村草田男,清少納言と村上春樹は落選/語源はどこから?/薬にしていた地方も/ナメクジ祭りの起源
そんな著者がなぜナメクジに興味をもったか、それはひょんなきっかけだったという。
マニキュアがきらいで、娘たちがマニキュア、ペティキュアを塗っているのをいまいましく思っていた著者が、あるとき銀色に光る筋を見つけ、娘たちのマニキュアがこぼれていると思い込んで叱りつけたところ、その銀色の筋をたどると、窓の方へ続き、あきらかに、それはナメクジの跡であることが了解され、娘たち、および彼女たちの母、つまり妻から、大逆襲に会う。
それがナメクジとはどういう生き物だろうという疑問と探究心が発現したのだそうだ。

だから、自身のナメクジ研究といっても、生体を解剖したり、化学物質(塩、砂糖を除く)の作用を調べるなどという、ハードなものではなくて、主として観察によるものである。

一番の特色は、人的ネットワークを活用した、ナメクジ分布の調査である。
といっても、特定地域をなめるように調べて、統計的手法で分布を推定するというような方法ではなくて、ナメクジを見つけたら報告してくださいという、実におっとりとしたやりかたである。
そんな中、現物を送ってくる人もいて、それが自身でナメクジを飼育することにもつながったらしい。

どこにでもいて、しぶとい奴と思われていそうなナメクジだけれど、飼育するとなると、これが案外難しいらしい。


だから、著者の研究は、自身の観察と、研究者からのヒアリング、諸文献の渉猟という方法になる。

ナメクジの研究者というのは、それは変な人が多いらしい。そういう人にはやはり著者同様、もともと文科系だったけれど、ナメクジへの興味が嵩じて生物学に転向したという人も複数紹介されている。


本書では、そうして集められた情報、考察に加え、文学におけるナメクジが取り上げられている。
残念ながら、ナメクジが登場する文学作品は数少ない。そしてその多くはけっして好意的なものではない。
著者が文学大賞を与えるとすれば、内藤丈草・中村草田男としている。(二人とも「草」が入っている。ナメクジの好物か。)内藤丈草は「芭蕉の十哲」に数えられる俳人だそうだが、次の一文が紹介されている(蛞蝓(かつゆ)とはナメクジのこと)。
多年屋ヲ負フ一蝸牛、化シテ蛞蝓トナリ自由ヲ得、
火宅最モ惶ル延沫尽ンコトヲ、法雨ヲ追尋シテ林丘二入ル

Teduka_Hinotori_namekuji.jpeg 文学作品というわけではないけれど、ナメクジが登場するフィクションといえば、本書でも触れられているけれど、手塚治虫「火の鳥-未来編」で、進化をやり直す過程で、ナメクジが知性を獲得し地球を支配する世界が現出し、そしてそれがあっけなく崩れていくというもの。

UltraQ-namegon.jpg もう一つ、私が覚えているのは、テレビ・シリーズ「ウルトラQ」で、巨大なナメクジが地球に飛来して、人類を脅かすもの。ただし、このナメクジ、最後は海に落ちてあっけなく死んでしまったと記憶している。

著者が本書を執筆して、一番希んでいるのは、「いみぢうきたなきもの なめくぢ」(枕草子)という、一面的で無思慮な言葉で片付けてしまう人が減ることだろう。

それにしても、全くの素人、関連分野の素養すら怪しい素人でも、探求心を持つことで、こんなに興味のひかれる本が書ける。
老境に入るものにとって、さわやかである。

関連記事

「ちいさい言語学者の冒険」

広瀬友紀「ちいさい言語学者の冒険―子どもに学ぶことばの秘密」について。
岩波科学ライブラリーの一冊。
やはりこのシリーズにはおもしろい本が多い。

子供のなにげない行動を、そのままやり過ごすか、そこにヒトの精神の秘密を読み解こうとするか。
発達心理学とか、本書の場合は言語学とか、ベースになる知識・理論を持っている人が見れば、子供の心で何が起こっているのか、こんなふうに洞察できる、そういう本。

本書の参考文献にも上げられているスティーブン・ピンカー「言語を生みだす本能」は随分前に読んでいるから、本書で紹介される事例やその解釈は、同書で読んだ覚えのあるものも多い。

ピンカーの本は音声言語の枠を超えないで洞察されているけれど(この本を書いた頃のピンカーはチョムスキー理論にかなり肩入れしていたと思う)、本書が最初にとりあげているのは、「『は』にてんてんをつけたら何ていう」のように、音声と文字システムのギャップをとらえている。

有声音―無声音の対応関係は、「ぱ」と「ば」。古い日本語では「は」は「ぱ」に近い「ふぁ」音。古い表記では濁点は記されないからかな文字上では音の変遷は追えないけれど、日葡辞書のローマ字綴りには反映している。これも外国人に教えられるということの一つかもしれない。


言語の研究といえば音声言語をベースに考えるのが正統なのかもしれないけれど、だからといって文字システムを否定、あるいは無視するのでなく、本書のように、音声言語と文字システムとの乖離を観察することで、かえって(音声)言語の習得過程の秘密を垣間見ることができるということかもしれない。

音声言語習得という事象に、文字習得というバイアスをかけることで、見えなかったものが見える――文字システムが試薬の役割りをしているといったら言い過ぎか――ということかもしれない。
つまり、文字システムとの乖離が子供を混乱させる要因になっていること、そしてその混乱がなぜ起こるのか考えるわけだ。
(そもそも、子供は、音声言語でも、文字でも、そこにシステム構造を無意識に嗅ぎ取るのだろう。)

文字システムから書き起こしているからまずそれについて評したけれど、その後は、やはり音声言語が中心になっている。
「過剰適用」や「適用拡張」といったピンカー本で指摘されている英語での事例も、日本人の子供であらためて確認されているわけだ。

本書では深入りは避けているようだけれど、ピンカーが大胆に「本能」と表現し、言語を生み出す「遺伝子」を想定したように、それは人類に共通だという証拠とも言える。


また、本書では、言語の隠れた法則を気づかせてくれるのは、子供や外国人だと指摘している。
これも、音声言語のシステムと文字システムの乖離から言語の秘密が垣間見えるのと同様、母国語システムと日本語システムの乖離から、それぞれの言語の秘密が垣間見えるということだろう。

子供の「間違い」には、言葉に関するものに限らず、思わず笑ってしまうようなものがたくさんある。そして、それがかえって微笑ましく、ネットにもいろいろな事例報告がなされる。
本書の著者も、そうしたネット情報もいろいろ参照して、事例収集をしているようだ。

小学校のとき、国語のテストで「右手の反対はなんですか?」という問に「左足」と答えて×をもらった覚えがある。そのときは、なぜ×なのか理不尽だと思ったのだが、今では、そのとき先生はきっと噴き出していただろうなぁと思いだす。


書評はやけに堅苦しい書き方をしたけれど、おもしろおかしく読める本である。
そうそう、イラスト(いずもり・よう)も楽しく、秀逸。
chiisai_genngo_gakusha_hirose.jpg

まえがき
第1章 字を知らないからわかること
 「は」にテンテンつけたら何ていう?
テンテンの正体
「は」と「ば」の関係は普通じゃない
子どもはテンテンの正体を知っている
「は」行は昔「ぱ」行だった
字をマスターする前だから気づく
子どもと外国人に教わる日本語の秘密
数があわない
納得できない「ぢ」と「じ」
第2章 「みんな」は何文字?
日本語のリズム
日本語の数え方は少数派
子どもなりの区切り方
じつはかなり難しい「っ」
「かににさされてちががでた」
必殺!「とうも殺し」
第3章 「これ食べたら死む?」
        ――子どもは一般化の名人
「死む」「死まない」「死めば」―死の活用形!
規則を過剰にあてはめてしまう
「死にさせるの」
おおざっぱすぎる規則でも、まずはどんどん使ってみる
「これでマンガが読められる」
日本の子どもだけが規則好きなのではない
手持ちの規則でなんとか表現してしまおう
普通に大人をお手本にすればいいのに?
第4章 ジブンデ! ミツケル!
教えようとしても覚えません
教えてないことは覚えるのになあ!
ジブンデ! ミツケル!
「か」と「と」の使い方は難しい
結局、何が手がかりになっているのか
第5章 ことばの意味をつきとめる
はずかしいはなし
「ワンワン」とは?
「おでん」とは?
「坊主」とは?
どうやって意味の範囲を最初に決めるのか
どうやって意味を修正するか
モノの名前でなく動詞の場合は?
そもそも、どこからどこまでが単語?
ことばの旅はおわっていない
第6章 子どもには通用しないのだ
ぶぶ漬け伝説
子どもに通じるか
ことばにしていないことがどうして伝わるのか
500円持っているときに「ボク100円持っているよ」は正しいか
子どもも大人のような解釈ができるか
相手の心をよむチカラ
周りの状況をよむチカラ
第7章 ことばについて考える力
ことばを客観的に見る
音で遊ぶ――しりとり
意味で遊ぶ――「踏んでないよ」
構文で遊ぶ――「タヌキが猟師を鉄砲で」
解釈で遊ぶ――「大坂城を建てたのは誰?」
音で遊ぶ(その2)――「がっきゅう○んこ」
ことばの旅路をあたたかく見守ろう
あとがき
もっと知りたい人へのおすすめ書籍
        参考文献・引用文献
カバー・本文イラスト=いずもり・よう
blankimage.png
関連記事

「多数決を疑う」をもう一度

以前、「多数決を疑う」をとりあげたけれど、
その著者坂井豊貴氏は、「大人のための社会科―未来を語るために」でも3つの章を担当されている。
「GDP」、「多数決」、「公正」の3つの章である。

著者は、このそれぞれについて、アタリマエとして受け入れている、無批判に、あまり深く考えることなく使われることもあるこれらの言葉について、それぞれが持つ数学的挙動を考察している。
数学的遊びという評価をする人もいるだろうけれど、そういう人こそ、頭ごなしに、多数決は正しいと言い切るに違いない。

senkou_joukyou.jpg さて、前の記事でも説明を入れたけれど、「大人のための社会科」では、多数決というものを単純に信奉して良いかに疑問をなげかけるシンプルな例が紹介されていた。

一つは、単純多数決、決選投票(上位選択肢2を残して再投票)、ボルダルール(1,2,3位にそれぞれ3点、2点、1点を与える)の3種類の決定方法で、結果がすべて異なるという例。

これは前の記事でも書いたとおりだけれど、こっちのほうが「ペア比較」を省いて簡素化されているので、わかりやすい。


Ostrogolsky_paradox.jpg もう一つの例は、「オストロゴルスキーの逆理」というもので、複数の政策課題があって、人によってそれへの賛否の組合せが違うとき、一つ一つの政策の賛否と、全体としての賛否が逆になるというもの。

サンプル図は、5つの政党が3つの政策課題に対しそれぞれ賛否を表明している状況と考える。上3つの政党の政策がいずれも支持されていて、他の2党の反対意見はいれられない。結果、3つの課題のいずれも支持された形になっている。
ところが、一つ一つの政策課題に対して各政党ごとの賛否を調べると、どの課題についても支持されていない。


もう一つ、公平とは何かについておもしろい例が紹介されている。
初期ユダヤ教の口伝律法を書きとどめるという「バビロニア・タルムード」に書かれている、具体的な「公正」の計算方法が紹介されていた。
nuno_no_bunkatsu.jpg

2人の男が12単位の布の所有権であらそっている。一方(A)は12単位すべてが自分のものと主張し、もう一方(B)は6単位は自分のものだと主張している。さて、A,Bどちらの主張も正当性を立証できないとき、A,Bの取り分をどのようにするべきか。

という問題で、バビロニア・タルムードは、所有権を争っているのは6単位だけだから、これをA,Bで折半するのが正しいとしているのだそうだ。
これに対し、12を主張する人と、6を主張する人なのだから、その割合で分割すれば良いと考える人もいるだろうということだ。

もし、A,Bの主張の正当性評価が同等であるなら、私もバビロニア・タルムードのやりかたが自然だと思う。


関連記事

「大人のための社会科」

井手英策,宇野重規,坂井豊貴,松沢裕作「大人のための社会科―未来を語るために」について。

Otona_no_tameno_shakaika.jpg タイトルからは教科書みたいな印象を受けるけれど、実はその逆、つまり、お仕着せの社会科ではなくて、4人の気鋭の研究者による、現代社会を生きる人に、考えることの大事さを訴える本。

「序」に、「反知性主義へのささやかな抵抗」という副題が付いている。
読み進めれば、反知性主義的な事象を論駁しようとしている例が随所に出てくる。
そうなんだと納得する一方、「ささやかな抵抗」というのは、弱小な勢力にすぎないことを自覚しているということかもしれない。この人たちのような考え方を素直に受け入れない、あるいは難しいと思考停止する人は多いだろう。

また、『あえて「上から目線」で教科書を書く』としているのは「ささやかな抵抗」。
冒頭、お仕着せの教科書とは逆の本だと感想を書いたが、著者は上から目線の教科書と表現した。
よほど反知性主義に怒りをもっているのだろう、反知性主義と見える人に対しては、ちゃんと教導しなければならない、そのための教科書だという意識かもしれない。

研究者、専門家は、反知性主義者からは嫌われる側に身を置いていて、反知性主義あるいはポピュリズムの操作対象である大衆からは遊離し、何を難しいことをごちゃごちゃ言ってるんだと非難(あるいは無視)されることを承知しているということだ。

だから、本書を読んで、狙い通り、考える人が増えれば、著者たちへの尊敬も復活することになるだろう。

序 社会をほどき,結びなおすために(井出)
―反知性主義へのささやかな抵抗
 
 第1部 歴史のなかの「いま」
第1章 GDP(坂井)
―「社会のよさ」とは何だろうか
第2章 勤労(井手)
―生きづらさを加速させる自己責任の社会
第3章 時代(松沢)
―時代を分けることと捉えること
 
 第2部 〈私たち〉のゆらぎ
第4章 多数決(坂井)
―私たちのことを私たちで決める
第5章 運動(松沢)
―異議申し立てと正統性
第6章 私(宇野)
―自分の声が社会に届かない
 
 第3部 社会を支えるもの
第7章 公正(坂井)
―等しく扱われること
第8章 信頼(宇野)
―社会を支えるベースライン
第9章 ニーズ(井手)
―税を「取られるもの」から
  「みんなのたくわえ」に変える
 
 第4部 未来を語るために
第10章 歴史認識(松沢)
―過去をひらき未来につなぐ
第11章 公(井手)
―「生活の場」「生産の場」「保障の場」を作りかえる
第12章 希望(宇野)
―「まだ―ない」ものの力
という本なのだけれど、やはり教科書ではない。というのは、目次を見てわかるように、教科書のような、体系性・網羅性はない。
本書の構成は、思慮不足の人たちが無批判に繰り返す言葉に目を付けて、その言葉の本当の意味とか、それにまつわる社会事象の深さや拡がりというものを暴き立てる。。

各章は分担執筆のようだから、読み進むと、それぞれう~んとうならされるけれど、前後の関係はあまり見えない。反知性主義に体系があるわけではないだろうから、それにお付き合いして、反反知性主義を主張しても、組み立てが体系的にはならないということかもしれない。

ただ、執筆者が分担している章を並べて見れば、同一執筆者が持つ問題意識というか思考パターンは浮かび上がってくる。

たとえば、前に「多数決を疑う」をとりあげたけれど、坂井豊貴氏は、「GDP」、「多数決」、「公正」の3つの章を担当されている。このそれぞれには、アタリマエとして受け入れていることについて、それぞれが持つ数学的挙動を踏まえて、単純にこの言葉に代表させてよいものか、概念を使うときには、その定義・意味にも注意を向ける必要があると示される。

なるほどこれは反ポピュリズムと言って良い。言葉を表層理解と「勢い」にとどめ、アジテーションに用いるポピュリストからしてみれば、深く考えられては困るだろう。


「歴史認識」の章では、タイトルからすれば、日韓や日中の問題がとりあげられると予測できる。実際、慰安婦問題がとりあげられるのだけれど、その前に、歴史認識とはどういうことなのか、それが整理されて語られる。アタリマエのことだと思うけれど、出来事レベルと、解釈レベルがある。

ポピュリズムとフェイクは親戚関係である。著者は、せめて出来事レベルだけでもきちんとしよう、フェイクに惑わされないようにしようと考えているようだ。

そして、その基礎となるアーカイブが日本では発達していなかったことを指摘する。
慰安婦問題でも重要史料(上海領事館が、慰安婦募集について、警察に協力を求めた依頼文書が残っている)も、公的な記録としてではなかった。

そういえば、森友、加計問題でも文書はあっというまに廃棄されていたという。本当だとしたら、ヤバい資料だから急いで廃棄したのだろうか。


関連記事

気に入らないデザイン

P_20170810_151638_vHDR_Auto.jpg 昨日の記事は「お茶の科学」、それで思い出したことがある。
以前、喫茶店で、ケーキと紅茶のセットを頼んだときのこと。ちょっと洒落た店であれば当然だけれど、紅茶はポットで出てくる。

このポットのデザインが気に入らない。

見た感じ、ごく普通のものなのだけれど、いざカップに紅茶を注ごうとすると、蓋がとても熱くなっている。本体の取っ手を持って、おそるおそる注いだわけだけれど、普通、お茶を注ぐときって、蓋が落っこちたりしないように手を添えるんものじゃないだろうか。
蓋にツマミが付いていれば、そこは少しは温度が低くて、手をあてられるだろうと思う。

もっと低い温度で淹れる日本茶の急須でもツマミは付いているのが普通だろう。
ちなみに、日本茶用の湯飲みには取っ手はついていない。高温で茶を入れると磁器製のものは熱くなる(我が家の普段使いは砥部焼なので結構熱い)。日本茶をそんな高温で淹れるなと言われそうだけど。


さて、このポットに戻る。
これを製作した人、そしてこれを店で使おうと選択した人は、どう考えてたんだろう。

「デザイン性がある(ない)」とか、「デザインを重視」というような言葉がある。
私が大嫌いな言葉である。言葉自体がではなく、その使い方である。

見てくれを否定するわけではない。 「人は見た目が○割」というように、見てくれというのは大事だと思う。「整った顔・体つき」というのは、その個体は健康で欠陥がないというシグナルであるという話もある。


デザイン性云々という言葉は、絵画や彫刻などの芸術作品には使われない。
普通は実用品に使われる言葉だ。
機能性を離れてのデザイン性なんて、商品として失格だと思う。
412Z7VZFGDL.jpg

本来の機能を無視して、人を驚かせることで成り立つ商品もあるが、それは既に目的を異にしている。


私が考える良いデザインとは、機能性を高めるものだ。
機能性を高める、あるいは維持した上でなら、見た目を競うのも良いと思う。

私は無意味な装飾は嫌う方で、問題のポットはそうした装飾がないところは好印象なのだけれど、逆に必要なものが欠けているというわけだ。


以前、新国立競技場のことで、観客のスタンドの傾斜が緩くて、観戦しにくいのではないかという記事を見た。
前の席に座っている人が邪魔になるのではというわけである。
これなども、私流にいえば、悪いデザインである。

誰のためのデザイン?

関連記事

「お茶の科学」

大森正司「お茶の科学―『色・香り・味』を生み出す茶葉のひみつ」について。

Ocha_no_kagaku_Omori.jpg ブルーバックスの1冊。
ブルーバックスには「コーヒーの科学」(旦部幸博)という本もある。こちらはいわば姉妹編(お茶が後だからさしずめ妹か)ということになるか。

中学生のとき、紅茶に凝ったことがある。
ダージリンとか、アッサム、オレンジペコとかイングリッシュ・ブレックファストといった種類のリーフティーを集め、自分専用のポットを使って紅茶を入れていた。
もちろん、お湯は沸かしたてを使い、カップは前もって温めておくのは当然である。

紅茶のブランド物などは田舎では手に入りにくい。比較的高級なもので、当時どこでも手にはいるものといえば、トワイニングぐらいだったと思う。今だとトワイニングのダージリンだと、今の価格で1,000円/100gぐらいじゃないだろうか。
この頃は、マリアージュ・フレールとか、ルピシアとか、高級紅茶の店が増えた。これらだともちろん種類によるけれど、2,000~3,000円/100gというところだろうか。ダージリン・セカンド・フラッシュとかこだわるとさらに高価になる。

もっとも、普段飲むなら、リプトンのイエロー・ティーバッグがなんといっても気を使わず、扱いやすくて、それなりに紅茶の味わいがある。(これ以下だと、香りも味もなく、色だけ着く。)

リプトンのイエロー・ティーバッグは、浸出時間が長すぎると色は濃く、味は苦くなるのに、1つで2杯出そうとすると、2杯目はやたら気の抜けたものになる。1杯だけではもったいない気がするのに、2杯にすると情けなくなる。2杯分ぐらいの大きなカップにたっぷり入れるのが良いのかな。(お茶を出す、お茶を入れる、同じなのに逆の言葉だなぁ)
なお、本書によると、正しい入れ方は、まずお湯をカップに入れ、ティーバッグをその中に浸して1分間ほどそのままにするというもの。もちろん2杯出そうなどという貧乏根性はダメである。


それに、ティーバッグを馬鹿にしてはいけない。
ティーバッグの場合は、リーフグレードで、D(ダスト)とか、F(ファニングス)、BOPF(ブロークン・オレンジペコー・ファニングス)という、細かい葉が使われるが、茶葉の品質として悪いわけではないという。

等級の高い煙草の切れ端で作るシートタバコが、低等級の通常刻み葉のタバコより味わいがあるのと同様ではないだろうか。


第1章 お茶の「基本」をおさえる
~どんなお茶も、すべて同じ「チャ」だった
第2章 お茶はどこからきたのか?
~チャと茶のルーツを巡る旅
第3章 茶葉がお茶になるまで
~色や風味はいつどうやって作られるのか
第4章 お茶の色・香り・味の科学
~おいしさは何で決まる?
第5章 お茶の「おいしい淹れ方」を科学する
~煎茶を“玉露” にする方法
第6章 お茶と健康
~なぜお茶は身体にいいのか
第7章 進化するお茶
~味も楽しみ方も変える技術
本書では、緑茶やウーロン茶、さらには後発酵茶もとりあげられている。
ウーロン茶などについてはわからないけれど、緑茶は、紅茶よりもずっと繊細である。昔から、田舎の茶舗でも、かなり高いものが売られていて、そういうお茶は、葉がピンと細く巻いて、その抽出前の葉の上品さは、紅茶の比ではない。そして、トワイニングのダージリンの数倍の値がついていたように記憶する。

緑茶、つまり日本茶といえば茶道、煎茶道というわけで、子供が自分の小遣いでできるようなものではない。それらは「修行」みたいなものだから、趣味というには違うような気がする。
結局、紅茶の方が無難で近づきやすい趣味なのである。(日本の伝統というのは、どうして、こう重々しくて高くつくんだろう。)

さて、昔から、紅茶といえば、ミルクかレモンかという論争があるけれど(本書でも書かれているが、種類によっても向き不向きがあるらしい)、私は基本はストレートである。

そういえば、ミルク・ティーは、紅茶にミルクを注ぐのか、ミルクに紅茶を注ぐのかという論争もあった。


この頃はミルクかレモンかで論争になるどころか、フレーバー・ティーというのが流行っている。
紅茶の有名店というところへ行くと、ダージリン・セカンド・フラッシュなんてものも置いてたりするのだが、フレーバー・ティーが広い場所を占めている。当然、ストレートのリーフティーよりバリエーションが豊富だからそういうことになるのだろう。

私はフレーバー・ティーというのは、あんまり好きじゃなくて、出されたら飲むとしても、喫茶店でそうしたものを注文したり、そうした種類の紅茶を買うことはない。

フレーバーということではないが、以前はブランデーを滴らしたりしたこともあったが、この頃はブランデー自体が我が家には常備されていない。


そう思っていたところ、本書で著者が一言。
ところが、最近ではこうした紅茶本来の味を知らない人も少なくありません。「紅茶が好き」いって毎日飲んでいる人でも、話を聞いてみると、口にしているのはフレーバーティーである人が意外に多いのです。
    <中略>
 「どんな紅茶が好きですか?」と訊いたとき、瞬時に「アールグレイ」とか「ローズティー」などと答える客人には、筆者は笑顔で、次回からは出がらしの紅茶を煮出して差し上げることにしています。
 フレーバーティーしか馴染みがない人に、紅茶本来の渋みや香り、重厚さを味わえるリーフティーを淹れて差し上げると、「これが本当の紅茶の味なんですか!?」とたいてい驚かれます。
フレーバー・ティーをお洒落だと思って飲んでいる人が聴いたら、何と思うだろう。
筆写はフレーバー・ティーを馬鹿にしているわけではないだろう。ただ、そうした装飾をほどこさない、ストレートなお茶の味わいというものを知ってもらいたいということだと思う。その上で、お茶に自分の好みの香りづけを楽しむ、それはそれで好き好きだろう。

関連記事

定例の病院付き添い

昨日は、3ヶ月毎の家人の経過観察の日。

数年間はこのペースで診察を受ける予定。
今までの経過観察中に、再発(即処置)が一回あった。当初は、2年に1回ぐらいは再発するのかもしれない。これがだんだん間遠くなって、経過観察も半年後、1年後とかになればありがたい。

この日の検査は、午前中と午後に分かれている。
午前の検査は、エコーと、検体の提出。

IMG_20180201_115043.jpg

11:40受付で、順調に12:10に終了。

午後の検査は13:30開始ということなので、しばらく時間がある。
それに被検者は、午前の検査終了まで絶食だったので、この間に食事をとることにした。

病院内には、簡単な食事のできるカフェと、コンビニがあるけれど、ずっと病院内に居るのも気鬱なので、外で食べることにした。

病院の向かいにある喫茶室。
店内の様子と、食べたもの(ホットサンドセット)の写真を掲載。

IMG_20180201_122855.jpg

午後は、いつもと同様の検査。
13:30の予約だけれど、はじまったのは14:40。
前に受診した人の様子をうかがっていると、手術の打ち合わせをしている人、さらなる検査の相談をしている人など、重篤そうな患者が多いようだった。そのせいだろうか、それぞれ診察時間が長かったのかもしれない。

普通は、2年経てば、経過観察は3ヵ月ごとから、半年ごとに間隔があくのだけれど、前々回の検査のときに再発が認められたので、これでリセットがかかり、引き続き3ヵ月ごとの経過観察である。

さて、検査の結果は、特別な所見はなし。
一病息災ということで納得しておこう。
IMG_20180201_122448.jpg

IMG_20180201_121847.jpg

IMG_20180201_125916.jpg

IMG_20180201_121836.jpg


関連記事

スーパーブルーブラッドムーン with cloud

昨夜は皆既月食
それも、スーパーブルーブラッドムーンというそうだ。

月が地球に接近した際に見える月は
「スーパームーン」。
1カ月に2回、満月になる現象は
「ブルームーン」。
さらに皆既月食で、月の表面が赤っぽく見えることから
「ブラッドムーン」。

地球上でこの現象がみられるのは、35年ぶりだとか。

で、朝から天気予報をチェックしていたが、曇の予報である。

夜7時頃は、薄い雲がかかっていて、この雲が厚くなるのか、それとも薄くなるのか。半分あきらめながら、その時間を待つ。

そして、食が始まる時間、雲はかなり薄くなったようで、写真も撮ることができた。

CANON Power Shot SX30 IS。
最大望遠(35mm換算で840mm相当)にして、手持ち撮影(以下同様)


ベタな天文ファンというわけでも、写真に凝っているわけでもないから、だいたい15分おきぐらいに撮影することにして、少し食が進んだ状態、半分ぐらい欠けた状態までは、まず順調に写真を撮ることができた。

しかし、食が始まって約45分後、また雲が濃くなって、朧月に。

そして、皆既になった頃には、ほとんど見えなくなった。
それでも、しばらくして、少し薄くなったか、肉眼では赤い月がかろうじて見えた。写真を撮ることは撮ったけれど、やはりぼやっとした像にしかならなかった。

空模様を見る限り、もう雲が晴れる、あるいはもっと薄くなることは期待できそうにない。
結局、皆既が終了する23:08頃もほとんど見えない状態。

その後、皆既が終了し、日の当たる状態になって、月が光っていることはわかるようになったが、雲が厚くて、欠けていると見える状態ではなく、全体にぼやっとした光るものがあるといった見え方。
しかたがないので、ここで観察は終了。

まじめに観察するなら、ちゃんと望遠鏡をセットしなければならないだろう。


私などは、こういう天体ショーのときだけのファンだからいいけれど、これを楽しみに、ずっと準備してきた人たちにとっては、何も今夜に曇らなくても、だいたい午前中は晴れてたじゃないか、と恨み言を、どこにもぶつけようのない恨み言を言っていることだろう。

今回は、月食を見られる範囲はかなり広く、アメリカでも見えるとのこと。
あちこちでライブ中継もしているようだし、日本でも北海道の北見あたりは良く見えたと報道されていた。東京も関西よりは良く見えていたようだ。

そういう画像を暖かい部屋でゆっくり見ることにしよう。

20180131IMG_0063.jpg

20180131IMG_0065.jpg

20180131IMG_0070.jpg

20180131IMG_0073s.jpg

20180131IMG_0077s.jpg

gesshoku2018_position-s.jpg

国立天文台の皆既月食案内ページから


関連記事

久しぶりに風邪

rokujiro-mask.png 久しぶりに風邪をひいた。
症状はたいしたものではなく、熱はなく、鼻水が出るのと、少し咳がある程度。気にすれば頭も少しぼーっとしているような(いつもやんけ)。

症状が出始めたのは、金曜日。出勤時から、少し鼻水が出るなぁと気付いたのが最初。
土、日はほぼ前述のとおりの状態が続き、月曜日は回復したので通常どおり出勤。一応、周囲への気遣いでマスク着用。

今年のインフルエンザは熱の出ないものも多いらしい。もしそうだったら、今日ぐらいまでは休むべきだったかもしれない。


風邪薬は服用しなかったけれど、鼻水や鼻のむずがゆさが不快だったので、花粉症用の薬(抗ヒスタミン剤=フェキソフェナジン)を飲んで誤魔化した。
P_20180129_202447_vHDR.jpg
どこでうつったかというと、実は、思い当たることがある。
ちょうど一週間前、地元の住民健診に行ったときだろう。というのは、一緒に行った家人も、私と同じ時期に、同様の症状が出たから。
寒い季節であることから、検診受診前から、生活習慣病の検査にいって、急性疾患に罹るのでは、などと冗談めかして言っていたのだけれど、どうやら本当にそうなったみたいだ。

以前、あるラジオ番組と縁があって、そのパーソナリティを務める落語家さんと話をしたことがある。
そのとき、その方が風邪をひいていて、
「今日は、ちょっといつもの声が出ませんねん。私らみたいな芸人は、風邪ひいたら商売できまへんさかい、こんなんあかんのですわ。」と仰っていた。

返して、「大変ですなぁ。私ら勤め人は、風邪は土日にひくことにしてますねん。」

関連記事

草津白根山

ちょうど1週間前、1月23日に草津白根山の本白根山が噴火(水蒸気爆発?)があり、訓練中の自衛隊員1名が噴石を受けて死亡した。2014年の御嶽山以来、またまた火山噴火での死者である。

御嶽山のときも噴火警戒レベル1と、大きな危険はないとされていたが、今回も、火山学者は一様に、本白根山側はノーマークで驚いているとコメントしていた。
その後、火山活動は活発化した状態が続いているとのことであるけれど、付近のスキー場はすぐに営業を再開しているようだ。先日の爆発はくしゃみみたいなもので、今のところは落ち着いているということなのかもしれない。

やや時期を外して記事にしているのは、昨年9月に草津温泉に行く途中、この付近を通ったことを思い出して、旅で撮った写真を見返していたから。

20170918_IMG_0202-crop.jpg その写真のなかに、火山について注意を喚起する掲示板が写っているものがあった。
草津白根山は大きな火山ではありませんが、明治以降も繰り返し噴火を起している活火山です。一方で草津白根山は火口近くまで道路が通っているため容易に近づけることから、観光名所としても知られています。観光客で賑わう火口付近で突然噴火が起こったら、草津白根山は安全なのでしょうか?群馬県では皆さんに草津白根山のことをもっと知っていただくため、この掲示板を用意しました。

平成9年11月 群馬県

写真はクリックすれば拡大するけれど、小さな文字が読み取りにくいのが残念。

バスツアーだったから、ガイドさんがいろいろ解説してくれていたが、このあたりに来ると、火山特有のガスの臭いが漂っており、あちこちで湯気があがっているところが見られた。
この道の両側は、ごつごつした岩がむき出しになっているところも多いし、噴火時の避難小屋も設置されていた。この景色を見慣れぬ者には、なんと荒々しく、かつ、落ち着きのない地形だろうと感じたことを思い出す。

20170918_IMG_0220.jpg テレビのニュースで何度も流されていた噴火時の動画にも写っていたロープウェイの乗り場の前も通っている。
写真のロープウェイ乗場あたりは平坦で、バスや乗用車が駐車できるようになっているけれど、山の方にいくとロープウェイは、大きな岩がゴロゴロする渓谷を跨いでいる。

今日の朝のニュースでは、蔵王で火山性地震動が観測されているという。

世界の火山の7%があるという火山国、日本。
私も楽しんだ、草津温泉は、火山の賜物である。
この火山たちと、仲よく暮らしていきたいものだ。

関連記事

適材適所の人事です

「首相夫人が棟上げ式に来る」と圧力になりそうな発言があったとか、新しい話も出てきている森友学園問題。真実があきらかになるのはいつのことだろうか。

2018-01-25_143220.jpg 2018-01-25_143257.jpg それに関わる重要人物の一人、財務省理財局長が国税庁長官に就任したのは、昨年7月のことだけれど、今でもこの人事について国会でむしかえされていた。(当該ニュース

「忖度」が流行語になった森友学園への国有地売却に関して、当時、国有財産管理を所管する理財局のトップであった人の人事だから、この人が真実を知っているのではないか、だとしたら昇格人事は不適当じゃないかというわけである。

ただ、実務的には、国有財産の処分の意思決定は、なんでも理財局長が判断・決裁するわけではないだろう。
対象となる財産の金額によるんじゃないかと思う。
売却価格が2億円にもならないのなら、こんな偉いひとの決裁が必要だとは思えない。

しかし「忖度」という言葉が出るということは、決裁権限の問題ではないところで行われたものということである。部下が忖度したのか、理財局長が忖度して部下に意向を伝えたのか、このあたりはわからない。
いずれにせよ、決裁ルール上問題はないわけだから、うやむやなままで終わるだろう。

もっとも、前の国会でのこの人の答弁がなんだか要点を外すような答え方の上、残っていたら(黒白の)証拠になっただろう記録は「適切に廃棄」と言ってみたり、「金額と価格」は違うなどと言うから、話が変なことになってしまった。

ここで総理大臣や財務大臣が、国税庁長官をかばうような答弁をしているわけだけれど、あんまり庇い立てすると、かえって勘ぐりたくなる。
もし、ここで処分や左遷人事を行ったりしたら、本人が真実を喋ってしまう危険があるからじゃないか、窮鼠猫を噛むの諺もある、と。

昔、なんとなく聞いた話だが、偉いお役人が、収賄だか不適正会計だかで警察のお世話になり、結局は失職したのだけれど、その後、第二の人生では、以前にもまして羽振りが良くなったとか。それは、司法の前で完全に口をつぐんだ報酬なのだ、もし真実を喋っていたら、何人の高級役人が追及されていたかわからない、そんな趣旨のようだった。

単なる風聞にすぎないのだけれど、こういう話をどこかで仕入れた人は、それを披露したいのか、誰かれ構わず喋るようだ。(だから私の耳にも入った。真偽は別として、こうして風評がつくられていく。)


それはそれとして、確定申告の時期、窓口の税務署員は、結構、納税者から文句を言われていると報道されていた。
100円、200円の領収書でもきちんと保存して、申告時に証拠書類として添付させられているけれど、国税庁長官は何億円もの取引でも証拠文書は廃棄して通るんだな、と。

関連記事

霜柱

P_20180127_091712_vHDR_On.jpg このところ、とりわけ寒さが厳しい日が続いた。
なんでもこの冬、最強の寒波だとか。

先週は、関東は大雪で、交通が大混乱。テレビのニュースでは、立ち往生する車、坂道を滑る車などが再三、報道されていた。
関西は、それほどのことはなかったように思うけれど、水曜日あたりから、厳しい寒さが続いている。

昨日、休みの日の朝、庭に出ると霜柱が立っていた。

右の写真に白く点々と写っているものは雪。
P_20180127_091738_vHDR_On.jpg 一昨日は、このあたりも昼から断続的に雪が降り、夜も少しちらついた。
その雪が融け残っている。

子供のころは、学校へ行く道の脇などによく霜柱が立っていて、これを踏みつぶしながら歩いたものだ。
ときには、道のそばにある田畑などにわざわざ霜柱を踏みに入ったりもしたものだ。

最近は、霜柱が立つような土の場所が減っていると思う。
子供たちはどこで霜柱を踏むだろう。校庭ならいっぱいありそうだけれど。

関連記事

262th anniversary

今日は、Joannessの262回目の生誕記念日。

昔、私の父が言ったことがある。
「普通の人は、命日に祭儀が行われるけれど、偉人というのは、“生誕○○年”というぐあいに、
 誕生日が祝われる」と。


同じ誕生日の有名人というと、ルイス・キャロル(Charles Lutwidge Dodgson)が、1832年のこの日に生まれている。「アリスの日」とでも言おうかと思ったら、以前から、出版を記念して“Alice's day”というイベントが、キャロル所縁のオックスフォードで行われているらしい。
命日の方を見ると、音楽家ではヴェルディが、1901年のこの日に、87歳で亡くなっている。
日本人では、昨年大河ドラマで大活躍(?)の今川氏真が1615年(旧暦では慶長19年12月28日)に77歳で没している。(以上、“歴史データベース on Web”から。)



例によって、262回目の生誕記念日には、KV262の作品を。【⇒楽曲解説(Mozart con grazia)】

 ミサ・ロンガ ハ長調    K.262(246a)
 
1. キリエ

2. グローリア

3. クレド

4. サンクトゥス

5. ベネディクトゥス

6. アニュス・デイ

関連記事

三上

illust_horse.jpg

illust_makura.png


illust_toilet.jpg
通勤電車の中は読書中毒の私にとっては読書タイムである。

ありがたいことに往復で2時間30分はたっぷりある。

で思い出すのが、昔、教えてもらった「三上」という言葉。
鞍上、枕上、厠上の3つを意味していて、アイデアが浮かびやすい場所のことである。鞍上はもともとは馬に乗っているときだけれど(馬上という言い方もあるらしい)、現代では電車の中などをあてれば良い。

これに加えて、浴上(中?)もあるかもしれない。
かの有名なアルキメデスの逸話がある。

"Eureka!"という感嘆詞は、古代ギリシャの学者アルキメデスに帰するものである。伝えられるところでは、彼が風呂に入ったとき、浴槽に入ると水位が上昇することに気づき、上昇した分の体積は彼の体の水中に入った部分の体積に等しいとわかり、"Eureka! Eureka!"と2回叫んだという。彼は形状の複雑な物体の体積を正確に量るという困難な問題を解決できたと理解し、浴槽から飛び出して、裸のままシラクサの街を駆け抜け、この発見を共有しようとしたと伝えられている。(Wikipedia)

もっともこれは、入浴によって水面が上がるという現象自体を考察したもので、その場との関連性が強いから、三上とは趣が異なるとも思う。

この言葉を教えてくれたのは、数学演習の教官なのだけれど、その演習は、まず前回出題された問題について考えてきた学生が解答を発表し、それが終わって最後に教官から、次回までにやってくる問題が3~5問出されるというもの。(だいたい学生数と同じぐらいの問題数で、授業の後で、学生は誰がどれをやるか相談する。)

問題自体は全部が板書できる程度のそう長くはないものなのだけれど、これがなかなか難物。学生はどれか1つ、解けそうなものを選んで解答を考えるのだが、運がよければ数時間で解ける場合もあるが、次回までになんとか1つ解ければということになる。もちろん解答の発表時には、推論の欠陥などが厳しく指摘される。(あまりにひどい学生は追い出された)
そうやって、数日間、ああでもない、こうでもないと悶々とするわけだが、このときに閃きが起こるのが三上というわけである。

その問題に集中している時ばかりでもなく、他のことをしているときに、ふっと閃いたりするのが快感。ただしそれが的外れの場合も多いけど。


解釈の違いや曖昧な点などまったくなく、完全に論理だけで正解が出るという世界である。その問題を解くのに1週間も考え続けるという体験は、数学や理論物理など、ごく限られた分野だけではないだろうか。
問題を解くどころか、完全に論理的に、あますことなく、わずか教科書1,2ページの証明を理解するのにだって、1週間かかったりする。誤植(これが結構多い)があると大いに悩むことになる。理解できてれば誤植もすぐわかるのだけれど。

先日、「ABC予想」が肯定的に解決されたと報じられていた。論文自体は5年以上前に出たものだけれど、それが正しいかどうか、多くの数学者が長い時間をかけて検証したものだ。


そして同じく数学を勉強している学生の間で、解るやつと解らないやつが厳然とする。意見の違いなどではない、解るか解らないかだけの世界である。もちろん私はたいていの場合、後者。

関連記事

読書中毒

ニュース中毒」という言葉がある。
記憶が定かでないけれど、安倍公房の小説かなにかで使われていたように思う。
新聞を読んだり、テレビのニュース番組を見たりしないと、気が落ち着かない、ニュースを渇望するという状態である。

ちょっと違うけれど、70年代の反戦フォーク・ソングの歌詞に
「朝刊に戦争の記事が載っていないと、本当の朝が来たと信じなくなり」というのがあった。
出だしは、
「いつの間にか、そこで戦争が行われているのがあたりまえになり」だったと思う(歌のタイトルは忘れた)。
これは戦争中毒?


marie-laurencin-the-reader-1913-trivium-art-history.jpg さて、ニュース中毒という言葉があるなら、「読書中毒」という言葉もあると思う。
あるいは「活字中毒」とか、「活字渇望症」という言い方もできる。
時間があると、本を読まないといられないという状態(あえて「症状」と言うことにする)を表す言葉である。

もっとも重篤な症状は、とにかく起きている間、何かの本を読んでいなければ気が済まないという状態。
少し軽いのは、起きている間でも、食事中や入浴中など、何か生活に必須の行動をとっているときは、読書を中断するというもの。なお、トイレはかえって読書タイムになるわけで、見た目は同様だけれど、中毒症状と断定するのは難しい。

もっと軽いのは、通勤時間など、本人が無駄と考えているまとまった時間は、とにかく本を読まないと人生を無駄にしていると考えるもの。
私はこの程度である。

もちろん、単に本を良く読むというだけでは、読書中毒とは呼ばない。本を読むこと自体が目的化していて、そこに書かれている内容については意外に憶えない、身に付かないという状態が併せて観察されなければ読書中毒とは言えない。
そしてそういう状態だから、老い先短い老人がかかりやすい病気じゃないかと思う。

Bell_reading_a_book.jpg 通勤電車内を見回すと、同じような病気に罹患していると思える人がちらほらいる。
ただ、同類と思って何を読んでいるか見て、恋愛小説(ハーレクインとか)だったりすると、何と無駄な本を読んでいるんだとも思うけれど。

学生の頃、京阪特急の2人並びの座席に座っていたら、隣に若い女性が座ってきて、やおら本を取り出して読み始めたことがあった、隣席の私にも見えるように。それが「トム・ジョーンズの華麗な冒険」で、こういうのが好きなのかとあせった(ファーニィ・ヒルとかだったら決定的だけれど)。


読書中毒を患っていない乗客には、スマートフォンを見ている人が多くいる。スマホ中毒である。
以前は、男性はゲーム、女性はメールという感じだったが、最近は女性もゲームに熱中している姿が多い。ただし、私もよくやるけれど、電子書籍を読んでいる場合もあって、これはスマホ中毒ではなく、読書中毒。

そういえば、随分前のこと、物凄い勢いで携帯に入力している女性がいた。何をしているのかと思ったら、携帯小説を書き込んでいるようだった。


電車の中には、ただぼーっとしている人、睡眠タイムにしている人、音楽鑑賞時間にしている人、そして各種中毒患者が居るようだ。
あとは電車自体が目的(鉄っちゃん)か、電車を仕事の場にしている人たち(スリ、痴漢?)

関連記事
Gallery
検索フォーム

 ⇒記事一覧

記事リスト
表示中の記事
←前 →次
最新コメント
カテゴリ
タグ

書評 ITガジェット マイナンバー Audio/Visual 

リンク
アーカイブ
プロフィール

六二郎。六二郎。


定年退職
苦しい家計の足しに再就職
=いつクビになってもええねん
 言うたもん勝ちや!のブログ
現在の閲覧者数
聞いたもん